『秘密の花園-霧雨-』




 廊下を歩いていて、ふと立ち止まった。
 窓の外が、霞んでいる。
「・・・霧雨」
 松永可南子は、ふと頬を緩ませた。
 梅雨の時期ももう半ばだというのに快晴が続き、空梅雨も噂されて草木も辛いだろうと思っていたところ、ようやく降り出した待望の雨だ。
 空気が、ゆっくりと丸くなっていく。
「あ、真神先生」
「え、どこどこ?」
「ほら、そこ・・・」
 すぐ近くで固まって話し込んでいたはずの事務員たちが、窓の外を一斉に覗き込んでいる。
 ついつられて視線を落とすと、白衣をはためかせて大股に歩いて行く男がいた。
 真神勝己。
 研修期間を終えて、正式に医局に配属されたばかりの後輩医師だが、人当たりが良く仕事熱心なためスタッフの受けが良い。
 こうして、事務員たちが目を集めるくらいに。
「誰かと待ち合わせかな・・・」
 薄い、レースのカーテンを下ろしたようなぼんやりとした景色の中、彼の急ぐ先に細いシルエットがぽつりと浮かぶ。
 細いけれど均整のとれた体つきで、真っ直ぐにすらりと伸びたジーンズの足と、長めの黒い前髪が、遠目にも印象的な男性が、すっと長い指先を伸ばして植え込みの紫陽花の葉をなぞっていた。
 白い指先、うつむきがちの顔から覗く綺麗な鼻筋。
 そして、うっすらと微笑みを浮かべた唇。
 地上の潤いを確かめて、満足げに微笑んでいるようにも見えた。
 この霧雨を、まるで支配しているかのような情景だ。
 
「あ、あの人。工学部の真神先生だ」
「真神先生?どういうこと?」
「ほら、噂のお兄さんの方。私向こうのレストランでこっちの真神先生と一緒にご飯食べているの見たことがある」
「なるほど、あの人が美人な方の真神先生なんだ」
「やだあ、なにそれ・・・」
「まあ、たしかにこっちの先生は熊みたいだものねえ」
 彼女たちのはしゃぎようも知らず、同僚は噂の麗人の元へ辿り着くと、手にしていた傘を広げてさしかけた。
「うわ、優しい」
「こんな優しい弟、私も欲しかったなぁ」

 優しい。
 優しさがまず目について。
 彼の、ほんとうの美しさに誰も気が付かない。
 いや、気付かせないのだ。
 柔らかな幕を下ろしていることすら。

「あれ・・・?」
 さしかけたその傘を、その人は軽く払った。
 濡れた前髪から勝ち気な瞳が覗いている。
 露わになった冷たい顔が、ゆっくりと何かを告げた。
 そして、くるりと背を向け歩き出す。
「どうしたの、あれ・・・?」
 ざわめきに耳を傾けながらも、可南子の視線は二人から離れなかった。

 聞こえなくても、解る。
 無粋だ、と言ったのだ。
 霧雨を、そんなもので遮るなんてと。

 真神勝己は去っていく背中をしばらく見つめたあと、静かに傘を閉じ、白衣を脱ぎながら跡を追う。長い足であっという間に距離を詰め、ふわりと脱いだばかりのそれを肩に掛けた。
「うわ・・・っ」
 出刃亀たちの間で喜色に溢れた声が上がる。

 観られているなんて気が付かない彼は、兄の身体を白衣で包んで、追い越すように先を歩いた。
 今度はさすがにあっけにとられたであろう兄は、白衣に包まれたまま立ちすくみ、足早に先を行く広い背中に見とれている。
 そして、すぐに駆けだしてその背中を拳で突いた。

「・・・あ、これは私にも解る」
「わかるわねえ」
 観衆たちがクスクス笑う。

 『この女たらしめ』
 『何処でこんな技覚えたんだよ』
 まあ、そんな所だろう。

 そのまま、何度も小突かれながらも真神勝己は歩調を緩めて前へ進む。
 少し、跳ねるような歩調の兄に悪戯を仕掛けられながら悠然と進む彼は、きっと楽しげに笑っているだろう。
「折角絵になる兄弟なのに、なんだか小学生みたいね」
「まあ、所詮、男だからね」
 一人がわかった風な台詞を吐いた途端、全員がけらけらと笑い、彼女たちは仕事へ戻っていった。

 気が付いたら、霧雨はいつの間にか上がっていて。
 雲の切れ間からすうっと夏の光が降りてくる。
 きらきらと光の粒が舞う向こうへ、二つの後ろ姿が吸い込まれていった。
 
「あんな顔、初めて見た」
 
 白衣を脱いで、先行く人を追いかけた横顔。
 優しい微笑みが、霧雨の中に溶けて。
 孤独を知る、男の顔になる。
 
 雨の向こうの、秘密の花園。







 -完-


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