『うまい話には裏がある -1-』


 忘れもしない、16歳になったばかりのとき。
 それは長いの試練の幕開けだった。
 今思えば、デビュタントの日から不吉な気配がした。
 朝は清々しい天気だったというのに、侍女に時間をかけて念入りに化粧やドレスを着つけてもらい、ようやく馬車に乗り込むと王宮へ向かう道中から雲が増えていった。
 白い雲なんて可愛いものではない、分厚くどす黒い雲が強い風に飛ばされ集まっていく空。
 参加者も出そろい、王族への祝辞と挨拶も終え、ダンスが始まったばかりの時、突然どーんという轟音と地響きが会場に響きわたった。
 そして、硬い何かがぶつかり、崩れるようなまがまがしい破壊音。

 あ。
 雷が落ちたな。
 それもかなり近い。

 悲鳴をあげ中には失神して倒れる貴婦人や令嬢と介抱する紳士で騒然となる中、ナタリアはワインを飲み干した。
 ここは堅牢な造りの城だしこんなに都会ならそこまでひどくならないかもと半分願いのようなものをかけていたが、あいにくそうは問屋が卸さないらしい。
 事態はどんどん悪化していった。

 これは、途中で抜け出すのは困難だな。

 まるで神の怒りでもくらっているのか、光っては落ち、光っては落ちする雷とバケツをひっくり返したような雨。
 これでは馬も動揺してうまく操れまい。
「離宮の尖塔に雷が落ちたそうだ」
 慌てふためいて騒ぐ人々を横目に、ナタリアは食事が並べられたテーブルの前に立ち、手にした皿に盛りつけていった。
 さすがは大国とうたわれるレーニエの晩餐。
 地元ではお目にかかれない繊細な料理がとりどり並ぶ。
「もう、二度と食べられないかもしれないし・・・」
 挨拶回りで離れたままはぐれてしまっていた兄が駆けつけるまで、彼女はせわしなく光が差す窓辺のテーブルセットのこじゃれた椅子にどっしりと腰を下ろし、のんびり料理を堪能した。






「・・・は?」
 第一声が品のないものだったとしても責められないと思う。
「・・・あの、もう一度お聞かせ願えますか」
「はい。当家の主、ローレンス・ウェズリー侯爵の妻に、ナタリア様をぜひともお迎えしたく・・・」
 目の前の小奇麗な衣装に身を包んだ男は、嘘くさい笑みをたたえ、有り得ないことをとうとうと並べた。
 あまりにもあり得ない話なので、そのあとに続けた言葉が耳を素通りしていく。
「・・・あの、誠に申し訳ないのですが、もう一度・・・」
 どうしても頭に入ってこないので、五回くらいこれを繰り返したらさすがに相手もキレた。
「ですから。先ほどから何回も申し上げました通り、ローレンス・ウェズリー侯爵の妻になっていただければ、以下の事を融通すると言っているのです」
 あ、だんだん素の部分が出てきたな。
 ここで、ナタリアの目の前がすっとクリアになった。
「借金返済の肩代わり、ジュリアンの王立学院の学費免除と生活費援助・・・」
 ナタリアの家、ダドリー伯爵家は現在、多額の借金を抱えている。
 四年前のデビュタントの年から今まで、水害冷害日照り山火事と災害続きだった。
 そこそこ由緒正しく、曾祖父は王都の中枢で活躍した家柄だったが、じわじわと衰えていき、今では辺鄙な領地を治める貧乏伯爵となり果てていた。
 救いなのは、領地に接している隣国2国とは仲が良く、辺境警備隊を置いているものの戦争の心配がないため、いたって平和であることだ。
 おかげ、ぎりぎり羽振りが良かったころに長姉次姉をそれぞれの国の貴族へ嫁がせることができた。というか、そこでダドリー家の財政は力尽きたと言ってもいい。
 ちなみに、ナタリアの上には兄が一人いる。
 ダドリー伯爵家の現当主、トマスだ。
 姉たちに虐げ・・・、いや、可愛がられ過ぎたのか、いささか頼りなく線の細い風貌で交渉の場ではよく舐められた。
「・・・ずいぶん、好条件ですね・・・。しかもウェズリー侯爵はまだ十分にお若いですよね」
 馬のように長いまつ毛をぱしぱしと瞬かせながら、おずおずと使者を見上げた。
「はい。二十七歳になられました。文武両道で、御父上の大公によく似た美貌であらせられます」
 彼は、前王の弟であるウェズリー大公の次男。
 社交界へ全く顔を出さず、王都との縁は税金くらいしかないような自分たちでも存じ上げる、金髪碧眼の絵に描いたような貴公子だ。
 地位、財産、容姿、若さ。
 完璧すぎる男。
 それがローレンス・ウェズリー。
「何も私の妹ではなくとも、王都にふさわしいご令嬢がいくらでもおられると思うのですが」
 それがなぜ、ナタリアに。
 兄と妹は困惑した。
「そもそも、ナタリアが王都へ行ったのは四年前のデビュタントが最後です。しかもあの日は始まってすぐにすごい嵐で大混乱でした」
 王宮のあちこちが落雷の被害に遭ったためとても宴どころではなく、二か月後に仕切り直しが行われたが、領地の災害復旧に忙しいナタリアは出席できなかった。
 しかもその日デビュー予定だった令嬢の数はかなり多く、しかも高位令嬢たちの贅を尽くした渾身のドレス姿を前に、長姉からおさがりのドレスをちょろっとリメイクして出席したナタリアは霞んでいた。
 いや。
 領民たちと田を耕し、馬を駆って国境警備に参加しているナタリアは化粧で修正できないほどこんがり焼けていた。
 正直、浮いている、という観点でなら目立っていたかもしれない。
「家業が忙しく、王都の学院へ通わせることもかなわなかったため、ろくに知り合いもいません」
 ナタリアの一つ下で十九歳の弟ルパートも然り。彼は頑強な身体を持っていたため進学せず、今は領内の騎士団で国境を守っている。
 そのかわり頭の良い末弟の十五歳のジュリアンはなんとか王立学院へ進学させた。
 入学してから今まで上位の成績を収めてくれていると聞く。
 だが勉学を優先しているため、社交には関わっていない。
なので、ナタリアの存在はほぼ忘れ去られているはずなのだ。
 貴族年鑑を開いて端から端までさらってようやく、ああこんなのがいたな、と思う程度だろう。
 そもそも、名前と年齢だけでここまで飛んできたのではないかと言う疑惑がトマスの頭にひらめいた。
 兄としては働き者で健康的な妹をとてもとても綺麗だと思うが、この使者はナタリアを紹介した瞬間、ぎょっと目を見開いた。
 なんだ、この農民、という顔だった。
「ウェズリー侯爵は、なぜナタリアをご所望なのですか」
「実は、ローレンス様がこちらの方へお忍びで出向かれまして。その時にナタリア様を見初められまして」
 真っ赤な嘘だ。
 王都からこの屋敷周辺にたどり着くには馬を飛ばしても二週間かかる。
 しかも、道中に名所旧跡などありはせず、退屈な道のりだ。
 ちょろっとお忍びで出向くなどある筈がない。
 かなり苦しい言い訳とわかっていながら、平然と嘘をつきとおすあたり、たいがい面の皮があついというものだ。
 兄妹は蛇顔の家令をまじまじと見つめた。
「寝ても覚めてもナタリア様にお会いしたいというようになり・・・」
 それでもとうとうと語り続ける男のしわをとりあえず数えて平静を保つ。
 いつまで続くかな、この茶番。
 長い口上を適当に聞き流している空気に気付いた彼は、一つ咳払いをして胸元から封筒を出した。
「そのようなわけで、息子を哀れに思った大公閣下からのお手紙です」
 受け取った封筒にでかでかと押された封蝋には大公家の紋章。
 中を確認すると、家令の口上とよく似た文言が長々と書き連ねられ、最後には王もこの婚儀を楽しみにしていると付け加えられていた。
 ようするに、これは王命だ。
「・・・お受け、頂けますよね」
「・・・ええと」
 王命を拒否したならば、領地没収爵位はく奪というところか。
「・・・そうですね」
 最初から、逃げ場などないのだ。
「では、こちらにナタリア様のご署名をお願いします」
 背後に控えていた侍従から書類を受け取った家令は勝ち誇った笑みを浮かべて振り向いた。
 テーブルに広げられたのはナタリアの署名欄のみ空欄の婚約届。
 時間をかけて丁寧に目を通したが、何度見返してもほころびの一つも見当たらない正式な書類だった。
「・・・」
「さあ、ナタリア様」
 観念して、ゆっくり署名した。
「ご婚約、おめでとうございます。今日からナタリア様はローレンス・ウェズリー侯爵の婚約者になられました」

 この場に領民全員が揃ったとしたら、皆、口をそろえていっただろう。
 あまりにも胡散臭すぎる。


「鳩と鷹はもう飛ばしたわ」
 海のように青い瞳をきらめかせて、執務室の窓辺にたたずむ義姉は言った。
 ねちねちとウェズリー侯爵家の格式と栄光について講釈を始めた家令を兄に任せ、ナタリアは離脱した。
 兄は、とてもとても忍耐強い。
 もはや神業と言うくらいに。
 廊下で待機していた侍女の報告では、婚姻届けを預かった騎士がものすごい勢いで馬を駆り、屋敷を後にしたらしい。
 さもありなんだ。
「そろそろお義父さまたちも戻られるはずよ」
 両親はちょうど領内回遊に回っていた。
 もうすぐ農作物の大規模な収穫の時期になる。
 そもそも今日はナタリアたちも現状把握のためにそれぞれ手分けして領民の声を聴きに行くことになっていた。たまたま河川整備の話し合いを午前中に設けていたため在宅してしまい、ウェズリー侯爵の家令につかまってしまったのだ。
「ありがとう、お義姉さん」
 礼を言い終えないうちに廊下を幾人かが走ってくる音が響き、ばーんと扉が開く。
「ナターシャ!大丈夫か!」
「ナターシャ!なんてことなの!」
父のジャックと母のヘンリエッタが髪を振り乱して駆け寄り、愛称で叫びながら左右からがしっとナタリアを抱きしめた。
 どうやら、姉の飛ばした鳩は無事に両親の元へたどり着いたらしい。
「・・・これは、マギー・サンズの呪いよ・・・」
 ナタリアの右肩に顔をうずめたまま、地を這うような声で母はぽつりと言った。
「へ、ヘンリエッタ・・・。またそれを言うか」
「何度でも言いますわ、ええ。この婚姻をマギー・サンズの呪いと言わずして何だと言うのですか」
「いやいや、まて、ヘンリエッタ」
 サンドイッチされたまま両親が痴話げんかを始め、ナタリアはげんなりする。

 マギー・サンズの呪い。

 それは、何か運のないことが起きるたびに母が持ち出す言葉である。
 マギー・サンズとは、父が若いころ摘まんでポイした男爵令嬢の事だ。
 父は今も昔も平凡な容姿である。
 だがしかし平凡というのはある意味利点で、きらびやかな容姿だと何かと気後れするものだが、地味な父は令嬢たちに警戒心を持たれずにするりと距離を詰め、たやすく親交を深められた。
 そして次第に調子に乗った父はこっそり入れ食い状態だった。
 親が婚約者として異国から呼び寄せたヘンリエッタが登場する瞬間まで。
 母、ヘンリエッタは花の女神と讃えられたほど美しい。
 一目ぼれした父は速攻ですべての令嬢を切り捨てた。
 その中の一人がマギーだったのだ。
 捨てられて自棄になったマギーは派手に男遊びをして身持ちを崩し、慌てた親が年取った子爵の後妻に売り飛ばした。
 さらにそこで愛人の子を妊娠し、出産の時に赤子もろとも亡くなった。
 ジャック・ダドリーを呪いながら息を引き取ったという噂が今も語り継がれている。

 結婚して以来ほぼほぼ領地に閉じ込められていた母がマギーの顛末を知ったのは、ナタリアのデビュタントの年であった。
 次々と起こる厄災に、うっかり親族が漏らしてしまったのだ。
「ジャックが、マギーなんかをヤリ逃げするから・・・」
 地味で誠実だと思い込んでいた夫が実はかなりの下衆だったと知った母は激怒、隣国に嫁いだ長姉の所へ家出した。
 しかし時は風水害の真っ最中で、その対応に追われていた父は事故に遭い、意識不明の重体になった。
 慌てて長男のトーマスが当主の座を引き継ぎ、経営に当たったがそれに付け込んだ悪徳金融業者に引っかかり、多額の借款を追う羽目に。
 更に迫りくる冷害と病害虫。
 踏んだり蹴ったりもここに極まれりで、まさに呪われているとしか言いようがなかった。
 知らせを聞いて戻った母の看病と周囲の協力で父は意識を取り戻し、驚異的な回復を遂げた。
 回復ついでに母を妊娠させた時には、この親父をどうしてくれようと兄弟で内心こぶしを握ったが。
 生れてきたアリスは超絶可愛かった。
 天使だ。
 なので、全ての災厄は終わったかに見えたのだが。

「ここにきて、これか・・・」
 まだ背後でいちゃいちゃ押し問答をしている両親は放置して、義姉と婚約届の写しを見つめる。
「とりあえず・・・。まずは客人を全員、酔い潰させましょうね」
 月の女神と讃えられている義姉は深い闇のような笑みを浮かべた。
「今夜は、長い夜になりそうだし」
 ダドリー家の女は、強い。
 呪いなんかにたやすく屈するほどやわじゃない。
「そうね」
 ナタリアは窓の外に視線をやった。
 鷹の声が空を駆けていく。


「それで、これがグラハム卿の提示したことなんだけど」
 あの蛇面の家令はグラハムと言うらしい。
 最初の挨拶で名乗ったはずだが、内容の衝撃で記憶から飛んだ。
 交渉を終えた兄が執務室へ戻って来て、思い出せる限りの会話内容をざっと紙に書きだした。
 あと、新たに受け取ったのは金銭の授受などの決め事を締結した書類が数点。
 すでに、まとまった金を応接室に持ち込んでいたらしい。
「あちらは、うちの財政状況をほぼ把握しているということね」
 ナタリアはこめかみを指先で揉んだ。
 今の自分たちは、喉から手が出るほど金が欲しい。
 いったんなんとか持ち直しかけていたのだが、昨年季節外れの雹が降り放牧していた家畜と農作物を思いっきりやられたのが打撃になり、ジリ貧に戻った。
 それが綺麗に片付く額の結納金を提示してくるあたり、少しでも逆らうそぶりを見せたらどうなるかわかってるなと明らかに脅しにかかっている。
 凶作の原因はあくまでも自然災害。
 さすがにそこまで仕組まれたわけではないだろう。
 つけこまれ易い状況だったのは不運としか言いようがない。
「失礼します」
 ノックと同時に入室したのは、すぐ下の弟のルパートだった。
 馬を飛ばして駆けつけてくれたのだろう、騎士団の制服のままで麦の穂のような色のやわらかな金髪はすっかり乱れていた。
「ナターシャ。大丈夫か」
 大股で部屋を横切り、ぎゅっとナタリアを抱きしめてきた。
 小さなころからこの貧しい領地で一緒に育ってきたルパートは弟というより同志みたいなもので、彼のたっぷり日に当たった干し草のような匂いを嗅ぐと気持ちが和らぐ。
「うん、ありがと」
 大柄で鍛え上げられた広い背中ぽんぽんと叩きながら、ふうと息をついた。
「義姉さんの鷹が飛んできたのを見た瞬間いやな予感がしたんだけど、まさかこんな話とはね」
 ソファセットへ移動し、二人で兄夫婦の正面に座る。
「あの子、ちゃんと最短で飛んでくれたのね、良かったわ」
 トーマスに肩を抱かれて座ってるディアナは満足げに微笑んだ。
 ウェズリー侯爵の使者一行が到着し来訪の目的を告げた瞬間、ディアナは鳥小屋へ走り、常駐している騎士と飛ばせるだけの鳥を使って伝令を方々へ飛ばした。
 この領地は隣国との関係は良好で衝突が起きたりはしないが、傭兵崩れの盗賊は出る。被害を最小限におさめるにはまず情報共有なので、日ごろから様々な手段を使って細かなやり取りしている。非常時の対応に至っては家族全員慣れたものだ。
「それで、奴らは本物なのか?詐欺にしては大掛かりだよな」
 グラハムに付き従う騎士や従僕たちは侯爵家の家紋入りの衣装を身に着けていた。
 馬車は無紋であったが。
「そこなんだけど」
 ナタリアが書類の一枚を手に取った時、また、扉をノックする音がした。
「失礼します。ベインズです」
「入ってくれ」
 トーマスが声を上げると、三人の騎士が入ってくる。
 赤毛を短く刈り込み、ライトグレーの瞳が鋭いダン・ベインズ騎士団長を先頭に、豪奢な金髪にエメラルドのような緑の目をした部下のリロイ・ウインター、そして線が細くいかにも文官の雰囲気で茶色の髪と瞳のカーク・レイン行政官だった。
「遅くなり申し訳ありません。レイン行政官も連れてきたかったので」
 屈強な武人らしい大柄なベインズがまず頭を下げると、背後にいた二人もそれに倣う。
「こちらこそ、ご足労頂きすみません、ベインズ団長」
「いえ、一大事ですから」
 狼を思わせる瞳をわずかに細めてベインズは答えた。
「ウィンター卿もレイン行政官も忙しいのにすまない。時間がなくてね。明日にはナターシャがここを発たねばならないから」
「・・・え?」
 三人は目を丸くする。
「どういうことですか。求婚に来たばかりだというのに」
「リロイ」
 ベインズが低い声で制すと、ウインターは端正な顔をゆがませてため息をついた。
「・・・失礼しました、つい」
 ウインターは五年前からこの地に赴任しルパートと同い年で仲が良いため、家族同然の付き合いだ。
「いいや、ほんっと有り得ないよね。俺も抗議したんだけど聞く耳持たないから、とりあえず親父殿たちに接待を任せたよ」
 トーマスはアルカイックスマイルを浮かべた。冴え冴えとした光を目から放ちながら。
 現在、執務室から一番遠い大広間に使者一行全員を押し込め、前伯爵夫妻主催の晩餐会の真っ最中だ。料理人と男あしらいが上手い酌婦を地元のギルドに緊急要請し歓待させている。
「お金、先に貰ったからね。それで贅の限りを尽くさせてる。吐くほど飲ませて明日は出られないくらいにしてって言っといたけどどうかなあ」
 その間に、策を練ろうという算段だ。
「で、レイン行政官。さっそくだけどこれらの書類、本物かな?」
「は」
 レインは胸元から取り出した眼鏡をかけ、書類を凝視する。
「・・・間違いないかと。まず大公閣下の手紙ですが、封蝋、封筒、便箋共に大公家御用達の特殊なものです。見本はこれなんですが、同じでしょう」
 肩から下げていたバッグの中から書類箱を取り出し、二つを並べた。
「大公閣下は無駄に長生きされて・・・いえ、とにかく割とどこにでも直筆の文書が出回っているのでようございました」
 白くて長い指が、とんとん、と指し示す。
 材質、筆跡ともに違いはないように見える。
「そして、婚姻届けの写しですね。それと証文。行政文書として体裁は間違いなく、あちらの証人の名前とサインともに筆跡は同じ」
 知らせを聞いて必要なものを全部そろえてきたらしく、次々とテーブルに広げた。
「これが偽造ならたいしたものです」
 この国で以前、自分の思うままに軍を動かそうとした高位貴族が勝手に文書を乱発し混乱をきたした前例があったため、騎士団には必ず行政官が数名所属するようになった。その中でもレイン行政官はまだ若いながらも有能で、何度も不正を摘発している。
「・・・ということは、私の嫁入りは確定ってことね」
 早馬が飛んでしまったのだ。
 王宮へ届いてしまえばあっという間に手続き完了だ。
「・・・俺がここにいればよかったな。そしたら確実に崖から馬ごと落としてやったのに」
「ルパート・・・。気持ちだけで十分だから」
 幼子が母に甘えるかのようにぎゅうぎゅうと抱きしめられ揺さぶられながら、弟が館にいなくてよかったとナタリアは遠い目をした。


「それで、これが婚姻契約の内容ですね」
「ええ」
 甘ったれの弟を引きはがしたナタリアはレイン行政官へ顔を向ける。
「もう、これって・・・。うますぎるなんてものじゃないでしょ」
「あからさまに裏があると言っているようなものですね」
 ウェズリー侯爵家からは結納金として、提示したのは以下である。
 まずは金銭に関わる条項が二つ。
 領地経営に関わる借金の一括返済(侯爵家が金貸しに直払い)。
 ちなみに今回持ち込まれた大金は太っ腹なことに支度金という名目らしい。
 そして、権力を使っての優遇措置。
 ダドリー家三男ジュリアンの王立学院の特待生制度利用の口利き。
 学院寮費免除と、生活における待遇改善。
 さらに今年度分の領地税金納付の猶予を国にかけあい、すでに了承されたという証書。
「ここまでくると・・・。めちゃくちゃ格差感じるわね」
「そこか」
 兄が苦笑する。
「いや、これが大公閣下にとってはした金ってことでしょ」
 こちらは税金滞納で領地返還の危機に瀕しているというのに、ぽんっと一括払い。
 しかも、成績は常に上位であるにもかかわらず放置されていたジュリアンへの待遇改善と財務省への口利き。
 息子可愛さにしても、その権力の使いっぷりには驚くばかりだ。
「それに対して、ダドリー家に対する要求は、使者一行と明日には王都へ向かって出立し、邸宅に着き次第婚姻すべし、とはね」
 挙式は到着一週間以内。
 それのみである。
「持参金はなしで、衣類装飾は全てこれから侯爵家で誂えるから道中に必要な荷物のみ支度しろってね・・・。猫の子じゃあるまいし」
 懐の広さをアピールしているように見えて、うさん臭さがここでもちらつく。
「まあ、この貧乏伯爵家から持ち出せるものなんてないのだから、そこは正論だと思う」
 かろうじて義姉の持ちものには手を付けないでいるが、ダドリー家に伝わる宝飾品をはじめとするぜいたく品はほぼほぼ売りつくした。
「なんにせよ、この契約書から読み取れるのは・・・」

『何が何でも早く、ローレンス・ウェズリーとナタリア・ダドリーの婚姻を執り行うこと』
 これに尽きる。
 
「とにかく、ウェズリー侯爵がなにかやらかして、目くらましがしたいだけなんだろうけれど・・・」
 最初、ナタリアとトーマスは名ばかりの婚約者が欲しいのかと思った。
 こんな底辺貴族が大公家の嫁になれるはずがない。
 独身で条件の良い高位令嬢ならいくらでもいるだろう。
 ほとぼりが冷めたら適当な理由をつけて婚約解消または破棄をして、しかるべき女性と正式に婚約するのではと、希望を持って推測したのだが甘かった。
 彼らは本気だ。
 ナタリアを正式に妻として据える気まんまんだ。
「こんなに釣り合いの取れない結婚を、あの、大公閣下が指示って、まずありえないでしょ・・・」
 権威至上主義の塊と名高い老大公が。
「すぐ、っていうのも気になる点ね。お義父さまの懇願も全く聞き入れてくれなかったのだから」
 ディアナは首を傾げ、眉をひそめた。
 これから領内は大規模な収穫期に入る。
 猫の手も借りたいくらい忙しい。
 とにかく領民総出で一気に収穫せねばならないのはもちろん、成果物を狙った盗賊を警戒し、昼夜を問わず巡回警備に当たるのが恒例になっている。
 農民のみならず、ダドリー家直属の騎士と辺境騎士団が協力し合い、ここ数年はなんとか被害を最小限に食い止めているありさまだ。
 そんなさなかに王都で挙式。
 往復に約一か月かかるとなればこちら側から誰も出席できないので、せめて冬のくる直前に伸ばしてもらえないかと親心を前面に出して頼んでみたものの、グラハム卿の返事はにべもない。
『王都におられるジュリアンさまが出席なされば十分ではありませんか』
 ダドリー家代表が15歳の学生。
 立会人として、頼りないにもほどがある。
 簡素な挙式になることは間違いない。

「ねえ、どう考えても私、殺されるのよね?」
「ナターシャ!!」
「ナタリア様!」
 男たちは顔色を変え、騒然となる。
「落ち着いて。大丈夫、私は簡単に死なないから」
 執務室近辺に騎士を置いて、使者たちに会話を探られないよう気をつけてはいるが、大声を上げて何か感づかれては困る。
「だから、一緒に考えて欲しいの。ウェズリーに殺されないように」
 朝が来るまでに。
 なんとしても見つけなければならない。
 ナタリアと、ダドリー家が生き残る手立てを。


「とりあえずこのルートと考えていいでしょう」
 レイン行政官は広げた地図の上を生真面目に一つ一つ指で辿っていく。
「馬車と言う点だけは変更なしだろうから道はそれしかないが、強行軍で数日縮めてくるだろうな」
 ベインズ団長が顎に手を当てて頷く。
 全行程馬車ならば整備された道しか通れない。
 だとしたらやはり二週間程度かかるだろう。
 各都市で休息を取りつつ進んだとして、どこに宿泊するかが気になるところだ。
「全力疾走で走らせて馬と馬車と従者を乗り潰し、各都市で交換しながらぶっ続けなら十日で行けるかもしれませんよ?財力に物を言わせればなんとでもなります」
 ウインターが首をすくめると、長い金髪がさらりと頬に落ちる。
「花嫁を載せているのに?」
 む、とルパートが口をとがらせる。
「こちらが拒否したら麻袋にでも詰めていくつもりだったのでは?」
「・・・たしかにやりかねない」
 ウインターの冴え冴えとした切り返しに眉を下げた。
「いや、替えが効かないのが一人いる」
 ベインズ団長の低い呟きに側近たちは顔を上げる。
「あ、そうですね」
「なるほど」
 花嫁よりも大事な者、それは。
「・・・グラハム卿」
 あの蛇面は大公家の執事の弟だという情報を先ほど手に入れた。
 子爵家で所領はわずかだが、財力はダドリー家をはるかにしのぐ。
 ようは大公家の様々な仕事を請け負い、確実に貢献しているからだろう。
 それほど重宝されている彼が直々に交渉しているということは・・・。
 ろくでもない未来しか想像できない。

「あの老害、不死身なのかしらね。もういい加減くたばってもいいころなのに」

 ディアナは憎々し気に地図の中心にある王都を睨む。
 彼女の実家は代々宰相や大臣など輩出するほどの家格だが、ずっとウェズリーを中心とした王族に煮え湯を飲まされ続けている。
 ウェズリー大公は子沢山な先々代の王の、最後の息子だった。
 老いた父親に溺愛され、次代を継ぐ王太子をしのぐほどの権利を与えられた。
 それゆえに、彼は先代(兄)、現国王(甥)の目の上のたんこぶとして君臨し今に至る。

「死の床で、どうして最愛の息子を一緒に棺桶に入れてくれと遺言しなかった、好色王・・・」
 トーマスは頭を抱えた。

 先々代の王は歴史書に残る諡は『征服王』だったが、『好色王』と民に呼ばれた。
 彼は近隣の国を征服して国土を広げるのが三度の食事より好きだったが、それと同じくらい女を征服するのも好きだった。
 結果、愛妾と子供の数の多さにおいてレーニエ王国建国以来だ。
 見込みのない者は修道院へ押し込め、駒として使える者はカードの一つとして国内外の有力者と婚姻させた。
 それにより国としての力は堅固なものとなり、繁栄を極める。
 しかし、とんでもない置き土産があった。
 ウェズリー大公を中心とした派閥の成立だ。
 彼は生母の出自が低いため継承権だけは得られず、どうあがいても王にはなれない。
 腹いせに『征服王』の寵愛を盾にして、長きにわたり王の施政に横やりを入れ続けている。
 そして、己に逆らうものにはことごとく嫌がらせをすることに余念がない。
 父親から精力旺盛なところだけ遺伝した彼は、毎日元気に悪事にいそしむ。
 ただあまりにも多くを成したため、それらをほとんど覚えていない。

「ここの領主はもともとダドリーじゃないってこと、本当に覚えていないのね、誰も・・・」
 レーニエ王国の全体図を眺めてナタリアはため息をつく。
 もともとのダドリーは王の補佐と信頼され、領地も東南の肥沃な平野だった。
 様々な農作物が多く収穫できたため、とても裕福な生活を送れたらしい。
 ところが曾祖父が突然亡くなり祖父が当主になった時に事態が変わった。
 東南から西北への国替えである。
 成人して間もない祖父が王都で犯した失態の罰としてというのは表向きで、大公の親族の部下への褒美にされてしまったのだ。
 財産は没収にならなかったが領地経営の損害補填を繰り返しているうちに資金は尽き、没落貴族として次第に忘れられていった。
 もし記憶にあるなら、たとえ駒であっても孫を息子の嫁に据えようとは思いつかないはずだ。
「ダドリーを忘れるくらいだから、『俺たちも忘れてくれている』と思っていいんですかね」
 ウィンターは手を挙げた。
「なら、俺がまず先回りして途中から合流し、こっそりナタリア様の護衛兼連絡係につくことにしませんか」
「リロイ、しかし・・・」
「俺はトーマス様の兵士です。だから職務放棄にはなりません。団長ほどには飛ばせませんがいい加減この山岳には慣れました」
 軽い調子で提案するウインターをトーマスはみつめた。
 リロイは辺境騎士団のベインズ団長の指揮下で国境警備に当たっているが、ダドリーの直属だ。
「・・・大丈夫かい。リロイ」
 リロイ・ウインターは、四年前に大公がらみの問題を抱えてここへ逃れてきた。
「はい。俺にさせてください」
 この西の辺境はダドリーが就任して以来、うまみのない最果てであることを利用して隠れ里のような役割を担っている。
 傷つけられた者たちを生かすために。
「すまない、リロイ。今後の事はまた詰めるとして、とりあえず君に任せたい」
「はい、よろこんで務めさて頂きます」
 最初は、華奢で中性的な美少年だった。
 でも今は、騎士団の中でめきめきと頭角を現し、機転と身体能力においてルパート共にベインズに次ぐと言われるまでになっている。
 彼以外に任せられる人材はない。
「・・・では、ウインターが通るべき道を検証しましょう」
 眼鏡のブリッジを軽くおさえ、レイン行政官が再び口を開く。
「この時期なら、ここの騎士団は・・・」

 騎士団とトーマスが頭を寄せ合い論議を始めると、ディアナがナタリアの手を引いて隣の書斎へ導いた。
「移動に関しては男たちの任せるしかないわ。それより身支度をしないとね」
「そうね・・・。トランク一つくらいしか許されそうにないけれど」
「必要なものはおいおいウインター卿あたりを通してなんとか届けさせるわ。王都の父にはもう伝令を飛ばしているし」
 ディアナの実家レドルブ伯爵家は宰相の流れを持つ家柄で、現在中立を保っているがウェズリー一派の転覆の機会を狙い続けている。
 そして、王太子妃はディアナの従妹でもある。
 そもそも貴族同士の姻戚関係はレースを編むかのように複雑なもので、そのつながりが国を支え、次代の力となる。しかしダドリーのそれはウェズリーとしては些細なことらしい。
「ありがとうございます。何から何まで」
 ナタリアは深く首を垂れる。
「感謝されるのはまだ早いわ、ナターシャ。私はね。あなたとトーマスと子供たちとここで暮らしたいの。ずっとずっと、楽しくね。そのためならなんだってやるつもり」
 ディアナは書棚の一つの鍵穴に鍵を差し込み、扉を開け、一番下の引き出しから布の袋を取り出す。
「とりあえずはこれを渡しておくわね」
 ナタリアの手を取ってぽんと載せられた。
「これは・・・」
 袋の口を開けてみると小さな蓋つきの瓶が入っていた。
 その中にはとりどりの綺麗な紙に包まれた親指の爪ほどの粒が10個ほど詰められている。一見すると、可愛らしいキャンディーだ。
「急な話で、今はこれだけしかないの。およそ十日分と言ったところかしら」
 月の光の差し込む窓辺で、ひそりとディアナは告げた。
「避妊薬よ。事後半日以内に飲みこめば大丈夫らしいわ」
「・・・!」
 ナタリアは目を見張る。
「白い結婚で済めばいいけれど、そうでない場合・・・」
 初夜だけでも執り行われる可能性がある。
 こんなことをディアナは言いたくないだろう。
 しかし。
「目的がわからない以上、とりあえずローレンスに従順であるのが生きる道・・・ってことね」
「・・・ええ」
 ナタリアは男を知らない。
 この国で二十歳の独身令嬢は売れ残りとみなされがちだ。
 高位貴族はおおむね幼少期からいいなづけがいて、そうでない者は成人と規定される16歳から二年ほどで嫁ぎ先が決まる。
 ちなみに田舎の平民の初体験はおおらかなので驚くほど早い。
 農作業ついでにさまざまな話を聞いてきたため、すっかり耳年増にもなる。
 とはいえナタリアは地元では一応、領主のお姫さま。
 身分を越えて言い寄るような者はいなかった。
 騎士団を始め男社会に混じって暮らしてきたけれどあくまで仲間としてで、甘酸っぱい思い出などなく、そもそも誰かにときめきめいたものも感じたことがない。
 恋も青春も。
 そんな時間がどこにもありはしなかった。
 落ち着いたら、いずれ・・・と思う暇もなく。
 なのにここにきて、いきなりこの展開。
 自分は肩書だけでも貴族だったのだと思い知らされる。
「ありがとう、肝心なことを忘れていたわ」
 ぎゅっと瓶を握りしめた。
「・・・結婚・・・、ねえ」
 笑うしかない。

 欠けても強い光を放つ月の前を、雲がよぎる。




 急いで厩舎へ向かうと、ちょうどルパートとウインターが馬を引いて出てきた。
「ナターシャ」
「ナタリア様」
 ベインズ団長とレイン行政官はこっそり館に残り、出立まで使者たちの動向を探ることにしたが、ルパートは少しでも早く山越えをするためにいったん騎士団の詰める砦に戻って支度することにしたと聞いた。
「ああ、良かった、間に合って」
 ナタリアはほっと胸をなでおろす。
 ウインターの前まで駆け寄ると、布バッグを差し出した。
「少ししかないけれど、途中で食べて」
 中には日持ちのするパンと干し肉が入っている。
「ありがとうございます、ナタリア様」
 ふわりと笑ってウインターはバッグを受け取り肩から掛けた。
「ウインター卿、執務室で私、動揺してしまっていて・・・」
 何もかもが突然すぎて、これからの事を思うと頭の中が停止してしまう。
 気が付いたらウインターへの特務依頼が決定していた。
「そうなんですか。俺にはわからなかった」
 ウインターの、優しい声が降りてくる。
 何から話せばいいのか、わからなかった。
 でも、謝るべきだ。
「ごめんなさい。私のせいで、これからあなたを危険な目に遭わせることになるかもしれない」
 いや、間違いなく。
 まだここで盗賊相手に戦う方がましだ。
 目的も手段も分からないのだから。
「いいえ、斥候に名乗りを上げたのは俺ですから。知らせを受けた時からそのつもりでしたよ」
「でも・・・」
「心配、ですか」
「ええ、もちろん」
「よわったな・・・」
 くすりと笑われ、見上げる。
 一つ下なのにあっという間に成長し、今ではナタリアより頭一つ高い。
 月を背にしたウインターの表情はよくわからない。
 ただ、通り抜けた風にあおられた金の髪がきらきらと舞うのを目で追い、綺麗だと思った。
「ナタリア様にとって、俺はまだ小さなリロイですか?」
「・・・いいえ。あなたは十分に強くなった」
 ここに来た頃は剣の扱いはたしなみ程度だったため、実戦で鍛えた農民の子どもたちにこてんぱんにされていたが、それでもあきらめずに訓練に励み、今や騎士団でなくてはならない存在になった。
「私の警護のために砦から引き抜くのが惜しいくらいに」
 すっかり大切な存在になってしまったから思うのだ。
 リロイ・ウインターを巻き込みたくないと。
「ありがとうございます。あなたの気持ちは嬉しい。すごく。でもね」
 ふいに風が遮られた。
「俺はこれからも強くなってみせるから。俺をもっと信じて、ナタリア様」
 息のかかるような近さに、ウインターの端正な顔があった。
 白い頬、すっきりと通った鼻筋、金色の長いまつ毛、そしてエメラルドのような緑の瞳は濃く深みを帯びて見える。
「俺に、あなたのそばでお仕えする権利を、どうかどうか、お許しください」
「ウインター卿」
「クリストフ・リロイ・ヴァンドゥーズです。ナタリア様」
「あ・・・」
 気が付いたら、指先を彼の手にすくい上げられていた。
「私、クリストフ・リロイ・ヴァンドゥーズは、ナタリア・ルツ・ダドリー様の盾と剣となることを誓います」
 止める間もなかった。
 まるで歌の一節を歌うかのように唱え、ナタリアの指にゆっくりと唇を落とす。
 かすかな熱を指先に感じ、ナタリアは息をのんだ。
「リ、リロイ・・・」
「許すって、言って?ナタリア様」
 唇をまだ指先に当てたまま、悪戯っぽく笑う。
「許してくれるまで、放しません。指の一本一本に口づけしますよ?」
 言いながら、本当に指のあちこちに軽い口づけを繰り返す。
「ちょっと・・・」
 しっかり握り込まれ、振りほどけない。
 この子は幼いころから宮廷に出入りしていたのだ、こういう時はかなわない。
「・・・わかった。負けたわ」
 ナタリアは深々とため息をついた。
「クリストフ・リロイ・ヴァンドゥーズ卿。あなたを頼りにします。これからよろしくね。ただし、一つだけ条件があります」
 大きな声は出せない。
 深く息を吸い、全身から力を放つようなつもりで、言葉を紡いだ。
「あなたも誓いなさい。絶対、なにがあっても、死なないと。私を残して死ぬことだけは許しません。これが守れないないような弱い男はいらないわ」
 最後の一言に、今までずっと馬と一緒に傍観していたらしいルパートが吹き出した。
「ははは。ナターシャがどんなときもナターシャのままで、嬉しいよ俺は」
「ルパート、うるさい。ちょっと黙ってて」
 ナタリアは手を取られたままという間抜けな格好のまま、空いているほうのこぶしを握り締め弟を睨みつけた。
 正直、途中からルパートの存在を忘れていた。
 一部始終を見られた恥ずかしさが今になって押し寄せる。
「リロイ、どうするの。できないならなしよ」
「待って、ナタリア様、待って。誓います、もちろん」
 手を抜こうとすると、捨てられることにおびえる犬のような悲しい瞳で見つめられ、今度は罪悪感がわいてくる。
「死なないよう、努力します。だから、ナタリア様も生きてください」
「わかったわ。許します。だからお願い手を放して」
「あ・・・っ。すみませんでした」
 先ほどまでナタリアを翻弄した宮廷仕込みの騎士っぷりはすっかり消え去り、ルパートと同列まで下がったことに、内心ほっとした。
「ああ、それと大事なことを忘れていたわ」
 握り込んでいた革袋を、ウインターに渡す。
「金が入用な時にこれを使って。小さいけれどそこそこの金額に化けるはずだから」
「拝見します」
 ウインターは手の中の革袋のひもをとして開いた
「これは・・・」
 横からルパートも覗き込む。
 中にあるのは、見慣れない色をした複数の小さな石。
「貴石が出たの。第三採石場から」
 最近騎士団に加わった騎士の中に地質学に詳しい者がいて、領地を案内した折にその採石場から宝飾に使える貴石が取れるかもしれないと言われ、掘り進めているうちにみつけた石のいくつかを持たせることにした。
 商館なら、宝石の鑑定士がたいていいるのでそこで換金できるからだ。
「わざとカットしていないものにしたの。大量の金貨を持たせるより安全でしょう」
 価値がわからなければ、ただの石ころだ。
「もちろん、ディアナさまが送金してくれるはずだから、それも利用して。これは偶然手に入った妖精の贈り物のようなものだから、なくしたとしても別に構わない。いちかばちかの予備費と思って」
「わかりました。お気遣いありがとうございます」
 革袋の口を閉め、腰のベルトにひもを通してポケットに入れた。
「じゃあ、私は行くわ。ウェズリーに見つかったら面倒だから」
「ナターシャ、待って」
 ルパートがナタリアを抱きしめ、頬に口づける。
「ナターシャ、またね」
「また戻ってくるんでしょ」
 ルパートはウインターを送りだしたらまた館ヘ戻りナタリアと過ごす予定だ。
「うん。だけど、俺も頑張るご褒美ほしい」
「はいはい」
 背中を軽く何度か叩いて、精悍な頬に唇を軽く押しあてた。
「ありがとう、ルパート、気をつけて」
「うん」
「それじゃあ、ウインター卿も気をつけて」
 二人に手を振り、また駆け足でナタリアは去っていった。


 ナタリアの去る姿を見えなくなるまで、騎士然とした姿勢で見送り続けたウインターは、いきなりがっくりと膝を抱え座り込んだ。
「ああ。もう。なんであそこで割って入るかな。けっこういい雰囲気に持っていけたところだったのに」
 ルパートは後ろから背中を軽く蹴りを入れた。
「ずっと黙っていてやったじゃん。俺の忍耐に感謝しろよ」
 親友のよしみで邪魔をしないでやったのだ。
 ついでに馬の面倒を見てやっていたし。
 やさしさの大盤振る舞いもいいとこだ。
「結局、指ちゅうしかしてねえじゃん。このヘタレ」
 優雅に見せているが、あまりにも奥手すぎて驚愕した。
 え、そんなんでいいの?
 もうちょっとやっても今日は許すけど?と、思ったがさすがに口には出せない。
 しかもその程度で動揺したナタリアに、日々雑草を刈り取りることにまい進し過ぎたと己の愛を深く悔いた。
「ファーストキスは、さすがに弟の見ていないところでしたい・・・」
 ルパートの脳天に衝撃が走る。
 こんなに乙女全開でこの男はこれから先生きていけるのか。
「そこか・・・」
 ナタリアに対してはこんなんだが、いい奴だ。
 リロイになら、ナタリアを任せてもいいかなと最近思うようになった。
 三人で仲良く、この土地でずっと暮らすのはなかなか良いではないか。
 そろそろ後押しするかと様子を伺っていたらこれだ。
 顔だけしか評判を聞かないクソ侯爵との偽装結婚に差し出さねばならない、最悪の事態だ。

「あー、今度の試合こそ団長から一本取って、収穫祭には告白しようと思っていたのに・・・」
 晩秋におおよその収穫と加工を終えたら、雪が降る前に盛大な祭が数日間開催される。
 互いに慰労しあいと神への感謝するための祭りだが、縁結びとしての役割の方が強い。
 独身の者たちはこの祭りで出会い、関係を深める。
 恋愛を始めるには最高の機会だ。
「いや、告白はとっくにしたじゃん、一回」
「あれはなし。そもそもナタリア様の記憶からきれいさっぱり消えてる」
「まあなあ・・・」
 膝に顔をうずめて嘆き続ける金髪のつむじを同情たっぷりに見つめる。
 リロイは最初、単に療養としてダドリー家に身を寄せただけだった。
 しかし館に滞在して数日で、ナタリアの手を取り跪いた。
「初めて会った時から好きです。結婚してください」
 リロイ・ウィンターは偽名で、正しくはクリストフ・リロイ・ヴァンドゥーズ。
 中道派の伯爵家の次男で、どちらかと言えばあちらの方が家格は上。
 リロイは未成年だったが、婚約は十分成立する。
 しかし、ナタリアは首をこてんと横にかしげて答えた。
「・・・まずは、手合わせ、してみましょうか」
 ダドリー家の庭で家族と騎士団の立ち合いの元木刀での試合が行われた。
 結果、ナタリアの勝ち。
 王都ではそこそこの成績だったらしいリロイは呆然としていた。
 自分と体格の変わらない16歳の少女にあっさり負けたのだ。
 しかし、すぐに気を取り直して今度は立ち合いをしたベインズ団長へ突撃した。
「私を騎士団に加えてください。死ぬほど頑張ります。強くなって、またナタリア様に申し込みたいです」
 それでリロイが健康になるなら良いかと周囲は考え、認められた。

 そしてナタリアの知らないところで、領主トーマスと弟ルパートが発足した秘密の協定が出来た。

 『ダン・ベインズを倒さねば、ナタリア・ダドリーを口説いてはならぬ。』

 女としての人生で一番美しいはずの十代に、ナタリアは色恋沙汰と無縁だった。
 けっして魅力がなかったわけではない。
 むしろ、彼女を崇拝している男はいくらでもいる。
 単に、誰もダン・ベインズという高い壁を越えられないだけだ。


 最後の糸止めを念入りに施して糸を切ると、窓からの風を感じた。
 草木と土の匂いにまじって、心地よいかすかな香りに気付く。
「そういえば・・・」
 縫い終えた衣類を畳んで開けたままにしていたトランクにしまうと、ナタリアはそっと部屋を出た。
 夜明け前の空にはまだ星が残り、館全体が静まり返っている。
 厨房の者も目覚めるのはあともう少し後だろう。
 薄靄の中を迷いなく香りを辿っていくと、庭の一角にたどり着く。
「咲いてくれていたのね」
 乳白色にほんのり薄紅を溶かしたような優しい姿の薔薇が咲いていた。
 たった一輪なのに、清らかな香りがナタリアを優しく包み込んだ。
 秋の薔薇はぽつりぽつりと控えめに咲く。
 しかも旬の時期はまだ先のはずなのに、花を付けてくれていた。
「ありがとう。何よりのはなむけだわ」
 くん、と匂いを嗅いで、思わず笑みをこぼした。
「・・・ナタリア様」
 遠慮がちにそっとかけられた低い声に、振り向く。
「お身体は大丈夫ですか。寝ていないのでは」
「あなたもそうではありませんか?ベインズ団長」
 騎士団の誰よりも大柄な男の顔を、下から覗き込んだ。
「我が家の問題につきあわせてしまって、ごめんなさい」
 ベインズは国の所属で、本来ならばダドリーには何の関係もない。
「いえ。こんな時に私にまで気を遣わないでください。ナタリア様は私たちにたくさん尽くしてくださいました。なのに何一つ恩を返せていない」
「・・・もったいないお言葉、いたみいります」
 銀にも見える薄い灰色瞳に影がさす。
 わずかに寄せられた赤毛の男らしい眉に、彼の感情が少し浮かんでいるような気がして少し暖かな気持ちになった。
「・・・あのね。テレサ様の薔薇が咲いてくれていたの。ほら綺麗でしょう」
 わざと砕けた口調で丹精込めて育ててきた花を手で指し示す。
「・・・ああ、そういえば花の匂いが」
「あら、今頃?」
 軽く首を傾け、ふふと軽く笑い声をあげた。
「・・・テレサ様の命日にこの花を手向けたかったのだけど、無理ね」
「ナタリア様」
「お義姉さまにこの花をお願いしておくから、私の代わりにテレサ様に届けてくださる?」
 森を分け入った先の見晴らしの良い丘に、ダン・ベインズの妻テレサの墓がある。
 儚い、淡雪の精のような容姿の、静かな人だった。
 どれほど時が流れても、忘れられない人。
 ダンにとっても、ナタリアにとっても。
「承知しました。お気遣いありがとうございます」
「・・・じゃあ、いくわ。テレサ様に必ず伝えて。大好きです、と」
 不器用なダンの代わりに、テレサへの言葉をナタリアは口にする。
 何度でも、言えば良かったのに。
 そう、思う。
「・・・ナターリア」
 静かで、深いところまで落ちてくる声。
 懐かしい呼び名に、胸が暖かくなった。
「ありがとう、ダン」

 あの方への想いが、私たちをつないでいる。


 朝もやの中に紛れ込んでいく凛とした後ろ姿を見つめ続けた。
 彼女は、いつの間にこれほど強く大きくなったのだろう。
「・・・つくづく、腹立たしいほど不器用ですね、あなた」
 傍らの木立からゆっくりレインが現れる。
「ナタリア様が二十歳になった時にせめてあなたが婚約を申し込んでくれてたならば今回の事態は避けられたと、トーマス様も思っておられることでしょうね」
「そんなことはない。後添えではナタリア様が気の毒だ」
 れっきとした伯爵令嬢なのに、爵位のない騎士でしかも再婚相手だなどと。
「少なくとも今のウインターでは役不足です。・・・というか、そもそもデビュタントのセカンドダンスに打診されてあなたが受けた時点で、決まったも同然だったでしょうに」
 四年前のナタリアのデビュタントはエスコートこそ兄のトーマスが務めてファーストダンスまで踊る予定だったが、ちょうどその時に団長へ昇進したダンも王宮にいたため事前にセカンドダンスの相手を依頼され、承諾していた。
 しかし、ダンスが始まる間もなく王宮周辺が激しい雷雨に見舞われ宴どころでなくなったため、騒然とした会場の片隅で三人、小さな円卓を囲んで食事を楽しんで終わった。
 強烈な思い出として今でも語り草だが、踊らずに終わったことをナタリアがどう思っているのかわからない。
「俺には、テレサがいる・・・」
 ナタリアと出会ったのはまだ十代そこそこのころだ。
 細くてしなやかな身体で少年のように野山を駆け回っていた。
 兄のような、父のような気持ちで成長を見守ってきた。
「テレサ様が亡くなってもう8年ですよ。しかも・・・」
「レイン行政官、そこまでだ」
 低い声で遮る。
「テレサを、侮辱しないでくれ」
「すみません、言い過ぎました。まあ俺も、もし妻がなくなった時自分がどうなるのかわかりませんからね・・・」
 レインは深々とため息をついた。
「それでも、どうしても思ってしまう。もし、ナタリア様をつかまえてくれていたらと」
 レインはダンよりこのダドリーでの生活が長い。
 そして、誰よりも聡い。
 だから、考えなしの発言ではないことはわかっている。
 しかし。
「・・・いまさらだ」
 はかない紅の膜をまとった薔薇に視線を落として呟く。
「・・・そうですね。今更ですね」
 しかし、レインは言わずにいられない。
 せめて、せめて、もう少し。
「でもダン、これは王もご存じでない偽装結婚だとしたら?」
「・・・まさか」
 王に忠誠を誓う身として、王命は絶対だ。
 しかし大公からの手紙は王命だということを匂わせただけで、書類のどこにも王直筆の文字はなかった。ならば事後承諾、最悪大公の記憶違いということで終わるかもしれない。
 先代から王たちは舐められている。
 辺境伯の娘の命一つ、いかようにもなるだろう。
「ディアナさまはその可能性が高いとみています。ナタリア様も最初から」
 ディアナは幼いころから両親に伴われて宮廷に出入りしていたため、誰よりも暗部を知っている。
 ナタリア本人はただの勘らしいが、彼女の洞察力はダドリー随一だ。
 グラハムの任務は挙式を行うことだと判断したからとりあえず署名したまでのこと。
「ようは、ナタリア様がテレサ様と同じ道をたどらされる可能性があるということです」
 散々弄ばれて、命を散らした女人のように。
「・・・いつまでも、死んだふりをしている場合じゃありません、ダン・ベインズ」
 レインはいきなりベインズの腹に手加減なしの拳を繰り出した。
 鈍い音が二人の間に落ちる。
「く・・・」
 レインの外見は見るからに文官だが騎士として欠かさず鍛錬しており、実力はベインズの次だ。
 本気で殴られればそれなりにダメージがある。
「・・・これは、効くな・・・」
「まったく。こっちは無駄に手を痛めてしまいましたよ。あなたの鋼鉄の腹にぶつけるなんて狂気の沙汰だ」
 少し前かがみになったベインズに冷ややかな視線をくれてやる。
「いい加減目を覚ましてください。あなたには今までさぼっていた分仕事をしてもらいますよ」
 言うなり、ダンに背を向けさっさと歩き出す。
「レイン」
 声をかけると、レインは立ち止まって振り返る。
「なんですか」
「・・・すまなかった」
 ダンは心からの謝罪を口にした。
「そう思うなら、行動で示してください、今すぐに」
 冷たい口調とは裏腹に、心から案じてくれているのがわかる。
「ありがとう、カーク」
「どういたしまして」
 さあっと風が通り抜けた。
 空の星はなくなり、空が明るさを増していく。
 あたりに満ちていた朝靄も花の香りも押し流されて消えた。


 -つづく-


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