『秘密の花園-よるのむこう-』




 少し開いた窓から、湿りを帯びた風が入ってくる。
 唇を触れられたような感覚に、目が覚めた。
「夢・・・か」


 泣いている憲二を見た。
 触れたら折れそうな細い身体の、小さな、小さな憲二。
 濡れたような黒髪と、猫のように金色に輝く大きな瞳。
 真っ白な頬をくしゃくしゃにゆがめて泣く、幼い兄を、大人のままの自分が両腕で抱き寄せた。
『かつみ』
 硝子を震わせたような硬質の声が耳朶をくすぐる。
『勝巳・・・』
 泣きじゃくる大切な人の背中を懸命に撫でているうちに、それはだんだんと質感を帯びてくる。
 温かな、身体。
「憲・・・」
 寂しがり屋の憲二。
 いつも温もりを求めて、さまよい続けて。
 誰もが目を止めずにはいられない容貌と、驚異的とも言われた頭脳は、父とその取り巻き信奉者に疎まれ続け、踏みにじられた。
 そんな憲二を庇護しつづけ、大切にしてくれた長兄の俊一と秘書の峰岸はもういない。
 広がるのは、荒涼とした世界。
『どこにも、行くな』
 腕の中の憲二はいつの間にか大人の姿になっていた。
 しなやかなその身体を思いきり抱きしめて、薄紅の唇に触れる。
『かつ・・・み』
 禁忌だと、解っている。
 自覚した時から、何度も何度も己に問い続けた。
 だけど。
「憲」
 だけど、どうして触れずにいられるだろう。
『勝巳』
 合わせた唇と吐息が、ふわりと、笑ったような気がした。


 目覚めた瞬間のなんとも言えない感情は、いつも、変わらない。
 でも。
「夢・・・なら、仕方ない」
 憲二に対する想いに気付いて以来、決めたことがある。
 兄である以上、欲望の対象にしてはならないと。
 たとえ、扉一枚の向こうで誰かとの情事が予見できたとしても、目の前で無防備な姿を見せられたとしても。
 すべてを素早く忘れ、弟として姿勢を貫いた。
 気づかぬふりをして、憲二の隣に座る。
 彼にとっての真神勝巳は、人畜無害な犬のようなものなのだから。
 ただ時折、こうして願望が夢の中に現れてしまうことがある。
 夢の中での憲二は妖艶であったり、頼りなかったり、様々な姿を見せ、思うまま触れされてくれた。
 そして意志の弱い自分はその欲望に溺れていき、やがて覚醒を迎える。
 夢と知った時に身体を満たすのは、この上ない満足感で。
 ほどなくして、罪悪感のため息をつく。
 一応、眠っている間に見てしまう夢ばかりは仕方のないことだと、思うことにしている。
 夢を恐れて眠ることをやめてしまってはいざという時に周囲に迷惑をかけてしまうと正論めいた言い訳を盾にして、これくらいは許されるだろうと逃げ道を作る自分はかなりの卑怯者だ。
 
 すべては、己のために。
 永久に、兄の近くにいるために。
 憲二。
 あの、古い花園を贈りたいのだと言っても、多分、笑うだけだろう。
 それでも。
 閉じられたあの王国は、自分にとって何よりも美しい世界だった。
 自分にできるのは、守ることだけだから。
 そのためなら、この身体くらい誰にでもくれてやる。

 
 台所のテーブルに置き忘れていた、個人名義の携帯電話がふいに鳴る。
 今は明け方の五時。
 ニューヨーク滞在中の憲二は、古い友人たちとの交流を楽しんでいる頃だろうか。
 画面の発信元を確認してから受話のボタンを押した。
「・・・はい」
 聞こえてくるのは、かなり酔いの回った女性の甘えた声。
「わかりました。車で迎えに行きましょう」
 どのみち、今日は九時には仕事に入らなければならない。
 それまでなら泥酔した婚約者の相手をするのも、たやすいことだ。
「そのお店であと少し待てますか?今なら十五分くらいで着けると思います」
 寝間着を脱ぎながら時間繰りの算段をし、軽く受け合いながら電話を切った。
 
 この人でなしめ。
 もう一人の自分が非難の声を上げた。
 その一方で、これは正当な取引だと嗤う自分もいる。
 奔放な娘を持て余す相手先と、真神の資産を維持したい自分。
 互いの利害が一致して、婚約することにした。
 数年妻として引き受け、報酬として多額の金を貰う。
 彼女の親族たちと交わした契約だった。
 政財界ではよくあることで、本人も了解していることだけど。
 これでいいのかと迷うのは、彼女と接する瞬間だ。
 この関わりに、実を欲しがっているそぶりを見せられるたびに心が揺れる。

 でも今の自分には、こうするしかないのだ。
 鬼にでも、何にでも、なってみせよう。
 

 夏至を過ぎて、夜の領域がだんだんと広がっていく。
 夜を終えて。
 朝靄の中に心を紛れさせて。
 何事もなかったふりを続ける。

 『勝巳』

 やわらかな唇の感触を、心のどこかで反芻しながら。



 -完-


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