『ずっと、ずっと甘い口唇-1-』


「別れましょう、私たち」
 桜色のグロスで潤いぽってりとした唇が信じがたい言葉を吐き出す。
「・・・は?」
 正面の白い顔を見据えたきり、頭の機能は全面凍結した。
「なんだって?」
「だ、か、ら。別れましょう、私たち、と言っているの」
「別れましょうも何も・・・・」
 ここは代官山のこじゃれた内装のカフェ。
 やたらと小奇麗な顔だちのウェイターばかりが右往左往するこの店は彼ら目当ての女性客が多く、男の片桐にとっていささか居心地の悪いものであったが、恋人の意向には逆らえない。しぶしぶ入り、会社の食堂で一番高い定食を二度は十分に食べられる高いコーヒーをオーダーし、一息ついた途端、その爆弾が落ちたのだ。
「・・・この状況で・・・?」
 二人の間には、ウェディング雑誌と、式場案内のパンフレットが広げられていた。これらをかき集めてきたのは目の前の女性に他ならないはずなのだが。
「何もかも嫌になったの。これでも少しは持ち直そうと努力したのよ。親御さんやあなたの立場もあるだろうし、私もドレスの解約するときに恥ずかしいし」
 そう。
 そうなのだ。
 確か、ヨーロッパのドレスメーカーの東京支店へわざわざ何度も何度も下見をつき合わされ、一週間前にようやく予約を入れたはずだった。そして、当然、式場にも高い予約金を入れている。
 式は今からほんの数ヵ月後。
 仕事が忙しいせいで両家の親への正式な顔合わせはまだだが、互いの実家へ何度か挨拶に行っているだけに、『結婚を前提にしたお付き合い』は暗黙の了解になっていた。仲人を自分の直属の課長にするかさらに上の部長にするか迷って、課長の未来性にかけようと言う結論を二人で出したのは一昨日ではなかったか。
「何がなんだか、俺にゃ、さっぱりわからんのやけど・・・」
「その博多弁よ」
 びしっ、と、唇と同じ桜色のネイルカラーを塗り上げられた人差し指をまるで糾弾するかのように婚約者、もとい、元婚約者に向かって突きつけた。
「その変ななまりのかかった言葉を、聞けば聞くほどいらいらするの」
 彼女の形の良い額には不似合いな皺が刻まれている。
「いや、美咲、何度も言うように俺は博多の生まれやないけん、これは博多弁じゃ・・・」
「そんなこと、どうでもいいのよ、九州男児の説教はたくさん!!」
 何が油を注いでしまったのか、彼女の怒りはますますヒートアップして行き、さすがに周囲の注目を浴びつつあった。
「落ち着け、美咲・・・」
「呼び捨てにしないで!!」
 かつての恋人は絶叫した。
「そのなれなれしい物言いを聞くのも、その中途半端に浅黒い顔を見るのも、おんなじ所で息を吸うのも嫌!!何もかも、何もかも、いらいらして、いてもたってもいられないのよっ!!」
 そして、テーブルの上のあれこれも、テーブルの前の片桐もそのままに、ピンヒールの足音も激しく彼女は去っていった。
「なんの悪夢だ、これは・・・」
 片桐啓介二十八歳。
 福岡県の水郷地区出身。
 地元進学校を卒業後大学は東京の方へ進学し、とんとん拍子に業界最大手として名高い電機メーカーTENの情報系設計部門に就職して約六年。中堅としてそれなりに活躍し、上司や同僚の覚えもめでたく、今度は仕事で出会った美女と婚約して、人生の足場も固めようとしていた矢先のことである。
 つまり、彼は、坂を昇るだけ登りつめた所でいきなり谷底に突き落とされ、ついでに人生の壁というものに初めて遭遇してしまったのだ。



「皆、酒は回ったか?・・・それでは・・・。片桐の破談にかんぱーい!!」
 がしゃんがしゃんとそこここでビールジョッキが鈍い音を立てて衝突する。早い、安い、を歌い文句にしている居酒屋は同じような背広を着、ネクタイをとりあえず形だけ首からぶらさげている男たちでごった返していた。
 そして、その中でもひと際ハイテンションな一角で、何度も何度も乾杯の音頭が上がっている。
「おう!!美咲ちゃんの決断力にもかんぱーい!!」
「いい夢を見たな、片桐ぃ」
「怨むんじゃねえぞ、呪うんじゃねえぞ、祟るんじゃねえぞ。ははははは」
「ほら、あれだ。『野良犬にかまれた』と思えよ、片桐!!」
「人生の山を越え谷を越え、荒波にもまれて一人前のオトコになるんだよ・・・」
「そりゃ、演歌だぜ、岡本ぉ~」
「まあ、なんでもいいから、飲もうぜ片桐!!厄払いだぜ!!」
 二十台から三十代の男たちが二十数名、まるで鬼の首を取ったかのような顔をして何度も乾杯の音頭をとる。
「・・・お前ら・・・」
 いわゆる『主賓席』に座らせられた片桐啓介は両手をわなわなと握り締めた。
「俺の不幸を肴にして飲み会やってんじゃねーよっ!!」
 一瞬、ただっぴろい店内がしんと水を打ったように静まり返り、数秒後、どっとあちこちから笑い声が上がった。
「・・・もう、死にてえ・・・」
 がっくりとテーブルに突っ伏す片桐の頭を数人がよしよしと撫でてくるが、そんなもの、何の慰めにもなりはしない。
「どうして、みんな、俺を放って置いてくれねえんだ・・・」
 おかげで、いらぬ恥まで思いっきりかいてしまったではないか。明日には、どこかの会社で婚約者に逃げられた間抜けな男の話が面白おかしく口にされるに違いない。
「それは、お前の人望のおかげじゃないか?人気者は辛いよなあ、片桐。愛されすぎて」
 なんの臆面もなくさらりとそんな気障な台詞が頭上から降ってきた。
「佐古・・・。なんで筑波勤務のてめえまでわざわざ出て来てんだよ。川崎までいったいどんだけ時間かけてきやがった」
 冷酒のビンを片手に立っているその男は片桐とは電話で毎日打ち合わせをするものの、距離的事情で滅多に会えない筈の立場にいる者だった。
 佐古真人。開発研究部門の優秀な研究員で、彼なしでは片桐の仕事は、いや、この情報部門は成り立たないといっても過言はない。しかしそれと同時に人としての彼はかなりの食わせ者で、このような場には絶対いて欲しくない人間の一人である。
「飲み事があるから来いと徹が言うから。丁度明日打ち合わせがこっちであるし」
 徹と呼ばれた佐古より更に背の高い男が長い足を面倒くさそうに折りたたみながら傍に腰を下ろす。
「ほら、T銀行の提案の件、そろそろ技術のすり合わせをしないとまずいだろ、顧客会議も近いことだし。研究の奴もある程度現場を見ないと解からないことが色々あるからな」
 いけしゃあしゃあと答えるその顔が憎たらしいのは立石徹。SEで、浅黒くて少し大陸的な彫りの深い顔立ちと、学生時代に水泳で鍛え上げた体は女子社員の憧れの的、というより独身女性の獲物と化している。
 焦げ茶の瞳が素敵、と最近引き合わせたときに美咲もうっとりと魂を抜かれていたことをちらりと思い出す。
 ああ、確かにいい男だよ、こいつは。
 面倒見が良くて機転が利いて知識と人脈は底なしで仕事は神業かと言いたくなるほど捌けて、慈悲深く、とにかく彼のすべてが反則技と言いたくなるほど少女漫画的だ。彼らを目の前にすると、失恋の傷に男としての劣等感という塩をぎりぎりと摩り込まれる心地がして、手元のビールを一気に飲み干した。
「・・・つうか、無理矢理打ち合わせを作ったんやろ、お前らのことやから・・・」
 なんて酷い話だ。
 こちらは心底傷ついているというのに。
「まあまあ。こういう時は独りじゃないほうがいいんだと言ったのは岡本だからな。俺たちもそう思うし」
 その隣で佐古が女子高生のように唇を尖らせて肩をすくめ「ねー」等と相槌を打っている。
「ばかでかいお前たちに囲まれても暗くなるだけじゃねーか・・・」
 この二人は年齢も体格も顔立ちも違うくせに一心同体の態を見せる。妙に仲が良すぎると思ったらなんと親戚同士らしい。女性社員たちの間では肌の色から『白王子』と『黒王子』と呼ばれているとかいないとか・・・。
「天上界で暮らしているとさあ、時々下界の人間が恋しくなるんだよ。たまにはお前の顔でも拝んどかないと元気がどうも出ないんだよなあ。しかも、今回はビッグな肴つき」
 ビッグな肴とは片桐の破談のことで・・・。
「くそ、お前だって女房に逃げられたくせに、どうしてこの俺の痛みがわからんのか、この、冷血漢・・・」
「そんな大昔の話、記憶にございません」
 小首をかしげてにっこり笑うバツイチ佐古の頭は今時珍しく肩まで届くストレートの長髪で、その真直ぐな栗色の髪がさらりと動くのを見るにつけ、美咲の甘い髪の匂いを思い出す。
 白くて卵のようにつるんとした顔、大きくぱっちり見開かれた茶色の瞳、いつも濡れた様な桜色の紅を引いた唇・・・。
 あの唇から自分の言葉遣いと声が男らしくて好きだと言われたのはついこの間のことだったのに。
「俺は、今、誰もいない無人島に行きてえよ・・・」
 今になって九州男を差別するなんて・・・。
「無人島で自棄酒くらっても侘しいだけだろう?どんなにため息ついても誰も聞いてくれないぞ」
「そっちのほうがよっぽどましやんか、断然。こんな生き恥を晒すくらいなら・・・」
「まあ、そう言うなよ。恋愛の終わりは始まりでもあるらしいから」
「俺、もう、恋だの結婚だのは真っ平ごめんだ。くそ。石になりてえ・・・」
 何がどうして石になりたいのかと、突っ込込むべきなのか、それとも聞かなかったふりをしてひたすら慰めるべきなのか、二人は考えあぐねて文字通り石になる。
「なーに、しけたこと言ってやがる、酒が不味くなるぜ。・・・ったくよお」
 げし、と背中に思いっきり蹴りを入れられて片桐はテーブルに突っ伏した。
「何しやがる、この人でなし!」
 振り返るって怒鳴ると、男としてかなり小柄ではあるが全身から健全なパワーがはちきれんばかりの岡本と、華奢で控え目な風貌の後輩の中村がそのやりとりに目を丸くしつつそれぞれビール瓶を片手に立っていた。
「笑う門には福来る。しけた面していても貧乏神が集まるだけだ、笑え、片桐!!」
 ビール瓶を中村に預け、この宴会の首謀者の岡本は片桐の両頬を容赦ない力で摘み上げる。
「ぐぎぎぎ・・・」
 笑うどころか、このままでは口が耳まで裂けそうだ。
「やめてください、岡本さん!!」
「岡本はいつも元気だなあ。ははは」
「少しはその元気を仕事に反映しろよ、岡本・・・」
 ビール瓶を抱えた中村は子犬のようにおろおろと二人の周りを歩き回るが、人でなし二号三号の白黒王子は酒を飲み飲み笑うのみだ。
 哀れ、憔悴のあまり抵抗する力が残っていない片桐はされるがままである。
「佐古さんも立石さんも笑っていないで止めてくださいよ」
 生理的な涙で曇る視界の先で半泣きの中村の瞳が漆のように黒く濡れているように煌めく。
 暖かくて、とても優しい色だった。
 ふいに、頬の痛みも周りの喧騒も止まったような気がした。
「・・・仕方ねえなあ。春ちゃんに免じてこの位にしてやるか」
 ぺいっ、と岡本は飽きた玩具を放り出すかのように片桐を解放する。
 この中村春彦は片桐と同じ部署に所属しているのだが、彼らの仕事場内に中村姓が五、六人程度おり、それぞれの区別をつけるために自然と通称を使うことが多く、その優しげな顔立ちと二十二才という若さからたいていの人から「ちゃん」付けで呼ばれていた。
「いい子だなあ、春ちゃんは」
 佐古がそう言うなりいきなり背後から中村をぎゅっと抱きしめて頬擦りをしたため、驚いた中村は「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げた。
「あの目は反則だぜ・・・」
 憮然とした表情で岡本は腰を下ろし、立石は口に拳を当ててくっくっくっと喉の奥で笑う。
「だいたい、岡本は新婚だから何があっても笑いが止まらないんだろう。自分が幸せだと他人の不幸なんかちっぽけなもんだよな」
「ああ、そうさ、幸せさ。幸せすぎて、生きてるのが怖いくらいさ!」
 胸を張って惚気る幹事に一同はやれやれとため息をつく。
 不幸のどん底の片桐とは対極に、岡本は才色兼備で社内どころか社外にも名の知れた同僚を想い続け、昨年めでたく結婚にこぎつけたばかりだ。
 箸が転がっても笑いが止まらないお年頃らしい。
「そういえば、有希子が言っていたぞ、『失恋には男薬、女薬』ってな」
 『有希子だとーっ!自慢たらしく呼び捨てにするんじゃねえ!』と、背後から罵声が飛ぶ。男なら誰もが見惚れる高嶺の花をまんまと手に入れた岡本への恨みは未だ燻り続けているらしく、一次会が終わったあとの彼は無事に家に帰されることはないだろうと、立石たちは心の中で手を合わせた。
「男薬、女薬?なんだそりゃ?」
 岡本の妻をカサブランカのような圧倒的な豪奢な香りと優美な姿の花に例えるならば、美咲はガーベラやチューリップといった可憐な雰囲気の持ち主で、どこか庇護欲をそそる女だった。そこが何よりも魅力だったと言ってよい。
 ・・・今は、何を見ても聞いても、全てを美咲に直結させてしまう。
 こんなにたくさんの思い出を抱えて、これからいったいどうすればいいのだろう。
「まあ、端的に言えば男友達、女友達。要するに時間と暖かい友情、または新しい恋によって癒える物なんだそうだ」
「・・・どれもいらねーよ・・・」
「まあまあ、そう言わんと、俺たちの溢れんばかりの愛を受けて雄雄しく立ち直れ、片桐よお」
 そして、片桐は許容量を遥かに超えた酒を飲まされ続けた。
 飲んでクダを巻いて、飲んで飲まされて・・・・。
 酒樽にでも突っ込まれているのか、いや、自分が酒樽なのではないかと錯覚し始めた頃、世界はどんどん歪んで行く。
「片桐さん!!」
 意識に分厚い幕が下りる直前、中村の悲鳴が聞こえたような気がした。



「・・・完璧に潰れたな。あれじゃあ連れて帰るのがひと苦労だぞ」
 真っ赤な顔をして転がっている片桐と、慌てふためいて一生懸命に介抱している中村を横目に佐古が日本酒に手を伸ばす。
「まあ、あと一時間以上はここにいられる筈だから、何とかなるだろう」
 同じく手酌で日本酒を水のように飲んでいる立石と岡本の三人で車座になり、残りの者たちも適当に固まり、好き勝手に飲み食いしつつ仕事の話などで盛り上がっていた。
 主客は一時間も経たないうちに沈没して早々に使い物にならなくなってしまったため、ただの飲み会の状態になっている。
「春ちゃんって、ほんっとーにいい子だな。片桐が心配で酒も食べ物もほとんど口にしていないんだろう?」
「放って置いても大丈夫って言ったんだけどな。ああ見えて片桐は酒に強いから、どんなに飲ませても大事に至らない」
 そう言いつつ、片桐の直属の部下である中村に任せっぱなしである。
「・・・筑波からわざわざ呼ばれたのは、徹と俺であいつを運べということだったのか」
「あたり」
 岡本の方頬に浮かんだえくぼ見て、佐古は深いため息をつく。
「あんな酒の固まりとタクシーに乗らなきゃなんないの?しかも、徹の家が広いからあいつの寮じゃなくてそっちに運ぶんだろう?嫌だなあ。部屋ん中も酒臭くなってさあ・・・」
 最初から立石の家に泊まるつもりでいた佐古は唇を尖らせる。
「そんなに嫌なら、お前はどこかホテルに泊まれよ。旅費はどうせ出ているんだろう?」
「いや。最近不景気のせいかな。領収書なしでは宿泊費を支給してくれなくなったから、全然出ないよ。徹の所に泊まるって先に申請してきちゃったから、変更できないもん」
「もんって言うな、もんって・・・」
 メンバー最年長で数年前に三十路を越したはずの親戚の言動に立石は頭痛を覚えた。
「まあまあ、そんなこと言わずに仲良くしてやれよ。佐古だって美咲ちゃんのことは知らない仲ではないしさ」
「ああ、それそれ!!」
 佐古はぱん、と膝を叩いてにじり寄る。
「この間のスキーに片桐が連れてきていた子だろ、その瀬川美咲ってさあ」
「ああ、会社の連中とで先月に行ったやつ?そうそう。可愛い子だっただろ?片桐の部署に派遣で入っていたんだよ、去年の半ばくらいまで。男どものアイドルだったからものすごい争奪戦だったらしいぞ、美咲ちゃんは」
 ま、うちの奥さんほどではないけどなと惚気る岡本の後頭部に、立石と佐古は黙って鉄拳を振り下ろす。
「・・・へえ、あの子がねえ・・・。確かにあそこでは可愛いほうなのかもしれないけど、俺の趣味じゃないなあ」
「そりゃ、お前の美貌を前にしたら、たいていの女は霞むだろうがよ・・・」
 いかにも男性的な容姿の岡本と立石と片桐の三人に対し、髪まで長い佐古はやや女性的に整った顔立ちだ。それでいて、きちんとバランスの取れた男らしく骨のある体格をしているために存在そのものがまるで御伽噺のようで、この非現実的な男を目にした並大抵の女性はそばに近づくことすら躊躇する。
「俺だったらその美咲ちゃんとやらでなくて、春ちゃんを選ぶけどな」
「なんだそりゃ。そりゃあ春ちゃんはとても気のつく良い子だけどさ、嫁さんにはできないだろうが。男なんだからよ」
 天才と美形というものは凡人とは違う次元に住んでいるらしい。
 何をどうしたら美咲と春彦を同列に並べて比べられるのか理解に苦しむ。
 わけわかんねぇな、と岡本は酒を飲み干した。
「・・・まあ、あんな結果にはなったけれど、瀬川さんも悪い子じゃないと思うよ?」
 歩く善人の立石が型通りのフォローをすると、佐古は眉間にしわを寄せて宙を睨む。
「いや、なんでこの子を選んだのかなと、彼女に会ったときに思ったけど?・・・ただ、なんでそう思ったかが、今ちょっと思い出せないけど・・・・」
 酒豪四天王と名高いこの顔ぶれでさすがに少しは酒が回ってきているのか、なんだったっかな、なんだったっけとうんうん唸りながら記憶を呼び戻そうとしている佐古を置いて、立石は適当に食べ物を盛った小皿を手に中村の元へ向かった。
「ハル。今のうちにある程度食べとけ。この様子だと当分目を覚まさないし、こいつは寝ゲロしないから大丈夫だよ。一応酒は岡本並みに強いから」
「立石さん・・・」
 二つ折りにした座布団に首まで真っ赤に染まった頭を乗せて小さな鼾をかいている片桐へ心配そうな瞳を向けつつ、立石に頭を下げる。
「こいつがこんなに酔うのは久しぶりに見たな。ここのところは仕事も彼女との付き合いも全力投球で、酔っ払う暇がないって感じだっただけに」
 ゆっくりとタバコの煙をくゆらせて立石が片桐の横に腰を下ろした。
 渡された皿の中身を律儀にもくもくと平らげた中村はしばらくの沈黙の後、ぽつりと呟いた。
「・・・瀬川さんも罪な事をしますね・・・」
「ん?」
「片桐さん、あの人と付き合いだしてからがむしゃらに頑張ったんです。仕事が出来る男が好きだと言うからって佐古さんと仕事を組む役をわざわざ買って出たり、かといって放っておくと寂しさから浮気するかもと言われると、休日出勤しないように残業を平日の明け方までしたり。でも、努力している姿をあからさまに見せたら格好が悪いからって、どんなに体が悪くても平気なふりをして・・・」
「そうだったのか・・・」
 在米日系人で少し物事の考え方が違う上に天才肌の佐古と組むのは、なかなか骨の折れる仕事だったろうとどちらとも付き合いの長い立石にも解かる。
 幸か不幸かウマが合うらしい二人の関係が功を奏して業績も格段に上がり、片桐自身のスキルアップにもつながった。
 今では、片桐なしにはこの部署の仕事は回らない。
 こうなると、ある意味では瀬川美咲の置き土産と言うことになる。
「こんなに片桐さんに大切に想われて、瀬川さんはいったい何の不満があったんだろう・・・」
 風邪をひいてはいけないからと片桐の体に上着をかけてやりつつ、穏やかな中村にしては珍しく眉間にしわを寄せる。
「・・・女心ってヤツは、俺らには解からんよ」
「こんな事を女心で片付けてしまっては、片桐さんが気の毒じゃないですか・・・」
 二人の会話が耳に届いたのか、ふいに、片桐が目を覚ます。
「ん・・・」
「片桐さん、大丈夫ですか?気分悪くないですか?」
 ふらふらと起き上がろうとする片桐の背中を中村があわてて支えた。
「ここ、どこだ・・・・」
「ハル、ほら、烏龍茶。これを飲ませろ」
 背後から立石がグラスを中村の目の位置に下ろす。
「片桐さん、飲めるなら、飲んでください。お茶です」
「のむ・・・」
 中村に背を預けたまま、目をしばたたかせながらゆっくりと飲み干した。
 うっすら靄のかかったままの頭に手を当てて、ふーっとため息をつき、片桐は身を起こす。
「立石。悪いけど、俺、今のうちに帰るわ。今度意識を手放したら朝まで眠りそうやから」
 醜態はもう沢山だ。
「そうか?なら、送るから今日は俺の家に来いよ。佐古も泊まるし」
「いや、ここだとうちの方が近いし、明日総務に提出しないといけない書類を部屋に置きっぱなんだ」
「かと言って、その状態のお前を一人で帰す方が心配だから俺らも一緒に行く。おい、真人、帰るぞ!」
 背後で佐古が「えーっ?せっかく盛り上がってきたのにぃ」と未練たっぷりの声を上げる。
「・・・佐古なんぞに送ってもらったら、一生ネタにされる。いい。慣れているから」
 佐古の性質を的確に把握できるほどには酔いが醒めてきているのか、それとも泥酔していても忘れられないほどにその個性が強烈なのかと、二杯目の烏龍茶を手渡しながら立石は心の中で問わずにはいられなかった。
「なら、俺が一緒に帰ります。同じ寮だし」
 片桐の荷物をまとめ始めていた中村が手を上げる。
「まだたいして食べていないだろう、ハルは」
「先ほど立石さんに頂いたので十分です。佐古さんも久しぶりに飲み会に出てきて、皆さん積もる話もあるでしょうし」
 確かに、滅多に直では会えないカリスマ研究員を前に仕事魂が復活したのか、半分くらいの仲間が彼を二重三重に囲んで日本酒や焼酎を片手に堅い話を始めている。
「春ちゃん、本当に大丈夫か?多分、タクシーの中で寝てしまうぞ、あいつは・・・」
 全体の肉付きがまだ少年のように育ちきっておらず、どことなく線の細い印象を受ける中村に酔っ払いを任せるのは忍びなく、岡本もさすがに口を挟んだ。
「こう見えても力持ちなんですよ、俺」
 二十歳を過ぎた男ながらに天使の微笑と噂される中村の清麗な笑みを前に二人は言葉を失い、頭をかく。
「・・・そしたら、任せていいかな。俺ら幹事だし」
「はい」
 手際よく中村は片桐に上着を着せていく。やはり、一時的に醒めただけだったのであろう片桐はされるがままにぼんやりとしている。
 ふと、この光景に頭の隅に引っかかるものを感じつつ、岡本はタクシーを呼ぶために先に部屋を出た。
「では、お疲れ様でした。おやすみなさい」
 案の定、シートに体を預けた途端に眠り込んでしまった片桐の隣で中村は小さく会釈する。
「おう。明日の打合せを忘れんじゃねえぞ。午後イチでやるぞ」
「気をつけてな。降ろす時に手に負えなかったら、寮の誰かに手伝ってもらえ」
 冬の終わりのあがきのようなしんとした寒さに首を縮めつつ、タクシーが小さくなるまで見送りながら、岡本はぽつりと言った。
「・・・思い出した」
「ん?」
 ライターを取り出し、火をつけながら立石は返す。
「江口が池山を拉致った時と、どこか似てるんだ。このシチュエーション」
「は?」
「ほら、お前が確か出張でいない時に飲み会があってさ。泥酔した池山を江口が送ると言い出して、俺は幹事で身動き取れないから任せたら、あいつらそのままホテル街のほうに向かって歩いていって・・・」
 その後の惨劇と騒動は、数年経った今でもそう簡単に忘れ去られるものではない。
「そう言えばそんな事が・・・。いや、でも、それとこれとは・・・」
 タバコを挟んだまま親指で下唇を擦りつつ立石は岡本の脳裏に浮かんでいるであろう事を否定した。
「そうだよな。いくらなんでも・・・」
「ふーん。要するに春ちゃんが片桐を頭からぱっくり食べちゃうって事?」
 いきなり背後からあっけらかんとした声が飛び込んできた。
「うわ、お前、どこから出てきたんだ、佐古!」
「ついさっき。トイレに行って戻ってきたら片桐たちは帰ったって言うからさ」
「俺たちが酔っ払い相手に往生している間にトイレだと?その協調性のなさをアメリカ育ちのせいにしてやるほど俺は優しくないぞ・・・」
 喉の奥でうなり声を上げる岡本の頭をよしよしと撫でながら佐古はなおも続ける。
「春ちゃん、なんだか思いつめていたから、送り狼は大いに有り得るんじゃないの?」
「真人。いい加減にしておけ。江口たちと片桐たちでは話が違うだろう?」
「そうそう。熊男の江口だからああなっちまっただけで・・・」
 年下の熊男が、立石たちの同期で同性の池山をぱっくり頂いてしまったのはウエイトの差が物を言ったと思いたい。
「ええ?バンビちゃんでも男だろう?春ちゃんは。男の欲望を舐めちゃいけないよ」
 二十二歳の成年男子をバンビちゃん呼ばわりして、ちちちと人差し指を左右に振って佐古は人の悪い笑みをにんまりと浮かべた。
「欲望いうな、生々しい・・・。」
 この頭痛は酒のせいではないはずだ。
「いい年して恥らうなよ。・・・俺、バンビちゃんの逆襲に一口ね」
「この人でなしめ・・・」
 目の前の男との付き合いを、改めて、真剣に考え直したい二人であった。



 酔っ払いは重たい。
 半分意識がないのならなおのこと。
 しかも、相手の身長は自分より頭一つ位高い。
「大見得を切りすぎた・・・」
 中村は、寮の玄関口で大の字に横たわる片桐を前に途方にくれていた。
 時計の針は九時をようよう回ったところだ。
 今日は確か水曜日。
 会社の労働組合が水曜日の夜はよほどの理由がない限り残業をなるべくしないよう規定しているので、たいていの人は飲み会かプライベートの予定を入れている。ましてや、十八歳から三十代までの独身男性を収容しているこの寮ならば尚更の事。
「こんな時間に誰も帰ってくるわけないか・・・」
 念のために食堂と談話室を覗いたが、ほとんどの者がテレビを自室に持ち込んでいるので、たとえ夕食をここで摂ったとしても気の会う仲間がいない限りは皆早々に引き上げる。
 ようは、人の出入りの途絶える、中途半端な時間に帰ってきてしまったのだ。
「よいしょ・・・っと・・・」
 片桐の腕を肩にかけて引き上げようとするが、なかなか上手くいかない。これでは、目の前のエレベーターに載せることすら難しい。
 鞄はあきらめて、体だけをなんとか支えあげたとき、背後から声が掛かった。
「・・・あの!大変そうですね。手伝いましょうか?」
 振り向くと、自分と同じ階に住む新入社員だった。
 所属部署が違うためにさほど接点がなく、高校でたての風貌の頼りなさは自分と互角だったが、背に腹は帰られない。
「・・・申し訳ないけれど、有難く力を借りて良い?」
「はい」
 うーんと唸るのみの片桐を二人で引き摺るようにしてエレベーターに乗り込み、後輩が自分の階の5のボタンを押した後、「片桐さんは何階でしたっけ?」と問う。
「あ、三階・・・。いや、ちょっと待って」
 中村は片桐の背広のポケットを大慌てでさぐって部屋の鍵を探すが、それらしきものが見つからない。
 ・・・きっと、鍵は玄関に置き去りにした鞄の中。
 同じように華奢な体躯の後輩にもう一度戻ろうとも言いづらく、片桐の部屋はエレベーターから一番遠かったことも思い出して中村はため息をついた。
「・・・いいや。俺の部屋にとりあえず連れて行く」
 この時、片桐の意識が少しでも戻っていたら。
 部屋の鍵が胸ポケットに入っていたら。
 事態は少し違ったかもしれないが、全ては後の祭りである。

 

「ありがとう、助かったよ」
 お礼に冷蔵庫にたまたま入っていた缶ビールを一本手渡して後輩を労いつつ送り出した後、鞄を取りにもう一度戻り、部屋のドアを開ける。
 ベッドの上には片桐。
この会社所有の寮としては新しい部類に入るが、所詮は寝るためだけの部屋なのでベッドと冷蔵庫とテレビでいっぱいいっぱいのスペースに男が二人いるとますます狭さを感じた。
しんと静まり返ったなか、片桐の暢気なイビキだけが反復運動のように規則正しく聞こえる。
「・・・どうしよう」
 一向に目を覚ます気配のない彼に背を向け、すとんと床に腰を下ろし、とりあえずテレビを点ける。チャンネルを次々と変えてみるが、たいして見たい番組はない。
 電源を切ると、また、静けさが戻ってくる。
「どうしよう・・・」
 背中が暑い。
 全部の神経が、口を大きく開けてふいごを吹き続けている酔っ払いに集中していた。
 何の迷いも不安もなく、半分笑っているような表情で眠っている片桐がここに眠っていることが嬉しい。
 そして、その無防備さが憎い。
 片桐が息を吸うとほんわりと暖かい気持ちになり、吐き出すと冷たく悲しい気持ちになる。
 どうして、こんなことに。
 振り子のように小刻みに揺れるうちに息苦しくなり、春彦は立ち上がった。
「・・・汗を流してこよう」
 とにかく、今は、ここから逃げ出すしかない。
 タオルを掴んで、部屋を後にした。


 夢を見ていた。
 壊れやすい花のような儚げな笑顔を浮かべる美咲。
 読んで字のごとく、美しく咲き誇り、吐く息すら甘い香りを漂わせていた女。
 強く抱き寄せると華奢な肩が折れてしまいそうで、不安になることが時々あった。
 天女のような美咲。
 栗色の柔らかな髪をなびかせ、走っていく背中を片桐は慌てて追いかけた。
 美咲は細い足首の動きも軽やかに、まるで踊っているかのように駆けていく。
 片桐を甘やかな花の香りが包み込み、足をもつれさせる。
 待てよ!!
 行ってしまうな!!
 ここにいろ!!


「行くな!!」
 掴んだ腕は思いのほかしっかりしていた。
「・・・片桐さん」
 相手はどこ切なげに眉を寄せて、自分を見下ろす。
「・・・ハルか・・・」
 一瞬の安堵と落胆と。
 夢の中から抜けきれないせいか、色々な感情がないまぜになり、自分で自分をもてあます。
ベッドを降りて床に座り込む。
「・・・ここは?」
「俺の部屋です。鍵が見当たらなかったので」
「そうか・・・」
 自分の手の中で、細い腕がどくんどくんと脈打っていた。
 これは、春彦の腕。
 美咲ではないのだ。
 ゆるゆると腕から手を放すと、春彦が中腰の姿勢のまま首にかけていたタオルをはずして片桐の額に当てる。
「汗が・・・」
 距離を縮めた彼の体からふわりと、石鹸の香りが漂ってきた。
 どうやら自分が酔いつぶれている間に風呂に入ってきたらしく、Tシャツにハーフパンツといういでたちに変わっていた。館内のエアコンの設定温度が高めなのか、血の気の多いこの寮の住民たちは冬でも春彦の格好と似たり寄ったりの薄着が多い。
 先ほどの花の香りは春彦の匂いだったのか・・・。
 寝汗を丁寧にふき取ってくれるのを子供のようになすがままに任せながら、ふと俯くと短パンから見える彼の白い膝とそれにつづく太股に目が止まる。
 膝頭までまるで牛乳を練ったような白さだった。
 つい、その白さも夢ではないかと思い、衝動的に手が伸びてしまった。
 手のひらに、見た目以上にしっとりとなめらかな感触とじんわりとした体温を伝える。
「・・・ああ、本物だ・・・」
 無意識のうちにその肌を指先でゆっくりと愛撫すると、春彦は目を見開いてぷるっと小さく震えて身を引いた。
「ハル・・?」
 何故急に離れたのかが理解できなくて、いぶかしげに見上げると、春彦は頬をうっすらと染め、唇を小刻みに震わせていた。
 綺麗だ。
 素直にそう感じて、薄紅色の唇に手を伸ばそうとした瞬間、彼は更に後ろに後ずさる。
 折角綺麗だったのに、手が届かない所に行ってしまう。
 間を詰めようと体をゆっくり前に進めると、はじかれたように春彦が立ち上がった
「か、片桐さん・・・。何か飲みませんか?俺、買ってきま・・・」
「行くな」
 春彦が身を翻すよりも一瞬早く片桐はその腕をつかんで引き戻した。
「俺を置いていくな」
 大きく目を見開いたまま、片桐の言葉に縛られたかのように、春彦はすとんと素直に腰を下ろす。
 その様に満足した片桐はのっそりと熊のようによつんばいで迫り春彦の逃げ場を奪うと、再びその唇に手を伸ばした。
 まずは下唇のきわを親指でゆっくり、ゆっくりとたどる。
 そして、更に上唇の形をなぞるかのようにゆるゆると触れているとその隙間からふわりと暖かな息が漏れる。
 改めてその瞳を覗き込むと、漆のように黒くしっとりとした光が揺れ、長い睫毛がそれをさえぎった。
 何かに耐えるように目を閉じてしまった春彦の唇を飽くことなく何度も何度もゆるゆると辿っているうち、ふいにその指を歯で軽く挟まれる。
 今度は春彦の舌がちろりちろりと片桐の親指をまるで愛撫するかのように辿った。
 そして片桐の指をくわえたまま、ふうーっと胸の中の空気を全て吐き出すかのような深い息をつき、瞼をゆるゆると持ち上げた。
 夜の水面のように真っ暗でありながら、しっとりと熱をはらんだ瞳が片桐を捕らえる。

 それが、全ての合図だった。

「・・・!」
 片桐は喉の奥で低く唸りながら、春彦を乱暴に畳の上に引き倒す。
「あ・・・っ」
 春彦が腕の中で小さく驚きの声を上げたが、それを封じるかのようにその唇に自らのそれを合わせる。
 舌を差し入れて誘うと、甘い、何かの果実を思わせるような春彦の吐息が片桐の口の中に広がった。
 唇を合わせるだけでも精一杯な春彦の風情に悪戯心をくすぐられ、ちらりと上顎を刺激してみると、きゅっと片桐のシャツを握り締めて震えている。
 そんな反応にますますそそられ、口付けに翻弄されている春彦をそのままに、腰に手を回し、中心を合わせてぐっと押し当てた。
「・・・はっ、ぁ・・・」
 二つの中心が固く、熱くなっている事を互いに知る。
「・・・」
 耳まで赤く染めた春彦は切なげに熱い息をつきながらも、潤んだ瞳でどこか責める様に見据えた。
 こんなに扇情的な瞳が存在するのかと片桐は驚いた。
 乳白色の肌、果実のような甘い吐息、蜜のような瞳。
 それらの全てを今すぐ我が物にし、もっと熱く、さらに高みへ上がる方法を自分は知っている。
 ならば、それを行うまでだ。
 獲物の腰にまたがったままいったん身を起こすと、片桐はゆっくりとシャツのボタンを外していく。
 まるで、儀式を行うかのように。
 今から何をしようとしているのか、何をされるのか、彼の意図を明確に知りつつも、春彦は指一本動かせないまま、仰ぎ見た。
 片桐さんは酔っている。
 かつての恋人への思いを断ち切るために浴びるように飲んでいたのを自分は知っている。
 でも、こんなに熱のこもった瞳で見据えられて、どうしてみじろぐことが出来るだろう。
 逃げられない。
 逃げたくない。
 片桐の瞳が、指先が、今、自分を欲しているのだから。
 男が自らのアンダーシャツを脱ぎ去り、ふーっと深く息を一つついたあと、改めてゆっくりと体を倒して唇を求めてきた時、春彦はふわりと微笑んだ。

 ・・・これは夢。



 ・・・能天気なロシア民謡が流れている。
 ちゃんちゃんちらら~ちゃんちゃんちゃらら~と唸るアコーディオンに合わせ、自分が輪に加わって踊っていることに気がついた。
 正面は幼稚園の頃の初恋の君・みゆき先生、その隣には小学校一年のときに滑り台の上でチュウされた洋子ちゃん、その隣には・・・と、今まで多少なりとも縁のあった女性たちが皆で手をつなぎ、輪になっている。
 右手を握っているのは淡い色の衣装に身を包んだ美咲。
 大きく開いた襟元からは、細い手足とは不似合いな豊かな胸元が誇らしげに揺れている。
 「みさき・・・」
 その胸元に吸い寄せられるように近づこうとして左手が動かないことに気がついた。
 左を振り向くと、そこには春彦が微笑んでいた。
「片桐さん・・・」
 白いTシャツに膝丈のハーフパンツ、しっとりと濡れた黒髪から覗く潤んだ瞳。
 気がついたら彼を押し倒して、衣服をはいでいく。
 雪の日の朝のような淡い光を放つ身体。
 ふんわりと儚い笑みを浮かべる薄紅色の唇は、自分の中のケモノを刺激した。
 なだらかな白い胸を貪り、喰い尽くしたい。
 そんな欲望にかられてその体を強く抱きしめた。

 ・・・が。

「ちゃんちゃんちゃらら~♪ちゃんちゃんちゃらら~♪ちゃっちゃっちゃちゃちゃ~ちゃっちゃっちゃ~♪」
 この期に及んで、あの、能天気なメロディーがエンドレスで垂れ流されている。
「・・・・やかましかっ!!」
 片桐は何かに向かって手を伸ばして叫んだ。
 早く、その珍妙な音楽を止めて目の前の体を堪能するために。


「・・・やかましいんは、お前だ、おっまっえっ!!」
 耳の向こうで小型犬がきゃんきゃんと吼えている。
「・・・誰じゃ、お前・・・」
 何がなんだか良く解らないまま、片桐は呟いた。
 どうやら自分は今、携帯電話を耳に当てているらしい。
「これからっちゅうときに、邪魔しよってからに・・・」
 ふわああっと大あくびをすると、さらに向こうからきゃんきゃん気勢が上がる。
「これからもくそもあるか!!こんのやろう、何時だと思ってんだ、てめえの携帯は何度鳴らしても留守電だし、部屋にもおらんし!!」
 しぶしぶながらもだんだん意識が覚醒してきた。
「・・・携帯?」
 そういや、こんな悪趣味な着信メロディーを自分の携帯に登録した覚えがない・・・。
「もしかしたらと思って春ちゃんのほうにかけたらビンゴだったな。とっとと代われよ、近くにいないのか?」
「近くに・・・」
 いた。
 隣で毛布を引きかぶったまま枕に突っ伏している漆黒の頭を軽く揺さぶる。
「おい、ハル。岡本から電話だ」
「ん・・・」
 ゆっくり身体を反転し、艶やかな髪の隙間から卵のようなつるんとした面差しがあらわれる。長い睫毛に縁取られた目元はなぜかいつもより腫れぼったく、窓から差し込む朝日がまぶしいのか何度も何度も瞬きを繰り返し、それがまるで生まれたてのツバメの雛のようで妙に愛らしい。
「でんわ・・・?」
 かすれた声でそう呟き、にょき、と、細くて長い腕を毛布から伸ばしてきた瞬間にどきりと片桐の心臓が波打ち、ついでに頭の機能も動き出した。

 ・・・ココハ、ドコダ?
 オレハ・・・。
 俺は、なんで・・・。

 この真冬の朝に服着てないんだ?

「・・・ああ、おはようございます。中村です。すみません、寝過ごしたみたいで・・・」
 同じく覚醒し始めたらしく起き上がる気配を見せる同僚を恐る恐る振り返ると、ぱらりと毛布がめくれ、日の光に反射する白い上半身が露わになった。
「・・・!!」
「・・・そのデータでしたら、昨日の夕方に課長に確認していただきました。最終版は俺のパソコンのデスクトップの・・・」
 眉間にうっすら皺を寄せながら前髪をかきあげた腕の向こうには、なだらかな胸元から首筋にかけてぽつぽつと赤い斑点がちりばめられているのが見えた。
 ・・・折角綺麗な肌なのに。
 なんだ?あの斑点。
 まるで、あれは・・・。
「うわあああ!!」
 片桐の叫び声にぎょっとした春彦が耳に携帯電話を当てたまま体ごと振り返り、その全てが目に付き刺さる。
 胸元だけじゃない。
 二の腕の内側や腹に向けて無数に散らされたそれは、まごうかたなき代物で・・・。
「片桐さん・・・」
 困惑したような声に、がばっと自分の下半身を覆っていた毛布を取り払う。
 ない。
 あるはずのものがない。
 俺は一糸まとわぬ姿で何を・・・?
「どういうこっちゃーっ!!」
 至近距離での雄叫びに春彦は眉間にくっきりはっきり皺を寄せ、「・・・すみません。後ほどかけなおします」と回線の向こうの岡本に告げて電話を切った。
「片桐さん・・・」
「あ、わあっ!!近寄らんといてくれ!!」
 狭いシングルベッドの上で近づくなもへったくれもないのだが、つい、浅黒い頭のてっぺんからつま先まで赤を通り越してどす黒くに染めて後ずさり、無様にも転げ落ちる。
 黙ってその醜態を見つめていた春彦はおもむろに口を開いた。
「・・・九時四十五分」
「・・・は?」
「今の時間です。片桐さん、今日は午後一番に岡本さんたちと会議ですよね。早く行かないと準備が間に合いませんよ?」
 心なしかいつもより頬を高潮させ、ベッドの上から素っ裸で尻餅をついている片桐にかつて見たことがない冷ややかな視線で見下ろしている。
「・・・とっとと出て行ってください」
「・・・ハル?」
「ここから出ていって下さいといってるんです!!」
 同じく素っ裸の春彦がいきなりベッドから降りて、その様に目を剥く片桐を蹴り出すようにして部屋の外に押し出した。
「おい!!ハル!!」
 裸のまま放り出され、慌てて前を隠しつつドアに取りすがるとすぐにまた開いて能面のような顔がのぞく。
「すみません、忘れてました」
 鞄、スーツ、シャツ、靴下、パンツをぺぺぺと無造作に廊下へ放り投げると、荒々しく再びドアが閉まり、中で鍵のかかる音が聞こえた。
「おい~、ハル・・・」
 板一枚向こうの世界はしんと静まり返ったまま、先ほどの騒動がまるで夢かのような錯覚を覚えた。
 いや、夢じゃない。
 その証拠に自分は寮の廊下に全裸で立ち尽くしている。
 目覚める直前までは陽だまりの中にいるような温かさを感じていたが、足の裏に感じるビニールクロスの床は今が二月もようやく始まったばかりだということを主張して、彼をじわじわ冷やしていく。
 何をどうしたらよいのかわからないが、とりあえず、無残に散らばった下着を身に着け始めた。
「誰も通らんで助かった・・・」
・・・そう、とりあえずは。

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