『秘密の花園-名残りの雪-』




「あ・・・れ?」
 空を見上げると、白いものが落ちてきた。
 最初はふわりふわりと頼りない綿ぼこりのようなものだったのに、それが次第に数を増していく。
 あるかないかのほのかなものが、次々と仰向いた顔の上に舞い降りて溶ける。
「気持ちいい・・・」
 ふ、と、吐息が喉を滑り出した時、いきなり視界を遮られた。
「憲」
 深い緑に覆い尽くされる。
 少し、目がくらんだ。
「ん・・・なんだよ」
 ふらりとかしいだ自分を、暖かな身体が包み込んだ。
「仕事、さぼって大丈夫なのかよ、先生」
 茶々を入れると、生真面目な弟の声が返ってくる。
「憲が、馬鹿みたいにこの寒いなか立ってるのが目に入ったから」
 背後から暖かい吐息がふわりふわりと頬を撫でて、くすぐったい。
「俺は、こうしてるのが好きなんだ」
 小さいころからこうしてきた。
 あの、がらんどうの庭でも。
「わかってる。・・・でも風邪をひく」
 そう言うなり、あっという間に鼻から首まで柔らかなマフラーでぐるぐる巻きにされた。
 濃紺の細やかなカシミヤ糸を使った手編みのマフラー。
「これ・・・。もしかしなくても母さんが編んだやつだよな」
「ああ、そうだっけな」
「お前、この年になって母さんの手編みはないだろう。前にこれじゃなくてもっと綺麗で上等なの巻いてたじゃないか。水色の・・・」
「あれは、なくした」
 さらりとかわされ、言葉の続きを失う。
「あ・・・。そう」
「うん」
 ほら、と、今度は手を取られてぐいぐいと手袋まで装着される。それはマフラーと同じ色合いで、少し憲二には大きかった。
「あっ、しかも手袋まで母さんの・・・」
「これは、この間編み直してくれた。もう指先が擦り切れていたから」
「そういうことじゃなくってさ・・・」
「憲」
 声が少し、遠い。
「なに?」
「昨日は晴天でとても暖かかったのに、今日は雪だなんて不思議だな」
「うん・・・。そうだな」
 弟は、空を見上げていた。
「こういうのって、名残りの雪っていうんだっけ」
 勝巳は、時々こうやって、幼い物言いに戻る。
「・・・。うん」
 顔を上げ、もう一度雪を視線で追い始めた。
 預けた背中は暖かく、びくともしない。
「面白いね」
 あの庭でも、何度もこうして空を見上げた。
 ちいさな勝巳の手を引いて。
「うん」
 胡粉に薄墨を少し混ぜたような曇り空から、小さなものが生まれ、あとからあとから降りてくる。
 色と音を吸い取って、世界を、閉ざす。
 二人だけの、秘密の庭。

 ぴちゅぴちゅ、ぴちゅ・・・。
 毬のように体を膨らませたスズメたちが、近くの軒下に転がり込んで、はしゃいでいる。

 鳴き声に誘われて首を回らせると、紅を刷いた花弁が目に入った。
「あれは・・・」
「梅だよ。紅梅」
「それくらい、俺にもわかる」
「そうなんだ」
 心底意外そうな声に少し腹が立ち後頭部を強く押し付け全体重をかけると、ごめんごめんと笑いながら抱え込まれた。
「・・・春が来るね」
 二人の吐息が、天に上る。
「そうだな」
 
 白い綿が、紅色に溶けて、消えた。




 -完-


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