『天のはかり 竜のめざめ -1-』
今思えば、ことの始まりはあの朝だった。
「・・・ん?」
セキュリティを解除して室内に入ると、オフィスの中はすでに電気がついてパソコンのキーを叩く音やコピー機の動作音が聞こえてきた。
「・・・よう、朝っぱらからどうしたんだ?」
せわしなく働く二人に声をかけると、彼らは同時に顔を上げた。
「あ、おはようございます、八澤さん」
手元の書類をまとめながら蜂谷薫がゆったりとほほ笑む後ろで、せわしない打鍵音を鳴らし続ける夏川瑛は一瞬目線を上げ小さく会釈する。
「何か問題が発生したのか?誉からはなんも知らせは来てなかったが」
この会社は小規模な人数で運営している会社だ。
そして社長である宮坂誉の性質上、自分たち部下との距離は近い。
だから、不測の事態が起きた場合の連絡と対応はかなり迅速な方だと思う。
「深夜に判明したので、宮坂さんが八澤さんに知らせるのは翌朝で良いと」
個人の裁量で勤務時間を決めていいため、出勤時間はまばらだ。
取引の関係上、公表している営業時間は九時半から十八時。
しかし八澤晶は七時には必ず出社すると決めている。
なぜなら。
「俺が、ここで朝飯食うからだな」
蜂谷はふと手をとめて少し困ったような顔をした。
「・・・まあ、そんな感じのことを言ってました」
蜂谷たちは自分より六歳下で、学生アルバイトとして雇用して以来の部下だ。
程よい距離は保ちつつも、気心の知れた仲だと言える。
「で。何が起きた」
「庄野さんが今日から一週間巣ごもりです」
「ああ・・・それか」
庄野はバース特性でアルファだ。
そして数年前からのパートナーがオメガであるため、年に数度こういう事態になる。
『巣籠』、つまりオメガの発情から発動する交尾期間。
個人差があるらしく一概に言えないが、庄野たちの場合は『巣籠解除』に一週間かる。
そもそもバース特性を持つ者は国内で稀なはずなのだが、この会社ではそう珍しくない。
彼らの特殊性を面倒に思う会社は雇うことを避けると聞くが、宮坂は逆だ。
むしろ集めているように見え、尋ねたことがある。
すると宮坂は『相変わらず直球だねえ、晶は』とへらへら笑った。
答えは是。
『僕に言わせたら、優秀なのに仕事にあぶれるとかって、わけわかんないよ』
そして、彼は奇抜な社内規定と方策を次々と編み出した。
そのうちの一つは『巣籠』を知らせる機器をいくつか作り、バース特性の社員に配布したこと。
オメガの発情は定期的ではない。
何らかの要因が重なりそれがトリガーになって突発的に起きるらしい。
そしてそのオメガの発情フェロモンに誘発されたアルファもまた雄の本能に支配される。
彼らは発情した場合、心身ともに余裕がなくそのまま巣籠に入ってしまい長時間連絡が付かなくなることもあるため、予防策だという。
連絡が付かないのは事件や事故なのか、急病なのか、それとも巣籠なのか。
その区別をつけるために運用してみると実際役立った。
そして巣籠休暇に入った社員の代わりができるよう、ある程度の情報共有と引継ぎの事前訓練。
結果が、今朝の蜂谷たちの仕事ぶりということになる。
「とはいえ、これは俺の仕事だろ。悪かったな」
庄野と組んで法務の仕事を担当しているのは八澤だ。
蜂谷と夏川は財務がメインで、代行させられるいわれはない。
「まあ被る部分多いし、資料作りなら俺たちで十分なんで」
指先で眼鏡を軽く押し上げつつ蜂谷がちらりと視線を送った先は夏川。
社内随一の資格マニアとも呼ばれる彼が昨年とうとう司法書士の資格を取ったため、忙しい時には仕事を手伝ってもらい易くなった。
「八澤さん、俺がやってるの仕上がったら確認してもらいたいので、今のうちに朝食摂ってください」
手を止めモニターから顔を上げた夏川がまっすぐな視線を向けてきた。
「今日の交渉は、八澤さんに出てもらわないと困るんで」
彼はいつも無表情だ。
口数も少なく、何を考えているかわかりづらい。
しかも口を開けばぶっきらぼうだ。
自分の直球もたいがいだが、夏川には負ける。
なのに、めったに見ない美形だ。
長めの前髪の間からのぞく薄く緑がかった瞳があまりにも綺麗で、見つめられると一瞬こちらも反応の仕方がわからなくなる。
だけど最近、慣れた。
そして気付いた。
意外なことに、最近夏川が自分と庄野に懐きつつある。
だから今、本気で夏川は自分に朝飯を食わせておきたいことも理解した。
「ん、わかった。ところでお前たちは?」
「あ、俺らはあとでゆっくり食いますよ。社長からたんまりお手当もぎとって」
にやあと、蜂谷が珍しく腹黒そうな笑みを浮かべた。
どうやら、今日の使いっ走りに思う所があるようだ。
日ごろは温和なこいつも時にはこんな表情だせるんだなと内心驚きつつも、指示を飛ばしたきり丸投げで未だ出社していない宮坂も悪いかと納得する。
「まあ、それもいいけどな・・・」
ざっと進行状況を眺めた後、今日のスケジュールを頭の中で組み直す。
「お前ら、ブロッコリーとトマトとチーズ平気?アレルギーないよな?」
休憩室へ足を向けながら尋ねる。
「ないです・・・が、・・・もしかして、八澤さん」
背後から聞こえる蜂谷の声は明らかに期待に満ちていた。
「おう。俺が朝飯作ってやっから、心置きなく仕事しな」
人は腹が減ると沸点が低くなる。
八澤の持論だ。
「八澤スペシャルと引き換えなら、今回はチャラにしてもいいかなって気になりますね」
「何を大げさな」
休憩室がトーストとチーズの焼けた香ばしい匂いと、コーヒーの暖かな香りに満たされる。
結局三人分を焼き上げるころには蜂谷がやってきて、コーヒーを淹れてくれた。
「いや、マジで。俺が作った飯ごときだと瑛のこんな顔なかなか見れないですから」
「こんな顔・・・」
蜂谷の視線を辿ると、もくもくとほおばる夏川に行きつく。
まるでハムスターが夢中で餌を食んでいるようなさまだ。
「簡単なピザトーストだぜ?」
厚切りのトーストにトマトケチャップをたっぷりと塗り、その上に細かく房を分けしたブロッコリーと刻んだミニトマトを散らし、最後にピザ用チーズをこれまたたっぷり撒く。
それをオーブントースターに投げ込んで程よく焼いたら出来上がりだ。
八澤は、ブロッコリーは下茹でせずに生のまま直で焼いたほうが風味が強くでる気がして、いつもそうしている。
「それでも、あの目を見てくださいよ・・・」
蜂谷の心底悔しそうな声に、つい笑ってしまった。
自分たちの会話がいっさい耳に入らないらしい夏川はひたすら食べることに集中している。
いつも通り無表情に見えるその顔をよくよく見たら、確かに目がきらきらと輝いていた。
「そうか、うまいのか・・・」
「はい。超絶美味いと、言っています」
蜂谷は誰よりも長く、じっくりと夏川瑛を見ている。
「そりゃ、作った甲斐があったな」
なんだか自分も夏川がかわいく思えてきた。
まるで警戒心の強い野良猫を手懐けるようで楽しい。
たまにはまた食べさせてみたいなとも少し思ったが、夏川の餌付けは蜂谷の長年の夢だ。
余計な手出しをするとややこしいことになる。
「それにしても、冷蔵庫の野菜でこんなすごい料理作っていたとは」
この会社の休憩室にはシステムキッチンと大きな冷蔵庫が設置されている。
なので八澤は心置きなく野菜やパンをまとめ買いして収納し、朝は食事とコーヒーをここでゆっくり味わってから仕事に入るのを習慣にしているが、時間が早すぎるからか誰とも鉢合わせしたことがない。
「ああ?俺の朝飯は丸まんま蜂谷さんのモーニングだぜ?」
「そうか。親父の日替わりってこんなんでしたっけ」
世間というものは意外と狭い。
八澤が子供のころから通い、高校からはアルバイトをさせてもらっていた蜂谷珈琲店の末息子とまさか同僚になる日がこようとは思わなかった。
「俺が手伝わなくても兄貴たちや八澤さんがいましたからねえ」
蜂谷珈琲店は見た目こそ小さな喫茶店だが、実はコーヒー豆の輸入と焙煎、食材と茶葉と食器やアンティーク家具など内装に至るまで手広く商っているらしく、その規模は想像がつかない。
けっこうな時間を過ごした八澤ですら計り知れないところがあった。
扉の見た目は小さく、中は広大。
まるで、魔法の国への入り口のよう。
薫はそんな蜂谷家五人兄弟の末っ子だ。
「・・・それでも、お前の淹れる珈琲は蜂谷さんとそっくりだよ」
「・・・そうですか?」
その、眼鏡の下に隠された整った顔立ちも、人の良さそうなやわらかな微笑みの中に実は読めない部分があるところも。
「うわあ、なんだか楽しそうだね。僕も混ぜてほしいなあ」
食べ終えて片づけているところに、能天気な声がするりと入ってきた。
「部下に仕事無茶ぶりしておいて重役出勤とは良いご身分だな、誉」
「えー、だって僕シャチョーさんだし、実際」
悪びれないところが癇に障る。
「それに、まだ九時にもなってないし。丁度良い頃合いに登場したつもり」
二十代前半までモデルとして欧米で一世風靡した美貌はまだ健在で、にっこりと花が咲くような笑みを作るだけでたいていのことはまかり通ると来ている。
「・・・ホストクラブか、ここは」
八澤は一気に脱力した。
同じ空間に、誉・薫・瑛と顔偏差値の高い男が三人も揃うとただの休憩室が別のものに見えてくるから、凡人の自分としてはお腹いっぱいだ。
「蜂谷、僕にもコーヒーお願い」
「はいはい。シャチョーさん」
門前の小僧なんとやらで、棘のある口ぶりながら蜂谷は宮坂のための丁寧な所作でコーヒーを淹れた。
「うん。さすがは蜂谷珈琲店」
一口含んで満足げにうなずいた後、がらりと表情を変えた。
「さて。今日の段取りを説明するよ。準備は良いかな」
宮坂が顔を出すなり席を外した夏川がすでに四人分の書類を隣のテーブルに配置し、端末も持ち込んでいる。
「はい」
慣れたものだ。
こうやって戦うのも。
「では、始めようか」
宮坂の漆黒の瞳がひときわ輝く。
「まずは・・・」
戦場は良い。
だから今、俺はここにいる。
心地よい高揚感に包まれた。
宮坂誉率いる『オフィス宮坂』は、商業関連の経営戦略の提案とブランド構築、そしてその資産管理まで手掛けている。
始めのころこそファッション業界で活躍した宮坂らしく、アパレル業のリニューアル案件を遊び感覚で手掛けていたが、そこから派生してセレクトショップの開業や飲食業の支店立ち上げや経営の見直しなど、次から次へと仕事が舞い込むようになった。
最初は企画設計程度だったはずなのに気が付いたら法務管理まで請け負い、なんでも屋の様相を呈している。
そして宮坂は発想が柔軟かつ確実に成功へ導くため依頼が後を絶たず、業界トップと言われるまでに成長した。
それにもかかわらず、会社自体の規模はさほど大きくない。
もちろん宮坂の仕事ぶりは非凡だ。
しかし彼を支えるスタッフに優秀な者が集結しているからこそ、普通では考えられないほど円滑に業務を進めることが可能だった。
その『優秀な者』の半分近くを占めるのが、『バース特性保有者』だ。
アルファであれオメガであれ、ベータであれ。
つわものぞろいだという自負が、この会社には浸透している。
「今回のターゲットは『志水堂』。もう一度最初からおさらいするよ」
今日は、最終的な契約締結を予定している。
発注内容、作業工程、納入期日、金額の確認、修正、そして法的手続き。
この時にお互いの意見がかみ合わなければ、破談となることもあり得る。
宮坂と開発チームは「面白そうだから」と乗り気の案件だが、無茶な要求が潜んでいないか目を光らせておくのが裏方の仕事だ。
今は波に乗っているが、いつ何時足をすくわれるかわからない。
人は、存在するだけで様々なものを消費する。
その最たるものが、金だ。
多くを求めはしないが、それなりに生きるためには必要不可欠だろう。
そんな時代に生まれ育ったのだから、面倒だが仕方ない。
依頼主も、自分たちも、生きるために戦っている。
「『志水堂』は江戸時代に京都で開業した老舗和菓子屋。大政奉還後、東京へ移転。御用達の称号も得ていたからね」
臨席するのは、宮坂、八澤、開発スタッフ二名、そして庄野の代打で蜂谷。
宮坂の美貌は神の域だ。
十数年の付き合いになる八澤ですら、まつ毛一本に至るまで芸術品だなとしみじみ見とれることがある。
それを本人は十分に自覚し、『武器の一つ』と言う。
使えるものは存分に使う。
それで道が開けるならば楽なものだろう。
だって『とっておき』なんて、大事に仕舞っていても意味がないじゃない?
錆びさせてしまう方が悪だよ。
意外にも、宮坂はいついかなる時も全力で戦うのが好きだ。
だからこそフル装備でやる気に満ちた彼が普通の社会人として目の前に降り立つと、仕事と理性を忘れる依頼人もたまに・・・いや、かなりいるので、盾替わりかつ柔軟にあしらう能力のある者を必ず一人連れて行くようにしている。
おおむね、庄野。
彼が『巣籠』に転じたならば、蜂谷。
「依頼内容としては、客層と商品のマンネリ化と景気その他要因にわる売り上げの下降傾向の打破。顧客の新規開拓のために製品、店舗、パッケージデザイン、経営方針の一新。ついでに言うなら、ゆくゆくは国内だけではなく、海外への展開も視野に入れる。ようは、長期契約の見込みありの案件だね」
宮坂の説明を聞きながら、八澤はもう一度状況を叩きこむ。
製品の一覧を見る限り、これといった特徴の持てないごくごく平凡な老舗和菓子屋。
技術力のある職人たちを多数抱えており、味も見た目も悪くないものが作れるようだがとにかく『普通』。
伝統と御用達の看板で茶道界につながりがあるため一見安定しているように見えるが、それがかえって足かせになっていると開発スタッフは分析していた。
正直に言うなら、これはかなり難しい仕事だ。
どの花を捨てるか。
どの花を生かすか。
まるで生け花に挑むようなものだ。
「あ、ここはちょっと重要。依頼主は十八代目の当主なんだけど、就任したのは昨年の夏。十七代目の急死による継承。一応十六代目が役員として後見。このご隠居さんがお父さんで、十七が長男、十八が次男ね」
これは庄野の担当案件のため、八澤が依頼主の個人情報にまで目を通すのは初めてだった。
「・・・て、これ」
社長近影は和装の若い男。
かなり若く、どう見ても二十代。
いや、それよりも。
「うん。どこから見てもまごうかたなき北欧の男。ついでに言うならアルファだから、この人」
絵にかいたような金髪碧眼の男が綺羅綺羅しい笑みを浮かべていた。
大理石の彫刻のようにほりの深い顔立ち。
あり得ないくらいの左右対称。
しかしなぜか冷たさは感じられず、濃紺の瞳と厚めの唇はどこか甘い。
程よく知的な額と、すんなりと後ろに流した飴色の髪。
さらに胸から上しか写っていないにもかかわらず、首から肩にかけての線でかなり鍛えた身体なのも分かる。
「こんなベタな男は久々だな・・・」
「なるほど」
へらりと宮坂は笑った。
「カイル・ノア・志水。志水家の男性はおおむねアルファ家系で、母親がアメリカ国籍のオメガ。長男さんとは一回り以上年の離れていて、ほとんど欧米で生活していた。だからこその海外展開の起案だね」
十六代目当主と関係を結んだ女性は産んだ息子を置いて日本を離れた。
とはいえ縁を切ったわけではなく程よい距離を保ちつつ十数年が過ぎ、今度は次男を産み、その子は彼女が引き取った。
バース特性の一つとして、多いのが事実婚。
子供を成したからと言って一緒に暮らすとは限らない。
同じパートナーとダンスを踊り続けるか、曲ごとにチェンジするか。
それは本能であり、個性だ。
新たな遺伝子の組み合わせを求めたくなる性質の者は、ひたすら漂流し続ける。
また逆に長い歳月を一人の伴侶のみと過ごす者もいる。
しかし、よくよく考えてみればベータ社会でも大した違いはない。
愛することも、別れることも。
全ては自由のはずなのだ。
「彼と僕の間で一致している方針が一つ。当面はカイル・ノアの容姿を利用しないこと。メディア展開はありだとしても、まずは揺るぎない状態にまで構築しない限り、彼の存在は前面に出さない」
新当主の華やかな容姿はこの老舗和菓子屋において諸刃の剣だ。
それを両者が理解した上なら、仕事も順調に進むだろう。
けっこうな量の起案をどんどんめくって素早く目を通す八澤に、宮坂は問いかける。
「どう?晶の見立てとしては」
「いけるんじゃね?ただし、この美形が城内をどの程度掌握しているかにかかるけど」
「だよね。多分、そこがこれからの課題だとは思うけど」
コーヒーの入ったマグカップを両手に抱え、首をちょこんと傾ける。
「まあ、会ったら解るから。面白いよ、あの子」
「あの子…って」
先ほど写真に気を取られて飛ばしてしまった経歴欄を改めて見直した。
「マジか・・・」
八澤は唸る。
「うん。そうなんだよねえ。人は見た目ではわからないというか」
カイル・ノア・志水。
現在二十三歳。
「まあ、もうすぐ二十四歳だから、大丈夫」
「なにが大丈夫なのか、今ここで聞いても無駄なんだろうな・・・」
自分もこの世界ではたいがい若造だが、これは。
「ふふ」
白い花が咲いたような、それはそれは清らかな笑みを宮坂は浮かべた。
とんでもない悪魔だ、この男。
広く、手入れの行き届いた庭。
木々の向こうに見える、由緒ありげな茶室。
窓ガラス越しに見える風景に、伝統と格式が表れていた。
「これが、十六代続く和菓子屋の本宅か…」
八澤は軽く息をついた。
この部屋の設えにしても、そうだ。
来客用に洋間の形を成しているが、基本は和。
上質のものをうまく組み合わせてあり、品の良さを感じる。
普段はホテルの一室や本店の会議室での打ち合わせだったらしいが、迎えの車に乗り込み案内されたのは志水家の広い敷地内にある新築の離れの一室だった。
「まあ、ここに入れてくれたってことはサクッと締結かな」
にいと宮坂は口角を上げた。
「それにしても、俺が想像したより資産があるな」
行き詰っている感じはしない。
浪費しているようにも見えない。
余裕があるのだ。
この空間全体に漂う空気に。
「ふふ。ほんとに八澤は面白いね。君のなぜなにについてはこれからのお楽しみ」
・・・こいつ。
遊んでやがる。
だが宮坂は社長で、自分はあくまでも雇われ人だ。
しかも、やることなすこと常人離れしている。
これくらいのことでいちいち腹を立てても仕方ない。
ひとつ深呼吸したところで、扉を叩く音がした。
「お待たせしました。『志水』です」
まず頭を下げつつ現れたスーツ姿の数名は事務方だろうか。
若くて四十代といったところで、いかにも老舗を守ってきた空気をまとっている。
「いえ、わざわざお迎えありがとうございました」
こちらも全員椅子から立ち上がり、挨拶を返した。
ネクタイをしっかり絞めて挑む彼らと向き合うと、てんでばらばらな自分たちの若さと緩さが際立つ。
「・・・これでよく話が進んだな」
八澤は心の中で呟くにとどめた。
最後に身をかがめてゆっくり入室してきた長身が真打だろう。
正面に立つ重鎮に会釈しながら、ちらりと入り口に目を向けた。
「本日は、ヨウコソ」
桃、いや、マンゴーか。
もし耳に味覚があったならばそう感じたに違いない。
ねっとりとした香りと甘さが鼓膜を通って喉に広がり、鼻を抜けていく。
なんなんだ。
この、深くて甘すぎる声は。
「ハジメマシテのカタもおられマスネ?」
もともと、日本語は極端に母音が少ない。
周波数も低い。
他言語の人にとって発音することは難しいだろう。
しかし、そのたどたどしい言葉の一つ一つに色を感じる。
「ワタシが、シャチョーの・・・」
そして、この圧倒的な。
「カイル・ノア・シミズ、デス」
王者の風格。
アルファとかオメガとか。
そんな特殊なイキモノは広い地球のほんの一握り。
伝説の竜に会うようなものだ。
そう思ってきたのに、なぜだろう。
この十年、何人も関わった。
いや、むしろバース特性のるつぼに突っ込まれているようなものだ。
十年前、蜂谷珈琲店でアルバイトをしていたらずいぶんと華々しい男がやってきた。
大人びているが、多分年のころは同じくらい。
しぐさの一つ一つ、唇から浅く吐き出す息まで優雅に思わせる男。
店内の空気は一変した。
彼はオーナーと長年の知り合いらしく、ゆっくり語り合ったあと、八澤の淹れたコーヒーを飲み干して一息つくと、にいっと笑った。
ちょっと、子どもが悪いことに誘うような笑み。
「ねえ、君。僕と一緒に仕事しない?」
名前は、宮坂誉。
元モデル。
元アルファ。
身体を壊してただ人になった彼は、これから新たな事業を始めるという。
業務内容はブランドマネージャー。
顧客のブランド資産の管理運用と向上を提案するなんでも屋。
当時、法学部に在籍して司法試験の準備をしている八澤を、いずれ法務担当として迎えたいと短時間で的確に説明し、その気にさせた。
飛び込んだ世界はとても新鮮だった。
がむしゃらに勉強し、事業に必要な資格を次々と手に入れるのは爽快だ。
きっと、険しい山を攻略する楽しみとはこういうものなのだろう。
苦しさの先に、高い頂が見える。
多少無理はしたが、宮坂から自己管理も仕事のうちだと何度も釘を刺されたので身体を壊したりはしなかった。
毎日が戦場。
上等じゃないか。
それから今まで、怒涛の日々だ。
なんといっても宮坂は『引き寄せる』力がある。
気が付けば会社の運営は順調で関わる人は増え続け、取引先にも社員にもバース特性の者が現れた。
だから、今更どんな『竜』に会っても驚かないと思ってきた。
だが、これは。
「本日は法務担当として新たに二人連れてきました。こちらの八澤晶と、蜂谷薫です」
宮坂の声に、なんとか平静を装って頭を下げた。
あり得ないだろう。
こんなにむき出しの男、久々だ。
いや、『宮坂誉』以来だ。
しかし彼は八澤を瞳に移した瞬間優雅に笑みを浮かべ、思いっきり地雷を踏んだ。
「おや・・・。そうデスか。インターンシップには最適デスね」
甘ったるい声。
さも慈愛に満ちたまなざし。
まるで、通りすがりの子どもに飴をくれてやるようなつもりで。
途端に、八澤の中で彼の評価が地に落ちる。
所詮は、アルファのぼんぼんか。
「・・・なるほど」
つい、音にしてしまったらしい。
両隣の蜂谷とデザイナーが息を飲んだのが聞こえた。
俺をインターンだと言い切ったな、この若造。
いや、『志水』の連中全員か。
スーツ軍団の表情をざっと確認する。
身長が低く童顔の八澤はよく学生に間違えられる。
今更だ。
作り慣れた営業用の笑顔を浮かべて切り込んだ。
「初めまして、八澤晶です。宮坂と組んでもうすぐ十年になります。国内・海外ともに法的な手続きは慣れているつもりですが、もしご不安でしたら実績表をお見せしましょうか」
自分が好戦的な男だと自覚している。
『社長』もさすがに口を半開きに固まった。
「これハ・・・タイヘン失礼しました。お若く見えたノデ、ツイ・・・」
不自由な日本語でとっさにこれだけ言えれば、まあ上等だろう。
そもそも相手はこれから契約を結ぶ客なのだ。
ふうと、八澤は軽く息をついた。
毎度の事なのにたいがい大人げないと内心反省し、八澤は振り上げた刀を鞘に納めた。
「いえ。見た目がこうなんで、普段でもよく誤解されます。いつもの事なのでどうかお気になさらず」
そこで、ようやく宮坂が口を開く。
「こちらこそ事前に法務担当の同席をお知らせせず、大変失礼しました。以前お会いした時に少し説明しましたが、僕は年齢経歴学歴を問わずに一緒に仕事をしたい者を雇いますことをご承知ください。ただし、請け負うからには完璧を目指しますのでご安心を」
穏やかながらも凛とした声に、風がさっと通り抜けたような気がした。
番頭のような男が場を仕切り直す。
「こちらこそ失礼しました。遅くなり申し訳ありません、どうか皆さんお座りください」
全員着席したところで入室してきた女性たちが茶を配り始める。
ふわりと緑茶特有の甘い香りが漂う。
「ああ…いい香りだ。玉露ですか」
宮坂がふんわりと笑う。
「はい。懇意にしている茶園から昨日届いたものです。宜しければ、こちらの菓子もご一緒にどうぞ」
茶道の心得があるのか、全員一つ一つの所作がなめらかだ。
朱塗りの器に懐紙が敷かれ、その上に趣向を凝らした小さめの生菓子と干菓子が綺麗に配置されている。
出席者全員それぞれ種類が違うが、全て季節に即したものだ。
些細なもてなしから、『志水堂』の力量が垣間見える。
「美しいな。さすがは『志水』さんですね」
宮坂の心からの称賛に、場が和んでいった。
「やあねえ。ほんっと大人げないなあ」
シャンパングラスを握りしめて爆笑された。
「その点はもう十分に反省した」
反発しながら適当に手前のタルトを摘まんで口に放り込んだら、予想と違う風味に思わず声を上げる。
「・・・うっま。なにこれ。スイーツじゃないんだ」
「さっき説明してくれたじゃない。全部オードブルだって」
テーブルの真ん中に置かれた銀のスタンドは三段に分かれて皿が載せられている。
そして意匠を凝らした料理がおおよそ一口サイズで二人分ずつ、各々が取り易いように心配りされていた。
高級ホテルの奥の間に連れてこられ、いきなり重厚な内装に目を見張っているさなか豪華なソファに座らされ、いきなりこれだ。
給仕してくれる人の言葉なんて聞き取れるわけがない。
「そりゃ聞いたけど。だって苺がのってるし土台タルトだし見た目でどうしても甘いものを連想させるじゃないか。何のフェイクなんだよ。へえ、本当に苺の下フォアグラだったんだこれ」
メニューカードをたどって、たった今自分の食べたものを再確認する。
「怒ってるの、喜んでるの」
「喜んでるさ。美味いからな」
一瞬目を丸くした後、うふふと少女のように首を傾けた。
「なら、良かった」
真っすぐで長い髪がさらりと肩から零れ落ちる。
白磁のような頬がふんわりと桃色に色づき、ぱあっとあたりに花が咲いたような錯覚を感じた。
「萌」
「なあに」
「相変わらず可愛いな、お前」
「なによ、それって俺って可愛いなって言いたいの」
「そんなわけないだろ。全然似てないんだから」
萌と八澤は双子だ。
二卵性双生児で異性だからか、生まれた時から容姿が全く違う。
自分は漆黒、萌は明るい茶色の髪と瞳。
きつくとっつきにくいと言われる顔つきの兄に比べ、妹は愛らしく癒されると誰もが言う。
まああえて挙げるなら、共通点は骨格が細めで背が低めな所ぐらいだろう。
「それよりもこんなの、女友達と来るもんじゃないのか」
シャンパン、ヨーロッパの高級茶器、とりどりの洒落た料理、のちに給仕されるであろうたっぷりのスイーツ。
これはイブニングハイティーと言うらしい。
平日の夜ではあるが席は程よく埋まり、女性客がほとんどでわずかな男性客は自分と同じく連れといった感じだ。
「この歳になるとね。女性はなかなか都合がつかないものなのよ」
切り分けたサンドイッチをフォークで口に運びながらさらりと答えた。
「・・・そういうもんなのか」
高校から別の進路を選んだため、互いに知らないことはたくさんある。
萌は美容師になり、二十代前半で結婚し、今は独りだ。
そして、仕事も変えていた。
萌が人生の決断をいくつも行った間、八澤は渡米中だったので詳しい事情は分からない。
だけど再会した時、妹はうつろで明らかに傷ついていた。
両親に何度質しても言葉を濁すだけなので追及をあきらめ、とりあえず時間を置くことにした。
「うん、そう」
お互い、もうすぐ三十歳を迎える。
未だに、八澤は何も知らない。
しかしこうやって綺麗な笑顔を見せてくれるようになったからそれで十分だと、何度も己に言い聞かせている。
「それよりも、その晶のやらかしを宮坂さんは叱らなかったの?そこで商談がひっくり返ったら懲戒ものよね、ふつう」
若干二十三歳とはいえ、社長に恥をかかせたことにもなるのだ。
「・・・なんか、そのまま和やかーに話が進んで、はい締結、これからどうぞよろしくお願いしますねーってなったんだよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
あれは老練な番頭のなせる業なのか、宮坂の魔力なのか、それとも・・・。
「その、超絶美形若社長のフェロモンの仕業なのかとか?いやいや、そういうことじゃないでしょう。そんな展開面白すぎるし」
「だよな・・・って、俺の頭の中のぞくな」
「ふふふー。お・み・と・お・し・よ」
ふいにその時のことを思い出す。
仕切り直しの後は、こちらもビジネスに徹した。
今朝打ち合わせした通りに説明をし、それぞれの契約事項について承認を得る。
予想していたよりも早い時間に締結を終えた。
その間、若社長はただ黙って鎮座していたわけではなく、頃合いを見て的確な質問を投げかけてきた。
正直、意外とやるなと感心した。
もともと、宮坂に仕事を依頼することを志水堂に提案したのは志水自身だ。
八澤のせいで少し躓いた形になってしまったが、彼は本気で経営を立て直そうとしているということがよく分かった。
「・・・まあ・・・。悪かったと思っているよ」
「あらそうなの」
商談が終わった瞬間に、まるで魔法が解けたかのようにまたあの気まずい空気が戻ってきたので、笑顔を五割増しにしてなんとか切り抜けた。
番頭が恐縮しっぱなしなのには申し訳なく思ったが、その後ろにおとなしく立つ若者のまなざしにじっと見つめられていたたまれなくなった。
「次に会った時、謝りなさいよ」
吸い込まれそうな、という表現がぴったりの碧いきらめき。
ねっとりと、甘い果実のような声。
キケン。
アレハ、キケン。
つい、攻撃に転じてしまったように。
「いや、もう俺の出る幕ないから、会うこともないさ」
そもそも八澤は代打だったのだ。
次からは庄野の領分だ。
そう思うと、ふいに楽になった。
「・・・なんだか、晶らしくないなあ」
穏やかな香りを放つティーカップを持ったまま、萌が不満げに口を尖らせた。
「それは、俺も思う」
だからだ。
自分らしくあるために。
アレからは離れたほうが良いと。
たとえ、無様であろうとも。
-つづく-
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