『秘密の花園-6月の花嫁-』




 6月の花嫁は、幸せになるらしい。
 花嫁のための月だとも言える。

 初夏の日差しが庭園の花々の色をより鮮やかに輝かせている。
 名前はわからないけれど、どこか見たことのある花弁と香りが披露宴会場を彩っていて、若い花嫁と友人達を美しく、そして幸せに見えた。
 初夏のニューヨーク郊外は、一斉に開いた花々に埋め尽くされている。
 さすがは、女神ヘラの支配下と言われる月だ。
 可憐な花も豪奢な花も、とりどりに咲き誇る。
 花の香りと、芝の匂いと、ざわめきが風に乗ってするりと過ぎていく。
 宴もたけなわになり、主役の花婿と花嫁が中央でダンスを始め、次々と出席者たちもそれに加わり始めた。
「そろそろ頃合いか・・・」
 自分一人が抜けたところでわからないと判断し、出口を探して振り向いた瞬間、危うく近くにいた女性とぶつかりそうになった。
「あ・・・」
「sorry・・・」
 まず目に入ったのは翻った真っ青なワンピースドレス。
 そして、少し膨らみを帯びたお腹。
 ヒールの低いパンプス。
 慌てて手をさしのべて女性が転ぶのを防いだ。
「ありがと・・・」
 日本語。
 視線を上げると、そこには見知った顔があった。
「松永・・・可南子・・・」
「ごきげんよう、憲二さん。おひさしぶりね」
 懐かしい富士額の女性がにこりと笑った。
 艶やかな黒髪を背中に流し、独特の青を身にまとう彼女は、先ほど見かけた庭園の花のようだった。
「今日は随分と綺麗な・・・」
 何度か彼女に会ったが、日本的な地味な色合いの服を着ていて、今とは顔立ちすら違って見えた。
「ああ・・・。日本名で言うなら露草色かしらね」
 憲二の言いたいことを察した聡い女は瞬時に返す。
「日本にはなかなかない色よね。一目見て気に入ったの」
 ゆったりと笑みを浮かべながら、無意識のうちに膨らみを繊細な指先でそっと撫でた。
「そのお腹・・・。勝己の?」
 弟からは一言も聞いていないのに。
 彼女の身体の中に確かな命が息づいている。
「まさか!!」
 一笑に付されて、目を見開く。
「夫はあちらにいるわ。新婦の知人なの」
 彼女の視線の先には明らかにダンサーと思われるきらきらしい群れがいて、その中でも骨格の美しさでひときわ目立っている若い男が自分たちを認め、投げキッスを送ってきた。
「あれって・・・」
 少し恥ずかしそうに手を上げて応える可南子は、幸せに満ちていた。
「ええ。新婦が支援しているバレエカンパニーのソリスト。あなたは新郎のお知り合い?」
「うん、そうだけど・・・」
 聞いていない。
 何度もそんな台詞が頭の中をぐるぐると回る。
「いつ?」
「出会ったのは去年の末で、4月にこっちで式を挙げたわ」
 さすがに勝己を招くわけにはいかなくて。
 少し残念そうに微笑まれて、憲二は混乱を深めた。
「なんで。俺はてっきりあんたたちが・・・」
 二人は、物凄く自然に寄り添っていると思ったのに。
「ちょっと長すぎたのかしらね・・・。まあ、私の同僚というか上司たちから姑息な嫌がらせを受けて、甘い時間をもてなかったせいも、少しあるかしら」
 彼女の手を取って、木陰のベンチに座らせた。
「嫌がらせって?なに?」
「前に勝己の部屋で会った時、急患が入ったでしょう。いつもああいう感じ。私と彼がなかなか会えないように、細かい仕事をどんどん回したり、出張を入れたり・・・」
「・・・それ、勝己も解ってた?」
「ええ。でも実際、目の前に患者がいるんですもの。それを放り出す人じゃないでしょう」
「・・・もしかして、俺も邪魔してた?」
 可南子の存在を知ってからも、憲二は好きなように弟を扱った。
「ああ・・・。それはないわね。本当に、勝己の休みの日って私はたいてい勤務だったのよ。二人の休みが重ならないようにちまちまねちねちとやられたから・・・」
 セクハラと言っても良い域だったと、今は思う。
 実際、不倫を持ちかけてきた男たちを完膚無きまでに叩きのめしたのがそもそもの理由だったのだから。
「あの日、キスしていたのはね・・・」
 あの日、と言われて、勝己の広い背中を思い出す。
 細い指先が、首に絡んでいた。
「キスくらいしないと、もう、関係を保てないからよ」
 別れ際の、挨拶代わりの、キス。
 それは、まだ離れていないことを証明する儀式のような物だった。
 唇を合わせて、まだ男と女なのだと、その情の温度を確かめるために。
「あの人はいつでも優しくて・・・。大切にしてくれたけれど。欲しがってはいないことは解ってた」
 それでもいいと思った二年間。
 そのまま、未来に続くと思っていた。
「大切にしてくれることと、愛されていることは、別なのよね」
 木漏れ日が、透明な瞳を優しく照らす。


「・・・あの夫は・・・。ちがうのか?」
 隣に腰を下ろして、視線を向けた。
 気温が上がってきたのか、庭木の緑の匂いを濃く感じる。

 若い、男だ。
 見た目だけではない。
 何もかも、幼さすら残る若木のような、男。

「・・・ええ、そうね。私の元に担ぎ込まれた日から人目も憚らずに求愛されて・・・。驚いたけど、嬉しかった」
 求められるということを、初めて知った。
「でも、それは・・・」
「吊り橋効果だとでも?それは真っ先に考えたし、本人にも言ったわよ」
 十歳近く離れた、旅人。
 見知らぬ土地で怪我をして、心細くなっただけかもしれない。
 人恋しさがつのったのかもしれない。
 もしくは、衝動。
「でもね」
 桜色の指先が、ゆっくりと、命をあやす。
「どうでもいいかと思えてきて」
 豊かな、微笑み。
「私も、恋したの」
 それが、答え。

「・・・恋、ね」
 降り注ぐ緑の光を眩しげに見上げて憲二は呟いた。
「・・・俺には、それが、わからない」
 知っていたつもりだけど、果たして恋だったのか、執着だったのか。
 そして、自分がとらわれていたのは誰だったのか。
 遙か昔になってしまった記憶はもはやおぼろげで、その輪郭すらみつからない。
 
「まだ、知らないだけなのかもしれないわよ?」
 首を傾け、突然間近で顔を覗き込まれて、息が止まった。
「・・・あんたが、今まで、知らなかったみたいに?」
「そう。私がようやく知ったみたいに」
 にい、と、物語に出てくる巨大猫のように笑う。
 きらめくその瞳に何かを見透かされたような気がして、胸がざわめいた。
「・・・のろけですか、それ」
 出てきたのは、子供のようにふてくされた声。
「そう、のろけよ、今のはね」
 くくくっと、喉の奥で笑われて、どこかほっとしてしまう。
 しかしそれは、彼女を侮っていただけなのだと、知った。
「で、ここからはおせっかいなの」
 ふいに軽く顎を掴まれて、今度こそ驚いた。
「あなたは、とても大切なことを見落としているの、解ってるかしら?」
 瞳が、緑の光を乱反射して、目眩を覚える。
 緑の、瞳。
 彼の、色を、思い出す。
「せっかく、あなたの手の中にある大切なものが、なくなってしまうかもしれないって、考えた事、ある?」
「・・・なんの、こと?」

 ジャスミンの、匂いがする。
 彼女は香水を付けていない。
 なら、どこかで花開いているのか。

 頭の奧でぼんやりとりとめもないことを考えているのをすぐに感じ取ったのか、可南子は深いため息をついた。
「・・・勝己、今度こそ結婚するみたいよ?」
「・・・は?」
 白いもやが、いきなりはぎ取られる。
「年内に・・・は、さすがに無理でしょうけれど、そう遠くない吉日に」
「ちょっと待って、何それ。今度こそって・・・」
「私も、打診されていたのよ、真神のお義父様から」
「いつ」
「付き合って、わりとすぐかしら」
「なに、それ・・・」
「私の母方の一族が東北の歯科医師会を牛耳っているから、お会いする機会がけっこうあったのよね」
 網の目のように張り巡らされた政財界に身を置くからこそ、彼女は真神という名をすんなり受け入れていたのだと、今更気が付いた。
「二人で、病院でも開業するか?資金はいくらでも出すぞって言われたわ」
「聞いてない・・・」
「あなたが、聞こうとしなかったからでしょう?」
 痛烈な一言だった。
「まあ、勝己に迷いがあるのは解っていたから、のらりくらりとかわしていたしね」
「迷いって・・・」
 可南子が年上であることは、真神家で全く問題にされなかったと告げられ混乱する。
「私が、勝己を、好きだったからじゃない?」
「え・・・?」
「私は、好きだったのよ?とても、とても・・・ね」
「・・・とても」
 なら、なぜ。
 なぜ、別れた。
 子供のような繰り言が口からついて出そうになる。
 しかし、それを今更聞くべきでないと理性がとめた。
「だから、今度は、見るからに自分のことが一番好な女を選んだみたいね」
「・・・は?」
「彼女と同級生だった従妹から聞いたのだけど、見栄っ張りで、ものすごく勝手で、高慢で、自分が世界一可愛いって思っていて、お金が大好きで、日本が嫌いな女、なんですって」
 暴風のように突然押し寄せてくる様々な情報に、頭がついていかない。
「どうして、そんな女と・・・」
「自分が一番な女なら、夫を顧みないと、思ったからでしょうね」
「そんな結婚、意味あるのか?」
「勝己にとって一番大事な条件なんだと、ようやくわかったわ」
 

 結婚とか、条件とか。
 憲二にとってそれは一番遠い話だった。
 幼い頃から関係の破綻した夫婦ばかりを見てきたからこそ、家庭を持ちたいなどと思ったことはない。
 むしろ、拒絶し続けた長兄に今は共感すら覚える。
 兄の俊一は、どんな形であれ妻を娶ることを頑なに拒んだ。
 その結果、父との関係がどんどん悪化していき、最後には絶縁も辞さないと三行半を叩きつけて家を飛び出したまま事故死してしまった。
 溺愛していた息子に背かれ、更には悔いの残る形で別れてしまったというのに、あの男はまだ、懲りていないのか。
「勝己に押しつける気、か・・・」
 俊一の後釜として婿養子に迎えた勇仁と姉の清乃の関係もこじれにこじれ、とうとう愛人が息子を産んで東京で正妻気取りを始めている。
 崩壊しつつある王国をなんとか建て直すために、胎児の時に不要だと、殺せとすら言っていた三男をかり出すのか。
 鈍痛を感じて額を押さえると、暖かな指先がそっとその手を取った。

「ちがう。ちがうのよ」
 柔らかく握り込まれ、その瞳を見返す。
「勝己の一番が、真神なの。家のことも、御両親のことも、ご姉弟のことも、そして甥御さん達に勇仁さん・・・。みんなを守るために、最良の方法をいつも探してる」
 自己犠牲ではなく、自己愛が強すぎるのだと、自嘲気味に笑ったのはいつのことだったか。
「でも、これ以上抱えられないことも解っているの。だから、形ばかりの妻が良かったのね」
 自分は、彼の望む妻から逸脱していた。
「それでも構わないと思ったから、ずっと勝己のそばにいたの。そして彼はそんな私を振り払えなかったから長引いてしまった」
 いつでも、優しい男。
 その優しさが、時には諸刃の剣になってしまうことを知りながら、手を離せなかった。
 誰よりも、残酷な男。
 酷い人だと思う。
 だけど、憎むよりも愛しさが勝った。
「ユーリに・・・、私が夫に出会って、ほっとしたのは勝己の方だったかもしれない」
 可南子を見送って、勝己もまた、歩き出す。
「でも、あの人も、つくづく馬鹿ね」
 今は全く、未練なんてないけれど。
 情だけは、熾火のように残っている。

「・・・え?」
 いつもの研ぎ澄まされた美貌は影を潜め、すっかり幼子のような、頼りない表情になってしまった憲二は無意識の声を上げた。

「勝己を、愛せない女って、いると思う?」

 風が、草木の香りを攫いながら流れていく。
 首筋を、冷たい何かが走った。

「全く自分のことを解っていないみたいだけど・・・。彼は、恐ろしく魅力的な男よ」

 広い背中、
 大きな手。
 穏やかな表情の奥底に眠る、綺麗な瞳。
 優しい声、
 甘い吐息。
 時々見せる雄としての顔が、欲を呼び覚ます。

 できることなら、溺れてしまいたいと、思ったこともある。
 踏みとどまったのは、単に、年上としての矜持だ。

「それに、手のかかる人ほど放っておけないのは、あの人の悪い癖ね」

 風が、止まる。
 ダンスの音楽も、人々のざわめきも遠く離れて。
 飴色の、とろりと甘い瞳が、揺れた。

 ここから先は、触れてはいけない領域。
 解っていても、言わずにはいられない。

「自分しか愛せない女なら、なおさら勝己が欲しくなるでしょうね。真神よりも愛してと泣き叫んだ時、勝己はどうするつもりなのかしら?」

「・・・」

 息を呑み、まるで人形のように動かなくなった男を見て、少し、報われた心地がした。
 自分の中に、こんな一面があったなんて、驚きだ。
 しかしこれは、自分たちの未来に必要なことだと、信じている。

「・・・罪な人」

 容赦なく、とどめを刺した。

 これは毒。
 指先にちくりと刺して、じわじわとその身体に広がっていく、疑念という名の毒だ。
 いや、毒と言うよりも。
 種なのかもしれない。
 何も見ない、
 何も感じない、
 誰も愛せない。
 氷の王国で凍える男の心に、小さな種を一粒植え付けて、それが隅々まで根を下ろして枝を伸ばし、葉が茂る頃、きっと何かが変わるはず。

 6月は、女神の季節。
 運命の歯車が、静かに回り出す。
 彼の中に咲く花は、どんな姿をするだろう。
 


 -完-


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