『壁ドン事件-片桐×中村編-』





「片桐さん、村木さん達の作業が終了したそうなんですが、他に・・・」
 プロジェクト室のドアを開けると、目を疑う光景が飛び込んできた。
 なんと当の片桐は壁際に追い詰められ、正面に立つ女性の両腕に退路を断たれている状態だった。
「・・・!」
 口を開いたまま凍り付く中村の背後から、のんびりした声が聞こえてくる。
「あ、壁ドンだ」
「ゆ、柚木さん…」
「うわあ、生で見たの、初めて~、ナマ・壁ドン?」
 すっかり忘れていたが、休憩に入った柚木と村木と本間が後ろからついてきていたのだった。
「おいおい、出歯亀するなら、もうちょっと早く来てくれよ」
 囲い込まれたままの片桐が肩をすくめて笑うと、相手の女性は我に返ったのか、慌てて両手を引っ込めて後ずさる。
「ま、そういうことやけん、そろそろ帰ってくんねえか?」
 珍しく九州弁まじりのいつもよりもいくぶん低めの声に顔をこわばらせたその女性は、ぱっと身を翻してヒールの音も高く部屋を駆け抜けて、もう一つのドアから出て行った。
 先月入った受付嬢だったと、思う。
 ここ最近、手段を選ばず片桐に挑んでくる女性が増えた。
 未婚・既婚を問わず隙あらば襲ってくるため、プロジェクト室に身を隠していたはずだったのだが、今日はそれが裏目に出たらしい。
 妙にねっとりした香水の匂いがあたりに残って、気まずい沈黙が流れた。
「かーたーぎーりーさーん、またですか~?」
 切り替えの早い本間がずかずかと入ると、がんっと、片桐の右肩横に手をついた。
「あ、また壁ドン。本間さん、写メ撮っていいですか?」
「いいわよ~。こんなんでどう?」
 ついでにもう一方の手が拳を作り、片桐の腹を容赦なくごりごりと圧迫する。
「いいっすね~。力関係丸わかりなところが、物凄く格好いいっす!」
「おほほほほ、ちょろいもんよ、なんなら柚木くんもやったら?コイツ、誰にでも壁ドンされるから~」
「おい・・・」
「お、いいっすか?今度フェイスブックに使わせて下さい」
 柚木はひょいひょいとんできて、両手囲いこみどころか片足も挙げて「必殺三方固め!」と悪ノリしてきた。
「だから、おまえら・・・」
「ほら、美和ちゃんも!記念にやっちゃえ!」
「いえ、私はそんな…」
 村木がちらりと振り返った先には石と化した中村がぽつんと立ったままだ。
「じゃ、なんでもいいから片桐さんなぶりまくり記念~」
 本間がけらけら笑いながら村木の手を引き、迫り来る。
「はい、ちーずーっ」
「いっえーい!」
 しまいにはなぜか片桐を中心に四人ぎゅうぎゅうになって写真を撮られた。
「おい、おまえら・・・」
「はいはいはい!私らのフォローはここまで!」
 ぱん、と本間が手を叩く。
「片桐さん、撤収で良いのかな?書類確認とかはない?」
 全員が真顔に戻ったのに気付き、すぐに用意していたファイルを取り出した。
「あ、ああ、これが今回の作業受領書で、後ろにつけているのが次の作業依頼書と工程表だから持って帰ってくれたらそれで・・・」
「あ、俺が預かります。いち、に、さん・・・。うん、確かに受け取りました。うちの課長から内容確認の電話が明日行くと思いますので、宜しくお願いします」
「そうだな、おれんとこは午前中全体会議が入るから、午後で頼みたいけど」
「了解しました」
 会話をききながら村木がてきぱきと散らばっていた荷物をまとめた。
「柚木さん、終わりました」
「うん、じゃ、次行こうか。じゃ、俺達はこれで」
「ああ、お疲れさん」
 すれ違いざまに、本間が呪いの言葉を囁いた。
「こってり絞られるがいいわ、このあんぽんたん・・・」
「・・・はい」
 返す言葉もない。
「じゃあ、中村さん、お先に~」
「あ・・・。おつかれさま」
 我に返ったのか、なんとか中村は返事を返す。
「失礼します」
「ではでは、お邪魔しましたーっ」

 にぎやかに三人が出て行き、扉が閉まると、静けさが戻る。
 人形のように固まった表情のまま、中村は後ろを向くとドアの内鍵をかちりとかけた。
「春…」
 片桐の声にぴくりと身体を震わせた彼は、振り向くなり急に大股で歩み寄り、ばん、と、立ちつくす片桐の両脇に手を突いた。
「ハル…」
「・・・なに、されてるんですか、あなた」
 俯いたまま、絞り出すように呟く。
「ハル。あのな・・・」
「甘ったるい匂い、移っちゃうくらい、くっついて、あなたって人は・・・っ」
 もう一度、ばん、と、乱暴に手の平で壁を叩く。
「いつもいつも、誰にでも簡単に触らせて・・・」
 ちいさな悲鳴を、聞いたような気がした。
「ハル、だからそれは」
「わかってます!!」
 見上げる瞳の端が潤んで、きらきらと光る。
「解ってるんです、片桐さんは、いつでも、ものすごく格好いいって!」
 物凄い褒め言葉をきっぱりと、この上なく真剣に言い切られて、つい笑ってしまった。
 そんなことを考えていたのか。
 ついつい、鼻の下が伸びてしまうのを止められない。
「・・・っ、片桐さん!」
 揶揄されたと勘違いした中村が肩を叩こうと拳を作って振り上げたところを両腕ごと引き寄せて、抱きしめる。
 頭からぺろりと食べてしまいたい。
「や・・っ、離して・・・っ」
「ハル・・・。春彦、ありがとう」
 陸に揚げた魚のように暴れる身体を抱く力に、ぎゅっと、心を込めた。
「大好きだ」
 耳に唇を寄せて囁くと、次第に抵抗が収まってきた。
「・・・ずるい」
 興奮のあまり、汗ばむほどに上がった体温が愛しい。
「だって、それ以外に言葉がみつからないから」
 上気した頬に、唇を寄せる。
「俺が触れたいのは、春彦だけだよ」
 そのまま唇を追うと、淡い、暖かな息を感じた。
「キスして、良いかな。春彦」
「・・・聞きますか、そんなこと」
「うん、聞くよ」
 額と額を合わせ、目を閉じて鼻を擦り合わせながら呟く。
「春彦が、好きだから」
 その、唇が欲しい。
 吐息が、互いの唇を暖かく湿らせた。
 その先が欲しくて、胸の奥が熱くなる。
「キスがしたい」
 囁きが、つい、唇の先を掠めた。
 僅かな接触なのに、生々しい。
「・・・っ」
 びくり、と弾んだ肩を、もっともっと強く抱きしめて、吸い寄せられるようにして唇を合わせた。
「ん・・・っ」
 しならせる背中を追いかけて、攻めて、深く、深く絡めて、ついには会議机の上に押し倒してしまった。
「ごめん・・・。我慢できない」
 上がる息を押さえられないまま、また、求めてしまう。
「ん・・・っ、んん・・・」
 呼吸することも忘れて、唇の温かさを分け合った。
「け・・いすけ、さん・・・」
 舌足らずに名を呼ぶ声に、甘さを感じて頬がほころぶ。
「・・・なあ、このまま帰ろっか」
 僅かな隙間も惜しみながら、唇に問う。
「いますぐ、したい」
 腕の中の身体から、花の香りが一気にたちのぼる。
「・・・ばか」
 甘い返事を、もう一度唇を寄せて吸い取った。
           


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