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『天のゆりかご獣のすみか -1-』
「萌。お前に言っておかねばならないことがある」
祖母がぽつりと言葉を落とした。
助産師をしながら女手一つで父を育てあげた彼女は、いつも男のような口調で話す。
灰色の髪を短くまとめ、センスの良い着こなしで風を切って歩く。
歩幅の広い祖母に手を繋がれ、外を歩くのはいつも大変だった。
でも、そんなところがとてもとてもかっこいい。
私も晶も、祖母が大好きだった。
「用件は二つ」
ふう・・・と、重々しい息を吐いた。
祖母は、私たちの前でため息なんてめったにつかない。
「まず、私はもう長くない」
数年前に手術入院したのは覚えている。
でも、退院してからはいつもの祖母だったので完治したのだと思い込んでいた。
今、こうして向かい合っている瞬間も、祖母に死の影なんてまったく感じられない。
なのに。
「そして、お前は多分。・・・数年以内にオメガに変転するだろう」
オメガは特殊性。
アルファの子どもを産むための本能が普通の女性より強いらしい。
ついこの間小学校の授業で習ったばかりで、先生の話しぶりからあまり良い印象は持てなかった。
なのに、こんなことって。
「うそ・・・」
重すぎる真実を立て続けに聞かされて、息が止まりそうになった。
「すまない。せめてお前が変転するまでは生きていようと思っていたのだけど、もう時間がない」
「おばあちゃん・・・」
目に映る世界の全てが、歪んでいく。
「本当にすまない、萌」
テーブルの上で両手を強く握られた。
指の長い、大きな手。
温かい。
それなのに。
この人は、もうすぐいなくなってしまうなんて。
「萌さん。タオルの件で業者さんが二時くらいに伺いますって、電話がありましたー」
「あ、はい。ありがとう唯香さん」
店の外の窓に洗剤を吹き付けて乾拭きしながら、答えた。
明日からここでの仕事が始まる。
駅近くの商店街の一角にあるこの美容室が経営難に陥ったのをオーナーが知り、居抜きで買い取って新しい支店に決めた。
ここはマンションの一階に立ち並ぶテナントの一つ。
隣は珈琲店、その隣に雑貨屋、そしてパン屋。
お昼ご飯の確保に困らないのがありがたい。
機材の配置は変わらないが内装はがらりと変えた。
知人のつてをたどってアンティーク家具を少し入れて、居心地の良い空間を作れたと思う。
あとはこの町に馴染めるかどうかだ。
「じゃあ、ちょっとだけポスティングして、あとは業者さんの対応してからにしようかな」
「なにも萌さんやんなくても、小夏ちゃんと私で回れると思うけどな」
ふわふわとカールした茶色の髪がよく似合う唯香は私の一つ下。仕事の手際が良くて接客のスキルはかなり高い。
正直、彼女が店長の方が向いていると思っているし、オーナーにも打診したが断られてしまった。
「明日が本番なんだから、みんな体力温存しとかなきゃ」
「それ、萌さんに返しますー」
ちょっとじゃれ合いながらガラス磨きを楽しんでいると、背後から声がかけらた。
「あの・・・」
「はい?」
二人で同時に振り向くと、小柄な女性が立っていた。
「ここ、また美容室なのかしら」
年齢は七十代後半から八十代前半と言った感じで、少し背が曲がり、痩せ気味の足がとても細い。
「・・・あー。そうです。また美容室なんですよ~。経営者は違うけど」
唯香さんが答えている間にそっと店内に入り、チラシと名刺を取りに戻った。
「初めまして。『pica pica』の店長で八澤萌と言います。よろしくおねがいします」
「ぴか・・ぴか?」
看板は完成しているが、それだけでは何の商売をしているかわかりづらいかもしれないことはわかっていた。
「はい。カササギって意味です。可愛いらしくて覚えやすいかなと思いまして」
「カササギ…。ああ、鳥のマークがついているのはそういう意味なのね」
店名のバックにカササギのシルエットを入れていることに、名刺を見て気付いてくれたようだ。
「はい。明日から開店しますので、もしよろしければご利用ください」
「あの・・・。図々しいことは承知で言うのだけど、今日お願いできないかしら」
「え・・・」
まじまじと顔を覗き込んでしまった。
思わず口をついて出てしまったのだろう、老婦人も困惑している。
「あ、失礼しました。今日は・・・」
機材は揃っている。
朝一番で少し予行練習をしてみたから足りないものはないが、髪を染めたりパーマをするのは時間的に無理だ。
「ごめんなさい、カットだけでもいいの。前はここからもうちょっと行ったところの美容室へ通っていたのだけど、さいきんどうにも膝が痛くて・・・」
話を聞くと、このマンションの住人だった。
ローズ色の綺麗なプリーツスカートの裾からのぞくすっかり細くなってしまった足。
祖母の最晩年と重なり、ついに言ってしまった。
「わかりました。準備があるので店内で少しお待たせしてしまうことになりますが、よろしいですか?」
目の端で唯香が口をぱくっと開けたのが見えたけれど、もう後戻りはできない。
「ありがとう!ごめんなさい、とても助かるわ」
「どうぞ、こちらへ。足元お気を付けくださいね」
扉を開けて、ソファへ案内した。
「準備するんでちょっとお待ちくださいねえ。緑茶と紅茶とコーヒー、どれがお好みですか?」
後ろからついて来た唯香がお客様に愛想よく話しかけてくれた。
「お気遣いありがとう。・・・緑茶をお願いして良いかしら」
やや緊張した面持ちで小さな体をちょこんとソファにのせるさまは、おとぎ話の神様のようでどこか可愛らしい。
「はい、かしこまりました」
にっこり笑って奥のキッチンに向かって歩き出すとき、こっそり私に囁いた。
「萌さん、ほんっとお年寄りに弱いですね。わかっていたけど」
「ごめん・・・」
「貸しですよ~。隣のコーヒー奢ってください」
「ありがとう」
今夜は焼き肉をおごろうと心に決めた。
「あれはまさに、福の神だったわね」
ビールを飲み干した後、麗奈はしみじみと言った。
「どっちかというと、わらしべ長者でしょう」
店員が運んできたつくねの皿を受け取りながら香恋が応じる。
「いや、なんかありましたよね。もっとぴったりな昔話。年寄り助けて勝ち組になるやつが」
唯香が空いた皿を重ねてテーブルのスペースを開けた。
「かちぐみ・・・。いやいや、そこまで到達していません、まだ」
「いや、マジ勝ち組だから。なんなのよ、たった半年でこの収益」
「人間技じゃないわあ」
「謙遜もほどほどにしないと嫌味ですね」
美女三人が速攻で萌の反論を封じ込めた。
「・・・小夏ちゃん、九州風の焼き鳥って面白いね。キャベツ食べ放題で」
目をそらし、キャベツを自分の小皿にどんどん盛り上げて話も逸らそうと試みる。
「私に逃げないでください、店長。それと、キャベツばっかり食べないで肉食べてください、肉」
萌の心のオアシス、最年少の小夏からさえもけんもほろろにあしらわれてしまった。
「食べているよ、それなりに」
酢がたっぷりかかったキャベツを食みながら反論するが、四人の呆れかえった視線が痛い。
「いや、頼むから食べて、肉」
「何しにこの店来てるのよ。焼き鳥屋で野菜食べてなんになるの」
「そんなんだから馬力ないんですよ店長」
矢継ぎ早の口撃にもはや、店長も形無しだ。
豚バラのくしを手に取った。
「ごめんなさい。食べます・・・」
降参するしかない。
開店からおよそ半年。
現在この五人で店を回している。
メインは萌が店長、唯香が副店長、そして高等専門学校の後輩で新人の小夏の三人。そして前の勤務先での先輩で子育て中の麗奈と香恋が助っ人程度のパートと言う形で始めたが、もはや彼女たちは常勤に近い状態になっている。
なぜなら、ひと月も経たない間に予約がびっしりと埋まってしまうようになってしまったからだ。
きっかけは、開業前日に偶然出会った老婦人の頼みを萌が聞き入れたことだった。
富田、という上品なその女性は店舗がテナントとして入っているマンションの住人で、実はひと月ほど前に転倒して入退院、近所に住む娘と孫たちが近々訪ねてくるのにせめて見苦しくないように整えたいと悩んでいたところ、新規開店の美容室に気付いたというわけだ。
後日、事の経緯を聞いた娘が慌てて店にやって来て頭を下げた。謝礼を固辞すると、では仕事を依頼したいと言われ、いつのまにか七五三の着付けの打ち合わせに発展した。
お宮参りの当日、七歳の長女と五歳の長男、そして母親と祖母の和装着付けを行い近所の神社へ送り出したところ、それを見た商店街の人々に好評で、和装関連の依頼が立て続けに舞い込むようになった。
もともと萌と唯香は前歴に銀座が絡み、着付けと髪のセットに強かった。そして子育て中だけに麗奈と香恋は子供の扱いが上手く、鋏を怖がる幼児のカットも難なくこなせる。そして富田のような熟年層のカウンセリングも上手と言う評判も加わり、芋づる式に客が付いていった。
正直、怖いくらい順調な滑り出しだ。
「オーナー、うちらを公式から外したの、そろそろ後悔しているんじゃないですか」
唯香がメニュー表めくりながらぽつりと言う。
「ああ、ねえ。うちらを隠しコマンド扱いにしてるけど、もしかしたら利益率は二号店三号店抜いてるんじゃないかって噂あるからね」
麗奈の返事に萌は憂鬱になった。彼女は長年勤めていただけに伝手が多く、情報を掴むのが早い。良いことも悪いこともあっという間に拾ってしまう。
「そもそもうちは賃料が格段に安いからであって、あっちと規模は全然違うんだから比べないで欲しい・・・」
オーナーの奥寺が経営している店舗は流行に敏感な場所を狙い撃ちして片手では足りない数に上る。著名人のSNSにも登場し、そこで髪を整えるのが若者たちの間でちょっとしたステータスにもなりつつあった。
それに対し真逆なのが萌たちの店舗である。商店街の片隅にあるこぢんまりとして昔ながらの美容室を思わせる店構え。廃業した前の経営者が失敗した理由の一つはモード色が濃く敷居が高かったのではないかと言う萌の意見に奥寺が折れ、その代わり公式サイトに載せないことで決着したのだ。ついでに指名制を廃止して値段も安めに設定し、経費ぎりぎりの賭けに出てみた。
「今のところ順調なのは幸運が重なっただけと、ご理解いただけませんでしょうか…」
「ムリムリ。あっちの新店長たちは逆に苦戦してるから、萌ちゃんが鼻ぽっきりへし折ったってもっぱらの噂よ」
萌がこの店へ着任するタイミングでグループ内も大幅な人事異動が行われている。
ちょうど店長クラスが離職したせいもあり、数名が昇格した。
「笠井くんのところも近くに強力なライバル店が出来て苦戦してるみたいね」
夫の笠井涼介は数年前から吉祥寺の店を任されていて、萌はもともと彼の部下だった。
「あああ。やっぱりですか」
「なに、旦那から聞いていないの」
「お互いもうぐったりですよ。仕事の話なんてとても」
萌が店を任されたあたりから、勤務日はばらばらでお互いに帰宅は深夜になることが増えた。ベッドにたどり着いても先に帰ったほうはすでに眠っていることが多い。
そういえば最近、夕飯は元より朝食すら一緒に食べてない。
必要事項はメールでやりとりしているけれど、きちんと向き合って話をしたのはどのくらい前だろうか。
「新婚なのに?」
入籍したのは昨年のクリスマス。あと数か月でもう一周年を迎える自分たちをはたして新婚と言って良いものかどうか。
「新婚も何も・・・。付き合いが長かったし」
ずっと互いの家を行き来していたため、それを加えたら十分こなれた夫婦と言えそうだ。
「笠井さん、ふんわりした雰囲気があの店に合って良かったんですけどねえ」
唯香が焼酎のグラスを傾けながらふと口をはさむ。
「え?」
「なんか・・・。変わりましたよね」
断定するような言葉に、萌の心臓がはねた。
「・・・そ、そう?」
とっさに笑みを浮かべて取り繕う。
何が、変わったのか。
いつ彼を見たのか。
どうしてそれを今言うのか。
尋ねたいけれど、口にするのをためらってしまった。
「まあ笠井さんのとこは、ご新規特典期間が終わったら落ち着くんじゃないですかぁ?同期の子が言ってましたよ」
小夏のフォローに救われた。
「ありがとう。涼さんと話してみるよ」
ちゃんと時間を作らなきゃ。
それから・・・。
グラスの中の梅の実を眺めながら思った。
涼さん。
もしかして、あなたは。
疲れているときほど眠れないのは、いったい何が原因なのだろうか。
カーテン越しにしらじらと明けていく空を見上げてため息が出た。
「涼さん、おはよう」
朝の空気のように澄んで、やわらかな声。
まだ少し眠いのか、あどけないこどものような笑みを浮かべて寝室のドアから顔をのぞかせた。
「これ、今日中に奥寺さんに出さないといけなくてさ」
言い訳が口をついて出る。
開いたままの文書はどれだけ時間が経っても一字だって入力していないのに。
「そうなんだ。大変だね」
気遣うような視線を感じた。
振り切るために、集中しているふりをする。
「朝ごはん、食べる?」
「ん」
「ちょっと待ってね」
彼女は家事の手際が良い。
初めて料理をふるまわれた時を思い出した。
とても感動したのは、いつのことだったか。
「おまたせ」
ほどなくしてカップスープとトーストとコーヒーを載せたトレイを携えてキッチンから現れた。
細心の注意を払ってローテーブルに並べ、涼介の隣に腰を下ろす。
「ありがとう」
こまごまと刻まれた数種類の野菜とベーコンがたっぷり入ったミネストローネ。
萌らしい、気遣いにあふれた朝食。
二、三口スプーンですくって喉に流し込んだが、ことりとテーブルにおろす。
「・・・涼さん?」
限界だ。
「どう・・・」
皆まで言わせず腕を引いて、そのままラグに押し倒す。
「ん・・・」
唇をふさいで、パジャマの上からまさぐる。
「まって・・・」
細い指先が抗おうと肩を押してきた。
時間がないことくらい解っている。
お互い、身体の奥底に疲れがたまり切っている。
だから。
「したい」
すっかり固くなった腰を細い太ももに強く押し付け、耳の下を強く吸うと、あっけなく陥落した。
「り・・・」
甘い息を舌でからめとる。
何も、言わせない。
何も、聞きたくない。
気持ちいいことだけ、追おう。
「萌」
従順な身体。
俺が作った、俺のためだけの萌。
「好きだよ・・・」
スープの、味なんてしない。
食べたくない。
今は。
「相変わらずマメだなあ・・・。ありえない」
バックヤードで立ったままスープをすくって食べていたら、唯香が呆れたような声を上げた。
「スープジャーにミネストローネとかって、ほんっと見かけ通りの女子ですね」
まだまだ余力があると思われては困るので慌てて否定する。
「いやいや、単にこれ、今朝食べそびれた朝食なの」
すっかり冷めたスープをとっさに温め直してボトルに詰めてしまった。
結局、ほとんど手付かずだった朝食。
「食べそびれた?」
「・・・ええと、ちょっと時間が押しちゃって」
つい、ため息がこぼれてしまう。
今日も会話めいた物がほとんどないまま、身体だけつなげて終わった。
最近、このパターンばかりだ。
爛れているっていうのだろうか、これは。
疲れだけがおりのようにたまっていく。
「唯香さんも休憩できそう?」
軽く頭を振って話題を変えた。
「うん。今なら小夏ちゃんがトリートメントやってくれてるから」
頷きながら、唯香はフィルムを手早く剥いておにぎりにかぶりつく。
「おつかれさま」
今日も予約が詰まっていて、ちょっとした時間の隙間に食事を摂るしかない。
自分もパーマの機械のブザーを気にしながら続きをほおばると、唯香のくぐもった声が耳に入る。
「・・・あのさあ、萌さん」
海苔と、マヨネーズとシーチキンの匂い。
「んー?」
「笠井さんって初めてのひと?」
思わず口の中のものを吹きそうになるのを何とかこらえてのみ込んだ。
それでも少し気管に入ってしまったのでむせて咳き込む。
「あ、ごめ・・・」
申し訳なさげにぽんぽんと背中を叩かれる。
「・・・うん、うん・・・」
ようやく人心地ついたとき答えた。
「ええと、まあ・・・そんなかんじ」
笠井は、この仕事に就いたときに指導してくれた人の一人だった。
十八で美容師業界に入り、がむしゃらに仕事を頑張って、気が付いたら彼が近くにいた。
「萌さん・・・ほんっとまじめですね。まさか正直に答えてくれるとは思わなかった」
唯香のぽかんとした顔に全身の血が一気に巡る。
「仕事場なのにこんな居酒屋で聞くような話振ったの、そっちじゃない」
もう、泣きたい。
スプーンで意味もなく容器の中をかき回す。
「ああ、ごめんなさい。でも、そんな気はしてたんだよねぇ・・・」
「そんなって、なにそれ」
「そういうの、結構好きそうだな笠井さんって。なんか萌さんって紫の上っぽいというか」
まっさらな雪って感じ?
上目遣いの、どこかいたわるような視線にいたたまれなくなる。
「もうはたちだったから!そんなことないから!」
「そこまでは聞いてない・・・っていうか、二十歳になるまで待ったんだ、一応」
もくもくとおにぎりをほおばりながら言うことなのだろうか。
「いやもう、この話もうやめておねがいたのむから」
私たちのいるバックヤードは洗髪ブースより奥で、女性ボーカルの音楽も流しているから、お客様の耳にまで内容は聞こえづらい。とはいえ、話し込んでいるのはわかるだろう。
「そうですね。かなり踏み込み過ぎましたね」
ちょうどよいタイミングでアラームが鳴り誰かが動いてくれた気配がした。
急いでスープジャーのふたを閉める。
「うん、その話題、もうこれきりで」
鏡で軽く化粧崩れをチェックしてから歩き出す。
「はあい」
持てる限りの力を振り絞って接客モードへ切り替えた。
-つづく-
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