『夜の、夜。』
うなじがあまりに無防備だったので
こっそり口づけて
印をつけた
たとえどれほどの時が過ぎたとしても
見失うことはけっしてない
あなたは
ぼくの獲物だから
「・・・なんだこいつ、本当に生き物か?物騒ななりだなあ」
いきなり頭上降りてきた声に、ちらりと壁の時計を見た。
三十分の遅刻。
しかも、謝罪なしときている。
こちらは理由をとうに知っているから驚きも何もないが、それに気づかないばかりか全く警戒心を抱かないのんきさに呆れた。
本間国男。
彼は遠い遠い親戚で、先月から週に二度ほど顔を出しはじめた家庭教師。
「ゴモドドラゴン」
そして、母の新しい愛人。
いや。
『あれ』は、枕営業か。
確か、来年は就活だと聞いている。
「地上最強の爬虫類です」
手元で開いていたのは、海外で出版されたネイチャー系の雑誌。
インドネシアに生息するオオトカゲが巨体をあらわに、地面をはいずっている写真が見開きで印刷されていた。
「へえ・・・」
自ら問いかけてきたくせにあっという間に忘れ、生返事をしながら軽くうなずき、手提げ袋の中から筆箱を取り出す。
「じゃ、始めようか。この間はどこまでだったかな」
これほど雑に扱われると逆に新鮮だ。
そして、これほど侮られるのも。
「そうですね・・・」
雑誌を机の隅に押しやり、教科書の適当なページを開いて見せた。
「ここです」
「ああ、そうだったな」
嘘つき。
重要なのは、勉強を教えてもらうことなどではない。
必要なのは、時間。
コモドドラゴン。
その毒は時間をかけて、役目を果たす。
確実に。
自分の、うめき声のようなものに驚いて覚醒した。
「よく眠っていたね。もう二度と起きないかと思ったよ」
腰のあたりがゆっくり沈んで、自分がベッドに横たわっていることを悟る。
そして、現実も。
「国男さん」
よもや長い年月が経って、こんなことになろうとは。
「まだ・・・。あなたは、こんなもんじゃないでしょう?」
ねっとりと、甘い声と生暖かない気が耳元に降りてきた。
「もっと、旺盛なのはわかってる」
覆っていた寝具を剥がれ、肌が空気に、そして彼の目にさらされる。
隠したくてももう、自分には何も残っていないのだ。
「たか・・・よし」
舌が喉に張り付いて、うまく声が出せない。
まさか。
まさか、お前が。
「やっと、名前を呼んだ」
両脇に長い腕をついて、裸の男が腰の上にまたがってきた。
すっきりとした顔立ちとすらりとした長身からは想像のつかない、若々しく弾力のある見事な身体を、無造作に見せつける。
見下ろす視線は、あくまでも優雅。
清家孝義。
地元では誰もが知る名家の跡取り。
「夜の続きを、始めようか」
ゆっくりと微笑みながら、彼はぺろりと自らの唇をなめた。
夜の次は夜。
薄暗い帳の中で永遠に続く、闇の世界。
それが、よる。
始まりが何だったのか。
自分にはわからない。
砂時計の砂が落ちていくように、何もかも零れ落ちてしまった。
「く・・っ」
歯を食いしばっても、声は漏れてしまう。
気を抜いたら、獣の雌のような自分の声を聞くことになる。
恥ずかしさと悔しさに、気が狂いそうだ。
しかもこの自分が尻を差し出す役だなんて、相手の性器を突っ込まれているこの瞬間も認められない。
どうしてずいぶん年下の男に組み敷かれ、身体中を撫でまわされ、足を開かされる羽目になったのか。
五十を過ぎた自分の何が、彼の欲望の的になるのか。
そんなことばかりを考え続けてしまうが、出口が見えない。
互いの体液と体臭がまじりあい、ベッドは悲鳴を上げるかのような音でせわしなくきしみ続けていた。
思春期の子供だってここまでないだろう。
ホテルの一室に閉じこもって、朝から晩まで切れ目なくセックスをしている。
もう、何日経ったのかわからなくなってしまった。
嫌悪も、痛みも、快感も、全部飲まされて揺さぶられているうちに、みな同じに感じ始めている。
「気持ち、いいよね?」
甘くささやかれて、そんな気になっていく。
唇のきわをたどる、男の舌の先。
彼の触れるところ、すべてが。
「ああ・・・。イイ・・・」
すべては、快感に。
渇きを覚えるほど、激しく。
味わえば味わうほどに、物足りなさを覚え、先が欲しくなる。
「もっと・・・」
闇の、底の底に落ちていく。
清家孝義との出会いは大学三年生の秋だった。
遠い昔に分家したにもかかわらず、本間の母は家系図をたどれば清家につながることを誇りにして周囲に自慢し、親族の末席にかじりつくためにコツコツと働きかけていた。
本家の誰も、本間なんて知らないだろう。
いい笑いものだと、母の必死さが内心恥ずかしかった。
そんな中、何の気まぐれか清家当主夫妻とじかに話す機会があり、なぜか国男は気に入られ、東京の大学に行っているならば息子の家庭教師になってくれと頼まれた。
当時、都内の有名難関中学に通う孝義は二年生。
高級住宅街の一角の大きな屋敷を与えられ、付き添いの名目で東京暮らしを謳歌している母親と暮らしていた。
通いの家政婦が何人かいて、高級車に運転手付きの絵に描いたような上流社会の一人息子。
確かに育ちの良さがにじみ出ていたが、黒縁の眼鏡をかけひょろりと線の細い、物静かで理屈っぽく、とても平凡な子供だった。
そもそも子供は嫌いだ。
無理矢理いうことを聞かせたり従えるのは好きだが、隣家の従弟たちも近所の子供たちも大嫌いで、遊んでやったことなどほとんどない。
だけど孝義を踏み台にして当主夫妻と親密になれば、得るものは大きいと素早く算段を付け、二つ返事で受けた。
何よりも、顔を合わせて間もない清家夫人からしきりに送られる意味ありげな視線に、この仕事の内容を瞬時に把握した。
つまりは、ソレも込みということなのだと。
むしろ、子供の家庭教師は名目上ということではないか。
望むところだった。
三十の後半に差し掛かっているとはいえ、余った時間を自分磨きに使っている彼女は十分女としてイケる容姿を保っていた。
世間にばれない程度の秘密の関係。
夫公認のものだとすれば、おそらく数年でも奉公すればその見返りは大きい。
そこそこ名の知れた大学に通っているとはいえ、父を幼少期に亡くした国男に就職のつてはなかった。
かと言って、周囲の中流家庭出身の同級生たちと安スーツに身を固めて会社巡りをするのは正直かったるいと思っていた。
コネがあるなら、それに越したことはない。
それが、強力なものなら尚更。
欲しいと思った。
熟しきった、食べごろの女と、将来への確かな道筋。
多少、姑息な方法で手に入れたものだとしても。
「・・・そんなところ、舐めて楽しいか」
疲れ切った身体を湿ったシーツに投げ出したまま半ば気を失うように眠っていたが、うなじをなめあげられている感触に意識が戻る。
背筋に、弱い電流のようなものが流れたのを気付かぬふりをして、深いため息をついて見せた。
「・・・あんたは変わってる」
もう、敬語を使う気なんて、とうに失せた。
地位も立場も今の自分ははるかに下だが、今更どうでもいい。
七歳下の男に一服盛られて監禁され、あっという間に雌にされてしまった。
うなじを舐められ、尻をさすられて、これで敬っていたらどんな嗜虐趣味だと笑いがこみあげてくる。
「そうかな?」
ささやきが首を、耳を、濡らしていく。
「僕は、初めてあなたのここを見たときに、絶対こうしようと決めていたけど」
きゅっと強く尻をつかまれ、思わずうめき声が上がった。
「は・・・。初めて?」
「ええ」
男は両手で双丘を揉みしだきながら、うっとりとした声で囁く。
「だって、すごくイイんだよ、あなたの尻」
「・・・くっ・・・」
こんな時なのに、全身がざわめきだしている。
「四つん這いにさせた母を、バックから攻めてた時の、あなたの尻。物凄く美味しそうで、興奮したな、あの時」
あの時。
一瞬にして、点り始めた快感が飛散する。
「・・・たかよし、おまえ・・・っ」
身体を反転させて振り向くと、前髪を額に落とした孝義が大げさに目を見開いて見せた。
「あれ。まだ結構元気だね。さすが国男さん」
「・・・知って・・・っ」
セックスレスだと言っていた。
跡取り息子を産んだ途端、女としての役目は終わったのだとも。
若くして欲求不満の塊になった彼女の情の深さに辟易としながら、同級生たちにはない楽しみを存分に味わった。
「やだなあ、もちろんでしょう。あの人、そそっかしいというかわきが甘いというか。そもそも僕に興味なかったから休校日とか結構知らなくて」
最初は、溺れていたといってもいい。
呼ばれれば講義を投げ出してとんで行き、いくらでも望む形で抱いた。
「見たのか」
初体験は早いほうだった。
だけど多くの男を金で買った女の凄さは予想以上で、いつの間にかのまれていった。
「もちろん。・・・ああ、現場に遭遇したのはあなただけじゃないし、のぞき趣味があるわけでもないから安心して。でも、国男さんのセックスは何度か覗かせてもらったかな」
「あれは・・・」
あれは、悪魔に魂を売り続けていた瞬間でもあった。
彼女の相手をしていたのは就職が決まり、アルバイトをやめるまでの間だけだ。
しかも自宅のベッドで、息子が学校に行っている間を選んで呼ばれることが多かった。
だが強い欲望に応えているうちに、自らもっと欲しいと思うようになってしまった。
「あれを・・・みたのか」
オスの本能。
ありとあらゆる欲が頭を支配していく。
わずかに残っていた心のようなものは、とうに消えて行ってしまった。
そして、いつしか抑えられなくなってしまった。
あれは。
俺の選び間違えた道の一つだ。
「ああもちろん、背筋も、太ももも凄くいい感じだったよ。なめらかで、若い鹿の身体みたいだよね」
孝義が、白い歯を見せて嗤う。
「でも、あの頃の国男さんは暴れ馬みたいなものだったから」
息のかかる距離まで額を寄せ、まるで大切な秘密を打ち明けるかのように囁いた。
「ちょっと、疲れるまで待っていたんだ」
「疲れる・・・?」
頭に霧がかかったように感じるのは、この、濃密な空気のせいか。
「そう。今がその時。まあ予想よりか少し早かったかな」
頬に手をかけ、唇を寄せてきた。
「くたくたに疲れ切ったあなたを捕まえる。それが当時中学生だった俺の考えていたことだよ、国男さん」
「・・・‼」
口を大きく割られ、舌を強く吸われ声も奪われた。
それだけで、卑しい己の中心が起動する。
「いくつのあなたでも構わなかったけど、やっぱりそれなりに抱き甲斐があるうちのほうが楽しいものね。こんなに早くに手に入るなんて、あなたのお母様に感謝しなきゃね」
母。
昨年、夏の始まりの夜に誰にも看取られずに息を引き取った母。
本間の家刀自で絶対的な支配者として君臨し、夫代わりに息子を盲愛し続けていた人。
それから一年。
突然、国男の周囲が動き出し、何もかもなくした。
なくしたんじゃない、捨てたのだ。
心の中でごうごうと風が吹き荒れる。
捨ててやったのだ。
妻も、子供たちも、家も。
「ほら。また、欲しいって言ってるよ?ココ」
上品な顔をしているくせにみだらな言葉を次々と吐き出し、身体のすみずみからありとあらゆる欲情を掘り出す。
その表情は、初めて会ったころよりもはるかに無邪気で、美しい。
「あ・・・」
ため息が漏れて、つま先が痙攣する。
毒に浸されている。
頭のてっぺんからつま先まで、甘い、甘い毒に。
「欲しい?」
指先が、的確に誘い出す。
「ああ・・・」
欲しい。
腕を回して、胸を合わせた。
ぽっかり空いた穴ごと
なにひとつ残らぬように
俺を抱きつぶせ。
-完-
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