『天のかけら地の果実-中巻-』
『パンドラ』
はるか昔、神々の世のころ。
『地上』が神の手で創造された。
それは複雑で、とても美しいものであった。
さらに神は、この地上の生き物たちの創造と管理を巨神族のプロメテウスと弟のエピテウスに任せることに決めた。
心優しいエピテウスが全ての動物たちに様々な能力を与えているうちに賜物は底を尽きてしまい、最後の人間に贈る物は何一つ残されていなかった。
そこで兄であり監督者であるプロメテウスは、考えた末に天から火を取りそれを与えた。
これにより人間は火を操って日々の暮らしを豊かにする知恵をつけ、『地上』のさまは変わっていく。
それは神々が危機感を抱くほどであった。
そんななか、ゼウスは『女』を造った。
天上で造られた『女』は神々から様々な贈り物をもらう。
それは美であり、
音楽であり、
魅力であり。
心地よいさまざまな事象だった。
最後に与えられたパンドラという名前とともに『女』は歩き出す。
『パンドラ』とは、『すべての贈り物を賜わった女』という意味である。
しかし、全ての贈り物はもろ刃の剣だった。
かぐわしい花の香りも、時には苛立ちを与えるように。
密かな計略の元に贈られた『パンドラ』はエピテウスに与えられて妻となり、そして事が起きた。
触れてはならないとわざわざ戒められたうえで与えられた瓶。
神に仕掛けられた誘惑がゆっくりとパンドラの心を侵していく。
好奇心に負けた彼女は、蓋を取り瓶の中を覗き込む。
解放された途端、世の中のありとあらゆる苦痛と悪しきものが飛び出し、世界の隅々まで広がっていく。
慌てて蓋を閉じてももう遅く、己の過ちに怖れ嘆くパンドラの手元になぜか一つ、残されたものがあった。
それは『希望』、または『予知』だったという。
(『ギリシャ神話』参照)
一方的に強い好意を持たれることに飽き飽きしていた。
誰もが俺に抱かれたがる。
そんなに触れてほしいか。
そんなに孕みたいか。
日本という国は退屈なところだ。
ここではバース特性のある人間が極端に少ない。
通っていた中高一貫校は財産・家柄または頭脳において屈指の進学校にもかかわらず、アルファは全学年あわせても片手で数える程度だった。
見方を変えれば世の中には優秀なベータがそれほど存在するということだが、どんなに優秀でも越えられないのが階級の壁だ。
アルファとベータ。
さらに、ゴールドとシルバー、そしてブロンズ。
生まれ落ちたその時から、立場は決まっている。
従順に従う子羊たちの群。
最初は玩具としてそこそこ楽しめたが、世界が広がるにつれ飽きてきた。
誰もかれも。
なにもかも。
つまらない。
「志村・・・、大我・・・。なんで・・・」
目を大きく見開いて、心底驚いた顔をしていた。
例えるならばまさに、鳩が豆鉄砲を食ったよう、だ。
それでも。
なんて美しいのだろう。
俺の瑛は。
「なんで・・・って。こっちが聞きたい」
思わず噴き出した。
笑いが止まらない。
心が沸き立つ。
たかが子羊のくせに。
どうしてこれほど俺を揺さぶる。
昔はもっと凡庸で、見た目は少し綺麗だけど卑屈で無口で愚鈍な男だった。
退屈だと何度も思った。
だけどどうだろう。
たった数年会わない間に変わっていた。
まるで、青虫がさなぎを経て突然蝶にでも羽化したかのように。
ぼんやりとした春の風景の中、瑛はきらきらと金色の光を放つ。
滑らかな肌、絹糸のような髪、細くてしなやかな肢体。
そして、鶯色にヘーゼルの色素を落としたような神秘的な色あいの瞳にまっすぐ見つめられ、大我は高揚した。
「だって、呼んだだろう?この俺を」
だから俺はここにいる。
お前に触れるために。
吸い寄せられるように、白磁の頬に手を伸ばした。
「あ。大我だ。志村大我。なんでいるかなあ。こんな時に」
耳障りな声と粗野な言葉遣いが、完璧だった世界のすべてを粉砕する。
すると最高の芸術家に創られた彫刻のように神々しい姿を魅せていた瑛は突然、血の通った人間になった。
それはおとぎ話の呪文を解かれた瞬間をつぶさに目にしたような、不思議な光景だった。
あれほど眩しかった彼の輝きは、次第にあいまいになる。
まるで、薄布を頭からすっぽり覆い隠したように。
いつもの、瑛。
地味な、印象の薄い、どこにでもいる男。
あの、別れた日の瑛そのままだ。
どういうことだ?
「やだなあ。ランチ台無しじゃん」
今、この場を台無しにしてくれた張本人を咎めようと振り返ると、男が二人、こちらに向かって歩いてきているところだった。
ひとりは背が高く、眼鏡をかけ清潔そうな身なりの男。
もう一人は中背で、妙に歩き方が綺麗で裕福そうな雰囲気の男。
背が高い方は、おそらく蜂谷薫。
自分と瑛のそばを常にうろついていた男。
高校卒業以来会っていなかったので背格好に若干記憶とのずれがあるが、わかる。
そうか。
こいつはまだ瑛のナイト気どりを続けていたのか。
蜂谷は最初から、あからさまに瑛を欲しがっていた。
しかし鈍感な瑛に全く相手にされず、仕方なく親友とやらを演じていたはずだ。
だが陳腐な志にこだわりすぎて未だ指一本触れられていないことも、大我は瞬時に悟った。
馬鹿なやつ。
慰めるふりでもなんでもいいから、さっさと抱けばよかったのに。
おかげで、まっさらなままの瑛を俺はまた存分に楽しむことができるけれど。
安くてちっぽけな同情と大きな優越感が大我の身体をひたひたと満たしていく。
「うわ。今きみ、蜂谷ってバカだな~とか思ったよね。その通りなんだけど、それ考えた時点で君も同じだからね」
気付くと、見知らぬ男が驚くほどちかくに間近に立っていた。
年上のようだが、まとう空気が瑞々しい。やわらかく波打つ黒髪は襟足から顎にかけて切りそろえられ、漆黒の瞳から驚くほど強い光が宿り、鼻筋も唇も理想的で精緻な面差しでとてつもなく美しいことに今更気づいた。わずかな微笑みからかおる滲み出る例えようもない色に大我は一瞬目を奪われる。
「初めまして、志村大我。東京へようこそ」
すっと手を差し出され、無意識のうちに握手に応じた。
軽く羽で撫でられたように力のない、あきらかに形ばかりの挨拶。
でも、一瞬の接触に何かがひそかに大我の体を走り抜けたように感じた。
・・・今のは、何だ?
「拠点をニューヨークに移して以来全く戻らなかった筈なのに、いったいどういう風の吹き回し?」
軽くて甘ったるい声色と馴れ馴れしい口ぶりの中に棘を感じ、不快な思いが胸を占めた。
「あんた・・・・。どっかで・・・」
「んー。どっかでもなんも、僕、きみの大先輩なんだけど。敬うとかってないの?」
「は?」
「今はこういう仕事をしていますが…」
すっと目の前にかざされた白い手の、綺麗にそろえられた指先にはさまれているのは小さな紙片。
差し出されたそれを受け取り、眉間にしわを寄せて文字列を読み上げる。
「オフィス宮坂・・・。ブランディング・プロデューサー、宮坂誉?」
ブランディングプロデューサーという仕事を知らないわけではないが、宮坂なんて名前は全く記憶にない。
「えー?知らないの?うーん。僕ってまだまだなんだね。仕方ないな、ヒントをもう一つ。二十歳ちょっとくらいまでは『稀(まれ)』って名前で君と同じ仕事していたよ」
大我は現在、国際的なモデルとして欧米でそれなりに活躍している。だが、パリでもミラノでもこの男に会った覚えはない。もっとも、ショーモデルは流行りも入れ替わりも激しく、その寿命は短い。
だが、『稀』という名前は。
「・・・あんたMAREか!」
『マレ』は伝説のモデルだ。
身長は175センチと普通ならば欧米では通用しないと言われた体格だったにもかかわらず、その優美さと存在感は圧倒的で、名だたるメゾンの誰もがスチールに使いたがった。
彼が身につけた衣装やアクセサリー、そして宣伝した香水は飛ぶように売れ、東洋系で成功した男性モデルの第一人者と称賛された。
「気づくの遅すぎ」
やわらかな笑みをたたえた美しい唇に、つい視線が釘付けになってしまう。
しかし病気療養を理由に『稀』は突然モデル業界から去ったはず。
「仕方ないだろう。あんたが降板した時、俺はまだ中学生だったんだ」
大我が知人の勧めでモデルの仕事を始めたのは十七歳になってからだ。『稀』の仕事ぶりを古い雑誌や映像で見たことはあったが、それはリバイバル映画を見るのとかわらない。ただし先人として尊敬していたので、記憶には残っている。
「あいたたた。言うなあ」
芝居がかったしぐさでおどけて見せても、確かに彼の優雅さは『稀』そのもののように思えた。
「だけどなんで、『稀』がここに」
夏川瑛との、六年ぶりの再会の場に。
はっとあたりを見回すと、なんと瑛はいつの間にか少し距離を置いた場所に立ち、まるで他人のような顔をして蜂谷と一緒にこちらをうかがっている。
「おい、瑛・・・」
「・・・君、ほんっと何しに来たんだろうね」
宮坂の呆れ声にまたしても足止めされた。
「・・・なんだと」
「瑛は、僕の部下だよ。それこそ君が瑛をつまんでポイする前からね」
「は?」
「・・・ははは。鳩が豆鉄砲って、こんな顔なんだなあ」
「・・・っ!」
「まあまあ、こんなとこで立ち話もなんだし」
ひらひらと、白いかけらが落ちてくる。
やわらかな、たよりない感触。
「仕方ないから、僕たちのランチの仲間に入れてあげる」
桜の花びらなのだと、今になって気が付いた。
「お行儀良くしてくれよ?志村大我」
ここは日本なんだと、ようやく脳に響く。
四月の空。
桜並木。
瑛がいて。
蜂谷と稀がいて。
舞い散るかけら。
俺はどうして、ここにいるのだろう。
「じゃあ、乾杯しよっか」
やわやわとした陽射しの差す部屋で、宮坂のことさら明るい声が反響した。
連れていかれたのは蜂谷と約束したカフェではなく、宮坂の行きつけの店の個室だった。
四人掛けテーブルで宮坂の隣に瑛は座らされ、その向かいに蜂谷で志村は斜めという配置になった。
手際よく並べられたイタリアンのランチプレートはこまごまと盛り付けられ見た目も美しく、サービスで注がれたシャンパンはうっすらと桜色の光をグラスの中から放っている。
シャンパンの泡のはじける音。
オリーブオイルやハーブの匂い。
頬を包む春の光。
それらの全てが五感を刺激するのに、どこか非現実的で夢の中にいるようだった。
「宮坂さん・・・。俺たち仕事中ですよ」
うっそりと蜂谷が口を開く。
「それに、何に乾杯するんです?」
「え?こういう時って、『再会を祝して』とか言うんじゃないの?」
「・・・めちゃくちゃ楽しんでるでしょう、今」
「ははは。ばれたか」
二人のじゃれあいが風のように通り過ぎていく。
瑛は深く息をついてから、広すぎるテーブルの対角線上で不機嫌をあらわにしている志村を見つめ呟いた。
「なんで」
まるで長い間声帯を使っていなかったかのように、奇妙でか細い音しか出ない。
それでもみんなに聞こえたらしく、宮坂と蜂谷はぴたりと口を閉じた。
「・・・なんだ」
久しぶりに聞く、大我の声。
こんな音だったか。
「なんで来たんだ」
ここに。
今になって。
言いたいことの一割も言葉にできない。
「なんでって・・・。手紙を寄こしたのはお前じゃないか」
「は?」
思ってもみない答えに、ぽかんと口を開けてしまった。
「桜がもうすぐ咲くから、たまには見に来ないかと誘ったじゃないか」
「おれが?」
「今更、何言ってるんだ、瑛」
大我が嘘を言っているようには思えない。
だけど。
「ようやく種明かしが始まったところに悪いけど、大我。その手紙って今持ってるかな。いや持ってるよね。こういう場合」
宮坂が向かいの大我に手のひらを向けた。
「ああ・・・まあな」
大我は一貫して宮坂らにぞんざいな態度をとり続けていたが、この時ばかりはしぶしぶとジャケットのポケットから封書を出す。
「一昨日届いた」
「へえ?ってことは受け取ってすぐに飛行機乗ったんだ」
からかうような口ぶりに顔色を変え封書をしまおうとしたが、遅かった。
奪い取った獲物を高く掲げて宮坂は悪戯が成功した子供のように笑い声をあげる。
「ははは。ごめんね。これを見せてもらわないと僕たちも君にどう接したら良いかわからないから、実際」
そしてなぜか、まず封筒を鼻の前にもっていき、くんと匂いを嗅いだ。
「んー。なるほどね。あからさますぎて僕でもわかるかもっていうか、解り易いというか」
「はあ?」
大我はもう爆発寸前だ。
「ちょっと失礼して、蜂谷」
「ああ」
今度は蜂谷が身を乗り出してテーブル越しに宮坂の手首をとり、封筒に顔を寄せ確かめる。
「まあ、想定内だな」
「だよね」
二人の間で何か思うことがあるらしく、ただ頷きあうだけだ。
「あの・・・」
だんだんとつま先が冷えていく。
窓からの日差しはうららかで、空調の効いた暖かい部屋のはずなのに。
寒い。
「ええと。まあ、大我と瑛に説明しやすいのは本文だと思うから、中を見ていいかな?」
「何をいまさら。・・・ああ、どうぞ」
「では、失礼して」
宮坂の長い指が取り出したのは一枚ずつのカードと写真。
「ふうん?これはまた・・・」
「それは・・・」
高校の卒業式の写真だった。
校庭の一角に開花の早い河津桜が植えられていて、ちょうど見頃だったこともあり出席者たちは思い思いに記念撮影をしていた。
学内で人気者だった大我は、色々な人に写真をせがまれていつまでも人だかりが途切れることはなかった。
瑛はその様子を遠目に見て帰るつもりだったが、生徒会の仲間たちが記念に撮ろうと言い出し、気が付いたら大我の隣に立たされていた。
撮ったのは一枚きりの集合写真だったはずだ。
大我のそばにいたのはその瞬間だけだったように思う。
だけど、これは。
「隠し撮り・・・かな。大我はカメラのほうロックオンしてるように見えるけど、ホントは気付いてなかったよね。っていうか周り中カメラだらけだから気にしてなかったか。瑛はちょっと俯き加減で恥ずかしそうなのが初々しくて、ふたりの視線はバラバラなのに却って様になってるね。なんとまあ奇跡の一枚って、こういうの?」
満開の河津桜の下で寄り添うように立つ、大我と瑛の写真。
「俺、ずっと瑛の隣にいたと思うんだけどなあ…。見事に消されてる」
はああーと、蜂谷がうなだれた。
「すでにこのころからお邪魔さんだったんだあ」
宮坂の言葉の意味が解らない。
「あの・・・。俺、この写真、知りません。見たことがない・・・というか覚えがない」
とりあえず、自分の中の真実はこれだけだ。
「ちょっと待て、瑛。どういうことだ。だって、お前・・・」
「ああ、まあね、そうだと思うよ」
カードを開いて一読した宮坂は、テーブルの中央にそれを置いた。
「ねえ、大我。これ、瑛の字だと思ったんだよね?」
白い、シンプルな、桜の花びらの箔押しを散らしたカード。
中央に数行ボールペンで書かれている文字を瑛は視線でたどる。
『 大我へ
桜がもうすぐ咲く。
見に来ないか。
瑛 』
「これは・・・」
自分がもし大我に手紙を書いたなら。
勇気を出して書いていたなら。
こんな文章だっただろうと思う。
「どういう・・・こと・・・なんだ」
目の奥にちくりと波打つものを感じ、額を抑えた。
書いた覚えはない。
だけど。
書いたのだろうか、自分は。
覚えのない写真を一緒に入れて、ニューヨークのどこでどんな暮らしをしているかもわからないはずの大我に手紙を送ったのか。
「うん、まあ、ぱっと見に瑛の字だよね、蜂谷」
「ああ、まあな・・・」
ふうーっと蜂谷が息をついて、続けた。
「高校生のころの瑛の字に似てる」
突然、痛みが飛散する。
「え・・・」
「は?」
大我もあっけにとられている。
「うん。そうなんだよ。これ。蜂谷はヘタレだからぼかして言ったけど、ずばり、正確には大我に捨てられる前の瑛の字だね」
宮坂は美しく整えられた爪でテーブルをトントンと叩いた。
「もともと瑛の字は見やすくて綺麗だったんだけどね。今とはとめはねとペンの入る角度が少し違うんだよ。持ち手の型を変えたから」
「・・・あ」
慌ててカードを手に取って間近に見る。
さっきはまさに自分の字だと思った。
しかし、言われてみれば違うとわかる。
「そう。ペン習字。瑛は君と別れた後、講義の空き時間に習字教室に通って毛筆とペン字を基礎から修正をしたよね。だから僕たちから見れば違うってすぐわかる」
「あんたがなぜそれを知っている。単なる雇用主ではないのか。まさか・・・」
「ははは。今カレとでも?光栄だけど、違うよ。僕は瑛と蜂谷の大学のOBだった。だから会社のアルバイトで雇っていたんだよ。二人が大学一年の時からね」
頬杖をついた宮坂は、勝ち誇ったようにちらりと流し目をくれてやる。
「知らなかったよね。っていうか、全く興味なかったんだろう大我。瑛がどんな生活を送っていたかなんて。そもそもヤリたい時に呼び出すだけだったもんね」
先約があっても、大事な講義があっても、アルバイトを入れていても、大我から連絡があったらすぐに駆け付けた。
おかげで当時は多くの信用を失ったと思う。
せっかく仲良くなった大学の友達と疎遠になってしまったこともある。
宮坂には忠告を何度もされた。
蜂谷はいつも心配そうに自分を見ていた。
それでも、瑛の世界の中心は大我だった。
大我に会えるなら、何もいらなかった。
必要とされているのは身体で、暇つぶしでしかないこともわかっていた。
いつも、虚しかった。
独りの時も大我に抱かれている時も。
でも、彼の機嫌を損ねたら二度と声がかからなくなる。
もう会えないかもしれない。
ただただ、そのことだけが怖かった。
「な・・・」
大我の顔にさっと朱が混じる。
瑛は目を伏せた。
見たくない。
聞きたくない。
だけど、これが現実。
「まあ、二十前の男なんてみんなそんなもんでしょ。わからなくはないけど、無関心すぎたね。だからこんな下手な餌に簡単にひっかかる」
傍観者だからこそ、宮坂は冷静な判断ができる。
こうして立ち会ってくれたおかげで、絡み合った糸がどんどん解れていく。
だけど、それはこれほど痛みを伴わねばならないものなのか。
そもそも異性愛者の大我は瑛に対してすぐに食指が動いたわけではなかった。
おそらく同級生として認識したのも、ずいぶん経ってからだったのではないか。中高一貫校で狭い世界だったから、学校行事でようやく存在に気付いたという感じだった。
声をかけられて舞い上がったけれど大我は気まぐれで、気が向いたときに呼び寄せて少しでも気に障ると容赦なく放り出す。
ベッドに連れ込まれたのは高校二年になった頃だった。
『なあ。俺、女に飽きたんだよな。なんかいろいろめんどくさくてさ。だからと言って男はごめんだと思っていたんだけど、お前ならイケるかも。だから、いいだろう?』
『え・・・?』
『だってお前、俺のこと好きなんだろう。中学の時、女たちみたいな目で見るヤツがいるなと思ったら、あれが夏川瑛だって、周りが教えてくれたぜ?』
何もかも知っていて、ちょっと面白いかと思ったからそばに置いたと笑われて、どう反応したらいいのかわからなかった。
『気持ち悪いと思ったらやめるから。やらせろよ』
気持ち悪いって、どっちが?
これ以上ない最低な言葉。
どこにでもいるろくでなしの、ろくでもない台詞。
なのに首元のボタンを外され始めた時、全身が熱くなった。
大我の手が、意志を持って自分の服をはいでいく。
あこがれていた。
入学式で見かけた時から、ずっと大我だけだった。
こんな完璧な美しい人、どこにもいないと思った。
大我に会いたくて、いつまでも馴染めない裕福な進学校へ必死で通った。
大我の指先が、じっくりと胸をたどって男である部分にも触れ、散々いじられた末に組み敷かれた時、涙が出た。
大我の雄に突き立てられた時、痛くて痛くて気が遠くなりそうだったけれど、その痛みこそが瑛の現実だった。
大我が、自分の身体に興奮している。
精を注ぎ込もうと汗だくになっている。
これは、大我の意思なんだ。
そう思ったとたん、うれしくてうれしくて胸がいっぱいになった。
たとえどんな言葉を投げつけられても、どんなに乱暴に扱われても、今、志村大我に抱かれている。
なんて幸せなんだろう。
死んでもいいとさえ思った。
いや。
今、この場で死んでしまいたいと本気で思った。
大我に抱かれて、幸せなまま、死んでしまいたい。
初めて抱かれた日に、覚悟はしていた。
大我はアルファだ。
しかもその貴種の中には階級が存在し、より頂点に近いシルバーという家系なのだと本人から聞いたことがある。
彼は学校にいる同種たちの中で誰よりもアルファらしい男で、それを誇りにしていることも十分承知していた。
いずれは、同じ貴種のオメガとつがいになって、子孫を残す。
優秀な遺伝子を残すことが使命だとも言い切っていた。
それは、瑛たちベータの社会とは違う世界だった。
まず、つがいは現代の婚姻関係にあてはまらない。
夫婦として法的な手続きをとることもまれにあるが、ほとんどは事実婚だった。
同性であれ異性であれパートナーが存在する限り、他の人間とは関係を持たず、いわゆる不倫や愛人は存在しない。それはルールなどではなく、本能だった。
つがいとして成立すれば、まるで繭にこもるかのような二人だけの蜜月が始まる。
つまりは、本能で瑛を拒絶する日がやってくる。
そう遠くない未来に。
だから、瑛はひたすら大我の呼び出しに応じた。
今日で最後かもしれない。
今で最後だろう。
そう思いながらも、会うたびに期待がどんどん膨らんでいく。
大我の唇が、手が、求めてくれている。
もしかしたら、大我のオメガは存在しないかもしれない。
もしかしたら、大我だけは選んでくれるかもしれない。
ベータで、男で、平凡で醜い自分を。
甘い期待で身体がぱんぱんに膨れ上がった瞬間、見事に打ち砕かれた。
『彼女と目が合った瞬間分かった。これが、運命の人だと』
大我のオメガが突然現れたのは六年前。
彼女は、前の年に結婚して間もない夫をテロで亡くしていた。
アメリカでは名の知れた富豪の娘。
世界で最も美しい女性の一人と称された、シルバーのオメガ。
これ以上はないと誰もが思う、完璧な結末だった。
「餌だと?言ってくれる」
大我の声で現実に引き戻された。
「だってね。君もこの六年間の瑛のこと知らないけれど、瑛自身も君の六年間のこと知らないって、僕たちはわかっているから」
宮坂はまるで水先案内人のように、瑛たちを真理へ導いていく。
「何を証拠に・・・」
「ねえ、瑛。大我の奥さんの名前なんだっけ?」
真っすぐに見据えられて、からからに乾いた口をなんとか開いた。
「・・・リザ・・・。ハディットとか言ったと思う」
六年も経っているのにフルネームで答えられることが恥ずかしくてたまらない。
「残念でした。それは一年ちょっとで終わった。次がアートディレクターのアニタ・チェン次がピアニストの誰だっけ…。で、今はニーナ・アデルソン。いや、その前にモデルのキャロリン・ヒルがいたっけ。あの子もオメガだよね?」
「キャリーはマッチングの段階で終わった。あれはカウントしないでくれ」
大我は椅子を後ろに引き、足を組んで睥睨する。
「え・・・」
「そもそも、ニーナの寝室から蹴り出されたから、ここにいるよね」
「え?」
「俺がニーナに蹴り出されたんじゃない。ニーナが、選ばれた。あっちが繰り上げ当選したようなもんだ」
「うん。はじき出されたんだよね。ゴールドのアルファの相手が不足したから」
「・・・ああ、そうだ。まあそんなところだ」
大我は一瞬悔し気な表情を浮かべたがなんとか抑え込み、しぶしぶ頷く。
「ちょっと・・・。ちょっと待ってください。俺にはわからない。マッチングとか、繰り上げ当選とか、どういうことですか」
宮坂がオメガバースの社会についてかなり詳しいのはわかっている。仕事で彼らと必ず関わるから必要だと常々言っていた。だが、瑛をはじめとするほとんどのベータは正確な情報を全く知らない。自分の知識と思うものは単なる噂でしかないのか、それとも真実なのか。
「ああ、ごめんね。オメガバースってガチで野生の王国なんだよ」
「は?」
「単純に言えば、彼らは繁殖に命を懸けている。まあ、人間だから、情が生まれることもあるんだろうけれど、基本的には発情期の獣の道理がすべてなんだ」
「獣の道理・・・」
「まあ、ようするにメスはより優秀な遺伝子の子供を産みたい、オスは成熟したメスに自分の遺伝子を継いだ強い子を残してもらいたい。どちらも、できれば多く・・・ってところかな。発情期が来ると、彼らの頭の中には繁殖のことしかなくなってしまう」
宮坂の言葉にどこか気になるものを感じたが、じっくりと考える間はない。次から次へと新たな情報が投げ込まれ、瑛はますます混乱していった。
「オメガがつがいを選別するのは本当に本能。最初のマッチングでラブラブでも、こいつじゃ優秀な子どもができないって感じた瞬間、さっと乗り換えることもある。大我の一人目の奥さんがまさにそれね。大我のあとに五人アルファを変えているけど、なんかどれもうまくいってないね。ねえ大我、今ざまあみろって思ってるでしょ?」
「・・・さすがに、そこまでは思っていない」
話を振られて、大我は無愛想に返した。
「で、ニーナの場合はこの間のテロでぴちぴちの卵子を持つ若いオメガたちが軒並み殺されちゃってね。その子たちはゴールドのアルファのつがいか候補だったわけ。だから、ゴールドの相手としてはずっと圏外だったニーナが格上げされた。だって今、なかなかオメガが生まれないし、育たないってのに、たくさん殺されちゃって。今アルファたちはオメガ日照りだよね」
「日照りって…。それと餌ってどういうことですか」
「さすが瑛。そこなんだよ」
にいっと宮坂が笑った。
「今、大我は完全フリーになっちゃったんだ。少なくともアメリカではシルバーのオメガにありつけない。多分ヨーロッパも同じかな。最後は白人至上主義がどうしても絡んでしまうんだ。仕事はともかく、アルファとしては開店休業状態。腐っている所になんと、昔身体の相性が抜群だった瑛からなんか未練たらったらな空気匂わせた手紙が届いて、『なんで俺の連絡先知ってるんだ?こいつストーカーか?』って引いたり、『なにかの罠かもしれない』なんて疑いもせずに、うきうきと飛行機のチケットとって飛んできちゃった。そうだよねえ?大我。僕なんか間違ってる?」
瑛に説明すると言う名目で明らかに大我をいたぶっている。
「けちょんけちょん・・・」
蜂谷が珍しくぼそっと口をはさんだ。
「やめてくれ、お前の同情なんかごめんだ」
「・・・悪かった」
妙にうまが合っている。
この二人、実は親しいのだろうか。
瑛が首をかしげると、察した蜂谷はすかさず制した。
「瑛。違うから。俺たちは親しくもなんともない。ただの元同級生だ」
「そうだ。単なる元会計。生徒会室の隅っこで金勘定していただけだろう」
「元会計?なら、俺も同じだな」
生徒会では大我が会長、蜂谷と瑛のふたりで会計の任に就いた。もっとも、対外交渉など仕事のほとんどは蜂谷が取り仕切ってくれて瑛は書類整理ばかりだったけれど。
「いや瑛、俺が言いたいのは・・・」
大我が取り繕うとしたその時、ぱん、と、拍手が聞こえた。
「はい、そこまで」
宮坂が両手を合わせたまま、三人を見回す。
「話を戻すよ。ランチもたいがい冷めたから」
せっかくのオーナー心づくしの料理も甘い香りのシャンパンも手つかずのままだ。
「まず、この手紙は僕がいったん預からせてもらう。瑛からじゃないってことはわかったからいらないよね?大我」
「・・・ああ。構わないが、いったいそれをどうするつもりだ」
「瑛の名前をかたって大我を東京に呼び寄せた人がいる。それが誰なのか、理由は何なのか、僕なりに調べたい」
封筒の中にカードと写真を戻しながら宮坂は話を続ける。
「大我。君も用心することだね。相手は君をアメリカから追い出したかったのか、それとも・・・。お膳立てされて、うかうかとここまで来てしまったことを忘れてはいけない」
一瞬、大我の瞳に強い光がともった。
「・・・なるほど。わかった」
そして、ゆっくりと唇を吊り上げ嗤った。
「この俺を嵌めるとはな・・・」
世界中を魅了する、王者の風格。
誰よりも頂点に近いアルファとしての矜持が、彼の顔によみがえっていた。
「まあこれで、クロ確定なんだけど・・・」
はあ、と宮坂が盛大なため息をついた。
「気が重いね」
瑛の母親の動きに不信を抱いた宮坂と浅利が、たまたま志村大我の動向を調べ直したおかげで彼の入国に気付き、瑛を連れ去られずに済んだ。そして蜂谷が仕込んだ電波を遮断する機器のおかげで、合流した時点でおそらく会話は盗聴されていないと思うが、相手が何を仕組んでいるのかをまだ全て割り出せていないので、後手に回っているのは否めない。
念のため前日の治療に対する手続きを理由に、瑛を浅利の診療所へ行くよう仕向けた。
かかりつけ医の検査や母親の様子については、彼女がうまく色々聞きだしてくれるだろう。
だが、瑛もそこまで鈍くない。
体調不良も合わせた不自然な流れのなか、きっと色々なことに感づいて疑問を抱いているはずだ。
ただ、彼はオメガバースに対する知識が皆無に近い。
それはベータなら当たり前のことだ。
閉鎖的な特権階級ならではの秘密が数多く存在し、当の属性である者たちですら知らないことが多い。
志村大我のような、脈々と続くシルバーの血族の中に生まれたエリートであっても。
「こう頻繁に通信が途切れていたら、いい加減おかしいと思うだろうね、あちら側も」
「部屋の中は?」
「ああ、ありましたとも。どれだけ仕事熱心なんだって感服するくらい。あそこまでいくと盗聴マニアというより変質者だね」
瑛の母親が合鍵を持っている限りいつでもまた設置されてしまうだろうが、とりあえず『あってはならないもの』を全て除去した。
「ちなみに、超高性能赤外線の暗視カメラまであるという念の入れっぷりで笑ったよ。あれは多分、学生の時の瑛の部屋にも仕掛けていたね」
「ちょっとまて。今、すごく嫌な考えが浮かんだんだけど・・・」
「ビンゴだと思う。社宅に入る前のことだから、もう確かめようがないけどね」
大学に進学した当時、不思議に思ったことがあった。
大我にそそのかされて大学の近くで独り暮らしを始めたいと瑛が言い出した時、かなり過保護だと思っていた母親があっさり許可したのだ。
瑛はもちろん、蜂谷も拍子抜けした。
その理由がまさか・・・。
「大我専用のヤリ部屋になるってわかっていたんだね。と言うか、お膳立てしたんだよ。さあどうぞうちの子と存分にって」
そして、すべての記録を録っていた。
「・・・胸糞悪い」
「ああ、そうだね。今ほどの機能はないにしても監視システムはぬかりなく・・・」
「それ以上言わないでくれ、宮坂さん」
「・・そうだね。ごめん」
しかし、それほどまで環境を整えたにもかかわらず、瑛は変転しなかった。
二人がどれほど関係を持っても、ベータのセックスのままだ。
年齢的に機能が発達していないのかと様子を伺うなか、大我はつがいに出会い、あっさり渡米したきり帰ってこない。
おそらく彼らは瑛を監視するのと同じく、大我の動向も探っていたはずだ。
オメガの気性の荒さと気まぐれぶりは、バース研究をしている筒井氏ならばつかんでいただろう。
良い遺伝子の子供に恵まれなければ簡単に破綻することも。
だから、機会を狙い続けた。
大我が自由になる時を。
そして、瑛が成熟する時を。
しかし待てど暮らせど事態が好転することないばかりか、瑛は気が付けば二十五歳になっていた。
生殖機能の点から予想して変転のタイムリミットは三十歳。
俗にいう『美貌の劣化』を危惧した。
しびれを切らした彼らは、策をねりに練った。
そして、もう一度二人を引き合わせることがトリガーになるのではと思いついたのだ。
早速小細工を施している真っ只中、事が起きた。
貴種のオメガの大量殺人。
そして、狙い通りに大我はパートナーを失った。
これは運命なのか。
それとも。
「そもそも・・・。今日のあの時間、なんで大我はあの場所にいたんだろうね」
カードに瑛の近況は一切書かれていない。
あるのは住所だけ。
それなのに、瑛の仕事場の近くの公園に現れた。
それも、絶妙なタイミングで。
「ロマンチックだよね。桜吹雪の中、初恋の人との再会」
まるでドラマの中のように。
「感涙ものの演出だね」
心底楽し気に宮坂は笑う。
「僕が見事にぶち壊してやったけど」
彼は、道化を演じ予定されていた茶番劇を一気にひっくり返した。
「誰にはめられたか大我はよおくご存じだろうから、この後が見ものだね」
怒り狂った獅子は呪術者にとびかかるだろう。
「この際、あいつらを蹴散らしてくれたら万々歳なんだけどなあ」
「・・・そう、うまくいくだろうか」
「だよね。あちらの年の功と執念に、僕たち若いのが付け焼刃程度が太刀打ちできるか、微妙なところ」
瑛の中の時計は、大我と別れた時に止まってしまった。
心の奥の奥に住み着いた冷たいものに支配され、悲しみの中に閉じこもっている。
それを溶かしたいと蜂谷は思ったものの、できたことは一つだけだ。
ただ、そばにいる。
居続けるだけ。
気が付いたら六年も経ってしまった。
それでもようやく、瑛の素の部分のようなものが見えてきたような気がする。
薄いベールの奥の奥の、瑛。
臆病で、繊細で、生真面目で、何よりも可愛いくて優しくて綺麗な、瑛。
目をそらして、俯いて、うっすらと頬を染める瑛を見たくて、何度も何度もからかった。
からかっているふりをして、本音を言う。
なあ、瑛。
薫って呼べよ。
その唇で、その瞳で、俺を呼んでくれよ。
そしたらすぐに飛んで行って、抱きしめて。
絶対お前を離さない。
頼むから、俺を呼んでくれ。
「・・・?」
誰かに、呼ばれたような気がした。
「うん?どうしたの?今の痛かった?」
浅利がちらりと目を上げる。
「いえ・・・」
ここは浅利と看護師と瑛の三人だけだ。
診療室の中はとても静かで、扉一枚隔てた廊下の音すら聞こえてこなかった。
「はい、終わりました。ご協力ありがとうございます」
瑛の指先から少量の血液を採取し終わると、手早く処置を施した。
「午前中のお医者さんのところでも血を抜かれたわよね。ごめんなさい」
「ああ・・・。まあいつものことです。あちらは耳からでしたけど」
「耳?ああ、これね・・・」
すい、と手を伸ばして浅利は瑛の耳たぶに触れる。
「なるほど」
軽く指を滑らせたあと、軽くうなずいた。
「・・・はい?」
「あらごめんなさい。筒井先生って学会でお見かけしたことあるのよね。大先輩だから気になって」
「そうなんですか」
「うん、先生のおっしゃる通り貧血はおおむね改善されたようだから大丈夫かな。今日はとりあえず、蜂谷君のところに泊まってね」
さらりと言われて瑛は面食らう。
「・・・え?」
「あら聞いてない?うわ、どうしよう。私が言っていいのかしら」
浅利が珍しく慌てた様子を見せる。
「何のことですか?」
「夏川君。あなたの部屋、上階の水漏れのせいで今夜は入れないらしいの。家財道具全部濡れてしまったわけではないけど、浴室の天井裏にある水道管の修理を今からやるって連絡が入っていたみたいよ」
「え・・・?いったいいつ、そんな・・・」
ほんの一時間ほど前に蜂谷たちと別れた時、そんな話は全くなかった。
居心地の良い部屋だと気に入っていただけに、頭が真っ白になった。
早くあの部屋に帰りたい。
いや、その前にどの程度の被害なのか…。
これからどうなるのか・・・。
何から考えたらいいのかわからない。
「ごめんなさい、無責任なことを言って。あとは蜂谷君たちにいますぐ聞いてちょうだい。私も詳しいことまでわからないの」
「ああ・・・。そうですね。すみません」
「いえ、こちらこそごめんなさいね」
浅利からの謝罪に、瑛は慌ててその場を辞した。
受付で支払いを終えてエレベーターホールに出た瞬間、携帯電話が鳴る。
画面を見ると、母からだった。
「母さん?」
「瑛、えい、どうしましょう」
出てみると、悲鳴のような甲高い声が耳を突き刺す。
「母さん、落ち着いて」
「瑛!ああ、良かった。あなたどこにいるの」
「・・・?会社だけど」
「瑛、お父さんが、お父さんが・・・」
嗚咽交じりのとぎれとぎれの言葉に気が動転した。
「母さん、父さんがどうしたんだ・・・!」
「父さんが、事故に巻き込まれて大変なことに・・・。とにかく、すぐ降りて来てちょうだい。もうタクシーであなたの会社の下にいるの」
「わかった」
何も考えられなかった。
母のただならぬ声に背中を押され、携帯電話を握りしめてエレベーターに飛び乗る。
地上にたどり着くのを扉の上の表示を睨みながらじりじりと待つ。
一瞬、蜂谷と宮坂のことが頭に浮かんだが、正面に停まるタクシーを見た瞬間忘れてしまった。
「瑛!ここよ!乗って!」
母に腕を引かれ、後部座席に乗り込む。
「母さん、いったい、なにが・・・」
勢い込んで問う途中、違和感に口をつぐんだ。
「母さん?」
母は、今まで見たことのない上質なスーツを着ていた。
念入りに施された化粧、艶やかに整えられた髪。
耳も首元も指も手首も、一目で高価とわかるアクセサリーで飾られていた。
それはまるで、どこかのセレブリティの妻のようだ。
これは、いったい。
「・・・では、お願いします」
「はい」
命じられて運転手は静かに発車する。
「母さん・・・」
「瑛、驚いたでしょう。大丈夫。私がついているわ」
ぎゅっと手を握られて、手のひらにちりっと鋭い痛みを感じた。
「いたっ・・・」
思わず振り払って手を見ると、真ん中に小さな赤い点が目に入る。
「ごめんなさい。でもねえ、こうでもしないと、全部台無しになりそうなんだもの」
場違いな柔らかい声に、母を凝視した。
初めて見る、少女のような微笑み。
無邪気で…。
残酷な。
「母さん・・・」
「色々あって疲れたでしょう。眠りなさい、瑛。あとで起こしてあげるから」
この人は、誰だ。
目の前の顔がぶれていく。
「そんな・・・」
身体中の力が抜けていくのがわかるが、どうにもできない。
「はあっ・・・」
つらい。
呼吸の仕方が、わからない。
蜂谷。
はちや。
助けてくれ。
-つづく-
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