『胡蝶。』




 蝶が、飛んでいる。

 黒い枠の中に閉じ込めた青い光がきらめき、咲き乱れる花々の中でひときわ目を引く。
 夏も近くなると地上の草木は忙しい。
 いっせいに枝葉を伸ばし、蕾を付け、われさきに花を開く。
 日の光に照らされた葉や花がとりどりの色彩を放つ中、黒い縁取りのくっきりとした豪奢な蝶が雪のように白い花のそばでふわりふわりと、戯れに近づいたり離れたりしている。
 そのさまを木陰に座ってぼんやりと眺めていたら、背後から肩を強く引かれた。
「・・・何を見ているのですか」
 ぐるりと天と地がひっくり返る。
 突然のことに驚きはしたけれど、声の主が誰なのか解っているから身を任せると、腕の中に抱き込まれた。
 思わず目をつぶると呼気に滑り込んだ、独特の、香り。
 彼がまとっているのは伽羅という、とても尊い香木なのだと、誰かが言っていた。
 首と頬に絹織物の風合いを感じ、そっと目を開けると、金色の瞳が間近に迫っている。
「・・・蝶が・・・」
 答えようとしたのに、逆さに降ってきた唇に塞がれた。
 どの記憶よりも、柔らかい感触。
 ちゅ、ちゅ、ちゅ、と、軽い音を立てて吸い上げられる。
 まるで小鳥が地面を突っつくように何度も何度もついばまれているうちに、混乱してきた。
 唇は、指先は、そしてこの身体はどうしたらいいのだろう。
 喉の奥がきゅっとしまったような心地になり、苦しくなった。
「・・・会いたかった」
 頬を、耳を、喉を、さらさらとした冷たい絹糸が降りてきては離れていく。
「・・・た・・・」
 名前を呼びたいのに、唇を軽く噛まれ、顎が震えた。
「かわいい」
 ぺろりと舐められた唇が熱い。
「食べてしまいたい…」
 言葉の先と唇が怖くて、思わず指先に触れた黒髪を強く握り込んで引っ張った。
「ふ・・・」
 吐息が、笑いを含んでゆっくり離れる。
「つれないですね、山姥切」
 金色の瞳がきらきらと光り、前に審神者が挿していた簪にはめ込まれた宝玉を思い出す。
「・・・あんたが、変なこと言うから・・・」
 起き上がり身体を離そうとすると、うなじに口づけられた。
「・・・なっ」
 肘で押し返そうとしたけれど、逆に彼の長い腕に抱き込まれ、深く取り込まれてしまう。
「言いたくもなります。あなたに会えたのは、これで幾日ぶりでしょう」
 九日と半日、と言いかけて飲み込んだ。
 離れていた時を、指折り数えていたと知られたくなくて。
「山姥切」
 背後から頬を寄せられ、心臓が早鐘を打つ。
 濃厚な、伽羅な香り。
 心地よすぎる、肌触り。
 太郎太刀。
 刀剣の中の、刀剣。
 大太刀の至宝。
 自分なんかが、神に限りなく近い者の腕の中にいるなんて。
「ねえ・・・」
 耳に息を吹きかけられて、くすぐったさにじっとしていることなんて、出来なかった。
「あ、あっ・・・あれ!」
 指をさす先には、白い花と、蝶。
「え?」
「あの蝶。黒い羽根の中に青いのがちょっとついてる蝶」
 こうしている間も、蝶は飽きることなく白い花と戯れていた。
「ああ・・・。あれは多分、アオスジアゲハという名ですね」
 彼の低い声が律儀に教えてくれる。
「そうなのか」
「ええ」
 優しい相槌に、つい、口が軽くなる。
「あの黒いところが、なんか、あんたの着物みたいだなと思って・・・」
 言いかけて、しまったと思った。
「あ、いや・・・」
 どう取り繕えばいいのか解らない。
「ふふ」
 でもそんなこと、彼はとっくにお見通しで。
「嬉しい」
 頬に唇を落とされて、また、いたたまれなくなる。
「私が、どうしてあの蝶の名を口にするのか、わかりますか?」
「・・・あんたは、俺なんかよりずっと物知りだし・・・」
「そうですね。名前としては記憶していたかもしれません。でも、認識したのは最近のことですよ」
「・・・意味が、分からない」
「あの、青い帯が山姥切の瞳の色のようだと思ったから、観るようになりました」
「・・・え?」
 綺麗に整えられた繊細な指先が頬骨から目元をゆっくりとたどる。
「あの蝶を見れば、あなたの全てを、いくらでも思い出せます。どんなに遠く離れていても。・・・そして、たとえ昼間でもね」
「・・・っ」
 指から逃れて、立てた自らの膝の上に顔をうずめた。
 両足をぎゅっと腕の中にとりこんで、小さく、小さくなりたいと思った。
 頬も、目元も、鼻も、全部が、熱い。
 太郎太刀は、涼しげな顔でさらりととんでもないことを言う。
 できることなら、この場からすぐにでも逃げ出したい。
 それでも。
「九日と、半日ぶりですよ、山姥切」
 背中から、甘い声が降ってくる。
 彼の、言葉と声と、香りと、熱と、それから、それから…。
 抗い難い魅力に吸い寄せられる自分は、白い花から離れられない蝶と同じだ。
 震える指先を、ゆっくり解いて、恐る恐る振り向く。
「やっと、会えた」
 金色の瞳が、容赦なく心の奥まで貫いた。
 初夏の強い光、土の匂い、風に揺れる枝葉のざわめき。
 すべてが遠くなり、目の前の男しか見えない。
 めまいを感じながらも、唇を差し出す。
「おかえり・・・なさい」
 美しい彼の唇が、触れてくれるのを焦がれながら。
「ただいま、山姥切」
 ゆっくりと、溶かされ、酔わされた。
「愛してます」
 蜜に、溺れる。


 -完-


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