『天のかけら地の果実-上巻-』
今は昔、竹取の翁といふものありけり。
野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。
名をば、さぬきの造となむいひける。
その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。
あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。
それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。
(『竹取物語』冒頭より)
「彼女と目が合った瞬間分かったんだ。これが、運命だと」
ドラマか漫画のセリフかと笑い飛ばしてやりたかった。
だけど、口から出たのは月並みな返事で。
「・・・そうか。仕方ないな。それが運命なら」
目の前の男は、それはそれは満足げにため息をついた。
記憶の中にある限り、一度も見たことのない顔をして。
興奮して光る瞳と滑稽なくらい上ずった声がいたたまれないほど醜く、辛い。
・・・これは、いったい。
「そうなんだ。彼女は完璧なんだ。まるで俺の体の一部のようにぴったりだった」
言っていることが全く頭に入ってこない。
「・・・ごめんな。お前とは身体の相性も良いし、結構気に入ってた。だけど、もうどうすることもできない。これは俺の宿命なんだ」
運命とか、宿命とか。
そして、相性とか。
並べ立てられるほど、どんどん薄っぺらになっていく。
「彼女に出会って、俺が生まれた意味がようやく分かった」
三日前、一晩中俺の身体をさんざん貪りつくした、その唇で。
「彼女を愛してる」
他人への愛をぬけぬけと語るお前。
「誰かをこんなに愛したのは、これが初めてだ」
いったい誰だよ、お前。
「・・・よかったな。おめでとう」
他に、どう言えばいい?
ありったけの力でやわらかな声を絞り出し、うっすらと微笑んで見せた。
「・・・どうぞ、お幸せに」
これで最後。
もう、会うこともないから。
せめて。
「ありがとう。お前ならそう言うと思った」
胸の、深い部分に刃を突き立てられたかと思った。
時が、止まる。
今、俺はなにを。
「・・・そうか」
それでも、せいいっぱい平気なふりを続けた。
黙っていきなり消えるよりまだ誠実だ。
嘘偽りのない言葉をありがたいと思え。
「さようなら」
これが最後なら。
綺麗に終わりたい。
終わる?
ならば。
いっそのこと、この瞬間に世界が終わってしまえばいいのに。
「・・・瑛(えい)。聞いてる?」
耳元で声がして、我に返った。
「・・・悪い。なんか一瞬、飛んでた」
今、自分がどこにいるのかを思い出し、あわてて意識をかき集めた。
「だろうとも」
背後で深々とため息をついた後、同僚が近くの椅子を寄せて隣に座った。
「どこに飛んでいたかは聞かないでおいてやるよ。武士の情けで」
冗談めかしてはいるが、鼈甲に光を当てたような明るめの茶色の瞳が眼鏡越しにじっと自分を見ているだろうことがわかっているだけに、いたたまれなくて顔を伏せる。
「・・・すまない」
「どういたしまして」
さらりと返して、彼は目の前のスケジュール画面の片隅を指さした。
「来週の木曜日に訪問予定していたこの会社なんだけど、担当者急病で延期だってさ。引継ぎを終えて体制が整ったらまた連絡するって」
「あ、そうなのか・・・」
いったん手元のメモにペンで記入してから管理画面の入力を始めると、ふっと笑われたのを頬に感じた。
「・・・なんだ」
「いや、瑛らしいなと思って。絶対アナログにも記録残すよね。そういうところ、俺好きだなあ」
「な・・・っ」
思わず振り向くと、机に頬杖ついてにやにやと笑う男と視線がぶつかった。
「うん。そういう、むきになるところも可愛くて好き」
絶対、面白がってる。
「・・・っ。そういう、なんでもそういうの、やめろって言ってるだろ」
頬が熱い。
「瑛、言ってることわけわかんないよ。まあ、俺はなんとなくわかるけど」
そう。
この男は何でもお見通しだ。
なんせ、とほうもなく長い付き合いだから。
「わかるならもう言うな蜂谷」
「薫(かおる)って呼んでよ」
唐突な要求。
声は、甘くて優しくて、柔らかい。
だけど、本能で感じる。
「薫って呼んでって、ずっと言ってるのに」
もう二十代も半ばなのに、子供のように唇を尖らせて見せても様になるこの男は危険。
「かわい子ぶるな」
なのに、ずっとそばにいる。
「はいはい、離れてそこ」
頭上でぱんっと手を叩かれて振り仰ぐと、極上の微笑みが目に入る。
「君たちが仲良しなのはよくわかっているけどね。ここ、まだ仕事中だから」
空間のざわめきが今になって耳に入ってくる。
キーボードをたたく音、電話の鳴る音、コピー機が作動している音、打ち合わせしている人たちの声。
けっして騒がしいわけではないが、複数の人たちと空間と時間を共有している事に今更気づいた。
「あ・・・。すみません」
椅子を回転させて姿勢を正し、慌てて頭を下げる。
「うん。まあどうせうちの会社は個人の裁量で動くのが基本だから、本当はどうでもいいんだけどね」
「どうでもいいなら、邪魔しないでくれます?」
蜂谷は椅子にふんぞり返ったまま、装い造形ともに完璧としか言いようのない美しい男をねめつけた。
「ははは、ムリ。だって、面白いんだもん」
ここは蜂谷と瑛が働いているオフィス宮坂。
企業や飲食店などのコンサルタントや企画立案などを行ういわゆるブランディング・プロデューサーという業務を主に営んでいるが、そのほとんどが国内外問わず必ずヒットしたため仕事の依頼がひっきりなしに入り、収益は右肩上がりで繁盛していた。
自分たちは大学生へ入学して間もなく先輩のつてでたまたまアルバイトに入り、卒業後はそのまま正社員に採用され、社内ではもはや中堅になりつつある。
そして今、二人の目の前で優雅に笑みを浮かべているのは社長の宮坂誉(ほまれ)だ。
「あの、そもそもそんな仲良しってわけでは・・・」
瑛は反論を試みた途端に頭をわしづかみにされ、まるで犬を可愛がるようにぐしゃぐしゃと雑に撫でまわされた。
「うわ・・」
いきなり宮坂は両手で瑛の頬を包みながら顔を寄せ、鼻と鼻がくっつきそうな距離でとろりと囁いてくる。
「・・・瑛?」
「・・・はい」
「僕さあ。瑛のこと見てると時々、まるっと食べちゃいたくなるんだよね」
「・・・は?」
ふと、瑛の鼻腔を独特の香りがかすめた。
香水?
いや違う。
いや、違わない。
ベルガモット、ウッディ、クマリン、…。
昔聞きかじった芳香の名前が意味もなく頭の中に浮かんでくる。
「ちょっと、宮坂さん・・・」
蜂谷の声がどこか遠い。
また、だんだんと、意識がどこかに飛んでいきそうだ。
「瑛?」
桜貝のような色を刷いた艶やかな唇がにいと吊り上がるのが目に映り、瑛はなんとかそれに集中しようとする。しかし、どこか夢の中にいるように頼りない。
「はいはいはいはい、そこまでね~」
さらに割って入ってきた女性のきっぱりとした声に、また現実に戻された。
「・・・なに、これ」
まるで、身体と意識が分離しかけたような。
「まずは、ちょっと離れようか」
声の主は、一つ下の階で診療所を開業している医師の浅利(あさり)美津(みつ)だった。
四十も半ばを過ぎたと聞くが、細い首をあらわにしたショートボブにシンプルなパンツスーツ姿がよく似合って三十そこそこにしか見えないくらい若々しい。
「セクハラでマスコミの格好のネタになるわよ、社長」
「そんなまさか。僕にかぎって、ねえ?」
瑛からのんびりと手を放し、宮坂は芝居がかったしぐさで肩をすくめてみせる。
「いいや。まさにセクハラの現場だと思うけど?」
いつの間にか椅子から立ち上がっていた蜂谷が、周囲の同僚たちに視線で同意を促した。
「え・・・」
気が付いたら、注目の的だ。
瑛は思わずうつむいて唇にこぶしを当てた。
穴があるなら即座に入りたい。
「それにしても、いつ来てもここってホストクラブみたいよねえ。目の保養だわあ」
満足げなため息に、他の同僚が横から茶々を入れる。
「なんせ、うちのナンバーワンは誉で、ツー・スリーが薫に瑛ですからね~」
どっと笑われて、とにかくもう今すぐ帰りたい気持ちでいっぱいになる。
つい十年前までモデルとして世界的に活躍していた宮坂や、学生時代にさんざんもてていた蜂谷はともかく、地味な自分が同列になるなんて意味が分からない。
仕事も、とにかく裏方に徹してなるべく目立たないようにしているのに、蜂谷と宮坂に構われるせいで逆に悪目立ちしていつも落ち着かないから正直勘弁してほしい。
「ところで浅利先生。わざわざここまで上がってきたってことは、なんか僕に用があったんじゃないの?」
額でやわらかく波打つ長い前髪を優雅にかきあげて宮坂が尋ねた。
「ああ・・・。そう。きっとここの人たちはまだ知らないと思って」
抱えていたタブレット端末を起動して、浅利は宮坂に渡す。
「ロスで銃の乱射事件が起きたらしいの」
アメリカは銃社会だ。銃を使った事件なんてそう珍しくない。
宮坂自身もそう思ったようだが、文字を追い始めて眉をひそめる。
「ん?これって・・・」
「そう。アルファとオメガが盛大なパーティをしていたのよ。しかもゴールドとシルバー限定の会員制で」
アルファとオメガ。
それは、この現代社会であっても消え去らない特権階級のことだ。
いや、違う。
彼らは生物的に有利な立場にある人々。
容姿、体力、知力、行動力・・・。
ずば抜けた能力を持つ者の中でアルファかオメガの特性を持つ確率は高い。とは言え彼らの人口はほんの一握りのことで、世界の9割以上をベータが占める。
社会を構成しているのはベータの人間。
しかし力あるものが頂点に立つのは自然の理で、アルファとオメガは至る所で才能を開花させていく。
中でも支配力があるのはもちろんリーダー性のあるアルファ。
そして、彼らを産む確率が最も高いのがオメガである。
ただし、進化の過程とともに常に人類は複雑に交配して現代にたどり着いている。
つまりほとんどのベータもその遺伝子の片隅にアルファ及びオメガの素因を保持しているため、どの組み合わせでも特性を持った子供が生まれる可能性はある。
しかし、オメガから生まれる子供は別格だった。
貴種。
すなわち完璧なる遺伝子と称賛される子供が誕生し、成長すると時代を牽引する貴重な存在となる。
そしていつからか特権階級であるはずのアルファとオメガの中ですら更なる階級が生まれた。
それは三つに区分され、その数はピラミッド型に形成される。
まず底辺は、主にベータから生まれ限りなくベータに近いブロンズ。職人や学者になることが多い。
中間に、代々貴種の家系から生まれたシルバー。生育環境から企業や政治家など指導者になることが多い。
そして頂点に君臨するのは、最高の力を持つゴールド。ちなみにゴールドの特性を持つ者はほんのわずか。言うなれば世界中の王族より少ないゆえに秘密が多く、その存在は伝説に近い。
社会的地位と能力が突出しているにもかかわらず、バース特性保持者は生物的な本能に忠実である。
生殖は意志と思想に関係なく、その本能がすべてを決定する。
年に数度、オメガは発情するとフェロモンを多量にまき散らして周囲の生殖本能を目覚めさせ交配することになるが、誰とでも交わるわけではない。
オメガ自身が選んだ相手でしかその交配は成立せず、略奪強姦による強制妊娠は不可能である。
その事実がオメガを産む機械にしてしまうことを防ぎ、社会的地位と安全を保証されている理由になった。
そして、顕微授精、体外受精、代理母などの高度医療による妊娠は、どれほどの研究を重ねても成功に至らず、また、ゴールド同士であれば必ずゴールドが生れるというわけでもない。
神の領域。
神より授かった人と、誰もが畏れ、敬う。
「前にも似たような事件はあったよね。七年くらい前だったか・・・」
険しい面持ちで、宮坂はつぶやく。
特権階級に対する気持ちのねじれはいつでも生じるものだ。
最高位のアルファとオメガの絢爛豪華な結婚式を妬んだベータの男たちが襲撃した事件が起きて以来、警戒を強めたはずだった。
「今回もベータがやったわけ?」
蜂谷の何気ない一言が、瑛の鼓膜に鋭く突き刺さる。
「いいえ、違うわ。犯人はシルバーのアルファ。パウダールームに爆弾を仕込んで、居合わせた若いオメガが多数被害に遭った」
若いオメガ。
つまりは妊娠可能な個体を狙ったものだということだ。
浅利の説明によると、ゴールドオメガに袖にされたシルバーアルファの逆恨みが引き金だという。
「理由はともあれ・・・。まずいな」
「・・・なにが?」
自然と輪になり話し込んでいた三人は、一斉に瑛を振り返った。
「あ・・・」
無意識のうちに零れ落ちた言葉に、自分でも驚く。
「いや・・・。すまない。ロスでオメガが襲撃されたからって、なにがまずいのかな・・・って」
「ああ、それはね」
浅利に端末を返した宮坂は、いつものやわらかな微笑みを浮かべた。
「まずは取引先のトップが一部入れ替わる可能性があるから。オメガが取締役をしている企業が結構あって、進めていた仕事がいきなり白紙に戻されてしまったこともあったんだ、前にね」
ほんの一握りの人間の損失。
だけど、それは確実に社会への影響を及ぼす。
それでも壊してしまいたいと、そのアルファは思ったのだろう。
人もうらやむ特性を持ちながらも、なお。
「そう。・・・そうなんですか」
なにもかも壊してしまいたいと、思ったあの時。
その絶望が生々しく胸によみがえっていたのは、つい先ほどのことで。
なぜ、今になって。
薄れていたはずの記憶がこんなにも鮮やかに。
「瑛」
蜂谷が、心配している。
だけど頭の中がまた霞んでいく。
「ごめん。ちょっと、今日は・・・。ちょっと体調が悪いみたい・・・で・・・」
自分の声がぶわんと耳の中で反響する。
気持ち悪い。
頭の奥底の脈が大げさなくらい騒ぎ始める。
「ちょっと、大丈夫?」
今日はなぜか浅利の放つ香水の匂いがきついと感じた。
むせかえるような花の匂い。
香水?
医師の彼女がつけるはずはない。
宮坂も、蜂谷も好まない。
だけど、三人の匂いを一度に吸いこんでしまい、混乱する。
「あ・・・」
「おい、瑛!」
蜂谷の、匂い。
針葉樹みたいな・・・。
深い、森の香り。
今まで、蜂谷の匂いなんて考えたことなかった。
「えい!」
ねじを引き抜かれたように、膝がいきなり落ちたことだけはわかった。
「もう・・・。むり」
何も考えられない。
考えたくない。
「はちや・・・」
このまま、ずっと眠らせてくれ。
自分がやったのかと思った。
もしも、特殊能力なんてものがあったなら。
きっとやっていた。
六年前。
志村大我とその相手の女を殺していただろう。
「・・・だけど・・・・じゃない?」
身体が水に浮いているようだ。
「でも、数値が・・・」
流れは全くなくて、まるでプールの中で漂っているような?
それとも・・・。
「なら、・・・って、ことだな?」
水なんかじゃない。
指先に触れたのは糊のきいた綿の布。
背中にあたるのは…。
「・・・ここ、・・・っは」
ひゅうと、喉が鳴った。
「あ、気が付いた?」
真っ先に目に入ったのは、浅利医師の顔。
スクウェアネックのカットソーよりあらわになった胸元から首にかけての白い肌に、一瞬何かペイントしたような跡を見た気がしたが、瞬きをすると消えてしまった。
ペイントなんて。
しかも、金色だなんてどうかしている。
「いったい、何が・・・」
「あなたは一時間くらい前に仕事場で倒れたの。蜂谷君たちに運んでもらってここで少し検査したけど、ちょっとした寝不足と貧血気味かな。もしかして最近食欲もない?」
そういえばここのところ眠りが浅くて疲れやすく、そのせいで胃が食べ物をあまり受け付けない。
軽く顎を引くだけですべてを理解してくれたのか、彼女はてきぱきとベッド周りを整え始めた。
「うん、だからね。まずは軽く点滴しておこうか。終わるころに蜂谷君にまた迎えに来てもらうからそれで良いわよね」
応える間もなく腕に針を刺され、また瞼が重くなっていく。
「そんなわけで、お二人ともよろしく」
そこでようやく蜂谷と宮坂がそばにいてくれたことに気付いたが、首を動かすことすら何故か億劫だった。
「・・・ヒート」
ひそかな、聞き取れるはずのない囁きだった。
なのになぜか拾い上げる。
ヒート。
オメガを語るときに必ず出る呪文。
なぜ今ここで。
浮かんだ疑問も彼らの囁きも何もかも眠りにからめとられていった。
浅い眠りほど悪夢を見ると、言ったのは誰だったか。
時計の秒針を刻む音と、話し声。
そして、かすかな痛み。
「いたい・・・」
痛みは、次第に強さを増していく。
そしてそれは、耐えられないものへと変わった。
下腹部の、骨盤全体をハンマーで殴られたらこんな痛みなのではないか。
そう思った瞬間、目の前に自分の身体よりもずっと大きな掌がぬっと現れた。
逃げる間もなくその巨大な手に腰をつかまれ、あっという間に力任せに握り込まれ、つぶされる。
「あ──────っ」
叫んだ口から噴き出たのは血ではなく、蔦のような植物だった。
虚空へ伸ばした手の指先からも緑の蔓と葉が生えて、天に向かって伸びていく。
このまま自分は植物になるのか。
なにがなんだがわからない。
でも、全身から伸びていく植物の核は、最初に痛みを感じた骨盤の中心にあると確信した。
種が腹の中に寄生したと思うと気味が悪い。
怖くて怖くて、植物に覆われた手で震えながらも腹を抑えた。
葉を伸ばし蕾を付けた蔦は、ぽん、と小さな音を立てて白い花を咲かせ、身体を取り巻いていく。
うねうねと伸び続ける植物にだんだん飲み込まれていき、視界も阻まれて、緑の闇に覆いつくされた。
「たすけてくれ・・・」
怖い。
腹の中にマグマのような炎を抱えているようだ。
その熱が全身を駆け巡って焼き尽くしそうで、怖い。
「たすけて・・・」
誰か。
頬にひやりとしたものを感じて目を開けた。
「大丈夫か?すごい汗をかいてる」
蜂谷の心配そうな顔が間近に見えて、力が抜ける。
ベッドの傍らに椅子を置いて座り濡れタオルで汗を拭ってくれていたらしく、優しい手つきで額にもあててくれた。
「・・・なんか・・・」
「ん?」
「よくわからない・・・けど。なんか怖かった気がする」
「そうか。おかえり、瑛。お疲れさま」
まるで長旅から帰ってきたかのように軽く応じて、心底安心する。
これが現実。
自分は、この世界にいる。
大きく深呼吸した時にふと、思いだす。
「なあ、蜂谷」
「んー。なに?」
のんびりした返事につい尋ねてしまった。
「お前、今日は香水つけてるのか?」
朝から感じていた疑問を。
「・・・え?」
蜂谷の手が止まる。
「・・・そう?」
表情がわずかにこわばっているのに気づいてしまった。
「そうかあ。今日の俺は臭うかあ」
「蜂谷」
「最近、色々お試し中なんだよね。ボディソープとか、シャンプーとか。あ、柔軟剤もだな」
饒舌になればなるほど、自分が何かまずいことを言ったのだと解る。
嘘だ。
多分、何も変えてなんかいない。
「ねえ、瑛。・・・ちなみに俺ってどんな匂いなの?」
問われて一度深く息を吸ってみる。
包み込まれるこの感覚、そして香り。
「・・・森?」
「森」
「なんていうか・・・。木とか葉っぱとかそんな感じ」
蜂谷がせわしなく瞬きをしている。
「・・・それって。・・・瑛にとってさ。やな匂い?」
浅い呼吸。
緊張してる?
「いや・・・。むしろ」
「むしろ?」
「なんか・・・。なんか落ち着く…かな」
口にして、腑に落ちた。
ああそうか。
落ち着くんだ。
「そう?」
自分とは逆に蜂谷はますます落ち着きのない様子になった。
意味もなく、サイドテーブルの上に置かれたものを右に左に動かしている。
「うん。森林浴してみるみたいな?・・・たぶん」
インドアな自分のことだから、森林浴なんてほとんど経験がない。
ただ、幼いころに両親と一度だけ行った避暑地の記憶が急によみがえった。
「そうなんだ・・・」
口に手を当てて、蜂谷は横を向く。
露になった耳が、朱い。
「蜂谷?」
「うん、ごめん。体調落ち着いたなら、そろそろ帰ろっか」
今更気付いたが、もう腕に点滴の針は刺さっていなかった。
「悪い、今、何時?」
「まだ七時になるくらいだよ」
「そんなに経ってたのか・・・」
倒れる直前に見た時計は二時を半ばすぎたころだったはず。
「浅利さんはまだ診察やってるから、十時くらいまで眠らせていいよっては言ってたけどね」
この診療所は彼女以外に交代制の医師がいて、朝は八時から夜の九時まで開院している。
ドアの向こうの廊下から人が行き交う気配を感じた。
「いや、もう大丈夫だから」
起き上がると、自分でも驚くほど身体が軽かった。
外して保管してあった時計を受け取り、腕に着ける。
「点滴のおかげかな・・・。本当に、ここのところ具合悪かったのが嘘みたいだ」
「そうか。よかった」
我ながらのんきなものだった。
その軽さすら予兆と気付かずに。
体調は回復したと何度も固辞したけれど、心配だからと蜂谷は部屋までついて来た。
「本当に、大丈夫だったのに・・・」
自分の家なのにソファーに座らされ、さらにお茶まで入れてもらい、ついため息が出た。
「お節介すぎてうっとうしい?」
「いや、そんなことは・・・」
「ああよかった。うざったいとか言われたらどうしようって、一瞬おびえたよ」
さらりと明るく流されて、どう答えればいいかわからない。
ここは宮坂が社宅として用意してくれたもので、通勤にかなり便利な上に環境も快適だった。もちろん蜂谷を含めた他の同僚も同じ建物に住んでいる。
ただ、強靭と言い難い自分が体調を崩すたびに蜂谷が何かと面倒を見てくれるので、本当に申し訳ないと思う。
「ところで、今から食べるものってあるの?何もないなら俺が作ろうか?」
「いや・・・。あるから」
正直、冷蔵庫の中はほぼ空っぽだ。
ずっと食欲がなかったせいもあるが、近くにコンビニがあるのでついつい不精してしまった。
でも、蜂谷にこれ以上迷惑をかけたくない。
なによりも自己管理能力のなさを今更痛感し、いてもたってもいられないほど恥ずかしくなった。
「いいから・・・」
「でもさ・・・」
蜂谷が冷蔵庫に手をのばしたその時、ちょうどインターホンが鳴った。
しかもこれはゲートのチャイム音ではなく、玄関だ。
すぐそこに誰かがいるということで。
「来客の予定があったのか?」
同じ建屋に住む同僚たちで蜂谷以外に尋ねて来る者はいない。
「・・・いや」
顔を見合わせている間に、いきなり扉が解錠される音が聞こえた。
ここはかなり厳重なセキュリティを施された最新式のマンションと聞いていたのに。
「・・・なんで」
蜂谷が険しい顔で踵を返す間もなく、ノブが動いて女性が入ってきた。
「母さん・・・」
「あら、瑛。いたのね。応答ないからいないのかと思って勝手に入ってしまったわ」
母にスペアキーを渡していたのをすっかり忘れていた。
「いきなりどうしたんだよ、母さん。来るって聞いてない」
蜂谷のいる手前ついぶっきらぼうな物言いをしたが、母は気にした風もなくずかずかとリビングに入るなり、テーブルの上に大きな荷物をどさっと音を立てて置いた。
「ええそうね、ごめんなさい。ただ、夕方に晩御飯作っていたらふと、ね。瑛の体調が悪いんじゃないかと閃いたの。だから気になって来ちゃったわ。熱があるんじゃないの?今」
母の言葉に目を見開くと、
「やっぱりね。思った通りだったわ」
一つうなずいて、保冷バッグのチャックを開き中から食べ物の入ったタッパーを掘り出しては積み上げ始めた。
「こういう時に瑛が食べたくなるものばかり作ってきたから、少しは口に入れなさい」
時々、体調が悪い日にかぎって母がこうやって押しかけてくることも、忘れていた。
そんな時は、瑛が言うことを聞くまで絶対譲らないことも。
「いや、でも母さん・・・」
押し問答をしながら、頭の隅にちらりと何かがよぎる。
だけど、それは形にならないまま流れて行ってしまった。
そもそも、いま目の前にいる蜂谷に全く声をかけないなんて。
どうして。
「こんばんは、お邪魔しています」
蜂谷は最初あっけにとられていたようだが、気持ちを切り替えてすぐにそつなく挨拶する。
「あら蜂谷君。突然ごめんなさいね。気になったらじっとしていられなかったの。もしかして、瑛のことで今日は蜂谷君にご迷惑をおかけしたんじゃないかしら」
「いや、たまたま居合わせただけですから」
「ありがとう。ここは私がいるからもう大丈夫よ。毎日瑛ばかり構っていたら、蜂谷君の彼女もいい気はしないでしょ」
「そんな・・・。べつにそういうのは」
「あらあ、いないの?今。こんなに格好良いのにあり得ないわぁ。なら、なおさらこんなところにばっかりいちゃだめじゃない。蜂谷君ももう二十五歳でしょう。友達とばかり遊んでないで真剣に婚活始めないとね。親御さんも可愛いお嫁さんを心待ちにしてるはずよ。だいたい男は家庭を持って一人前なんだし・・・」
母はまるでなれなれしい親戚のように下世話なことをべらべらと喋り始めた。
一見親切に見えるかもしれないが年上ぶっているだけで、実は相手を傷つけるのをひそかに楽しんでいるような・・・。
マウントしているのがありありと出ていた。
「いえ。うちはそういうことはないので」
愛想のいいことでは定評のある蜂谷も、さすがにだんだんと表情が硬くなっていく。
「母さん、もうやめてくれ」
精一杯抑えたけど、耳障りな自分の声が響き渡った。
「蜂谷に対してあまりにも失礼だろう」
恥ずかしい。
どうして今、そんなひどいことを言えるのか。
「・・・あら。私ったらついおせっかいをしてしまったみたいね」
ふふっと軽く笑ってごまかしても、取り繕えることではない。
「瑛もまだ本調子じゃないみたいだから、今夜のお礼はまた改めてさせて頂戴ね」
なんと話は終わったとばかりに母はタッパーを抱えてシンクのほうへ向かった。
今日の母は変だ。
すごくおかしい。
「待って母さん・・・」
すぐにでも蜂谷に謝るべきじゃないのか。
「そうですね」
蜂谷の手がぽんと、瑛の背中を軽くたたいた。
「そういや、やり残した仕事があったのを思い出しました。職場に急いで戻らないと社長に叱られる」
温かい手のひらがさらりと肩甲骨を撫でて、離れる。
その触れ方に、彼のいたわりを感じた。
そして、残業なんて嘘だということも。
蜂谷は時々嘘をつく。
でも、それは。
「蜂谷、すまない」
「いいって」
かがんで床に置いていた荷物を手に取ると、蜂谷は母にいつもの人懐っこい笑みを見せた。
「では、俺はこれで。おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい。今日は本当にありがとう」
母はあくまでも何事もなかったのようにふるまう。
でもそれは明らかに冷たい声色で。
口では感謝を述べても、それは表面的なものでしかなかった。
「蜂谷、ありがとう」
「うん、ゆっくりおやすみ、瑛」
蜂谷の優しい香りが、母のまとうねっとりとした化粧の濃厚な匂いにかき消される。
母の匂いなんて、今まで気にしたことなかったのに。
床から昇る冷気が身体を包み込んだ。
寒い。
「母さん、さっきのはどうかしてる」
次々と戸棚から食器を取り出しては並べる母に、憤りをそのまま投げつけた。
「瑛。点滴っていったいどんな成分のをしたの?それと、病院はどこ?」
「え・・・」
器に取り分けた料理を電子レンジに入れた母の背中をまじまじと見る。
「俺、点滴したって言ったっけ?」
長袖のボタンはきっちりと手首で止めたままで、点滴の痕は母には見えないはずだ。
「ええ、さっき蜂谷君と一緒に話したじゃない」
「・・・そうだっけ」
「そうよ。だから元気になったって」
彼女はコンロに火を入れて今度はみそ汁を作り始めた。
「で、処方箋は?」
冷凍庫の隅にほうれん草の素材パックがあるのを見つけたらしく、取り出した一掴みを煮立った鍋に乱雑に放り込む。
「・・・ない」
「なぜ?」
「なぜって・・・。急だったから。俺、保険証持ってきてなかったし。明日にでもって・・・」
「そんな医者で大丈夫なの?個人医院でしかも女医だなんて。本当に医師免許持っているのか確認した?何かあってからじゃ遅いのよ。もう大人なんだからしっかりしてちょうだい、お願いよ瑛!」
まくし立てているうちに興奮が増したのか一気にトーンが上がり、母のヒステリックな声が部屋の中できんと反響した。
「母さん・・・?」
どんなに問いかけても、母は怒っているような固い表情を浮かべたまま、食卓の用意をし続けた。
「・・・とにかく、食べて寝なさい。今夜は泊まるから」
実家とこのマンションは電車の乗り継ぎが悪くても一時間ほどの距離だ。
親に対して思うのは悪いが、まだ帰れない時間ではない。
今は一人になりたいと、強く思った。
「・・・父さんは?母さん居ないと困るだろう。もう俺はいいから・・・」
「お父さんは出張よ。大事な仕事を任されて忙しいの」
父はいつだって忙しい。
転職を繰り返しては条件の良い会社に移り、いつもがむしゃらに働き続けている。おかげで瑛は途方もなく授業料の高い学校へ通うことができた。
しかし。
「そう・・・」
そのせいか、母の注意は常に自分に向いているように思える。
今夜はとくに。
「じゃあ、ありがたくいただきます」
椅子に座って、母の手料理に箸をつける。
向かいに座る母も自分の膳を用意し、一緒に食べ始めた。
緊張してた空気が、少し和らぐ。
「明日、朝一番で筒井さんのところへ行くわよ。会社は休みなさい」
「え?」
筒井とは、子供のころからのかかりつけの病院のことだ。
「いや、俺もう大丈夫だし」
「いいえ。あなたは自分で思うほど丈夫じゃないのよ。大事になる前にきちんと診てもらわないとお母さん安心できないわ」
ここで同意しないとまた荒れるのは目に見えている。
場をおさめるには従うしかない。
「・・・わかった。蜂谷に連絡しとく」
明日の仕事の予定に考えを巡らせながら、みそ汁を口に含む。
湯気がたちのぼる味噌汁のやわらかな香りに目を伏せる直前、母の口元が見えた。
わずかに震えながらゆっくりと奇妙な形にゆがむ唇を。
「あれ?なんで帰ってきちゃったの」
休憩スペースで数名の同僚たちとなごやかに夜食を食べていた宮坂は目を丸くする。
「しかも、コンビニ弁当持って。なんで?」
「なんでとおっしゃられましてもね・・・」
乱暴にどかっと椅子に座り、弁当をテーブルの上に放る蜂谷のいつにない態度に、同席していた者たちはそそくさと逃げ出す。
「あーあ。みんなを怖がらせちゃって。どうしたの?」
「・・・どうもこうも」
薄々は気が付いていたが、こうまではっきり態度に出されたのは初めてだった。
「具体的に」
ゴシップ好きの宮坂を喜ばせるだけと知りつつ、口を開く。
「・・・瑛の部屋にいきなり母親が飛び込んできて、散々俺を無視した挙句に、かなり失礼なことまくし立てて厄介払い?俺、高校から面識あるんだけど、急にそんな態度取られてもわけわかんないわ」
学園祭で瑛から両親に初めて紹介された時、彼らは物凄く喜んでいたように見えた。
「瑛に友達がいたなんて、この学校にしてよかったわーとか言われて、俺、ものすごく舞い上がったんですけど」
蜂谷の記憶が改ざんされていない限り、間違いない。
「うちのクールビューティ、見た目だけはほんとに氷の女王だもんね。中身はとてもとても純情で不器用で、ごくごくフツーの男の子だけどねえ。ちょっと恥ずかしがり屋で」
そうなのだ。
夏川瑛はガラス細工のように繊細な顔の作りをしていて、触れたら傷がつきそうに見える。
入学式に初めて会った時は本当に驚いた。
求肥みたいにまっ白で柔らかそうな肌に薄くバラ色に染まった頬、とがり気味の細い鼻梁に長いまつ毛。薄茶色の髪はほんの少しでも光にあたると飴色にきらきら輝いていた。
こんな綺麗な子が存在するなんて。
ところが全身をようやく見てみればスカートを履いておらず、しばらく現実が呑み込めなかった。
でも。
綺麗なものは綺麗。
中学一年にして蜂谷薫が下した結論はそれに尽きる。
しかも親しくなってから知ったことには、瑛は自分を地味で平凡でなんにもできないつまらない子とか思い込んでいて、さらに『自分と一緒にいてもつまらないだろう?』ってあのヘーゼルナッツみたいな不思議な色の瞳でおどおどおずおずと見上げられた時には、なにこのかわいい生き物はと心臓を撃ち抜かれ死ぬと思った。
その時、すぐに「そうじゃない」と否定したが、「そうだ」と言いたくなる自分も自覚していた。
頼れるのは自分しかいないと囁いて囲い込んでみたいと、一瞬思ってしまったから。
「はあーん」
にやっと宮坂は人の悪い笑みを浮かべた。
「悪い虫認定されたんだあ」
「悪い虫って・・・」
自覚はある。
だけど、彼女の態度の急変の理由はそれとは少し違う気がする。
「腑に落ちないんだよ。いきなりがーんって玄関の扉が開いて、熱あるでしょって言い当てて、私がついてるから蜂谷君は帰って!追い払われるのって・・・。まるで」
「・・・お見通しにもほどがあるね。母親の勘とかいうレベルじゃない」
まるで、透視能力でもあるみたいだ。
「そう。それ」
蜂谷が身を乗り出したところで、彼の携帯が鳴った。
「・・・瑛だ」
画面上では。
だが、このタイミングでの着信は気味が悪すぎる。
「はい、蜂谷」
短く応えると、回線の向こうで小さく息をのむのが聞こえた。
『・・・はちや』
聴きなれた、そしてどこか心細そうな声に、つい深いため息が出た。
「・・・あ」
瑛が、委縮している。
悪いことをしてしまった。
「ああ、ごめん、瑛。正直、おばさんからの電話だったらどうしようと思って」
『蜂谷、さっきは母さんが失礼なことばっかり言ってすまない。今、風呂に入ってもらっているから電話した』
こそこそと隠れて連絡してくるなんて。
看病されているというより監禁されているように見えるのは、蜂谷の心象のせいだろうか。
「気にしてないよ。おばさんは瑛のことが心配なだけだろうから」
口先だけの嘘なんて、瑛は見抜いてしまうだろうけれど。
『本当にすまない。・・・それと明日、午前中だけ休みを取りたいんだが。・・・良いだろうか』
ためらいがちの言葉に瑛のため息が混じった。
「・・・いいよ?そもそも熱があるんだから明日まるまる休んで良いと・・・。宮坂さんもそのつもりみたいだけど」
向かいで様子を見ていた宮坂が大きく首を縦に振る。
『宮坂さんがそこにいるのか』
「うん。替わろうか」
『悪い』
電話を替わると、宮坂が明るい雰囲気を装い話しかけた。
「瑛?話は聞いているよ。うん。そうか。分かった。気にしないで一日休んで。仕事は蜂谷が見るからさあ」
へらへらとたたみかけるような軽い調子に、瑛の気持ちも少しはほぐれてきているように見える。
「・・・点滴?ああ、あの時、瑛はもうろうとしていたからね。・・・お母さんが?」
ここで一瞬、宮坂の表情が曇った。
「うん・・・。うんうん。そう・・・。そう。・・・へえ、そうなんだ。わかった」
瑛の話にうなずきながらも、彼は何か別のことを考え始めている。
「まだ浅利さんも看護師さんもいると思うから、その辺聞いて折り返しメールする。うんうん、たいしたことないから。大丈夫」
なだめつつ、さらりとつなげた。
「で、明日行く病院って実家に近いの?あーそう。そんなに前から。なら安心だね。ゆっくりしておいで。熱が下がるまで出てきちゃだめだよ?」
無駄な会話の中に、知りたいことを軽く取り混ぜるなんて朝飯前だ。
「じゃあ、宮坂がご心配おかけしてすみませんと謝っていたとお母さんに・・・いやいや。ちゃんとよろしく伝えてね?」
ある程度考えがまとまったのだろう。
宮坂の唇がにいっと上がった。
「じゃあ、おやすみ。蜂谷は俺が今からたっぷり、なめるように可愛がっとくから気にしないで。ああそうだ。ほんとに舐めていい?蜂谷」
「な・・・」
蜂谷が立ち上がると、身体をくの字にまげて元モデルは笑いをこらえている。
今の状況をかなり楽しんでいるらしく、肩がふるふると震えていて、本気で頭にくる。
「・・・ごめんごめん。冗談だって。瑛が怒れるぐらい元気になったなら安心したよ」
電話の向こうの瑛が何を言ったのかもすごく気になるが、それが宮坂の作戦の一つなのだとこらえた。
「・・・ではお大事にね」
静かな声を落として会話を終えた宮坂を蜂谷は見据えた。
「・・・で。何か気にかかることがあるんですね、社長」
「うん。まずは、点滴だね」
「は?」
「浅利さんがさっき瑛にわけのわからない点滴したことにお母さんがご立腹で、本当に大丈夫なのかかかりつけの病院に行くまで出勤させない・・・って言ったみたい」
「それって・・・」
「うん、度を越してるね。寝不足と軽い栄養失調で倒れた二十五歳の息子が病院で診察を受けたうえで点滴してもらって見た目には回復しているのに、その成分教えろって怒り出す母親って。就職した時に病歴も持病もないと申請して、健康診断も毎年異常なし。そもそも瑛が言うには、蜂谷が出ていくなり点滴の話を追求しだしたって。お前、お母さんの前で瑛を治療したこと言ったの?」
蜂谷は丹念に瑛の家に着いてからのことを思い出す。
「いや・・・。そもそも俺、ずっと無視されてたんですよ。しかも瑛もなかなか口がはさめないくらいおばさんのターンだった」
「だよね。瑛もなんでって思ってる風だった」
そういうと、蜂谷の弁当の袋を手に立ち上がる。
「え・・・。ちょっと宮坂さん」
「浅利さんのとこで食べて。今日は遅くなるよ」
すたすたと歩きだした宮坂の後ろを、蜂谷は慌てて追いかけた。
「あー。そういう話かあ。そうきたかあ。なんかそれって・・・」
「うん」
「・・・今夜は帰さないよって感じ?」
「うん。今夜は帰さないよ、美津」
「やーねえ、もう。誉ってほんっと悪い男よね」
腹を抱えてげらげら笑いだした二人に、蜂谷は唖然とした。
そこそこ深刻な話をしていたはずなのだが、最後は芝居がかった掛け合い漫才で締めくくられ、冷えた弁当をつっつく箸も止まるってものだ。
「あの。俺、帰ったほうが良いですか」
「何とぼけたこと言ってんの。ゆるい会話で暇つぶしながら蜂谷が食べ終わるまで待ってあげてんじゃん、僕たち」
浅利の医院の最奥にある会議室で、三人で話を始めて十数分。
実はこの会議室にはけっこうな仕掛けが施されていて、ここに鍵をかけてこもっているということは、かなり重要事項だということだ。
「・・・俺、なんか食欲ないみたいだから、もういいです。ごちそうさまでした」
「あっそ。・・・じゃあ、そろそろ本気出そうか」
そう言うなり、宮坂の表情がさっと変わる。
三人それぞれの前には、ノートパソコンがすでに用意されている。
まずは、宮坂が画面から電話をかけた。
「うん、お疲れ様。今から調べてほしいことがあるんだけど、いいかな?」
彼の人脈は素人の蜂谷には想像の及ばないくらい広い。
そして、時と場合によっては法に触れることも決していとわない。
だからこそ、蜂谷は宮坂の部下であり続けている。
いずれ宮坂の力が必要になる時がくるかもしれないと思っていたからだ。
でも、半分は軽い備えのようなものだったのだ。
自分はまだまだ甘かった。
まさか今、こんな状況を迎えるとは想像できなかったのだから。
ネット通話を聴きながら、何かを理解したのか浅利もキーを叩き始めた。
「保険番号は今転送した。それの通院歴で一番件数の多いやつ。たぶん吉祥寺…。違う?八王子?へー。それで、なんていう病院?そうかうん、わかったありがとう。また近いうちに頼むことが色々あると思うからよろしく」
回線を閉じるなり、宮坂は一言告げた。
「八王子の筒井総合病院」
「看板はフツーの総合病院だけど…。あそこの医院長、バース研究こっそりやってるわね」
バース研究。
幼いころからそこに連れられて行っていたというならば。
「母親、もしくは両親であの子のバース属性を疑っていた可能性があるわね」
「疑っていたんじゃなくて、期待しているんだろう今現在も」
「でも、両親はベータよね?しかもかなり強固な」
「ああ、それは間違いない。蜂谷もそう思っただろう?」
「・・・ああ。うん」
この三人の中で、瑛の両親と一番接触があったのは蜂谷だ。
事例がないわけではない。
ベータの両親から貴種が生まれることは。
しかしそれは家系をたどるとどこかに貴種の因子の者がある場合がほとんどだ。
夏川家の人々はある意味稀と言っていいくらい純粋なベータ同士の血統だと、会うたびに感じていた。
「それなのに、どうして瑛だけベータじゃないと確信してるんだろう?」
瑛を溺愛していた両親。
父親が転職して地方から上京し、暮らし向きはつつましいものだった。
ごくごく普通の中流家庭。
だけどそこそこ裕福な家庭で生まれ育った蜂谷からは、正直なところかなり背伸びしているようにも見えた。
高額な学費のかかる超難関校に入学させ、そこに通う生徒たちに見劣りしないように全てを誂えやりくりするのは大変だっただろうと、社会人になった今は思う。
多少の過干渉も期待も身の丈に合わない生活も、瑛が綺麗すぎるからだと蜂谷は勝手に納得していた。
だけど、これは。
「点滴にまで目くじら立てている時点で、答えは出ているわね」
おそらく、筒井氏に関する情報を引き出している最中の浅利は結論付けた。
「まず、瑛は夏川夫妻の実子ではない」
これが、瑛も知らない真実。
「次に・・・」
自分たちは、パンドラの箱をあけて覗き込んでいる。
真っ暗で、逃げ出したくなるほどの深い闇。
「夏川夫妻は瑛のバース特性の覚醒を強く望んでいて、それを促すために幼児のころから病院に通わせていた」
浅利の処方した点滴に副作用を起こす成分があるならば。
それまでの治療方針にずれが生じる。
もしくは最悪、瑛自身に異変が起きるかもしれない。
「それだけじゃないよ」
宮坂が口をはさむ。
「おそらく、瑛は監視されている。ヒートの瞬間を見逃さないために」
夏川夫人は知っていた。
今の瑛の体調と、手当てされた詳細を。
だから慌ててとんできて、まずは蜂谷を遠ざけた。
なにを仕掛けていたのかはわからない。
それを調べるのがこれからやるべきことの一つだ。
「夏川さんたちは、瑛がオメガだとわかっていたんだよ、最初から」
宮坂は、深く、深く息をついた。
政府主導の定期検査では瑛の特性は常にベータ。
だから、彼自身もそれを信じて生活してきた。
「わかったうえで…というか、オメガだからこそ養子にした」
アルファはほぼ先天性で、成人後はとくにベータからの変転はわずかしかいない。
しかし、オメガは違う。
妊娠可能な年齢内で変転する人間が稀に存在し、それが政府主導の定期検査が行われる理由である。
なかでも上のステータスのオメガが産んだベータなら、変転した場合高階級の貴種になる可能性が高い。
さらに付け加えるなら、オメガの出生率はアルファの半分に満たない。
そのような理由でオメガは大切にされ、政府と世界機構と貴種財団の三方から手厚い保護を受けるようになった。
生活の保障額と利権はけた外れで、一気にセレブリティの仲間入りが可能だ。
夏川夫妻はそこに目を付けた。
彼らは瑛という未来に、賭けたのだ。
川を通り抜けていく風が、心地いい。
「いつの間にこんなに・・・」
見上げた先には、満開の桜。
会社へ向かう道筋には川があり、それに沿って桜の並木道がある。
都内でも桜の名所としてそれなりに知られているが、平日の昼間ともなるとさすがに花見客でごった返すこともない。
「蜂谷がもう少し咲いたら花見したいって言ってたな」
携帯のカメラで桜並木の様子を画像に撮り、蜂谷へメッセージを付けて送った。
「俺はもう大丈夫だから、いつでもいいぞ・・・と」
文字を打ちながら、つい顔がほころぶ。
今日はとても気分がいい。
病院の診察も数時間で無事終えて医師を交えた話に納得した母とも別れ、瑛は解放感に浸っていた。
飛び乗った電車の中から午後は出勤する旨を会社に連絡し、そのあと何度か蜂谷とメッセージのやりとりしているうちに最寄り駅に着き、近くのカフェで軽く食事をするつもりだと告げると、自分も食べに行きたいと電話がかかってきたので木陰のベンチに座って待つことにした。
「これもなかなか・・・いいな」
座ったまま、桜の花越しの青空を撮る。
澄みきった空と、重なり合う薄紅色の花びら。
どこからか花の甘い匂いも感じて、深く息を吸った
「瑛」
驚いて、携帯を構えたままわずかに顔を傾ける。
耳慣れない声。
いや、忘れ去っていた音。
「え・・・」
どうしてここに。
傍らで瑛を見下ろしている男の鋭い視線と目が合った。
鍛え上げられた長身の体躯に調和のとれた顔。
昔のままに美しく、昔よりも美しく。
完璧で豪奢な、理想の男。
「・・・っ」
風が強く吹いた。
瑛は両手を膝におろし、瞬きをした。
目を開いて、閉じる。
手の甲に桜の花びらが舞い降りた。
軽い感触。
でもふわふわと頼りない。
一瞬、自分の存在する時間と場所がわからなくなる。
「元気だったか、瑛」
再び呼ばれて視線を戻し、瑛は首をかしげる。
目の前の男は親し気な笑みを浮かべていた。
まるで、ずっとそうしてきたかのように。
「瑛?」
信じられない。
今ここに。
桜の咲き誇る木の下に。
志村大我がいる。
-つづく-
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