バレンタイン・ラプソディ-3- 



 

 一瞬にして、火が灯る。
 「和基さん」
 ふいに、横抱きにされた。
 江口の身体が、熱い。
 目眩がする。
 寝室へ連れて行かれる直前にソファを横切ったため、紙バッグが目に入った。
 なんとか腕を伸ばして指先に紙バッグを引っかけることに成功したが、ほっとする間もなくベッドの上へ投げ出される。
「ん・・・」
 仰向けになった池山の上に江口がゆっくりと覆い被さった。
 自分の心臓の音が部屋いっぱいに響いているようで急に恥ずかしくなり、首をすくめる。
「こっちを向いて下さい」
 大きな手が両頬を包み込み、逃げを許さない。
 いつもと変わらない、いや、いつもよりもずっと情熱的なキスが唇を攻めてくる。
「コウ・・・。耕」
 吐息の合間に、名前を呼んだ。
「・・・和基さん」
 耳の後ろを吸われて、背中が弓なりに反る。
「あ・・・。あのさ、ちょっとまって、耕」
 すっかり固まった互いの腰が触れ合い、喉を鳴らした。
「どうして・・・?」
 熱い囁きに流されそうになりながらも、なんとか掴みなおした紙の紐を引き寄せた。
「これ、耕に」
 震える指先で箱をとりだして差し出すと、眼を細めて江口が笑う。
「ありがとうございます」
 額に、鼻の頭に、頬に、唇にキスが降ってきた。
「開けて、良いですか?」
「うん」
 乗り上げた身体もそのままに、箱を受け取った江口はリボンを解く。
 耳元に置かれた箱からかさかさという紙の音が聞こえるが、池山は動くことも言葉を発することも出来なかった。
 意外に器用な指先があっさりと箱を開き、チョコレートの濃厚な甘さがふわりと鼻をくすぐる。
「おいしそうですね」
 江口はビターなトリュフチョコレートが好きだ。
 だから、冷蔵ケースに並べられた商品の中からトリュフチョコレートのみを詰めた物を選んだ。
「・・・食べて」
 渇いた喉から、なんとか呟きを絞り出した。
「はい」
 箱の中から一粒摘み上げ、かり・・・と囓る音を、ボタンを外したシャツの間から覗く鎖骨を見つめながら聞いた。
「おいしいです。ありがとうございます」
「うん」
 かなり洋酒を利かせているのか、強い香りが唇に降ってくる。
「う・・ん」
 深く、唇を合わせられ、舌を絡められる。
「和基さんも・・・」
 ガナッシュが、溶けていく。
 溶かしているのは自分の口の中なのか、江口の口の中なのか、解らない。
 舌の動きと同じように身体を絡め合ううちに、肌が欲しくなり、唇を合わせたまま脱がせあう。
 身体が、熱い。
 カカオとブランデーと、自分たちの吐息と汗が混じり合った。
 カリ・・・。
 また一粒、江口がチョコレートを囓る音が聞こえる。そして、ひやりとした異物を両胸に感じて視線を落とすと、尖りきった乳首に割られたトリュフを押し当てられていた。
「耕・・・っ、あっ・・・」
「あなたも食べて下さい」
「あっ、あっ、この、ば・・・っかっ・・・」
 抵抗したくても下半身はしっかり押さえ込まれ、身をくねらせればますます胸を突き出す結果になってしまった。ぐりぐりとガナッシュを練り込まれ、その両手を止めようとするが、却ってねだるようにしか見えない。
「あっ、あっ、あ・・ん」
 勝手に声が上がってしまう。
 ガチガチに固まって勃ちあがった性器からとろりと白い液がにじみ出す。
「おいしいですか?」
「こんの、やろ・・・っ、どこでこんなこと覚えた。俺だってやったことない・・っ!んっ」
「俺だって初めてですよ。でも、せっかく和基さんが、食べてと言ってくれたから・・・」
「ばか・・・っ。俺の身体にチョコレート食わせてどうする」
 言い合っている間にも円を描くように塗り込められて、ガナッシュが蕩けていく。
「あなたごと、いただきます」
「やっぱそれか!!このエロ犬!!」
 罵る唇をあやされて互いの濡れた性器を刺激されているうちに、いつのまにか江口の両手に自らの両手を絡めて、一緒に自らの胸を刺激してしまう。
「あ・・・っ。だめ、だめだって・・・」
「和基さん・・・」
 耳も、甘い香りに犯された。
 つるりと、自分の指で先端を弾いてしまう。
「あんっ」
 叫ぶと、指ごと乳首を口に含まれ、すすり上げられる。
「もっと、もっと、舐めて、コウ・・・」
 大きな口で乱暴に食まれ、足のつま先が電気が走ったようにびくびくと痙攣する。
 江口に貪られてから、自分はどんどん変わった。
 もともと性欲に弱いたちだと思っていたけれど、それは興味半分のお遊びのようなものだった。
 触って、触られることをこんなに欲したことがかつてあっただろうか。
 欲しくて、欲しくて、たまらない。
「こう・・・。コウ、コウ・・・っ」
 唾液とカカオバターで濡れた指を後にあてて、自ら慰める。
「食べて、挿れて・・・。なあ、ちょうだい、コウ・・・っ」
 膝を大きく開いて、手指を一本、二本と出し入れしてみせる。
「なあ・・・っ」
 我慢が出来ない。
 彼の視線も、欲望も、全てをここに収めてしまうまでは。
「和基・・・」
 ぽつりと、名前で呼ばれ、それだけでものすごく感じてしまった。
「ん・・・。あっ・・・」
 ふるりと、温かい液がこぼれ出して池山の臍を濡らす。
「和基さん・・・」
 軽く達してしまうのを待っていたのか、江口の怒張がようやく押し入ってくる。
 まだ十分にほぐしたわけではないからごりごりと固い棒で擦られて少し痛みを感じたが、その先の快感にたいする期待の方が勝った。
「もっと、もっと、もっと、コウ」
「ここ、ですか?」
「うん、そこ、そこそこ、そこっ!!ああっ」
 揺さぶられて恍惚となる。
 強く突かれて、ぐらぐら揺れながら、震える指で自分の胸をいじる。
 ピンと立った乳首を指で摘むともっともっと気持ち良くなり、離せなくなった。
「あ、いい、いい、すごくいい・・・」
「俺も、すごく、いいです・・・」
 舐められて、もみくちゃにされて、高みを駆け上がる。
 甘い香りに酔わされて、朦朧となりながらも先をねだってしまう。
「あっ、ああん、あん、もっと、コウ!」
「和基・・・っ」
 両手で腰を掴まれ、最奧まで一気に貫かれる。
「・・・っ!!」
 最後は、叫んだつもりだったけれど、声にならない。
「す・・・」
 好きと、言いかけた唇を強く吸われた。
「愛してます」
 コイツにはかなわないな。
 それを嬉しいと思いながら意識を手放した。


 己の腹の虫の訴えが盛大に聞こえ、間髪おかずに江口が吹き出したのを額の辺りで感じた。
「・・・お腹空いた・・・」
 干物のように腹と背中がくっついているハラヘリだったが、瞼がまだ重い。
 目を閉じたまま、とりあえず文句を言う。
「夕食、トリュフ一箱でしたからね・・・」
「え?ひとはこ?おれたち、アレ全部食ったの?」
 ばちり、と音を立てて瞼が上がった。
 眠りの国へ戻りかけていた意識も一気にクリアーになる。
「はい・・・?そうですね」
「うっわー。すんげえ、贅沢な・・・」
 たった数粒のために諭吉が財布の中から旅立ったのは記憶に新しい。
「贅沢な?」
 無邪気に覗き込む江口の首を掴んで引き寄せた。
「・・・贅沢なセックスだったな」
 ちゅ、と唇を合わせると、また、江口の指先が悪戯を仕掛けてくる。
「おいこら、ちょっと・・・。俺は腹が減ってるんだってば・・・」
「後で、なんでも好きな物を作りますから、ちょっとだけ・・・」
 シーツも取り替えられ、身体も洗われた筈なのに、ベッドの上にはチョコレートの甘い香りがどことなくまだ残っていた。
「あ・・・ばか・・・。もう無理だって・・・」
「ちょっとですから大丈夫」
「う・・んっ、あ、もう・・・。んんっ」
 冬の柔らかい日差しの差し込む寝室で、ついつい、じゃれ合ってしまう。
「コウ、コウ・・・。そこはだめだって・・・」
 口では抗いつつ、太股を挟んで江口を誘おうとしたその時。
 エントランスからのチャイムが鳴った。
 そして、それと同時に池山の携帯電話も鳴る。
「え?」
「はい?」
 二人が顔を見合わせていると、更に江口の携帯電話も鳴り始めた。
「・・・出なきゃ、駄目ですかね・・・」
「俺としては、無視したい所なんだけどさ・・・」
 互いの下半身を見下ろし、ため息をつく。
「・・・なーんか、やな予感がするんだよね。出ても、出なくても」
 とりあえずドアチャイムは無視をして、互いに電話を手に取ることに決めた。
「はい、池山」
『取り込み中、邪魔して済まない、長谷川だ』
「長谷川・・・?確かに思いっきり取り込み中に電話ありがとう。で、どしたの?」
 隣では江口も応対している。
 どうやら相手は立石らしい。
『お前、あいつのチョコレート、買ったんだってな。わざわざ並んでまで』
「え・・・?あいつって、どいつ?」
『マリオ・カッシーニ。さらに赤い薔薇の花束とキスまでもらったんだってな』
「え?キス?」
 早々に会話を切り上げたらしい江口が、いつの間にか聞き耳を立てていた。
「わーっ!!うっわーっ!!今のナシ、ナシナシ、ナシ!!」
 予備校講師時代に培った長谷川の滑舌の良さを、今は思いっきり呪う。
『・・・落ち着け。今はそっちはたいして問題じゃない』
「いやいや、たいした問題だから。俺、あいつにほっぺた汚されて、ハートブレイクだから!!」
『そうか、それなら話は早い。そっちに来てるから、マリオが』
「・・・は?」
『慰謝料の交渉でもしてろ。私も今から行く』
 ぷつっと、返事を待たずに回線を切られ、呆然と座り込む。
 隣には、複雑な顔をした江口。
 リビングではしつこくドアチャイムが鳴り、ベランダの下はなにやらにぎやかだ。
「・・・なんなの、昨日と言い今日と言い・・・」
 もそもそと、ベッドから足を下ろす。
「長谷川も来るらしいから、下へ降りるぞ」
「はい」
 従順に答えながらも江口は背後から首筋に歯を立てた。

 ドアホンに出ないまま着替えてエントランスへ降りると、憎きイタリア人がドアガラスの向こうで陽気に手を振っていた。
「はい、ハニー!!」
「あいつ、ほんとにイタリア人か・・・」
 いや、小脇に抱えたピンクの花束は池山の思い描く軟派なイタリア人像だ。
「どういうことなんだ、これ・・・」
 同じく慌てて降りてきたと思しき立石が横に並ぶ。
「なんだよ、なにがあったわけ?」
 更には、片桐まで降りてきている。
「片桐・・・。なんでお前まで・・・」
「んー。なんか、詩織がわけわかんない電話してきてさあ、今。あのイタリア男、池山知合いだったのか?」
「いや・・・。記憶にない・・・。というか、昨日のことも俺は消去していたところだ」
「だろうとも・・・」
 片桐と会話を交わしている間もマリオはなにやらイタリア訛りの英語でまくし立てている。
「怪しくないから入れてくれって、思いっきり怪しいよな、今度はピンクの花束抱えてきてるってのに」
「開けたくない・・・。だけど、開けないとうるさいよな・・・」
 大柄で見た目も結構美男子のマリオは土曜日の朝とはいえそこそこ人の通るマンションの入り口で注目を浴びていた。
 中には、彼が有名なショコラティエだと気が付いたような女性もいるようで、スマホで写真を撮ろうと機会を狙っている。
 と、そこへ、黒い長身の影がさっと横切り、だん、とガラス戸を叩いた。
「開けろ」
 女王陛下の命令に逆らえる者などいるはずはなく。
「・・・はい、ただちに・・・」
 扉を開こうと一歩足を踏み出したその時、隣に立つ女が誰なのか気が付いたマリオはあろうことか花束を持った手ごと長谷川にハグをした。
「ショーウ!!アイラブユーッ!!」
 ぎゅうぎゅうに、抱きしめている。
【ほっとに、相変わらず節操ないな、アンタは!!】
 腹に鉄拳を繰り出し、ギャラリーのどよめきが聞こえる。
「・・・入れよう、とりあえず俺の家に。もう、ここまで来たら入れるしかないだろ」
 地の底から絞り出すような声が立石の唇から漏れる。
 エントランス内の男子三人は、石のように固まったまま、かっくんかっくんと肯いた。

【エージェントに調べてもらった部屋のチャイム鳴らしたんだけど、なんか間違っていたみたいでごめんねー】
 HAHAHAと、歯を見せて笑いながら江口の手を勝手に握ってシェイクハンドする。
「いえ・・・。間違いはあることですから・・・」
 気圧された江口は実に日本人的対応をしてしまい、後でそっと唇を噛んだ。
【ま、それでもショウとカズキに会えたから結果オーライ?】
 ラテン訛りの英語はどこか甘ったるい。
 いや、そこでソファを占拠してけたたましく笑っているショコラティエが甘ったるいだけなのか。
 立石は律儀にコーヒーを淹れながら男をにらみつける。
 ・・・視線で殺せたらどんなにか。
 殺意を隠すことができない。
【オーライなわけないだろう。何しに来た。商売は終わったんだからさっさと帰ればいいものを】
 対する長谷川の英語も釣られてなんとなくラテン系の匂いがする。
 ショウ、と言う名でミラノのランウェイをかれこれ十年歩いているせいだろうか。
【んー。そのつもりだったけど、昨日デパートでカズキ見つけちゃったから、あ、これはショウも釣れるんじゃないかなーと思って】
 花束のデモンストレーションはスタッフに無理矢理頼んで作ったサプライズらしい。
 そして、見事釣り上げられた女が激怒する。
【来た、見た、会った。もう満足だろう?】
【ううん。もう一声。ねえ、せっかくだから三人でやろうよ】
【また、その話か・・・】
「さ、さんにん?」
 池山が思わず声を上げた。
 残念ながら、拝聴しているメンバーは英語をそこそこ理解できる。
 ラテン訛りの早口アメリカンイングリッシュでも、重要な話をしているだけに、なおさらだ。
【再会を祝して、三人で、どう?きっと楽しいよ】
 池山へ投げキッスを飛ばす男の隣で深々と長谷川がため息をついた。
【・・・お前、渡米して、本当に腐れたな・・・】
【開放されたと言って欲しいね。生きることの全ての楽しむことを覚えたんだよ】
【物は言いよう・・・】
 心底呆れた視線を送る長谷川の膝に手を掛けて口説く言葉を、マリオはイタリア語に切り替えた。
〔もしかして、アレ、トラウマになってるの?もう二度とあいつらは陽の目を浴びることないんだから、忘れてしまえばいいのに〕
〔お前がそんなだから、ここのところの作品は脳天気な味なんだろうな・・・〕
〔またまた~。そこが好きなくせに〕
[確かに好きだったさ。昔はな。ただもうそれは、あんたがミラノで修行に励んでいた純情青年だった頃だ]
[言うねえ。俺は今も大して変わってないよ?君の瞳が今もきらきらと明けの明星みたいな光を放っているみたいにね]
 イタリア語も囓っているらしい片桐が、飲みかけのコーヒー気管に入れてしまったらしく、盛大に咳き込んでいる。
[勘弁してくれよ、マリオ。とにかく複数プレイは好みじゃないんで、私は降りる。池山とどうしてもやりたいなら、そこの彼氏と交渉しろ]
 親指でくいっと江口を示すと、マリオの瞳がらんらんと輝いた。
【え?やっぱりカズキ、そっちもイケるんだ?俺の思った通りじゃない!!彼氏もいいねえ】
 舌なめずりせんばかりのマリオに、江口もさすがに困惑する。
「長谷川さん・・・これは、どういう・・・」
「池山と付き合っていた頃に一緒にミラノを歩いている所を目撃されてな。『カズキをサンドイッチにしてあんあん言わせてみたい』って、何度か頼まれていたんだ。断り続けているうちに池山とは別れたし、マリオもニューヨークでのし上がって会う機会もなくなったから落ち着いたと思っていたんだけど・・・」
「さんどいっち・・・」
「あんあん・・・」
 立石と江口が呆然と復唱する。
 まだ咳と格闘中だった片桐は、気の毒なことに更に呼吸困難に陥った。
「お、おおおれ、やだよ!!江口にさわんなよ、エロショコラティエ!!」
 思わず日本語で返したが、いわんとすることを的確に掴んだマリオはにんまりと笑い詰め寄る。
【大丈夫大丈夫。彼と俺とで君を愛するんだ。すぐに楽しくなるよ?カズキも興味あると思うんだ。君はたくさんの人に愛されるのが好きだろう?セックスも同じさ。最高の快楽を知らないなんて、君は損をしている】
 マリオの言葉を脳内でリピートして、更に咀嚼したと思われる池山がなぜかちょっと黙り込む。
「・・・池山さん?」
 はっと、我に返ったらしい池山がふるふるふると小刻みに頭を振る。
「だめ・・・。だめなんだよ・・・」
 そして、いきなり立ち上がった。
【・・・だめ、絶対駄目。だって、俺はまだ江口とのセックスも極めてないから!!】
 仁王立ちの姿で拳を握り、宣言した。
【は?】
「あ?あれ?俺、なんか間違えた・・・?」
「和基さん・・・」
 ぷふーっと、長谷川が吹きだした。
「そこか!」
 げらげらと笑って、マリオの肩をバシバシ叩いた。
〔マリオ、負けだよ。お前の負け。池山は見た目よりもずっと手強いよ。今回は潔く引き下がれ〕
 江口と付き合いだしてもう五年以上経つというのに、まだ足りないと言うのだ。
[あれほどのカップルはいないから。多分、十年待ってもお前の出番はないと思うけど、な]
[そうか・・・。いや、残念だな・・・。面白そうだったのに]
[他を当たれ。お前は、お前の運命に出会っていないだけだよ]
[ショウは?君は運命の出会ったというの?]
[私の運命ね・・・。息子一人で十分、と言う答えはいけないか?]
[全くもって駄目だね。どんな化石だよ]
 そして、放置したままだった花束を長谷川に差し出した。
[コイセヨオトメ、だよ。ショウ。これからもいっぱい、恋をしよう]
[・・・恋ね]
[さよなら、氷の国のお姫さま。君の青い鳥は案外近くにいるんじゃないかな]
 ゆっくり抱きしめて、軽く唇を合わせると、伊達男は春風のように軽やかに、そしてあっという間に去っていった。
[言ってくれる・・・]
 くすりと笑って、長谷川も立ち上がる。
「せっかくのバレンタインの朝に邪魔したな。多分、これでマリオもしばらく乱入しないと思うから」
 しばらく、という言葉に引っかかりを覚えつつも、一同は安堵のため息をつく。
「じゃあ、私は帰るよ」
 出口に向かう長谷川を慌てて立石が引き留める。
「コーヒー、飲んでいけば?」
「いやいい。開を今から鎌倉に連れて行く予定だったから」
 息子の名前を出されると、引き下がらざるを得ない。
「じゃ、良い週末を」
 颯爽とした後ろ姿を、男どもは見送った。
「・・・なにげに一件落着で、女王様最強って感じなんだけど・・・。いや、それより俺達、モトカノのモトカレが作ったトリュフチョコレートでやっちゃったのか?」
「池山さん、ストップ!!」
 江口が止めに入るが時既に遅し。
「・・・なにやってるんだよ、おまえら・・・。あのとんでもチョコレートで」
「・・・てへ?」
 ぺろんと舌を出してみせる池山に、片桐は天を仰いだ。
「とんでもチョコレート・・・確かに・・・」
 すっと表情を曇らせた立石は、冷蔵庫から件の箱を取り出すと、黒いオーラを振りまきながらゴミ箱へ投げ込んだ。
「うわ・・・。諭吉、捨ててるよ、この男・・・」
「え?あれ、そんなに高いんですか?」
「んー。まあ・・・」
「だから、贅沢なセックス・・・って・・・」
 そこでまた、片桐が待ったを掛ける。
「うわ、その続きは部屋に戻ってからしてくれ!!つうか、俺も部屋へ戻るから!!」
 猫のように首を後ろから摘まれて池山は片桐に玄関へと引きずって行かれ、江口もその後を追いつつ、立石に頭を下げた。
「あの・・・。コーヒー、ごちそう、さまでした・・・」
「ああ。気にするな」
 何一つ解決せず、かつ、パンドラの箱をまた開けてしまった立石がうっそりと手を振る。
 朝だというのに真っ暗な立石を独りにするのは気が引けたが、かける言葉も見つからないのでもう一度ぺこりと頭を下げるにとどめた。

 その後、社内では池山達が銀座で並んだ話が超高速で駆け巡り、長い間女子の好奇の目にさらされた。
 さらに余談だが、どういうルートなのか高額ショコラの存在を嗅ぎつけた立石の妹たちが即座に兄を急襲し、無事奪還され彼女たちの胃袋に収まった。
「食べ物を粗末にしたら罰が当たるよ、兄貴」
「うわ、うま・・・って言うか、金と権力の味がする~」
「わかったから、もう帰れよ、おまえたち・・・」


 これが、バレンタイン騒動の顛末であります。

-完-


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