『天のはかり 竜のめざめ -2-』



「いや、チェンジ決定したから。無理」
「・・・は?」
「これからは晶が担当って、先方にも伝えたよ」
 思わず、宮坂の顔を二度見した。
 いや、正確には凝視したまま固まった。
 オフィス内の空気も同じく凍結状態だ。
 全員、固唾をのんで…いや好奇の目で見ている。
「まーさーか、あんなことやらかしといて、はい、担当違ったんでーって逃げられると思ってんの。甘いねえ」
 『やらかしといて』と言いながらも、責めているのではなく面白がっているのは、声と表情から十分にわかる。
「・・・まさかとは思うが、こうなるのを狙っていたとか言わないよな」
「なに、その深読み。見当違いもいいとこだよ」
 頬杖ついてにやにやと笑う宮坂に、誰もが悟ったに違いない。
 見事に嵌められた、と。
「・・・別の意味でやらかしましたね、八澤さん・・・」
 ぼそっと背後から降ってきたささやきに、すかさず後ろ足で蹴りを入れた。
「あ・・・。はちや・・・」
 蜂谷の向う脛にうまくキマったらしく崩れ落ちるような音とうめき声が聞こえ、夏川がぽやんと声をかけたのも想像がつく。
 そんなのわかっとるわ。
 ここのところあまりにも仕事が順風満帆で、そんな毎日に宮坂が飽きてきている感じはしていた。
 だからと言って。
「・・・あんまりだろう、誉」
「いやいやいや、誤解だから。ちょっと思いついちゃったからさあ。もっと面白いこと」
「は?なにを」
「はいはい、怖い顔しない。せっかくの美人が台無しだって、晶」
「はああ?」
 こいつの性根を早々に叩きなおすべきだったと深く後悔した。
「俺は、お前を甘やかしすぎたな・・・」
「いやもうほんとに怖いから、怒らないで聞いて。あのさ。これを機に蜂谷珈琲店とも業務提携させちゃおうかなあって」
「は?」
「え?」
 膝を抱えて座り込んでいた蜂谷とうっかり同時に声を上げてしまった。
「前々から考えてはいたんだけどね。志水堂は茶道と結びつきが深いから日本茶に関しては申し分のないパイプをいくつも持っているけれど、それだけだから行き詰るんだよね。コーヒー、紅茶、烏龍茶。どれに合わせても美味して視覚的にも映えるってなれば、インフルエンサーが勝手に展開してくれる可能性もあるし。そうなると、蜂谷さんのところから色々仕入れた方が早くて確実だろう」
 一理ある。
 何店舗かある付属の喫茶室はどれも和菓子屋にありがちで平凡だった。
 コーヒーと紅茶は一応メニューに含まれているが、全く話題に上らない。
「なら、なおさら蜂谷が仲介するのが筋だろう」
「まあ、ちょっとは関わってもらうけれど、メインは晶」
「なんでそうなる」
「だって晶、いずれは蜂谷さんのところに帰るつもりでしょ。なら今のうちにこういうの関わっとくべきじゃない?」
「それは・・・」
 反論の余地がない。

 宮坂と出会い一緒に働かないかと持ち掛けられた時、即座に断った。
 自分は、このまま蜂谷珈琲店で働きたいと。
 飲食業界に関わるあらゆる商いを行っているのを知っていたので、自分は法務関係の業務を引き受けて支えたいと思い、学んでいる最中だったからだ。
 すると、宮坂は新たな提案をしてきた。
「じゃあ、僕のところでしばらく修行しようよ。多分飲食業も関わることになるし、即戦力のほうが蜂谷さんも良いでしょ」

 まだ小学生のころ、父方の祖母が萌と自分を連れて行ってくれたのが蜂谷珈琲店との関わりの始まりだ。
 自分たちが生れたころに助産師を引退した祖母は、共働きの両親に代わって面倒を見てくれていた。
 時間の許す限り色々なところに連れて行っては様々な体験をさせてくれたが、その珈琲店で祖母と過ごすひとときが何よりの楽しみだった。
 飴色の落ち着いた家具に囲まれて、コーヒーという大人の飲み物の香りが漂う中、萌と自分は軽食やジュースを食し、祖母とゆっくりとりとめのない話をする。
 そんな時間がずっと続くと思っていた。
 しかし、自分たちが中学校へ上がる直前に亡くなってしまった。
 その葬儀になんとオーナーの蜂谷五郎氏が参列したのには正直驚いた。
 ただの常連客のために出向くとはと。
 そしてその時、お悔やみとともに彼は告げた。
「おばあさんからも言われたと思うけれど、うちにはいつでもおいで。今までのようにね」
 その通りだ。
 祖母は体調を崩して入院する直前、支度の手を止めて自分たちの顔をじっと見て言った。
「お父さんたちにはちゃんと話は通しているから、蜂谷さんのお店には今まで通り行っておいで。当面のご飯代はお前たちのお小遣いの口座に入れといたから」
 あとで知ったが、『ご飯代』なんて金額ではなかった。
 しかし、そのおかげで萌と自分は心置きなく蜂谷珈琲店に通うことができた。
 最初は二人連れだって。
 やがてそれぞれ思う時間に。
 店内の奥で試験勉強をするのを黙認してくれ、高校生になってからは二人ともアルバイトとして雇ってくれたりもした。
 要するに、かなり入り浸っていた。
 なぜなのかはわからない。
 実の両親よりもオーナーの蜂谷五郎氏のそばにいるほうが楽だった。
 それは萌も同じらしく今もよく出入りしていて、あの場所こそが実家のようなものだ。

「・・・わかった。俺が蜂谷さんと志水堂の橋渡しをすれば良いんだな」
「まあ、そういうことだね。当面、晶を駆り出して空いた穴は復帰した庄野に埋めてもらって、瑛にもうちょっと法務業務の仕事を覚えてもらう」
 もともと、この会社は全員オールマイティだ。
 宮坂の手のひらで踊らされるのは頭に来るが、業務に支障が出ないことは予想が付く。
 それに八澤が前面に出ることは珍しいが、初めてではない。
「ただし。ある程度めどが付いたら、すぐに戻るぞ。俺はあくまでも法務関係の仕事をする約束でお前と契約したんだからな」
「了解」
 今の宮坂は、社長然としている。
 しかし、その笑みはどこか楽しげだ。
 こいつは、何を考えている。
 引っかかるものを感じたがどうにも考えがまとまらない。
 八澤は自席へ戻り、とりあえず仕事にかかることにした。


 
 彼と、踊ってみたい。
 きっと、竹のようにしなやかなで楽しいにちがいない。

 その姿が目に入った瞬間、そう思った。
 墨のように黒い髪、白磁のような肌、そして意志の強さがくっきりと浮かんだ瞳。
 何かを探るような鋭いまなざしに、ぞくぞくした。
 存在そのものに洗練された美を感じる。
 まるで、いつか博物館で見かけた一振りの日本刀のように。
 ただ、彼はガラスの向こうの宝物ではなく、生きた人間だ。
 でも、どうしよう。
 それなのに人形のように小さくて、かわいい。
 本当に生きているのか。
 今すぐに声を聞いてみたくて、焦ってしまった。
 なんでもいい。
 自分より年下だろうか。
 もしかして、学生か。
 いや、今日のこの場に限ってさすがに部外者を同伴するわけがない。
 でも。
 人は、若く見られることを好む傾向がある。
 彼の気を引くために閃いた言葉を、深く考えずに掴んで放り投げてしまった。
「おや・・・。そうデスか。インターンシップには最適デスね」
 一瞬にして、周囲の空気が凍った。
「・・・なるほど」
 ああ、こんな声なのだ。
 予想よりもずっと低くて、深い。
 耳で彼の声をゆっくり味わい、言葉の意味を脳で解釈しょうとして、ようやく気が付いた。
 取り返しのつかないミスを犯したのだと。
 浮かれていた気持ちは一気にどん底へ落ちた。


「突然うかがいって呼び出してすまないね。事前に確認しておきたいことがあったから」
 額にかかるやわらかな髪を優雅にかきあげながら、佳人がほほ笑む。
 二人きりで話がしたいとの連絡を受け、ホテルのラウンジで待ち合わせることにした。
 上階のテラス席には自分たちだけで、近くに見える皇居の堀と木々の緑に都心だと思えない解放感を感じる。
「いえ・・・。コチラもお会いシタイと思っていたノデ」
 文法も間合いもそうだが、なかなか日本語の発音に寄せるのは難しい。
 敬語はこれで良いのだろうか。
「相変わらず、きみは努力家だね。ずいぶん上達したなあ、日本語」
 彼と出会ったのは十年位前だろうか。
 即座にプロポーズしたら、あっさり断られた。
 今のように、慈愛に満ちた笑みを浮かべたまま。
 宮坂誉。
 あの時は違う名前だったが。
「早速だけど、メールで提案した件はどう思う?」
「ああ・・・」
 確か、喫茶室の改善提案と新規の納入業者紹介が主な内容だった。
「タシカニ、現在のコーヒーはイマイチ、デスネ」
 とにかく、印象に残らない。
 香りも味も、まずくはないが格別美味しいわけでもない。
 茶器にしてもそうだ。
 まずは視覚に訴えるものものない。
「この蜂谷珈琲店は、表向きはただの喫茶店だけど飲食業界では名の知れた会社で、総合商社のレベルと言って良い規模な上、品ぞろえも知識も豊富だからご満足いただけるかと」
「わかりマシタ。お任せシマス」
 と、そこで彼がふと目を上げた。
「そこで、選んでもらいたいことが一点あって」
 優し気な笑みは変わらない。
 物腰も柔らかで、親しみやすい雰囲気も。
 しかし、瞳の奥の光がそうでないことを明確に物語っていた。
「業務内容の兼ね合いで明日より担当スタッフを一部変更するのだけど、最後の一人を選出するにあたり、君の希望を聞きたい」
「希望?」
「そう。まずは、御社へ一名出向させ、しばらくの間この件に関する秘書として補佐させることを承知してくれるかな。『志水堂』に関しては社内の方々が十分に務めておられるけれど、身内だとつい取りこぼすことがあるでしょう。だから、我が社及び蜂谷珈琲店との連絡係業務及び、君自身のこれからへ向けての指導役が必要かと」
 先日の不始末は、うちうちの事だから流して済んだ。
 いや、専務の鈴木が取り繕い、宮坂が目をつぶっただけのこと。
 社長がこれではいずれ舟が沈む。
「お気遣い、ありがとうございマス・・・」
 出向させれば、宮坂のオフィスから戦力がそがれるということだ。
 亡くなった兄の縁を頼って彼に相談したが、これはあまりにも・・・。
「で、どちらが良いかな?飴と鞭」
「・・・ハ?」
「いい方を替えようか。なら、優しいお母さんと厳格な父」
「・・・アノ」
 宮坂の言わんとすることがわからない。
「カイル、これはまあ、Old Maid程度に思って気軽に決めて欲しいんだけど。要は君の家庭教師の候補が二人いる。名前はとりあえず伏せて、君の好みに合わせたい」
 伏せられた二枚のカードが今、目の前にある。
「家庭…教師?」
「そう」
 試されている。
 度量などではなく、運を
「ん~。特別にヒントをあげよう。ジャックのクラブとスペード、どっちがいいかな」
 ランスロットか、オジェ・ル・ダノワか。
 頼れるのは、直感。
「ナラ、スペードで」
 答え終えるや否や、何かがパチンとはじけた音がしたような気がした。
「・・・なるほど」
 唇の端をあげて、宮坂がふっと笑う。
「やっぱりそうなるか」
 ソファに背中を預け、繊細な指先に顎を乗せた。
「誉、サン?」
 運命の女神が、宣告する。
「きみが選んだのは、八澤晶」
 名前を耳にした瞬間、ぞわりと身体の中で血が巡る。
「ランスロットを選んだ方が楽だったのに」
 呪文のように繰り返された暗示。
 春の日差しか、冬の風か。
 何度も繰り返された誘惑。
 彼は、面白がっているのだろうか。
 それとも。
「モウ一人は」
「蜂谷薫」
 名前を告げられてもぴんとこない。
「多分、君覚えていないだろうけれど、先日ぼくの護衛に連れてきてた背が高い子。要するに薫が社長の実子で、晶は養子・・・って感じかな。籍は入れてないけど」
 申し訳ないが、全く覚えていない。
 あの日は、頭がいっぱいだった。
「彼ハ・・・。八澤サンガ・・・。イヤなのでは」
 彼は、怒っていた。
 そして、軽蔑していた。
「まあそうかもしれないけれど、晶もたいがい大人げなかったと反省しているはずだからね。それに、これは仕事だから」
 身を乗り出して、宮坂は囁いた。
「君に。・・・いや。君たちに、機会をあげる」
 風に乗って、彼の音が流れてくる。
「そろそろ考えて良いころだ」
 綺羅綺羅と輝く旋律。
「君の中の『竜』は、どうしたいのか」
 今はただ、眩しさに目を閉じた。


 花の香りがふわりと降ってきた。
 優しくて、懐かしくて、甘い。
 マンネンロウにカミツレ、土の匂い。
 植物の息遣い。
 これに包まれるのも、悪くない。

「・・・これでどうですか」
 緊張気味の音が耳に届き、我に返る。
 見上げると、夏川が書類を手に立っていた。
「あ・・・。ああ」
 受け取り、几帳面な性格が表れている文書をざっと目視確認する。
「うん、悪くない」
 むしろ想定外の出来だ。
「ありがとうございます」
 時計の針は八時を回ったばかりだ。
「よし、とりあえず飯を食おう」
 休憩室へ向かい、朝食の支度を始めることとした。

 八澤の相棒の庄野がまだ巣籠解除にならない。
 何か不測の事態が起きたのか、長くかかりそうだというのが宮坂の弁。
 だが、仕事は全て進行中だ。
 特に、『志水堂』の一件は待ったなしときている。
 司法部門が空になってしまった時の対応を夏川に埋めてもらうため、急ピッチで引継ぎを行っている最中だ。
 オフィスの電話が鳴らない早朝に出勤してもらい、指導のついでに一緒に朝食をとる。
 それが定着してそろそろ一週間になる。
 ちなみに蜂谷をいったん実家へ戻らせて、志水堂へ提供する可能性のあるさまざまな製品の総ざらいをしてもらっている。
 本来は蜂谷社長への挨拶と商品の選定を自分がやるべきだろうが時間がない。
 庄野の不在で空いた穴の大きさを痛感する。

「こういうパン、初めて見ました」
 手に取ったパンの香りに、そばで夏川がくんと鼻を鳴らす。
「ああ、なんか酸っぱい匂いがするだろう。多分フランケンライブっていう名前だったと思う」
 黒っぽくどっしりした塊にパン切ナイフを当てる。
 前日、午後出社の同僚に買ってきてもらったドイツパンだ。
 朝から力の付くものを食べないと、この事態はとても乗り切れない。
「片面にそこのバター塗って。で、粒マスタード嫌いじゃないならついでに重ねて」
 今日のパンはライ麦の配合が多いのでトーストしない方が美味しい。そのままサンドイッチにするつもりだ。
「はい」
 夏川が下準備してくれたパンにそれぞれ具を挟んで完成。
 クリームチーズとトマト、そしてキュウリとパストラミのサンドを皿に盛りつける。
「今日は蜂谷がいないから、俺のコーヒーだ。悪いな」
 八澤の方が珈琲店に関わった時間が長いにもかかわらず、コーヒーを淹れる腕は悔しいことに蜂谷に劣る。
 まあ、バリスタを目指しているわけではないから仕方ないとため息をつく。
「いえ・・・!八澤さんのコーヒー、俺はすごく好きです。うまくは言えないけど、とてもおいしいです」
 夏川は速攻で反論した。
 彼がお世辞のたぐいをとっさに言えない不器用だというのは、長年の付き合いでよく知っている。
 この一週間。
 夏川は飼い犬レベルに懐いてしまった。
 きらきらと輝く忠実な瞳が眩しすぎる。
「・・・俺はいつか蜂谷に殺されるな」
 どうしよう。
 本気で可愛い。
 なんだ、こいつ。めちゃくちゃヤバいだろう。
 なんか、こう・・・。
 頭から食べたくなる可愛いさだ。
 八澤は天を仰ぐ。
 間男ってこういうのか。

「明後日から志水堂へ出向ですか」
「そうだな・・・。昼には蜂谷が資料持ち帰ってくれるとして、それを検討して明日五郎社長のところへ俺が行って打ち合わせ、で、明後日・・・。明々後日に日延べしてくれたらもうちょい助かるんだけどな」
 できることなら、万全の態勢で挑みたい。
 先方にはスタッフの療養が伸びたためと断りは入れた。
 その間、デザイナースタッフがネット展開の話を詰めに出向いてくれている。
 そうやって日延べしながら、庄野の早期復帰に賭けている。
「今更だけど俺、本当にバース特性のことがよくわからなくて」
「ああ、庄野がアルファだっていうのも実はいまいちぴんとこないだろ」
「ええ・・・まあ・・・」
「俺もだよ」
 この会社のメンバーはほとんどバース特性に絡んでいてこうやって時々『巣籠』に直面しても、ベータの八澤と夏川にはどうしても現実と思えない。
 理由の一つは、目の前でアルファやオメガのヒートや交尾、フェロモンに巻き込まれた経験がないからだ。
 巷では妖怪扱いにされているバース特性保持者。
 彼らはいたって理性的で、有能だ。
 それなのに、平凡な我々を見下すことはない。
 むしろ、あちらが種の進化系だとみるべきだと八澤は思っている。
「あの、志村とかいうヤツみたいなのは逆に珍しいんだろうな・・・」
「・・・あの折は、本当にすみませんでした」
「いやもう時効だろう、あれは」
 この会社のアルバイトとして出会った頃の夏川は、アルファの志村という男に恋をして、支配されていた。
 夏川はベータ。
 両親の先祖をさかのぼってみても、バース特性らしき人物はいない。
 アルファとオメガとの関係ではなく、アルファとベータ。
 男と男。
 志村と言う男はゲイではなく、興味本位で夏川に手を出してそのままハマったらしい。
 アルファの名家に生まれた男はたいてい、子孫を残すことに重きを置いている。
 子が望めない夏川との関係など、論外だ。
 性欲のはけ口として利用されていることは誰の目にも明らかだったが、本人が納得済みで尽くしているのだからどうにもならない。
 ただ、時と場所を選ばない志村の呼び出しに学業も仕事も投げ出して応じていたため、夏川の全てが駄目になっていた。
 そろそろ問題のアルファを一発殴るかと思い始めた頃に、運よく上級オメガとのマッチングに成功した彼は意気揚々とアメリカへ飛んだ。
 薄っぺらな別れの言葉一つを夏川に残して。
 それからしばらく、夏川は呆然自失の状態で人形のようになってしまった。
 普通に会話は成り立つ。
 講義のノートはいつも通りにとっている。
 だけど、それだけだ。
 そんな時、八澤はふと思いついて夏川へ一冊のテキストを渡してみた。
 それはペン習字。
 ほどほどの集中力と観察力が必要なそれに取り組むうちに気がまぎれるのではないかと思ったからだ。
 そして、夏川は自分を含め周囲が驚くほど自己否定の塊だった。
 いつも申し送りのメモを渡すときなどに自筆の汚さを彼はいつも恥じていた。
 彼の筆跡は丁寧で綺麗なほうだと思う。
 だけど、本人は否定している。
 なら、組み立て直してみるのはどうだろうと思いついた。
 すると、夏川はそのテキストに没頭した。
 子どものころはあまり理解できなかった字の形を分類し、線の引き方、ペンの持ち方、筆の入り方を少し修正するだけで、みるみる効果が出る。
 楷書、行書、草書、そして筆ペン、書道。
 コンプレックスをつぶしていくうちに、彼は習得することの楽しさを覚えた。
 そして現在、夏川はオフィス宮坂随一の資格コレクターになった。
 人づきあいが苦手で恥ずかしがり屋なのは相変わらずだが、もうそれはたいした弱点ではない。
 むしろ、そのくらいでないと完璧すぎると最近思うようになった。
「あ、いたいた。志村は明日出社できるって。良かったね、晶」
 宮坂がいきなり休憩室へ入るなり告げる。
「あ、おいしそう。ね、僕の分とかない?あるよね?」
「・・・なんか、虫の知らせってこんなんなんだな」
 実は宮坂が乱入する可能性を考え、大目に材料を用意していた。
 盛大なため息をつき、食べかけのパンを皿に戻して立ち上がろうとすると、夏川が慌てて押し止めた。
「あ、俺やります。さっきのでなんとなくわかったんで」
「うわ、瑛の手づくりご飯とか、僕、薫に殺されそう」
「・・・なんで皆さん、二言目には蜂谷に殺されるっていうんですかね」
 心底不思議そうに首を傾けた後、夏川はサンドイッチ造りに没頭する。
 独り暮らしが長いにもかかわらず、過保護な母親と蜂谷から世話をやかれっぱなしの夏川は、料理が不得手だ。
 慣れない手つきでパンを切る姿はなんとも愛らしい。
「・・・本気で薫がかわいそうになってきた」
 宮坂の呟きも、夏川には聞こえない。
「で、どういう展開なわけ。庄野は全力で仕事ができるのか」
 とりあえず、保温ポットから先ほど淹れたコーヒーを宮坂の差し出すマグカップにそそぐ。
「それなんだけど」
「庄野自身は問題ないんだけどね。今回、彼の番が妊娠したから全力投球は無理かも」
「は?」
「これは、内々の話なんだと心に止めておいて欲しい。バース特性でもめったにない事象だから」
「・・・それはどういうことだ」
「実は、庄野のパートナーはアルファなんだよ」
 そういえば、過去にはSWATに所属していたという絵にかいたような軍人だと聞いたような気がする。
「ところが庄野と出会って、オメガに変転した」
 オメガは産む性だ。
 こちらから見ると、男が女になったというに等しい。
「さっき夏川とも話してたんだけどさ。俺たちはバース特性について疎い。だから聞くけど、それってスタンダードなのか?」
「いや。稀だよ。だからめったにない事象だって言ったでしょ」
「あ・・・そういやそうだ」
 宮坂は前置きしていた。
「三十半ばでばりばりアルファからオメガに変転しただけでも珍しいのに、妊娠したとなるとね。彼の身体が心配になるだろう」
「ベータの高齢出産みたいなものか」
「だね。すでにつわりが始まっているみたいだし。とりあえずバース関連の病院へ緊急入院って話だよ」
「うわ・・・気の毒・・・」
「そんなわけで瑛」
 宮坂が振り向くと、皿を持った夏川が真剣なまなざしを返す。
「はい」
「近いうちに助っ人を必ず入れるけれど、忙しくなるよ」
 庄野はしばらく時短業務で様子見状態、八澤は志水堂へ出向、夏川の仕事は法務へ舵を切り、庶務業務は蜂谷一人。
 もちろんもとからいる社員がある程度補佐するにしても火の車だ。
「・・・ところでさ、瑛」
「はい」
「ほんっと可愛いね、きみ」
「は・・・?」
 宮坂の前に置かれたサンドイッチは、パンもトマトも胡瓜も大きさがまちまちのとても豪快な出来栄えだ。しかし、一生懸命にこしらえた様子を宮坂も八澤もじっくり見た。
「こんなに胸がきゅんきゅんするのは久々だよ」
 本気なのかからかっているのか、よくわからないのが宮坂の怖いところだ。
「あ・・・っ。あの、下手で・・・すみません」
 かあっと全身を赤らめてうつむく夏川がいつもより身近で愛おしく感じる。
「なんだろうな、これって・・・」
 このときめきめいたものは。
 サンドイッチを一口かじり、咀嚼しながら首をかしげた。
 甘い。
 なぜだろう。


「先日ハ、大変申し訳ありませんデシタ」
 深々と頭を下げられて、天を仰いだ。
 長い身体をきっちり九十度に曲げられ、つむじが八澤の目の前にある。
 なんて見事なまでの、日本式謝罪作法。
「いや・・・もう、こちらもたいがい大人げなかったんで・・・」
 こうなることは、想定外だったか。
 いや、こうするしかないだろう。
 怠慢にもほどがある。
 考えることを放棄したまま今を迎えたなんて、あり得ない。
「頭を上げてください。暫定とはいえ、私はこれから志水社長の部下として働くのですから」
「イエ、ワタシが至らないばかりに、八澤さんニハ、タイヘン不快な思いをさせてしまいマシタ。本来ならすぐにでも謝罪に伺うべきところを、大変申し訳ありマセン」
 見た目が外国人だからと。
 侮っていたのは自分の方だった。
 彼は伝統重視の和菓子屋の惣領として今必死に努力しているのだと、どうして考えられなかった。
「志水社長」
「・・・ハイ」
「まずは頭を上げてください」
 ゆっくりと、志水は姿勢を戻した。
 白い額、恐ろしく端正に造形された鼻筋、そして不思議な光を放つサファイアのような瞳。
「ハイ」
 彼と自分の身長差はおそらく二十センチくらいだろう。
 こうして向かい合うと本当に大人と子供のようだ。
 至近距離で見上げるには多少首が疲れるが、目をそらさず伝えるべきだ。
「今更ですが、謝るべきは私です。私自身のあの日の行動は学生以下でした。たくさんの人の前であなたに恥をかかせ、立場を悪くさせたのですから」
 着任して日も浅く、社長としての資質を問われ続けている最中のアクシデントは、おそらく社内に知れ渡っているだろう。
「イエ、ソレハ・・・」
 志水のようには綺麗な姿勢は保てない。
 しかし頭を下げるより他の意思表示は思いつかなかった。
「まことに、申し訳ありませんでした」
 ほんの少し間があった。
 八澤の目に映るのは、飴色に光る組木の床と磨き上げられた黒い革靴のつま先。
「・・・なら、・・・オアイコで・・・」
 こんな時にも、甘い。
 気が付いたら顔を上げていた。
「オアイコにしませんカ?ええとeven、私の言葉、合っています?」
 こんな時なのに、この人は。
「私は、これから八澤さんと仕事がしたいデス。イロイロ教えてもらいたい。だから、オアイコにしたい」
 どうして見誤った。
 これが、彼だ。
「寛大なご配慮いただき、いたみいります」
 初めて、泣きたい気持ちになった。
「正直に言いますが、この仕事において門外漢なのは私です」
 社長室のソファで向かい合いながらこれからの予定と見込みをまずは説明した。
 テーブルの上には互いの書類やパソコンのほかに、従業員が差し入れした和菓子とポットに入れられたほうじ茶が載っている。
 今日の菓子もまた違う趣向が凝らされ、綺麗だった。
「学生時代から今まで開業以来宮坂の仕事を手伝ってきましたが、基本的には法務、あとはせいぜい経理と庶務で、和菓子の事も全く詳しくありません。しかし、宮坂が私をこちらに派遣したのは、喫茶に関してならそこそこの知識と伝手があるからです」
 ひと段落したところで事情を説明する。
「近日中に社長をお連れする予定の『蜂谷珈琲店』は、私が子供のころから親しくさせてもらっている所で、見た目はただの小さな町喫茶ですがその実は飲食関係を幅広く扱うかなりやり手の商社です」
「つまり商社が、喫茶店を出したということデスか?」
「話を聞く限りおそらく逆です。こだわりを追求していたら事業拡大した感じですね。親族がさらに事業展開して、食品関連は元よりアンティーク家具やリフォームなどなんでもありになりました」
 手元に置かれた生菓子をいま一度じっくりと見つめる。
 練り切りという手法で、薄紅色の花びらを一枚一枚丁寧に表現していた。
 全て手作業のため、手間がかかる。
 この美しさと繊細な味を未来へつなげていくために、彼は、ここにいるのだ。
「そして、先日の会議に同行していた蜂谷薫の実家でもあります。そのような事情で私共にはなじみの深い会社ではありますが、もしも社長がお気に召さない場合は別の商社をいくらでもご紹介します。宮坂の人脈はご存じの通り果てがありませんから」
「わかりマシタ。ところで、八澤サン」
「・・・はい」
 向かいに座っている美青年は軽く首を傾け、唇をふわりとほころばせた。
「シャチョーじゃなくて、シミズ」
「・・・は?」
 いきなりの変化球に思わずぽかんとしてしまう。
「これから、シャチョーではなく、志水と呼んでくだサイ。とりあえず」
「いや、その、志水社長それは・・・」
「しみず」
 黒蜜のようなとろりとした甘い微笑みに、喉がきゅっと絞まった。
「・・・では、志水様」
 おそるおそる口を開く。
「イイエ。ならセメテ、志水、サン」
 『ならせめて』とかいう表現で押してくるなんて、彼の語彙はいったい。
「しかし・・・」
「ヤハリ、まだ、私のコト許していただけないのデスネ・・・」
 しょんぼりと肩を落としてため息をつく依頼主に、血の気が引いた。
「いえ、いえ、とんでもありません・・・!」
 机に両手をついて思わず立ち上がった。
「デモ・・・」
 宝石のようにきらめく瞳で上目遣いにじっと見つめられ、八澤は一瞬天を仰ぎたくなった。
 なんだ、このシチュエーション。 
「・・・では、志水さんでいかがでしょう」
 声を絞り出すと、ぱあっと花が咲くように笑う。
「はい、トリアエズ」
 とりあえずってなんだ。
 何かその先があるのか。
 問うときっとさらにろくでもない展開になるのは間違いない。
「八澤さん」
「はい」
「末永くよろしくお願いシマス」
 ・・・この人の日本語能力について、きちんと把握すべきということだけはわかった。
 今後のためにも。
 即刻。

 -つづく-


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