『秘密の花園-落葉-』



 秘密の花園 落葉

 木々が、ざわめいている。
 まるで、目前に迫った冬を恐れるかのように、僅かな風の力を借りて一斉に葉を落としていく。
 ざらざらと音を立てて降り注ぐ乾いた葉は、まるで冬の始まりのぼた雪のようだ。

「それよりも、土砂降りに近いか・・・」
 手の平をかざして目をすがめると、その落ち葉の舞い散る先に見覚えのあるシルエットに気づいた。
「これはまた・・・」
 珍しいこともあるものだ。
 にやりと笑みを浮かべると、先に気づいていたらしい相手は折り目正しく、優雅に頭を下げた。
「・・・お久しぶりです」
 ゆっくりと上げる顔にうっすらと影を作る睫は一筋まで艶やかに黒く、完璧に、美しい。
 これほど造作の整った男はなかなかいない。
 やや尖り気味の顎と知的で気品に満ちた細身の体躯。
 そして、滴ると表現して良いような色香。
 秘書にしておくには、もったいない男だと、常々思う。
「本当に久しぶりだな。元気にしていたか、篠原」
「はい。憲二様も・・・」
 そして、唇だけをゆっくりと動かし、とろりと吐息で言葉を紡いだ。
 相変わらず、お美しい。
「よせよ。その気もないくせに」
 戯れ言を吐き出す、薄く引き締まった唇に指先を当てて、遮った。
「・・・申し訳ありません」
 ふっと全く悪びれない笑いを浮かべた男の胸を軽く突いて、同行を許す。
「俺に、何か用か?それとも勝己か?」
 大学内は木々から落ちた葉で埋め尽くされ、まるで絨毯のようだ。
 それをゆっくり踏みしめながら問う。
「いえ。富貴子様が入院中のご学友のお見舞いでこちらに来てまして。少しカフェで時間を潰したので、そろそろ迎えに行こうかと」
「ご学友ね。あの人ももう結構な歳だよな」
 実家と長い付き合いの女帝の顔を思い浮かべたが、自分の歳を考えると、もういくら何でも八十に手が届いて良い頃だ。
「そのはずですが・・・。ますます意気軒昂で私なんかの手にはとても負えません」
 珍しく本音を覗かせる男の頬を見上げ、目をしばたかせた。
 そういえば、先ほど会った瞬間に思ったのは。
「・・・お前、変わったな」
「・・・え?」
 整いきった顔に、僅かな、さざ波のようなものが揺れていくのを感じた。
「さっきは見違えたよ、一瞬、誰かと思った」
「・・・それは、老けたという意味でしょうか」
 もう、三十過ぎましたしと自嘲するが、なら、その更に十歳上の自分はどうなのだと皺一つ無いスーツの腕に軽く拳をぶつけた。
「いや、そういうのでなくて・・・」
 ああそうかと合点がいく。
「お前、どこか魔物めいていたけど、随分と人間くさい雰囲気になってきたな」
「・・・は?」
「最初、文楽人形がリアルで動いてるよと驚いたくらい、人外だったのにな、お前」
 今は、瞳の中に、なめらかな頬に、かすかな生気が灯っている。
「・・・その、文楽人形とやらに触れてきたのは貴方でしょうに」
 偶然見つけた、ひとがた。
 まだ黒い詰め襟の、清らかな首筋からは色事にこなれすぎているのか、もう既に退廃した匂いがわき上がっていた。
 面白い、と思って、手に取った。
 真っ黒な瞳は黒曜石のように黒くて暗くてキラキラしていて、その冷たさが気に入った。
 あるじに欲しいと言ったら、「本邸と引き替えにされるなら差し上げましょう」と返され、爆笑したのを覚えている。
 金ボタンをはじいて白いシャツの下の肌に触れてもひんやりしていて、まるで時計のように規則正しい心臓の音に、やっぱりコイツは人形だろうと断じても、その顔に浮かぶのはやはり作り物の、綺麗な笑みだった。
 その後、和楽の聞こえる家から消えて少し残念に思っていたところ、意外なところで今度は再会した。
 長田富貴子が一族の子供たちと各家の秘書の育成のために開いた施設、通称長田塾。
 各人の才能を見極め、それぞれの私的・公的教育機関で学ばせ、色々な作法と常識を叩き込んだ上で人生の後押しをする。
 その中で篠原は秘書としての才能を開花させ、今は長老である長田有三および富貴子のサポートをする秘書メンバーの一人になった。
 それでも。
 どこか魂の入っていない人形のままだと感じた。
 とくに学生時代の彼は、抱いても、抱かれても、どんなに激しい衝動の最中にいても、冷え切った芯のようなものが身体の奥に存在していた。
 しかし、それはお互い様で、だから続けられると、しらじらと明けていく朝に目を閉じた。
 似たもの同士で気の向くままに肌を重ねて数年。
 突然、自分が終わりを告げても、彼の瞳にはなんの色も浮かばなかった。
 始まる時も、終わる時も。
 変わらない、変わらなかった瞳。
 それが今、不思議な色合いに変化して行っている。
 未練があるわけではないけれど。
 少し、悔しい気持ちがあるのも認める。
「良い男になったと、言って下さらないのですか?」
 清々しいまでの、美しい笑み。
「言うか、馬鹿」
 悔しいので、ちょっと意地悪を言ってやる。
「啓介を、うちがもらった件は心の整理がついたか、高志」
 ぴくりと、眉が震えるのを見逃さない。
「もらったって・・・。どちらかというと、春彦様をこちらが頂いたと解釈しておりますが」
「そんなわけあるか。春彦は絶対に渡さない。そっちには詩織っていう女王蜂候補がいるんだから、充分だろ。啓介は貰う」
「それって、いったいどんな論理ですか」
 彼を、少し、変えたのは、やはり啓介か。
「お前が、普通の男の顔になって、俺はほっとしてるよ」
 男にしては整いすぎた指先をすくい上げ握ってみると、暖かな熱を感じた。
「ほら、随分と血が通って、暑苦しいくらいだ」
 考えてみれば、身体を重ねたのに指を絡めたことは一度もなかった。
 折角だから、そのまま手を引いてほとんど葉を落としてしまった桜並木を歩く。
 さくさくと踏みしめる落ち葉から、ほんのりと生きた香りが立ち上って鼻をくすぐる
「なあ、高志」
「はい」
「桜餅が食いたいな。道明寺の方の」
「・・・そういうところは、本当にお変わりないですね」
 頭一つ上からため息がこぼれ落ちた。
 それでも、指を解く気配はない。
 
 ほら、もう、こんなに人間くさくなって。

「今から買って来いよ、桜餅」
「無理です。仕事中だと申したはずでしょう」
「富貴子様も、喜ぶぜ?」

 半歩ほど先に足を進めていたのを突然逆に手を引かれて、立ち止まる。
 白い面が真上から見下ろす。
 強い風が吹いて、木の枝のざわめきが激しくなり、落ち葉が舞い落ちては吹き上上げられ、一瞬夢の中に転じられたような錯覚を覚えた。
 男の、整えられた黒髪が乱れて額に落ちる。
 それすら別世界の出来事のようだ。
 
「人間くさくなったのは、貴方のほうでしょう、憲二様」
 魔物と呼んでいた男が、囁いた。
 まるで幼子を慈しむような暖かな瞳で笑いかけられて、頬に熱がさす。

「指の先まで、愛されて。貴方は変わった」

 風の音、
 むせ返るような桜の葉の匂い、
 そして、懐かしい男の声に包まれる。

「・・・離れた理由を、私が知らないとでも思いましたか?」

 ざわめきが、押し寄せてきて、遠ざかる。

「貴方は、ずいぶんと綺麗になりました。本当に」

 落ち葉の間からこぼれる言葉。

 昔よりも、ずっと。
 まぶしいほどに。
 あなたは、本当に、美しい。







 -完-


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