『天のかけら地の果実-下巻-』



 昔、クレタ島には途方もなく広大な迷宮が存在した。
 それは、ミノス王と王妃パシパエの行いに激怒した神々の計略により、パシパエが牡牛との間に身ごもり、生まれた長男・ミノタウロスを隠すために造られせたものだった。
 ミノタウロスは半身が牛で、半身が人間。
 獰猛な怪物へと育ってしまった息子に与えるのは、若い男女をそれぞれ七人ずつ。
 当時支配したアテナイに毎年税の一部として生贄を強いた。
 時が経ち、国民と父の苦悩を知ったアテナイのテーセウスが生贄の一人としてクレタ島に潜入し、ミノタウロスを倒すことを試みる。
 アテナイの王子テーセウスはたいそう美しい男だった。
 クレタ島の王女アリアドネは一目で恋に落ちる。
 両親と国を裏切り、兄を殺すことを一切ためらわないほどの激しい恋。
 彼女はひそかにテーセウスに囁いた。
 『私を娶り、クレタ島から連れ出すと約束するならば、あなたを助けます』
 見返りに授けたのは、糸の毬。
 入り口に端を結び付け糸を垂らしながら歩き、帰りはそれを手繰り寄せば無事に生還できる。
 こうして怪物ミノタウロスは退治された。

 やがて、語り継がれることとなった。
 英雄テーセウスの名、怪物ミノタウロス、壮大なラビリンス。
 そして、道しるべの象徴としての『アリアドネの糸』が。

 『アリアドネ』 (ギリシャ神話 参照)


 小さな町の狭い世界で、私たちはヒエラルキーの頂点にいた。
 学生時代、絵にかいたような似合いの二人と周囲からおだてられてその気になって、ずいぶん早くに結婚した。
 思えば、私たちの幸せの絶頂は結婚披露宴だった。
 大勢の親戚や友人たちに祝福され、門出を祝われた。
 おとぎ話なら、めでたしめでたしで終わる。
 幸せで、何もかも輝いて見えた。
 まさか、その後に長い人生が続くとも知らず。


「あのさあ、内田さんってもらわれっ子なんだって。ママに聞いた」
 誰がそう言ったのかは覚えていない。
 どこにでもある、女子高生の仲間内の話題。
 かなり意地の悪い陰口。
 内田治佳。
 地味な同級生。
 背が高くて太り気味で、猫背で俯き加減。夏休みにみんなで遊んだとき、私服姿のイケてなさに心底同情した。これといった欠点はないのでいじめられはしないが、いつもグループの末端で愛想笑いしながら相槌ばかり打っていて、時々見ていてイラついた。
 目障りなものほど、目につくのはなぜだろう。
 すぐに気付いた。彼女は夏川に恋していることを。
 夏川と私は入学してすぐに付き合い始めた。成績上位者で同級生にも人気のある私たちは教師すら認める公認の仲だった。
 だから、私は彼との仲をわざと周囲に見せつけた。
 彼女の悔しそうな視線が快感だった。
 家庭環境が複雑で、幸薄そうな、内田治佳。
 たいして親しくもないから、いつの間にか彼女のことは忘れた。

「ねえねえ、内田さんって覚えてる?C組の内田治佳さん。あの人、今すごい暮らしをしていたのよ、驚いたわ」
 久々に同窓会に出てみたら、一番最初の話題がそれだった。
「・・・内田さん?」
 覚えていないのは私だけではなかった。
 幾人かが首をかしげる中、幹事の一人が興奮気味に続けた。
「なんと大手食品会社の創業者一族のお嫁さんになっていたの!この間テレビ番組でお金持ちのお宅拝見っていうのがあって、それに出ていたのよ。とても素敵な旦那さんとキッズモデルもやってるお子さんたちに囲まれて、すごくキラキラした奥様で、ついつい全部見ちゃったの。最初は内田さんってわからなかったんだけど、名前の漢字と読みが独特でしょ。妙に引っかかって検索したらビンゴだったの」
 その後つてをたどって連絡先を突き止め、同窓会の招待状を送ってみたという。
「だからね。今日来てくれるのよ、すごいでしょう!」
 まるで、サプライズゲストを呼んだかのような様子に、呆れた。あの人が玉の輿に乗ったからってどうだっていうんだろう。しかしその直後に起きた周囲のざわめきに、自分の認識が甘かったことを知る。
「すごい・・・」
「あれが、内田さん?」
 小さく漏れる、感嘆の声。
 視線の集まる先をたどって息が止まった。
 内田治佳。
 彼女は全くの別人へと姿を変えていた。
 高すぎた身長は背筋をまっすぐに伸ばすと逆に長い手足を強調することになり、程よくバランスの良い体と手入れの行き届いた肌と身にまとった高級な衣装で輝き、実際の年齢よりずっと若く見える。
 金の力にあかせて多少整形したとして、それがどうだというのだ。誰にも何も言わせないだけの完璧な美を、彼女は手に入れていた。
 芋虫が蛹となり孵化して蝶になる。
 それを体現したのだと、誰もが思った。

「小杉さん、結婚して何年経つの?」
 旧姓で呼ばれてはっとする。
 同窓会の後、なぜか自分だけ誘われてホテルのラウンジにいた。
「大学卒業してわりとすぐだったからもう十年くらいね」
 内田治佳。
 いや、もう違う。御曹司の苗字はなんだか由緒ありげな響きだった。
「そうなの・・・。高校から今までずっと二人だなんて・・・すごいわね」
 心底感心しているふりをしているのは見え見えだ。あからさまな揶揄を感じ取り、不快になった。
 夏川と結婚して十年以上経ったけれど、子供がいまだに授からない。三年目を過ぎると周りにせかされて、しぶしぶ不妊治療を始めた。
 最初は病院へ行きさえすればすぐに解決すると思っていたのに、それは出口の見えない迷宮に入っただけだった。
 これといった原因がないのだ。
 いくつも病院を変えて、治療法も変えて、薬も、子宝祈願も、体質改善も、少しでも良いと言われることは何でも試した。
 だけど、うまくいかない。
 度重なる治療と流産に体調を崩し、正規で働いていた仕事をやめたが生活のためにパートに出ている。
 つぎ込めるだけのお金をつぎ込み、貯金はもう底をついた。
 まるで、賭け事にはまっているみたいだ。
 今度こそ、今度こそと挑むたびに私たちは何かを失っていった。
 処方される薬の副作用のせいで身体は膨れ上がり肌も荒れ、外見はみるからに衰えた。
 死にかけの野良猫みたいな私から目をそらす夫。
 続かない会話。
 いつのまにか分かれた寝室。
 私たちはこんなにボロボロになっているのに、周りは言う。

 子供はまだ?
 子供がいて、一人前。
 子供がいないからわからないのよ。

 長い春だねとも言われるが、もうそんなものどこにもない。
 ただひたすら、生殖だけを考え続けた日々。
 恋も愛も枯れ果てて。
 残されたのは意地だけだった。
 だから。
 私たちは、誰よりも、幸せであらねばならない。

「私、むかし夏川君が好きだったなあ」
 目を向けると、手を口元で組み合わせて彼女が笑う。専属のネイリストにケアされて綺麗に塗られた爪。家事なんて一切していない細くて長い指。夫の会社の役員報酬で贅沢三昧だと、誰かがうらやまし気にため息をついていたのを思い出す。
「顔だったのかな、身長が高いところだったのかな。理由はもう覚えていないけれど、あの頃とにかく好きで好きで。それで小杉さんに嫉妬して勉強も手につかなくて成績もガタ落ちして、両親からは責められてさんざんな毎日だったな」
 そんなに楽しそうに語ることだろうか。
 遠い思い出話だから?
「でも、彼に相手にされなかったり学校にも家庭にもなじめなかった原因も、大人になってわかったわ」
 人影に紛れていつもこっそり私たちを見ていた同級生。
 同じ人のはずなのに、何もかも変わってしまった。
 高校生時代と今の違いはいったい何だろう。
「だって、所詮はあなたたちベータだものね」
 今、この人は何て言った。
 ベータ?
 だから何?
「実は私・・・」
 ちらりと周囲を見回し、声を落として囁いた。
「オメガだったの」
 どんなに抑えていても、勝ち誇った気持ちはあふれ出す。
「とても優良な遺伝子を持っていると解って、人生が一転したわ」
 シンデレラにはガラスの靴を。
 白雪姫と眠り姫には王子のキスを。
 親指姫には…。
 数え上げたらきりのない、つまらない結末。
 なんてくだらない。
「夫の一族はもちろん子供たちも、アルファで」
 ああ、もう聞きたくないのに。
「今、とても幸せなの。ここが私の居場所だったって」
 ようやく気付いた。
 彼女は、このために現れた。
 私の息の根を止めるために。

 アヒルの群に紛れ込んだ白鳥は、結局仲間になることはなかった。
 いつか己の本質と優位性に気付き、古巣を捨てて旅立つだろう。

 あの後。
 どう返事して、彼女と別れたか思い出せない。
 ただ、家に帰り着いて、力いっぱいバッグを投げつけたところからは記憶がある。
 ちいさなバッグの口が開いて、中身が床に散らばった。
 その時に、内田治佳からもらった名刺がふわりと飛んでつま先にあたる。
 洗練されたデザインで丁寧に箔押しされたそれは、裏に役員として在籍している会社の連絡先まで明記されていた。

 また会いましょう。
 東京に出てきたら連絡してね。

 そんなつもりはこれっぼっちもないくせに。
 成功のあかしを私と夏川に見せつけたいだけだ。
 拾って破り捨てようとしたその時、ふと、ひらめいた。
 家族に大切にされていないもらわれっ子。
 オメガ。
 社会的優位性。
 変転して、出世した今。
  オメガバースの世界の掟などしらない。
 だけど、人間のことなら多少はわかる。
 この長い間、闇ばかり見つめてきた。
 だから。
 これは直感だ。

 優性階級の家に生まれたベータの赤ん坊は、捨てられる?

 実際、彼女が自慢した子供たちはみなアルファだった。
 でも、もしベータの子が生れたなら。
 子供を捨てるなんて、有り得ない。
 私なら喉から手が出るほど欲しい。
 だけど、優位性が矜持の彼らなら・・・。
 闇に葬りかねない。
 もはや、これは確信だった。
 内田治佳の名刺をテーブルに置き、そして財布の中から一枚の診察券を取り出して並べた。
 数日前に、門戸を叩いた不妊治療のクリニック。一通りの診察を終えて、院長がぽつりと言った。
「夏川さん。あなた、まだ若いけれど、さんざん治療してもう疲れたでしょう。正直なところ、あなたの子宮はぼろぼろだ」
 カルテを眺めながら彼は続けた。
「どうだろう。養子を迎えるという道を考えたことは?」
 それは、衝撃だった。
 いきなり殴られたようなものだ。
 言葉の意味をようやく理解した瞬間、女としてもう駄目だと言われたのも同然だと、腹が立った。
「ああ、私の言い方が悪かったね。でも、そういう選択肢も今のうちに考えた方が良いと、あえて言わせてもらいますよ」
 そして、彼はゆるりと笑った。
「ここに来る患者さんみんなに言っているわけではありませんよ?ただ、夏川さんならと思って」
 怒りで震える私に、彼は囁く。
「治療をちょっと休憩している間に、とりあえず、ひとりいたら気が楽になるんじゃないかなと私は思うんだけどな」
 暗くて、甘い。
「欲しいなと、思いませんか?可愛くて、賢い子供」
 とろりと、耳の奥にたまっていく毒。
「誰もがうらやましいと思うような、綺麗な赤ちゃん」
 何もかもお見通しだったのだ。
「しかも、生まれたてを手に入れて実子として届ける手立てを我々がご用意しますと、言ったら、どうします?」

 蛇が囁く。 どうして、お前はこのうまそうな果実を口にしない?と。

 受話器を取り上げ、一つ、一つと、ダイヤルボタンを押す。
 あっという間に回線は繋がり、あの医師が電話口に出た。
「きっと、ご連絡いただけると思っていましたよ」
 何もかも、お見通しだ。
「あの・・・」
 声を絞り出す。
 私は今、闇の中に手を伸ばしている。
 真っ黒で、不確かな、それ。
 だけど、欲しい。
 存在意義を。
 そして、称賛を。
「・・・私は、何をすれば」
 深い、深い、奈落を覗き込む。
 奥底から甘い香りがたちのぼった。
 ああ、私が探していたのはこれだ。
 掴んだ果実を夢中で貪った。

 私が。
 私こそが、白鳥になるために。


「母さん・・・」
 苦しそうに胸を抑え、目の前の青年が苦しい息の下で懸命に何かを言おうとしている。
 こんな時でも、彼はとてもとても美しい。
 美しければ美しいほど、憎くなる。
 どうしてこの子は、こんなにも。
「瑛」
 おとぎ話で継娘を虐げる女たちの気持ちはこんなものだったのだろうか。
 幼子のころは自慢に思ったかもしれない。
 愛らしい子供はアクセサリーにもなる。
 ただ連れて歩くだけで、非の打ち所のない幸せな女に見られた。
 だけど、周囲から羨ましがられるうちにだんだんと心の奥におりのようなものがたまっていく。
 この子が、美しすぎるから。
 この子は所詮、わが子でないから。
 風景のすべてが真っ黒に塗りつぶされていく。
 月日が経つごとに何もかもが衰え、私はどんどん老いていくのに。
 この子ときたら、まるで宝石を磨いているかのようにますます輝いていく。
 心も身体も綺麗な人間だなんておとぎ話にすぎないと思っていた。
 なのにどうしてこの子は。
「瑛」
 かわいい、瑛。
 大切な、私の息子。
 あなたを初めて腕に抱いたときの感動は今も覚えている。
 小さな、小さな頼りないからだ。
 なのに、驚くほどの重みと熱。
 甘い吐息、柔らかな頬。
 赤ん坊が生きていることの愛おしさと幸せをかみしめた。
 なのに。
 今は。
 苦しめたくて仕方がない。
「眠りなさい、眠ってしまうのよ」
 眠っている間に、すべては終わっているから。
 すべて、うまくいくから。

 あなたは、鍵。
 楽園への扉を開くための。


「瑛が拉致された」
「え・・・」
 一瞬、目の前が真っ暗になった。
 瑛の検診が終わるのを仕事の山を捌きながら待っていたがなかなか戻って来ず、やがて浅利から話があるので先日使った会議室で待機してくれと連絡が来た。
 いやな予感がよぎるが、待つしかない。
 しかし、いったん席を外していた宮坂が戻るなり爆弾を落とした。
「間違いなく、犯人は母親だと思う。先客がすでにいるタクシーに乗り込む瑛が目撃されているから」
 たんたんと、彼は事実だけを述べる。
 でも。
「・・・っ!」
 とても聞いていられなかった。
 椅子から立ち上がり、発作的に外へ向かおうとする蜂谷の腕を宮坂が掴んだ。
「蜂谷落ち着いて。行先はすぐに分かるから」
「すぐに…って、それじゃあ遅い」
 今まさに、瑛の身に危険が及んでいるのに。
 振りほどこうとしたが、意外にも彼の力は強かった。
「宮坂さん!」
 焦りだけに支配される。
 身体中が沸騰しそうに熱い。
「ねえ蜂谷。・・・君さあ。前から気付いていたよね」
 漆黒の瞳に強い光が宿った。
 深い闇の、奥の奥から放たれる強い光。
「・・・」
 何を言い出すのか見当はついていてた。
 答えたくない。
 だけど、逆らうことは不可能に近い。
 この瞳の力。
 なぜなら。 
「瑛がゴールドだって」
「・・・あなたがそれを言いますか」
 視線一つでたやすく人をねじ伏せ、意のままに操る。
 これこそが、オメガバース。
 そして。
「阿野家の『火真礼(ほまれ)』が」
 ゴールドの至宝。

「うわ、久々に聞いたな、そのフレーズ」
 大げさに驚いて見せるあたり、宮坂にとってたいした事実ではないのだ。
 現在、日本のゴールドの頂点は阿野家と言われる。
 アルファもオメガも最高の特質を誇り、アジアの影の帝王とも囁かれ、厳重な警備が張り巡らされ全容は容易に知ることができない。
 ただ、蜂谷でも知っていることが一つだけあった。
『火真礼』は奇跡の子に付ける名だ。
 生まれ落ちたその瞬間から最高級のゴールドだという印。
「まあ、ばれているとは思っていたけどね」
 にい、と薄い唇を吊り上げ、笑みの形を作るが、眼光の強さはそのままだ。
「わからなきゃ馬鹿でしょう。こんなに派手な金色のオーラまとっていて」
 大学の先輩に紹介されてこのオフィスに来て、一目見てわかった。
 宮坂誉は古代から脈々と受け継がれる名家のゴールドだと。
 改姓し戸籍も変えているようだが、阿野家の本筋に違いないとあたりをつけていた。
「馬鹿かあ、そうだよねえ普通」
「・・・大我ですか」
「うん、そう」
 彼は幸か不幸か感度の低いアルファだと思う。
 血統はれっきとしたシルバー。グレードもオーラから見て間違いない。なのに、同族に対する感度が致命的に低すぎる。名門に生まれた安心感からなのか、脇の甘いおぼっちゃんだなとつくづく呆れた。
 未成熟の瑛に気付かないのは仕方ないとしても、宮坂のことも全く気付かなかった。
 そもそも昼間に話を交わして、こちらがオメガバースの情報に精通しているのは宮坂が特性を持っているからに他ならないとなぜ思わないのか、不思議で仕方ない。
「まあ、ベータとどれだけ隔絶していたかよくわかるかな。だから立て続けに振られちゃうし、嵌められたんだろうね、彼は」
 それでも、楽しそうに笑う宮坂の様子にふと引っかかるものがあったが、今はそれどころではない。
「ところで、瑛のことなんだけど」
 蜂谷の様子を察した宮坂は、居住まいを正した。
「はい」
「瑛は大丈夫。覚醒さえしてしまえば、腐ってもゴールドだから」
 母親に拉致された理由は一つしかない。
 このままでは、どこかで大我と強制的に性交させられるのは目に見えている。
「詳しくはまだ言えないけれど、ゴールドの力は絶対だから。とくにオメガはね」
「絶対?」
「欲しい、と思ったら絶対手に入れるし、こいつは嫌だと思ったら命を懸けても拒絶する」
 同じオメガバースでも、各グレードの特性はそれに属した者にしかわからない。
 身分意識の強さが災いして隔絶しているのが理由だが、それが武器にもなるからだ。
「だから、瑛は大丈夫だと?」
「そう。瑛が大我を欲しいと思ったなら話は別だけどね」
 いきなり、ぐさりと胸を突き刺された。
 ・・・どうしてこの人は。
「あ、ごめん。たぶん大丈夫だから。うん。そろそろ美津から回答くると思うし」
「たぶん・・・ですよね」
「うん、いや、絶対?だってね、オメガの怖さは僕も身に染みているからさ」
 この人をもってしても、怖いというのか。
「何が怖いってさ」
 ふいに顔を近づけて囁いた。
「あれとのセックスは恐ろしいよ?貪欲なんてものじゃない。交わったら最後、それしかなくなって、枯れ果ててもさらに搾り取られる」
「・・・っ」
「気持ちよすぎるのも、・・・地獄だよ」
 吐息だけで告げて、宮坂は微笑んだ。

 オメガバースは繁殖のための特異体質だ。
 すべての行動意義は所詮、良い遺伝子を生み出すため。
 アルファは日常生活ではベータを凌駕する様々な能力を発揮し、天界の住人にも等しく思われるが、実情は獣により近い本能に突き動かされ続ける生き物だ。
 心は置き去りに、条件が合致すればつがいとひたすらセックスに没頭する以外ない。
 快楽なんて、神がせめてもの慰めに与えた麻薬に過ぎない。
 そして、長く続く交接は確実に心身にダメージを与える。
 死なんて、珍しくない。
 アルファもオメガもぼろぼろになって、ベータよりも早くに寿命を終える。
 それはまさに、昆虫の交尾そのものだ。
 
 しんと、空気の冷えた室内にいきなり飛び込んできたのは浅利だった。
「お待たせしました。行先は日本橋の外資系ホテルね。部屋の位置も確認済みよ」
 入るなり報告を始めた彼女は、いくつかの証拠書類を二人の前に並べた。
「マンションではなく?」
「オーナーは誰も貸さないわよ。事故物件になるってわかっているのに何を好き好んで」
 相変わらずさらりと恐ろしいことを言ってくれる。
「まあ、タワマンだと意外と壁薄いしね・・・」
 いったい何を予測してのことなのか、蜂谷はため息をついた。
「とにかくその部屋ならこちらも監視しやすいから提供してもらったの。こちら側とあちら側。誘導合戦もいいところね。とりあえず、公安もマークしているから」
「・・・公安、も?」
 たまりかねて問うと、二人は口元だけの笑みを返した。
「もう薄々わかっているかと思うけど、まあ、そんなとこ」
 夏川瑛が、色々な機関の注目を浴びている。
「これが、ゴールドの力の一つよ。何しろ全世界の宝だからね、女王蜂は」
 瑛は必ず守られるということは理解できた。
 だけど、それは。
「蜂谷。今更だけど、覚悟がないならここで抜けてくれていいんだよ。誰も非難しない」
 瑛が遠く離れていくことを意味する。
 瑛は無事だ。
 だけど、次に会うときは。
 そもそも、会わせてもらえるかもわからない。
 それが、オメガバースの階級制度だ。
 でも、そんなことはわかっていた。
 覚醒したあの時から。
「覚悟なんて。今更じゃないですか」
 ブロンズの自分が、ゴールドの瑛に恋してしまったあの瞬間から。
「あはは。まあそうだね。愚問か」
「そっちこそ、ブロンズの俺をわざわざそばに置いていたのは、今日のことを予測していたからじゃないんですか」

 入学式の夜、蜂谷は高熱を出して寝込んだ。
 三日三晩うなされた挙句、目覚めた時には体質が変わっていた。
 平凡なベータから、希少なアルファへと。
 数値はぐんと跳ね上がり、ブロンズクラスではあるが限りなくシルバーに近いステータスとなった。
 少しルーツをたどればシルバーが幾人か存在するゆえに半ば予測されていたことだったため、家族も自分も驚かなかった。
 そもそも、オメガバースに対する嗅覚が鋭すぎる。
 ベータであり続けたほうが奇跡だ。
 もちろん、引き金は瑛。
 ただただ、瑛に惹かれたら身体が変わってしまった。

「うんまあね。ブロンズの人たちとも僕、結構交流あるから。というか、君のお父さんともけっこう親密なお友達?」
「・・・それ、早く言ってくださいよ・・・・」
 それはさすがに蜂谷も気付かなかった。
 何もかも父親に筒抜けだなんて、恥ずかしすぎて発狂しそうだ。
「いや、君があんまり自分のこと話したくないみたいだったから、まあ、時が来たら風呂敷ぜんぶ広げて回収しようかと」
「・・・じゃあ、回収されついでに確認していいですか」
 これは、切り札だ。
 これからにつなげるための。
「浅利先生」
「はい?」
 パンドラの箱を開く。
 それがたとえ、己の命と引き換えになるとしても。
「あなた、『御津(みつ)』さんですね?」
「・・・あらあ」
 浅利の瞳の色合いが変わる。
 肌からたちのぼる金色の『気』。
 『美津』と『御津』。
 『誉』と『火真礼』。
 同じ音の中に、大きな秘密を隠し持つ。
「『阿野火真礼』と姉弟のように親しくできるバース性の人はそういません。どうしても力負けしますから。同等、もしくはそれに近いとなると、野宮家の『御津』だと思いました」
 野宮家は戦国時代に阿野家から分家した家柄だ。
 その中で最高峰の印が『御津』ということは、宮坂のことを調べているうちに知った。
 そこから推測したのは、宮坂と同じく改姓していることと、あと。
「前々から聞きたかったのですが」
 もう、こうなったら皿まで食らわねばならない。
「宮坂さん、浅利さん、俺には確信がないから尋ねます」
 どんなに言葉を選んでも、興味本位ととられかねないことは重々承知だ。
 好奇心がないと言えば嘘になる。
 目の前にあるのは未知の世界なのだから。
「あなたたち、どちらですか?」
 覗いて、触れずにはいられない。
「それとも、どちらも、ですか?」
 箱の奥底のさらに奥を。
「あらまあ・・・」
 浅利美津は、のどかに笑う。
「さすがは、蜂谷さんの秘蔵の息子さんだこと」
 しかし、この瞬間に全てが変わったことを蜂谷は感じた。
 自分を取り巻く空気が、たちこめる香りが、そして、二人の瞳が。
「でも」
 き・・・ん、と高い音が部屋の中を駆け巡り、鼓膜を容赦なく突き刺す。
 目の前にいるのは、最高で最強の遺伝子保持者たち。
「雉も鳴かずばって、知らないの?」
 虎の尾を踏んだ。
「・・・御津さん」
 強すぎる光は、時として。
 

 最上級の人間には、最上級のもてなしを。
 そうでない者にはそれなりに。
 財力次第で、人はいくらでも変わる。
 自分も、他人も。
 それを目の当たりにしたのはいつのことだったか。
「なかなかの眺めだろう」
 満足げな声を背に受けながら、窓の外を見つめた。
 下界を見下ろす天界人の気分はこんな感じだろうか。
 はるか下に広がる東京の街、そして海。
「そうね」
 世界的に指折りの高級ホテルの、貴賓室ともいえる部屋。
 値段なんて見当もつかない。
 最高のしつらえのこの場所で、私たちのたくらみは着々と進んでいく。
「う・・・」
 小さいうめき声が聞こえた。
 振り向くと、ベッドの真ん中に転がされた青年の身体に男たちが群がり、何事か処置しているのが目に入る。
 血を抜いてみたり、何かの液体を注入してみたり。
 最新鋭の機器でなんらかの数値を検出してみたり。
「予定通り終わりました」
 大掛かりで無粋な機材を片付けて、男たちは退室し始めた。
「ああ、ご苦労さま。これからが本番だ。しっかり頼むよ」
「はい、我々も楽しみにしています」
 いちいち何をしているかなんて聞かない。
 最初から、知ろうとしなかった。
 いや、深入りしないと決めたのだ。
 この子を、養子として斡旋されたその時から。
「・・・で、うまくいきそうなの?」
 息のかかる距離まで顔を寄せて来た男に尋ねた。
「そうだな。幸運なことにあと一押しと言ったところにこぎつけた」
 彼の手からシャンパングラスを受け取る。
「あの、御曹司のおかげね」
「ああ。シルバーは実に扱いやすくて助かる」

 畜産家は生まれてきた子豚に名前なんて付けない。
 なぜなら、いずれ生きる糧にするからだ。
 家畜は屠られる運命。
 生まれ落ちたその瞬間から、決まっていたこと。

「さあ、乾杯しよう」
「ええ」
 グラスを合わせ飲み干した後、顔を寄せてシャンパンの吐息を絡めあう。
 これは、契約の印。
「成功を祈りましょう」
 勝利の予感に、笑いが止まらない。
 出会って二十五年。
 私たちは最高のパートナーだ。
 

 ずっと、薄い布に守られていたような気がする。
 大事に、大事にくるまれて。
 やわらかな声が耳に残る。
「かわいい、かわいい、わたしのぼうや、わたしのたからもの」
 撫でられて、口づけされて。
 くすぐったくてわらった。
「どうかしあわせに」
 やすらかな匂い。
 そして、一滴の涙。
「さようなら」
 白い世界に取り残された。


 とろとろと夢とうつつの間をさまよう。
 ほんの少し前までは幸せだったような気がする。
 白くて、柔らかで温かかった。
 だけど、今は違う。
 どす黒い膜に閉ざされている。
 重くて、臭くて。
 まるでヘドロの中にいるようだ。
 たくさんの、不快な感触。
 気持ち悪くて、背筋が冷たくなる。
 払いのけたいのに身体が動かない。
 腐った何かのような匂いに囲まれて、吐き気がした。
 そして、とぎれとぎれに聞こえる声。
「・・・で、うまく・・・なの?」
「ああ、シルバーは・・・」
 かあさん。
 そばにいるならなぜ。
 そして。
「乾杯しよう」
 なぜ。
 なぜ、あなたたちは。
 叫ぼうとすると、強い力に引っ張られた。
 悲鳴すら呑み込まれ、息もできない。
 身体を支えていたはずの空間がいきなりなくなった。
 落ちる、落ちる。
 ただただ、落ちていくという感覚に襲われた。
 もがいても、もがいても、どうにもならない。
 ぽっかりと開いた奈落の底めがけて、真っ逆さまに落ちていく。
 
「・・・っ」
 底なしの、暗闇。
 何も見えない。
 自分と周囲の境目さえも分からない。
 闇の中に取り込まれる恐怖に、ひたすらおびえる。
 自分は、人なのだろうか。
 自分は、生き物なのだろうか。
 これは現実なのか。
 夢?
 ゆめなら、自分はいったい、何なのか。
 狂ってしまったのだろうか。
 正常ってなに?
 息をしているのか。
 もう死んだのか。
 そもそも、自分は生きていたのか。
 自分って?
 怖い。
 とても怖い。
 何もかも怖い。
 どうすれば、この恐怖から逃れられる。
「うわああああーっ!」
 声の限りに叫んだ。
 その瞬間、まるで雷が落ちたかのような強い光がすべてを照らし尽くす。
「は・・・・」
 とても、眼を開けてはいられない。
 真っ黒な奈落が光の空間に変わっただけだ。
 だけど。
 喉を震わせて音を作れたし、耳の鼓膜に響いた。
 生きている。
 まだ、生きている。
 安心した途端に、力が抜ける。
 そして、光りの中に溶けていった。
 身体も、意識も。


 遠くから歌が聞こえた。
 ゆったりとした旋律。
 かすかな声。
 ひとつひとつに愛情がこめられているであろう歌詞は、不可思議な音の羅列だった。
 一つの音が耳に届くたび、薄い布が一枚。
 また届くと、また一枚。
 やわらかな守りが全身を包んでいく。
「オシマイ」
 旋律が途切れ、呟きが落ちた。
 それは不自然な響きで。
 そして。
「サ・・・カ、サマ?」
 扉が閉まる。
 かちりと錠が施された音が頭の奥に響いた。


 熱い。
 身体の奥が熱い。
 最初は腹の中心の、深い深い奥底にまるで小さな焼石を呑み込まされたように感じた。
 だけど、それがだんだんと広がっていく。
 まるでそれは全身に枝を伸ばしていくように。
 風に揺られながらも蔓を伸ばす蔦が脳裏に浮かんだ瞬間、思い出す。
 前に見た悪夢を。
 腹の中心から植物が伸びて、やがて・・・。
 じぶんは、ひとではないのか。
 ひとでないなら、なんなのか。
 目から涙が流れ落ちる。
 頬を伝うそれさえも芽吹いて葉を開く感覚に、恐ろしさと絶望で震える。
 なぜこのようなことに。
 どうしてじぶんは。
 思い惑うなか、そよ、と風が優しく吹いて身体を包み込む。
 息を吸い込むと、かすかなにおいを感じた。

 木の幹。
 青々とした葉の、生きた香り。
 まるでそれは、土に根を張り、陽の光を糧とするものの香り。

 乱れていた胸の内がだんだんとなだらかになっていく。
 怯えるしかないのか。
 嘆くしかないのか。
 いや、ちがう。
 見上げた先に広がるのは白い光に満ちた天。
 何もない、虚空。
 害をなすわけでも、守ってくれているわけでもなく、ただあるだけのいま。
 考えろ。
 これからの先を。
 今を受け入れて、進め。
 目を閉じると、気の流れを感じた。
 そして、あの香りも。
 深呼吸を一つ、二つ、三つ。
 焼けつくような感覚はまだ残っているけれど、もう怖くはない。
 思い出すのは、旋律。
 そして、やわらかな、たどたどしい言葉。
 オシマイ。
 サカサマ。
「さかさま?」
 これはアリアドネの糸だ。
 この、迷宮を出るための。
 音を辿って、出口を探す。
 最後の音は・・・。
 それから、次は。


「・・・っ!」
 一番に目に入ったのは、白い天井。
 そしてぼんやりとした灯り。
 背中を支えるのはやわらかなクッション素材。
 頬に触れるのはなめらかで心地よいシーツ。
 ただっ広いベッドに横たわっていたのだと知った。
 見渡せば、家具の配置が夢うつつのなかで見た部屋に似ている。
 あの時。
 母が、見慣れない上等なスーツを着た母がシャンパングラスを片手に・・・。
 筒井医師と。
「かあ・・・」
 起き上がろうとしたがいきなり強い力で腕を引かれ、ベッドの中に沈められた。
「な・・・に・・・?」
 見上げた先には、大我。
 痣になりそうなほど腕を握り込まれ、痛みに思わず顔をゆがめた。
 夢ではない。
 現実だ。
「大我・・・。いったい」
 贅沢な空間、広すぎるベッド。
 腹の上に馬乗りになっているのは、つい昼間に再会して別れたはずの志村大我。
「オメガ」
 くぐもった声。
「お前、オメガだったんだな、瑛」
 灯りを背にしてうっすらと彼が笑ったのを感じた。
 これは、誰だ。
「オメガって・・・」
 アルファの子を産む特性。
 それがいったいどうした。
「とぼけるなよ、これだけの匂いを駄々洩れにして。お前いまヒートだろう。ホテルに入った瞬間からわかったぞ」
 オメガ。
 ロスでの大量殺人。
 ヒート。
 誰かの口から出た言葉が切れ切れになって行き交う。
 でも、何の話なのか理解できない。
「どうりで何度も抱きたいと思ったわけだ」
 ぐにゃりとひしゃげた音と、下卑た嗤い。
 わからない。
 この重みも痛みも声も、大我だと思うのに、どこかおかしい。
 大我のはずなのに、大我ではないと頭の奥で警鐘が鳴る。
「お前も、抱かれたいだろう?この俺に」
 襟元からカッターシャツを力任せに開かれ、ボタンが飛ぶ。
 アンダーシャツも首の上までまくり上げられて、胸があらわになる。
 喉の奥で笑いながら胸の先をいじられ、背筋が震えた。
 じっとりと汗ばんだ手のひら。
「・・・あいかわらず、男を誘う身体しているよな、お前」
 こういう物言いをする男だった。
 あの頃も、こんな感じのことを何度も言われた。
 だけど、どこか上滑りで。
 現実を疑う間に、大我はあっという間にスラックスも脱がされてしまった。
 ここにきてようやく目が部屋の薄暗さに慣れてくる。
「あっつ・・・」
 大我自ら服を脱ぎ始めた。
 まるで巨匠に彫られた大理石の像のような、見事なバランスの肉体があらわになる。
 しかし、何の感慨も持てない。
 ああ、これが世界でトップクラスのモデルの身体かと、こんな状況にもかかわらずのんきに感心してしまった。
 そもそも、昔の大我はいきなり最初から脱ぐ男ではなかった。
 たいてい、ほんの少し前をくつろげただけで慌ただしく行為をし、気が済んだらすぐにいなくなっていた。
 あくまでも、瑛は精処理の道具だった。
 それは、大我の瑛に対する戒めでもあった。
 期待するな。
 お前ははけ口に過ぎない、と。
 さんざん身体を繋げていたのに、全裸を見たことなんて数えるくらいだ。
「・・・大我?」
 変じゃないか。
 大我は今、かつてなく汗をかいている。
 しかし暖房はさほどきいていない。
 全裸にされている瑛には寒いくらいだ。
 そして。
「大我」
「なんだ」
「タトゥーいれたのか?」
 尋ねると、大我はふっと息で笑った。
「見えるか」
「ああ・・・。だけど」
 よくよく見たら、左右の胸からそれぞれの肩を通って手頸そして腰にかけてペインティングされていることに気付いた。
 まるで、ヨーロッパの中世の貴族が身にまとう高価な織物のような緻密で優雅な画。
 海外のスポーツ選手ならよくあちこちにタトゥーを入れているのをよく見かける。
 けっして珍しいことではない。
 だけど、モデルの仕事には邪魔になることもあるだろう。
 それに。
「光の加減なのか?こんな色のタトゥーを俺は見たことがない」
 白銀に光っているようにも見えるのだ。
 丹念に描かれた見事な線画が光を放って浮かび上がる。
 そしてそれは、大我の呼吸に合わせて瞬いているようにも感じた。

 前にもこんな感じのものをどこかで見た気がする。
 だけど、それはまた違う色で。

「これこそが、お前がオメガだという証拠だ」
 誇らしげに、自らの胸元を手で辿ってみせる。
「初めてだろう。お前がこれを見るの」
「ああ・・・。たぶん」
「お前に俺たちについての知識があるはずもないし、自分がオメガだというのも信じられないようだから教えてやる。俺たちとベータの違いはこの印が出るか否か、そして見えるか否かだ。ヒートが始まったオメガの匂いを嗅いだら反応して肌に文様が出る。卵子が成熟したオメガ自身ももちろんそうだ」
 説明を聞いているうちに、瑛はその模様から大我の匂いが沸き立っているのが見たような錯覚を覚えた。
 この匂いは知っている。
 懐かしい。
 だけど、どこか違う気もする。
「昔のお前を何度抱いてもこれは出なかった。だけどどうだ。今はこんなにはっきり出ている」
「でも、おれは・・・」
 夢の中で全身が草に覆われたのを覚えている。
 だけど今、肌の上にはなんの変化も起きていない。
「ああ。お前はまだ全く出ていないな。でも、これほどの匂いがするならもう間違いない。必ずお前はオメガに変転する。俺が変えてやるよ」
 笑いながら大我が覆いかぶさってきた。


「瑛・・・」
 息が、肌にかかる。
 両膝をつかまれて開かれ、彼の身体が割って入る。
 天に向かってそそり立つ大我の性器。
 強く抱き込まれた時に腹に当たって、先に行こうと主張する。
 その気になれと促され、とまどう。
「あのさ・・・」
 自分でも驚くくらいクリアで普通の声が出た。
 この期に及んでも、茶番にしか思えない。
 好きだった男が、かつてなく自分に興奮している。
 しかし十代のころならともかく、二十半ばを過ぎて男臭くなったこの自分のどこが気に入っているのが。
 そういえば、オメガになるのだと言われた。
 なら、彼の愛情を受ける権利が出来たとでも言うのか?
 でも、オメガってなんだ。
 自分は何一つ変わっていないのに。
「瑛、なんで」
 責めるような声色の理由は、冷めきった自分に対するもの。
 どこをどんなに弄られても、何も感じない。
 寒い。
 触れている大我の手は、足は、胸は、驚くほど熱いけれど、けっして自分を温めてはくれない。
 なぜか抵抗する気は起きなかった。
 身体を投げ出して、大我の好きにさせた。
 あらゆる場所を口づけられて、撫でられて、舐められても全く何も感じない。
 むしろ、なんとかしようと躍起になっている彼に同情した。
 そしてどこかで、完遂できないという確信があった。
 電池の切れたロボットのように転がったまま、瑛はため息をついた
「大我・・・。もうやめないか」
「いやだ」
 子供のように駄々をこねる大我を見上げてようやく気が付いた。
 昔と変わらない、鋭いまなざし。
 くっきりとした二重瞼と長いまつ毛の造作は相変わらず完璧な美しさだ。
 だけど、瞳の奥の奥は。
 うつろだ。
「・・・大我、まさか・・・」
 ようやく、全てのピースがはまった。

 書いた覚えのない手紙。
 記憶にない写真。
 らしくない行動ばかりの大我。
 そして。
 母さん。
 筒井医師。

「たい・・・」
 口を開いた瞬間、大我の舌がねじ込まれた。
「う・・・」
 大我にキスをされたのは初めて押し倒された時くらいだ。
 でも、その時はお互いまだ若く、子供じみたものだったのだと知る。
 こんな、獣のような交わりではなかった。
 初めて生身の感覚がして、それが瑛の胸の奥にさざ波を起こす。
 ねろり、と動き回る舌。
 鼻に抜ける、大我の匂い。
 付けている香水ではなく、彼自身の、匂い。
 昔は大人っぽいと憧れていたはずなのに今はひどく甘ったるく感じ、とても煩わしかった。
 口の中が、大我でいっぱいになる。
 いやだ、いやだ。
 たまらなく、いやだ。
 腹の底から怒りがわきあがる。

 俺が欲しいのは、これじゃない。
 なのに、なんで。

「えい」
 脳にダイレクトに聞こえた声。
 違う、お前じゃない。
 いきなり後ろに固いものを押し当てられ、無理やり入り口にねじ込もうとしているのを感じた。
「・・・ざけんな」
 全身が、かっと熱くなった。
 熱くて、熱くて、焼ききれそうだ。
「やめろって言ってんだろっ!」
 大我の首を掴んで突き飛ばした。

 気が付いたら、大我はベッドの向かいの壁際に叩きつけられていた。
 自分は拒絶しただけだ。
 どうしてそんな遠いところに転がっているのかわからない。
 でも、そんなことどうでもいい。
 怒りが、止まらない。
 ベッドから降りて、大我のそばまで歩いた。
 彼は身体のどこかを強く打ち付けて、動けなくなっているようだ。
 全裸で、こんなところに転がって。
 なんて無様な。
 どこかが痛いのか、うめきながら目をゆっくり開いた。
 とりあえず、殺してはいない。
「やめようって、俺、言ったよな?」
 こいつは、おれの身体の中に勝手に入ろうとした。
 許さない。
「瑛・・・。お・・ま・・・え・・・」
 かすれきって、ようよう絞り出した言葉。
 おまえとか。
 馴れ馴れしい。
 汚らわしい。
「大我。俺、今、あんたを凄く殺したい。殺してもいいか?」
 なんとなく、指一本ひねっただけで軽く殺せるような気がしてきた。
 あとは、やるか、やらないか。
 選択権はこちらにある。
 信じられないものを見ているかのように目と口を大きく開いて自分を見上げる男に、手を伸ばした瞬間。
「お前、ゴールドだったのか」
 全てが止まった。
「ゴールド?」
 視線を落とすと、自らの手が目に入る。
 爪が、まるで薄く色を塗ったかのように金に光りだす。
 いや、爪だけじゃない。
 爪から、指、手の甲、腕、そして胸、腹、膝そして足のつま先まで全身を細かな金の模様に包まれている。
「これは・・・」
 手を裏返して、手のひらを見た。
 まるで複雑に絡まる蔦のような金のレース。
 イスラム系の女性の手指に施されていたメヘンディのよう。
 また、頭に浮かんだのは夢の中の歌声。
 そして、あのひとのことば。

「サカサマ」

 喉も、唇も、自然に動いた。
 瑛は腹の底から沸き上がるままに、高らかに歌い出す。
 旋律と音が部屋中反響して、耳から、いや毛穴の一つ一つから身体に入り込み、次々と瑛の中の何かを開いていく。
 ばたりばたりと伏せられていたカードを開けていくような感覚。
 ああ、ああ、そうだ。
 なんて気持ちいい。
 全身から重しのようなものがぼろぼろと落ちていくみたいだ。
 重力から解放されたかのように軽い。
 肺に大きく息を吸い込み、さらに歌う。
 俺は、自由だ。


「はははっ!まさかゴールドだったとはなあ」
 背後でどろりとした音が聞こえた。
 まるで、流れが止まってよどんだ下水のような匂い。
 振り向く前に、床に横倒しにされた。
「な・・・」
 冷たい床に頬を強打し、一瞬、何が起きたかわからなかった。
 奥歯が当たって口の中が切れたらしく、じわりと血の味が広がる。
 呆然としている間に右手と右足、そして左手と左足を手錠でつなげられてしまった。
「あんたは・・・」
 荒々しくあおむけにされて見たのは、見知らぬ男の、粗野な顔。
「いいね、その顔。うれしいよ」
 黄色く濁り血走った瞳で舐めるように眺められて寒気がした。
 いや。
 よく知っている。
 この男は常にいた。
 自分と、母のそばに。
「つつい・・・」
 不自然なくらい。


「マクベス夫人は、やりすぎたんだよね」
 窓からの風に髪をそよがせ、宮坂はほほえんだ。
「夫もドン引きだったろうに」
 マクベス夫人とは、シェークスピアの戯曲のことだろうか。
 夫を王にするために罪を重ね、望み通り王妃になった途端狂う女。
 そんな話だった気がする。
「悪いけど・・・。宮坂さんの言わんとすることがわからない」
「話の流れだと、一人しかいないでしょ。夏川夫人よ」
 軽々とハンドルを回して右に左に車線変更をかましながら、浅利が横から会話に入りこむ。
 追加調査で分かったのは、瑛の誘拐に父親の夏川氏は一切かかわっていないということだ。実際、夫婦の間での連絡は数年前からほぼ途切れていて、長い間自宅に戻っていない。
 彼は現在、関東の片隅にある小さなスナックに転がり込んで生活していた。相手はかなり年下の若い女。どうやら瑛を中学へ進学させた頃から夫婦の間に亀裂が走り、夜の街を徘徊するうちにたどり着いたらしい。

 瑛を引き取るにあたり、戸籍を改ざんするために転職し地元を離れた。
 最初は幸せな日々だった。
 しかし大きくなるにつれ、瑛の美しさは悪目立ちしていく。
 ある時、好意の裏返しで瑛は苛めに遭った。
 『変な顔。汚い髪。あっち行け』
 日本人の容姿の基準から外れる子供がたいてい受ける、洗礼のようなものだ。
 すると、妻は瑛を抱きしめながら囁いた。

 大丈夫よ、瑛。
 みんなはあなたをどんなに醜くて、つまらない子だと言っても、お母さんはそんなあなたが大好き。
 お母さんだけが、あなたの味方よ。
 お母さんだけが、瑛のお友達よ。
 ずっと、ずっとね。

 それは、暗示だった。
 事あるごとに優しく囁くうちに、瑛は俯き、人の視線におびえ、何事も目立たないように気を付けるようになっていく。そして、どれほど優秀な成績を打ち出しても、自分を否定し続けた。
 重度の人間不信の域まで瑛を貶め、さらに妻は彼の行動の何もかもを掌握していった。
 交友関係のみならず、性生活までも。
 夏川氏は、恐ろしくなったのだ。
 妻の暗いたくらみと、栄光への執念に。
「そりゃあね。誰だって逃げ出したくもなるわよ」
「うわ、浅利先生、頼むから運転に集中して!」
 思わず蜂谷は悲鳴を上げた。
 情報をある程度把握し検証した後、現在は浅利の運転で瑛が監禁されているホテルを目指しているところだ。
 だがしかし、浅利の運転は上手なのか無謀なのかの判断に迷うようなきわどい技術で、蜂谷は生きた心地がしない。
 いや、先ほども正直死ぬかと思った。

『雉も鳴かずばって、知らないの?』

 唇だけ笑みを作って息のかかる距離まで顔を寄せられた時、もう命はないと覚悟した。
 だが、生きて、その浅利の運転で目的地へと運ばれている最中だ。
「俺は何回、浅利先生に殺されそうになるんだろう」
 後部座席の背もたれに身を任せて嘆いた。
「人聞きの悪いこと言わないでー。ちょっと遊んだだけじゃない、さっきは」
 そう。
 まるで猫が爪の先で気まぐれにそこいらの虫をひっかけるように弄ばれた。
『・・・やあねえ。今、殺されるって本気で思ったでしょ』
 一拍置いて、噴き出したのは浅利だった。
 でも、多少なりとも本気だったのはあの時肌で感じた。
 状況によっては、長年親しくした人でもあっさり殺せる。
 それがオメガバースの頂点にいる種族なのだと、思い知らされた。
「だいたい、あんな不用意な発言、殺してくれと誘っているようなものでしょー」
 速度をたいして落とさないままコーナーを回る。
 強烈な遠心力が、心臓に悪い。
「・・・はい、そうですね。反省しています」
「僕たちじゃなきゃ死んでたね、蜂谷」
 隣の宮坂はのんきそうに恐ろしいことを言ってのけるし。
「いや、今まさに死にそうなんですけど・・・」
 ついぽろりと本音をこぼすと、
「雉がいるわ・・・・学習能力のないキジが」
 浅利がミラー越しに不穏な笑いを投げかけてきて、今自分はいったい何のためにこの車の中にいるのかわからなくなった。
「死にそうと言えばさあ」
 宮坂が窓の外の桜並木をうっとりと眺めながら口を開く。
「大我、死んでないといいな」
 長いまつ毛の影も物憂げな横顔は、まるで西洋絵画の聖母のように静謐な美しさがあった。
「まあ最悪、死体でもいいけど。公安引き渡してくれるかな」
 しかし、内容は物騒だ。
「うわ、出た出た。また出た。誉の悪食」
 浅利は信号停止のブレーキを踏みながら、心底呆れたような声を上げた。
「・・・また、出た?」
「僕さあ、ああいう気位の高い馬鹿を溺れさせるの好きなんだよね」
「は?」
「そもそも僕、根本的にゲイのボトムなんだよ。オメガ女に突っ込むのはぜんっぜん楽しくないけど、アルファ男をかすっかすになるまで搾り取るのは好き。だーいすき」
 ふふと、まるで無邪気な子どもみたいに柔らかく微笑む。
「大我を腹の上で一晩中喘がせてみたいなあ」
「ええ~?大我みたいなアルファって、ボトム向きだと思う。私なら突っ込んで鳴かせる方が良いわ。好みじゃないからやんないけどね」
「そういうとこですよ、あなたたち・・・」
 げっそりと蜂谷はため息をついた。
 この二人は、アルファとオメガの特性を同時に持つ、いわゆる『両性具有』だ。
 ただし、生まれた時は片方しか顕現せず二十代になってから派生したため、家族ですらそのことを知らないという。
 もう一つの特性が現れるまでは、二人ともおとなしく最優良のアルファ及びオメガとして務めを果たそうと努力していたらしい。
 だが現在、二人は『病気によりバースの機能を失い、市井に降りた』扱いになっている。
 どんな手を使ったのかはわからない。
 蜂谷の嗅覚では二人は未だに『どちらも持っている』状態なのだから。
「鳴かせると言えば、ここ何日かで瑛があっという間に食べごろになって、本当にもう困っちゃったわよ~」
 まさに、この台詞がなによりの証拠だ。
「何度、生唾を呑み込んだことか・・・」
 浅利も、生来のオメガより後発のアルファの性の方が好きだという。
 原因の一つは自分も宮坂と同じく同性愛者であるからだろうと、明るく笑う。
 
 女の子が大好きなの。
 アルファもベータもオメガも女の子ならみんな好き。
 匂いも身体も、可愛くて、抱き心地が最高。
 男のアルファはうざったいたら。
 ベータの男もおんなじ。
 オメガとして生きてきたころは毎日が苦行で、死のうかなと思った。
 アルファにならなかったら確実に今は生きていないでしょうね。

 貴種としてあがめられたとしても、それが幸せとは限らないのだと知った。
 ならば、瑛はこれからどうなるのだろう。
「今まで男オメガを試したことはないんだけど、瑛は、アリね」
「・・・頼むから勘弁してください、浅利先生」
「ふふ」
 彼女は今、人生と自分を楽しんでいる。
 そんな未来を瑛と過ごせたら。
「さて、そろそろ目的・・・」
 浅利の声が途切れる。
 高層ビルの立ち並ぶ中ひときわ目立つ建物が見えてきたところで、浅利は急に車を路肩に寄せて停車させた。
「・・・くるね」
 宮坂が小さくつぶやいた。
「あ・・・」
 蜂谷は要塞のようにそそり立つ建物を見上げた。
 最上階だ。
 多分、瑛が監禁されている場所。
 そこから、異様な空気のうねりを感じる。
 『気』のような強いエネルギーが急速に膨張する。
 風船のようなものがふくらんで、ふくらんで・・・。
「きた」
 どおおんと、聞いたことのないような破裂音が響く。
 続いてガラスに針で傷をつけるような不快な高い音が、建物の間を反射しながら稲妻のように駆け抜けた。
「・・・いった・・・」
 耳の奥を一気に突き刺されたかのような感覚。
 一瞬、痛みで何も聞こえなくなったが、深く呼吸を繰り返しているうちになんとか治まった。
 しかしこれほどの衝撃をもってしてもおそらく、多くのベータたちには感知できない。
 窓の外に目をやると街を歩く人々も車も、なんらかわりのない様子だ。
「・・・つっ」
 手のひらにちりちりとしびれるような痛みを感じる。
 見ると、金色の細かい光が何度も何度もはじけては消えた。
 顔を寄せると、うっすらと草木や花の香りを感じた。
 これは。
「瑛だ」
 セージ、ミント、ローズマリー、ゼラニウム、ハニーサックル、そして。
 地にしっかりと根を下ろし、天へと枝を伸ばして花開き、生き物を魅了する。
「うん。そうだね」
 宮坂も手のひらを見つめてぽつんと答える。
「そして、ものすごく怒ってる」
 きらきらと、金色の光の粒が宙を舞う。
「止めないと、焼ききれるな、これは」
 それはこの上なく美しいのに、何故か痛みが走った。
 美しければ美しいほど哀しい。
 これは、瑛そのものだ。

 なんで。
 どうして。
 怒りと、悲しみと、悔しさと。
 でも、憎みきれない。
 でも。
 苦しい。
 
 瑛の慟哭が、聞こえる。


「本当は、そいつに抱かれている最中に交代するつもりだったんだがなあ。坊ちゃんは腑抜けすぎて、待ちくたびれたよ」
 にいい、と異様に白い歯を剥いて笑われても、爬虫類が舌なめずりをしているようにしか見えない。
「意外と有効な手段なんだよ?そうすればこちらは無駄な労力を使わなくて済むからね。生物の世界ではよくあることだ」
 川魚や爬虫類の世界では体格がものを言う。
 大きくて強い者にしか受精の権利はない。
 小さくて弱い者は淘汰されるのが摂理だ。
 しかしある時、産卵の瞬間にこっそり小型のオスが滑り込み、卵の上に精子を振りまき受精に成功した。
 以来、同じ手口で子孫を残す小型種が存在するようになったのだ。
「お前・・・は、いったい・・・」
 まだ力の入らない身体を起こそうともがく大我の腹に、筒井は音が響くほどの強い蹴りを入れた。
「ぐ・・・っ」
 大我は身体を丸めてうめき声をあげる。
 そこへ、いきなり見知らぬ男たちがずかずかと部屋に入り大我の腕を後ろに回して拘束具を手早く装着し、頒布のバンドのようなものでぐるぐると巻いてから、足から引きずって部屋を出ようとする。
「いや、待て。気が変わった。そのまま置いておけ」
「しかし・・・」
「いいから」
 どうやら彼らは筒井に長い間雇われているらしい。
 すぐそばで手足を固定されひっくり返されたカエルのような姿をしている全裸の自分には目も向けず、一礼してあっという間に去っていった。
「・・・どういうことだ」
「こういうのは観客がいたほうが燃えるに決まってる」
 不気味な笑いはそのままに、筒井はジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを大我の顔に向かってに投げた。
「私はね。あれの伯父でね。はらわたの煮えくり返ることに」
「そんな・・・嘘だっ」
 ごほっと咳き込みながらも、大我が叫んだ。
「俺は・・・っ、俺はお前なんか知らない・・・っ」
「そうだろうとも!」
 筒井は怒鳴り返し、先のとがった革靴で何度も何度も大我を蹴る。
 拘束されている大我になすすべはない。
 ただただ蹴られるままでやがて意識を失ったのか、動かなくなった。
「私はお前と違って、生まれた時にどこかの藪医者にベータと診断された途端お前の祖父母に捨てられて、孤児院で育ったんだよ!」
 興奮が治まらないのかいらいらとシャツを脱ぎ、床に叩きつけて吠える。
「・・・捨てられて、孤児院…?」
 瑛が思わずつぶやくと、とてもうれしそうに筒井は頬をゆがませた。
「そうだよ、瑛。私は君と同じだ。出生時にバース検査で陰性を診断された。シルバーの両親に死んだことにされてベータに育てられ、成人後に欠員が出たゆえにアルファに変転できた」
 大股で瑛の元に戻ると足元に座り、囁く。
 すでに六十近いであろう筒井の両方の胸板の上に、青い刺青が見えた。
「これは・・・」
 バース特性の印と解るのは、刺青自体は手のひらほどで大我に比べて小さいがやはり皮膚の上で色が不自然に浮き沈みしているからだ。
 しかし、その模様は壁のいたずら書きのようにどこか歪で稚拙に見え、なぜか嫌悪を感じる。
「そう。私はね。二十代になってブロンズになったんだよ。とある国の政変で大量に人が死んだから」
 世界は争いに満ちている。
 多国間戦争、部族闘争、過激派による大量虐殺、テロ・・・。
 人は突然、思わぬことで死ぬ。
「惜しいことにその時のアルファの欠損はたいしたことがなかったようで私はブロンズどまりだが、君に関してはありがたいことにゴールドになった」
 足の爪をゆるゆると撫でられて、ぞっと寒気が走る。
「オメガが、たくさん、たっくさん死んでくれたおがけだねぇ?」
 撫でさすりながら、歌うように恐ろしいことを言われた。
 無邪気にはしゃがれても、気味悪さが増すだけだ。
 腐った匂いのする息が胸元まで這い上がり、吐き気が何度もこみあげてくる。
 筒井は、興味深げに指先で瑛の金色の印をなぞっている。
 今はまだ足首のあたりを執拗に撫でまわして楽しんでいた。
 触られるだけで終わりでないのは、彼の身体を見れば明らかだ。
 だが、これほどまでに大掛かりな仕掛けを見過ごすことはできない。
 大我、筒井、大勢の男たち、そして母。
 首を巡らすと、部屋の隅にカメラも設置されているのが見えた。
 少なくともここに連れてこられた時から、別室で監視されているのだろう。
 いつまでもこんな無様な姿のままでいるのは屈辱だが、今更だ。
「・・・どういう意味だ」
 知りたい気持ちの方が勝った。
「アルファとオメガが死んで、そしてあんたは何に浮かれてる」
 問わねばならない。
 終わらせる前に。
「・・・瑛。君は鈍いね。鈍すぎる」
 呆れ果てたように筒井は深々とため息をついた。
「この期に及んでわからないの?それとも焦らしているのかい?」
 心から不思議そうに首を傾げられ、一瞬で殺意がわく。
「は?」
 しかし、怒りをあらわにしている瑛を置き去りに筒井はまるで酔ったようにぺらぺらと喋り出す。
「それとも、遠回しに誘っているのかな。そうだよね。ようやくオメガの、しかもゴールドになれたのにこんな格好のまま種付けしてもらえなくて、焦れているのは君の方だよね。ごめん、私が悪かった。すぐに挿れてやる。そして、君の中にたくさん出してあげるよ」
 答えながら、筒井が自らのベルトを外し始めた。
「待て、話は終わっていない」
「話なんて必要ないよ」
 そして、前をくつろげ引っ張り出す。
「君は私の子どもを今から孕めばいいんだ」
 どす黒く、しっかりとたち上がった生殖器を。
 表皮の限界まで膨れ上がった醜悪なそれは、すでにてらてらと先端から粘液を出し始めている。
「な・・・・っ」
 全身の毛穴から冷たいものが噴き出す。
 あまりのおぞましさに瑛は絶句した。
「かわいい瑛。私はね。君を待っていた。ずううっと、ずうっとね・・・。途中でブロンズの成り損ないにかっさらわれないかハラハラさせてくれたけど、それもまた一興だね」
「待て、ブロンズの成り損ないって」
「あの、蜂谷とかいう男だよ。最初はブロンズのようだから道具にしようと思ったのに、ベータに戻ってしまった使えないやつさ」
「蜂谷が・・・」
 名前を口にした途端、匂いの記憶がよみがえる。
 針葉樹のような清々しい、気持ちいい香り。
 違う。
 蜂谷は、きっと。
 思うだけで、じわりと胸が熱くなった。
「そんなこと、もうどうでもいいさ。君は私のものだから」
 ぺろりと、筒井は舌を出して己の唇を舐め始めた。
 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ・・・。
 不快な水音が虚しく響き渡った。
 紫色の舌は、何度も何度も往復する。
「うれしいなあ」
 彼のよだれが腹の上に落ちた時、ようやく彼というイキモノを理解した。

 子供のころ、病院に行くと必ず筒井医師が担当だった。
 懇切丁寧に診察する、親切なおじさんぐらいにしか思っていなかった。
 どこかアンバランスな四角い顔。
 離れ気味の、ぎょろっとした目が時々爬虫類のようで気味悪いと感じたけれど、両親が絶対的信頼を寄せている先生にそんなことを考えるなんて、自分は悪い子だと反省した。
 節くれだって爪が小さな短い指が何度も何度も意味深に身体を触るのも、ただ健康を気遣ってくれているのだと思おうとした。
 だけど、それは。

「ひどいわ、成光さん!」
 甲高い声が飛び込んできた。
 目に入ったのは、女性の足。
 ストッキングに包まれたそれは、ちいさな爪の一つ一つに真っ赤なネイルが塗られている。
「話が違うじゃない!」
 見上げると、着衣も髪もすっかり乱れ、なぜか靴を履いていない母が肩で息をしながら叫んでいた。
「種付けに成功したら、今度こそ私と結婚するって言ったくせに!」
 子どものように地団駄を踏んで、筒井をなじる。
「なんでこんなのといちゃついてるの?ありえないわ!」
 こんなのと、瑛を指さした。
 母が、自分を、こんなのと。
 あっけにとられてただただ母を見つめているうちに、先ほど大我を拘束した男たちが慌ててやってきて母を取り押さえた。
「すみません、先生。この女がいきなり逆上して暴れ出して・・・」
 母の行動は予想外だったのだろう。
 ちっと筒井は舌打ちした。
「せっかく興に乗ってきたところだったのに台無しだ。さっさと連れて行け」
「はい」
 一礼して母を引きずり出そうとするが、彼女はまるで何かにとりつかれたように暴れた。
「離しなさいよ!」
 スカートの裾がめくれて太ももが露になるのも構わずがむしゃらに手足を振り回し、さすがの男たちもつい手を滑らせた。
 解放され勢い余って床に転倒したが、すぐさま瑛のそばまではいずって来て瑛を睨みつけた。
「瑛、あんた何なの。いつまでもこんなバカみたいな格好して男を誘ってんじゃないわよ」
 母が、自分を罵っている。
 まるで浮気現場に乗り込んだ女のような顔をして。
 母と、母の記憶や思いの何もかもが、がらがらと音を立てて崩れていく。
「おい、何をしてる!」
 筒井がいきなり瑛の足を掴んで抱き寄せ、正座した膝の上に載せたため自然と両足を開いて跨いでしまい、まるで春画に描かれた女のような有様になってしまった。
「あ・・・っ」
 無理な姿勢をとらされているのに乱暴にされ、手錠の金具に止められた手首と足首が強くこすれて、あまりの痛みに思わず声を上げる。
「いやっ、やめて、汚らわしい!」
 母は悲鳴を上げ、そばに脱ぎ捨ててあった筒井のシャツを瑛の背に投げつけた。
 そして、後ろから容赦ない力で瑛の頭と髪を掴む。
「ばけものめ・・・」
 ぎりぎりと、音が聞こえた。
「あんたの相手はあっちでしょ。さっさとあれと交尾しなさいよ!」
 あんた。
 ばけもの。
 あれ。
 交尾。
 髪が抜けるかと思うほどの力。
 そして、痛み。
 あっという間に筒井の膝から引きずり降ろされ、横倒しになって床に転がる。
「ふざけるな、このメス豚が!」
 激高した筒井が今度は母にとびかかり、容赦ない力で拳を頬に叩きつけた。
 どごっっと、鈍い音が聞こえる。
 血の匂い。
「いたぁい・・・。ひどおい・・・っ」
 床に這いつくばり、顔を覆って泣きじゃくる母。
 彼女の口から血があふれ出す。
 開いたシャツもそのままに、筒井は部屋の真ん中で仁王立ちになって怒鳴った。
「こいつを今すぐ始末してしまえ!」
「はっ!」
 男たちが慌ててまた母を排除にかかる。
 彼らが彼女を無造作に引きずると、赤い線が床にのびていく。
 なんだこれは。
 この、醜悪な今が、現実だと?

 身体を拘束されて、虫のような姿のまま暴行されて意識を失っている大我。
 正気を失った母。
 おぞましい姿をさらし続ける、男。
 瑛に子供を産ませるために仕組まれつづけた日々と。
 オメガバース。

「もうたくさんだ―――――っ!」

 叫んだ瞬間、何かが爆発した。


 かなしい。
 かなしい、かなしい、かなしい、かなしい・・・・っ!
 地に座り込み、天を見上げて泣き叫ぶ。
 

『準備は整った』
 灰色の、ヘドロの塊たちが囁き合う。
 彼らの真ん中にあるのは、写真。
 広げられた高校生のころの国語のノート。
 そして、黒い手がゆっくりと丁寧にカードに文字を入れる。
『 大我へ
   桜がもうすぐ咲く。
   見に来ないか。
            瑛 』
 仕上げにカードと封筒にスプレーでまんべんなく何かを吹き付けたあと、密閉容器に封入した。
 黒い漣が海を越え、遠い遠い大陸へと飛んでいく。

『くそっ』
 一人の男がジャケットを床に投げつけ、いらいらと部屋を歩き回る。
『ひどい女だね。ついこの間までお前の子どもを産みたいと言っていたくせに、ゴールドから声がかかった途端、邪魔者扱いして』
 傍にいる男がさも同情しているかのように慰めた。
『何様なんだろうね。あの女の方が君よりずっと格下なのに』
 シルバーの男はプライドが高い。
 そして、我慢が効かない。
『ちょっと思い知らせてやらないか』
 そんな男ほど扱いやすい。
 とくに、悪事を働くには。
『なあ、今度のパーティで・・・』
 数日後、大勢のオメガがテロで殺された。
 犯人と目されるシルバーのアルファは遺書を残し、銃で頭を撃ち抜いて自殺した。

 とある高級ホテルのベルボーイは滞在客の一人が気に入らなかった。
 白人専用のフロアのはずなのに、我が物顔で滞在している黄色人種。
 モデルだか何だか知らないが支配人たちももてはやして、更には白人の上等な女たちが出入りしているのも気に入らなかった。先月はなんと美女として名高いピアニストのニーナが何日も泊まっていた。
 消えてしまえ。
 殺意が芽生えた。
 そんなある日、パブで意気投合した男から不思議なことを持ち掛けられた。そのイエローを追い出す手立てがあるぞと。
『このジップロックの中の手紙を渡すだけだ』
 消印の押された未開封のエアメール。
 注意点は渡す直前まで袋から出さないこと、素手で触らないこと、新しい手袋で取り扱うこと。
 それだけで、そいつはこのホテルから出ていく。
 半信半疑だったが、面白そうなのでさっそく実行した。
『ミスタータイガ、貴方にお手紙が届いています』
 効果は抜群だった。
 手紙を渡して数時間後。
 イエローはコンシェルジュに飛行機を手配させ、チェックアウトした。
 ベルボーイもこの世から消えた。

 そうして彼らは、『新しい女王蜂』を作った。
 二十数年の年月をかけて造ったオメガ。
 ようやく収穫の時が来たと、彼らは舌なめずりをしていた。
『夏川瑛』。
 最下層として見下され続けたアルファたちのための子宮。


 誰かが「ばけもの」と言った。
 風と光が怒ってる。
 罵りも、悲鳴も、悪意も、たくらみも、なにもかも。
 ぜんぶ、ぜんぶ、なくなった。
 こわして、こわして、なくした。
 ひとりだ。
 誰もいない。
 なにも、ない。
 このまま、この苦しいまま、消えてしまいたい。

 ごうごうと風が吹いて。
 光の中に溶けてしまえば。
 そうすれば。
 もう。

「えい」
 音が、聞こえる。
「えい。えい、えい・・・」
 ぽろん、ぽろん、ぽろん、と、あたたかなしずくがおちてくる。

 あたたかい。
 やわらかい。
 あまい。
 やさしい。
 ・・・いいにおい。

「瑛」
 これは、声だ。
 ことば?
「だいじょうぶ」
 めが、とけてくる。
 なにか、ながれて。
 ほおを、あついものが。

「瑛、大好きだよ」

 胸の奥に響いて、全身に広がる。
 あたたかくて、
 せつなくて、
 あまい。

 ・・・はちや。


「瑛!」
 視界が突然ひらけた。
 最初に見えたのは、眼を見開いて覗き込む蜂谷の、顔。
 これほど近くて。
 これほど切迫した蜂谷の顔を見るのは初めてだ。
「・・・どうしたんだ?」
 見回すと、がらんどうの部屋の中にいた。
 ふと身体を見ると腕ごと白い布にくるまれて、床に座る蜂谷に横抱きにされていたと気づく。
「これは、いったい・・・」
 つぶやくと、蜂谷に強く抱きしめられた。
「よかった・・・」
「蜂谷」
「・・・おかえり、瑛」
 やさしい声で低く囁かれ、鼻の奥がつんと痛くなった。
「・・・うん」
 蜂谷は、あたたかくて。
 いつもの、蜂谷。

「ずいぶんと派手に暴れたね」
 見上げると、宮坂がいつの間には二人を見下ろして立っていた。
「まあ、こうなるほどに怒らせる方もどうかと思うけど」
 膝をついて瑛の顔を覗き込む。
 ゆっくりと瞳を見つめた後、ふわりと笑った。
「うん、もう大丈夫だね。じゃあ、とりあえずこれを着て」
 服を差し出されて初めて、自分が全裸だったことを思い出す。
「あ・・・、俺、手錠をはめられて・・・」
 こんな、まっすぐに身体を伸ばせない状態だったはずだ。
「ああ、そんなんだったんだ。うん、大丈夫。俺たちが到着した時にはそんなもんつけてなくて、ビシバシ筒井達に制裁を加えていたよ」
「え・・・」
 全く記憶にない。
「もしかして、ここって・・・」
「うん。瑛が監禁されたマデリアホテルのスウィート。最上階全部貸し切られていたんだけど、瑛が怒ってぶち抜いちゃったみたいだよ。でも、特別仕様の窓ガラスはぜんぜんなんともない点だけはすごいね!」
 宮坂はあっけらかんと笑い飛ばしたが、笑い事ではない。
「・・・俺が、やったってことですね」
 記憶にないが、自分しかいないだろう。
 改めて周囲を見回す。
 高級そうな内装は無残に床に散らばり、あったはずの壁もなくなってだだっ広くなった気がする。
 さーっと血の気が引いた。
「ああ、うん。まあそうなんだけど大丈夫。引き受けたのはホテル側だし、今日この下はがっつり空き室にしていたし、これくらいの弁償、保険屋とかでなんとかしてくれるから」
 平然とされても、脂汗が額にじわりとにじむ。
「本当にこの件に関して瑛に非は一切ないから。ないと、関係各所話し合いで決着したから」
「・・・関係各所って、なんですか」
「えーと、マデリアと、バース財団と、公安と・・・」
 指折り始めた宮坂を見ているうちに意識が遠のいていく。
「あ、ちょっと、瑛!」
 蜂谷に呼ばれて、ちょっとうれしい。
 森の匂い。
 もう、怖くない。


「うわあああ・・・・。ますます美味しそうになって。ほんとに食べちゃいたいんですけど!」
「みっちゃん、本気だね」
「浅利先生、駄目ですよ。瑛に指一本触れないでください」
「やあねえ、冗談よ」
「そんなに全身ぎらぎらさせて、俺を騙せると?」
「まったくもう、やきもち焼きなんだからー。瑛に嫌われちゃうわよ」
「浅利先生!」

 はっと、目が覚めた。
 今度は浅利の診療所のベッドの上だとすぐにわかって、ため息をつく。
「あ、ほら起きたわよ、お姫様が」
 枕元に立つ浅利が楽し気に手を差し出した。
「脈を拝見しても良いかしら?」
「はい・・・」
 素直に手首を差し出そうとして、息をのんだ。
「浅利さん・・・」
「はい?」
 慌てて起き上がり、眼を何度もしばたいた。
 口の中が、乾いていく。
「その手は・・・」
 浅利の指先から手のひらそして手首と白衣に隠れる場所までの全て、金色の模様が走っている。
「・・・ああ」
 ふふっと、浅利は笑った。
「ばれちゃったか」
 ぶわっと、薔薇の香りが立ち込める。
 一瞬にして、浅利のきめ細かな白い肌に金の模様が現れた。
 前に、見たことがある。
 首元から一瞬のぞいた金のしるし。
 蔓薔薇をモチーフに品良く、そして大胆に描かれている
 それは顔全体を覆いつくしたが、瞼からまつ毛まで丁寧に施され、まるで職人に描かせたかのように完璧だった。
「私ね、生まれた時はオメガなんだけど、今はどっちかというとアルファなのよね」
「は?」
 アートとしか言いようのない浅利の顔をまじまじと見る。
「ほら、美津」
 背後から宮坂が浅利にドリンク剤のようなものを渡す。
「ありがとう」
 受け取った瓶のふたを開け、瑛に差し出した。
「ごめんなさいね。まずはこれを飲んでちょうだい」
「・・・なんですか、これは」
「いわゆる抑制剤ね。あなたのオメガフェロモンは私には毒なの。ちょっと今は引っ込めてくれないかな」
 金色に塗られた唇が、蠱惑的な笑みを形作る。
「でないと、あなたを食べたくなっちゃう」
 喉から発せられた音に、瑛はねじ伏せられそうになった。
 強い力。
 先ほどの出来事を思い出す。
 おそらく全身に張り巡らされているだろう、細密な金の文様。
 彼らの話を統合するならば、浅利はゴールド。
 これが格の違いかと、恐れを抱いた。
「・・・いただきます」
 固く目をつぶって飲み干した。

 飲まされた薬剤はどうやら即効性らしく、すぐに浅利の身体から発せられる光は収まった。
 瑛がベッドヘッドに背を預けると枕元に蜂谷が座った。そして宮坂は隣のベッドに陣取り、浅利はタブレット端末を持ってそばにあったスツールに腰かける。
「・・・薔薇の香りなんですね。浅利先生は」
「うん?」
「フェロモン・・・みたいなものなのかな、金色の線が出ているときの匂い」
「ああ、そうなのかな。自分ではあまりわからないのよね。女の子たちに言われたことがあったかも」
 さらりと言われて目を見張る。
「まずは、瑛が知りたいであろうことから報告するわね。お母さんは無事。頬を打撲して口の中を切って鼻血を出して手足に多少の擦過傷もあるけど、まあそれくらいかな」
「・・・そう、ですか」
 ふうーっとため息が出た。
 力が抜ける。
「よかった・・・」
 殺してなくて。
「基本的にね。オメガの攻撃を食らうのはアルファなの。まあベータでも強姦しようとしたなら軽く殺せちゃうけどね」
 バース特性特有の能力だ。
 それがなければ、オメガはたちまちただのメスとして扱われただろう。
「まあ、瑛の能力はちょっと変わっていて、物理的破壊能力を備えていたものだから、ちょっと面倒なことになりそう。でも断然阻止するから安心してね、そこのところは」
 瑛の爆発で被害を受けなかったのは、母と昏睡状態だった大我だけだったという。
 筒井は重体、他に関与した人は別室でもバース特性に関係なく等しく爆風に飛ばされたらしい。
「え・・・」
「工作員として使いたいなーって思う人が出てくる可能性があるわよね。便利だから」
 海外の要人にアルファは多い。
 殺戮能力の高いオメガを送り込むことにより、時流を変えることができるかもしれない。
 そう考える人がいてもおかしくない。
「・・・それって、母さんや筒井先生は知っていたんですか。わかっていたから・・・」
 あんなことを。
 瑛は最後の言葉がどうしても言えなかった。
「いいえ。単純に、彼らにとってのあなたは産む機械だった。最初はたぶん、ブロンズ、よくてシルバー程度だと思っていたんじゃないかな」
 最初は、大我との間に質の良いシルバーを産ませる計画だったのではないかと浅利たちは推測した。
 たとえブロンズでもオメガであればその子が金の卵を産む可能性はいくらでもある。
 大我とうまくいかなかったとしても命尽きるまで、色々なアルファと交わらせ産ませればいい。
 しかし現実として、オメガは強制されて産むことはできない。
 その点を彼らは見落としていた。
 もしくは、知らなかった。
 ベータとして育つと肝心な情報が入らないため、都合の良い絵図を引いてしまう。
 そして瑛を変転させるための引き金役に大我を選び出したのは筒井だ。
 それは、半分生家への復讐だった。
 駒として使ってやることで、日ごろのうっぷんを晴らせると思ったのだろう。
 同じ学校へ入学させれば貴公子然とした大我に瑛が引かれる可能性は高く、その点は思い通りに事が運んだ。
 しかし、いつまでも変転しない瑛に疑問を持ち、別の組織との情報交換しているうちにある可能性が芽生え、色めき立った。
「なぜですか?」
「あなたの血のつながったお父さんはぎりぎりシルバーで、お母さんの身元がいまいちはっきりしなかったからよ」
 筒井と瑛が預けられた乳児院は、陰で「井戸」と呼ばれていた。
 残酷な話だが、いらない子供を投げ込む所、という意味だ。
 一度預けられると死んだも同然で、その後の成長を気に掛ける者などいない。
 施設の運営は親たちのいわば手切れ金と、乳児を秘密裏に欲しがる子供のいない夫婦との契約金で賄われていた。
 ただし、もし良質のバース特性に好転した場合のために預け主の正確な記録だけは必ず取るのが決まりで、めでたくアルファになれた筒井は自分の出生を知ることができた。
 そして意気揚々と実家の門を叩いたが、ベータと大差ない程度のブロンズということで全く相手にされず、屈辱を味わうだけで終わった。
 そんななか、子どもを欲しがっている夏川夫妻と出会う。
 夫人は特に長年の不妊治療で心身ともに限界で、向上心を支えに生きていた。
 だから、持ち掛けた。
 バース特性の卵を育てて、世間を見返してやらないか、と。
 彼女はあっさり陥落した。
 そして気の弱い夫を説き伏せ、月齢の低い男の子を引き取り戸籍上は実子として届けた。
 その赤ん坊は、シルバーの父親に捨てられた。
 母親はオメガだか行方不明。
 そう記載されていたという。
「それで・・・。その、父親は・・・」
 次々と聞かされる信じがたい話に、目が回りそうだった。
 それでも、知りたい。
 意を決して尋ねると、そばにいた蜂谷がやんわりと手を触れてきた。
「瑛を預けて数年後、残念ながら他界してる。旅先で、客死だって」
 宮坂は簡潔に答えてくれた。
 蜂谷から励ますように指先を強く握りこまれ、息をつく。
「・・・そう、か・・・」
 生まれた瞬間に自分を否定した人。
 だけど。
「・・・瑛は、優しいな」
「そんなんじゃない」
 問いかけたいだけだ。
 どうして、と。
「で、産みの母親なんだけどね・・・」
 浅利は、ひと呼吸置いた。
「その人も多分亡くなってる。おそらく出国後まもなく」
 彼女にしては珍しく持って回った言い方をする。
「出国後・・・とは」
「本当に、詳しいことがわからないの。特権階級経由で調べてもらったんだけどね」
 タブレット端末をいくつか捜査して、瑛に手渡す。
 画面には写真が添付された書類が映し出されてた。
「・・・これは」
 白黒の写真だが、一目瞭然だった。
 全面に刺繍が施され、どこかの遊牧民を思わせる独特の衣装。
 そしてアジアやヨーロッパの血が入り交じっていることを思わせる顔立ち。
「・・・もしかして」
「パスポート名はアリヤ・スユンシャリナ。これが本名なのかはちょっと怪しいらしいんだけど、日本に来て出産した事実が記録に残ってる」
 ふう、と息をつく。
「出身は中央アジアの少数民族。二十六年前、政変と迫害に遭って彼女の生まれ育った地域はめちゃくちゃになった。古くからの住人はもう誰もいない」
 目の前が真っ暗になる。
「そんな・・・ことが」
「今でもそうだけど、その頃日本のオメガバースは血が濃くなりすぎたのか飽和状態になって、顕現率も低くなったし、パートナーがなかなか見つからない人が増えたの。そこで、あなたの父親は海外に目を向けた」
 いわゆる花嫁探しの旅だ。
 しかし、それはなかなかうまくいかなかった。
 オメガバースもアジア系の社会的地位は低い。流れ流れていくうちに、中央アジアにたどり着いた。とある集落に、オメガがいるらしいという情報を掴んだからだ。
「おそらく、オメガであるないにしても年頃の女性の家に求婚者は詰めかけたでしょう。その時、日本の円は強かった」
 アリヤという少女はおよそ十八歳で、刺繍の腕前は上々で働き者。そして周辺でも評判の美人だった。
 ただ僻地ということで詳しい身体検査はされておらず、一族の血統として女性はたいていオメガだからそうに違いないという話だが、周囲にアルファがいないためベータと婚姻するしかないという噂が流れた。
 それを聞きつけてはせ参じたアルファは十人ほど。
 先祖が草原の民でないのは、日本からきた男一人だった。
 結局、婿選びの決め手は金につきる。
 その地域では考えられないほどの破格の婚姻費用を彼は提示した。
 しかし実際のところ、貨幣価値の違いから日本の一般的な結納と比べるとはした金だった。
 安い買い物をして、オメガを連れた男は胸を張って帰国することになる。
 交渉成立の翌日に初夜を迎えた新妻は、すぐに妊娠した。
 それは何よりも喜ばしく、夫の家族も喜んだ。
 しかし、草原で暮らした少女にとって、日本での暮らしは地獄の始まりだった。
 嫁ぎ先は没落して平均的な庶民の暮らしだが、些細なことが彼女には考え付かないことの連続だ。
 日常生活の基本がまず違う。
 食事一つにしても、食材、味付け、すべて初めてだ。
 何よりも気候がまるで違う。梅雨時の湿度には苦しめられた。
 しかも、家族のだれも嫁の言語を理解できない。そして彼女ももちろん日本語が全くわからない。片言で喋れるのはロシア語とモンゴル語。
 英語ですらおぼつかない家族はお手上げだ。
 夫婦間の会話は手ぶり身振りが主で、あとは二人の特殊能力に少しだけテレキネスのようなものがあったため、手を握り合って念じるのみだった。
 だが、そんなやりとりも彼は途中で面倒になり放棄した。
 出産までの数か月。
 苦難の連続だった。
 籠の中の鳥のような生活。
 そんな毎日に終止符が打たれたのは、赤ん坊が生まれた瞬間だ。
 生まれてきた子供は男子で、とても綺麗だった。
 しかし、医師から告げられた一言で空気は一変した。
 この子は、アルファでもオメガでもない。
 ベータだと。
 男と両親は落胆した。
 あれほど労力と金をかけて連れて来た女は、ベータしか産めないのか。
 その場で責めた。
 日本語で罵ったにもかかわらず、彼女は彼らの言いたいことをきちんと理解した。
 そして、出産に立ち会ったロシア語の通訳を介して二つのことを告げた。

 離婚して、帰りたい。
 今、国では大変なことが起きているらしいので、子どもは連れて行けない。
 
 彼らは引き留めなかった。
 むしろ、助かったと胸をなでおろし、渡航費及び多少の慰謝料を渡すと即座に約束した。
 そして産後三か月ほど一室で乳児と暮らした外国人妻は、身一つで出て行った。
 成田空港を出立するまでは通訳が付き添い、見送った。
 その後、何か国かを乗り継いでいるうちに、彼女の足取りは消える。
 異国の女が家を出てすぐに、彼らは家の中を片付けて痕跡を消し去り、赤ん坊を『井戸』に投げ込んだ。
 薄い色の髪と瞳の子どもは、日本では目立ちすぎて、面倒が起きるのは目にみえている。
 雑に書類を作り、母親の縫った産着一枚着せたきり、あとは仲介者に任せた。
 なんら、迷うことなく。

「・・・瑛。大丈夫か」
 蜂谷が腕を回して瑛を抱きしめる。
 なんとなくそれが自然な気がして、瑛はおとなしく彼の肩に頬を寄せた。
 ぽん、ぽん、とあやすように背中を叩かれて、今まで呼吸も忘れて浅利の話を聞いていたことに気付く。
「これは、あくまでも私の推測でしかないけど」
 浅利はつづけた。
「彼女は何もかも承知だったのではないかと思うの。日本へ渡って瑛を産むことも、そばにいられないことも・・・」
「どういう意味ですか」
「見送りをした通訳への聞き取りでは、彼女には先読みの能力があったのではないかと報告があるの。成田で別れる時に夫家族は人でなしだと憤慨していたら、片言で『だいじょうぶ。うみのむこうのひとのこどもをうむの、しってたから』と笑ったらしいわ」
 彼女には、何の未来が見えてたのだろう。
「それとね。もう一つあるわ」
 後ろからそっと浅利の手が瑛の頭をなでた。
「最後に、『わたしのぼうや、しあわせになる。だいじょうぶ。わたしの、たからもの』って」

 ワタシノ、タカラモノ

 どっと、波のようなものが押し寄せてくる。

 草原の草のような髪、雪のように白い肌にバラ色の頬。
 大きな瞳は、はちみつ色。
 少し厚めの唇が朗らかに異国の音楽を歌う。
 まだ少女のようなあどけない面差しで、柔らかくほほ笑んだ。
「かわいい、かわいい、わたしのぼうや、わたしのたからもの」
 指先がからかうように頬をつっつく。
 そしてなんどもなんども音を立てて口づけられた。
「かわいい、かわいい。なんてかわいいんだろう」
 もみくちゃにされて、くすぐったい。
「だから、ここにいて」
 いつのまにか、その人は泣いていた。
「どうかしあわせに」
 ぽたりぽたりと雨のように涙が落ちる。
「さようなら」
 やさしい香りが、薄れていった。

「・・・そんな・・・。そんなはずは・・・」
 やさしい記憶。
 覚えていられなかった思い出。
 当たり前だ。
 乳児で記憶がある方がおかしい。
 でも今。
 こうして脳裏に浮かぶ光景は、間違いなくあの時のもの。
 別れの、朝。
「こんなことって・・・」
 都合のいい妄想なんじゃないのか。
 せめて誰かに愛されたかった自分の願望が、作り上げた夢。
「瑛」
 蜂谷が囁く。
 強く抱きしめられて、ますます胸の奥が熱くなる。
 じわりじわりと広がる。
 海の波がよせてはかえしよせてはかえしをくりかえすように、感情があとからあとから押し寄せてくる。
「う・・・」
 もがくように蜂谷の背中に掴まった。
 溺れそうだ。
 心から何かがあふれて、溺れてしまう。
「うわーーーー。あああああ・・・」
 叫んでいた。
 叫ばないと、どうにかなってしまいそうだった。
「瑛」

 わかってる。
 わかってしまった。
 あの、優しい人はもう死んだ。
 産んでくれたのに。
 愛してくれたのに。
 あの香りがどこにもない。
 土と、
 草花と、
 蜂蜜と、
 風と、
 空と、
 太陽と。
 月と。
 暖かで優しい何もかも。

「瑛」

 涙が、止まらない。
 苦しい。
 怖い。
 
 どうして。
 どうして。
 どうして。

 あなたが、ここにいない。


「ほら、温まるから」
 蜂谷に渡されたマグカップを両手で受け取る。
「これは・・・」
「即席だけど生姜湯みたいなもの」
 おろしたての生姜の香りと苦みが口の中に広がった。
 甘露だ。
 少しぬるめに作ってあったそれを一気に飲み干し、ほっと、瑛は息を吐きだす。
「うん、いつも俺が体調崩すと作ってくれるよな」
 カップをサイドテーブルに置いて、蜂谷を見上げた。
「・・・だな。それしか思いつかないから」
 だが、蜂谷は少し視線を外して笑うだけで、こちらを見ようとしない。
「蜂谷?」
「うん、俺はさ。あっちのソファーで寝るから瑛はここを使って」
 今、瑛が座っているのは、蜂谷の寝室にあるベッドだ。
 瑛の部屋は入れないからと宮坂に言われてそんなことになった。
「え・・・だって、ここは蜂谷の家じゃないか。俺がソファーに行く」
「いや、今日は瑛も色々あったからさ。ゆっくり寝て。俺の匂いがするだろうけど」
「蜂谷の匂い・・・」
 言われて初めて、気が付いた。
 そして、急に鼻腔が仕事を始める。
 蜂谷の匂い。
 木の幹と、針葉樹の葉っぱと、それと・・・。
 かあっと、頬が熱くなった。
「え・・・?瑛?俺の使い古しのベッド、駄目だった?消臭剤かけようか?シーツは替えたんだけど、やっぱ嫌?」
蜂谷はおろおろして、部屋の外と中を行ったり来たり熊のように歩き回りはじめた。
「いや・・・、そうじゃなくて」
「え?寝心地悪そう?やっぱり、今からホテルとろうか」
「そうじゃなくて!」
 つい、大きな声を出してしまい、蜂谷からまじまじと見つめられた。
「あのさ・・・」
 蜂谷の視線が耐えられない。
 そのままぼすっと横に倒れ、両手で顔を隠す。
 ああ、駄目だ。
 ますます駄目だ。
 ますます、強くなる。
「あのさ・・・。ここって。蜂谷で、いっぱいだな・・・」
「え・・・」
 蜂谷の声が、また駄目にする。
「俺、もう・・・」
 吐き出した息が、熱い。
 手を落として視線を上げたら、蜂谷の手が見えた。
 手の甲に向かって、青い線がのびていく。
 線から線へ。
 見えない筆が蜂谷の手を丁寧に装飾していく。
 それを見るのが、たまらなく、嬉しい。
「なあ、蜂谷・・・」
「抑制剤」
 蜂谷の胸元が大きく上下して、彼が何度も深く呼吸を繰り返しているのがわかる。
「抑制剤、飲んだよな、瑛」
「飲んだ。でも、そんなの多分関係ない」
 恥ずかしくていたたまれない。
 でも、言う。
 恥ずかしいけど。
 でも、顔は隠す。
 恥ずかしいから。
 突っ伏して言う。
 恥ずかしいから。
「蜂谷がいるのに、蜂谷の匂いがするのに、そんなの関係ないだろ」
 歯がゆくて、歯ぎしりしたくなる。
「・・・なんで、来ないんだよ」
 言い終えた瞬間、どすっと蜂谷が落ちてきた。
「うわ」
 痛い。
 重い。
 熱い。
「参った。ほんっと、参る。俺、今日は絶対我慢するって決めていたのに」
 首元に息がかかって、背中に蜂谷の身体を感じて、くらくらする。
「蜂谷」
「もうさ。俺、ずっと我慢してきたんだよ。わかる?中学の入学式に一目ぼれしてからずっと!」
 蜂谷が何を言っているか、脳が言葉を解読してくれない。
 腹の下に手を突っ込まれ、さらに両腕でぎゅうぎゅうと抱きしめられ、肺の空気が全部絞り出されるかと思った。
 でもそれすら、身体が喜んでいる。
 だって、蜂谷だから。
「蜂谷」
 苦しくて、喉まで止められたボタンに指を押し当てる。
 手が震える。
 だけど、苦しいから。
「はちや・・・」
 ボタンを、頑張って外す。
 ひとつ、ふたつ、みっつ・・・。
 その間、蜂谷が何か言ってる。
 熱が乗ってる。
 でも、わからない。
 いくつ外したら、楽になるだろう。
 五つ目を数えたら、腹のあたりで交差する蜂谷の強い腕にたどり着いた。
「はちや、俺、もう無理」
「瑛・・・?」
 ちゅ、とうなじを吸われた。
 背中に甘いものが走る。
「これ、外してくれ」
 彼の手を導いて、ゆだねた。
「・・・っ。俺もむり」
 蜂谷はいきなり体を起こし、瑛の肩に手をかけてくるりと仰向けにした。
「蜂谷、恥ずかしいって」
 慌てて両腕で顔を隠す。
 馬乗りになってきた蜂谷に腕を取られたが払いのける。
 それをまた開かれて、また払いのけるの小競り合いを繰り返し、最後に瑛が根負けした。
「・・・あんま、見るなよ、俺の顔」
「いや、もうわけわからない。だから、ごめん!」
 言うなり、蜂谷は瑛のシャツを思いっきり開いた。
「わ・・・」
 ボタンが飛んだ。
 なんだか、楽しい。
 いつもと違う蜂谷が、嬉しい。
 空気にさらされた胸が、解放感と期待に膨らむのを感じた。
「ほんっと、わけわからない」
 唸りながら自らの眼鏡をむしり取って、どこかに投げた。
 がしゃんと、硬いものに当たったような音がする。
「蜂谷、眼鏡・・・」
「いいんだよ。あれ、瑛のためだったから」
「は?」
「度はたいしたことない。まじないみたいなもんなんだよ。俺が瑛を襲わないように」
「そんなんなんだ」
「そうだよ、そんなんなんだよ。もう、なんなんだよ、瑛。こんな綺麗な身体、反則だろう」
 蜂谷は怒ったり、喋ったりで忙しい。
 でも。
「なんか、うれしいもんだな」
「は?」
「俺のこと綺麗って、蜂谷が言った」
「そんなん、毎日言ってただろう!毎日毎日」
「そうだっけ」
「瑛!」
 蜂谷が怒れば怒るほど、身体の中がうれしさでいっぱいになる。
 うれしくて、幸せで、ふわふわと笑いたくなった。
「あーもう」
 一度天を仰いで盛大なため息をついた後、着ていたカットソーを脱ぎ始める。
 現れたのは大我のように魅せるために作り上げられたものとは違うが、すっきりと無駄のない筋肉がつき、すらりとした身体が枝を伸ばした木を思わせて好ましい。
 そして、その身体の上には青い太めの線がびっしりと現れていた。
「蜂谷のしるしって・・・」
 筒井はせいぜい胸板どまりだったのに、蜂谷の絵柄は広範囲に及んでいる。
 鎖骨のあたりから指の先まで自由奔放ながら一定の規則性を持った線が描かれていた。
「・・・ああ、これ?えらい素朴だなって、兄弟たちから言われる」
「でも、なんか産みの親の服の刺繍に似てる。かっこいいな・・・」
 ヴァイキング、ケルト、ベドウィン、タタール…。
 自然と生きる人々の暮らしが思い浮かべられるような、そんな文様。
 触ってみたくて手を伸ばしたら、そのまま指を握り込まれ、蜂谷が覆いかぶさってきた。
「瑛。ありがとう」
 鼻と鼻が付くほどの近さで囁く。
「なに・・・が」
 心臓の音とか、まつ毛をしばたく音とか、呼吸とか。
 互いの何もかもが聞こえそうなくらいに近い。
「なにもかも。生まれてきてくれてありがとう、同じ学校に入学してくれてありがとう。大学も会社も一緒になっても嫌がらなくてありがとう、他にもいっぱいいっぱいあるけど、今はちょっとはしょって」
 吐息がかかるたび、唇が震えた。
 蜂谷の、熱だ。
「うん」
「無事に、生きて戻ってきてくれてありがとう」
 瑛は、息をのんだ。
 ああ。
 なんて男なんだろう。
 負けた。
 もう、すっかりやられた。
「はちや」
 絡められた指を握り返して、蜂谷の目を覗き込んだ。
 いつもは明るめの瞳がしっとりと深みを帯びて見える。
「うん?」
 たった一言で、こんなに俺を揺さぶるなんて。
「それで、いつキスするんだ」
 睨みつけてやったら、ふっと息を吹いて、破顔した。
「キスしていいの?」
「今この状況で、しないつもりか」
「いや、するよ、させてください」
 いきなり、ちゅっと音を立てて瑛の唇の表面を吸い、すぐに離れた。
 あまりに唐突すぎて、何が起きたかわからなかった。
「・・・てめ、ふざけんな」
 子供だましのキス。
 からかわれているとしか思えない。
 両手をはがそうとすると、最初は笑っていた男の表情が真剣なものへとゆっくりと変わっていった。
「ごめん、ふざけてないよ。これからが本番」
 蜂谷の匂いが増していく。
「ねえ、瑛」
 こんな、顔をするなんて。
「薫って、呼んで」
 蜂谷のすべてに、圧倒された。
 心臓が、これ以上はないくらい早鐘を打つ。
 ほら、とメープルシロップのような甘い色の瞳で促され、なんとか喉を震わせた。
「か・・・。かお・・・」
 唇が塞がれる。
 蜂谷の唇が触れた瞬間、電流のようなものが通り、足の裏がしびれた。
 そして、腹の底から沸き上がる欲求。
 ああそうか。
 こういうことか。
 一度触れてしまったら、もう離れられない。
「ん・・・っ。か・・・」
 何度も何度も、角度を変えて求められ、求める術を覚えていく。
「・・・えい」
「か・・・おる」
 唇が触れて。
 息を絡めて。
 そして、二つが一になる。
 

「も・・・溶ける・・・」
 ベッドの上で瑛は嘆く。
「これ以上、むり・・・」
 全身、汗にまみれてもう息も絶え絶えになっていた。
 いったいどれだけの時間を抱き合っていたのかわからない。
「えい、駄目だよ・・・」
 もう力が入らずくたくたなのに、蜂谷は器用に瑛を抱き起し、胡坐の上に向かい合わせで跨がせた。
「瑛のここ、ほんと綺麗だね」
 薄くて形の良い唇から赤い舌が出て、胸の先端を突っついた。
「あ・・・だから、それ、やめろって・・・」
 たったそれだけで、軽くいってしまう。
 二人の間でたちあがっている自分の屹立がふるりと震えた。
「かわいいな」
「くそ、はちや・・・」
「かおる、だろ」
 瑛の背中を両腕でしっかり抱え込んで、彼は熱心に胸を舐め始める。
「あ、ああ、ああ」
「いい声」
 乳首を軽く加えたまま上目遣いに笑われてますます感じた。
 この悪い顔がまたいけないと、憎らしくなる。
 二人ともセックス自体は初めてではない。
 瑛は長い間大我に抱かれていたし、蜂谷も一時期色々な人と関係を持っていたことはわかってる。
 だけどそんな経験が今は何の関係もないことを、キスをした瞬間に知った。
 自分たちは、お互いのことをまだ何も知らなかった。
 アルファとオメガ。
 ブロンズとゴールド。
 パートナー、つがい、伴侶。
 色々な言葉がオメガバースのことを語るけれど、身体をあわせて初めて知ることがたくさんある。
 指先からはじまって、唇、腕、足、胸、そして性器。
 触れ合うたびに、未知の扉を開いていく。
 よくてよくて、すごくよくて。
 もっと気持ちよくなりたくて。
 果てがない。
「はちや・・・」
 執拗に胸を刺激する蜂谷の頭を両手でとらえて、手のひらで、指で彼の艶やかな黒髪を感じる。
 こんなことすら気持ちいいなんて、知らなかった。
 腰の奥がうずく。
 ベータの時は潤滑剤を必要としていたところがどくどくと脈打ち、とろりとろりと粘液を出してくる。
 こんなの流れ出てくるのはもしかしたら蜂谷が注ぎ込んだ精液なのかもしれない。
 この一晩でさんざん中に出された。
 それなのに、まだ欲しいと身体が訴えていて、もう疲れ果てているのに続きを求めている。
「なあ・・・はちや・・・」
「かおる」
 かりっと歯をたてられて、びくんと、操り人形のようにはねた。
「いいから・・・そこ、もういいから・・・」
「んー」
 わざと無視する男が本当に憎らしい。
 わかっているくせに、言わせようとしている。
「いいから・・・。挿れろよ、薫」
 そのずるさも、些細な駆け引きも。
 すべて、この身体の中に注ぎ込んで。
「早く、薫」
 自ら足を大きく開き腰をゆらめかせながら、誘う。
「・・・どこで、そんなの覚えたの」
 どこか、すねた声。
 笑ってしまう。
「何言ってる・・・」
 とろとろにとけた後孔を固くとがりきった蜂谷の亀頭に何度も何度も擦り付けた。
「いまに、きまってるだろ」
「――――――っ!」
 ごくり、と蜂谷が唾を飲み込んだ。
 そして、いきなり侵入される。
「ん、あああ・・・っ」
 くぷりと張った部分が入り、迷いなく奥を目指された。
 がくがくと、下から突き上げられる。
 瑛の中で、蜂谷が暴れている。
 でも、それは瑛も同じだ。
 かき回されてますます潤み、突き上げられて明け渡し、離されると追いかけて、彼を離すまいと強く絞り上げる。
「・・・くっ」
 蜂谷が、めちゃくちゃ感じているのがわかる。
 すごくうれしい。
 蜂谷が感じて、自分が感じて。
 感じさせて。
 もっともっとと、求める。
 これは自分たちのバース性のせいなのか、それとも心が貪欲になったのか。
 わからないけれど、それはこれから知ればいい。
 ただ今は。
 感じるだけでいい。
「なあ、出せよ」
 喘ぎすぎてすっかりかすれた声でねだる。
「たくさん」
 果てのない欲の凄さを初めて味わう。
「まったく・・・」
 荒い息の中、汗だくの蜂谷が笑う。
「瑛!」
 ひときわ強く突き上げられ、熱いものが奥の奥に放たれた。
「ああ・・・ああ・・・ああ・・・」
 気持ちいい。
 すごくいい。
 気持ちよすぎてがくがくと震える自分を、蜂谷が抱き留めた。
 二人の匂いが混ざり合い、巣を作る。
「か・・・おる」
 こんなに自分が欲張りだなんて、知らなかった。
 でもそれは。
「えい・・・」
 
 お望み通りに。
 それが、俺の望みだから。
 と、言われた気がした。


「あの、ベッドルームにあった監視カメラはどうなったんですか」
 ふと、思い出したので聞いてみた。
「あれ?気付いていたの?」
 宮坂がきょとんと目を丸くする。
「はい。最初はわからなかったんだけど、途中で。ホテルに運び込まれた時に男たちがあらかじめ設置したみたいで」
「ああ・・・。そっち」
 物憂げにため息をつかれて、首をかしげた。
「あれはね。怒りの女神と化した瑛がね。完璧すぎるくらい破壊しまくったから大丈夫。正直、あいつらのやったことの証拠として欲しかったんだけど、まあ、瑛も嫌だろうから」
 事件にかかわったすべての人を聴取して、関係先も査察が入ったという。
 怪我を負った人は厳重な監視下のもと、治療をすすめていて、瑛の母の回復も順調だとか。
 時間の流れとともに、色々な真実が明るみになっていくが、解決もされている。
 アメリカで起きたオメガへのテロ行為も、大河を日本へ誘い出した手筈も全て掌握済みらしい。
 アルファの恩恵にあずかれずに道を誤った者、生物兵器としてバース特性に興味がある者たちが次々と捕縛された。
「あのね。そもそも通信回線からデータを破壊する能力って、もはやアベンジャーズだよ。俺や美津を越えてるね」
 そんなことを言われても、覚えていないから答えようもない。
「ま、色々なことはおいおいにね」
 そして、優しく頭を撫でられた。
「あらためておかえり、瑛。元気になって僕は嬉しいよ」
「・・・ありがとうございます」

 騒動から五日後の月曜日。
 ようやく出勤できた。
 何もかも丸投げなのは人としてどうかと思ったのだけど衝動がどうにも止まらず、出かけようと試みては挫折してを繰り返し、やっと落ち着いた今朝だった。
 初めてはそんなもんだよ、と宮坂と浅利が笑い飛ばしてくれたが、何もかもお見通しなだけにいたたまれない。
 そもそも、何日も欠勤した。
 仕事は同僚たちにカバーしてくれたおかげで支障を出さずに済み、正気に戻ったこの朝から頭を下げて回ったが、皆、まあ初めてだから仕方ないよなと、ぬるい笑みを返してきた。
 実は、このオフィスの従業員のほとんどがバース特性だとこの時初めて瑛は知った。
 憎たらしいことに、蜂谷はアルバイトの時から知っていたらしい。
 まったく何も知らないのは瑛だけだった。
「・・・あとで、話がある」
「おお、こわ」
 色々な矛先を、蜂谷に向けることに決めた。
 それがわかっているのに、蜂谷はただただ笑う。
「そういや、大我はどうなったんだ?」
 自分は少ししか危害を加えていないが、筒井は恨みを思う存分ぶつけていた。骨の一本くらい折れていてもおかしくない。
「ああ、それ」
 ちょっと唇を尖らせたのを見た。
 でも、気が付かなかったふりをしよう。今は。
「事件の時はね。一服盛られていたんだよ。だからあーなって、こーなって、意識を失っていたけど、身体はもう大丈夫。高位アルファはだてじゃないし、あの筋肉も見掛け倒しではなかったようだね。罪にも問われない。今、宮坂さんに回収されている」
 思いっきり省いた回答だけど、だいたいわかった。
 オメガのレイプは重罪だ。
 でも、薬を盛られていたことが立証されて無罪放免になったのだろう。
「宮坂さんが回収?」
 意外な話だ。
 ランチの時の二人は険悪だったのに。
「なんか、気に入ったんだって。ああいうの、すごく好みって・・・」
 ああいうのって、どういうのなんだろう。
 とにかく、このどさくさで大我は宮坂の手に落ちたということなのか。
「それは、また・・・」
 本当に。
 自分は何も知らなかった。
 でも、これから知ればいいと、思う。
 思えるようになった。
 不思議なことに。


 わたしのぼうや、しあわせになる。
 だいじょうぶ。わたしの、たからもの。

 この言葉があるから。
 だから、大丈夫。
 生きていける。
 ただ。

 おかあさん。

 かのひとのことを思い、そっと口の中で呼んでみる。

 おかあさん、おかあさん。

 自分をうんでくれたひと。
 自分をまもってくれたひと。
 言葉を、贈ってくれたひと。
 あなたのことは忘れない。
 だから。
 あなたもおれのなかにいて。
 ずっと、ずっと、おれのなかで生きて。
 おれのなかで、しあわせになって。

「瑛?」
 名前を呼ばれて、はっとする。
「どうした?」
 いつもこの男は自分をこんなにも気遣う。
「いや・・・。なんでもない」
 ただ。
「薫、好きだよ」
 気が付いたら、笑っていた。
 傍にいるだけで、こんなに暖かい。
「すごく、好き」
 言葉を、贈りたい。
 大切な、ただひとりの、お前に。

 -完-


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