『ひかりのくに』
いつだって、彼は僕を驚かせる天才だ。
「明日、『オトマリ』しようよ」
ヴィクトルがいきなり言い出したのは、夕飯時のこと。
「え・・・でも」
ヴィクトルが突然やってきた桜の季節からあっという間に秋になって、もうすぐ競技シーズンに突入する。
ヴィクトルが振付を考えてくれた最高のプログラムたち。
自分の長所と短所を十分に吟味して可能な限り得点を取られるよう作られたうえに、更にその上のステージに上がることを念頭に入れ、一分の隙も無い構成になっている。
ところが肝心かなめの自分は、身体が全くついて行かず完成からは程遠い状態だ。
せっかく、ヴィクトルが選手としての生活を休止してまで取り組んでくれているのに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
彼から学ぶべきことはまだまだたくさんあって、時間がどんなにあっても足りないと焦りを感じていた。
それなのに、ヴィクトルは一泊二日の休暇を取るべきだと主張した。
「何事にもメリハリは必要だよ」
こともなげに笑う彼を、茫然と見つめるしかなかった。
それは、あなたが天才だから。
だけど僕は凡人で。
思うこと、言いたいことはいっぱいあるのに、言葉が見つからない。
「よかね~。どこいくと?」
配膳してくれていた母の呑気な声に、頭の中で渦巻いていたものが四散する。
「うん。実は商工会の人たちに貰っていたものがあってね」
うきうきとした声で取り出したのは、チケットのようなものだった。
「んー?長谷津キャッスル・シーホテル?すぐそこじゃん!!」
ビール瓶を抱えてやってきた姉が上から覗きこみ、呆れた声を上げた。
そこは、勇利たちの住まいから海沿いに歩いて長谷津リンクへ向かう途中にある、地元民には馴染みの深い老舗ホテルだった。
「なぜ、そこ・・・」
スタッフはもちろん地元の人ばかりで、中にはご近所さんや親戚がパートで入っていたりもするので、ここにいるのとたいして変わらない。
というか、逆にみんなから興味津々の目で見られて、気が休まるどころじゃないと思う。
「うん。なんかね。俺のおかげで経済効果うなぎのぼりだから、お礼だって。スペシャルな部屋を用意するからいつでも言ってくださいねって言われたんだ」
確かに、ヴィクトルがこの町にいると言うだけで、随分と活気に満ちてきたように思う。
そもそも地元民相手にのんびり商っていた実家も、ヴィクトル目当ての女性客で昼間はてんてこ舞いの状態が続いていて、先日とうとうパートの数を増やしたくらいだ。
「よかね、よかね~。うちらも結婚式と法事くらいでしか、あそこにはいったことはなかよ。泊まったことなんてなかばいね~」
「たしかにねえ。スイートとかあるのは知ってっけど、縁がないからね、うちらは」
「そりゃ、長谷津で一番の高級ホテルやけん!!」
僕を置き去りにしたまま、なぜか家族が盛り上がりまくっている。
「だよねえ」
ヴィクトルは焼酎を飲みながら満足げにうなずいた。
「俺も最近知ったけど、このホテルってマイヨールが定宿にしてたらしいね」
「ああ、フランスの人ね!昔は時々いらしとったけんね、ほかの旅館も泊まっとらしたよ。そりゃあもうかっこよか人やった。ヴィっちゃんと同じくらいになあ」
二人の会話を眺めつつ漬物をかじっていると、いきなりヴィクトルが振り向いて上目遣いにのぞき込んできた。
「そんな素敵なところがあるなんて俺知らなかった。泊まってみたいなあ。勇利」
「うちにいるのとたいして変わらないよ。従業員みんな地元民だし」
それより練習を…と言いかけたのを、明るく光る青い瞳に制される。
「そんなことない。全然違う。ちょっとシチュエーション変えただけで、気分も随分変わるよ」
「お、オフシーズンだから、プールももう使えないし・・・」
ご近所のホテルに泊まるために一日が潰れるなんて、絶対嫌だった。
なんとか説得を試みようとするが、ヴィクトルも両親も笑うばかりでてんで相手にされない。
「プールに入んなくても、目の前の砂浜がほぼプライベートビーチじゃん」
姉がずさっと横槍を入れる。
「グダクダ言ってないで、腹をくくりな。コーチが休みたいって言ってんだから、休みだろ」
要するに、僕の味方は誰もいなかった。
「・・・はい。わかりました」
しぶしぶ頷くと、家族だけでなく、聞き耳を立てていた常連客達がわっと沸いた。
「はいはい、きまり~」
ぱちぱちとやる気のない拍手を送る姉に、大喜びのヴィクトルが歓声をあげながら飛びついて頬に音を立ててキスをする。
だけど姉は慣れた様子で、「はいはい、どういたしまして」とまるで興奮気味のマッカチンを押しのけるように平然と引きはがした。
「ええと、ええと!!こういうのって『プチイエデ』って言うの?それとも『カケオチ』?」
ヴィクトルは、何か楽しいことを見つけて興奮している時、ちょっと声が高くなる。
「どっちも微妙だね。もう、デートでいいんじゃない?」
「デート?いいねえ!!」
目をきらきらと輝かせて全力ではしゃぐヴィクトルを見て、「ああ、もういいや」と観念した。
一日や二日くらいくれてやる。
「潮の力って、すごいねえ」
数歩歩いて、その光景にため息が出た。
結局今日は午前中にスケート協会がらみの軽い仕事が入り、ようやく解放されてチェックインできたのがつい一時間前のこと。
もう空は夕暮れに向かって光を閉じようとしている。
そして、海もまた。
ホテルの前の砂浜は制限しているわけでもないのに人影がほとんどなく、真利がプライベートビーチと言っていたのもうなずける。
長谷津の気候は温暖で、九月に入っても昼間は三十度を超える日も珍しくない。
それなのに、海で泳ごうとするひとは一人もいなかった。
オフシーズンだからと言う言葉では片付けられないほどの静けさ。
海沿いに繋がる勇利の家に近いエリアは地元の人々が気軽に海を楽しんでいた。
いつの時でも散歩したりトレーニングをしたり、時にはマリンスポーツを楽しむ姿も見られると言うのに。
「神秘だ」
勇利の手を引いてぐいぐいと海に向かって進む。
「ヴィクトル。波打ち際まで行きたいなら、靴を脱いでいかないと駄目だよ」
「えー?だって今からもっと引いていくんだろう?大丈夫だよ」
靴を脱ぐ間も待てない。
引き潮に波は沖へと引っ張られ、十数メートルはあるかと思うような広い濡れた砂浜が露わになる。
例えるならば、雨上がりのグランド。
ただっ広い空間に薄い水鏡が施されたような。
そして薄雲に隠されてしまった太陽からの儚い光が、優しく地上を照らし、自然の水鏡を輝かせていた。
夕焼けは望めないけれど、空も、砂浜も、そして海も。
全てがうっすらと桜色に染まっている。
そう、春に有利と浜辺で拾った桜貝のような色。
言葉に表し難い、奇跡の光景が湾に沿って東西に長く伸びていた。
なんて、綺麗なんだろう。
勇利が何か話しかけてきたけれど、聞こえない。
あっという間に波の音に攫われ、かき消されてしまった。
でも、手の中に、熱くてちょっと汗ばんだ彼の指を感じる。
勇利が、ここにいる。
胸の奥に沸き上がる、むずがゆいこの感覚は何なのだろう。
少し涼しくなった海風に息をつく。
「ヴィクトル」
名前を呼ばれるだけで、彼の柔らかな声が身体の中を駆け巡って。
「なんか、気持ちいいね」
湿り気を帯びた砂浜からさらにその先へ足を踏み入れると、波が刻んだ細かなひだが面白い模様になって広がっていた。
穴から出て来てせっせと砂玉を運び出していたカニたちがいっせいに逃げていく。
そして、水鏡の地平線。
「ヴィクトル、靴を脱いで」
手を引っ張られてふと足元を見た。
「あれ?」
「・・・もう。だから、引きたての砂浜は水分がまだ残っているんだって」
足がずぶすぶと砂の中にめり込んでいく。
そして、じわじわと沸き上がってくる海水。
「わ・・・っ」
慌てて足を上げて別の場所へ移ってみるけれど、瞬く間にまた足が沈んでいく。
大した深さではないけれど、このままでは靴が濡れてしまう。
「ああもう、だから言ったのに。今ここで脱いで」
「あれれ。勇利、君の靴は?」
「脱いだ。途中で」
勇利はとっくに裸足になっていた。
露わになった痣と傷だらけの足。
彼の、勲章。
「ほら。とりあえず、砂浜に置いてくるから」
屈んだ勇利に軽く足首を叩かれ、脱ぐことを促されたので素直に従った。
「すぐに、帰ってきてよ?走ってね」
「はいはい」
おざなりな返事を残して、砂浜へと勇利は向かった。
靴を両手に駆けだすその背中に、焦れてしまう。
いかないで。
そばにいてよ。
つい、手を伸ばして引き留めたくなる。
きっと君は、俺がそんなことを思ってしまうなんて、想像もできないだろうね。
実際、自分自身もこの気持ちに驚いている。
この、次から次へと溢れ出てくる感情は、いったい何なんだろう。
砂の堤に靴を置いてきたらしい勇利が、言いつけ通りに律儀にも走って戻る姿がどんどん大きくなってくる。
「ヴィクトル」
勇利が、笑っている。
楽しそうに、濡れた砂浜を器用に踏みしめながら、力強く駆けてくる。
風が吹いて、勇利の黒髪を弄び、白くて理知的な額を見せてくれた。
ああ、なんて。
なんて、綺麗な笑顔だろう。
「勇利」
両腕をひろげて、名前を呼んだ。
勇利。
僕の中に、おいで。
「ヴィクトル」
聞こえる、優しい声。
暖かくて、甘い。
腕の中に捕まえた。
胸に響く、確かな衝撃。
背中に感じる、勇利の腕の形。
表情豊かな指先。
身体から聞こえる、鼓動。
「勇利」
海のざわめきも、鳥の声も。
薄い夕暮れも、つま先に感じる潮の流れも。
どうしてこんなに嬉しいのだろう。
「きもち、いいね・・・」
「・・・うん」
勇利が。
僕の中に、溶け込んだ。
障子越しのぼんやりとした明かりにふと目が覚めた。
互いの吐息がまじりあうほどの距離に、ぐっすりと眠りこむ勇利の顔がある。
眼鏡を外して、洗いざらしの髪もそのままで無防備に目を閉じた彼は、随分と幼く見えた。
「まつげ、ながい・・・」
黒い睫毛の端に寝癖がついて少し曲がっているのを見つけて、胸の奥があたたかくなった。
何度も近くで見て、解っているはずだけど、勇利はとても綺麗だと思う。
時には透明な薄い氷のように繊細でたよりなく音を奏で、
時にはしつかりと根を下ろす大樹のようにおおらかで頼もしく跳び、
時には白い百合の花のように清らかで軽やかに舞い、
時にはシンクの薔薇のように情熱的な瞳で心を鷲掴みにする。
一瞬として同じ勇利は存在せず、まるで万華鏡をのぞき込んでいるようだ。
くるくると表情は変わり色々なさまを見せてくれ、いつまでも魅力は尽きない。
それはまるで、長谷津の海が見せる景色のように。
ところが本人は常に自分を地味で平凡だと言うし、彼の周囲もそう評しているふしがある。
なぜなんだろう。
こんなにもまぶしく輝いているのに。
僕には、勝生勇利の存在そのものが奇跡だと思う。
いつまでも見つめていたいと思う半面、こうして近くにいると時々胸がざわめく。
そして時々、どうしたらいいのかわからなくなる。
しっかりと強く抱きしめてしまいたい自分と。
ほんの髪の毛の一筋でも、触れてしまうのが怖い自分と。
それを知られたくなくてわざと陽気に振る舞い、勇利と、周囲の目をごまかしている。
白い光が、強さを増したような気がして起き上がる。
「う・・・ん」
勇利が寝返りを打ち、仰向けになった。
暑いのか掛け布団を勢いよくはねのけ、全身が露わになる。
浴衣はすっかりはだけてしまい、薄明りの中、胸元から臍にかけてつるんと剥きたての玉子のような肌がゆっくりと呼吸に合わせて波打つ。
帯もほどけて申し訳程度に腰に巻き付いて、ほとんど用をなしていない。
昨夜はせっかくの宿泊だからと、勇利には料理を好きなだけ食べさせたし、飲酒も許可した。
もともと酒が好きな方の勇利は、大喜びで地酒をレストランのスタッフに勧められるままに色々試していた。
ただ、飲むのが好きでも呑まれるたちの彼は杯を重ねるごとに陽気になりあっという間に酔いつぶれてしまい、部屋に戻るなり布団の中に沈没してしまった。
全身真っ赤に染めて隣室に響きそうなくらい大きな鼾をかいて眠るその緩み切った姿でさえ、物凄く可愛いと思ってしまった自分は、重症だとつくづく思う。
重症?
なにが?
とりあえず布団をかけ直してやり、頭に浮かんだ言葉を振り切るように窓辺に向かって歩く。
障子を少し開けてみると、外はうっすらと明るくなっていた。
まだ太陽は顔を出していないのに、浜辺の波打ち際が輝いて見えた。
ずっと続く、白銀の、光の帯。
まるで砂そのものが生きていて、自ら光を放っているかのよう。
夜明け前の、白みがかった空。
ゆっくりと静かに打ち返す波。
海と砂浜をこんなにじっくりと眺めたのは初めてだ。
この一瞬を画像に残しておきたいと思ったけれど、鳥すら眠っていそうな静けさと荘厳な光景に身動きすることすらためらわれる。
ただただ窓辺に座り込んで、呆けたように海と空と砂浜のなせる技を見つめ続けた。
「ヴィクトル?」
背後から声をかけられ、勇利が起きたことにようやく気付いた。
「なんしよおん?」
寝ぼけていると、勇利は時々お国言葉みたいなものが無意識のうちに出てくる。
少し舌っ足らずな発音が幼げで可愛らしい。
「おいで」
いざり寄ってきた彼の腕を引き寄せて、前に座らせる。
くしゃくしゃに皺が寄った浴衣ごと背後から両腕で抱きしめて、肩の上に顎を載せ、囁いた。
「海が、綺麗だなって」
「・・・ああ、ほんとだ」
薄い木綿ごしに温かな勇利の身体を感じる。
「きらきら、ひかってる・・・」
頬を寄せてくっつけると、彼がふっと笑った。
「ヴィクトル、ひゃっこい」
「ひやっこい?」
「やけん、冷たかって~」
冷たい、ということだろうか。
「なんだか冷めちゃったから、あっためて勇利」
ふざけて両足も絡めるとひゃっこい、ひゃっこいと言って身体を縮めながらながら勇利は笑った。
「昨日もヴィクトルのせいでずぶ濡れになって・・・」
文句を言う勇利を、両足で挟み込んで全力で閉じ込める。
「それ、俺だけのせい?」
もごもごと反発する勇利のつむじに、音を立ててキスをしてやった。
昨日は、浜辺でかなりはしゃぎ過ぎたという自覚はある。
もう、経緯は覚えていない。
靴を脱いで裸足で浜辺を走り、そのうちふざけて追いかけっこをしているうちに、出来心で勇利を海の中に引きずり込んでしまった。
そして、濡れたついでにちょっと泳いだりもした。
シャツにジーンズと軽装だったけれど着衣のまま海に入るというのも新鮮で、胸よりちょっと下くらいの深さのところで遊び続けた。
ついつい二人とも熱中してしまい、偶然気付いたホテルのスタッフたちが心配してとんでくるまで日没も過ぎてしまったことに気がつかなかった。
ぐっしょり濡れた姿で結構本気のお叱りを受けたが、その状況自体もちょっと面白くて笑ってしまい、勇利からも叱られた。
最後には冷たい冷たいと悲鳴を上げながら、ホテルのプールに設けられたシャワーを浴びて潮と砂を落としたのも、なんだかわくわくして実はとても楽しかった。
楽しくて楽しくて腹の底から力が沸きっぱなしで、何もかもが、キラキラ輝いている。
誰かを驚かせようとか、
楽しませようとか。
なんて小さなことを考えていたのだろう。
今、自分が驚きと楽しみの真ん中にいて、貪るように喰らい続けている。
果てのない日々の中に、ああ、これがライフというものなのかと気がついた。
勇利と長谷津のない頃、いったいどうやって時を過ごしてきたのかなんてもう思い出せない。
家には愛犬のマッカチンがいて、リンクに行けばヤコフがいて、ユーリたちリンクメイトがいて、ファンは世界中にたくさんいて、恋もたくさんした。
多少の怪我はあるけれど、試合に出れば必ず良い結果を出せた。
何も不満はなかった。
毎日楽しかったはずだ。
だけど。
心の中に小さな隙間が空いていたような気がする。
それは、まるでジグソーパズルのピースのようなもの。
どんな形が足りないか解っているのに、どこにあるかわからない。
途方に暮れていた時、見えない力に引かれて見た世界。
そこには、勇利がいた。
ジャンプはことごとく失敗し、ロスした時間の分だけプログラムの構成が崩れていく。
彼の心の中にあるのは、焦りと失望と悲しみ。
なのに、ふとしたはずみに垣間見える愛。
色々な物が一緒くたになったまま、勝生勇利は懸命にステップを刻んでいた。
絵の具の色は混ぜれば混ぜるほど、暗い色に変わり、最後には淀んだヘドロのような黒になる。
だけど、音に包まれて氷の上を滑る勇利はその指先ひとつで輝きを放つ。
きらきら、きらきらと。
ただただ無心に、
尽きることなく、
無限に広がっていく。
彼はこぼれ落ちていく時を諦めることなく、スケートへの愛を語り自らの全てを捧げていた。
これほど眩しいひとを、今まで見たことがない。
彼の目を通して見ると、どんなものも宝石に変わってしまう。
「海が、きれいだなあって」
海なんて。
生まれた時からずっと身近な風景で、自分にとっては空気に等しい。
でも、なぜだろう。
「おいで」
ヴィクトルに腕を取られて、彼の体温に包まれるだけで、見る景色は一変する。
「・・・ああ、ほんとだ」
海は、
空は、
砂浜は。
なんて綺麗なんだろう。
日の出を迎えようとする空は少しずつ茜色に染まっていく。
でも、まだ夜の支配下にあって明けきれない藍色の部分も残っていて、そのコントラストは絵筆が握れるものなら描いてみたいと思わせる。
空の色を素直に映している海には時折深みのあるところだけぽっかりと暗く、その上を波が寄せては返す。
そして波の仕業だろう、白銀に輝く砂浜には細かな溝がまるで機織りした模様のように刻まれている。
幼い頃から見てきたはずだ。
なのに、まるで初めて見たような気持になる。
いや。
毎日見てきたのに、全く見ていなかったのだ。
海も、空も、浜辺も、そして、人も。
自分はいったいどれだけのことを今まで見過ごしてきたのだろう。
綺麗なもの、大切なものが、きっとたくさんあったはずなのに。
「勇利」
ヴィクトルが、僕をを呼ぶ。
心が沸き立つのを止められない。
バレエを習い始めた時、身体を動かすことが楽しくて毎日通った。
先生の勧めでスケートに転向してからは、スケート場に籠ってリンクに立っていれば安心した。
そして、ヴィクトルを知って。
世界が変わった。
まるで、いくつもの扉を一気に開いて、不思議の国へ連れてこられたみたいだった。
ステップも、ジャンプも、スピンも、動きの全てが完璧なヴィクトル。
彼の存在自体が芸術で、どうしてこんな人がいるのだろうと何度も思った。
ヴィクトルしか、見ていなかった。
ヴィクトルのことしか、考えてなかった。
ヴィクトルの所作の一つ一つを思い浮かべながら、リンクを滑るのはとても幸せだった。
その反面、競技者としての自分の至らなさを多く知り、地の底まで落ち込んだ。
四方を壁に囲まれて、息苦しさにもがいて疲れ果てていた。
身体が重くて。
弱虫でのろまな自分が憎くて。
心の中はぐちゃぐちゃになっていた。
だけどヴィクトルが実家の温泉に突然現れた瞬間、目の前の暗いものや重いものが全て取り払われて。
また、世界が変わった。
まるで、強い光に全身を射抜かれたようだった。
この時に、一つだけ分かったことがある
僕は全ての扉を開いたわけじゃなかった。
僕の知る景色はたったひとつだけで。
万華鏡を傾けると模様が変わるように。
ちょっとしたきっかけで何もかも変わるのだということを知った。
自分の気持ちも。
見えるものも。
そして、可能性も。
いつだって。
ヴィクトルは僕に輝きを与えてくれる。
ささやかな毎日のなかに。
なにげない景色のなかに。
宝物が潜んでいるのだと、教えてくれた。
「勇利」
彼は僕を驚かせる天才だ。
喜ばせて、
楽しませて、
一緒に走って、
笑いあえる。
なんて日々だろう。
僕たちは、今、光の中にいる。
無限に広がる、ひかりのくに。
-完-