『神渡し』



  西風、それもかなり強い、嵐のような風。
  長月晦日の夜より始まる諸国の神々の出雲へ旅を護り届ける風のことを言う。
  そして、翌朝から出雲以外の国々は神無月となる。



「・・・風が出てきたな」

 四位少将藤原家長は馬上から空を見上げた。
「どうせなら、もう少し手荒な調子で吹いてほしいのだが・・・」
「お役目中に、何をのんきなことを・・・」
 馬を並べて進む左近中将が苦笑する。
 彼らは、葵祭の斎宮代の禊に付き従う行列の中にいた。
 行列の通り道となる一条大路は斎宮代と供奉する選りすぐりの公達を見ようと、見物の女車が立ち並び、庶民はその間を塗っておしあいへしあいの有様。
 そして、普段邸内に閉じこもりがちな良家の子女たちはこの時とばかりに衣装に贅を凝らし、化粧も念入りに施す。車の御簾の外にはとりどりの出衣がこぼれ、道中はどこもかしこも色の洪水である。
 更に、そんな女たちをひとめ見ようと、男たちもどっと群がるのだった。
 行列に加わる少将達も例外ではない。新調の衣に身を包み、背筋をのばして斎宮代の後につづいて入るものの神事ゆえに何ら危険なことはなく、警護という名目上刀を帯びてはいるが、列に乱れを見せさえしなければ気楽な役目である。むしろ、馬上から人垣を見下ろす形になり、居並ぶ女車をじっくり検分でき、幸運だと言える。
「あの網代車は・・・?」
 いくぶん先の方にいくつかの車を従わせた網代車が目に付いた。新調したばかりであろう綺羅綺羅しい周囲の車に比べたら昼の光の中いささか古びて見えるが、調度の取合わせがしっとりと落ち着いていて、逆に月日と手間をかけて磨き上げた床を見るような良さがあった。
「ああ、あれは治部卿宮家の姫君だろう。芳子女王と言ったか・・・」
「芳子女王?何故そんなに簡単に解る?」
「東宮御所にちょっと馴染みの女房がいてね。万事控えめな方で表になかなか現れないと聞いていたが、珍しく出てきたのだな。おおかた女房たちにねだられたのだろうが・・・。すったもんだでやっと秋に入内だそうだ」
「ああ、副臥を宮家の姫君が務めたといっていたが、治部卿宮家だったのか」
「お前、ちょっと世情に疎くないか?次期帝の女だというのに」
 恋でも仕事でも先輩にあたる中将は、いささか無頓着な叔父を顧みて笑う。
「宮家にまで俺は足を伸ばしていないからな・・・」
 一緒に左近衛省務める朋輩だが、現内大臣自身がかなり歳をとってから受領階級の女に産ませた末子の四位少将と、その内大臣の嫡子の更に三番目の息子である三位中将は、叔父と甥の関係でありながら、歳が近いうえに、兄達が病で亡くなるか余程の手柄をあげないかぎり栄達の道はあまりない身の上というのが似通っているからか、仲が良い。
「春風の君とか、曙の君。そう女房たちは言っているらしい」
 頼みもしないのに、気をきかせてそんな情報まで耳に入れてくれるほどに。
「女房ってのは何かと主人思いだから、些細なことも誇張して褒めちぎるから困ったものだ・・・」
 生まれ月の関係でわずかに年上の甥の世話焼きぶりを笑って軽く受け流しながらも、少将は網代車から目を離せないでいた。
 ゆっくり歩を進めているが、もう少しで近くを通り過ぎることができる。
 御簾からのぞく出し衣も美しい網代車の女主人は、いったいどういう姿をしているのか・・・。
 そう考えながら、馬の手綱を引き気味にしたその時。
 女たちの悲鳴と共に、前方から物凄い勢いの突風が吹いてきた。
「危ない!!」
 中将と共に手綱を一気に引き寄せ、馬を止める。
 そして、砂埃の舞い散る中、尚も網代車に目を向けると・・・。
 薄もやの向こうに、二人の女がいた。
 網代車の御簾が風にはねあげられて、袖口に顔を伏せる女たちの姿がはっきり見える。
 一人は萌黄を基調とした衣装の女、もう一人は白地に紫の文様の唐渡りと見える衣を着た女。
そして、唐渡りの衣に身を包む女が面を上げた。
乳白色でやわらかい輪郭を描く小さな顔が、栗色に波打ち暖かい光を放つ豊かな髪の中にひっそりと包まれていた。
年の頃は東宮よりいくらか年上でどちらかと言うと20半ばの自分に近いと聞いていたが、高貴な衣装に身を包むそのさまは少女めいて見えた。
 一瞬、自分を見つめる少将に驚いたように黒目がちの瞳を見開いた後、いたずらが見つかった子供のように少し困った表情を残して、口元を袖で隠す。そして、隣に座っていた女が素早く御簾を手に留め、引き降ろしてしまった。
「あ・・・」
 そして更に事態に慌てた警護の者達が取り囲んでしまったので、網代車の中の様子すら解らなくなった。
「三条が芳子女王に仕えているとは聞いていたが、相変わらず壮絶な美人だな」
 やはり、砂塵をものともせずに女たちの動向を眺めていた中将は、感に堪えないといった面持ちで息をつく。
「・・・あの、萌黄の衣の女か?」
「ああ。麗景殿女御が数年前に差し出したらしい。なんといっても当代きっての恋歌を詠む女房だからな。数年前に一度手合せ願ったが、あっという間にかわされたよ」
 袖にされたことを告白しながらも、中将の語り口は生き生きとしていた。
「なるほど、歌上手の女房は恋上手というわけか」
 いつのまにか収まった風に前方からの再出発の号令を聞き、二人は馬の脚を進める。
 そして、中将と始終軽口をたたきあいながらも、少将は頭のなかで袖口に隠れるようにしながらも自分を見上げた黒い瞳を何度も反芻していた。


 帝の次の弟君である治部卿宮は風流を好み、邸内の隅々までそのしつらえに気を配る。
 調度品も古いものを大切に扱いつつ、唐渡りの楽器などもいち早く入手して飾り、そのとりあわせが治部卿宮の趣味の良さをうかがわせた。庭の植え込みに至っては、四季折々の花々がどの部屋にいても楽しめるように手入れするよう下人に言いつけている。
「いつ来ても、この屋敷は花盛りだね」
 桜の花が咲いた後は花の季節の移り変わりは瞬く間である。
 暖かい日の光と豊かな雨の中、すべてが競うように花開く。
 桜、石楠花、芍薬、牡丹、藤、そして・・・。
 縹の直衣に身を包んだ訪問客は、池に青々と草むらを作り、風にそよぐ菖蒲の葉を眺める。
「父上に言わせれば、一番の道楽だそうです」
 首を傾けた拍子に、白地に紫の花の文様を織り込んだ唐渡りの衣の上を少し色素の薄い髪がふわりと滑り落ちた。
「・・・葵祭の時もその衣装だったね。小侍従たちにねだられて一条大路まで出たようだったけれど、たまには祭見物も気晴らしに良かったのではないかな?」
「ええ、とても楽しかったです。町中に葵の葉がそれぞれ思うように飾ってあったのがとても綺麗だったし、子供たちまではしゃいでせいいっぱい装っているのも可愛いくて・・・」
 ほのぼのと笑う姫君の髪をひと房手に取り、口付ける。
「斎宮代の行列もなかなかそうそうたるものだったね。今年担当の者たちがはりきって準備して見栄えのある公達ばかり取り揃えたらしいし、それを聞きつけて御所では女房達が大騒ぎしていたよ」
「そうでしたか。おかげで、牛飼い童達が場所を取るのに難儀したと後でこぼしておりました」
祭の混雑ぶりを思い出し、二人は笑みを交わす。
「そういえば、あの時に突風が吹いて悲鳴があちこちから聞こえたけれど、大丈夫だったのかな?」
突風が吹き御簾を取り去った瞬間、砂塵の向こうに人がいた。
射るような瞳が怖いと思ったけれども・・・。
「・・・ええ、三条たちが側におりましたから」
 薄もやに消えていった行列を瞼の下で追いかける。
「姫が風にさらわれたら、どうしようかと思ったよ」
そして、男は更に手を伸ばして姫君をゆっくり抱きしめた。
「・・・東宮さま?」
「姫がそばにいるときが、一番ゆっくりできる・・・」
 肩口に顔をうずめられ、まだ少年の名残りのあるしなやかな背中に静かに手をのばす。
「・・・東宮さま・・・」
 ぬくもりにそっと頬を寄せて目を閉じた。


 やがて朝顔の花が生け垣を彩りはじめる頃、才色兼備で名高い三条の詠む恋歌にさらなる艶がかかり、誰か新しく通う人ができたのだろうと人々の口に昇るようになった。
あの公卿だろうか、いいや、あの公卿に違いないと噂が流れているうちに、菊の節会の季節を過ぎ、治部卿宮家では姫宮の入内の支度で大わらわとなっていった。
 

「・・・ほんの少しでいいから、姫君に会わせてもらえないだろうか」
 横に臥している三条を後ろから抱き寄せて、そのうなじに呟きを落とした。
「姫君?」
「・・・芳子姫だ」
 驚きに身を返そうとする三条に回した腕の力を更にこめる。
「一晩でいい。手引きしてもらいたい」
 この男は何を言っているのだろうか。
 つい、先程まで自分と濃密な時を過ごしておいて、他の女に会わせろという。
 しかもその女は自分の主人であり、来月には東宮の元へと入内すると公に決まっている。
「そんな大それたこと、とんでもありませんわ」
「・・・そうかな。そなたならば…と思っていっていたのだが」
 男はゆっくりと唇をうなじから耳へと這わせた。
「私ならば?」
「恋上手として名高いそなたならば、そつなくやってくれるだろうと・・・」
「・・・!」
 耳を噛まれて、三条は背筋を震わせた。
 ソナタナラバ、ソツナク・・・。
 何人もの男と浮名を流すような女ならば、何を言っても笑ってくれると思っているのだろうか。
 どの男でも受け入れて、どの男も深追いしない、その上色事の共犯者にもなれる。それが男たちの理想とする恋上手というものなのかと、三条は遠い闇の先を見据えた。
 居心地が良いと思いはじめていたぬくもりにしらじらとしたものを感じ、息をつく。
 いま抱きしめられているこの手を払い除けて男を詰るには、自分の誇りは高すぎた。
「・・・本当に、芳子姫にお会いになりたいのね?」
 三条はゆっくりと首をめぐらせ、男の瞳を見つめた。
「お側近くに仕えているのだから、確かに手引きはできるでしょう。でも、私ができるのはそこまで。お側仕えたちが騒いだら、一巻の終わりということはよくよく考えたうえでおっしゃるの?」
「ああ、そうだとも」
 彼の瞳は、少しも揺るぎがなかった。
 不安も、憂いも、ためらいも、そして最悪感も、姫宮を想う心の前には無きに等しい。
 元服して十年は経とうかというこの男の中に隠れていた、頑なさに三条は瞠目した。
 末子とはいえ、今をときめく内大臣の子息であり、数年前に宮中で甥の左近中将と青海波を舞って以来、女房たちがひそかに海王と呼び憧れる四位左近少将。公卿の家に生まれながらも武芸を好むせいかすらりと伸びた体躯に程よく肉が付き、きりりと濃い眉と幾分鋭い眼差しを武神が現世に現れたようだともっぱら評判であるのに、それを良い事に浮名を流していると聞かなかったのは、恋に関しては少年のように一本気なところがあるからなのかと今更ながらに思う。
 それならば、と三条はため息をついた。
「・・・三日後に乳母が宿下がりされるわ。彼女の娘がそろそろ出産だから」
「三日後?長月最後の夜か・・・」
「ええ。乳母が不在だといくらか姫君の身辺は手薄になるから、その時しかないでしょう」
 言葉を聞くなり、少将の瞳に鮮やかな色が浮かぶ。
「・・・やはり、そなたは頼りになる・・・」
 三条は面をあげ、目を閉じる。
秋の風の中に、どこか、わずかではあるけれど土と水の匂いを感じるような気がした。
「・・・雨がくるのかしら・・・」

雨が降るというならばならば降ればいい、風が吹くというならば、存分に吹くがいい。
そして、嵐がくると言うならば、くればいいのだ・・・。


 ごうごうと音を立てて風が吹き荒れていた。
風に煽られて邸内の木々はざわめき、竹はぶつかり合ってぶーんと低いうなり声を上げる。
邸内のあちこちで警護のものがかがり火を焚いたりもしているが、風に吹かれて今にも消えそうだ。
 光と闇の間を縫いながらいつもの道をたどって局の戸を叩くと、待ちわびていたのか三条がするりと少将の手を取り、中へ導いた。
「お気持ちは、変わりませんか?」
 隙間風が入ってきているのか、またたく灯火の下で互いを探るように見詰め合う。
「揺らぐような決心なら、最初から口にしたりはしないさ」
「・・・そうですわね」
ゆるりと少将の手をといて微笑んだ。
「予定通り、乳母は宿下がりしています。どうやら難産のようなので、今宵は戻らないでしょう」
すっと背を伸ばして三条は立ちあがる。
「まいりましょうか」
 遠くで雷鳴が鳴り響いた。


 いくつもの局と几帳を通り過ぎ、奥へ奥へと歩みを進める。
 二人のおこす衣づれの音も、次第に近くなっていく雷鳴と、とうとう降り出した雨が屋根や廊下の板を叩く音に紛れてしまう。
 雷鳴が上がるたびに、そこかしこで女房達が悲鳴をあげているのが聞こえてくる。
 そして塗込めのそばにたどり着いた時、三条は少将を振り返った。
 嵐の夜故にか、自分のような不埒物の侵入を警戒してか、姫君の寝所は最奥の、入り口が一つしかない場所だった。
「私が案内できるのは、ここまでです。この天候なので幾人かお側近くで宿直をしているとは思いますかけれど、貴方が誰かわからぬものはおりますまい」
「・・・貴方はこれからどこへ?」
 今更問うても仕方のない言葉に、女は首を振って苦笑する。
「・・・さすがに、ここから先は手を引いていくわけにはいきませんわ」
軽く会釈をして少将に背を向けた。
「・・・たしかに」
 闇の中に三条の後ろ姿が溶けて見えなくなるまで見送った後、ゆっくり塗り込めの戸に手を伸ばした。


 叩き付けるような雨音がばらばらと響く中、塗り込めの中の空気は女房が姫君への慰めに焚いたと思われる香の甘い香りが入り交じり、緩やかな温かさを醸し出していた。
「どなた・・・?」
 さすがに雷が気になって眠れないのか、若く、はっきりとした誰何の声があがる。
「・・・風に連れられて神々の元へ行ってしまわれる前に、一目お側近くでお会いしたいと参りました愚か者をお許しください」
 予期せぬ低くて深い男の声に、幾重にも巡らせた几帳から年若い女房が姿をあらわして息を呑む。
「あなた様は・・・!」
 驚きの声を上げたのは、この邸内で三条の隣に局を構える王の命婦だった。幾度か三条を尋ねた折に顔を合わせている。
「お願いだ、王の命婦。東宮御所に入内されたら、とても私のような若輩者は会うことなどかなわない。ほんのひとときで良い、姫君と直に話をさせてくれ」
 少将は王の命婦の袖をつかんで哀願する。
「お願いです、お帰りください。今ならば、嵐に紛れて誰も気づきません。このようなふるまいは少将さまの名に傷がつきます。どうか・・・」
「構わぬ!」
 嵐のせいなのか、心の中の何かが速く、と囁く。
 押しとどめる王の命婦の手をやや乱暴に振り払い、記帳の奥へと進んだ。
 幾重にも並べられた記帳と触手のようにのびてくる女房達の手をかいくぐるように前へ進むと、ふいにぽっかりと空いた空間に出る。
 そこには畳がのべてあり、その上に手をついて身を起しかけた女がいた。
「芳子姫・・・」
 驚きに目を見開いて後ずさりするが、狭い塗り込めの中ではすぐに壁にあたってしまう。
「葵祭でおみかけして以来、ぜひ、いま一度お会いしたいと思っておりました」
 ゆるやかに羽織った袿を胸の前で握り締め、壁に背中を押し付けて芳子姫は肩を震わせる。
 衣から覗く小さな足の指先が、とても冷たそうに思えたので更にいざり寄って両手に包み込むと、案の定、ひんやりと小石のような感触が手の中に広がった。
 記帳の外に灯してある明かりのおかげで、その顔立ちは間違いなく唐渡りの衣を身に着けて網代車に座っていた女のものだと見ることが出来た。
「ああ、やはり貴方だった・・・」
 少将は安堵の吐息をつく。
「・・・怖がらないで下さい。貴方の声を聞いてみたいと思っただけですから」
 なだめようと爪先をさするが、小刻みに震えるおとがいをゆっくり左右に振るだけである。
「姫・・・」
 薄明かりにひとすじの涙を見たような気がして少将が両の手をゆるめた瞬間、姫君が思いがけない素早さで戸口の方へ身を翻そうとした。
「姫!!」
 一瞬はやく、その体を抱きとめる。
「どうかわかってください。今しかないのです、貴方にこうしてお会いできるのは。お願いだから、逃げないで下さい・・・」
 逃すまいと更に腕に力を込めると、首元から夜に香る花のような甘く優しい香がたちのぼる。
 俯いた顔を覗き込むと、姫の黒目がちの瞳が瞬き、震える唇はゆっくり言葉を押し出そうと形を変えた。
(少将、どの・・・)
「ひめ、芳子姫・・・」
 少将は、芳子姫を抱き上げた。


 ごうごうと風が吹く。
 そこかしこに植えられた木々がざわざわと枝を揺らし、悲鳴を上げる。
 雨が激しく板張りの廊下や渡殿を叩く音と、闇を切り裂く雷鳴が絶え間なく続く。
 二人がもみあって起こす衣づれは嵐の音にかき消され、少将は思いの丈をただひたすら腕の中の姫君にぶつけた。
 抵抗する両腕を難なくまとめあげ、むさぼるように唇を合わせているうちに、だんだん体の強張りは溶けていった。
 ふと気がつくと、騒いで事を大きくするよりはと判断したのか、王の命婦をはじめとした女房達はいつしか塗込めを退出していた。
 暖かい塗込めに二人きりだと知った少将は、肩や首すじに唇を滑らせながらゆっくりゆっくりと小袖をくつろげていく。
「綺麗だ…。」
 薄明かりに光る白い体は幼さの残る面差しを裏切って、豊かで柔らかい。
 絹糸のように細やかな髪を梳きながら頬を愛撫した。
 しかし、長い睫にふちどられた涙の零れつづける瞳を覗き込んだ瞬間、この美しい女は自分のものではないのだという事に気がついた。
 ・・・この体を、東宮は何度愛した事だろう。
「姫・・・!」
 ふいに己のしるしをくまなくつけたい思いにかられ、更に激しくかき抱く。
 板の隙間から聞こえる風は獣のうなり声のような音を立て少将の行為を咎めたが、触れれば触れるほどなめらかで心地よい肌に欲望は止まるはずもなく、思うままに姫宮をむさぼった。
 そして、少将が我に返ったのは、隣の屋敷に落ちる程の雷鳴を聞いてからだった。
 どおおんと言う地響きに、屋敷の柱と戸はびりびりと震え、二人を囲む几帳がかたかたと揺れた。
 少将がはっと身を起すと、意識を手放してしまったか、芳子姫は力なくうつ伏せていた。
 頼りなくほっそりした肩からすんなりした背中を乱れた髪がうねうねと流れ落ちて覆う。
 無理矢理抱く事で心も体も踏み付けにしてしまったと今更ながらに少将は悔いて、姫の体を袿でそっと包み込む。
「・・・どうぞお帰りください」
 伏せたままの背中から、思いのほか静かではっきりとした声が乱れた衣の中に落ちた。
「もう、よろしいでしょう・・・?」
 どんなに激しく責めてもけっして抗議の声を上げなかった姫宮が初めて口にした言葉は、少将の胸を鋭く貫いた。
「姫・・・」
 青ざめた少将の顔をしばらく見詰めた後、姫宮はゆっくりとひじを突いておきあがり、うつむいたまま時間をかけて小袖を身につけた。
 やがて袴の帯を締め終えると裾を揃えて向き直る。
「今ならば、雷騒ぎで家のものも動転しています。騒ぎに紛れて出て下さい」
 やわやわとした光の中、少将が無残に手折った筈の花は凛と花開いていた。
「そして、忘れて下さい。私も嵐の夜の浅い眠りに見た夢だと思う事にします」
 一夜でいいから共にしたいという願いと、一夜契れば満足するだろうという浅はかな考えは、家の奥深くに大切に守られて人との関わりも薄い筈の姫宮にとっくに見抜かれていた事を知り、少将は驚く。
 確かに、三条に案内を頼むまではどこかにそんな気持ちがあったような気がした。
 塗ごめに踏み込んだその時ですら、口からついて出たのは夜這いの決まり文句でだった。
 どこにでもいる少し身分の高い青年が、世間知らずで高貴な女をつまみ食いするための世迷言。
 これはただの遊びだと宣言したようなものだろう。
 驚くに値しない。
 思い返せば返すほど、自分はあまりにも不誠実だった。
 なぜ、そのような真似ができたのだろう。
 少将は心から悔いた。
「姫…。私は…」
 長い髪をひとすくい手に取り、額にあてる。
 柔らかなそれは、まるで天女の衣のようだった。
「どうか、おひきとりを」
 困惑しながらも、どこか子供を諭すような声色に、これ以上この人を困らせてはならないとも思う。
 しかし、内大臣邸に戻って何事もなかったことにしてしまったなら、数日後にはこの姫宮は東宮御所に入内して、二度と手の届かない人になってしまう。
 最初は桜の花のように風に吹かれれば儚く散ってしまう人だと思っていたが、目の前でいずまいを正して自分を見据える姫宮は、嵐に巻き込まれても揺るぐ事のない瞳を持っていた。

 まるで、嵐の去った朝に天に向かって咲く花のように。

 どうして、手放す事が出来ようか。
 今、こうして近くにいるのに、離れてしまうことなど考えられなかった。

 ふいに少将は目をつぶって耳を澄ます。
 雷鳴は次第に遠のいて、雨音もだんだん緩やかな調べを紡ぎ出す。
「・・・一緒にここを出ましょう。まだ、紛れるには十分の闇がある」
 唐突な少将の言葉に姫宮は目を見開いた。
「・・・え?」
「安芸のほうにつてがあります。そこで私と暮らしてくれませんか」
 姫宮の小さな肩に自らの単を着せ掛け、耳元に囁きかける。
「最初は確かに、どこかで一夜かぎりで良いからと思っていたような気がします。でも、今は違う。貴方と、もっともっと長い時を過ごしたい」
 春も、夏も、秋も、冬も、権力からも都からも遠く離れた土地で、この姫宮が傍らにあるならばとても幸せな日々か過ごせそうな気がした。
「姫は海を見たことないでしょう。安芸の海はとても綺麗ですよ。青い波間が日の光に反射してきらきら光るそのさまを、貴方にぜひ見せてみたい」
 両手でを包み、うっとりと目を閉じて小さな唇に口付けを落す。
 さらにゆっくりと口の中を味わうと、柔らかな舌が迎え入れてくれたような気がした。
「・・・姫宮」
 頬と頬をあわせ、優しく背中を両の手で愛撫し、なおも囁きかける。
「貴方が心から笑っている顔が見たい・・・」
 唇を合わせ、吐息を絡めとったとき、少将どの・・・という呟きが聞こえた。
「姫宮・・・?」
 互いの息が届くほどの距離で顔を覗き込むと、燭台の炎の揺れる中、唇をかみ締め、姫宮はためらう。
「・・・少将どの・・・」
 少将は微笑んで姫宮の言葉を待つ。

 何度も瞬きして、更に口を開こうかとしたその時。
 年老いた女の声と女房達のざわめきが聞こえた。

「乳母どの、今しばらくお待ちを!」
「まあ、おまえ達、この嵐の中、姫宮を塗込めに一人閉じ込めて、寂しい思いをさせるなんて、何たる事!」
「姫さまは先ほどようやくお休みになられたばかりです、どうか・・・」
「ええい、誰にものを言うておる!」
 塗込めの戸がすらりと開く音がした。
 二人は身を硬くする。
「姫さま、ただいま戻りました。さぞや心細かったでしょう・・・」
 騒がしい衣づれと共に、いささか無作法に乳母が几帳から顔を出した。

「・・・姫さま!」

 思いもよらないありさまに乳母は悲鳴を上げる。
 几帳の中には狩衣を着崩した男と、その男の腕の中に小袖姿に男物の単を肩に羽織ったきりの姿の姫宮がいた。
「なんてことを!」
 乳母は足をもつれさせながら前に足を進め、二人の間に飛び込んでいく。
 とっさに、少将は姫宮を単ごと抱き上げた。
「なりませぬ!」
 身を翻して姫宮を抱えたまま塗込めの外へ出ようとする少将と、それを阻止しようとする乳母の間でもみ合いになり、几帳はばたばたと倒れていく。
「少将さま!」
 物音と乳母の声を聞きつけた女房達が駆けつけた。
「おやめくださいまし、少将さま!」
「だれか!」
 女房達がおろおろと取り囲む中、あまりの事態に姫宮は身を硬くする。
 細い指先が、少将の背にすがった。
 しかし、乳母はなお髪を振り乱し、爪を立てた両手を高く掲げて少将に飛び掛かった。
「姫さまをおはなし!盗人!」
 破れかぶれの勢いに驚いて足を止めた瞬間、すばやく乳母は両腕を差し込み姫宮を奪い取る。
 しかし、いくら小柄とは言え年若い姫宮と老いた乳母ではそう支える事が出来ず、しっかりと抱えたままもろともにどうと床に倒れ込んだ。
「乳母どの!」
 女房達の悲鳴が上がるが、乳母は程なくして起き直す。
「だいじない」
 乳母の顔に勝ち誇った笑みと安堵の色が広がる。
「もう、大丈夫ですからね、姫さま。この乳母がお守り申し上げましたからね」
 ゆっくりと抱え込んでいた手をはなし、幼子をあやすように満足げにその背をさすった。
「さあ、宮様をお呼びするのです。いかな少将どのといえど、これはゆゆしきことです」
 誇らしげに顎をそらし、呆然と立ちすくむ少将を指差す。
 あわてて踵を返して渡殿へ急ぐ女房の後ろ姿を見届けたあと、倒れ伏したままで動かない姫宮の肩に手をかける。
「姫さま、さぞや怖かったでしょう・・・」
 しかし、どんなに乳母が肩を揺さ振っても姫宮のいらえはない。
 そっと体を返すと、力のない頭がごろりと動く。
「姫さま・・・?」
 恐る恐る手を翳すが、瞳は虚ろに見開かれたまま動かない。
 慌てて、口元に頬を寄せたが、何の息吹きも感じられない。
 床にぬるりとした感触を覚え、指先でぬぐってみると、生暖かい液体が乳母のそれを赤く染めた。
「ひ・・・!」
 驚きに乳母は後ずさる。
「姫!」
 少将は駆け寄り抱き上げ揺さぶるが、暖かな体はゆらゆらと力なく揺れるだけだった。
「姫さま・・・!」
 女房達が悲鳴を上げ、乳母がどんなに泣き叫んでも、姫宮が瞳に力を取り戻す事はなかった。

「なぜだ・・・」

 これはいったいどうしたことだ。
 すべての音がかき消され、時が止まったような気がした。
 姫君を力の限り抱きしめる両腕が、朱に染まっていく。
 そして、ぬくもりは、次第に遠のいていった。


「・・・芳子女王、ご逝去あそばされました」
 珍しく右大臣、左大臣がうち揃って東宮御所へ参内したことに首を傾げていると、二人は何度も目を交わしあい、やがて思い切ったように口を開いた。
「え・・・?」
「ですから、昨夜おそくに、お隠れあそばしたのです」
 もう一度繰り返す左大臣の言葉を信じられずに東宮は笑う。
「姫は・・・。昨日、文をくれたよ・・・?」
 今身に着けている直衣も一緒に届けられたものだ。
 裁縫が得意な姫宮が女房達と布を染めることから楽しんだと書き添えられた文からはまだ彼女の愛用の香の香りがはっきりしている。
 なのに,大臣たちは彼女が死んだという。
 冗談でも、言って良いことと悪いことが有るものだ。
「・・・なにぶん、急なことで・・・」
 みなまで言わせず、右大臣の言葉を遮り立ち上がる。
「うそだ!!」
 御簾を払いのけて現れた東宮に両大臣も立ち上がる。
「どちらへ参られます!?」
 二人がかりで取り押さえても、少年といって良い東宮には払いのける力があった。
「どかぬか!治部卿宮家に行く!!」
 自分の目で見ないことには、とてもそんなことは信じられなかった。
 生きていたじゃないか、一昨日には二人で庭を眺めて楽しく過ごしたのに。
 文の返事には、庭に遊びに来る小鳥の事や、最近咲き始めた花の色の事がこと細かに。とても楽しげに語られていたのに。
 うそだ、うそだ、うそだ・・・・!
「なりません!!」
「だれか、東宮をお止めしろ!」
 御所詰めの人々がいっせいに取り囲む。
「東宮!」
「あにうえ!」
 払っても払っても体をとりどりの腕が蔓草のようにがんじがらめに絡み付く。
「放せぇっ・・・!!」
 東宮の血を吐くような叫びだけが、秋の澄み切った青い空に、高く、高く響き渡った。


 そして、秋の嵐の吹き荒れる中、宮家の姫の葬儀は密やかに執り行われた。
 入内間近の東宮妃の突然の死は、東宮自身の将来と心に暗い影を落とし、忌むべきこととして人々は口に出すことさえ憚った。


「自害は許さぬ」

 今上帝と似通った高貴な造作の若い男が、冷たいく言い放つ。
「支えを失った東宮はしばらく立直れないだろう。腑抜けになった男を次期帝と担ぎあげるには、たとえ左大臣といえども荷が重すぎる」
 芳子女王は東宮元服の折に副臥に立った、いわば初めての女だった。
 たとえ宮家ゆえに後ろ盾が頼りなく、後に上がってくるはずの年若い大臣家の姫君たちが中宮、皇后と上位へ立后したとしても、二人の絆は決してはかなくなることはあるまいと近しい者たちも思い、それが何事も真面目でおとなしい東宮の心の支えになればと願っていた。
 しかし、彼女の死によってますます内向的になっていくだろうということは想像に難くない。
 人々は、神と仰ぐからには光り輝くような力強い男を帝の有るべき姿として望むものだ。
「そして、今東宮を引きずりおろして誰を後釜に据えるかで、ここ数年あらかたまとまっていた朝廷も散々になるだろう。長きにわたって中央が乱れると下々にまで類は及ぶ」
 どこの派閥に入るか殿上人同士は探り合い、また、誰につくかで地方豪族達も奔走する。
 そうした時にこまめに動き回るのは賄賂と貢ぎ物である。それらを捻出する為に、農民達への取り立ては厳しくなり、生活は苦しくなっていくのは目に見えていた。
 国が荒れると、更に人々は頼りない東宮を元凶として怨むことになる。
「・・・お前が貫こうとした恋の顛末とは、こんなものだ」
 切り捨てるような口調と眼差しは、少将にどのような言い逃れも許さない。
 少将は床についた手を、強く、握り締める。
「あの夜が神渡しの夜だったというのが幸いして、治部卿宮邸内ですらあの騒ぎに気付かずじまいの者が多い。・・・よって、箝口令をしいた。」
「箝口令・・・・?」
「乳母はそのまま出家して宇治の方に庵を結び、居合わせた女房たちは大后宮預かりとし、手引きした三条は都を下ることになるだろう」
 時が流れるのは早い。
 最初は口さがない噂が氾濫しても、いつかは忘れ去られてしまうのが世の常だ。
 そして、記憶が薄れてしまうと、真実などどうでも良くなってしまうだろう。
 人々に忘れてもらう為にも、関係者が治部卿宮家にとどまるのは危険といえた。
 年若いというのに既に遊び人としてばかり名が通っている筈の朱雀宮の、水も漏らさぬ采配に少将は息を呑む。
「自分の為したことと結果をあまさず見とどけ、更に東宮が自分の足で立てるようになるまで陰ながら支えるのが、お前達のするべき償いではないか?」
 呆然と座り込むままの少将に朱雀宮はさらに言葉を重ねる。
「・・・あの世で姫にわびを入れるのは、全てが終わってからだ」
 さえざえとした微笑みを口元に残して、彼は扇を閉じた。

 自分よりも年上の男がうなだれるさまを横目に見ながら、帝の末弟である朱雀宮は脇息にもたれかかった。
 ここは東宮殿。
 まだ十代半ばを超えたばかりの東宮には、芳子女王を失った衝撃はあまりにも大きすぎた。
 床に就いたきり起き上がることもままならないのは極秘であり、そのために歳が近い朱雀宮が成り代わって政務をとっていた。
 帝とごく一部の近習しか知らぬこの代役。
 しかし、数えるほどしか東宮とその叔父にあたる朱雀宮に拝謁したことのなくても、その風格の差は隠しようがなかった。
 少将は一目で見抜いて理解し、朱雀宮もそれを隠そうとしないばかりか、堂々と御簾を上げて見下ろしている。
 否。
 見せつけているのだ。
 その才は東宮どころか、帝をも凌ぐと言う噂がひそかに流れていることもうなずける。

「・・・私は東宮に向いていないよ、残念ながら」
 先ほどとは打って変わって砕けた口調と頭の中を読まれたような的確な言葉に、目をみはる。
「・・・は・・・」
 なんと答えればよいか解らず頭を垂れる少将にふっと笑いをこぼして朱雀宮は続けた。
「今はまだ解らないだろうけれど、帝になるのに向いているのは今東宮だ」
 確かに、帝の末弟は母親が前の斎宮だったために財力はそこそこだが後見たちの勢力は弱く、左右大臣たちを外祖父にもつ東宮と二の宮に太刀打ちできない。
 しかし・・・。
「なりたいと・・・。なるべきだと思われたことはないのですか?」
 思わず、口をついて出た言葉に口を押える。
「・・・し、失礼しました」
「いや、いいよ。少将ならそう言うだろうと思っていたから」
 にいっと口角を上げて笑っているような気がした。
「帝の一番大切な仕事ってなんだと思う?」
 一瞬戸惑うが、思うままを答える。
「は・・・。世をあまねく総べて、我々と民を導くことかと…」
「違うね」
 ばっさりと切られ、顔を上げる。
「次の東宮となる男御子を残すことだ。それも、有力な貴族の女との間に」
 さらりと広げた扇の絵に視線を向けたまま宮は続けた。
「たとえ、もしもうまく子を設けられたとしても、数年後には宮廷内の勢力がどうなるかわからない。だから、それを見越してある程度高貴な女との間に確実に幾人か男御子を作る必要もあるかもしれない。でも、その子供たちが後々の火種になるかもしれない。かといって、子が全くできないとそれはそれで憂いになる…。女たちも帝の寵愛を巡って争いも起きるだろう」
 膝を立てて顎を乗せ、ため息をつく。
「私だったら耐えられないね」
「・・・東宮様なら大丈夫だと?」
「その通り。もっとも、芳子女王が傍らにいればの話だったのだけど」
「・・・」
 息をのむ少将に宮はちらりと苦笑した。
「言葉が過ぎたね。・・・東宮はあの通り大人しいし少々繊細だけど、持って生まれた運もなかなかだし、やる気もある。ああ見えて芯は強い子だよ。そして何よりも誠実だ。それゆえ弟宮たちも無条件で慕っているし、私も帝になるのは彼以外にいないと思う。だから
・・・」
 鋭い瞳で少将の胸を射貫いた。
「おまえが死ぬ事だけは、許さない」
「・・・」
「時が移って彼がゆるぎない帝になるまで、見守り、見届けるべきだ。いつか姫に伝えるためにね」
 姫が傍らにいなくても、東宮は大丈夫だと。
 世は揺るぎ無いのだと。
 ならば、私は…?
 胸の奥底が強く痛み、手を握りこむ。
「・・・は」
 頭を垂れて、言葉を絞り出した。
「・・・承知仕りました」



「・・・上総守が後妻にと申し込んできたので、お受け致しました」
 夕暮の風がわずかに御簾を揺らす。
「それで、よろしいのでしょうか?」
 今は亡き女主人といくらも歳の違わない女房は、雨に洗い落とされてきんと研ぎ澄まされた空気のような瞳を東宮の弟である二の宮に向けた。
「・・・お見通しというわけですか。さすがは宮中にこの人在りといわれた三条の君。かなわないな」
 まだ元服してさほどの時が経たぬ少年宮は苦笑した。
「姫宮の死はもともと私の不始末が原因。死をと覚悟しておりました」
 扇で顔を隠す事無く、三条は前を見据える。
「何故ですか。命ぜられれば、喜んで賜りましたものを」
 薄朽葉に染まった西日が射し込み、余す事無く三条の全身を照らした。
「最初は兄上の大切な人を奪った者たち全て罰せねば、と思っていたのだけど・・・」
 東宮の弟にあたる二宮は自らも扇を膝の上に降ろした。
「きっと、目覚めた兄上が全てを知った時、そんなことを望まない気がする」
 心が優しすぎる東宮を慮って、真実を知るものは皆口をつぐんだ。
 風が運んだ突然の悲劇も、嵐と共に全てを流し去ってしまいたいと治部卿宮の愛娘に対する願いでもあったからだ。
 しばし唇に手をやって考え込んだ彼は、やがて思い切ったように口を開く。
「姫宮の葬列を追って嵯峨野へ向かったとき、・・・貴女を見た」

 冷たい雨が絶え間なく降りしきる中、ひっそりと人目を忍んで進む葬列のいちばん最後に少し列から離れてついていく年若い女房の姿は奇妙に見え、少将を手引きした三条だとすぐに知れた。
 しかし、一足、一足、棺の通った後をなぞるようにうつむき加減に歩く後ろ姿を見た時、彼女が誰よりもひどく傷ついているように思えた。

「きっとただ事ではすむまいと思いながらも、貴女は姫の死までは願っていなかったはずだ。だから、もういい。もう、良いんだ。・・・でも、何もなかったとしてしまう程には命は軽くない」
 だから、と言葉をつなぐ。
「上総守が任期を終えて帰京したときに離縁するのは構わない。とりあえず、人々の口に姫宮の死の噂がのぼらなくなるまで都を離れていてほしい。それが、我々の出した結論だ」
「・・・ほんとうに、それでよろしいのですか?」
 三条は眉を寄せて同じ問いを繰り返す。
「だって、何を言っても水掛け論にしかならないから」
 もしも少将が横恋慕しなければ、
 もしも三条が手引きしなければ、
 もしもあの夜が嵐でなければ、
 もしも乳母が宿下がりしていなければ、
 もしも侍女たちが必要以上に騒がなければ、
 もしも、もしも、もしも・・・。
「だんだん、誰が悪いのか解らなくなってしまうんだ。ただ、確かなのは、芳子女王は死んでしまったということ」
 西風に吹かれて出雲へ旅立った神々は霜月になれば戻ってくるが、姫宮が風に連れて行かれた先は黄泉の国である。
 手元に残ったのは残酷な事実だけだった。
「とりあえず僕にできることは、兄上をこれ以上傷つけないように裏工作するくらいだろう。だから、皆に協力してもらいたい」
 声色もまだ稚く、あどけなさを残す瞳に一瞬金色の光がさし、きらめく。
「・・・承知いたしました。宮様の御指図に全て従います」
 三条は両手をついて深くこうべをたれた。
「・・・差し支えなければ聞かせてほしい。貴女ほどの人が、何故少将の言いなりになったのかを」
 次第に赤みを帯びてくる夕日に染められていく三条を、二宮は美しいと思った。けっして恋の懸け橋にされるような人ではないと。
「恋多き女だと、確かに私は色々な殿方との間柄を取り沙汰されましたけれど・・・」
 形の良い唇の端をかすかに持ち上げて三条は微笑んだ。
「何もかも忘れてしまうような恋はしたことがなかったような気がします」
 身分の違いや一族の立場や世間の非難や二人の将来や、そんなものをすっかり忘れてしまうような。
「最初から利用するつもりで私に近づいた少将さまが憎かったのか、捨身で愛された姫さまが羨ましかったのか、それとも・・・。今となっては、もう・・・」
 笑みの形を作ろうと細められた目元は、かえって泣いているようにも見えた。
「いまさら、埒もないことを聞いた・・・」
 少年は満身創痍の女にかけてやる言葉が見つからず、後悔した。
「いえ、本当に埒もないことですから。・・・こちらも一つお聞かせください。少将さまの処分は、いかようになさるおつもりですか?」
「・・・彼は、・・・」
 軒端に見える零れんばかりの白萩に目をとめて、ふっと息を付いた。
「髪を切ったよ・・・」
 三条も首を傾けて、茜に染まりはじめた萩を目で追う。
「・・・さようでございましたか」
 静まり返った二宮の屋敷の西の対を鈴虫の名残の音だけが物寂しく行き交った。



 臥待月が、澄み渡った夜空に金色の光を放っていた。
 途切れ途切れに聞こえてくる虫の音を聞きながら、二の宮は肩膝を抱えて白く光る萩を見つめていた。
「・・・ずいぶんと遅かったですね」
 近づいてくるひそやかな衣擦れに、振り返ることなく冷ややかな声をなげかける。
「・・・まるで帰りの遅い夫を責める妻のようだな」
笑みを含んでいるであろう背後の男に苛立ちを感じ、少年は爪を噛んだ。
この人は、いつもそうだ。
どんなにこちらがいきり立っても、笑って煙に巻いてしまう。
「からかわないで、ここに座ってください」
「はいはい」
 自分の隣を顎で指し示すと、そんな横柄な態度すら気にも留めずにゆったりと朱雀宮は座す。
「・・・髪を切る様、仕向けたのは貴方ですね」
「・・・さて」
 月を見上げて朱雀宮はうそぶく。
「死ぬことは許さぬとはいったが、出家するなとは、確かに言わなかったかもしれない」
 罪悪感と絶望に囚われている少将が、関係者がくまなく追放の憂き目に遭っているというのにのうのうと宮中に上がれるはずもなかった。
 まして、仕えるべき相手の恋人を死なせてしまったのだから。
 賢げでありながらまだまだ青い二宮の、言外に責める響きを聞きつけて男は更に楽しそうに笑った。
「穏便に解決するにはそれしかあるまい?良くぞこの程度で済んだと誉めて欲しいところだ」
 芳子女王の死に関わった女房達は中臈から上臈にあたる者ばかりで、いわば中流より上の階級の子女だった。彼女たちを責めた場合、殿上人である親兄弟の立場が悪くなり、宮中よりはじき出される者が続出することが予想される。
 その上、四位左近少将は内大臣の末子である。この不安定な時期に大臣同志の勢力争いの均衡が崩れるのも、避けたい事態であった。
「ましてや、内大臣は老い先短いご老体。急いで首を切らずとも、あの世から迎えがまもなくやってくるだろう?」
 とりあえず、数年生きてくれれば体制は整うだろうし、四位の少将の席は、居並ぶ下官の中からより勤勉で優秀なものを据えればよい。
 宮中で並びなしと言われる美しい切れ長の瞳が冷たくきらめいた。
「それとも、自害を許して、今すぐあの世まで芳子女王を追わせたほうが良かったかい?そうしたら、ますます貴方の兄上の立場がなくなるかもしれないよ?」
 朗らかに歌うような朱雀宮の謎かけに眉をひそめる。
「朱雀宮、それはどういう…」
「現場に居合わせた訳ではないからなんとも言いがたいが、芳子女王が愛したのは誰だったのだろうね」
「そんなこと…!」
 思いもかけぬ朱雀宮の言葉に驚きつつも、胸の奥で何かがじわりと騒ぐ。
 確かに少将と姫宮が逢ったのはあの夜だけで、それ以前に文のやり取りもしていなかった事は間違いない。
 ほんの数刻。
 そんな短い逢瀬で人の心は通じるものだろうか。
 しかし、世捨て人になるほど絶望している少将を見ていると、ただの夜這いではなかったようにも思える。
 だからといって二人の間に何かあったと見るのは、下衆の勘繰りなのだろうか。
「まあこれも、今更埒もないが・・・」
 金色の光の下、朱雀宮は首を傾けて穏やかに微笑んだ。
「ただ、姫宮は何を急いで黄泉路へ旅立ったのかなと思うのだよ・・・」
 


 零れ落ちそうなほど満天の星空の下、僧形の男が一人、嵯峨野の墓陵に佇んでいた。
 尊い身分の人ばかり眠る場所であるはずなのに、死人は忘れ去られるのが常なのか荒涼とした寂しさが広がっている。
 誰も手入れをしないらしく、草ぐさが好き勝手にその身を伸ばしていた。
 居並ぶ墓標の片隅にひときわ新しい物を見つけ、墓前に手を合わせて黙祷する。
 風が男の頬をなぶる。
 瞼に浮かぶのは、燭台の薄明かりの下、栗色の瞳を揺らす女の顔だった。
 甘い香り、少し高くて優しい声、滑らかな栗色の髪、そして、どこまでも柔らかい体・・・。
『少将どの・・・』
 薄紅の唇は何か一生懸命言葉をつなげようとしていたのに、とうとう続きは分からずじまいになってしまった。
「あの時、貴方は何を言おうとしたのですか・・・?」
 永遠に与えられない言葉。
 失ってしまった人。
 かの人の旅立った国はあまりにも遠い。
 何度心の中で問いかけてみても、星空の下を薄紫の雲が静かに流れていき、広い嵯峨野の原を風に揺られた枯れ尾花のざわめきがざわわ、ざわわ、ざわわと寄せてはかえし寄せてはかえすだけだった。



 昔、男ありけり。
 女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。
 芥川という河を率ていきければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。
 ゆくさき多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、男、弓・やなぐひを負ひて戸口に居り。
 はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。
 「あなや」といひけれど、神鳴るさわぎに、え聞かざりけり。
 やうやう夜も明けゆくに、見ればゐて来し女もなし。足摺りをして泣けどもかひなし。


  白玉かなにぞと人の問ひし時露と答えて消えなましものを

                                「伊勢物語」




 -完-


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