『みなづき。』



 今日は、朝からなかなかの上天気だ。

 昨夜遅くに降った雨で庭の草木は潤い、義母が植えたヤマアジサイの葉が朝日に照らされて艶やかに光る。
 そして小さな空間に次々と枝葉を伸ばした初夏の花がいっせいに蕾を膨らませ、彩を添えた。
 ガラス戸を下げて網戸にした勝手口の扉から薔薇を思わせる華やかな芳香が流れてきて、穏やかな風と共に通り過ぎていく。
「・・・咲いたのね。いい香り」
 花の姿を思い浮かべながら、台所仕事にとりかかった。
 ボールの中にあけた葛粉と白玉粉と砂糖の塊を指で探って、ゆっくりと潰す。幼い頃、指先で粉の塊をつぶす作業が好きだった。軽く力を加えると塊がふいに砕け、さらりさらりと粉たちの仲間になってく。ゆっくりゆっくりと器の中を細かい粒子の世界で満たす心と時間の空白は、一つの快感でもある。ただの白い粉から、何かが作り上げられるという達成感と、誰かの笑みを見ることができるかもしれない期待も相まって、下ごしらえを楽しいと思っていた。
 今でも、それは変わらない。
 真っ白な粉の中に少量の水を落とすと、水滴が粉を纏ってころころと転がっていく。
 『おかあさん、きれいねえ。宝石がたくさん、たっくさんうまれたよ』
 傍らで息をひそめ作業を見守っていた幼い奈津美の、はしゃいで少し高くなった甘い声を思い出す。
 少しずつ、少しずつ加えた水と粉がまじりあったところで、今度は別のボールに用意していた薄力粉とグラニュー糖の中にゆっくりと投入し、とろりとなるまで泡だて器で混ぜ合わせた。水で濡らしておいた型に深さの六割になるまで生地を網でこしながら流しいれ、火にかけておいた蒸し器の中にそっと置く。強火で蒸しているうちに、茹でておいた小豆の支度にとりかかった。義母のレシピでは甘納豆を使うが、少なめの砂糖で煮た小豆を使ってみたところ、こちらの方が好きだと奈津美が言うので、以来、それが私の中で定番になった。蒸し器に入れて二十分ほど経った生地を取り出して、表面の水分をペーパータオルに吸い取らせる。一呼吸置いたところで小豆を散らし、その上から取り分けていた四割の生地を静かに流し込む。小豆の散らばり具合を体裁よく整えてからもう一度蒸し器に戻し、そこから十分ほど強火にかけて表面が固まったら出来上がりだ。
「そろそろかしらね」
 蓋を開けて確認し、型ごと中から取り出したところで門の呼び鈴が聞こえてきた。居間の柱に設置されたセキュリティ画面を見ると、見知った顔が写る。
 家族ぐるみで懇意にしている医師の斎川恭輔氏だった。斎川家は代々医師の家系で、今は先代と親族で個人病院を経営しており地域の信頼も厚い。
「こんにちは。午前中の往診の予定がひとつ空いてしまって。ご迷惑かと思いましたが寄らせていただきました」
 居間に通すと、斎川氏が一礼した。
「葉子さんの一周忌を終えられたそうですね。僕も挨拶がしたくて・・・」
 斎川氏の実家は隣町で、夫の本間国男と彼は高校に至るまでずっと同級生だった。古くから家族ぐるみの付き合いだったと義母の葉子から聞いている。
 なので、彼は我々を全員名前で呼ぶ。
 カバン中から取り出した江戸紫の帛紗を開いて香典袋を丁寧な所作でテーブルに置き、微笑んだ。
「心ばかりですが、どうぞお供えください」
「・・・ありがとうございます」
 就寝中に息を引き取った義母を発見した朝、電話一つですぐに駆けつけてくれたのも斎川医師だった。
 それから葬儀が終わるまで動揺する私たちに親身になってくれ、何かと助けてくれた。
「それと、こちらは良子さんに」
 出されたのはプラスチックのケースに詰まったさくらんぼ。
「あら」
 つやつやと光る果実が、甘酸っぱい味を思い起こさせる。
「お好きですよね、くだもの。葉子さんがよくおっしゃってました」
 義母は健康にとても気を付けていて、頻繁に医院を訪れていた。どうやらそのたびに家族のことを医師に話していたらしい。
「ご丁寧にありがとうございます。あの・・・。確かにそうではあるのですが、私と言うより・・・」
「・・・え?」
「奈津美です。あの子が、果物を食べている所があまりにも可愛いので、つい」
 奈津美は前妻の娘で、自分とは血縁関係にない。
 だけど、幼いころから可愛らしい子だった。


 今でも鮮明に覚えている。
 奈津美に初めて出会ったのは見合いの席だった。
 早春の、広い和室。
 閉じられた障子からやわやわと昼の光が差し込み、畳を温める。
 大人ばかりのなかに、幼子がまるで置物のようにちんまりと座っていた。
 白い、ひな人形のようなきめ細かい肌。
 肩より少し上で切りそろえられた真っすぐな栗色の髪は艶々し、驚くほど大きな茶色の瞳と長いまつ毛。
 それに、薄い桜色に彩られた小さな唇。
 とてもとても綺麗な子だった。
 自分がこんな姿で生まれたかった、いや、自分が産んでみたい理想の女の子。
 茶菓子をきちんと切り分けて口に運び、小さな手で茶碗を持ち作法にのっとって緑茶を飲む。
 三歳になって間もないと聞いていたのに、ずいぶんとしつけが行き届いていた。
 いや、あまりにも出来すぎてまるで人形のようだとも思った。
 最後に義母が『お待たせですけど』と、私の手土産を小皿に分けて出して配り始めた。
 すると、小さな呟きが耳に届いた。
「いちご・・・」
 小さな、小さな声だった。
 幼児特有の、子猫の鳴き声のような、たどたどしくて可愛らしい響き。
 顔を覗き込むと、それまで凪のようだった瞳がさざめいている。
「いちご、好き?」
 尋ねてみると、視線はガラスの器に盛られた赤い果実に釘付けのまま、こくりと頷く。
「すき」
 恋に落ちた。
 この、小さな女の子に。

 もともと、互いの利害が一致した縁談だった。
 数か月前に前妻が娘を置いて離縁、本間家では後妻を探していた。
 良子は二十六歳。当時二十五歳を過ぎた未婚の女は世間体が悪く、さらに仕事に失敗した兄が家族を引き連れ実家に身を寄せて住まいは手狭になり、身の置き所がなかった。
 そんな中での後妻の口。
 姑となる人は習い事の茶道の同門で、師匠の先輩に当たった。青年部主催の茶会で私を見かけた縁で話が来たという。
 私も何度か茶会で彼女は見かけ、印象に残っていた。
 いつも品よく着物を着こなし、知識も豊富で、所作は完璧。この地域では高名な老師匠たちと肩を並べ組織の要として君臨し、雲の上の人だった。
 そんな人の嫁として家に入る。
 恐れ多くてすぐに辞退したが、是非にと再三連絡が来るうちに考えは揺れに揺れた。
 こんなに望まれるなら、本望なのでは。
 これを断ったら、次に来る縁談はもっと条件が悪いかもしれない。
 散々迷い見合いに応じた。
 丁重に断るつもりだった。たとえ今後、習い事を継続できなくなったとしても。
 しかし、決意は簡単にひっくり返った。
 私の心を動かしたのは、義母の歓待でもなく、端正な顔で溌溂と受け答えをする夫でもなく。
 胸の奥から沸き上がりあふれ続ける不思議な熱に、負けた。

 目の前に置かれると大きな瞳をきらきらと輝かせて、奈津美はデザートフォークに刺した苺をぱくりと頬張った。
 「・・・おいしい」
 ああ、食べてしまいたいくらい可愛いって、このことを言うのか。
 しみじみと噛み締めた。
 小さな唇をぴたりと閉じて、ゆっくり咀嚼する頬は薔薇色に染まって、心から喜んでいると誰にでも解る。
 細い、頼りない指、ちいさな手の平、桜貝のような爪。
 器用にフォークを操って、ゆっくりゆっくり大事そうに食べる様子はほほえましく、見合い特有のよそよそしい場の空気が一気に和らいだ。
 その瞬間、良子の気持ちは決まった。
 この子の、お母さんになれたなら。
 どれほど幸せだろうか、と。


「ああ・・・。そうだった。良子さんはそんな人ですよね・・・」
「そんな?」
「はい。奈津美さんが大好きで、吉央君が大切で・・・」
 私の世界は、子供たちで出来ている。
 あの子たちがいなければ、きっと。
「そうですね。私の核のようなものなのだと思います。・・・でも。良い母親にはなれませんでした」
 後悔ばかりが波のように押し寄せてくる。
「なにをおっしゃいますか、良子さん」
 ふいに、明るくからからと笑い飛ばされた。
「僕はちゃんと知っています。奈津美さんも吉央君もあなたがお母さんだからここまでこれたんだ」
「そんなことは」
「良子さん、僕がこっちに戻って来て何年たったと思います?」
 いきなり問われて、指を折りながら記憶をさかのぼる。
「吉央がまだ五歳くらいだったから・・・」
「そう。もうすぐ十二年になります」
「そんなに経ちますか」
「ええ、そうです」
 時間が経つのはなんて早いのだろう。
「だから、そんなことですよ。それで良いんです」
 彼の一言が、どれほど救いになったことか。
「・・・ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
 肩の力が抜け、深く息をつく。
 そこでふと思いついた。
「斎川先生、和菓子を召し上がりませんか?」
「はい?」
「今日の夕方のお稽古のために作ったものが、ちょうど先ほど出来上がったところなんです。お口に合うかわかりませんが」
 嫁いで以来、義母が自宅で開いていた書道及び茶道教室の手伝いをしていた。彼女が亡くなった時にそのまま習いたいとの要望があったため、今も続けている。
「それはぜひ。・・・もしかして、僕は良いころあいに訪ねたことになるのかな」
 斎川医師が目を輝かせ、ソファから身を乗り出すものだから、ついつい頬がほころんでしまう。
「少しお待ちくださいね」
 居間にお客様を残して席を立つ。
 自然と足取りが軽くなるのを自覚した。
 これほどに、心が浮き立つのはいつ以来だろうか。


 この家での結婚生活は、想像以上に困難だった。
 あとで知ったことだが、認知症の始まった同居の祖母の介護でもめたのが離婚の原因で、専業主婦として家に入ったその日から当然良子の仕事になった。
 介護と家事、教室の手伝い、雑用。
 時間がいくつあっても足りない。
 その上義母は片時も孫を離さず、肝心の奈津美と関わりがあまり持てず焦りを覚えた。
 そして夫との関係は、最初から形ばかりのものだった。仕事を理由にほとんど帰宅せず、たまに会うと下僕のような扱いを受けた。
 奇妙に静まり返った家の中で、時々、呆然と立ち尽くす。
 私は、なぜここにいるのだろうと。
 そんななか、大野夫妻との関りが幸運を呼んだ。
 彼らは低い竹塀を挟んで隣に住む義母の姪のひばりと夫で、とても親切な人たちだった。生まれたばかりの娘を抱えていたのに色々助けてくれて、最後には一緒に祖母を看取った。
 ひばりは近所の道場で空手の指導を仕事とし、心も身体も健やかな、太陽のような女性だった。夫も外見こそ線が細いが、柳の枝のように柔和で温かく妻と子を包み込む。
 彼らと親しくなると暮らしの様々なことを協力し合うようになり、心に余裕ができた。
 やがて奈津美を伴い隣家で過ごすようになった。大野の家はおおらかで明るく、温かい。塀一つ越えただけで、漂う空気が全く違った。
 ああ、私はこういう家庭が欲しかったのだな。
 そう思ったけれど、今更だ。
  
 嫁いで五年目過ぎたころに生まれた吉央は、予定外の子だった。
 お前は女として全く食指がわかないと、夫は式を終えるなり言い出した。娘に母親が必要と言われ母の好みに従ったが、抱く気はないと、寝室も別になった。
 しかし、夫は泥酔するとなぜか必ず良子の部屋を訪れる。寝込みを襲われ、布団に抑え込まれて、苦痛しかない時間。
 最中に、いつも夫は笑っていた。
 ブス、おとこおんな、マグロ。
 ああ、これがあいつだったらこうじゃないのに。
 そのくせに、行為は延々と続いた。
 酔っているからなのか隠す気はないのか、前妻と今も良い仲だと自慢した。後妻を家政婦に、前妻とは恋人気分を楽しむ。それが彼の狙いだったとようやく知った。
 心も身体もずたずただった。
 涙も出ない。
 だがこれも自分の選んだ道だと歯をくいしばって耐えるうちに、妊娠した。
 しかし無事生れた吉央をちらりと見て彼は吐き捨てた。
「卵管、縛っとけ。ガキはもうたくさんだ」
 どうして、私は一瞬でもこの顔を整っていると思ったのだろう。
 どうして。
 自室に鍵を取り付けた。
 その後夜中に何度か扉を蹴り飛ばされたが、やがて止んだ。

 吉央は、可愛かった。
 こんな子が自分から生まれたなんて信じられなかった。赤ん坊は日一日と目まぐるしい速さで成長していく。奈津美も弟の誕生をとても喜んで、そばにいたがった。
 最初は嬉しさのあまり気が付かなかった。
 吉央の誕生によって、この家が平和になるどころかますます歪んでいくことになろうとは。

 この、本間という家は。
 さかのぼると地元の殿様の血筋にあたるのだと、嫁いですぐに義母から教わった。だから、断絶は許されないと。そのために奈津美には女子として最高の教育を施し、最高の婿を取らねばならない。
『あなたも、そのつもりでね』
 そう言われた。
 実際、奈津美は幼いのに厳しく躾けられ、様々な習い事をさせられ、常に上等な服を着せられ、まるで姫君のようだと周囲は噂した。
 ところが吉央が生れた途端、事態は一変した。
 男子継承。
 奈津美は、いらない子供になった。
 義母の毎日は吉央一色になり、母親が育児をすることすら許されない。
 そこで始まったのが、あからさまな家庭内格差だ。
 吉央を跡継ぎとして甘やかしながら、奈津美を貶める毎日。
 もともと、義母は奈津美の容姿が気に入らなかった。あまりにも前妻に似ていたからだ。
 似ていても個性は別だと何度も説得を試みたが、全く聞く耳を持たなかった。
 前妻への憎しみが、奈津美にぶつけられ続ける。
 できる限り盾になろうとしたが、彼女は隙を見てはひたすら針でちくちくと刺すようないじめを繰り返す。
 幼い娘が壊れないことを、ただただ祈るしかなかった。

 性質。
 根幹。
 それは、神によって与えられたものなのだろうか。
 それとも、環境によって作られるものなのだろうか。
 ありがたいことに、奈津美は美しく育っていった。
 陰湿な風に倒れることなく、まっすぐと。
 多くの友をもち、様々なことに興味を持ち、様々なことを楽しみながら。常に生き生きとした表情を浮かべ、誰からも愛された。
 そして。
 奈津美が義母以外の誰にでも愛される半面、吉央は義母以外の誰にも愛されない子に育った。
 
 吉央が小学校に上がってしばらくして、家の中のお金が消えていくのに気づいた。
 いつからかはわからない。
 多分、少額程度だった。
 それが小銭入れからごっそりなくなり、様々なところの勘定が合わなくなっていった。
 犯人としてまず夫を思い浮かべた。
 遊興費が足りないのだろうかと。
 しかし昇進したての彼の収入は右肩上がりで景気の良さも相まって様々な手当てがつき、口座には相当な額が残っている。そもそも義母がけっこうな不労収入を所持しているため少し家計管理が雑な部分もあり、発覚が遅れた。
 しかしさすがの義母もとうとう気付き、問題になったのは月謝代数万円。
 一日で抜かれていた。

 義母は、真っ先に奈津美を疑った。
 帰宅した子供二人を庭に立たせて問いただすと、吉央は奈津美がやったと指さし、「どろぼう」と囃し立てた。
 すると、さすがに堪忍袋の緒が切れた奈津美が吉央を軽く突き飛ばしてしまった。
 吉央が大げさに尻もちをついた途端、義母は激怒し奈津美を力いっぱい殴った。
「私の孫に、何するの!」
 傍にあった箒を掴むなり、まるで憑りつかれたように振り下ろした。
「お前なんか、お前ごときが・・・」
 叫びながら、罵った。
 ばさりばさりと音が庭に響く。
 止めなければ。
 しかし、身体が動かない。

 どうして。
 吉央は、こんな子になってしまったのだろう。
 あの人の産んだ奈津美はこんなにきれいに育ったのに。
 私が産んだ子は、どうして。
 悪い夢を見ているのだと、思いたかった。

 良子が呆然と立ち尽くした間、奈津美は地面にうずくまって殴られるままで、異変に気が付いた大野ひばりが飛び込んでようやく、暴力は治まった。
 義母から箒を取り上げたひばりが説明するには、少し前より保護者仲間から噂を聞いていたとのことだった。
 吉央が、友達欲しさにお金をばらまき、善悪の判断能力のない子供たちが喜んで色々貰っていたらしい。歯止めが効かないので吉央に大金を持たせないよう、ひばりが伯母を説得してくれないかと頼まれたと。
 姪の話を信じない義母に、アニメのキャラクターが描かれたカードの束を渡した。
「これは、ほんの一部。将も貰ったって言うから、さっき叱ったところなんだけど」
 将はひばりの息子で吉央と学年が一緒だったが、あまり親しくなかった。
 大野家の子どもたちは義母を煙たがり、吉央との関わりも避けていたからだ。
 しかし学校で人気者の将を味方につけたくて、吉央がカードを無理やり渡したらしい。
「あーあ。伯母さん相変わらずだね。そういや私も昔、物差しで叩かれたことあったっけ」
 軽くいなして、ひばりはうずくまってた奈津美を抱え上げて起こした。
 箒の屑と、砂と、小石と、芝のかけらと。
 色々なものにまみれ、髪も制服も汚れていた。
 でも、近寄って詫びることができなかった。
「おかあさん・・・。どうして」
 細くて、かすれた声が耳に届く。
 見開いた瞳から流れる涙は、水晶のかけらのように綺麗だった。
 こんな時でも。

 地面にぽっかりと暗い穴が開いた。
 私は、いつから奈津美が憎かったのだろう。
  
 吉央は。
 数年前から簡単に嘘をつくようになった。
 最初はささいなこと。
 でも、呼吸をするようにさらっと自分に都合の良い嘘をつく。
 それがだんだん膨れ上がって取り返しがつかなくなり、同い年の子どもたちから嫌われ始めた。
 幼稚園でも、小学校でも、誰にも相手にされない。
 いじめられはしなかったが、ひとりぼっちだった。
 話をしないから、関わり方がわからない。 義母が子供らしい娯楽から遠ざけ、会話の糸口すらつかめない。
 友達ができない吉央は、同級生たちの気を引くために物で釣ることを覚えたのだろう。
 最初は近所の駄菓子屋に売っている小さなお菓子。
 それがだんだん渡す人数も金額もエスカレートしていき僅かな小遣いでは足りなくなり、こっそりお金を盗み始めるまでたいして時間はかからなかった。
 小銭から始まり、そのうち千円ずつ抜き取っていき額は増えていく。
 最後に盗んだのは一万円札二枚で、使い方なんて全くわからないゲームのカードを買い込んでばらまいた。

 お嬢様育ちで箒を振り上げる力を持たない義母の折檻は、幸いたいした怪我にならず打撲と擦過傷で済んだが、その時に吐いた暴言の数々はとうてい許せるものではない。
 奈津美は、良子が助けてくれなかったことに深く傷ついた。
 吉央は、思わぬ結果と義母の形相に怯え、その場で失禁していた。
 そして。
 吉央はあの日初めて、姉が母の子供でないことを知った。

 その後、夫が珍しく介入したがそれがさらに奈津美を傷つけた。
 思春期なのに生みの両親の関係を知ってしまい、嫌悪という感情を味わわされた。
 行き場のない後妻と継娘。
 互いの立場を再確認しただけのこと。
 両親と義母という三人の悪役のおかげで、私は奈津美に同情され許された。
 今も変わらず母と呼んでくれている。
 だけど、私の罪は消えない。
 あのころ。
 出来の良い奈津美を、確かに憎んでいたのだ。
 まるで、シンデレラの継母のように。

「あれはあれでよかったんじゃない。今思えば大きな台風のようなものだった。色々薙ぎ払ってくれたけど」
 と、奈津美はぽつりと言う。
「私とよっちゃんは、あれで、ようやく普通の姉弟になれた」
 
 奈津美は一時期親戚の家に身を寄せていたが、戻ってくると吹っ切れたようにたくましくなった。
 「腹をくくった」という奈津美はまず、混乱していた吉央に猛突進して過剰なほどの愛情を注いだ。
 奈津美にならって大野家の子どもたちも積極的に関わりだし、遠慮なく垣根を越えて遊びに来ては吉央を連れ出す。
 将が毎日登校を一緒にするようになると、なんと朝は早起きをして家から駆けだすようになった。
 表情も、どんどん変わっていく。
 ある日、吉央が同級生を連れて帰ってきた。
「おかあさん、お友達とおかしたべたい」
 涙が出そうになるのを必死でこらえた。


「ああなるほど、水無月。明日が夏越祓でしたっけ」
 斎川医師は興味深そうに、朱の漆の皿にのせた菓子を両手に捧げ持ち、じっと眺めた。
 あまりにもしげしげと見つめるので、恥ずかしさにいてもたってもいられなくなる。
「あの・・・」
「ああ、はい。すみません、水無月を見るのは久しぶりなのでついつい目で楽しんでしまいました。頂きます」
 彼は黒文字でひとかけ切り分けると嬉し気に口に入れ、咀嚼してすぐに何度もうなずいた。
「うん、優しい味ですね」
 ますます、身の置き所がなくなる。
「我流なので、義母のような洗練された味には到底なれませんが・・・」
 義母の料理の腕前はたいそう素晴らしく、店を出せると誰もが言い出すほどだった。
「この水無月は奈津美さんたちの好物でしょう」
「はい。ご明察で・・・」
「だから、良いんですよ。ほんとうに、ほっとする味だ」
 斎川医師の言葉は、いつでも柔らかくて暖かい。
 だからこそ吉央は、実の父に放り込まれた暗い穴から這い出して生きることができたのだろう。
「ありがとうございます」
 感謝の言葉をどんなに言っても、足りない位だと解ってはいるけれど。


 七年前。
 夏の真夜中、泥酔した夫が息子に暴行した。
 正確には、性的暴行未遂。
 思い出すだけでも、身体が震える。
 今でも、彼を許せない。
 いっそのこと、殺してやりたかった。

 あの日は寝苦しさを覚える、湿度の高い夜だった。
 ダーン。
 ガガガガガ。
 聞いたことのない、恐ろしく大きな音がして、布団から飛び起きた。
『来ないでっ!』
 甲高い叫びは外から聞こえる。
 男の子の声。
 吉央。
 私の息子の声だ。
『よしおっ!』
 ざらりとした怒鳴り声は、いないはずの夫。
 今日は帰ってこないと義母から聞いていた。
 なぜ。
 慌てて廊下に出ると、何故か隣の吉央の部屋から奈津美が真っ青な顔をして現れた。
「おかあさん、よっちゃんが・・・っ」
 視線の先は、扉の閉まった奈津美の部屋。
 しかし、奈津美はガタガタ震えて動かない。
「おかあさん、どうしよう・・・、よっちゃん・・・」
 隣家の大野家の雨戸が勢いよく開く音が聞こえる。
『たっちゃん、たすけて!』
 吉央が、ひばりの息子に助けを求めていた。
 将自身の声も聞こえる。
『こっち・・・』
 寄せて建てられていたので、奈津美の部屋と将の部屋は向かい合いとても近い。
 ドアノブを回すが、なんと奈津美の部屋は内側から鍵がかかっていた。
 しかし、夫の怒鳴り声と将や大野夫妻の声はそこから聞こえる。
「おかあさん、下からいこう・・・っ」
 二人で階段を駆け下りガラス戸を開け、裸足で庭に降りた。
 見上げた将の部屋のそばの屋根の端ぎりぎりに吉央がうずくまり、窓から降りた将が駆け寄り抱き寄せたのが月明かりに照らされて見えた。
 そうしてようやく、先ほどの大きな音は吉央が奈津美の部屋から大野家の屋根に向かって飛んだ時のものだと気づいた。
 吉央は臆病で運動が苦手で、とてもそんなことができる子ではない。
 まっ白な、吉央の身体。
 下着すら身に着けておらず、裸だった。
 そして遠目に見ても顔はすでに血だらけだ。
「戻って来い!」
 シャツの前をはだけ、だらしない恰好をした夫が奈津美の部屋のベランダで吠える。
 近所の家々は、何事かと電気をつけ、雨戸を開け始めた。
 月が、煌々と照らし、晒した。
 全ての、醜いものを。

 全く、気づいていなかった。
 夫が、実の娘を性的な目で見ていたなんて。
 あの夜、度重なる父の言動に身の危険を感じた奈津美は吉央の部屋へ行き、『お泊りさせてね』とベッドに潜り込み一緒に眠った。
 しかし事情を知らない吉央は夜中に目を覚まして部屋を出て、風が涼しいからと奈津美の部屋のベッドで眠ってしまった。
 そこへ、泥酔しきった夫が乗り込み襲った。
 組み敷いたのは、小学生の息子とも気付かずに。
 何をされているのかわからないなりに抵抗した吉央は容赦なく殴られ、ボロボロになりながらもなんとか将のもとへ逃げて、告げた。
 『おとうさんが、奈津美って、言った』と。
 情けないことにそれを聞いた瞬間、吐き気をこらえるのに必死だった。
 駆けつけた義母は吉央の言葉を否定したが、自分は身に染みていたから解る。
 彼は、そういう男だと。

 以来、吉央は精神的に不安定になり、本間の家にいられなくなった。
 斎川医師たちがさまざまな治療を施し、今は大野家の一室で将と過ごすことでなんとか少しずつ落ち着きを取り戻していった。
 奈津美も大学進学で東京へ行くまで将の姉の部屋で暮らし、就職後は戻らなかった。
 どんなに経っても親子の関係は断絶したままで、それが気に食わない彼の子供じみた嫌がらせがいつからか始まった。
 最初は、ほんの些細なこと。
 それがだんだんと酷くなり、義母が存命の間はなんとか対面を保ってきたが、とうとう数か月前に単身赴任となったのを機に、給与口座を変更して家計費を止めてしまった。
 高校生の息子は学費がこれからもかかる。つまりは養育義務を放棄したということなのだろう。
 傍から見たら家庭としてはとっくに崩壊している。
 けれど、まだ離婚には至っていない。
 すべては、あの夜のことを伏せるため。警察沙汰にしなかったが、近隣の住民はあの騒ぎに薄々感づいている。
 隠し通すことが子供たちの将来のためと思い、己に言い聞かせていた。だけど、それは本当なのかとも毎日心の中で問い続けてきた。
 しかしこんな状況にもかかわらず、自分から別れを切り出す勇気はなかった。
 すべては、自分に確たる収入がないせいだ。
 義母の遺言で遺産のほとんどは夫のものにされた。貯金を切り崩せば当面はしのげるが、いずれ限界が来る。教室の月謝では足りない。
 もっと働いて、子どもたちを守らねば。


「子供たちのことも、そして義母のことも、今まで本当にお世話になりました」
 頭を下げると、なぜか彼は慌てた様子になった。
「あ、ちょっと・・・。ちょっと待って、良子さん」
 つい、テーブルをはさんで正面から彼の顔をまじまじと見つめてしまう。
「ええとね。故人にも大変申し訳ないんだけどね・・・。お供えは口実と言うか、きっかけというか・・・」
「・・・はい?」
 彼は、ハンカチで手のひらを拭って居住まいをただした後、口を開いた。
「あのですね。一周忌も無事に終えたことだし・・・」
「はい」
「僕と、結婚してくれませんか?」
「・・・・は?」
「あの、つまりはですね。あなたと奈津美さんと吉央君と三人とも僕の家族になってほしいのですが」
「・・・あの。私は一応、既婚者ですけど」
「あ、はい、わかっています。解っているのですが・・・」
 彼は、この家の事情を知りすぎている。
 もう、どこにも隠すものなんて、ない。
「・・・そうですよね」
 自嘲気味に笑ってしまった。
「いや、その。だから、国男君ときっぱり別れて、僕の奥さんになって欲しい・・・んですが、すみません、僕もどう言ったもんだか・・・」
 斎川医師はハンカチを握りしめた手を開いたり閉じたりしている。
 ここにきて初めて、彼がいつになく緊張していることに気付いた。
「むちゃくちゃですよね、やっぱり」
「・・・ええ、まあ。そう、ですね・・・」
「言葉が悪いのは重々承知で言わせてください。僕に、乗り換えてくれませんか、良子さん」
「・・・乗り換える?」
 つい笑おうとしたけれど、彼の眼があまりにも真剣で、口元を抑えた。
「はい。あの、もうずいぶん前なんですが・・・。僕の、当時の妻が駆け落ちしまして」
「はい?」
「結婚してから始めた習い事の・・・。フラメンコだったのですがずいぶん熱心だなあと感心していたら、ある日いきなり住宅ローン以外の全てを手土産にスペインに高飛びされてしまいましてね」
「・・・それは、また・・・」
「ええ。婚約時に彼女の希望で購入した高級マンションの名義だけは僕だったので・・・。それだけ残って。ある日、連続勤務でへとへとの状態で帰宅したら、預貯金を始めとした金目の物はごっそりなくなっていました。ご丁寧に僕の蔵書や家具まで売り飛ばされていて、カーテンすらない部屋になっていてね。いやあ、床にへたり込みましたよ」
「え・・・?」
 あまりの話に口を開けて固まった。
「あ、そこ、笑う所です」
 あはははーと自ら笑いながら、斎川医師は頭をかいた。
「まあ、彼女の実家からもらったお詫びで当座はしのいで、あとうちの家族が色々動いてくれたのでローンはなんとかなったのですが、さすがに精神的打撃が大きかったのと、ほぼほぼゼロからの出発になってしまったので、実家に帰って医院を手伝うことになったのですよ」
 彼も、乗り越えて今ここにいるのだと知る。
「こんな面白い話、地元にはあっという間に知れ渡ってかなり格好のネタにされましたが、良子さんのことだからご存じなかったでしょう?」
「あ、はい・・・。存じませんでした。離婚されてこちらに戻られたとしか」
「で、ここからがこれからの話です。一昨年はじめに彼女が外国の裕福な男性と再婚しまして、それがまた良識のある男性と言うか、太っ腹というか・・・」
「はい」
「持ち逃げした預貯金プラス売り飛ばしたもろもろに慰謝料を合わせて、僕に返してくれました。まあ、法律や税金の問題と手続その他でまとめてすぐに受け取るというわけにはいきませんが」
「はあ・・・」
「で。こうなると、吉央君がこれからどんな大学へ進学したとしても、例えば在学中に留学したいと思ったとしても、僕のお金で賄うことができるなと思ったんです。そして、更に都合のよいことに、最近国男君が家計費を止めてしまったとひばりさんが教えてくれた」
「え?ちょっと、それはどういう・・・」
 彼女はとても頼りがいがあるので、つい洗いざらい話してしまう。
 そもそも吉央の教育費が絡んでいるのだ、隠しとおせることではない。
「ひばりさんを怒らないでください。実は、結構前から彼女に相談していたんです。僕は、良子さんと一緒に暮らしたいと」
 そんなことが二人の間で交わされていたなんて、知らなかった。
「僕は、あなたが本間の家に見切りをつけるときを待っていました。そして、葉子さんには悪いけれど、彼女が亡くなったことで足かせがなくなったと、心の中で、ちょっと・・・、喜んでいました。あなたを、ずっと支配していましたから」
 義母を姉弟子としてずっと尊敬してきた。
 あらゆる日本文化に精通して、着物を粋に着こなし、美しい面差しをしていた。
 こういう大人に、こんな年の取り方をしたいと思っていた。
 だけど、それは嫁という立場になるまでのこと。
「わたし・・・わたしは・・・」
 頭の中が、まるで急な嵐に襲われたようにぐるぐる回る。
「葉子さんもね。我慢強くて、品のあるあなたを好きだったのだと思います。彼女の自慢はもちろん国男君のことばかりで、その次が吉央君だった。でもね。時々、良子さんのことも自慢していたんですよ。ご存じなかったでしょう?」
「・・・知りませんでした」
「夏越の、みなづき。あなたの水無月を頂いたのはこれが初めてじゃないんです」
「・・・え?」
「前にね。葉子さんに呼び出されたことがあったんですよ。奈津美さんと吉央君が本間の家に住まないのがどうしても納得がいかないって、良子さんが外出されている間に」
 『あいにく嫁の作ったものしかありませんが宜しければどうぞ』と供された水無月。
「あまりにも武骨でしょう、彼女は笑ってました。でも、子供たちはこちらの方が好きみたいでって、ちょっと・・・、いや、かなり悔しそうでしたよ」
 義母は、あの子たちを愛していたのだろうか。
 最期まで、子どもたちの受けた虐待を認めようとしなかった人。
 息子の邪魔をするのはたとえ孫であろうとも許さないと、何度も何度も言いはなち、常に辛く当たっていたけれど。
「僕はあの時、良子さんの水無月を物凄く美味しいなあと思った。小さな小豆のなかにほんのりとした甘みが詰まっているし、半透明の外郎が口の中で凄く優しく溶けるのがたまらなかった。こんな料理を毎日食べられる本間と大野の皆さんが心底羨ましかった」
 子供たちを預かってもらうことになってから、両家の食事は出来るだけ自分が作った。
 大野夫妻は最初そこまでしなくてもと言ってくれたが、我を通した。
 それくらいしないと、子供たちとの絆が断ち切られそうで怖かったからだ。
「誤解しないでくださいね。僕は家事の一切を良子さんに丸投げしたいわけじゃないです。独り暮らしが長かったから、僕なりに一通り出来ます。ただ、一緒にご飯を食べて、一緒に片付けて、おやすみなさい。朝にはおはようって言いあえる毎日を、良子さんとこれから過ごしたい」
 おはようも、おやすみなさいも。
 自分には遠い。
 がらんどうの家にいつも独りで。
 夫であったはずの人とは軽い挨拶の一つすら交わした覚えがない。
「ぼくと、結婚して下さい」
 考えたら、プロポーズの言葉なんて、なかった。
 まるで仕事の契約のように粛々と進んだ婚姻。
「はいって、言ってください」
 心と、頭の中で、風がごうごうと吹きすさぶ。
「良子さん」
 優しい声。
 かすかに、甘ささえ含む、暖かい声。
 こんなことが、あっていいのだろうか。
 今になって、私なんかに。
「私は・・・」
 声が震えて、のどに詰まってしまった。
 息が苦しい。
 このまま、小さく、小さくなって消えてしまいたい。
「泰山木の花が・・・」
 ふいに、斎川医師が庭へ視線を転じた。
「よい香りですね。さすがは、吉央君の木」
「・・・そんなことまで、義母は・・・」
「はい。ご自慢の木でもありますからね」
 タイサンボク。
 夏に大きな白い花をつける木。
 思いがけない跡取りの誕生を喜んだ義母が、記念にと大野家との境に植えたものだった。
 日当たりの良い一等地で大きな緑の葉がきらきら輝いた。
 しかし植えたままにしておくととてつもなく大きくなることを後になって知り、こまめに剪定するなど気をつけねばならなくなった。
 意外と手がかかるけれど、その分、この季節に咲く花の美しさと香りは格別だ。
「僕が子どものころ、母の実家の近くの公園にこの木があって。花びらを手にした時感動しましたよ。ほんとうに大きくて、綺麗で、素敵な香りがして」
「ええ・・・。私はこの家に嫁いでからこの木を知りましたが・・・。赤ん坊の頭ほどの大きさの花なんて、初めて見ました」
 初めてあの木が蕾を付けて花開いた時、本当に驚いた。
 そんな自分に、あなたは本当に世間知らずねえと義母が笑った。
 だけど、それは新たな扉を開いてくれただけのこと。
 人に何かを教えるのが好きな人だったのだと、今は思う。
 そう考えられるようになるだけの時間を、この一年過ごした。
「あれは大きな杯の木って言うんだよって祖母に教えられまして。いつかお酒が飲めるようになったらこの花びらで飲もうねって言われたけれど、それは叶わなかったなあ」
 同じ花を眺めて、それぞれの亡き人を偲ぶ。
 そんな時の過ごし方は、初めてだ。
「ねえ、良子さん」
「はい」
 陽の光を一身に浴びて、空に向かって次々と枝を伸ばし続ける、貪欲な木。
 天に届いたら、故人に思いを伝えてくれるだろうか。
 至らないままの私を、許してくださいと。
「僕のこと、嫌いじゃないですよね?」
「はい」
「むしろ、好きですよね?」
「・・・はい」
 晴れ晴れと、目の前の男性が笑った。
「じゃあ、一緒に暮らしましょう」
 眩しすぎて、思わず目を閉じてしまいたくなるほどの、明るい笑み。
「・・・」
 どうして、この人は。
「良子さん?」
 窓から風が滑り込んできて。
 あの香りが、また私たちを包み込む。
「・・・はい」

 もしも、許されるならば。
 もしも、あなたが・・・。
 ・・・お義母さん。

「ところで、良子さん」
「はい」
 途端に、彼の顔に見たことのない表情が浮かんだ。
「水無月、もうちょっと頂いてもいいですか?」
「・・・はい。喜んで」
 台所へ向かおうとして、ふと思いついた。
「斎川さん」
「はい」
「さくらんぼ、一緒に召しあがりませんか?」
「もちろん、喜んで」
 光が、部屋の中に満ちていく。

 夏の初めの、草木の命を含んだ、かすかに甘い風。
 手のひらに沿う大きな白い花弁。
 そして、優しい笑み。
 もしも、許されるなら。


 -おしまい-


→ 『よる』シリーズ入り口へ戻る

→ 『過去作品入り口』へ戻る


inserted by FC2 system