『みなづき。』



 雑踏の中でとても綺麗な、とてもとても珍しい生き物が、気配を消して静かに時を待っている。
 少しだけ俯いて伏し目がちな眦はすっと筆で書いたように切れ長で、まっすぐに伸びた背中と首筋は誰とも違う清廉な空気が漂っていた。
 歩き出すと同時に空手を教え込まれた彼は、大柄な両親の血を存分に受け継いで日本人離れした体格に育ち、すれ違う人々が時折ほれぼれとした視線を送っている。
 大野将。
 又従弟で、お隣さん。
 たとえもっと人の多いところで探したとしても、きっと見つけるのに苦労はしないだろう。
 彼は、幼い時からちょっと不思議な子だった。
「たっちゃん、お待たせ」
 囁いてそっと肩に触れると、彫像のようだった彼の身体に力が戻り、そしてなぜか、普通の高校生の顔になる。
「なっちゃん」
 この、打って変わった人懐っこい笑顔は反則だと思う。
「ふ・・・っ。くくっ」
「なっちゃん?」
 ちいさな、ちいさな、たっちゃん。
 負けず嫌いで、曲がったことが嫌いで、三つの時には眉間にしわが一本入っていた。
 でも、やっぱりたっちゃんはたっちゃんで。
 私の中の彼がそうであるように、彼の中の私はきっと、お隣のなっちゃんのままなのだ。
「ごめんごめん、たっちゃんが相変わらず可愛くて、嬉しくなっちゃった」
 こっちだよ、と、腕を引いて、そのまま手を重ねる。
 大きな大きな、頼もしい手のひら。
 骨ばった指を三本、ぎゅっと握った。
「そんなこと言うのは、なっちゃんだけだよ」
 平然とした顔のまま、奈津美の好きにさせてくれている。
 夏の学生服姿で、こんなにかっこいい男の子と手をつなぐなんて、友人たちが見たら大騒ぎだろう。
 役得。
 だけど、この子は大切な、かけがえのない人。
「そうなのかな。でも、ひばりさんも毎日思ってるんじゃないかな」
「そういや、時々、捕縛されてほおずりの刑に遭うな」
 ちらっと顔を見上げると、母親に抱きしめられて頬ずりされた時を思い出したのか、何とも言いようのない表情をしていた。
 恥ずかしいような、ちょっと嬉しいような。
「ほらね」
 大野家は、いつでも愛情に満ちていて、あったかい。
 だから、私たちは大好きだった。



 駅の喧騒から離れて少し歩いたところにあるホテルへ入り、フロントと同じ階にあるカフェに落ち着くとハンバーガーを注文し、ボリュームのあるそれをお互いに思いっきりほおばった。
「うん、うまい」
「よかった。気に入ってもらえて」
 七月にはなっていたがまだ夏休みシーズンに入っておらず、平日の昼間だったせいか周囲は仕事の打ち合わせに使っている大人ばかりで、体格は成人男性並みでも制服で高校生とわかる将は少し目立っていた。
「それにしても、たっちゃんが英語に堪能って知らなかった」
 今回の上京の理由は、前日の日曜日に開催された英語論文の表彰式だった。
 そのまま帰宅することは可能だったが、将はあえて一泊することにした。
「いや、俺は大したことないよ。本当は吉央の方が凄い」
 答えつつも将は食べ続け、両手の中のバンズはあっという間に小さくなっていく。
「そうなの?知らなかった」
 正方形のテーブルの角を挟んで隣に座る奈津美も負けてはおらず、二人はぽつりぽつりと会話を交わしながらも、どちらかというと食べることに集中している。
 皿に盛られたポテトの山もどんどん減っていき、やがて綺麗になくなった。
「うん。最初に推薦の打診を受けたのは吉央だったんだけど、辞退したから俺になった」
「え?なんで」
 少しぽってりした唇を奈津美が無意識のうちに尖らせると、将はこれがキスしたくなる唇ってやつだなという考えが頭をよぎり、近すぎる距離にそっと目をそらした。
「バイトを休みたくないから嫌だって」
 昨年の夏に同居していた祖母が亡くなった途端、吉央の父親は仕事を理由にますます家に戻らなくなりやがて単身赴任。しまいには家計費を入れなくなった。
 そのため母の良子と姉の奈津美が貯金を切り崩して生活の足しにしているのを知っている。それから、吉央はアルバイトに精を出すようになった。
「でも、そういうのは内申書とかプラスになるんじゃないの?」
 さほど知名度の高いコンクールではないが、実績にはなる。
「うん、その通りなんだけど、成績で底上げするからいいって」
 実際、吉央の成績は常にトップクラスで、将もそれに追随するために密かに努力しているところだ。
「言うな~。言ってみたい、そんなセリフ。・・・でも、よっちゃんはそうするしかなかったのね」
「・・・うん」
 奈津美と吉央の家は昔から複雑で。
 10歳の夏に泥酔した父親から性的虐待をされかけた吉央は、忌まわしい記憶から離れるために次第に勉強に打ち込みはじめた。その成果は着実に表れ、高校は学費免除で入学できた。
「あの家庭環境で、夜中にバイクを盗んで校舎の窓ガラス叩き割って回らなかっただけでも、奇跡だと常々思っていたけど、よくよく考えたらそういうタイプじゃないのよね」
「うん」
 二人で一瞬高い天井を見つめ、すぐに顔を見合わせ笑った。
「想像つかないな、グレグレのよっちゃん」
「だね」
 切れ長の一重瞼に薄い白い肌、そして細い頤の吉央はいつも伏し目がちで、溌剌として華やかな奈津美に比べたら一見地味だが、すっと咲いている水仙のようにどこか凛としている。
 まっすぐに伸びた背中と細く伸びた手足。
 薄い唇の端にぽつりと落ちたほくろがどこか寂し気で目を引き、癖のない黒い髪はいつも襟足をきちんと刈り込んでていて、制服と靴はいつもきちんと整えられていた。
近隣の女子の間ではひそかに『若様』と名付けられ、更には『観賞用』と言う声もしっかり将の耳に届いている。
 今の吉央からは、悪さをするなんて想像がつかないだろう。 
「そういや、パン屋のさとみちゃんとのパフォーマンスは今年の文化祭はしないの?」
「あれはやるらしい。内容は去年とほぼ同じとは思うけど」
 幼馴染で同じ高校に通う折原さとみは幼い頃に本間の祖母の書道教室に通っていて、その流れで中学・高校と書道部に所属している。
 彼女は高校入学と同時に書道部へ吉央を引きずり込み、パフォーマンス書道で文化祭を盛り上げた。
「今年こそ見たいな。千字文もくもくと書いている吉央の周りで大筆振り回して走り回るさとみちゃん」
 さとみと自分と吉央。
 小学三年生の時に同じクラスになって以来、何かと一緒に行動することが多くなり、それは今も続いていて、さとみが見つけた筆耕の会社のアルバイトに吉央も加わり、仲良く働いている。
「うん。折原は豪快で変化に富んだ字を書くのが好きだから、バイトの時に規則正しい字を書くのが耐えられなくて時々荒れてるって吉央が言ってた」
「さとみちゃんらしいね」
 将が母の主催している空手道場に行っている間に吉央を独りにすることがなくて、さとみには感謝している。
 だが、二人の少し距離が近すぎる、と、思ってしまう自分もいる。
「あ、そうだ。デザート食べよう、たっちゃん。まだいけるよね?」
「もちろん」
 紅茶でいったん落ち着いたところで二人はデザートの追加注文をすることに決め、メニューをのぞき込んだ。



「それで、進路はだいたい決まったの?」
「うん。方向性は」
 いろどりも綺麗に盛られたデザートをフォークでゆっくり崩しながら、二人は話を続けた。
「とりあえず、薬学を学んで国家資格を取るのはどうだろうって話になってる」
「とりあえず、ねえ・・・」
「うん、とりあえず。清水さんのおかげで学費の心配はなくなったから、選択肢を少し広げてみた」
 清水さん、とは、家族ぐるみで世話になっていたかかりつけ医で。
「ここにきて清水先生、まさかのサヨナラホームランだもんねえ。あれにはちょっと驚いた」
 そして、これから吉央の母・良子と再婚する予定の人だ。
「俺たちもさすがに驚いた。どんな魔法がっていうのがおふくろの第一声だし」
 本間の家と将の家は低い生け垣を挟んだ隣同士で、互いの祖母が姉妹だった縁でもともとは母屋と離れの関係だった。そして、吉央は事件以来ずっと将の部屋で寝起きをしている。
「二人の意思はともかく、まさか、すんなり話が通るとはね」
 ひと月ほど前に、良子が夫に離婚を申し出た。
 理由は清水医師に結婚を申し込まれたからだったが、それを正直に伝えたら性格のねじれた本間国男のこと、理由もなくごねるのは容易に想像がつく。
 長い間、多くの女性と不倫や浮気を繰り返してきたが、世間体は貞淑な良子で保つ腹積もりらしく、長い間生殺しの生活を強いていた。
 いや、国男一人が支配していたのではない。
 姑である祖母の葉子と二人がかりで、心根の優しい嫁を、そして奈津美と吉央たちさえも押さえつけ続けていた。
 風向きが一気に変わったのは、祖母が亡くなった急死した瞬間からだった。
 重しが一つ減ったことによる家族間のバランスの崩壊。
 そしてひそかに良子を慕っていた清水が祖母の一周忌を区切りとし、動いた。
 良子に迷いはもちろんあった。しかし長い間寄り添ってくれていた清水の誠意に心が動き、最終的には承諾した。
 その後の清水の行動は驚くほど早かった。
 熟練した離婚弁護士の手配と、国男に不利な証拠集め。
 そして、第三者による立会いの下の調停の場をすぐに設けた。
 『先制攻撃は得意なんだ』と奈津美たちに豪語していた清水は、見事な手腕で良子、吉央、奈津美の三人を本間家から離籍させ、国男への慰謝料の支払いは一切なしという結果に落着したのがつい十日ほど前のこと。
「まさか、本家の孝義さんがここでも出てくるとはねえ・・・」
 離婚調停の立会人の一人が、本間家と清水家の本家筋にあたる孝義だった。
 実は、本間家の人生の節目に彼の名前が見え隠れしている。
 離婚調停の前は、祖母の葉子の葬儀の時。
 それ以前にも国男がらみで何かが起きると彼の名前が出る。
 はるか昔で言うならば国男の就職及び所属部署の口利きは、清家の後押しがあったおかげだったとか。
 清家孝義。
 四十代半ばにして地元大手企業の重役で、中央の経済界にも顔が利く。
「たしか、国男おじさんが家庭教師をしていた縁とかいうよね」
 東京のエスカレーター式名門校に籍を置く孝義は、小学生の頃から母親とともに東京住まいだった。そこへ、東京の大学へ進学した分家の国男が挨拶へ行き、そのまま家庭教師の座を射止めた。
「・・・きな臭いのよね。いろいろと・・・」
 国男は女性関係にだらしがなく、片っ端から手を出してはトラブルを起こしていた。その最たる例が、仲人する予定だった部下の婚約者と温泉旅行へ出かけたのが露見した時だった。婚約者自身も会社関係者だったことから大きな騒ぎとなり、それの火消しをしたのもやはり孝義だったと、なぜか将の姉のつぐみが情報を仕入れてきた。
「なんだろう。うますぎる話・・・っていうか?」
「そうそう。親切すぎて、怖いよね。それに気づかないでここまで来たあの人もたいがい間抜けと言うか」
「まあ、俺ならそろそろツケを払ってもらう頃合いかなと思う」
「うん、私もそう思う。そのための布石かなーと」
 離婚調停の場で、孝義は清水の意見を前面肯定した。
 さんざん世話になった孝義の意見に逆らえず離婚を承諾したものの、子供の頃からライバル視していた清水に妻子を攫われた屈辱には耐えられない国男は、腹いせに本間の家屋を取り壊して更地にし、売却する手続きを取った。
 利便性は良く閑静な住宅地であり、そして坪数も大きなその土地はすぐに買い手が付き、法的手続きも着々と進んでいる。
 結果として初盆を待たずに本間の土地は他人の手に渡り、国男は二度とこの地区に足を踏み入れることはないだろう。
 そして。
「さすがの私も、清水先生がその先を読んでいたとは思わなかった・・・」
「俺も、安藤さんが家を売りに出しているの知らなかったな」
 清水は、大野家を挟んで反対の隣の安藤家の土地家屋を購入していた。
 不動産会社を通して売りに出たのは今年の春。
 海外勤務のため長い間貸家にしていたが、経年劣化及び借り手が変わるたびのメンテナンス、そして固定資産税の支払いの面倒から解放されたいと売却に踏み切ったらしい。
 敷地面積は本間家に劣るが、清水は良子が茶道教室を続けられるような間取りの家を建てる予定だと奈津美たちに告げた。
 離婚届が受理されてすぐに良子は大野家に間借りし、奈津美や吉央のアルバムなどこまごまとした荷物は将たちが段ボールに詰めトランクルームに預けたので、今日明日にでも重機が入っても問題はない。
 年末には新しい家完成と同時に、良子は清水との生活が始まる。
 ただし、吉央は将の部屋に残る。
 将たち大野家と、良子、奈津美、吉央の関係を崩さないことを念頭に置いてくれた清水には、一同、言い尽くせないほど感謝している。
「だけど正直、タイミングが良すぎて俺としては気持ち悪いんだけど」
「だよね。まあ、先生はそれを薄々わかっていて乗っかったらしいよ。お母さんには内緒だよって言われたけど」
 良子は、当時存命で体が弱り始めていた曾祖母の介護を嫌って飛び出した前妻の代替として嫁に迎えられた。
 認知症も始まりかけている老女の介護、口うるさい姑の手伝い、そして置き去りにされた前妻の子の養育、そして仕事を口実にめったに家にいつかない夫。
 転職して地元に戻ってきた兄が妻子を伴って実家に同居を始めた良子にとって、どれほど条件が悪くても嫁ぐ以外に道はなかった。
「良子さん、俺たちの中で一番清らかだからな・・・」
 良子は大学まで女子校の上に就職先も女性の多い銀行業務、趣味と習い事は茶道、華道。中流家庭ではあるがお嬢様育ちと言って良く、人の悪意に慣れていない。
 そして、憤るより耐えることを選び続けた。
「うん。あ、いや、よっちゃんもおんなじくらい?」
「ああ、うん、吉央と良子さんは別格。で、俺たち俗人」
 紅茶のカップをソーサーに戻して、おどけるように肩をすくめた。
「たっちゃんたら」
 軽く噴き出した後、奈津美は一口大のケーキのかけらをフォークに載せて差し出す。
「はい。ひとくちどうぞ」
「ん」
 将が顔を寄せてひな鳥のようにぱくりとついばんだ。
「うまいな、さすがなっちゃんが選んだ店」
 ゆっくり咀嚼した後、にこりと笑う。
 そして視線が一瞬、テーブルの上に置いている携帯に流れたのを奈津美は見て取った。
「いま、よっちゃんのこと、考えたでしょ。食べさせたいなーとか」
「うん」
 笑顔の中に、少し大人びた表情が見え隠れする。
「まったく、たっちゃんときたら」
「うん、ごめん」
 奈津美は、将の瞳に胸が痛んだ。
「たっちゃん・・・」
 ごめんと、謝るべきなのは自分の方だ。
 将は、もう子供ではなくて。
 いや、ずっと前からこの子は大人びた目で私たちを見守ってくれていた。
「あのね。・・・あのね、たっちゃん」
 いつからそうなってしまったのだろう。
「うん?」
 子供には、子供の時間が必要なのに。
 そうさせてあげられなかったのは、私たちのせい。
 謝る言葉がみつからなくて、いたずらに時ばかり過ごしている。
「たっちゃんは、このままでいいの?」
「・・・どういう意味?」
 今日こそ聞くべきだと、思う。
「ずっと、ずっとね。思っていたの。今になってごめん」
 大きな窓の外は夏の光が降り注ぎ、テラス席の人々は広い空と爽やかな風を楽しんでいる。
 こんな日だから、聞けると思った。
「たっちゃん、今のままで、本当にいいの?」
 今日こそ、解放すべきだと。


「私たち、ずっと大野の家に甘えっぱなしだった。特にたっちゃんの負担は、謝りようがないくらい大きかったと思う。本当にごめんなさい」
 将は、あの夜から生活を変えた。
 それまで国体選手だった母のひばりと同じく空手漬けだった毎日を道場での短時間の鍛練程度に控え、県外に出るような大会出場をやめてしまった。
 そして、出来る限りの時間を吉央に合わせ、寄り添い続けた。
 大野家の人々は将の決めたことに表立って口を挟まなかったけれど、母譲りの才能を埋もれさせるには惜しいと、内心思っていたに違いない。
「負担だなんて、なっちゃん大げさだな」
「大げさじゃない。だって、たっちゃんは空手あんなに頑張っていたのに」

 悔いても悔いても、悔やみきれない。
 でも、何も考えられなかった。
 あの家の暗がりが、怖くて。
 じっとしていたら、取り込まれて、押しつぶされそうだった。
 だから、逃げ出してしまった。
 自分ひとり、明るいほうへ。

「・・・あのさあ。なっちゃん」
 あくまでも、将の声色は変わらない。
「うん」
 視線を上げると、ちょっと上目遣いの将の顔があった。
 こういう表情をするときは、頼みごとがある時だ。
 それも、ちいさな、ちいさな、可愛らしい要求。
「こんな時なんだけど。頼んだもの、作ってきてくれた?」
「頼んだもの・・・」
「うん。メールでお願いしていた件」
「・・・あ、あああ、ありますあります。持ってきました!」
 我に返った奈津美は椅子にまとめていた荷物に飛びついた。
「そんなに慌てなくても」
「いやいや、そもそも、このためにたっちゃんわざわざ品川まで来たのよね!」
「いや、まあ、そうともいうけど・・・」
 奈津美に会いたかったのもあるんだけどな、と、将は心の中で笑う。
「はい、これね。どうぞご確認ください」
 少し重みのある紙袋をテーブルの空いたスペースに載せた。
「うん、ありがとう」
 空になったデザートの皿を脇へ移動させ、自分の前に紙袋を寄せて中をのぞく。
「うん、これこれ」
 ものすごく嬉しそうな笑みに、問いかけた。
「それでいいの?しかもホットケーキミックスで作っただけなんだけど」
 袋の中にみっしり詰まっているのは、グラニュー糖をまとったまん丸なドーナツたち。
「うん。これを、吉央が食べたがっていたんだ」
「よっちゃんが?」
 弟の吉央とはいつの頃からか小さな溝ができていて、彼の本音が見えなくなっていた。
「・・・ああ。あいつは口に出しては言わないよ。この間つぐみが里帰りしてきて、お土産がサーターアンダギーだったんだよ。でも、なっちゃんがおやつにドーナツをよく揚げてくれたよね、あっちの方がおいしかったなって話になった時、すごく食べたそうな目をしてた」
 吉央は、将と二人きりでも口数は少ないという。
 小さな頭の中で、ずっと一人で考えて、言葉に出てくるのはほんのわずか。
 だから、将は吉央の些細な表情も見逃さなくなった。
「えええ?それで、わざわざメールしてきたの?」
「うん。俺らはホットケーキミックスでも揚げ物はハードル高いし、なっちゃんが作ったから美味しかったんだよ」
「そうかなあ」
 本間の家ではドーナツを揚げたことはない。
 祖母が安い菓子の匂いを嫌ったからだ。
 敷地続きの大野の家の台所で、三つ下のつぐみとこっそり作り始めたのはいつのことだったか。
「そうだよ。なっちゃんが部活とか習い事の合間を縫って作ってくれるお菓子、大好きだった。もちろん良子さんのも好きだったけど、洗練されていて子供の俺たちには大人のお菓子過ぎて。目の前でさくっと作ってくれるのを見ているのが楽しかった」
 ホットケーキミックスを混ぜて、スプーンですくって高温の油の中に落とす。
 しばらくすると、ぷくりと丸く膨らんで浮かび上がり、甘いバニラの匂いを放ちながらキツネ色に焼きあがってく。
 皿いっぱいに積みあがったドーナツボールに、グラニュー糖があれば振りかけて、なければそのままに。
タネにゴマを混ぜたり仕上げにきなこを振りかけてみたりと、どんどん種類が増えていった。
 たいてい、将と吉央はまちきれずに揚げたてにこっそり手を伸ばしてはつぐみに叱られて、しまいには小さな姉弟喧嘩が勃発するけれど、食べるときにはすっかり仲直りするのがお約束で。
 楽しい、楽しい時間で、それこそがご馳走だった。


「いまだから言うけどさ、俺の初恋ってなっちゃんなんだよな」
「・・・え?」
 一瞬、何を言われたかわからなかった。
「なっちゃん、漫画みたいな顔してる」
 目と口を最大限に開いたまま固まってしまう。
 脳内の伝達機能がうまく作動しない。
「ええ?」
「そんなに驚くことかな。うちの界隈、みんなの初恋ってほとんどなっちゃんだと思うけど。つぐみもさとみもそうだし」
「ええええ?」
「だってさ。バレエもお稽古事もぶっちぎりで上手くて、お姫様みたいに可愛くて、しかもおとぎ話みたいに意地悪なばあさんに虐げられながら暮らしているのに真面目で明るくて優しくて、めちゃくちゃ憧れの的だったよ」
 リアル小公女とか、リアルシンデレラって言われていたの知らない?と、将は面白そうに言葉をつづけた。
「ち、ちょっと。ちょっと待って、たっちゃん」
「うん」
 躾の良い犬のように、将は背筋を伸ばして待機する。
「ええと。全く知らなかったんだけど、その辺の話」
「うん。つぐみの初恋?」
「いや、全部。それよりなに、おとぎ話みたいにって」
「ああ。ばあさんがなっちゃんに厳しく当たっているのは、けっこう各方面にバレバレだったよ。しかも、吉央が無意識のうちにばあさんの言動バラしていたから」
 ばあさん。
 将は奈津美たちの祖母をずっと嫌っていた。
「バラす?」
「うん。なっちゃんも解っていたと思うけど、吉央が物心ついた時からずーっと子守唄代わりになっちゃんの悪口吹き込んでただろう。鵜呑みにした吉央が小学校入ってすぐにそれがんがん言っちゃったんだよ。九官鳥みたいに」
 吉央が小学校へ入学した時、教師を含め周囲の注目の的だった。
 『「あの」本間奈津美の弟』として。
「悪意とか、そういうつもりじゃなくて、それが常識だと信じてなっちゃんを貶める発言を連発したものだから、クラスの子たちがいっせいにドン引きしたよ。でもみんながなんでそんな態度取るのかわからなくて、あっという間に独りぼっちになったんだよ、吉央は」
「ひとりぼっち・・・」
 その件については多少心当たりがある。
 祖母は吉央が生まれた時、手放しの喜びようだった。しかしおむつを替えたり風呂に入れたりなどは煩わしいと手を貸さず、都合のよい時だけ可愛がり、教育にも口出しした。
 その一つが幼児教育で、同年代の子供たちが好むアニメや特撮もののテレビを観ることを禁じ、さらには下品な言葉遣いが移るからと幼稚園に通う事すら難色を示し、何かと休ませて手元に置いた。
 大人の世界で甘やかされっぱなしだった吉央は、同い年の子供たちとの関わりをうまく築くことができないまま小学校へ上がってしまった。
 小さな躓きはやがて吉央の心をねじまげ学校も休みがちになり、とうとうその年の秋ごろに問題が起きた。
「なっちゃん、覚えているだろう。ばあさんに折檻されたときのこと」
「折檻だなんて、随分古い言葉を使うのね」
 歳に似合わない時代がかった言葉に、思わず吹き出す。
「折檻というより、虐待とか暴行と言った方がしっくりくるけどな。あの時のばあさんは、鬼畜そのものだったよ」
 友達ができない吉央は、同級生たちの気を引くために物で釣ることを覚えた。最初は近所の駄菓子屋に売っている小さなお菓子。
 それがだんだん渡す人数も金額もエスカレートしていき僅かな小遣いでは足りなくなり、こっそり祖母の箪笥からお金を盗み始めるまでたいして時間はかからなかった。最初は小銭で、そのうち千円ずつ抜き取っていき額は増えていく。
 そのお金は祖母と母が茶道と書道を教えて稼いだもので、最後に盗んだのは五千円札で、自分は全くやったことのないカードゲームのカードを買い込んでいた。
 しかし祖母は、真っ先に奈津美を疑った。
 そして母は、思うように育たない吉央と家に帰らない夫のことで精神的に追い詰められていた。
 子供二人を並べて問いただすと、吉央は奈津美がやったと嘘をついた。さすがに堪忍袋の緒が切れた奈津美が吉央をしかりつけると、大人二人は奈津美の言葉に一切耳を貸さず、叱責した。
 そして、罪を認めない孫娘に激怒した祖母はとびかかり、まるで憑りつかれたように箒で打ち続けた。
「良子さんはなっちゃんが打たれてボロボロにされていくのをただぼんやり見ていて、吉央は吉央で大事になったのにびっくりして腰を抜かしていたよね」
 本間家での異変に気が付いたひばりが飛び込んで祖母を制し、ちょうど同学年の保護者たちから相談されていた話を説明した。
 吉央が、友達欲しさにお金をばらまき、善悪の判断能力のない子供たちがそれをあてにして色々ねだって買ってもらったと。
 なので吉央に大金を持たせないよう説得してくれないかと言う、苦情でもあった。
「俺、なっちゃんが大好きだったから、ばあさんも、良子さんも、それと吉央も悪党だと思ったんだよ。あそこに居合わせた瞬間はね」
「・・・うん」
 お嬢様育ちで箒を振り上げるなんて力をもともと持たない祖母の折檻は、幸いたいした怪我にならず打撲と擦過傷で済んだが、その時に吐いた暴言の数々はとうてい許せるものではなかった。そしてなにより、母と慕っていた良子が全く庇ってくれなかったことに奈津美は深く傷ついた。
 だけど、それ以上の衝撃を幼い吉央はその時に受け、恐怖のあまりへたり込んだまま失禁していた。
「でも、芝生の上でしりもちついて、漏らして震えてる吉央を見てるとね。かわいそうだなって思った。ばあさんにぼこぼこに殴られて、良子さんに助けてもらえなかったなっちゃんは髪も制服もずたずたでもっとひどい目に遭っていたのに」
 ごめんね、と低い静かな声で囁かれ、奈津美は首を振る。
 吉央はあの日初めて、奈津美が良子の子供でないことを知ったのだ。

「本間の狭い家の中で一番威張ってるヤツに可愛がられてるって頭に乗って、そいつにそそのかされるまま意地悪してきたけど、なにもかも間違っていたって、あの時やっとわかったんだろうけど、吉央にはどうにもできなかった。なっちゃん、あのあとすぐにしばらく東京へ行っちゃったし」
 その日珍しく帰宅した父がおおよその話を聞いた後、東京に行かないかと奈津美を誘った。ちょうどアメリカで看護師として働いている産みの母親が、一時帰国して東京に滞在しているから会わせてやると言われ、混乱したままついていった。
「行ったものの、ろくでもない真実を知って、本間の家に帰るしかなかったけどね」
 東京へ連れていかれたからには、実母と暮らせということなのかと思っていた。
 でも、現実はもっと残酷で。
「なっちゃんが、すごくしょんぼりしてたけどちゃんと帰ってきたとき、吉央は本当にうれしかったんだよ。でも、どうすればいいかわかんなくて、すごく困ってた」

 嘘をついたことを、謝りたかった。
 もう二度と会えないかと思った姉の手を、握りたかった。
 でも、暗い顔をして戻った姉に、声をかけることすらためらわれた。
 おかえりなさい。
 ごめんなさい。
 だいすき。
 言いたい言葉はたくさんあるのに。

「・・・たっちゃんには、本当にかなわないなあ。よっちゃんは私の弟なのに、思っていることがぜんぜんわからない」
「俺もわからないよ。でも、なっちゃんのこと、本当はとても好きなのに、どうしたらいいのかわからないっていうのは、さすがのつぐみでもわかったみたいだよ」
「さすがのって・・・。たっちゃんひどい」
「いや、つぐみは本当に我が道だけだから
 いつ元気が有り余っている姉に振り回されていたと思っているらしく、こんな時だけ将は不満をあらわにする。
 でも、つぐみと過ごした毎日は、奈津美の中でなくてはならない記憶だ。
 ひばりも、夫の直樹も、つぐみも、自分たちをいつでも明るく迎えてくれた。
「ほんとうに・・・。大野のみんながいなかったら、私たち、どうなったかわからない」
「だってお隣さんだし。又従兄弟だし。大切な家族だと思っているよ」
「ありがとう。たっちゃんがいてくれて、本当に良かった」
「でもなっちゃん。俺は、吉央を頭から丸ごと食ってしまいたいと、常々思ってる」
 表情一つ変えず、さらりと将は切り返した。
「・・・たっちゃん?」
「あのあとクラス替えで吉央と一緒になったら、ずーっとひよこみたいに吉央は俺の後ろについてくるようになった。前みたいに憎たらしいところは全然なくなって、可愛かった。下に弟か妹欲しかったし、だんだん情が沸いて」
「うん」
「それであの夏の夜、アイツに襲われたのを頑張って逃げて、俺の腕の中で号泣した時、めちゃくちゃどきどきした。殴られて、裸にされて、怪我もして。心配もしたし、アイツを殺したいくらい腹が立ったけど、吉央が必死になってしがみついてくるから、もうどうしたらいいかわからなかった」

 腕の中の身体の熱に驚いた。
 首筋を撫でる息が熱くて、
 かけてやったタオルケットから覗くうなじが白くて、
 整わない呼吸で上下する肩がたよりなくて。
 胸を撃ち抜かれ、
 深くえぐり取られて、
 喉が渇いたのを覚えている。

「・・・俺は、吉央をこれから悲しませることをするかもしれない。いや、確実にする。アイツよりずっと俺は鬼畜で、何度も何度も、酷いことしたいって思ってた。どうする、なっちゃん?」


 
 テラス席のほうからさっと鋭い光が差し込んだ。
 たまたま外を歩いていた人の持ち物が、陽の光に反射したのかもしれない。
 でも、優雅なティールームにまるで稲光が走ったような瞬間だった。
 二人の間に横たわる、重い沈黙。
「・・・あー。・・・もうね」
 地を這うような声がテーブルの上を滑っていく。
 深々と、奈津美はため息をついた。
「・・・なっちゃん?」
「私の、数分前までのトキメキを返して、たっちゃんのばか」
 恨みがましい上目遣いを受けて、将は慌てて身を乗り出す。
「・・・は?」
「だって、そうでしょ?昔、お婿さんにしてもいいかなーと思っていた子から、初恋でしたって告白されて、ときめかない方が無理じゃない?」
「お婿さんにしてくれようとしたんだ。初耳・・・」
「そりゃそうでしょうとも!私がまだぎりぎり小学生の頃だもん!」
「・・・俺、その時多分四歳くらいだけど、なっちゃん・・・?」
 先ほどまで、目の前でケーキを差し出してくれたのは大人の女性の顔をしていた奈津美だった。
 だけど、口調も表情もすべて、幼い家族の顔に戻っている。

 去年の、初夏の、真夜中の海。
 奈津美と、吉央と、つぐみと四人で過ごした通夜。
 人里離れた田舎の浜辺で子供みたいにはしゃいで、朝を迎えた。

「この子は見所あるなーと思ったのよ、子供心に!!お互い大人になったら歳の差とか、あんまり関係ないのはひばりさんたちでよくわかったし!」
「俺のとこ、二歳しか姉さん女房じゃないよ?」
「小学生にとって、二歳の壁はエベレストより高いです~」
「いやいや、そうなると八歳の壁は大気圏外じゃないの?っていうか、なっちゃん、彼氏がいるって聞いたけど」
「それってなに情報…。いや、お母さん以外にいないのはわかってるけど、それは誤報だから。人違いだから」
「人違いって、かわいそう過ぎない?すごく良い人って、良子さん喜んでいたのに」
 今年の正月、良子が奈津美の部屋を訪ねると、素敵な男性が一緒にいたと嬉し気に大野家へ報告していた。
 その人は、物腰柔らかな年上の好青年だったと。
「たっちゃん、しつこい。もうその件は良いの。終わったから」
「あ・・・。そうですか」
 時々、奈津美の口調と会話のテンポはつぐみと似ていると思う。
 仲が良いとそんなところがうつるのか、なたでも振り下ろしたかのようなばっさり加減が非常に似ている。
「とにかくね。久々にちょっとときめいた乙女心をどうしてくれよう…ていうか、あれ?私、何を言いたかったんだっけ?」
「・・・いや、それはさすがに俺にもわからない・・・」
「うん・・・。私もなにがなんだかわからなくなっちゃった・・・」
 途方に暮れた顔の奈津美を見ると、つい、笑いがこみ上げてきた。
 それは彼女も同じで、くくくと、肩を震わせ笑いをこらえている。
「やあねえ、もう」
「うん、ごめん、俺がいきなりすごい告白に走ったから」
「ほんと、たっちゃんの口からまさかの告白だもの。宣言?ていった方が良いのかな?」
「うん。俺、なっちゃんにまず言っときたかった。吉央とずっと一緒にいたいって」
「ずっと、一緒に・・・か」
 奈津美の頭の中に、小学生の頃の二人が思い浮かぶ。
 手をつないで登下校している姿は、はたから見て微笑ましいものだった。
 ひよこのように可愛い吉央、
 骨格のしつかりした犬のように頼もしい将。
「もう一度言うけど、ルームメイトとかじゃないよ?もっと掘り下げて・・・」
「いやいやいや、お腹いっぱいです。やめてちょうだい。私、あなたたちのお姉さんなんだから!!」
 慌てて手のひらを将の前に上げ、待て、の指令を出した。
 ぴしっと背筋を伸ばして、彼は答えを待っている。
「・・・口実かな、とは思っていたのよ」
「ん・・・?」
「ドーナツ」
「ああ・・・」
 学校を休んでまで品川へやってきた理由。
「そうだね。ドーナツが欲しかったのは本当だけど」
「私が反対したら、思いとどまろうとか思ったの?」
「うん・・・。それは・・・ないかな。駄目って言われる気はしなかったんだ」
「そうですか・・・。うん。そうなんだけど」
 吉央を見ていると、将がそばにいない世界なんて存在しないように思えた。
「逆に俺に悪いなって三人が思っているのは常々感じていたから、どこから説明したもんかなと思ってた。吉央を嫁にしたいですって言ったら、さすがの良子さんも混乱するだろうなとか。まずおふくろには何発か殴られるだろうけど」
「男同士だから?」
「いや、吉央に手を出したから」
「え?もう、実は二人って・・・?」
 奈津美が両手を口に当てて固まるのを、今度は将が片手を上げて制す。
「いや、だからまだだって。進路が確定するまでは我慢するって」
 吉央の繊細さを誰よりも知っているのは、将だ。
「あ・・・、なるほど・・・。そうなのね・・・」
 ほうと、息を吐いて奈津美は姿勢を正した。
「ご配慮、ありがとうございます」
 深々とこうべを垂れると、将も深々と大きな体を折り曲げる。
「いえ、こちらこそ。責めずにいてくれて、ありがとうございます」
「責めはしないけどね、手放しで承認じゃないから、ちゃんと心に留めといてね」
「え?反対ってこと?」
「私は、吉央のお姉ちゃんなの。たまにはお姉ちゃんぶりたいの」
 びしっと人差し指を繰り出し、将の鼻先に突き付けた。
「どんなことであれ、私の弟を泣かせたら、許さないから。わかった?」
「・・・もちろん」
 その日一番の、綺麗な笑顔が広がった。


 ホテルの空調とは別の、心地よい風と草木の香りを感じて、うっとりと目を閉じる。
 駅まで見送りを将が遠慮したので、奈津美はそのままティーラウンジにとどまり、新たにコーヒーをオーダーした。
「高校生相手にとろけそうな顔をしたりして、何やってるんですか、あなたは」
 珍しく辛辣な物言いに目を開ける。
 傍らに顔を向けると、作り物のように完璧な造作の顔がわずかに眉をひそめて見下ろしていた。
 周囲は、長身でみるからに高級そうなスーツに身を固めた男に好奇心の視線を送っている。
「大好きだった男の子が、成長してますます良い男性になっていて、しかも大切な弟を下さいって言いに来て。これ以上どんな顔をしろっていうの?」
「さくっとまとめたらそんな話になるんでしょうか。でも、とろけすぎです」
 まるで何もかも把握しているような口ぶりに、疑念がよぎる。
「・・・もしかして、私の持ち物のどこかにGPSと盗聴器仕込んでる?」
 篠原高志。
 有名政治家の秘書の一人で、ちょっとした関わりを持ってしまったひと。
「さすがにそこまではやめてくれと啓介さんに止められたので、やっていません」
 啓介、とは奈津美の同僚の片桐啓介のことで、彼の祖母が篠原の正式な雇い主になる。
「やるつもりだったと、言い切るんだ・・・」
 潔いとほめるべきかと一瞬考えたが、いや、根本が間違っていると思い直す。
「じゃあ、なに情報なの?片桐さんは今、こっちにいないはずなのに」
「・・・あなたが、高校生と思しき青年と手をつないで品川駅界隈を歩いていると、しらせが・・・」
 らしくない、ややしどろもどろな口調に、ちょっと可愛いかもという仏心が沸き上がるがそれをねじ伏せ、あえてつっけんどんで通した。
「で、だれ?」
「・・・池山さんです」
 そして、池山和基もまた同僚で営業職としての敏腕ぶりを各方面いかんなく発揮している。
「あの人ったら…。いろいろ能力の無駄遣いよね…。というか、また私、池山さんに売られたのかな」
「いえ、今回は無償です」
「こんかいは、ねえ」
 彼らを含めた親しい友人たちは、ちょっとした事故から始まった篠原と奈津美の攻防を野次馬根性で楽しく見守り、時には茶々を入れてくる。
 例えば、こんな風に。
「・・・まあ、立ち話も目立つので、どうぞお座りください」
 又従兄が去り、ぽつんとあいた空間を示すと、篠原は優雅に一礼し腰を下ろした。
「・・・いつから、ここにいたの?」
「お二人でドーナツの話を始めた時から」
 奈津美は宙を見上げてそれまでの会話の記憶をたどる。
「・・・かなり深い話を始めたとこって感じかあ。まさかと思うけど、会話も聞いちゃったの?」
「奈津美さんは大野様に集中されていたのでお気づきにならなかったようですが、私はそこにいましたよ」
 彼が視線で示したのは斜め後ろのソファセットで、姿勢を転じない限り気がつかない。
「誤解の無いよう申しますが、単に私も休憩時間だったのでここに寛ぎに来ただけです」
「・・・なんか、前後左右、つじつまが合っていませんが、篠原さん?」
「・・・そういうことにしてくれませんか。私もたいがいだと思っているのですから」
 ちょっと、情けない顔。
 けっして計算したものではなく彼の素顔とわかるから、降参してしまった。
 どうしてこの人は。
「では、武士の情けで」
「ありがとうございます」

 コーヒーが二人分運ばれてきて、お互いにカップを手に取り口につける。
「・・・昔ね。十二年ぶりかな、産みの母に再会したのも品川だった」
 産みの母と亡くなった祖母は同居したその日から嫁姑戦争を繰り広げ、奈津美が三歳の時に離婚という形で決着した。
 そして今度は祖母のお眼鏡にかなった良子が後妻に入り、吉央が生まれたけれど、本間の家の雰囲気はいつもどこかよそよそしいままだった。
「そうでしたか」
「本間の家に居づらくなったタイミングで父が産みの母に会わないかっていうから、私は彼女とこれから暮らすことになるんだと覚悟して品川に行ったの」
 しかし、予想は大きく外れた。
「もう記憶にも残っていない母は、見た目がとても若い人だった。私を頭のてっぺんからつま先まで眺めた後、今更一緒に暮らす気はないとはっきり言われた」
 当時の母はまだ三十代半ばで。
 アメリカで看護師としてそれなりに活躍しているらしく、自信に満ちていた。
「そうでしたか・・・」
「その直後に父と二人で話し込んでいるのを偶然聞いて、二つのことを知ったの。一つは、両親の関係は今も続いている」
 再婚相手に全てを押し付けて、恋人気分を楽しんでいた二人。
 確かにお似合いで、これ以上の似た者同士はなかった。
「・・・その当時、奈津美さんは」
「十五、だったかな。中学三年生だったはずだから」
「ショックだったでしょう」
「ええ。それよりもっと衝撃だったのは、実母のことばだった。地味子って、母のことを揶揄して、そして私のこと、気持ち悪いって」

 心の中の、汚い、どろどろしたものを顔いっぱいに滲み出させながら、あの人は言い放った。
『顔と身体は私で、中身は地味子って、サイアク。なに?あれは地味子の嫌がらせなの?』
 それを聞くなり父は、腹を抱えて笑いながら追随した。
『お前、うまいなそれ。息子はもっと地味でじとーっと暗くてさ。家に居づらいのなんのって』
『うわ、ますますサイアク』
『だろー。慰めてくれよ、美加あ』
『まったく、しょうがない人ねえ』
 吉央は間違いなく父の子なのに、全くの他人ごとで。
 地味だ、じみだと私たちを侮辱して喜ぶ二人の顔は、とても、とても醜かった。
 こんな二人から、自分は生まれたんだと思うと、絶望で目の前が真っ暗になった。

 おかあさん。
 こんなひとたちに、こんなにも長い間踏みにじられて。

 そして聡い母が、この薄っぺらな人たちの思惑などとっくに気づいていて、悩み続けていたのだとようやくわかった。
 どうすればいいのか、わからない。
 頭を整理するのに時間が必要だった。
「それですぐに将のお母さんに連絡を取って相談して、東京に住んでいた大野の叔父一家の元にしばらく置いてもらって。あの人達も優しいからずっと居ていいよって言ってくれたけれど、また本間へ戻った」
 帰宅して一番に母に聞いた。

 どうして、どうしておかあさんは我慢できるの?
 こんな、ひどい家。

「そうしたら、笑ったの。『ここが、私の家だからよ』って。ものすごく、ものすごく苦しくて悲しいのに、母は・・・」

 何度もあの時の笑顔を思い出す。
 綺麗で、儚くて、切ない、ほほえみ。

「奈津美さん」
 指先を握られて、我に返った。
「あ、ごめんなさい。こんな暗い話を聞かせて・・・」
「奈津美さん。私はあなたが好きです。とても」
 骨格のしっかりした手で、強く握り込まれて、彼の力を知る。
「あなただから、好きです」
 この人は、どうしてまっすぐにそんな言葉を口にできるのだろう。

 好きと言われるのは、嬉しい。
 でも、好きと言われるのは、怖い。

「先日、お母さまにお会いした時、あなたにそっくりなところをいくつも見つけましたよ」
「・・・そっくり?」
「ええ。言葉のちょっとした間合いとか、笑うタイミングとか…。そんな些細なところまであなたたちは似ています」
「・・・ほんとうに?」
「ええ」
 ふいに、肩の力が抜けた。
 そっくりなんだ・・・と、思わず呟いた。
 外見はあの人達に似てしまったけれど、中身は、お母さんに似ていると、この人は言う。
「うれしいですか?」
 囁きが、優しく耳を撫でる。
「・・・うれしい・・・」
 じわり、と、指先に人の肌の暖かさが通う。
「今度、私の話を聞いてくれませんか?」
 彼の、大切なひとのはなし。
 知りたいと、思い始めている。
「・・・。聞く、だけ・・・なら」
 聞くしか、できないけれど。
「ええ、あなたに聞いてほしいのです」


 “私の、心の中の月も。”

 彼は、真昼の月を背に、謎をかける。

 “あなたの中にあるように、私の中にも、月があるのですよ。”

 心の、月。


 -おしまい-


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