『野分-2-』



 ざああ・・・・。
 山から湧き出る命の源が、白く輝きながら深い緑の水面に向かって途切れることなく、一直線に降り注ぐ。
 あたりには清らかな空気が満ち、涼やかな風が吹いているはずだ。
 しかし、今の自分には何一つ感じられない。
「あつい・・・」
 地面をはいずりながら、山姥切国広はようやく目的の場所にたどり着いた。
 手のひらに当たるのは、滝を臨む岸壁のきわ。
 その先に広がるのは、底の見えない深い滝つぼだった。
 今、この周辺に存在する生き物は自分くらいだろう。
 地面に根を生やした植物は動くことができない。
 しかしそれ以外の、足や羽を持つものたちは出来るだけこの場から遠ざかったはず。
「いや・・・。そもそも、俺は生き物では、なかったな・・・」
 付喪神、という、摩訶不思議な存在。
 だが、こうして地面を這いずり回っているのは生きている証ではないのか。
 毒矢を受けて数刻。
 背に乗せた男が少しずつ違うものに変化していく気配を肌で感じ恐怖を覚えながらも、小雲雀は耐えて青龍の滝を目指して駆けてくれた。
 途中、何度か足を止めさせようとしたが、けなげな名馬は必死になって聖域へと足を進め続け、ようやく諦めたのは人の力で登るしかない頑強な岩肌が立ちはだかってからだった。
 すっかり消耗しつくしたであろうに、小雲雀は心配そうなそぶりで何度か立ち止まり、振り返り振り返り城へ帰って行った。
 関わりを持ったのは短い間だったにもかかわらず、最善を尽くしてくれたことに頭が下がる。
「ありがとう・・・」
 一つ幸いだったのは、自分の体の中でうごめくモノが獣には興味を示さず、感染する兆しを見せなかったことだ。
 うごめくモノ。
 自分を喰らい、汚し尽していっているモノ。
 地面に腹ばいになったまま、どんなに力を込めても震えてしまう指先を見つめる。
 震えるのは、信じられない光景を目にしているからなのか、それが毒の性質なのかわからない。
 毒矢を受けた太ももから次第に広がっていったのは、米粒ほどの小さな呪詛。
 前に山伏国広から見せてもらった経典に記されている梵字に似ているが、違うようにも見える。
 ただ、それらは傷口から虫のように湧いてじわじわと肌の中を蠢き、増殖し、まるで、自分の身体が経文になっていく錯覚に陥らせようとしていた。
 今も、謎の文字は蟻が獲物を運ぶほどの速さで動き続けている。
 そして文字の色は二つ。
 一つは、赤い、血のような文字。
 もう一つは、青い、薄墨のような文字。
 これらがばらばらに行き交うため肌は紫色に染められたかのように見え、もはや爪の先までこの世の生き物でない姿になってしまった。
 肌を蠢き続ける呪詛は、じわじわと宿主の脳も犯し始めている。
 やみくもに、すべての生あるものを粉々に壊してしまいたい荒々しい衝動と、
 足のつま先から頭のてっぺんまで、狂おしく駆け巡りのたうつ、みだらな衝動。
 二つの欲が、身体の中で対立し、そして溶け合い、だんだんと山姥切国広としての意識が遠のいていくのを感じる。
 自分は、このまま、欲の塊になるのか。
 獣ですらない、禍々しい何かになり、世を乱すというのか。
 矢を受けた瞬間、悪しき予感はあった。
 だからこそ聖域を目指した。
 しかし、自分ひとりで出来ることはここまでだ。
「さむい・・・」
 滝の音が、何かを語りかけているような気がするけれど、もはや、聞きとろうとする根気がのこっていない。
 全身の血管がどくどくと波打ち今にも破裂しそうだ。
 更に、毛穴の一つ一つに針を刺すような小さな痛みが時折駆け抜ける。
 そして骨という骨がみしみしと悲鳴を上げ、身体の形が変わっていくのではないかという不安が胸の鼓動をさらに早め、吐き気がする。
「あつい・・・」
 がんがんと頭が痛み、視界もかすんできた。
「頃合い・・・か」
 歯を食いしばって最後の力を振り絞る。
 身を起こし、刀を支えに立ち上がった。
 常に身体を覆い隠してくれていた白布を片手でようようむしり取り、紅い夕陽に醜い姿を晒す。
 細切れになっていく意識の中、なんとか両足で地面を踏みしめ、刀を抜いた。
 からん、と、落下した鞘が地面を転がっていく。
「・・・やはり、な」
 刀身は真っ黒に変色し、鋼が腐りきっていることが山姥切自身にもわかる。
「これなら、俺でも、出来る・・・」
 こんな俺でも。
 すっかり固まってしまったと思っていた頬が、笑みの形を作るのをふと不思議に感じ、それがまたおかしくて、また笑いがこみ上げてくる。
「・・・さあ、今こそ」
 今こそ。
 今だからこそ、出来る。
 柄を逆手に持ち、強く握りしめ、思いっきり後ろに引いた。
 腕も、背中も、身体の全てが今の姿勢を保つのは無理だと訴える。
 それでも。
「俺は、山姥切国広!!・・・ただの、写しだ!!」
 全身の力と体重をかけて、剣先を岸壁の、もっとも固いところを狙って突き立てる。
 ―――キイン・・・!
 耳障りな高音が、あたりを切り裂く。
 そして。
「ぐ・・・っ」
 山姥切国広の背中から心臓の真ん中にかけて、黒い刀身が貫いた。
 柄は握りしめたままだ。
 だが、その先の刃がない。
 消滅したわけではないのは、身体の真ん中から出ている切っ先が教えてくれている。
 折れた瞬間に天高く舞い上がったあと急降下し、付喪神の背を突き刺したのだ。
「ぐはっ・・っ」
 身体の奥が、破裂する。
 口から、何か液体のようなものを吐き出したように思う。
 だけど、もう、それが何なのかを見る力はない。
 痛みはある。
 これまでの、どんな戦闘でも経験したことのない、強烈な痛み。
 己の半身に、まさに今切り裂かれているのだ。当然とも言えるだろう。
 無様だった。
 獣のように荒い息をつきながら、化け物になり果てた姿でよたよたと歩く。
 全身から冷たい汗がだらだらと流れ、意識も遠のきそうになりなりつつも、前に進む。
 あと一歩。
 たぶん、あと一歩進めば…。
 ふいに、地面が途切れ、両足ともども踏み外す。
 前のめりに倒れ、頭から逆さに落ちていく。

 ざん。

 氷のように冷たい水の針が、容赦なく全身を突き刺した。
 底の方から沸き上がる強い力が、山姥切を下へ下へと引きずり込む。
 しかし、そんな最中にも呪詛は体中を巡り、苛み続けていた。

「すまない・・・」
 唇の上まで、強い欲が覆い尽くす直前。
 一瞬だけ記憶がよぎる。
 鼻の奥にすっと滑り込む、香の薫り。
 あれは、伽羅と、言ったか…。
 目の奥に浮かぶのは、金の光。
 眩くて、強くて、激しくて。
 そして、暖かい。
「た・・・」
 ごふっと、肺の奥まで冷たい水が浸入する。
「あい・・・」
 ようよう紡げたのは、それだけだった。


 びいぃぃん。
 琴の弦を断ち切るような不快な音が、一同の頭の中に響いた。
「やはり・・・な」
 城内の一角に建てられた道場の板の間の上座で、悠然と胡坐をかいていた三日月宗近がひそりと笑う。
「自らを、折り絶ったか」
「そこでのんびり座り込んで、笑っている場合じゃありません。三日月さま」
初対面にもかかわらず、ずけずけと乱藤四郎は物申した。
「急いでください。山姥切を破壊させるわけにはいかないんだから」
「おや、その方が写しにとっては幸せかもしれないよ?」
「な・・・っ」
「はいはいはい、そこまでそこまで」
 血相を変えて飛びかからんばかりの乱の腕をやんわりとつかんで、燭台切光忠が仲裁に入る。
「頼みますよ、三日月様。僕たちは山姥切国広をあのまま逝かせたくない」
「三日月宗近殿!!」
 横から、山伏姿の男が躍り出た。
「頼みまする、お願いいたしまする。どうかどうか、拙僧の兄弟をお助け下さい。あれは、哀れな子です。どうか・・・っ」
 ひたすら平伏する男のつむじのあたりをじっと眺めながら、三日月宗近は再び口を開く。
「ふむ。そなたが山伏国広か。では、そなたが抱くか?弟刀を。まあ、抱いても抱かれても、どっちでも障りはないと思うがな」
「・・・は?」
 驚愕に目を大きく開いた山伏国広と、その近くに佇む刀剣たちの一部の者の表情を見て、支度に歩き回っていた石切丸に声をかけた。
「なんじゃ、皆には言っておらぬのか」
「・・・そもそも、審神者の耳に入れられぬことゆえ」
 肩をすくめて石切丸は答える。
「できることなら、あちらに跳んでから説明したいと思っていたのですが」
「ま、どだい無理って事じゃねえか。心の準備もあるから、今決めておいた方が得策だろ」
 同じく、支度に奔走していたらしい薬研藤四郎が多少息を切らして入ってきた。
「石切丸、薬研。これは、どういう意味だ?」
 隅にひっそりと座していた骨喰藤四郎が静かな声で問う。
「それは・・・」
「俺が説明する」
 石切丸を制して、薬研藤四郎がずかずかと道場の真ん中へ足を向けた。
「今から、誰かが、山姥切国広を抱く。助ける方法はそれしかない」
「なにそれ・・・」
「山姥切国広を襲った傀儡が所持していた毒矢の成分を調べると、一つのことが解った。現世で使われていた興奮剤と呪術を組み合わせたもので、それが全身に回った今、山姥切を二つの欲が支配している」
「二つの欲とは?」
「簡単に言えば、殺戮衝動と、性欲」
 乱と骨喰の質問に端的に応えながら、話を進める。
「根源は同じようなものなんだと思う。現世での戦いにおいてのその薬の使い方を見るとな」
 欧州の大航海と征服の時代、未開の地で発見したものは香辛料を始めとして多々あるが、そのうち後々まで人間に影響を及ぼしたものが麻薬だった。
当初は宗教儀礼や医薬に使われていたそれは一部快楽に特化したものとなり、中毒患者を多く出す一方、それはやがて政治の駆け引きにも裏で使われていくことになる。そして、20世紀を過ぎたあたりから開発が進み、最後には戦場で密かに浸透していった。
 戦闘能力が低い者、良心に怯える者たちを一様に、殺戮者へと仕立て上げる薬として。
「そもそも俺たちが生きた時代も、戦場で略奪と強姦を抑えることは不可能だった。人を殺してしまえば、もう、何やっても一緒って思っちまう奴は山ほどいただろう」
 法治国家で生まれた者が人を殺すという、最大の禁忌を破ったその瞬間。
心の奥底に眠る欲望と言う名の獣を解放してしまう者は、混乱の中珍しくない。
 何かを破壊したい、奪いたい、犯したい。
「あれは、禁忌の衝動を爆発させるために作られた」
 ほんの少しの薬で荒ぶる化け物たちを作り送り出した背後で、争いを扇動する者たちは笑う。
 もっと乱れろ、暴れろ、そして壊してしまえ。
 混乱が混乱を生み、人々は憎しみ合い、殺し合う。
 大儀と復讐と悲しみの中にこそ、我らの富は膨れ上がるだろうと。
「毒矢に埋め込まれたのは二つの呪いの卵。それが孵化して山姥切国広の身体を這いずり回っていることだろう」
 赤い色の呪いは、大地を血に染める殺戮への衝動。
 青い色の呪いは、とめどもなく沸き上がり続ける性欲。
 同じ欲望から生まれ、獣のとしての深い深い本能を刺激する。
「最終的にはより強く作用した一つの呪いが身体の奥深くに染み込む。敵さんはどっちが作用してもいいようにしていたんだ」
 殺戮衝動で仲間及び審神者を殺戮するのもよし、そして・・・。
「もし審神者を鞘にしたなら、抱き潰すことになるだろうという算段かと」
「え・・・?」
「手っ取り早く呪いを解くのは、実を言えば、審神者を山姥切国広が抱くことだった」
「そんな、無理!!」
 乱の悲鳴に、石切丸が深くうなずく。
「そう。敵さんは、審神者が山姥切を一番に慕っていることでそれを狙っていたんだと思うけど…。うちの主殿はああ見えてかなりおくてだからね」
「まあ、初潮も来ておらぬ童には荷が重すぎると気づかぬ敵も、どれだけ阿呆よのう。それとも、そういう趣味なのか、やつらは」
「三日月様・・・」
 面倒くさそうにあくびをしながら寝転がり始めた三日月を、燭台切がやんわりとたしなめる。
「とにかく、審神者が鞘になれない以上、山姥切を鞘にしてしまうしか方法がない」
「鞘にする?じゃあ、太郎太刀を早く呼んで・・・」
「それが、駄目なんだ」
「どういうこと?」
「力の均衡だ。太郎太刀は大きすぎて、山姥切を砕いてしまう」
「じゃあ、じゃあ、僕が・・・」
「いや待て。太郎太刀を呼べない理由と力の均衡とは、具体的にどういうことだ、薬研」
 骨喰が乱を制し、薬研に疑問を投げかける。
「解り易く言えば刀剣の種かな。太郎太刀の力は鞘に入れないし無理をしたら突き抜けてしまう。・・・そうだな。たとえば、視覚的な想像をしてもらうと解り易いかと思うけど」
「要するに、俺たち短刀・脇差が相手をすれば逆に力が及ばないと」
「うん、そういうこと」
「なら・・・」
「太刀か打刀ということになるな。山姥切との手合わせができるのは」
 だらしなく寝そべった姿でひらひらと扇を振り回しながら、三日月は話をまとめた。
「これも何かの縁。なんなら俺が出ても構わぬが、どうだ?」
「いや。山姥切は初対面の男にいきなり身体を開けるタマじゃないから」
 あからさまに面白がっている神剣に、乱が速攻で切り返す。
「おや残念。なかなか面白き仕事と思うたのに」
「あなたね!!」
 いきり立つ乱を藤四郎たちが取り押さえるのを横目に見つつ、くいっと扇を指し示した。
「・・・で、だ。弟を鞘にする決心はついたか?山伏国広」
「・・・・!!俺は・・・っ、おれ・・・っ!!」
 血の気の引いた顔で反駁する山伏国広に、さもありなんと肩をすくめた。
「やはり弟を抱くのは、禁忌に反するかの?」
「俺は・・っ」
「たとえ、それが奴を救う唯一の方法だとしても?」
「だって、おれは・・・」
 がくりと両膝を板に打ち付け肩を震わせる山伏の様子に、重苦しい空気が流れる。
 山伏と山姥切は同じ刀鍛冶氏に作刀され、今まで兄弟のような信頼関係に結ばれてきた。
 真面目な山伏にとって、山姥切を抱くというのは我が子を犯すと同義だ。
「山伏をいじめないでください、三日月様」
 ひたすら調停役に徹していた燭台切光忠が、口を開いた。
「僕が、行くよ」
「燭台切光忠・・・」
「・・・最初から、そのつもりだったんだね、石切丸、薬研」
 深いため息をつく燭台切に、石切丸がふわりと頬を緩めた。
「山伏同様、無理強いするつもりはないよ。もしも誰も立候補しなかったら、私がやるしかないかなと思っていたし」
「俺がやっても良いと言うておるに」
「ご冗談もほどほどにされてください。格は確かにあなたが勝るでしょうが、山姥切国広はこの本丸で一二位を争う軍神ですよ。降臨してすぐに食い殺されてどうします」
 燭台切の唇から間髪を置かずに、思いのほか鋭い言葉がきん、と放たれる。
「おおこわ」
「話が決まったところで、三日月様にお願いいたします」
 横から茶々を入れる三日月宗近の前に石切丸は腰を下ろし、両手を膝前について軽く拝礼した。
「あなた様の仕事はまず、我々を青龍の滝へ飛ばすこと」
「ああつまらぬ、つまらぬのう」
「・・・このままですと山姥切に食い殺される前に、我々にこってりしぼられますが?」
「つまらん!!」




 -つづく-

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