『うまい話には裏がある -4-』


 




 足早に私室へ戻ると、ソファの上にティムを下ろす。
「ご苦労様、ティム。大活躍ね」
 隣に座り得意気にピンクの鼻をひくつかせる彼の頭をゆっくり撫でた後、首輪から婚約指輪を外す。
「これを、宝石箱に戻してちょうだい」
 アニーに預けると、部屋係の一人が盆に小さな皿を載せて入ってきた。
「お待たせしました、こちらでよろしいですか」
 白い小皿には細かく刻まれた肉が盛られている。
「ありがとう。ちょっと今日は特別なの」
 ローテーブルに置くと、ティムがぴんとしっぽをたてて、なああーうと鳴いた。
「どうぞ、召し上がれ、ティム」
 言われた瞬間ティムはソファからテーブルへ飛び移り、皿に顔を突っ込む。
 部屋の中で、彼のはぐはぐみちゃみちゃみっちゃという租借音が響く。
「タルタルステーキだなんて、侯爵家ならでは・・・のご褒美ね・・・」
 ナタリアは頬杖をついて見守った。
 貴族のテーブルに供されるような最上級牛生肉を猫にふるまうなんて、ダドリーでは考えられない。
 己の金銭感覚が揺らぎそうで怖いが、今朝、ティムに約束したのだ。
 ローレンスの元へいき因縁を吹っ掛けたら、牛肉のタルタルステーキをごちそうすると。
 ティムは、とても賢い。
 人の言葉をほぼ理解しているように思う。
 なので、洗濯係の侍女に頼んでローレンスの匂いのたっぷりしみこんだ衣類を手に入れ、それを嗅がせて「この間のあの失礼な人を見つけて、大声で鳴いて」と指示した。
 その時に、「今度は殴られないようにニンゲンとは距離を保つこと」と注意しておいたら、本当にその通りにしたので恐れ入る。
 厩舎で出会った時から只者ではないと思っていたけれど、これほどとは。
「なんにせよ、あなたに怪我がなくてよかった」
 婚約指輪の首輪も、お守りにしかならない。
 騎士たちに無礼打ちされる可能性もあった。
「今日は本当にありがとう。そしてごめんなさい。こんな危険なお願いをするのはこれきりよ」
 あっという間に食べ終えたティムには満足げに顔を洗い始めた。

「ナタリア様」
 膝の上で眠り始めたティムの背中を撫でていると、書類を抱えたパール夫人が入室してきた。
「うまくいったようですね」
「ええ、まあ。とんでもびっくり箱でしたけれど」
「ナタリア様でも驚かれましたか」
 向かいに座るよう勧めると、彼女は優雅に一礼して腰を下ろす。
「マリア嬢が未成年だとはさすがに。どちらかというと、東の館の方は男性かもしれないと思い始めていたところだったので」
 最初は結婚できない立場の女性を妊娠させたのだろうと思っていたが、ウェズリー大公の力でいかようにもできるはず・・・と考えると、根幹が揺らいでしまった。
「ふふ。もしわたくしがナタリア様のお立場でしたらそう考えたかもしれませんね。今のところ、侯爵様はそちらのほうまでは開拓していないようです」
 パール夫人は王太子妃の懐刀の一人だ。
 この件についてとっくに把握済みだろう。
「パール様。マリア・ヒックス様の年齢をうかがっても?」
「記録によると十二月の中ごろに十四歳になるところですね」
「ああ・・・。やはりまだ十三歳だったのですか」
 この館の使用人たち、ジュリアン、リロイ、パール夫人・・・。
 東の館の主について知っているであろうことを聞き出すことはいつでもできた。
 しかし、情報源になった者に危険が及ぶ可能性も考えられたため、ローレンスによって引き合わされるのを待っていたが、彼はあろうことか二人の女を楽しむだけだった。
 しびれを切らしたナタリアが打った手が、『猫を追いかけてうっかり乱入』。
 たいがい雑な案だったが、マリアの中のナタリアの印象はそう悪くない状態にもっていけたはず。
 こうして面識ができた以上、情報解禁ということなのだろう。
 パール夫人は、手元の書類を読み上げた。
「ヒックス子爵にはほかにも数名婚外子がいますが、女子はすべてロザリア修道院に預けられており、マリアは十二歳で修道院を出てヒックス子爵の三女として公表され、王女宮の侍女として上がっています」
「やはり、ロザリア修道院なのですね」
「はい、御用達ですから」
 この国の貴族たちは、平民などに産ませた庶子を幼いうちから修道院へ放り込むことが多い。
 嫡子が存在する場合、手元で育てるのはまれだ。
 貴族として育てあげた場合の諸経費と修道院への献金をはかりにかけると、後者のほうが断然安い。
 そして、何らかの事情で必要になれば迎えに行き、必要なければそのまま放棄。
 迎えがこなかった者は、二十代前半までに修道女となるか外に出て平民として生きていくかを選択する。
 このとても都合の良い制度がすっかり浸透し、高位貴族ですらわりと気楽に利用するため、ロザリア修道院の内実は貴族の庶子専用の全寮制躾専門校だった。
「ロザリア修道院から侍女に上がる庶子はかなりの数です。あそこは貴族の妻もしくは侍女に上がる事を念頭に置いて教育しますからね・・・。どなたも見事なまでの即戦力です。マリア様はあの美貌もあって、すぐに第二王女付き部屋係の一人になりました」
 美しい侍女は装飾の一つと考える風潮もある。
 子爵はそこを狙った。
「第二王女というと第三側妃様が生母で、派閥はぎりぎりウェズリーって感じだけどそこまで親しくない・・・」
「はい。まあ、馴れ初めについてはご本人にお聞きください」
「そうね。それにしても、十二歳・・・」
「あえてお知らせするなら、当時マリア様をご所望されたのはローレンス様に限ったことではなかったことでしょうか。この国の貴族たちには意外と幼女趣味が浸透していると、今回の件でかなりあぶりだせました」
 メガネの縁を指で押し上げながら、パール夫人はふふふ・・・と暗い笑みを浮かべた。
「幼女趣味…」

 パール夫人は、ローレンスとマリアの恋愛を完全否定する。

 本当に愛しているならば、今のこの状況は大人としてあり得ないからだ。
 年端のいかない少年少女が心得のないまま恋にのめりこんでしまうことは珍しくない。
 大人でも子供でもない時期にだれもが少しは経験する。
 だが、地位も知識のある男ならなんとしても自制すべきだった。
 いつか、マリアは気づくだろう。
 あるはずだった青春と未来を、心から信頼していた男に奪われたことを。

「処女信仰から派生しているのかは、これから検証の余地がありますね」
 学者肌のパール夫人はいかなるときにも探究心は忘れないようだ。
「なんにせよ、王都の貴族たちはマリア様の存在と事情をご存じということですね」
 ローレンス・ウェズリーが十三歳の子爵令嬢を囲い込み、妊娠させたことを。
「はい。それでナタリア様へお鉢が回ってきたわけです」
 すぱーんと身も蓋もない返事をパール夫人が打ち返す。
 王都中の令嬢たちはマリア・ヒックスとローレンス・ウェズリーの仲を知っている。
 もし正妻の座を手に入れても、幼女趣味の男が寝室を訪れることはない可能性が高い。
 たとえ政略結婚であったとしても指一本触れられないのは、女としての価値を全面否定されるようなものだ。
 しかも、社交界に足しげく通う貴族なら誰もが知っているのだ。
 とても耐えられる話ではない。
 それが派閥の令嬢ですら縁談に名乗りを上げなかった原因の一つだろう。
「それにしても、マリア様が成人するまでに生まれた子供をとりあえず先妻の子として届ける・・・というのは、大公閣下にしてはまどろっこしい手ですね」
 マリア・ヒックスが成人するまであと二年強。
 王宮で働き注目を浴びたのが逆に足かせとなり出生年月日は改ざんできず、法定年齢に達するまで婚姻関係を結べない。
「今まで数々の法律をご自分の都合の良いように変えさせてきたお方が…ですか?」
「ええ」
 大公という地位を利用して、兄王の制定した法ですら覆したことがある。
 そんな彼ならば、婚姻年齢法を破棄させることも可能だろう。
「婚姻年齢法を別名マチルダ法としているのはご存じですか」
「そういえば・・・。確か、先々代の王が制定したのですよね・・・。まさか」
「はい。ウェズリー大公のご生母、マチルダ様の名前を冠しているのです」
 それまでは極端な話、政略結婚で五歳の新妻など珍しくなかった。
 それは権力の維持のためであり、金銭的な問題解決のためでもあった。
 もっとも、嫁ぎ先に入ったとしても形ばかりの妻で、成長するまでは処女のままで『白い結婚』というのが通例だ。
 『白い結婚』であれば家の事情が変わった場合の離縁も簡潔で、双方に傷がつくこともないため、他国との婚姻交渉でも古くからよく使われる手法だ。
 しかし一部に幼な妻を嗜好とする者がおり、それにより心身を破壊されて亡くなる例が多発した。それでもたいていは「家の中のこと」として処理され、闇に消えた。
 きっかけになったのは、ウェズリー大公の生母・マチルダが貧しい準男爵家出身でその妹たちが立て続けに幼女婚で命を落とした事件だ。
 嘆き悲しむ愛妾を慰めるため、先々代の王が制定して今に至る。
 言い換えれば、マチルダ法は生母が王に寵愛された証なのだ。
「・・・ならば、覆すわけにはいかない」
「その通りです」
「なるほど」
 よりによって、最愛の息子が母と同じ侍女階級の少女を妊娠させてしまったとは。
「ずいぶん、因果な話ね」
「まったくもって・・・」
 二人は同時に深々とため息をついた。



 ローレンスは、クラヴァットを緩めながら本邸の階段を駆け上った。
 本当は、もっと早くにここへ来たかった。
 だが、マリアに不信感を抱かせるわけにはいかない。
 ナタリアと別れた後、何事もなかったかのようにふるまうのに苦労した。
 ガゼボに戻り中断されてしまった茶事を続けて談笑し、普段通りの晩餐を終え、マリアが寝入ってしまうまで少し戯れ、ようやく寝室を出たら、家令のグラハムに足止めを食った。
「あの女狐に近づいてはなりません。なにか企んでいるに決まっています」

 確かに、ナタリアが突然東館の庭園に現れたのには驚いた。
 しかし、マリアの腹も目立つようになってきた。
 そろそろ子供のことを告げねば、洗礼式を行えない。

 挙式の後すぐに事情の説明をするつもりだったが、初夜のナタリアは驚くことに処女で予想より上物だった。
 うっかり朝まで過ごしてしまい、それを気取られないようマリアを可愛がると今度はタガが外れてしまい、医者を呼ぶ騒ぎになってしまった。
 幸い無事だったが、しばらくマリアに触れるなと女医に釘を刺された。
 その時に思い出したのが、ナタリアの身体だ。
 二十歳のはずだが、どちらかというとマリアのようにすらりとしている。
 胸と腰は熟れた女のように大きすぎず、腹も太ももも締まっていて、若い鹿のように細い。
 ローレンスは若いころには胸が大きく触り心地の柔らかい女を好んだが堪能しすぎたのか、飽きた。
 今の好みは華奢で内臓がどこに入るのかと思うくらい細い腰の女だ。
 そして、従順であるともっと良い。
 マリア・ヒックス子爵令嬢がまだ十三歳だったのはさすがに想定外だった。
 少し世間体が気になったが、他にも狙っている男がいたので横取りされる前にと手を付けたら早々に妊娠してしまった。
 あれほどの美貌を手放す気にはなれなかったので手元に置き、戸籍上の妻として父が金で買ったのがナタリアだった。
 初めて見たときはこの野猿と契約したグラハムを一瞬殺したくなったが、腐っても北国の王族の娘。立ち居振る舞いは高位貴族として十分で、頭も良い。
 屋敷の侍女たちの手で整えられるうちに、なかなか良い女になった。
 しかも身体の相性がかつてなく良い。
 正直、ハマりにはまった。
 契約上の妻で適当に閉じ込めて関わりを持たないつもりだったのに、一度触れると癖になる女だ。
 今度こそ終わりにしようと思っても、次の日には欲しくなり、口実を作っては本邸へ駆け込みナタリアを貪ってしまう。
 加えて言うなら、護衛に付けた優男のトリフォードに見せつけるのも醍醐味の一つだった。
 あのとり澄ました顔が扉の外に立っていると思ったら、ますます燃える。
 しかし、ナタリア会うと即抱き潰してしまうため、今後の話を詰めることができないままでいた。
 日ばかり経ち、だんだん面倒になってきたところで昼間の邂逅。
 手間が省けたじゃないかと、ローレンスは思う。
 しかもナタリアが何もかも承服するというなら、何の問題もない。
 考えてみれば、その分の報酬は十分に払っているのだ。


「ローレンス様、どうかお待ちを!」
 あきらめの悪いグラハムがまだ背後から追いかけてきて喚いていたが、無視する。
 私室に入り上着を脱ぎ棄て、内扉で繋がる隣の部屋へ向かう。
 衣装室、浴室などを経て、自分の寝室に入ったところで内鍵をかけ、ナタリアの寝室に繋がる小部屋へ入り扉の前に立つ。
 ノックをすると「どうぞ」というナタリアの返事が聞こえる。
 押し開いた途端、いつもと違う匂いが鼻をくすぐる。
 いつもなら清々しいハーブの香りが立ち込めているはずなのに、バラやムスクの香水のような本能を呼び覚ます香りが立ち込めていた。
「お待ちしておりました。旦那さま」
 一瞬、異世界へ迷い込んだかと思った。
 まず、出迎えたナタリアは、全くの別人だった。
 髪を高く結い上げて細くて長い首ととがった顎をあらわにし、精緻なまでの化粧が顔に施されている。
 白いおもて、長いまつげ、血のように赤く彩られた唇。
 暗い明りに反射して光る意志の強いまなざしは蠱惑的で、思わず見惚れてしまう。
 そして何よりも目を引くのが、真紅の薄絹に黒いレースで縁どられ、体にぴったりとしている下着のような煽情的なドレス。
 肩に黒い編紐がかろうじて絡められ白い腕はむき出し、腰から脇に入った切れ込みからは目の粗い黒のタイツに包まれた長い足が惜しげもなく見せ、太もものあたりでレースのガーターで止められている。
 これは、いわゆる高級娼婦の装いだ。
 一晩で途方もない金額を払わねばならないほどの。
 それが、驚くほどにさまになっていた。
「いらしてくださり、嬉しいわ」
 低い、喉をかすかにふるわせるような声。
 なんて官能的な音だろう。
 黒の細くて高いヒールの靴でゆっくりと優雅に歩み寄り、ローレンスに寄り添う。
「・・・タリア・・・」
 もう、何も考えられない。
 細くくびれた腰に腕を回して抱き寄せ、口づけた。
 互いの唇が触れた瞬間、すぐさま大きく口を開け噛みつくように奥まで貪る。
 甘露だ。
 今日のナタリアは舌の先すら甘い。
「ん・・・」
 どれくらいナタリアとの口づけに溺れていたかわからない。
 少し離し息をついてまた味わおうとしたその時、ナタリアがついと顔をそむけた。
「タリア?」
 ナタリアはローレンスの傍らの、開いたままの扉に手をかける。
「グラハム卿」
 静かな声だった。
 目をやると、なんとグラハムがローレンスの私室を通って追ってきたらしく、小部屋で仁王立ちしていた。
 しかも、あり得ないほど近くで二人を凝視している。
 慌てふためいて追いかけてきたのだろう。
 息は切れ、髪もすっかり乱れている。
 しかし、目はらんらんと光り、今にも掴みかからんばかりの形相だ。
「ご覧の通り、これから夫婦の時間なのです。ご遠慮くださるかしら」
「な・・・っ。この・・・」
 口の端から泡を飛ばしながらグラハムが詰め寄ろうとするのを、ローレンスが一括した。
「グラハム!」
 彼はナタリアを両腕で抱き寄せ、その煽情的な姿を無礼者から隠す。
「お前は妻に不敬を働く気か」
「ローレンス様!こいつは・・・」
 なおも手を伸ばしナタリアをつかもうとしたグラハムの腹を、ローレンスは足で思いっきり蹴り飛ばした。
「ぐ・・・っ」
 グラハムが無様な姿で床に転がる。
「だれかいるか!」
 大声を上げると、ローレンスの部屋側から数名の騎士たちが駆け寄る。
「グラハムを連れて行け。これは私の妻に暴言を吐き、あろうことか触れようとした。地下の仕置き部屋で三日間謹慎させろ」
 あっという間に取り押さえられ拘束されるが、グラハムは抵抗して叫ぶ。
「ローレンス様!わたしくは、あなた様のためをおもって・・・」
「つけあがるな、無礼者」
 騒ぎを聞きつけて、執事のセロンも現れた。
 ナタリアの私室側からはトリフォードとアニーが駆け付け、ガウンを女主人の身体にかけたため、彼女は手早く夜衣を隠した。
 アニーが寝室の扉をそっと閉じ、控えの小部屋静寂が落ちる。
 後ろでに拘束され膝をつかされているグラハムと取り押さえている騎士を中心に、ローレンス、護衛騎士数名、セロン、アニー、トリフォード。
 暗めの照明の中、大人たちがこれだけひしめいているのだ。
 ローレンスの寝室の方の出入り口に、入りきれずに様子を見る従僕たちの顔が見え、大した騒ぎだ。
「旦那様・・・これはいったい」
 執事困惑した顔を見た瞬間ローレンスはふとあることに気づき、騎士の一人に告げる。
「グラハムから鍵を取り上げろ」
「・・・は」
「・・・な、何を」
 鍵は家令の権力の象徴だ。
 現在、この屋敷の鍵を所有しているのはローレンス、ナタリア、執事のセロン、そして家令のグラハムのみ。
「私は先ほど、自分の寝室に鍵をかけてからナタリアの部屋に向かった。お前の小言をこれ以上聞きたくなかったからな。なのになぜお前はこの小部屋にいた」
 ナタリアの寝室とそれに繋がる小部屋のみ廊下への扉がない。
 夫以外の男の侵入を阻むためだ。
 今、騎士や執事は全ての扉が開いていたからこそローレンスの部屋を通って駆け付けた。
 しかし、グラハムは扉を破壊したわけでもなくこの小部屋から夫婦の間に割って入ろうとした。
 つまりは、主人の許しを得ずに勝手に内鍵を開けて侵入したことになる。
「わ、わたくしは、ローレンス様を危機からお救いしようと・・・」
「うるさい」
 グラハムは父の勧めで雇い入れた男だった。
 ローレンスの行状を逐一報告する役目だったこともうすうす気づいていたが、そこそこ便利だったので好きにさせていた。
 しかし、ずいぶんと舐められたものだ。
 彼はしょせん父の命令しか聞かない犬だということが今、はっきりした。
 そしてまさか、ここまで思い上がっていようとは。
「お前は、この家で一番偉いのは自分だと思っているようだな」
 ローレンスが低い声で問うと、一瞬目を見開き、すぐに媚びへつらうような笑みを浮かべた。
「そんな、とんでもない・・・」
「黙れ。今は一切の弁明も許さない」
「・・・・っ」
「もう一度命じる。グラハムを三日間謹慎させろ。セロンはグラハムが所持しているすべての鍵を執事室の金庫で保管するように」
 宣言した瞬間、グラハムの顔がぐしゃりとゆがんだ。
「はっ」
 護衛騎士たちは頷き、グラハムを引っ立てて行く。
 今度は抵抗しなかったが、怒りに満ちた目でナタリアをにらみ続けていた。
「・・・ローレンス様」
 セロンが気づかわし気な様子で声をかけてくる。
「このような・・・。大丈夫でしょうか」
 長年ローレンスのそばに仕えていたにもかかわらず、彼はウェズリー大公を慮ってグラハムの下についていた。
「詳細は明日になってからゆっくり考えよう。もう、夜も更けた」
「・・・はい。では、我々はこれにて失礼いたします」
 セロンが頭を下げたのを機に、全員小部屋からローレンスの部屋へと退出し、やがて辺りは静かになった。
 夜の闇が、ローレンスとナタリアを包み込む。
「・・・今日は、驚きの連続だな」
「はい」
 ローレンスを見上げるナタリアの瞳は、静かだ。
「あなたの艶姿をもう一度、きちんと見たいのだが」
 肩を抱き寄せて耳にささやくと、首元でふっと彼女の吐息が弾けた。
「仰せのままに」
 妻を抱き寄せ寝室の中へ入り、今度こそしっかり内鍵をかけた。



 妻を伴って入った寝室の変わりぶりに、改めて驚いた。
 見渡す限り、真紅のバラを思わせる色彩で統一されている。
「これは・・・。いったいどうやったのだ」
 先ほどはそれどころではなかった。
 ナタリアに意識を集中させていたから。
「ふふ。驚かれましたか」
「もちろんだ」
 まさか内装まで彼女の衣装に合わせて変えるなどと、誰が予想する。
 なんて大胆な発想だろう。
 もともとは、白を基調として緑と黄色の花をモチーフとした柔らかな色彩の壁紙が全体に貼られ、リネンもそれに倣った色合いだった。
 しかし今は、部屋の壁全体が紅の糸で織られたビロードの緞帳で覆われていた。
 そして、部屋の隅に生けられているのはたくさんの赤いバラ。
 暖炉の上に置かれた香炉からは、ねっとりとした香りが立ち上る。
「単純に、タピスリーを取り付ける要領で天井近くから緞帳を下げただけです。あとは装飾が得意な者にちょっと用立ててもらいました」
 薄暗さをぎりぎりに極めた照明。
 ベッドの天蓋もシーツも赤と黒を絶妙に配し、退廃的な雰囲気を醸し出している。
「私だけこのなりですと、浮いてしまうので。せっかくなら、完璧を目指したかったのです」
 腕を引かれて椅子に座る。
 丸テーブルの上にはグラスと酒と皿とカトラリー、そして銀のクローシュ覆われた何かが並べられていた。
「実は、ダドリーから持ってきていたものがありまして」
 向かいに座ったナタリアが酒瓶を手に取り、慣れた手つきでコルクを抜く。
 とくとくとくと音を立ててグラスに注がれる液体は、暗い照明の中、飴色に輝いた。
 独特の、甘い香りが漂う。
「ブランデーか」
「はい、実はこれからうちの特産品として売り出そうかと」
 ことり、とグラスをローレンスの前に置いた。
「どうぞお試しください」
 促されてグラスに口をつけると、芳醇な風味が口から鼻に抜けていく。
「・・・うまいな」
「ありがとうございます」
 微笑みながら、ナタリアもグラスを持ち上げ喉を潤す。
「これは、貴族の間でも流行るのではないか。とても上品で深い味わいだ」
「最初はかなり雑な味のものしか作れませんでしたが、一番上の姉が嫁ぎ先から技術者を送ってくれたので、おかげさまでだんだんと形になってきました」
 そういえば、ナタリアの姉たちはすでに隣国へ嫁いだと聞く。
 グラハムは姉たちを王宮で見かけたことがあったらしく、挙式の直前に二人の方がより生母に似ていたのにとこぼしていたのを思い出した。
「ブランデーはなかなか難しいと聞く。たいしたものだ」
「はい。長年、人材には恵まれているおかげで農作以外を色々試すことができました。その成果の一つがこれです」
「なるほど」
 淡い光にグラスを透かして見る。
 とろりとして暖かい、土の恵みの色だ。
 グラスの向こうで、ナタリアの赤く塗られた唇が上がるのが見えた。
「どうした?」
「・・・こうして、ローレンス様とゆっくり酒を飲みかわしたいと思っていました」
「なかなか機会を持てず、すまなかった」
「いいえ。どうかお気になさらず」
 ナタリアはテーブルの中央に手を伸ばし、銀のクローシュを外す。
 そこにはドライフルーツとナッツとチョコレート、そしてチーズが盛り付けられた銀食器が現れる。
「どうぞこちらも召し上がりください。私はドライフルーツが一番合うと思いますが、弟はチーズを好みます」
 彼女の口ぶりから飲み慣れている様子がうかがえた。
「タリアは…酒に強いのか」
 二杯目を口にしながら、尋ねる。
「はい。強いほうだと思います。ダドリーの冬の厳しさはそうとうですから」
 勧められるままに、杯を重ねた。
「知らなかったな」

 極上の酒と、そして。
 ローレンスは、ナタリアを眺める。
 彼女の髪と瞳は、ブランデーそのものだ。

「ええ。私もローレンス様のことは知らないことばかりです」
 彼女はゆっくりと立ち上がり、羽織っていたローブのひもを解く。
「なのでそろそろ、貴方様のことを深く知りたいのですが」
 足元に落ちたローブ。
 華奢な造形の靴はつま先があらわにされ、先から細い黒糸で編まれたタイツと赤く塗られた足の爪がのぞく。
 娼館には友人たちと何度も足を運んだ。
 国一番高い女と過ごしたこともある。
 しかし、その記憶も今はおぼろげだ。
「ローレンス様」
 ナタリアが少し顎をそらし、誘うような笑みを浮かべてローレンスを見下ろす。
 貴族の、侯爵夫人らしからぬ装い。
 だからこそ。
 そそる。
「タリア」
 グラスをテーブルに置き、ナタリアを抱き上げて寝台に転がり込む。
 唇を合わせて肩に手を添えていつものように身体を暴こうとしたその時。
「・・・?」
 世界が回転した。
 思ったより酔っていたのか、頭が少しくらくらする。
 腰の上には、赤いランジェリードレスを着て嫣然と笑う妻がまたがっていた。
「タリア?」
 胸の上に両手をついて、ゆっくりと身体を倒し、しっとりとした口づけをほどこされた。
「旦那さま」
 なぜか、指一本動かす気になれない。
「初めての夜から今まで、貴方様からたくさんのことを学びました」
 ブランデーの香りの混じる、甘い吐息がローレンスの唇をなぶる。
「なので、その成果をお見せしたいと思います」
 さらりと首元に落ちてきた髪の香りと感触に、ごくりと唾を飲んだ。
「今宵かぎりの、もてなしを・・・。どうぞ心行くまで楽しんでください」
 ローレンスの上でゆっくりと身じろぎする彼女は、壮絶なほどに色めいている。
「これは、卒業試験のようなものです」
 冗談めかした物言いに、胸が高鳴った。
 ちゅっとローレンスの唇を軽く吸われ、もっと先を期待する。
「タリア・・・」
 私の、夜の女王。
 ローレンスは、酔いに身を任せた。


 その夜。
 闇が最も深くなる瞬間まで、寝室から声と音がせわしなく響き続けた。
 漏れ聞こえるのは悦びの声と懇願。
 そして、幾度も繰り返す絶叫。
 これらは全て。
 館の主である、ローレンス・ウェズリーのものだった。



「『ああ、やめないでくれ・・・っ!』と、男は懇願した。『・・・何を?』女が耳元に息を吹きかけると、ひくひくと彼は喉をふるわせ…」
「昨夜の今で音読はさすがにご勘弁を・・・。パール夫人」
 ふーっと天井を仰いでナタリアはため息をついた。
「お疲れですねえ」
 ぱたりと手にした本を閉じ、パール夫人は笑った。
「ええ、そりゃあ、とても」
 私室の椅子にだらりと身体を預けただらしない恰好のまま答える。
 濃い目に淹れてもらったコーヒーが舌にじんわり染みて辛い。
「結局、明け方近くまでかかりましたからね、尋問・・・」
「うふふふ。尋問という名の、甘い拷問ですわね!いやあ、感服しましたわ。ナタリア様がこの本の妙技をあれほどまでに実現なさるとは!」

 二人の間にあるテーブルには、先ほどパール夫人が音読した本がある。
 題名は『エルヴィス伯爵夫人の甘い秘め事』。

 女性向け官能小説の中でもかなりニッチな嗜好を攻めているマグナ・ディドル夫人の作品で、ざっくり言えば、美貌の有閑夫人が婚外情事を楽しむ話で、地位も名誉もある男を色々な道具を使ってさんざん弄ぶ場面が微に入り細に入り描かれている。
 要するに、ナタリアはこれを参考文献にいろいろ再現し、ローレンスを篭絡した。
 部屋の内装も、香油も、衣装も、化粧も、物言いも。
 ブランデーと料理はさすがにオリジナルだが、ベッドに上がってからのすべては、そらんじられるほどに読み込んだ官能小説の女主人公を演じただけだ。

「あれ、本当にすごいですね。たかだか目隠しして手足を拘束するだけであんなに上手くいくとは・・・。驚きました」

 というか、正直、引いた。
 かなり、引いた。

 最初は、うつぶせにさせて背面のオイルマッサージを施術しただけだ。
 そもそもマッサージ自体はダドリー騎士団直属の療法士に習った筋肉をほぐす手法で、ちょっと雰囲気たっぷりの香りがするオイルを使って全裸に剥いたローレンスに試みたのだが、その時点でマタタビにまみれた猫のような状態になった。
 腑抜けになったところで官能小説の実行開始である。
 目隠しをさせて仰向けにひっくり返し、ついでに両手も拘束して腹の上に乗り、今度は表面に施術を開始すると、彼は作中の男が憑依したのかと途中本気で疑ったくらいの喘ぎっぷりで、最後までノリノリだった。
 聞いたことはペラペラ答えるし、媚薬を飲ませたわけでもないのに、なんなんだあれは。
 ああいう趣味だったのか、あの男。
 もしも、愛のある関係ならばこういうのも楽しいかもしれない。
 しかし今、ナタリアの中でローレンスはクソ以下である。
 苦行だ。
 その上、聞き出せば聞き出すほど、このまま縊り殺したほうがいいのではないか?という衝動が湧いてきたが、なんとか故郷の最愛の妹の顔を思い浮かべてやり過ごす。
 そのようなわけで、途中かなり嫌気がさしてやめたくなったが、目的のためなら手段を択ばない…というか、これだけ大掛かりな仕掛けを作り、たくさんの人に目撃され、聞かれているのだ。
 もう、やるしかない。
 ぎりぎりと歯を食いしばってナタリアは己に課した任務を遂行した。

 ちなみに、ローレンス側のドアの鍵をかけたが、ナタリア側は開けっ放しである。
 要するに、隣の私室でパール夫人が待機し、尋問を始めたあたりから寝室近くに机と椅子を配置し、すべてを丁寧に記録した。
 これは、計画当初からパール夫人が立案し立候補していたことなので、大満足らしい。
 徹夜だったにもかかわらず、彼女は今、出会って以来最もきらきらと輝いている。

「だから言ったでしょう。マグナ・ディドルは実体験から書いているって!」
 両手を胸の前でぎゅっと組んで、主張する。

 パール夫人はマグナ・ディドルの大ファンだ。
 作家自体は女性である以外謎に包まれているが、ナタリアの母の生国で出版されている。
 それをパール夫人が偶然見つけ、出版元経由で了解を得て自国語に翻訳して自費出版し、親しい人々に布教した。
 小さな体にもかかわらず、太陽より強烈な力を秘める女、それがパール夫人だ。
 そんな彼女は、この国でひそかに王太子妃を中心に通信制読書会というものを発足させた。
 会員は読書好きの貴族と商家の女性中心で、年々増え続け今やけっこうな人数になりつつある。
 この国の出版能力として女性向けの本はまだまだ後回しにされがちなので、それぞれのお勧めの本をそれぞれ貸しあううちに冊数も増え回遊ルートが発達し移動距離も伸び、ちょっとした移動図書館のような状態になりつつある。
 ちなみに、これは女性たちのひそかな楽しみなので、男たちは全く気付かない。
 単純に贈り物のやり取りやドレスの貸し借り等だと思いこんでいる。
 よって、かなり過激な世界を淑女たちが把握していることも、知られていないのだ。
 そして、読書会は増殖・発展をしているうちにじわじわと人脈を作り上げていった。
 その一つが、娼館。
 パール夫人はとうとう高級娼婦たちと懇意になり、いろいろなコネを手に入れた。
 その成果が、昨夜のおもてなしセットだ。
 内装、小道具、そしてランジェリードレス。
 全てとある高級娼館から借り出し、先日、パール夫人とリロイが西の館に運び込んだ。

「それにしても彼は、地位も名誉もあって女を食いつくした男に限って、ベッドでは支配されるがお好きという典型でしたわね」
「エエ・・・。ソウデスネ」
 マグナ・ディドルの作品は、まさに、地位も名誉金も美貌もある男のプライドを快楽で粉々に砕く話が多く、既婚者たちに人気が高い。
 その男の特徴そのもののローレンスは、ある意味うってつけだった。
「ああ、実践と検証。これほど楽しいものはありませんわ~」
 つやつやと白い光を放つパール夫人の顔面がまぶしすぎて目が潰れそうだ。
「ハハハハ・・・。オヤクニタテテナニヨリデス」
 一晩中、殺人衝動と戦ったナタリアとしては腹いっぱいだ。
 だが、おかげで知りたい以上の情報を引き出せたのは間違いないので、不満があろうはずはない。

「さて・・・。そろそろお目覚めでしょうかね、旦那様は・・・」
「そうですわね。まずは目覚めてびっくり、そして飛び起きてここまで猛ダッシュされるってところでしょうか」
 パール夫人の言葉が終わらぬうちに、ものすごい勢いで走る男の靴音と追いかける騎士たちの腰にぶら下げられた剣の音が廊下から聞こえてくる。
 ふーっと深呼吸をしてナタリアは首を回し、両腕を天に向けて上げ軽く背伸びをした。
「予想通りで何より」
 いったん立ち上がり、髪とドレスの体裁を整えなおす。
「いよいよ、本戦ですね」
「はい。準備はできております」
 パール夫人がにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「ふふふ。ジョロウグモの巣に飛び込む間抜けな蝶は、美しければ美しいほど痛めつけるのが楽しいのですよね・・・」

 ・・・一生、この人は敵に回したくないなとナタリアは心から思った。



「・・・なぜ、寝室の鍵をかけている」
 身なりは慌てて整えたのか髪がいつもより乱れ、やや息を切らしてローレンスが登場した。
 すぐにパール夫人は最高位に対する礼をとり、部屋の隅に立つ。
「おかげで遠回りしたぞ」
 不機嫌な様子もあらわにずかずかと入ってくるローレンスへ、ナタリアは立ち上がって優雅に礼をとりソファへ座るよう勧める。
「おはようございます。先ほど使用人たちに昨夜の趣向を撤去させる折に、間違えてローレンス様のお部屋へ向かわせないための配慮でしたが、お気に障りましたか」
 おそらく、目覚めてすぐにナタリアの寝室へ突進して鍵が開かないため頭に血が上ったのだろうなと推測したが、気づかぬふりをする。
「・・・どうやって私は部屋に戻ったのだ。記憶にないが」
 数刻前、彼は最高潮に極まって気絶した。
 なので。
「夜勤の中にダビデがいたので、運んでもらいました。お身体を清めるのも手伝ってくれたので助かりましたわ」
「え・・・」
 ローレンスが色々なものにまみれていたので、屋敷内で一番大柄なダビデに介添えを手伝ってもらった。
 彼もトリフォードと一緒にダドリー領まで迎えに来てくれた階級の低い騎士で、温厚な性格とともに信頼がおける一人だ。
「父がこん睡状態の時に介護は一通り経験したので清拭は得意ですが、ローレンス様の体の大きさはさすがに手に余るのでお願いしました。いけませんでしたか?」
 途中で「介護・・・」とつぶやきが聞こえたが、こてんと首をかしげて見せると、「あ・・・いや・・・」とローレンスは口ごもる。
 ダビデに意識のない姿をじっくり見られた上に花嫁のように横抱きにされて運ばれたのが沽券にかかわるのだろうが、知ったことか。
 恥辱の受けっぷり頂上決戦はどうやってもこちらに軍配が上がる。
「まだよくお目覚めでない様子ですね。どうでしょうか。ローレンス様はいったんお風呂と食事を召されてからもう一度お話しませんか」
 身体は拭いたが髪や顔はそのままだから、せっかくの美貌もいつもより二割減だ。
 彼としては綺麗にしたいだろう。
「・・・ああ。そうだな」
「では、午後のお茶の時間に。どちらでお会いしましょうか」
「君の良いように」
「わかりました。では用意が整い次第、執事に知らせますのでそれまでどうぞごゆっくりお過ごしください」
 納得したように一つうなずき、ローレンスは席を立つ。
「じゃあ、また」
「はい」
 体勢を立て直すための時間を与えた。
 追い詰めすぎると噛みつかれる。
 とはいえ、全力で抑え込むつもりだが。


「お越しいただきありがとうございます、ローレンス様」
「ああ」
 ナタリアの執務室でローレンスを出迎えた。
 鷹揚に頷き彼はソファに腰を下ろすと、アニーがすぐさま紅茶を入れて出す。
 お茶の時間と指定したが、菓子を並べる気はない。
 すぐにそれどころではなくなるからだ。
「勝手ながら、今回のお話には立会人を呼びました」
 合図を送るとトリフォードが隣との続きの扉を開いた。
 最初に入室したのはパール夫人、続いてローレンス付きの行政官トロント、最後に執事のセロン。
「初めまして、ウェズリー侯爵様。パール司法官の妻、メアリーでございます」
 パール夫人は小柄な体をかがめて優雅に礼をとる。
「パール司法官・・・?」
 公平な判断と有能さで名高いパール司法官を知らぬ貴族はいない。
「パール夫人は現在王太子妃の侍女ですが、もともと司法庁の高官だったので、行政官の資格をお持ちです。公平な話し合いの場に部外者が必要かと思いましたので招きました」
「そうか」
 すぐに興味を失ったらしく、あっさりと頷いて終わる。
 自分より一回りほど上で、黒いドレスに黒い髪をぴっちりと結い上げ、黒縁眼鏡。
 食指がわかない女は空気以下の扱いで良いと断じたらしい。
 『行政官』でかつ夫が司法庁の重要職におり、『王太子妃の侍女』であることになんら意味を見出せない鈍感さに、パール夫人は冷たい笑みを浮かべた。
 室内の温度が数度下がったのをナタリアは感じ、心の中でローレンスの行く末を少しだけ案じた。
「それよりもどういうことだ・・・、セロン、トロント」
 ローレンスは視線を転じてウェズリーの配下二人をにらみつけた。
 長年の使用人たちが彼の頭を飛び越えてナタリアの指示に従ったことが気に障るらしい。
「・・・ローレンス様・・・。わ、わたくしは突然呼び出されてここに参った次第で・・・」
 トロント行政官が顔色を失ってガタガタと震えだす。
「黙れ。お前の主人は誰だと…」
「黙るのはあなたです、ローレンス様」
 腰を浮かせて恫喝しようとしたのを、ばん、とテーブルを拳で叩いてナタリアが制した。
「な・・・っ。私に向かってその態度は、どういうつもりだ」
「どういうつもりもなにも。ローレンス様が頼りにならないから、こうして私たちがおぜん立てする羽目になったっていうのに、何を偉そうにふんぞり返っているんですか」
「ナタリア、おまえ…、どうして・・・」
 今まで女性に詰め寄られた経験がないのだろう。
 目を白黒させて口をパクパクとさせていた。
 おまけに、ちょっと腰が引けている。
 かなり情けない。

 この甘やかされ侯爵め。

 よしこのまま強気で行ける、と心の中でこぶしを握り、斜め上から見下ろした。
「どうもこうもないわ。来年には子供が生まれようってのにこの有り様。まさか旦那様、このままてきとーに過ごしてりゃ何とかなると思っているんじゃないでしょうね」
「う・・・」
 あ、やはり適当に過ごすおつもりだったのですね。
 ローレンス以外の全員が思った。
「あのですね。大公閣下と旦那様のどちらがこの契約結婚を考え付いたのか知りませんが、穴だらけですよね。わかっています?」
「な、なにがだ・・・」

 うわ、こうきたか。
 いや、そうだろうけれど。

 ナタリアは腹をくくり、こどもに教えるように指を折って説明を始めた。
「まず一つ目。マリア・ヒックス子爵令嬢を未成年にもかかわらずローレンス様が口説いて屋敷に連れ帰って囲い込み、妊娠させたことは王都中のみなさまはご存じです」
「な・・・」
 本気で驚愕の表情を浮かべることにびっくりだ。
「ナタリア様のおっしゃる通りです、ローレンス様。これほど面白い話を、どうして貴族たちの口にしないと思われたのかが不思議です」
 王宮の侍女が急に消えた。
 しかも、ローレンスはマリアを手に入れたことを自慢したくてわざわざドレスメーカーや宝飾店へ連れて行き、さまざまのものを買い与え、それを身に着けさせて社交界で連れまわした。
 その態度が後見人でない上に抜き差しならぬ状態であることは、その場にいたものなら誰もがわかる。
「知らなかったのは、うちくらいでしょう。ゴシップどころではありませんから」
 おそらく、他国の情報機関にも知れ渡っているだろう。
 この国で最も影響力のあるウェズリー大公閣下の愛息の顛末を。
「なので、マリア様の産んだ子供の届け出上の母にするために私を金で買ったことは、次なるゴシップとして知れ渡っています。まあ、これは大したことではありませんね。つじつま合わせは珍しいことではありません。ただし。ここからが二つ目です」
 指を折って暗く笑うと、ローレンスの肩がふるりと震えた。
「私がウェズリー侯爵夫人である間に、もし、不慮の事故死または病死した場合、それは間違いなく故意によるものだと国中の人々が思うでしょう」
「え・・・。な、なんのことだ」
「何のことだも何も、貴方様は昨夜私に教えてくれましたよ?『とりあえず式さえ挙げればお父様があとは適当に処理してくれるって言った』って。さて。『処理』ってこの場合、どういう意味なのでしょうね」
 なにしろ、注目の的なのだから。
「いや、それは・・・」
「もしかしたら、吟遊詩人たちがこぞって演目作って、美味しいネタを提供してくれたとウェズリーに感謝しつつ未来永劫語り継がれるレベルです」
「・・・なのに、あなた方、私を消すつもりでしたよね?馬鹿じゃないですか?」
「いや、私はそんなことは言っていない!」
 ローレンスがしらを切ろうとしたところに、パール夫人がにこやかな笑みを浮かべて割り込む。
「失礼ながら、侯爵様。昨夜の夫婦のやり取りを僭越ながらわたしく、メアリー・パールが記録を取らせていただきました。これは控えです」
「記録・・・?」
 テーブルの上に置かれた紙の束を手に取り視線を落とすや否や、数行もいかないうちに顔を真っ赤にしてばりばりと破り捨てた。
「な、なんなんだ、これは・・・!」
 部屋中に残骸が散る。
「だから、記録です。長くなるのでとりあえず、貴方様をひっくり返して目隠ししたり縛ったりしたあたりからのものですが」
 淡々と告げるナタリアに、セロンとトロントとトリフォードがしょっぱい顔をする。
 昨夜のことは待機していた者の口から全員に知れ渡っているに違いない。
 一晩中あられもない声を響かせたのは、妻ではなく、夫のほうなのだから。
 そして提示されたのは、官能小説の翻訳をさくっとこなしてしまうパール夫人の文章だ。
 いたたまれない程の臨場感あふれる表現が駆使されており、さらに微に入り細に入り丁寧に記述されている。
 当事者としては、なんとしても今すぐ闇に葬りたい一品だろう。
「あ、ちなみに破ったところで控えは無限にあります」
「…ああん?」
 斜め下から顎をしゃくりながらナタリアをにらみつけた。
 もう、取り繕うことなど何もない。
 ローレンスの地金がだんだんあらわになっている。
「パール夫人に滞在頂いている西の館に印刷機を一台と技術者を運び入れていまして。よくご覧くださいな。印刷物ですよ、それ」
 足元に落ちた切れ端を慌てて拾い鼻に近づけて匂ってみると、印刷インク特有の香りがした。
 くたりとローレンスは頭を落とした。
「なぜここまでやる・・・」
「そりゃあ、あなたさま」
 にっこりとナタリアは満面の笑みを浮かべる。
「これだけたっぷり泥水を飲まされたうえ、簡単に殺されたくはございませんもの」
 それが、三つ目の穴だ。
 三本目の指を折って示す。
 ナタリア・ルツ・ダドリーは、簡単に殺されてやらない。
 あらゆる手段を用いて、抵抗する。
 キュウソネコカミの恐ろしさ、とくと味わうがいい。
「・・・タリア」
 あれを泥水と言わないでくれと、ローレンスはすがった。
 君も、愉しんでいただろうと。
 何度目かわからない殺意を押し込めて、ナタリアは口角を上げた。
「その名は、二度と使わないでくださいね?でないと、先ほど破かれたあの文章、冊子にして王都中の令嬢たちに回覧したくなりますから」
「そんな・・・」
 このままでは平行線だ。
 ナタリアは仕切り直すことにした。
 グラハムが昨夜あれほどまでに騒ぎ立てたのは想定外だった。
 しかし、地下牢に押し込められたのはこれからの交渉に役立つ。
 むしろ、運が味方した。
「さて。今まで、なあなあでやってきた私たちの契約結婚、きちんと契約しましょうか」
 ここからが、腕の見せ所。

「とりあえず本日結ぶ条項は四つです」

 ダドリーでの試練で培ったもろもろの成果を出し切るときだと、ナタリアは背中をまっすぐに座りなおした。


「ではまず、一つ目。
 私、ナタリア・ルツ・ダドリーと、貴方様、ローレンス・ウェズリー侯爵との婚姻は、ローレンス・ウェズリー侯爵がマリア・ヒックス子爵令嬢との間にもうけた子供を嫡子として届け出を出すためのみの契約結婚だと明記させていただきます」

 本当は、初顔合わせの時に交わしてしかるべき内容だった。
 しかし、主導権はあくまでもウェズリーにあると思っていた。
 ところが待てど暮らせど正式な交渉は一切なく、ナタリアは愛妾どころか道端で拾った娼婦のような扱いをされ続け、心身ともに疲弊したが、ある程度札がそろうまでなんとか耐えた。
 まずは少しでも優位に交渉するのが先決。
 何度も気がせいたが、なんとなく勘が働いたのだ。
 この政略結婚は、なにかあると。
 そしてマリア・ヒックスの情報が出そろった時、心は決まった。
 マリアと、自分の両方を救う。
 彼女を、見捨てるわけにはいかない。
 
「よって契約上、私とローレンス様の関係は、あくまでも『白い結婚』を貫くこととします。これが二つ目の条項。」
「え・・・」
 ローレンスのみならず、パール夫人以外の全員が驚いた顔をする。
「ローレンス様は初夜のベッドで私にきちんと事情を説明し、指一本触れないと誓うべきでした」
「そんないまさら」

 そう。
 今更だ。
 つい先日など娼館じこみの技まで駆使してすっかり爛れきった関係だ。
 そんなこと、壁の中に潜むネズミですら承知だ。
 しかし、これをなかったこととする。

「私たちの間は、何もなかったのです。あってはなりません」
 深い関係だったのに『白い結婚』だと明記し、マリアの子供の生母と届け出を出す。
 矛盾だらけだ。
 しかし、これだけは譲れない。
「これは、ローレンス様とマリア様の夫婦生活がこれからも円満に続くために明記すべきだと私は思うのです。なぜならマリア様は今、心の底からローレンス様を尊敬し、愛しておられます。それは彼女の知る世界はまだ、修道院とこのウェズリーの箱庭だけだからです」
 まだ今は、隠し通すべきだ。
 ローレンス・ウェズリーの薄っぺらな生きざまを。
「ずいぶんないいようだな・・・」
 ローレンスが剣呑なまなざしでナタリアを見据えた。
 美男はこういう時に限ってさまになるからいけない。
 つい雰囲気にのまれて、能ある者だと本人を含め誰もが錯覚する。
「だって、マリア様はご存じないのでしょう?都合よく私たちの間をあなたが往復していたなんて。彼女は、これが真実の愛だと信じているからこそずいぶんと年の離れた男のそばにいますが、そうでないと知った時、どうなるかを考えたことがありますか」
「本当に…言いたい放題だな」
「冷静な判断をしていただくためにも、いわせてもらいますとも。貴方が十三歳の時、もうすぐ三十歳になろうとする男性を若いと思えましたか?二十歳でもずいぶん大人に見えたはずです。マリア様の同世代は、二十代半ばでももうすでに恋愛事からは足を洗い、性衝動と程遠い老成した日々を送っていると思うのが普通です。だって、どちらかというと親の年齢に近いですから」
 心を鬼にして直球を投げ込み続ける。
 書記官は三十代のため、少し涙目になった。
 四十代のパール夫人には、この暴投を心の中で深くわびる。
「それでも、マリアは貴方を選んでその腕に飛び込んだ。一生に一度の男だと信じたからです。彼女の世界を守ってあげるのが、その愛に報いることであり、あなたのすべきことではないのですか」
 説教じみた発言だとは自覚している。
 本当は、人の恋愛になんか嘴を突っ込むべきではない。
 自分は今まで一度も恋愛をしたことないのにたいそうなことだとも思う。
 だが、この坊ちゃんには必要だと心底思うからとことんやると決めた。
「あなたに足りないのは、自覚と責任です。今後のためにも、明文化し頭を整理してもらいます」
 お前はどうしようもないポンコツだと付け加えたいが、そこはなんとか飲み込む。
「そのようなわけで」
 とん、と机上の紙を叩いてローレンスの瞳を見据えた。
「まずは今後の憂いを払う為にも、私たちの関係の清算が必要です。お判りいただけましたか?」
「・・・わかった」
 不承不承ではあるが、言質をとった。
 これでひとまず、閨の仕事は卒業だ。
 ナタリアは心の中で喝さいを上げた。
 本当は、本館の端から端まで走って叫びたいほどうれしい。
 だが、ぐっとこらえて次へ進む。
「マリア様とお子さまの健康など状況によっていろいろ変わるかと思いますが…。ウェズリーがダドリーへ多額の融資をしてくださったからには、別の部分で仕事をしようと思います」
「仕事?」
「これが三つ目の条項になります。
 マリア様が無事成人し、私がお役御免になるまでのおよそ二年間。私が侯爵夫人としての仕事を整備したうえで全うし、その引継ぎと貴族としての教育をマリア様に施します」
「教育?」
「ロザリア修道院がきちんと教育なさっていたため、王宮の侍女もしくは伯爵以下の女子としては申し分ありません。しかしこれがウェズリー侯爵夫人となると別です。大公閣下の息子の妻として社交界でふるまわねばならないのですから。その少し足りない部分を徹底的に洗い出して補填し、誰からも後ろ指をさされず自信をもって今後暮らせるように手助けをさせていただきたいと思います」
「しかし・・・」
 ちらりと、夫はナタリアの顔をうかがう。
「辺境令嬢の私が何を言うと思われたでしょう。それはごもっともです」
 王都など、数えるほどしか滞在したことがない。
 デビュタントですらほんの数時間で終了し、社交界経験はゼロに等しい。
 金銭的余裕がなくて王立学院へも通えなかったのだ。
 こうなると山猿以下だ。
「だからこそ、こうしてメアリー・パール夫人に同席していただいたのです。この件を了承していただけるなら、彼女の知人を紹介いただき最高の指導者をマリア様に付けます」
 名前の挙がったパール夫人が優雅に一礼して口を開く。
「ローレンス様、改めてご挨拶します。私はもともと王妃様付きでした。王太子妃決定後は妃教育の責任者を務めまして、そのまま王太子妃の専属となっております。なので、お任せいただければ最高の教師を手配することが可能です」
「そういうことか・・・」
 ここでようやく、王太子妃の侍女がここに列席したのか理解できたらしい。
 本来なら、貴族教育はウェズリーで行うべきことだ。
 各国の要人と交わる侯爵の正妻として据えるつもりならなおさら。
 そうしなかったのは、恋に溺れていたからなのか、それとも。
「詳細はおいおい話し合いを持つこととして、四つ目の条項へ移りましょう」
 紙を手に取り読み上げた。
「ナタリア・ルツ・ダドリー
 マリア・ヒックス
 マリアの出産した子供
 そして、今回の契約の立会人
 メアリー・パール行政官
 ティモシー・トロント行政官
 チャールズ・セロン執事
 ナタリア側護衛騎士・アベル・トリフォード
 ローレンス側護衛騎士・マシュー・パリス
 侍女・アニー・ソウ
 および、この契約結婚に関わったすべての人間の命の保証を約束すること」
 一瞬、部屋の中が静まり返り、まるで時が止まったようになった。
 やがて窓の外で鳥たちが縄張り争いの声を鳴き交わし羽ばたく音がして、ローレンスは我に返る。
「・・・命の、保証?」
 子供の洗礼式が終わればいずれナタリアを病死か事故死させるつもりだったことを、快楽に負けて口走ってしまったことをローレンスは思い出す。
 それを聞いてなお、平然とそれを口にして交渉するかりそめの妻に驚きを隠せない。
 彼女は、ようやく二十歳になったばかりだと聞いているのに。
「はい。これはもちろん私自身命が惜しいからですが、ウェズリーの存亡にもかかわるので最も重要な条項と言えますね」
「なぜ、ウェズリーが揺らぐと言い切れる」
 ウェズリーは長い間安泰だった。
 父が、どれほどの横暴を働いたとしても。
「邪魔者を片っ端から始末したらどうなると思います?とくに、この件で」
 ナタリアは新たな書類を提示した。
 小さな字で埋め尽くされているのは、人の名前だ。
「こちらは住み込みの使用人たち、次が通い、その次が臨時雇い、そして出入りの業者、ダドリー領へ交渉にきたグラハム一行とかかわりを持った人々、そしてこの王都の貴族たち・・・ざっと数えて数百人・・・いや、もっとですね。そもそも、王族の皆さんもご存じですし」
 なんといっても、ここに王太子妃の部下がいるのだ。
 パール夫人はナタリアの個人的な頼みを受けたのではない。
 王太子妃直々の指示の下、有給で行政官として仕事をしているのだ。
「話が振出しに戻りますが、貴方たち親子の立てた計画は穴だらけなのです。私を使って体裁を整えようとした時点で」
「・・・」
 ローレンスの顔に不満げな色がにじみ出ている。
 簡単には頷きたくないはずだ。
 貴族の矜持が揺らいでしまう。
「使用人など替えが効くとお思いですか?セロンほど貴方に忠実で善良な執事はいませんし、彼が手を尽くして揃えた人々も驚くほど優秀です。今が一番良い組み合わせだからこそ、何もかも上手く回っていますが、少しでも刃こぼれしたら総崩れですよ」
 父親に溺愛され、ぬくぬくと今まで過ごしてきたローレンスは考えようともしない。
 今こそが人生最高の時かもしれないことを。
「ウェズリーから頂いたお金でダドリーは確かに持ち直し、この冬を無事に過ごすめどが立ちました。その感謝のしるしに、私はウェズリー侯爵家の善き未来への橋渡しという仕事をこの二年で誠心誠意努めさせていただきます。そのためには、命の保証をお願いします」
 たとえここでローレンスが了承したとしても、状況が変われば覆ることなど百も承知だ。
 多くの人を圧迫し屠り続けたからこそ、ウェズリー大公は王より強いとささやかれるほどの力をつかんだ。
 しかし、今のところ父と息子は別物だ。
 少なくとも、身分も低く血筋も不確かで美貌と人柄だけの幼い少女を正妻に据えようと本気で思う時点で、野心ゼロだ。
 天と地ほどにかけ離れている。
 そこに、つけこもうとナタリアは思った。
 この契約書は、ちょっとした保険であり、まじないのようなものだ。
 少しでも効力があればそれに越したことはない。
「・・・一つだけ聞く。ナタリア、この契約書の要は何だ」
「マリア様とお子様の幸せ、そして円満な離婚ですね」
「なぜ、そこまでマリアにこだわる。会ったのはあれが初めてだったのだろう。ふつうはマリアを押しのけて名実ともに侯爵夫人の席に座り続けたいと思うものじゃないのか」
 確かに、そうしたくなるのものなのかもしれない。
 だが、ナタリアはまっぴらだ。
 正直、さっさとダドリーへ帰りたい。
「そうですね・・・。ああ、そうだ。マリア様があまりにも可愛らしいので、お仕えしたくなったのが理由の一つですね」
「は?」
「たぐいまれなる原石を磨いて最高の淑女に仕立て上げる。ロマンだと思いません?」
 にいっと笑って見せたら、ローレンスは頭を抱えた。
 彼自身、同じことを思ったからこそ、今に至る。
「・・・。とりあえず、現状に照らし合わせて今回はこの条項で、ということでいいか」
「はい。たぶん、これを読んだらお父上が激怒なさるでしょうし」
「それもこみなのか」
 この契約書を目にしたら、必ずナタリアを呼び出すだろう。
 来年の春には消すつもりの女と会うつもりはさらさらなかっただろうが、多少の脅しをかけずにはいられないはず。
 それも、狙いの一つだ。
 ウェズリー大公と直接交渉する。
「ええ」
 グラハムたち子飼いからの報告を受けて、めちゃくちゃに怒ればいい。
 激怒ついでに息の根も止まってしまえばいいのにと、ひそかに呪う。
「わかった。その内容で合意する」
「ありがとうございます」

 とりあえず、今やるべきことは終わった。
 ナタリアは署名をしながら息をついた。



 -つづく-


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