『きみがうまれたひ。』
今年はいつもより冬が早いらしい。
町中の人々が顔を合わせる度に最初にする話題がそれだった。
『サムカ~』か、『サムカネ~』という、謎の呪文があちこちから聞こえてくる。
何なのかと真利に尋ねたら、『寒い』または『冷える』という意味だそうだ。
寒い。
確かに。
「マッカチン、良かったねえ」
寛子の柔らかな声が胸にしみわたる。
病院のドアを開けた途端、スタッフの一人が預かり施設からマッカチンを連れて来てくれた。
試合などで不在の日が増えた最近は寛子と真利が世話を一手に引き受けてくれていたせいか、彼女たちにまずは挨拶代わりにじゃれついてからこちらへやってきた。
「マッカチン、本当に良かった・・・」
膝をついて大きな体を抱きしめ鼓動と体温を確かめてから、思いっきり彼の匂いを嗅いだ。
饅頭をのどに詰まらせて、一時は意識を失っていたという愛犬は、真利たち家族と病院のスタッフのおかげで俺が飛行機に飛び乗って間もなく回復したという。
ただし、大型犬としては長生きしている方だということもあり、念のために経過観察と健康チェックのために数日入院していた。
「じゃあ、勝生さん、会計の用意ができました。お支払いは・・・」
一緒にかがんでマッカチンを撫でていた真利がすぐに立ち上がり、スタッフに向き直る。
「はい、じゃあこれで」
「確認します」
慌てて立ち上がろうとしたら、そばにいた寛子がやんわりと肩に手を置いて首を振る。
「よかよ」
「でも・・・」
「うちらの不注意で大変な目にあわせてしまったけん、ここは払わせてね」
寛子の手のひらのぬくもりに、何も言えなくなった。
「あ・・・」
明細書を受け取りざっと目を通していたらしい真利が小さな声を上げた。
「真利ちゃん、どうしたと?」
「今日、勇利の誕生日だったね」
「あら、そうやったね。昨日寝るときには覚えとったんやけど、すっかり忘れてたわ」
「うん、私も。朝起きた時は勇利にメールしないとって思っていたんだけどね」
「誕生日・・・」
勇利の誕生日が今日だなんて、知らなかった。
いや。
誕生日というもの自体に興味がなかったからだ。
勇利が生まれた日。
なのに、肝心の勇利はここにいない。
「そういや、ヴィっちゃんはクリスマスが誕生日やったね」
クリスマス?で首をかしげると、運転している真利が12月25日と横から付け加えた。
「ああ・・・。まあ、そういえば」
「ほんとはねえ。勇利の出産予定日がそのあたりやったのよ。もしそうやったら、一緒にお祝いできたのにねえ」
車の助手席から寛子はのんびりとした口調でとんでもないことを言う。
「え?待って、寛子ママ。じゃあ、勇利は・・・」
今夜は11月29日。
一か月近い早産だったということだ。
「そうなのよ。慌てん坊よね、勇利は。私もみんなも慌てたわあ。ただでさえ色々困ったことになっていたから」
「困ったこと?」
困惑して真利の方を見るが、彼女はただ黙って運転をするだけで。
くうん、と、マッカチンが喉を鳴らす。
海沿いの町は夜のとばりが深く、窓の外はたまに見える街灯と民家の明かりしか見えない。
「昔、お金のことを見てくれているおじさんがいてね。その人がねえ、施設を改装しようと思って銀行に借りたお金とお店の売り上げをみんな持っていなくなっちゃったとよ。それがわかった時は、そりゃあまあ、本当に困ったわあ」
この町には競艇場がある。
家族の知らぬ間にその人は賭け事に嵌り、果ては違法賭博にまで手を出していたらしいが、すべてが明るみに出たのは、風体の良くない男たちが怒鳴り込んできてからだと言う。
「・・・そりゃまた・・・」
「その上、板前さんが、冷蔵庫が壊れてた~って飛んできて。それを聞いた瞬間、ぷちっと音がして」
「え?」
「お腹の水がざーって出てしまったとよ」
「は?」
聞いているこちらの方がざーっと血の気が引いた。
思わずマッカチンを撫でていた手に力を籠めたら、きゅうんと悲鳴を上げられる。
「母さん、それはちょっとグロいよ」
真利がハンドルを切りながら咎めた。
「ああ、ごめんごめん。ちょっと男の人には怖い話よね」
ごめんね、と、寛子が振り返って頭を下げるのを、手を振って制した。
「いや・・・、いや、大丈夫。ちょっとびっくりしただけ。それで?そうして勇利が生まれたの?」
「ええ、そうなの。早産だし、つわりがずっと続いたしで、生まれてきた勇利はとてもとても小さな赤ん坊でねえ…。すごく申し訳なかった」
「寛子ママ、でもそれはママのせいじゃない」
持ち逃げした男のことがなければ、寛子は安静にできたはずだ。
「うん、そうねえ。でも、すごく申し訳なくて小さな勇利の前で泣いていたらね。保育器の中の勇利の方がもっと大きな声で泣いたの。小さな手足をばたつかせて、真っ赤な顔して」
両手の上に載せられるくらいの小さな命。
なのに、驚くほど強い力を見せてくれた。
「ああ、なんて可愛いか子やろうって思ったとよ。足の指とか、小さくて細いのにね。桜貝をくっつけたような綺麗な爪がちゃんとのっていて」
まだ、自分には幼い真利と生まれてきてくれた赤ん坊がいる。
そう思うと、不思議と勇気がわいてきた。
「お父さんもね。しょんぼりしとったとよ。あんちゃん、あんちゃんって、慕っとったおじさんにひどいことされて。でもね。しょんぼりしとっても、しょんなかことやけんね」
「しょんなか?」
寛子の言葉は、時々どこの国の言葉よりも難しい。
首をかしげると、真利の補足説明が飛んできた。
「仕方ないって意味」
その後、経緯を知った周囲の人々が心配して温泉へ詰めかけて大騒ぎになった。しかし、親戚たちや常連客の中に金を用立ててくれる人が現れ、温泉は潰さずに済んだ。
「特に、地元の大きな酒蔵の御隠居さんが、かなり親切に取り計らってくれてね。本当に助かったとよ。それにね、実は勇利の生まれるちょっと前に長谷津のリンクを作った人なのよ。そんなご縁もあるんやねえ」
長谷津はごくごく小さな土地だ。
そんなところに、山も海も温泉も田畑も住まいも何もかもがぎゅっとつまり、人々は肩を寄せ合って暮らしている。
噂が駆け巡るのはもちろん早いが、助けの手が伸びてくるのはもっと早い。
新しい家族の誕生をにぎやかに喜び、お祝いと称してたくさんの援助を施した。
「すくすく育っていくあの子を見ていたらね。私らに勇気がわいたとよ。だから、名前につけたっちゃんね。勇っていう字ば」
「あれ?母さん、勇利の勇って、勇ましいんじゃないんだ?」
名前のいきさつを初めて聞いたらしい真利が口を挟む。
「どんなの意味でも良いんだけどね。勇気ばもらったねえって父さんと話したけんそうなったのは、間違いないよ」
「そう、だったんだ・・・」
ぽつりと呟いて、真利は自宅の駐車場に車を乗り入れた。
「まあ、どっちでもいいか。私はずっと勇ましいって思っていただけだし」
「勇ましい子って、真利は思っていたの?」
うとうとしているマッカチンの背中を撫でながら訪ねると、レバーをパーキングに入れながら真利は考え考え答えた。
「いや、勇ましいを通り越して・・・」
「うん」
「猪突猛進。あ、チョっていうのはイノシシという獣のことね。そのイノシシはまっすぐしか走れないって迷信からできた言葉なんだけど、ようは、周りのことを忘れてひたすら一つの目的に向かって猛烈な勢いで突き進むこと、それを地で行くヤツだなあと思う」
「チョトツモウシン?」
「そう。猪突猛進」
ゆっくりと繰り返す真利の口元が優しくほころんだ。
「でもやっぱり、勇ましいとどこか近い感じなんだよ」
今夜、新たな日本語を一つ覚えた。
それは、勇利の愛すべき長所だということも。
そして勝生家の大切な思い出と一緒に、どれほど、家族に愛されて育ったかということも知った。
勇利。
君のことを知るたびに、身体の中から思いもしない何かが生まれてくる。
早く、勇利に会いたい。
会って、話したいこと、聞きたいことがたくさんあるんだ。
「・・・勇利」
声が聞きたい。
柔らかで、しなやかな、君の声。
抱きしめて、耳元で聞きたい。
温かな息づかいを感じたい。
今すぐに。
-完-