『秘密の花園-雪-』
雪が、降っている。
天窓の空を逆さに見上げて、そう、思った。
白い雪。
音も、罪も吸い込んで、真っ白な結晶の中に包み込む。
律動が、止まった。
「くっ・・・。」
呻いた男から、ぽたりと、汗の雫が落ちてきて、額を濡らす。
「ふ・・・」
顎をそらして息をつくと、ずるりと力を失った物を身体の奥から引き抜かれた。
「んん・・・っ」
いつも、この瞬間はどうしても声が出てしまう。
「憲二様・・・」
上に乗っていた男は荒々しい息もそのままに、唇を重ねようと顔を寄せてくる。
それをさりげなくかわして、柱時計に目をやった。
「・・・もうすぐ11時だけど、時間、大丈夫?」
さんざん揺さぶられて息が上がっているはずなのに、思いの外落ち着いた声になってしまった。
彼が一瞬身を固くするのを、重なった太股で感じた。
「って、俺のせいだよな。ごめんね、佐川さん」
ふいに笑いがこみ上げてくる。
「そんなことは・・・」
まだ昼にもなっていないのに、兄の秘書の一人を引きずり込んで身体を開いた。
全身舐めてもらって、後ろと前から突いてもらって、ようやく治まった。
我ながら、自堕落にも程がある。
父に知れたら、また、殴られるのだろうか。
それとも、もう、殴ることすら放棄するのだろうか。
「しかし、大丈夫ですか、憲二様・・・」
男は眉をひそめ、かろうじてシャツの袖を通しただけの半裸で全身を投げ出して脱力している自分を見つめた。
まだ、彼の瞳からは雄の支配欲がみなぎっている。
中途半端に焚きつけられた情欲が、些細なきっかけであふれ出しそうだ。
だけどそれに気づかぬふりをした。
「うん、平気」
じわじわと、外の冷気が降りてくる。
この部屋の暖房は万全で暑いくらいだったのに、ぴんと、固い空気が流れていく。
なんとか唇に笑みを浮かべ、右腕を持ち上げた。
「俺は大丈夫だから・・・。行ってよ、佐川さん」
とん、と指先で軽く相手のしっかりした胸板を押すと、佐川はまだ燻っている熱い息を吐き出し、ソファから降りた。
彼は、前を少しはだけただけだから、身繕いにそう時間はかからない。
それでも。
事の終わりはどうしていつも滑稽なのだろう。
シャツの乱れを直す衣擦れと、ベルトを締める金属音、そしてスーツに袖を通す気配を聞きながら、ぼんやりと天窓の雪景色に引き込まれていく。
さらりさらりと雪が降る。
汗ばんだ胸元にしんしんと降り積もってくるような錯覚を覚え、うっとりと目を閉じた。
「・・・雪が降りだしたから」
眠りに身をゆだねたい心地だが、かろうじて言葉を唇に載せる。
「足もと、気をつけて、佐川さん」
突然ふわりと毛布に包まれる。
目を開くと、きっちりネクタイをしめて一糸乱れぬスーツ姿の佐川がいた。
「憲二様も、お気を付けて」
大きな手で髪をゆっくり撫でられて眼を細めた。
終わった時に触られるのは好きでないが、これは、嫌いじゃない。
「・・・うん。ありがとう」
生真面目な男は黙礼して、部屋を出て行った。
さあっと滑り込んだ冬の空気が、頬を掠める。
「潮時かな・・・」
彼の持ち物と、行為の激しさを気に入っていたけれど、そろそろ引き返す頃合いだろう。
レンアイを、する気はさらさらない。
彼は、あの男になり得ないのだから。
綺麗に畳まれてサイドチェストに載せられていた服を身につけていたら、ためらいがちなノックが聞こえた。
知らず、頬に笑みが浮かぶ。
「入って良いよ、勝己」
セーターの裾を引き下ろしたところで、黒い小さな頭が扉からひょっこり覗いた。
「お茶、入れたけど、飲む?」
弟は、タイミングを計るのが上手い。
丁度喉の渇きを覚えたところだった。
「飲む飲む。俺、ロシアンにしたい」
「うん」
既に見当を付けていたらしく、ティーセットの傍らにジャムの瓶が用意されていた。
ガラスのマグカップがニルギリの深い色に満たされていく。
そこに、たっぷりの苺ジャムをすくい入れてゆっくりかき混ぜた。
甘酸っぱい蒸気が立ち上る。
「おいしい」
受け取ったマグに軽く唇をつけ、香りと味を舌に乗せた。
「俊一お兄さまたちは、もう出発した?」
含みのある物言いにもたじろぐこともなく、こっくりと素直に肯いた。
「うん。母屋は、静かだよ」
そもそも両親と姉はここのところずっと東京の邸宅住まいだ。
たまたま地元との調整のために兄と複数の秘書たちが昨日から帰ってきていたが、用が済んだらしく正午前に出発すると聞いていた。
ならば、今、この広い本邸内は自分たち兄弟と複数の家政婦たちだけだ。
そんな生活は物心つく前からずっと変わらない。
この花園の中に、自分たちは閉じ込められている。
「あ。お昼はいつが良いですかって、一枝さんに聞かれたから、2時くらいにお願いしますって答えたけど・・・」
勝己は、何も言わない。
知っているだろうに、見ているだろうに、誰に対しても、口を開かない。
「うん、それがいい」
小さく肯いて弟は向かいのソファへ腰を下ろし、ゆっくりロシアンティーを飲みはじめた。
この冬の間に、また全体的に身体が大きくなってきた気がする。
少し前まで子犬のようにちんまりとしていた筈なのに、夏のあたりから手足がにょきにょきと伸び続けて、母と姉の背を追い越し自分に迫る勢いだ。
自分でも突然成長し始めた身体を扱いかねているらしく、時々不思議そうに手の平を見つめている時がある。
そもそもその身体に乗っかっている顔がまだ子供の面影を濃く残したままなので、そのアンバランスさがおかしく、正直とまどうこともある。
たとえば、こんな気遣いも。
まだ少し湯気の立ち上る液体を一気に煽ると、全身にさーっと甘酸っぱさと温もりが広がった気がした。
「勝己」
ソファの奥に身体を伸ばして横になり、シートの空いている場所を叩いて呼ぶ。
飲みかけのマグカップをテーブルに置き、彼は立ち上がりゆっくり迂回してそばに来た。
遠慮がちに端に座るのを、腕を強引に引いて背後から抱き込んだ。
「憲・・・」
少しかすれ気味になってきた声が寂しくて、まだ幼さの残る首筋に鼻先を付けてすんと匂いをかいだ。
とくとくとく、と、鼓動を両手の平に感じる。
ロシアンティーの甘い香りと、ひなたに干した布団のような匂い。
小さな、小さな小鳥を手の平に包んでいるような頼りなさと、なんともいえない甘酸っぱさがない交ぜになって、どうしていいか解らなくなる。
「このまま、ちょっと寝る」
ぎゅっと強く抱え込んでぶっきらぼうに言うと、小さな声が答える。
「うん」
勝己の背中からこわばりがじわりと溶けた。
「あったかいな、お前」
「そう?」
自分たちは、いつも、こうしてきた。
広い、広いこの世界で、いつも二人きりで凍えるから、凍ってしまわないように身を寄せる。
ぴたりと一つにくっついて、互いの体温を分け合って、ようやく眠ることが出来た。
奥底に眠る蜜の味を早くに覚えてしまい、無差別に味わうけれど、美味しいのは一瞬で終わってしまう。
そしてどんなに飲み干しても、瞬く間に渇きが襲ってくる。
いや、飲めば飲むほど、渇いていく。
だけど。
勝己がそばにいるだけで、何もかも遠くに離れていった。
そして、どろどろに汚れた自分を、柔らかな白さですっぽりと覆い隠してくれる。
「憲、あのね・・・」
何事か伝えようと身動きするのを、腕の力を強めて制す。
「動くな」
多分、大切なことを、彼は言いかけた。
でも。
「ちょっと、だまってて」
可哀相な弟に、非道いことを言っている。
それでも。
今は、何も聞きたくない。
「うん・・・」
とく、とく、とく・・・。
小さな、小さな鼓動。
どこか天窓の向こうの雪のリズムに似ている。
さら、さら、さら・・・。
雪が降る。
命の上に、降り積もる。
白く塗り込められたこの世界のどこかで、
花は、また咲くのだろうか。
-完-
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