『秘密の花園-夢魔-』





 白いもやの中に、男がいた。
 いや、むき出しの、男の身体がそこに存在した。
 広い肩から腹まで続く、引き締まりきった上半身。
 完璧に張り巡らされて盛り上がる筋肉の上をぬめった光が覆い、透明感のある白い肌はまるで磨かれた大理石の彫像のようだった。
 いや、彫像なんてものじゃない。
 生きた、男だ。
 その、男の身体から目が離せなかった。
「・・・っ」
 名前を、知っている気がしたけれど、それを口にすることが出来なかった。
 呼んでしまったら、この世界が壊れてしまうような気がして。

 突然、視界を遮るものか出現する。
 柔らかな肢体は女以外のなにものでもない。
 長い髪とその後ろ姿しか見えないその女に心当たりは全くない。
 ただ、若い女。
 それ以外、解らないし興味もない。
 だけど。
 その女が目の前の男に腕を絡めてしなだれかかった時、一変した。
 まるで、所有するのが当然であるかのようなその光景に、心臓が早鐘を打つ。
 どく、どく、どく、どく・・・。
 いや、身体のどこかが切り裂かれて、血を流しているかのような痛みと喪失感が走った。

『彼は、恐ろしく魅力的な男よ?』

 理知的な、女の声が木霊する。

『・・・を、愛せない女って、いると思う?』

 あの男を、欲しがらないなんて。
 
 男の腕が、ふいに動く。
 ゆっくりと、女の身体に手を伸ばし、抱きとめようとしているのが解る。
 男の腕の輪が、閉じる。

『手のかかる人ほど放っておけないのは、あの人の悪い癖ね』

 ならば、お前はこの女を愛すると、言うのか。

 大きな手が、指先が、女に触れようとしたその時、叫んでしまった。

「・・・勝己!!」

 強い風が、吹く。
 思わず目を固く閉じる。
 全てが霧散したのを、感じた。
 
「憲・・・」

 優しい声が、耳元で囁く。
 固くて、大きな手の平に頬を包まれて、力が抜けた。
 暖かな吐息が唇にかかる。

「憲・・・。大丈夫だから」

 唇をゆっくりとついばまれて、目尻から涙が落ちた。
 彼を、感じたくて腕を伸ばし、自分の中に閉じ込める。

「いくな・・・」

 どこにも行くな。
 ここにいろ。

 そう囁こうとしたのに、腕の中は、空っぽで。
 慌てて目を開くと、あたりは真っ白だった。
「かつみ・・・」
 どこにも、いない。
 ここに、いたのに。

『だから、甘えてしまうの。みんな』

 勝己を愛した女の声が響く。
 自ら手を離したくせに、それを惜しんでいた。

『罪な、ひと』

 欲を知らない男は、愛すらも惜しみなく与えてしまう。
 誰にでも、求められるだけ。
 そして、いつかは囚われてしまうのだろうか。
 囚われて、遠くに、行ってしまうのだろうか。

 白いもやの中を這うようにして、探す。
 だけど、何処を探せばたどり着けるのか解らない。
 いらだちが頂点に達して、叫ぶ。
「勝己!!」
 呼べば、お前はいつでもそばにいたじゃないか。

「かつみ!!」


 目を開くと、ごうんごうんという耳障りな音が取り巻いていた。
 自分が今どこにいるのか瞬時に理解する。
 羽田行きの飛行機の中だ。
 ニューヨークで知人の結婚式に出席したあと、その足で空港へ行き空いていた飛行機を見つけてすぐに飛び乗った。
 疲れがたまっていたのかビジネスクラスのシートの背もたれに身を預けて、いつのまにか眠っていたようだ。
「・・・っ」
 慌てて口を押さえるが、周囲に変わった様子はない。
 暗めに落とされた照明の中、ほとんどの乗客は眠っているようで、客室乗務員すらも通路を歩く気配がない。
「夢か・・・」

 なんて、夢だ。

 寝汗をかいていたことに気付き、首元を手の甲でぬぐう。
 目覚めてからも鼓動は早いままで、胸元がつきりと痛む。
「・・・か、・・・」
 名前を口にしそうになって、唇を噛みしめる。
 この、胸の痛みは何なのだろう。
 胸元を掴む指先がだんだんと冷えてくる。
 ここは、寒すぎた。
 ふるりと、身体が震えた。

「冷えたから、温めろよ・・・」

 夢の中の男に、せがむ。
 そして、思い出す。
 何度も何度も。
 
「勝己」

 唇だけが、熱い。





 -完-


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