『ときを、かぞえる。』



 人生は、いつだって思いも寄らない方向に転がっていく。

「ほら、今日からあんたがお世話になるマンションのオーナーよ。挨拶して」
 いつでも高飛車な姉が、いつも通りに10センチ以上高い弟の後頭部をつかんで無理矢理下げさせた。
 姉の横暴は物心ついた時から変わらないから気にならない。
 飴色のフローリングと、スリッパを履いた己のつま先をじっと見つめる。
 瞬きをしたいところだが、出来ない。
 出来なかった。
 きちんと呼吸しているかどうかも、怪しい。
「やあやあ、英知くん、久しぶりだねー。すっかり大人になってびっくりだよ」
 びっくり、なんてもんじゃない。
 革張りのソファに深々と収まり、呑気な声を掛けてくる、この男は。
「森本・・・さん」
 森本、温。
 姉・珠希の元彼。
 それも、高校時代にほんの少し付き合っただけの。
「うん。俺、ずっとかわんないと思うけど、さすがに忘れられちゃったかなあ。二十年くらい逢ってないもんね~」
「十七年」
「ん?」
「十七年と、二ヶ月です」
 十七年と二ヶ月。
 正確には、十七年と二ヶ月、そして七日。
 ずっと数え続けていた。
 あの日を、取り戻したくて。


「やあ、えいちくん、こんにちは」
 その人は、のんびりと玄関先のポーチに座っていた。
「・・・こんにちは」
 森本温。
 ここ最近、姉の珠希と付き合っていて、時々訪ねてくる。
 姉が言うには、お金持ちで学力の高い高校に通っているらしいが、制服を着崩して石のタイルの上に直に座ってすっかり寛いでいる様からは想像がつかない。
「えいちくん、身体おっきいから、ランドセル窮屈そうだねー。今、身長いくつ?」
「160センチくらい・・・だと思います」
 母を追い越したのでそのくらいだろうと昨夜家族で話したばかりだ。
「うわ、マジ?俺、168くらいで、もう成長止まったっぽいのに、そりゃないよー」
 腹を抱えて、ケラケラと笑う。
 人なつっこくて甘えた口調に無造作と無精すれすれに乱れた茶色い頭髪、そしてひょこひょこと定まらない動きが全体的に軽い男へ仕上げていた。
「・・・もったいない」
 よく見たら顔立ちは随分整っているのに。
 凄く、綺麗な瞳をしているのに。
「へ?」
「あ。なんでもないです」
 右肩にかけていたランドセルを下ろして、中から鍵を取り出す。
「ねえちゃ・・・姉は、まだ帰ってきてないんですか?」
「いいや」
「え?」
「なんか怒らせたっぽくて、中に入れてくんないんだよ。だから、えいちくんを待ってたの」
 よいしょ、と立ち上がり、制服についた土埃を雑に払う。
「入れてくれる?仲直りしにきたんだ」
「・・・はい」
 鍵を開けてドアを開くと、にっこり笑って先を促された。
 入ったところで、玄関には腕組みをして仁王立ちの珠希がいた。
「・・・なに勝手に連れて入ってんのよ」
 そう言いながらも、姉は帰宅するなり風呂に入ったようで髪は念入りにブローしてうっすら化粧をしていた。
しかも、淡いピンクでフリルやレースのついた純情系少女漫画のコスプレみたいなワンピースを着ている。
「・・・何よ。言いたい事あるの」
「いいや」
 そのワンピースは、週末に家族で出かけた折に父にねだって買って貰ったものだ。
『そうかそうか、珠希はこんな清楚な服が好きなのか。似合ってるぞ、うん』
 そう言って鼻の下を伸ばす父と、海外出張が多く滅多に家にいない彼の前では猫を被っては色々せしめている姉を交互に見て、どっと疲れが増した。
 母もキャリアとしてバリバリ働いているため、自分たち子供は自主性の名の下に放任されている。
 中学受験の準備に忙しい自分は塾との往復で一日が終わる一方で、エスカレーター式の学校で暇をもてあましている珠希はいつのまにか夜遊びの味を覚えてしまった。
 しかしうすうす気付いている母はともかく、娘に甘い夢を抱く父の目を欺き通すためのカモフラージュと思っていたそのワンピースに、別の使い道があろうとは予想だにしなかった。
「・・・女子って」
 これだから怖いんだ。
 最強とうたわれる肉食恐竜・ティラノサウルスだって珠希に比べたら可愛いもんだ。
「珠希、ピンクを着る事あるんだね。いつもとなんか印象違ってびっくりした」
 心底感心した口ぶりに、森本が父同様ピンクとフリルに惑わされたことに、少し、いやかなりがっかりした。
「・・・なによ。似合わないって言いたいの?」
「ううん。まさか」
 森本は三和土からゆっくり姉を見上げ、声を低めた。
「すっごく、可愛い」
「・・・っ」
 陥落したのは森本なのか、姉なのか。
 手を繋いでリビングへ向かう二人の背中を、これが話に聞く痴話喧嘩なのかとげんなりしながら見送った。
 そして玄関からすぐの階段で二階に上がり、塾へ行く荷物をまとめたあと、保護者の同意が必要な書類がリビングにある事を思い出す。それは締め切りをとうに過ぎていて、今日提出しないとペナルティの通告が親へ行く事になっていた。
「やば・・・」
 階段を駆け下りて、リビングへの扉に手を掛ける。
「姉ちゃんごめん、塾のプリント・・・」
 邪魔者なのは解っていたから言い訳をしながら足を踏み入れると、信じられない光景が飛び込んできた。
 いつも綺麗に配置されているはずのコットンリネン張りのソファセットが思わぬ方角に歪み、斜めに押し倒した森本の上に馬乗りになった姉はワンピースの裾から太股をむき出しにしている。
 森本のカッターシャツの前は開き、下に着ているTシャツはまくり上げられて意外に白い肌と無花果のような色の胸の突起が目に焼き付いた。
「・・・なにやってんの、あんたら・・・」
 声が、出たかどうか解らない。
 だけど、目の前の二人の様子からそれが届いたのだとぼんやり思った。
「なにって・・・」
「・・・なかなおり?」
 少し、かすれた森本の声の甘さに全身の血が一気に駆け巡り、沸騰しそうだ。
 更に、姉が握り込んでいるものに気が付いて、頭の奧で何かがブチリと切れた。
「・・・ばっかじゃないの?」
 ばかみたいに、珠希と森本は動かない。
「さいてい・・・」
 保健体育の授業で男の人と女の人の違いと子供の作り方は習った。
 くっつきたくなる、というのも聞いた。
 でも、こんなのってない。
 気持ち悪い。
 なまなましくて、汚い。
 頭ががんがんして、胸の辺りから沸き上がる吐き気にのど元を抑えた。
 たけど。
 珠希の指の間から覗くモノから目が離せない。
 うっすら桃色に色づいて、不思議な形をしてるけれど。
 混乱した中、そこだけ、とても綺麗に見えた。
 なのにそれは。
「う・・・」
 呻いたのは誰だったのか。
 こくりと、唾を飲み下したその瞬間、背後から肩を掴まれた。
「お前たち、何をしている!!」
 振り返るよりも先に英知は押しのけられ、飛びかからんばかりの勢いで突進する大人の背中を呆然と見つめた。


「そうかそうか、あの、赤っ恥事件から十七年かあ。忘れて欲しかったな、そこは」
 あははと開けっぴろげに笑われて、身体の力が抜けた。
「どっちが赤っ恥かしらねえ。やっぱり、アレ丸出しだった温のほう?」
 ちゃっかり森本の隣に座り、卓上に用意されていたティーセットでさっさと紅茶を煎れ始めた珠希の動きの自然さから、この部屋へ訪ねてくるのは初めてではないと推測する。
「珠希、ひどい・・・。襲われてたは俺だったのに・・・」
「えーっ?そうだっけ?」
「そうだよ、なんか時代劇の娘さんみたいに悪代官からひん剥かれてる最中に英知くん入ってくるわ、英作さんに殴られるわで散々だったじゃん…」
 上目遣いに姉を軽く睨むその瞳は黒く濡れていて、あの時と変わらず吸い込まれそうで目が離せない。
「で、英作さん、お元気?」
「とっくにあの世へ渡ったわよ。今頃毎日お祖母ちゃんに土下座でもしてるんじゃないの?」


 あの時。
 固まりきった自分たちの中に飛び込んで怒鳴ったのは、母方の祖父だった。
 隣町に住んでいて、自分たちが幼いころは祖母が未婚の叔母たちともに何かと面倒を見てくれていたが、珠希が高校入学して間もないころに突然他界した。
 思えば、珠希の怪獣化が始まったのはそのころからだ。
 部屋の中にはファッション雑誌と年上にしか見えない服と靴が山積みになり、どこで手に入れたのか高価な化粧品とアクセサリーが転がっている。
 女友達は多いままだが、彼氏はとっかえひっかえでよく別れ話をこじらせ喧嘩していたようでよく電話で揉めていた。
 私立の女子高生なんてそんなものだと思っていたけれど、祖父はかなり心配したらしく、時々顔を出しては珠希を捕まえ説教し、反発する彼女と口論に発展するのが常だった。
 その原因が明らかになったのも、あの時だ。
 祖父は二人を引きはがし、まず森本の頬を平手で打った。
 すると、珠希が叫んだ。
「あんたに温を殴る権利はないわ!」と。
 そして二階に駆け上がりすぐに戻ってくるなり祖父に投げつけたのは、古いノートの束だった。
 白檀の香りのするそれらを開いてみるとそれらは亡き祖母の日記で、着物の小物を収めた箪笥の奥深くに隠してあったのを珠希が見つけたらしい。
 そこには、家庭を任せっぱなしにして浮気と不倫を繰り返す祖父に対する恨みと、花嫁修業からそのまま専業主婦になったために自活できない中年女性の苦悩が赤裸々に綴られていた。
 娘を三人抱えて家を飛び出したところで、路頭に迷うだけなのは目に見えている。
 祖父はおそらくそこに付け込んでいたのだろう、思い余っての訴えもまったく相手にしないばかりか、ひどい言葉を祖母に浴びせたこともあったようだ。
 書くことによってなんとか均衡を保っていたのであろう祖母の日記は、時には日付のみ記され、叫びだけ叩き込まれている。
 「しねばいいにのに
  しんでくれたらいいのに
  きえてしまえばいいのに」
 その記述は、娘たちが無事に結婚し妊娠したころにふつりと途絶えた。
 多分、孫たちが生まれてその世話に追われるようになったからかもしれない。
 英知の記憶の中の祖母は、優しく、慈愛に満ちたほほえみしかない。
 キャリア志向の母はいつでもきびきび忙しく、子供の自分たちの動作の遅さにいらだちを感じてきつくあたることもあった。
 しかし祖母はいつでも我慢強く、ゆっくり待っていてくれる。
 なくてはならない人だった。
 なのにこんなにも長い間苦しみ続けていたなんて、想像だにしなかった。
 大企業を定年退職してなおかつ関連会社の取締役としての収入が今もなお潤沢にある祖父は、それなりに立派な家を建て、娘たちを一流大へ進学させ、はたから見ると成功した人間だった。
 しかしその裏では、妻を踏みつけにしてのうのうと暮らしている。
 そんな男が長生きして、時には賞賛されているのに、苦労し続けた祖母は病に倒れて亡くなった。
 世の中はなんて理不尽なんだろう。
 祖母の愛情に包まれて過ごした時間の長い姉にとってその思いはもっと深く、ましてや思春期まっただ中。
 ショックを受けて傷ついて、荒れに、荒れていたのだと、祖父と自分はようやく理解した。
「あんたが死ねばよかったのよ、おばあちゃんのかわりに!」
 ピンクのワンピースの膝を握りしめてぼろぼろ涙を流す珠希を、どうしたらよいのかわからず、祖父と自分は立ち尽くした。
「人を呪わば、穴二つ・・・って」
 いつのまにか台所に立ち急須を取り出していた森本の、ゆっくりした声がするりと入り込む。
「・・・おばあちゃんの遺言だったんだろ、珠希」
「ゆたか・・・」
「その日記、後悔してるって、ほんとは言いたかったんじゃないか?」
 祖母が倒れたとき、すべては手遅れだった。
 余命数日と宣告された翌日まではまだ意識がはっきりしており、家族に言葉を残す事だけはかろうじて出来た。
 日記を処分できなかったことが気がかかりではあるものの、それを口にするのはためらわれたのだろう。
「辛いことも悲しいことも、おばあちゃんのものだよ。珠希のじゃない」
 森本は、この家にまったく関係のない、赤の他人だ。
「おばあちゃんがあの世へ全部持っていった。…ってことにしようよ」
 だからこそ、珠希の心を解きほぐす術を持っていた。
「温・・・」
「ほら、このお茶を飲んで」
 普段、誰も淹れない緑茶をどこからか見つけ出し、瀬戸物の薄い来客用茶碗を四客並べて、温めてからゆっくり注ぐ。
 その所作はとても慣れていて、普段の森本の様子からは想像のつかないものだった。
 清々しい、茶の香りが鼻をくすぐる。
「これを飲んだら、おしまいにしよう」
 唇より少しだけ暖かいそのお茶はほんのりと甘く、とても、とても美味しかった。
 知りたい。
 もっと、もっと森本のことを知りたい。
 そんな気持ちが胸をざわめかせる。
「・・・すまなかった」
 祖父がぽつりと、謝意を森本へ向けた。
「いいえ。俺もちょっとこじらせているところがあって。これで目が覚めました」
 手の中の茶碗はあっという間に冷えて。
「英知くん、ごめんな」
 どうして、謝るのか。
 問いたいけれど、自分はまだ子供で。
 唇をかみしめるのが精いっぱいだった。
「ほんとに、ごめん」
 謝らないで。
 言えない言葉を、飲み干した。

 それを最後に、温が現われる事はなかった。
 ひと月経ったころに勇気を出して姉に尋ねると、別れたとだけ言われた。
 なぜ二人が別れたのか、そしていつの間に復縁していたのか解らない。
 とりあえずは、友人といった雰囲気ではあるが。


「まあ、そんなことよりも、今はえいちくんのことだな」
「そうね」
「・・・すみません、突然、おしかけてきて・・・」
「いやいや、なんのなんの。災難だったね、英知くんも」
 災難。
 一言では言い表せない状況に陥った自分は、今どうすることもできず、姉と森本に頼ることになってしまったのだ。


 話は少し前にさかのぼる。
 英知は有名大学を首席で卒業し、就職した大手企業では仕事漬けの毎日を送り、更に海外勤務を経て帰国した昨年まではそこそこ順風満帆だった。
 ところが、今年の四月に新しく配属された部署で上司が女性だったところからだんだんおかしくなっていった。
 高崎久美子。
 四十前後と思われるその女性は仕立ての良いスーツの似合う、絵にかいたようなキャリアだった。
 一年ほど前に就いたその役職は同期も驚く大抜擢だったらしく、白羽の矢にあたったというよりも幹部の愛人を務めたことに対する慰謝料という噂は耳にしていたが、英知にとってどうでも良いことだ。
 自分の仕事が思うようにできれば、何の問題もない。
 そう、公言していた。
 そもそも派閥人事はよくあることで、彼女の仕事ぶりは真面目な上に臨機応変で手順を踏んで話を通せばやり易いため部下として不満を感じたことはなく、淡々と日々が過ぎていくはずだった。
 ところが、どういうわけかその女性上司が少しずつ英知に執着を示し始めた。
 まずは些細なことで叱責し仕事を誰よりも多く振り分け、休みもろくに取らせなかったりしたかと思うと、残業で残る英知のそばにいる。
 事務職の女性と少しでも話をしようものならセクハラと騒ぎ立て、周囲に同意を求めた。
 無意味なメールが毎日何通も届き、終業後は不在着信と伝言の履歴が延々と続く。
 そして通勤の時も途中から一緒になる事が多くなり、気が付いたら同じマンションの隣部屋へ引っ越してきた。
 まずは手作り料理のおすそ分け攻撃に始まり、これも何かの縁だからと何かにつけて同伴出勤を強制された。
 居留守を使うとドアチャイムをいつまでも鳴らし続けられたこともある。
 まさかまさかと否定し続けていたものの、さすがにこまでくると、認めざるを得ない。
 彼女は、ストーカーだ。
 英知なりに、動き、抵抗した。
 しかし、なにもかも裏目に出た。
 男性で体格もよく見るからに強そうな英知がストーキングされている事を信じる者はおらず、さらに上の上司も、社内で大きな後ろ盾があるらしいその女性と関わる事を拒否し、八方ふさがりだった。
 むしろ付き合っているとか、英知が手を出したとか、勝手な噂ばかり横行し、同期をはじめとする同僚たちは、遠巻きにするか指差して笑うだけで誰も親身になってくれる者はいなかった。
 だんだん自分がおかしいのかと思い始めると眠れなくなり、夜は物音一つに飛び起きる。
 みるみる痩せていくのが自分でもわかる。
 仕事だけは、自分のプライドにかけていつも通りこなした。
 しかし自分のことになるともう何も考えられなくなり、彼女の言いなりになってしまったほうが楽だと頭の隅でささやきが聞こえる。
 だけどそれは、死ぬも同然だと己に言い聞かせ、ぎりぎりのところで持ちこたえた。

 そんな時、弟の異変に気付いた珠希が、突然部屋を訪ねてきた。
「英知、入れて」
「・・・珠希」
 久々の姉弟の会話を始める間もなく、様子をうかがっていたらしい高崎久美子が自室の扉を開けて飛び出した。
「あんた誰よ、なに勝手に日高君に触ってるの!!」
 髪をふり乱した彼女は珠希よりも小さな体なのにどす黒い感情が全身からはっきりと表れて、ゆがめられた顔もうつろな瞳も異常としか言いようがなく、すべてが心底恐ろしく、英知は立ちすくむ。
 半狂乱で暴れだした見知らぬ女を見て全てを覚った珠希は、英知の手を引いてすぐさまその場から駆け出した。
 すっかり参って足がもつれてしまう弟を引きずるようにしてタクシーに乗せた彼女は、携帯をいじりながら運転手にかなり細かい指示を出してくるくると走らせて、最後にはかなり大きな個人病院へ横付けさせた。
「ここって・・・」
 都内では名の知られた総合病院で、知識人や政治家の入院などで話題に上る。
「心配いらないわ。話は通してあるから」
 夜間通用口をさっさと通ると、待機していたらしいスタッフがすぐに駆け付け、診療室へ通された。
「こんばんは、担当医の徳富です」
 深夜にもかかわらず診察してくれた医師は、ぼろぼろになった英知ですら目を見張るような美女だった。
 アジアの女優として映画に出てもおかしくないような、整った目元と手入れの行き届いた黒髪。
「ありがとう、助かるわ、麗佳」
「こんなことでお役にたてるならいくらでも」
 鈴の音のような声で応じた後ふわりと笑い、白くて柔らかな指先で優しく英知の体に触れる。ただそれだけで、ふと、肩の力が抜けた。
「大変でしたね。心的ストレス、過労と合わせて・・・。そうですね、胃もかなり荒れているでしょう?ずっと満足に眠れていないし、ろくなものを食べてないですね。即・入院ということにしましょう」
 どうやら彼女が先ほど姉が連絡していた相手のようで、深いことは尋ねずに短い時間でてきぱきと処置を施し手続きの指示を看護師たちに出した。
「重篤な患者のための個室があります。とりあえずそちらに入っていただきますね」
「え・・・?」
「ようは、面会謝絶ってことよ」
 さらりと告げると、引っ立てるように腕を持ち上げた。
「さ、行くわよ」
 大柄な弟を引きずりまわす姉の姿にスタッフが一瞬驚いた顔をしたようだが、そもそもイレギュラーな形で来訪し入院。今さらだった。
 どう見てもかなりハイクラスな個室に案内され、とまどいを隠せないまま着替えさせられベッドに横になる。
 その傍らに家族として陣取った姉は着々と手はずを整え、翌朝には会社にも弟が胃潰瘍で倒れ入院した旨を提出、しばらく病気休暇を取ると宣言した。
 そしてさらに翌日。
 連れてこられたのがこのマンションだった。

「プレシャス・TL…?」
「ほんとは、プレシャス・トオルだったんだけどねえ。さすがにそれじゃ恥ずかしいでしょ」
 くくくと、意味ありげな笑いを浮かべる姉の背中をぼんやりとしたまま追った。
 八階建てのようだが総戸数はそれほど多くない、どちらかというと小規模だけど清潔でエントランスは品よく、なんと管理人が常駐していた。 
「珠希さん、いらっしゃい。オーナーはお待ちかねだよ」
 自分とそう年の変わらない男が愛想よく話しかけてくる。
「今日、教室開く?」
 声を低めて問う珠季に、いたずらっぽく目を瞬かせ、同じく声を低めて答えた。
「あ、俺マジで山場だから今週は臨時休業。大丈夫だよ」
 ほっそりとした首に、緑色の絵の具がついている。
 よくよく見たら彼の履いているチノパンには様々な色が付着していた。
「ごめんなさいね。なるべく早くにカタつけるから。埋め合わせもいづれ」
「いえいえ、お構いなく。ああでも、この間のパンうまかった」
「明日差し入れするわ、ワインもつけて」
「うん、期待してる」
 親しげに会話を交わしたあと、二人は手を振りあい別れる。
「・・・管理人さん・・・だよな?」
 ソファセットを横切り、エレベーターに乗り込んだ。
 バッグから取り出したカードキーを差し込み小窓から現れたテンキーに素早く番号を打ち込むと、箱が静かに上がっていく。
「うん。でも絵描きなの。1階は彼の住まい兼アトリエでね。ちょっと絵画教室をやりながら管理人業務もしているのよ。突然旅に出たりしていたりいなかったりなのがたまにキズだけど、まあ、オーナーが最上階に住んでいるからあんまり問題ないみたい」
 あんなぽよっとした子だけど、どんよりとした絵を描いたりするのよと、とも付け加えた。
「ふうん」
「ちなみになんでこんなに親しいかというと、ここからそう遠くないところにある系列マンションに住んでいるからよ」
「は?」
「やっぱり知らなかったわね。あんたが海外に行っている間に私にも色々あって、引っ越したの。でもあっちに連れて行くと同居人が危険な目に合いそうだからこっちにしたってわけ」
「同居人って・・・」
 姉は、独りが好きだと公言してこの年まできたはずだ。
「ま、それはおいおい。まずはあんたのことよ」
 そう言ったところでちょうどエレベーターが止まる。
「ほら、行くわよ」
 扉が開くとそこはすでにプライベート空間らしく、内装から下の階層と一線を画していた。ロビーには適度にインテリアが飾ってあり、ソファも置いてある。そしてその先にはシンプルなドアが一つあった。
 姉弟でそれぞれかつかつと靴底を鳴らして歩いていると、ふいに扉が開いた。
 少しやせぎすで小柄な男が顔を出す。
「やあ、いらっしゃい」
 柔和な、ほほえみ。
 濡れたような黒い瞳は、ずっと、ずっと忘れられなかった。
「森本さん・・・」
 どうして、という言葉がまたこみあげてくる。
 十七年と二ヶ月、そして七日。
 もう十分大人になったはずなのに、自分はまた動けない。
「よく来たね。上がって」
 まるで、つい昨日別れたかのような親しげな笑みを呆然と見つめ返す事しかできなかった。


「ここは俺のだし、住人はみんな顔見知りだから安心して良いよ。まあご覧のとおり小さいマンションだからセキュリティが万全とは言い難いけど、とりあえず俺の部屋へはキーと暗証番号がないと昇って来られないから」
 八階は全て森本の住空間とオフィスらしい。
 基本的にはエレベーターに近い部屋で過ごしているが、ロビーの奥に隠れるように設置してある扉はいわゆる特別室で、お忍びでやってきた客のためにという設定で作られていた。セキュリティに興味を持っているらしい森本は警備会社と提携して簡単に入れない仕組みを開発して施したという。
「とりあえず、そこに入って。英知くんは入院している事になってるから」
「なってる?そんな事が出来るんですか?」
「うん。あの病院、俺の親戚筋だからどうとでもなるの。麗佳ちゃんって綺麗な女医さんに会っただろう?俺の従妹」
「あ・・・」
 人のつながりはわかった。
 だけど、なんとなく納得できないものもあり、首をかしげる。
「ま、それはおいおい。とにかく英知くんは寝て、食べなきゃね」
 こっちにおいで、と促され、のろのろと後に続いた。
 相変わらず、ひょこひょこと子供のような歩き方をする。
 そして、小さな背中。
 細い首筋。
 これが現実なのだと、とうてい信じられなかった。
 十七年と二ヶ月、そして七日。
 今日、こうして再会できた。
 もう、数えなくても良いのだろうか。
 

 ここは安全だから、安心して。
 ゆっくり休むんだよ。
 そう森本に言われ、ベッドに横たわったものの。
「落ち着かない・・・」
 見た目はシンプルだが、おそらく木材ひとつ、シーツひとつとっても普段お目にかかれないような素材に違いないことをひしひしと感じるベッドと調度品の数々が配置された部屋の雰囲気に、英知はすっかりのまれていた。
 森本が多くの資産を所有していることはだいたいわかっている。
 だけどそもそも数値自体が中流家庭の英知にとって天文学的なもので想像することすら不可能のなところに、このマンションと調度品の数々。
 ますます夢と現実の境目が分からなくなっていく。
 彼のことを考えれば考えるほど目はますます冴えていくばかりで、とうとう思い切ってベッドから出ることにした。
 姉の用意したスウェットを着て扉に手をかける。
 特別室の外へ通じるドアは二つあった。
 廊下に面したセキュリティ付の厳重な二重扉か、温のプライベート空間に通じるドアか。
 いつでも来て良いよと言われていた事に甘えて、部屋を訪ねる。
 夜中の一時。
 本来なら、非常識な時間。
 だけど、書斎と教えられていた部屋のドアは少し開いていて光と紙をめくるかすかな音が廊下にもれていた。
 本棚が壁を覆う部屋の中に、複数のパソコンを立ち上げた大きめの机の前に座ってぽつんと書類を見ている森本の姿が目に入り、思わずノックした。
「やっばり、ねむれないか?」
 変わらない笑顔。
「ええ」
 だけど、大人として、距離はますます大きくなるばかりで。
「そうだよな、あんな目に遭ったら」
「いや、部屋が立派すぎて・・・」
 立派すぎるのは、森本温。
 あなただと言いそうになる。
「あれ?そっち?」
 くくく、と、喉を鳴らして笑われた。
「まあ、俺もあの部屋で寝たことないしなあ。見栄を張りまくったことは否めないし」
「え?」
「今、大体の状況を調査会社が送ってきてね。この様子だとあそこでなくて大丈夫そうだから、もうちょっと普通でここに近い部屋に移る?」
「・・・そうさせて頂けるとありがたいです」
 そもそも、ここへ辿り着くまで客室がいくつもあった。
 それぞれ寝室とトイレとバスルームが付属しており、まるでホテルのようだ。
 彼が言うには、時々、半分趣味で経営している飲食店の一時的な寮になったりもするらしい。
「じゃあ、リビングに一番近い部屋にしようか」
 この隣だよと、軽く肩をたたかれ、促される。
 ぴくりと、肩に電流が走ったかのようにわずかに震えてしまった。
「英知くん?」
「あ・・・。すみません、なんでもないです」
 その、軽く触られたことに内心かなり動揺している。
 指先一つ、触れてもらえたことなんて、いつ以来だろう。
 姉が家へ連れてきたその日から、小学生の自分を弟代わりにかわいがってくれた。
 でも、あの最後の日はそれどころでなくて・・・。
 指折り年月を数えようとして、途中でさすがに無理だと気付く。
 姉と、森本と、自分。
 三人の時間は長く続くものだと信じていたのだ。

 
 療養と称した隠遁生活が始まって、一週間。
 食事は通いの家政婦かデリバリーで始まったが、あまりにもやることがなさ過ぎて音をあげた英知が、滞在三日目くらいからネットで注文して取り寄せた食材を適当に調理するようになった。
 ざっくりと作った家庭料理を、森本は嬉しそうに頬張った。
「そういや、英知くんは前にも台所立っていたよね。珠希に顎で使われて」
 そのとおりである。
 小学校低学年のころからなんやかやと下僕として使われてきた英知は、家事のスキルが高い。
「今は、珠希に感謝だなあ。こんなにおいしいご飯をご相伴にあずかれて」
 無邪気に笑う森本の顔を見て、心の中で「よし」と拳を握った。
 長い下僕生活も、この笑顔が見られて報われた気分へと変わる。
 むしろ胃袋をつかみかけているこの状況に、感謝したいくらいだ。
「いくらでも、森本さんの好きなものつくりますよ」
「おっしゃ。その言葉を待っていたんだよなあ・・・」
 珠希に、愛しているというべきだろうか。

 それにしても、暇で暇でしょうがない。
 体調も戻ってきたところでノートパソコンを与えられ、ネットができる環境にまでしてもらったが、これまでずっと寝る間を惜しんで働き続けてきただけに、時間も体力も持て余し気味だった。
「うちとは別に書庫があるんだけど、行ってみる?近所だからたぶん大丈夫だと思うよ。散歩にもなるしね」
 見かねたらしく、書斎から出てきた森本が声をかけてきた。
「書庫・・・、ですか?」
 首をかしげると、上目づかいに覗き込んでいた森本がつられたよう首をかしげた。
 その小さなしぐさがあまりにも可愛らしくて、息をのむ。
 ・・・このまま、頭から丸呑みしたい。
 そんな英知の心の内を知らない森本は話を続ける。
「うん。歩いて20分くらいかな。もういっこマンション建てたんだ。そこの最上階もやっぱり俺ので、居住スペースも少しあるけど、ほぼ書庫・・・っていうか、私設文庫だな。こっちとあっちの住人とか、知り合いに開放しているから」
 言うなり、彼はするりと森本の手を引いて外に連れ出した。
「・・・それはすごいですね」
 軽く握られた指先にどぎまぎしながら、後に続く。
 正直、頭に血が上りすぎて卒倒しそうだ。
「うーん。本だけはどうしても捨てきれなくて、すぐに必要のないけど時々めくりたいものを一か所に集めたんだ。そのうちメンバーの誰かがきちんと系統だてて整理してくれたり、データを管理してくれたりで、なかなか面白い集会所になってるよ。子供たちもひょっこりやってくるし」
 並んで歩くと、肩先に彼の息遣いを感じて胸が苦しくなった。
「こちらは単身者が多い気がするけれど、そちらは家族用マンションなのですか?」
 道中、かろうじて会話を絞り出しているが、久々の外にもかかわらず周囲のことなんてとても見る余裕がない。
「そ。あたり。たまたまだけどこっちは子供いなくて、レジーナは女王の国だから小さい子から大きい子まで色々いるねえ」
「女王?」
「珠希も今そこに住んでるよ。厳密にいうと俺の店子じゃないんだけど」
「え?」
「半分くらい友達が買い取って運営していて、珠希はそっちと契約した。俺のプレシャスと同じ方針だから、住人は彼女の知人が多い」
 友達、が、彼女、という名称であることを一応心に留めておく。
「姉が・・・。そういえば、近くの系列マンションに住んでると・・・」
「うん。麗佳ちゃんとね」
「え?・・・はい?」
 思わず聞き返した。
「あはは。やっぱりまだ言ってないんだ。でも、もういい加減知っていたほうがいいから俺がちくっちゃおう」
「はあ・・・」
「珠希と暮らしているのが、麗佳ちゃん。最初、レジーナのほうがセキュリティ最新だし部屋もあるから、英知くんに滞在してもらうのそっちにしようかという話も出たんだけど、結局女子率高いマンションだとあの女史にばれた時更にややこしくなりそうだってことで俺んちに来てもらったの。ちなみにあの子の伯父さんがど派手な病院のドン。これで少しは人間関係整理ついただろう?」
「・・・はい、とりあえずは」
「あれ?英知くん割と冷静だねえ。俺、結構な爆弾を投下したつもりだったんだけど」
「・・・そうですね。色々な意味で耳寄りな情報だとは、思いますが・・・」
 珠希も、徳富麗華も、森本の寝室に出入りしていないと分かればそれ十分だ。
「ははは。ほんっと、英知くんって、面白いよね、昔から」
 あなたの記憶に、俺はどれくらいとどまっていたのですか。
 そう問いたいけれど、自分の言動がまるで演歌の一節のようであることは自覚しているのでぐっとこらえ、あいまいな笑みを浮かべた。
「そうですか?」
「・・・なんか、その笑顔は反則」
「は?」
「なんかなー。いろいろいっぱい大人になっちゃったよねえ、英知くん」
「なんですか、それ」
「ひっみつー」
 昼日中の住宅街を、いい年をした男が二人、子供みたいに手をつないで歩く。
 ありえないことだけど、これは現実なのだ。
 右足と左足がきちんと自然に繰り出せているかということばかりが気になった。

 書庫を擁するレジーナというマンションは明るめの石で造られて、女王というだけあって確かに女性や家族連れが好むつくりになっていた。
 最上階は同じく暗証番号で上がる仕組みになっていたが、上がってみるとそこは集会所と森本が名づけるだけに解放感にあふれ、書庫と表示された扉をくぐると私設文庫らしい手作り感と暖かみがあった。
 しかし、その広さと蔵書数は個人の所有する本の数を超えており、これが森本の頭脳を形成しているのかと、知らずため息が漏れる。
 森本温は、天性の山師だとOBたちは語っていた。
 この世情の移り変わりの中、学生のころから独りで着々と資産を増やしていけるのは、野生の勘が並大抵でないからだとも聞いた。
 しかし、裏付けのない知識のみで突っ走っているのではないことを、この書庫と、さらに本でうずもれた書斎が証明している。
 リビングに作られた閲覧スペースでは森本の友人らしい何人かとその家族がそれぞれ静かに部屋を利用していて、ひとりひとりに英知は紹介された。
 それぞれ職業も年齢も違うが、感じの良い人たちばかりでほんの少し話をしただけで打ち解けた気分になった。
 これも、森本の力であり、糧なのだろう。
「俺もちょっとこっちで用事があるから、英知くん適当に過ごしていて。帰りはまた声かけるよ」
 ひらひらと手を振って、ふいに森本は扉の向こうへ出て行った。
 一人になって改めて室内を見回す。
 本の状態はどれも良く分野は多岐にわたるばかりか以前から興味のあるものばかりだったため、一つ一つ手に取るうちについつい時が過ぎ、気が付いたらとっくに日が暮れていた。
「英知くん、お待たせ。帰ろうか」
 どこかで夕飯のお裾分けをせしめたらしい森本がご機嫌の様子で保冷バック片手に戻ってきたのは、窓の外に月が見え始めたころだ。
 今度は保冷バックと書庫から借りた本を持っていたためなのか、手をつなげなかった。
 残念な気持ちになったが、彼と並んで歩きながら交わす会話が楽しく、話せば話すほど心が浮き立った。
「さ、着いたね」
「はい」
 街灯と月明かりの中見上げてみると、暗めの石に囲まれたマンションは男性的なイメージと堅固な雰囲気を醸し出している。
 
 しかし、それを見事に打ち砕くのがこの張り紙である。

『居住者の皆さんへ
 共用スペースでは、理性を保ちましょう。 
 キスは玄関で済ませること(笑)。
 家主拝。』

「・・・今、気が付いたんですが」
「なに、今頃気が付いたの?」
 エレベーターの中の側壁に貼られた紙を凝視して呟くと、背後から間延びした返事が返る。
「これって・・・」
「そのままの意味だけど?」
「き、キスって…」
 つい、口ごもってしまう自分が恥ずかしく、何気ないふりをして手で口をふさぎごまかした。
「うちねえ。独身者が多いって言ったけど、独り身ってわけじゃないの。むしろラブラブな人たちばかり住んでいて、いっつもいっちゃいちゃしてるよ。こっちとしてはあてられるんだよなあ」
 ふふっと笑う森本の顔は、まったくもって屈託がない。
「だから、ちょっと遊ばせてもらってるんだよ。家主の特権だね・・・って、言うそばから」
 ドアに向かって立っていた森本は通り過ぎた階層で何か見たらしく、にやりと笑ってせっかく八階に着いたドアをいったんそのまま閉め、再び降下させた。
「なに?」
「まあ、見てなって」
 六階に箱が止まると、外に一つの人影があった。
 いや、それは一つではなく。
「けいすけー、そりゃペナルティーだぜ~」
 ドアが開くなり、小躍りせんばかりに伸び上がり、ホールの二人に声をかけた。
 背を向けていたほうの人物が慌てて離れようとするのを、こちらを向いて立っていたほうの男が片腕を解かずに引き留め、何事か呟いて肩に顔を埋めさせた。
「すみません・・・」
 恥ずかしげな声がかすかに聞こえた。
 二人は、長い時間をかけてキスをしていたと、推測できる。
 彼らはスーツ姿で、どう見ても男同士だ。
「・・・あんた、わざわざ引き返しましたね?森本さん」
「それがわかってりゃ、玄関で済ませてこいよ」
 少し切れ長で茶色の瞳が印象的な背の高い男がはっきりとした眉根を少し寄せ、不満げにため息をついた。
「あの張り紙を最初に見たときは、俺には関係ないって思ってたんだけどな」
「確かにね」
 ほい、と、森本が手を差し出すと、もう一方の手に持っていた紙のバッグを男が差し出した。
「あれ?いいの?」
「いいのもなんも、あんた、通り過ぎる一瞬でこのワインに目を付けたんでしょ。もう戻ってきた時点で貰う気満々ですよ」
「あ、やっぱりワインなんだ。誰かへの貢物だったのかな」
「その通りですけど、今度にします。・・・頼むから今日はこれで勘弁してくれませんか」
 抱きしめられたままの青年は、まるで手の中にとらえられた小鳥のようにじっと固まったまま動かない。
 しかしワインを差し出した男が大事そうに抱いているのを見ると、確かにあてられるなとも英知は思う。
 大切な人を堂々と抱きしめられるその幸運が、かなり、うらやましい。
「うん、そうする。じゃあまたね」
「はい、この借りはまたいずれ」
 扉を閉めると、いったん箱が一階に降りた。
 軽快なチャイムとともにドアが開く。
「あ、また会った。こんばんは」
 一階のホールでエレベーターを待っていたのは、先ほど書庫で顔を合わせた本間という女性だった。
 会社の特別休暇でゆっくり本を読みたくなったと語り、閲覧席で紅茶をすすめてくれた。
 確かにこのプレシャスの住人だとも聞いていたが、森本ともかなり親しいようだ。
 その証拠に、森本が大事に抱えた紙袋を目に留めるなり、にやりと笑った。
「森本さん、それ、片桐さんからせしめたでしょ?実は、私のものになるはずだったワインなんですけど?」
「あれれ。悪いことはできないなあ」
「ということは、やっちゃいましたか?」
「そうだね、やっちゃってたね」
「ああ・・・、とうとう」
 そして、二人は顔を見合わせるなり、げらげらと笑いだした。


 -前編終了。 後編をお待ちください-


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