『果実。』



 ときどき、呼吸を忘れて見とれてしまうことがある。
 
 それは、入念に化粧補施しているとき。
 紅筆を滑らせているときのその指先と染まっていく唇。
 墨のブラシで存在感を増していくまつ毛。
 今まで、色々な女たちが目の前で見せてきた、ただの過程なのに目が離せない。
 今までと、何も変わらない。
 だけど、全く違う。

 女の化粧はね。
 鎧なのよ。

 昔、寝物語に誰かが囁いた。
 だけど、口にした女の顔も、声も、思いだせない。
 記憶にあるのは白いシーツと、やわらかな身体と香水の匂いだけ。

 逆に、その鎧をすべて洗い流して素顔を晒している時もついつい目で追ってしまう。
 水が今にも滴りそうな、果実のような頬。
 まるで、白桃を剥いた時のようなみたいだと思った。
 触れたら、どんな感じだろう。
 口に含んだら・・・と、危ない想像を始めてしまったところで正気に戻り、慌てて目を閉じた。

 林憲明はとても綺麗な男だ。
 女装をしている時も、そうでない時も、芯の部分が変わらない。
 そして、人を屠るその瞬間でさえも。
 命乞いをする者を睥睨するその時ですら、なぜか見とれてしまったことがある。
 林は、貧しい家に生まれた。
 父親が多額の借金を残して消えた後、それの穴埋めのために身売りを買って出た。
 しかし結局は大人たちに騙されて大切な家族を知らぬ間に失い、必死で稼いだ金も吸い上げられていた。
 そのためなのか、罪を犯した者に対する憎しみは強い。
 殺しの依頼があった時、対象が極悪犯だと二つ返事で受ける。
 時には無報酬に近い状態で殺してくることもある。
 そして普段はクールに構えてほぼ無表情なのに、憎しみだけはあらわにする。
 心も体も憎しみで真っ黒に塗りこめ、時には長々といたぶることもある。
 それは、人が見たら目を覆いたくなるほど残酷で、醜悪にしか見えないはずなのだが、その凶器に満ちた嗤い顔ですら、馬場は好ましく思ってしまう。
 逆に、ものすごく、そそられる。
 それこそが、林のもっとも素の部分であり、壮絶なまでの艶を帯びる。
 ところが林は色事にはとんと疎く、全く縁のない生活を送ってきたようだ。
 これほどの容姿ならば、雇い主たちの玩具にされてもおかしくない。
 妹が不幸な死を遂げたように。
 おそらく、最初の人買いが林の容貌に全く気付かなかったのがまず幸いし、さらには暗殺者を作る工場で鍛え抜かれた殺戮能力が、彼自身を救った。
 そのアンバランスさがまた魅力の一つだ。

 そして、とうとう母親と妹を救い出すというささやかな願いはかなわなかったが。
 林は今、自由になった。
 どう生きても良いのに、どこで生きても良いのに、この福岡に残って、相変わらず暗殺の仕事を淡々とこなしている。
 ただし過去と違うのは、思うまま仕事を選んで、それで得た金で存分に服や靴を買う。
 時には心配になるほどの買物ぶりだが、新品の服を身に着けて街を歩く時の彼はきらきらと輝いていて、誰もが目で追ってしまうほどに綺麗だ。
 人を殺すこと、それで金を得ることは過去に対するうっぷん晴らしでしかない。
 そんなこと、本人も十分わかっている。
 汚いこと、綺麗なこと、全部抱えたまま、林は笑う。
 心の底から、楽しそうに。
 昼も夜も、朝も。
 かたわらで、林が笑う。
 まるで子供のような無邪気な顔で。
 
「・・・ごめんなぁ、リンちゃん」

 自分は欲張りで。
 最初は生きていてくれるだけでいいと思った。
 次に、いつも傍らにいてくれたらと思った。
 そして今は。
 水があふれるかのように次から次へと欲ばかりが増えていく。

 憎しみも、悲しみも、怒りも、喜びも。
 すべてをのみこんで、味わいたい。

「泣かせることに、なるっちゃろうねえ・・・」

 泣かせたくない。
 でも、泣かせたい。
 心の中が振り子のように揺れている。
 それでも。
 丸飲みにして、自分のものにしてしまいたい。
 残酷で甘い夢に、胸をかきむしりたくなる。

「ごめん・・・」

 果実の香りに惑う。


 -完-


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