恋愛事情






   ずっと甘い唇、昼も夜も。

   君がいれば、もう、そこは楽園さ。



 荒れている。
 大荒れだ。

 たとえて言うならば、冬の日本海で風がびゅうびゅうと吹きすさび、雪とあられが息をつく暇も与えないほどざらざら降りつけ、ごつごつごつとした岩肌を冷たい海水が砕けよといわんばかりにざっぱーんと荒々しく打ち付けているという、そんな荒涼とした風景を連想させるほど、目の前の女は荒れていた。

「だいたい、あんたときたらあんたときたら、人生おいしいとこばっかり食い散らかして、いいわよねぇ。なーんにも人さまに良いことをしていないのに、幸せばっかり舞い込んで・・・。こんな顔だけの男のどこがいいんだか・・・」
 ほんのりと赤く色づいたシャンパンの入った華奢なグラスを爪の先まで丹念に手入れの行き届いた白い指でつまみ、ゆるゆると優雅に回し振りながら、耳をふさぎたくなるような罵詈雑言で毒づいている。
 もしかしなくても、絡まれているのだろうか、これは。
「はいはい、俺がわるうございます・・・」
 既に小言の域に達している彼女の繰り言を右から左に聞き流しながら、ここでまぜっかえすと火に油を注ぐだけだとおざなりな返事を返した。
「気持ちがこもっていない・・・・」
「は?」
「和基の言葉には、いっつも、誠意がこれっぽっちもないのよ。うざったいから、とりあえずあやまっとこうって思っているでしょう」
 ・・・鋭い。
 この酔っ払い女はどう見ても血中のアルコール濃度が頂点に達しているように思えるが、重箱の隅を突っつくような眼力は落ちいていないらしい。
「そんなことないさ。有希子の言葉はいつもありがたく拝聴していますとも」
 幸か不幸か、それこそ幼稚園に通う頃からの幼なじみゆえに長年の付き合いの中でここまで乱れている姿を見たのは、初めてだ。
 なんせ、高校一年にして酒好きで名をはせている筈の和基の父を平然と飲み負かしているさまを目の当たりにした過去があるだけに、この酔っ払いっぷりは夢を見ているような気分にさせられる。
 雪のように白い肌にほんのりと赤味がさし、目元がいつもより少しとろりととろけている。
 とてつもなく色っぽくはあるが、いつになく酔いの回るのが早い理由に心当たりが無くもないので、欲を感じるより痛々しく、少しだけ愛しさが募り、艶やかな栗色の頭をなでてあげたくて手を伸ばすと、すばやくぱしんと払われる。
「・・・ほら、その態度。そういうところが馬鹿にしてるっていうの!!どうしてこんな男が良いのよ、生も江口くんも・・・!」
「有希子、頼むからテンションを下げてくれ・・・」
 いく、という名前はオンナだろうと既に聞き耳頭巾状態の店員たちは思っているにしても、次に続いた「えぐちくん」にはさぞかし驚いたことだろう。
 連れ添って仲良く店に入ったときは、この女の見た目の華やかさからきっと、なんて似合いのカップルだと店内の人々は思っただろうが、食と酒が進むにつれてだんだん険悪になってくる2人の会話に首を傾げつつも興味津々なのが、ちっとも酔えない和基の肌にじわじわと伝わってくる。
「せっかく、最高においしい料理とたっかい酒をふるまっているというのに・・・」
 もう、二度とここにはこれまいなと居心地と料理の良さでお気に入りだった店内をしみじみと見渡す。
 いや、所詮は酔っ払いのたわごとだと思ってくれるはずだと気を取り直して話題を変えてみることにした。
「そういや、お前、一流商社の男はどうしたんだよ。らぶらぶだって言ってたじゃん。こんなところでクダ巻いている場合じゃないだろ?」
「・・・別れたわよ。とっくに」
「そんな、だってお前・・・」
 言いかけてふと有希子のほんのり朱に染まった白い指先に目をやる。
 彼女の指には男から買ってもらったと自慢していたティファニーの可憐なリングではなく、以前香港で自ら大枚はたいて買ってと聞いたカルティエの骨太なリングが虚しく煌いていた。
 ・・・今夜はとてつもなく長くなりそうだ…。
 そう、理解して深々とため息をついた。



「そんな、だってお前、帰国子女で頭脳明晰でセックスも上手で最高の男だと言っていたじゃないか・・・」
 言うまでもなく顔良しスタイル良し収入良しの三拍子が揃っていたはずだ。
 付合いはじめた頃は「凄い男を捕まえたでしょ?」と、わざわざ自慢する為に仕事中の自分を喫茶室に呼び付けたほどだったというのに。
「あれは、上手って言うんじゃなくて、単に色狂いだっただけなのよ」
「いろぐるい・・・。今度はいったい何があったんだ・・・」
「きっかけはあの日に月のものが始まっていたことにあるんだけど・・・」


 その日の有希子の体調は最低だった。
 貧血でどこか意識がふらふらとおぼつかない上に木槌で腰骨を砕かれているかのように腰が痛く、出来ることならば横になって休みたいところだが、日頃海千山千のツワモノどもと戦う仕事をしている恋人の為に歯を食いしばってワンルームマンション独特の狭いキッチンの上でせっせとごちそうを作っていた。
 副作用の関係で出来ることなら飲みたくない鎮痛剤と栄養剤でドーピングして頑張る自分の姿に「ああ、こうまでして尽くすなんて、私ってば彼をそんなに愛しているのね」と酔っていたことは否めない。
 ロールキャベツを作って彼の体を温めさせて、あとはさっぱりしたマリネでも付け合わせにしようかしらとボールにあけたミンチ肉をこねている最中に背後から声が掛かった。
「なあ、有希子・・・」
 ぴったりと背中にくっついてくる体温を意識しながら、彼女は手を休めない。
「なあに?」
 もう少しこねた方が触感もやわらかくなめらかに仕上がるはず。
 粘りを増していく暖色の肉を華奢な指先でかき回すくちゃくちゃという音だけが狭い部屋に広がった。
 彼の両腕がウエストをじわじわと包み込む。
 そして、胸に届く長い髪を作業の邪魔にならないように一つに束ねていたためにあらわになった首筋にやわらかい感触が滑り落ちた。
「ちょ、ちょっとやめてちょうだい。今、両手がふさがっているから・・・」
 彼の意図することを悟った有希子は腕から抜け出そうと身をよじらせるが、シンクと男の体に挟まれて思うようにいかない。
「いいじゃないか、別に・・・」
 背後から回されたがっしりとした両の手は吸い付くように腰のあたりをさまよう。
 ふいにぎゅっとセーターの上から胸をつかまれて肩を震わせた。
「ねえ、今日はやめて」
 ボールの中のかたまりがぐしゃりと崩れる。
「・・・なんで?」
 囁きながらゆるゆると耳をはむ。
 本気で嫌がっているのに全く気がついていない様子だ。
「・・・今日は一日目なのよ」
 このままだと有希子が身につけているタイトなスカートを捲り上げかねない不埒な手を意識しながら、息を吐く。
「別にいいじゃないか、そんなこと」
 両の手がゆるゆると太股をなでまわす。
「でも・・・」
 ぬるぬると汚れている両手。
 ぷんと匂う生肉独特のどこか甘ったるい、けだるい香り。
 触手はセーターをかいくぐり、肌をざわざわとざわめかせる。
 隣ではレンジの上にのせた鍋から沸騰した湯気がもくもくとあがった。
「そっちのほうが、俺は、興奮する・・・」
 ぐしゃ。
 整形しつつあったそれを握りつぶした。
 そして、有希子は身を翻す。


「それで?」
「蹴り上げて帰ったわよ。即刻」
「うっひゃー・・・」
 どこを、とは聞きたくないが、聞かなくても想像がつく。
「お前、そんなことをして一生使い物になら無くなったらどうするつもりなんだ」
「あんなもん、使い物になら無くなれば良いのよ、いっそのこと!!」
 上品な唇から過激な言葉がざくざくと飛び出て来た。
「俺は、その商社マンを同情する・・・」
「なにいってんの。ああいう男に限って東南アジアで処女あさりしたり、いたいけな子供たちを買い捲るに違いないんだから、あんな変態、去勢した方が世のため人のためだわ」
 それがかつて愛した男に対する態度なのかと、和基は椅子の背もたれに身を預け、脱力する。
「お前な、別にいきなり縛られたり、ローソクを持ち出したりしたわけじゃないんだろう?それしきのことで・・・」
「和基はオトコだからわかんないわよね。生理になったことないんだから」
「・・・そりゃ、あったら問題だろ」
 そんなこと言われてもと和基は唇を尖らせる。
「個人差はあるけど、初日ってかなり体調悪いのよ。頭痛はするし、気持ち悪いし、腰は骨盤が歪むんじゃないかと思うくらい痛いときもあるわ。一度経験したら、そんな台詞を吐いたことを後悔するに決まってるわよ」
「・・・こつばんがゆがむって、おまえ・・・」
 想像するだに、恐ろしい。
 きゃーと呟いて頭を抱えた。
「それでも、あんたはやるって言うの?」
「いや、俺は見ての通り、痛いのと血を見るのは苦手だからなぁ」
 そういう状態を好む男の話は確かに聞いたことがあるが、自分としてはいまいち食指が沸かなかったのだ。
「だいたい、お前ん所の高校は教育が間違っていると、常々思うよ・・・」
 和基の姉である千鶴と幼なじみである有希子の通った女子校はお嬢様学校で名高いのだが、なぜか授業のカリキュラムの中に「護身術」が入っている。
 ほんの数回可愛らしくさわりをレクチャーするのではなく畳の上で懇切丁寧に時間をかけて伝授されるために、けっこう身につくものだと聞いている。
 そのお蔭様で非常に強暴な姉と幼なじみの鉄拳を食らい続ける羽目になってしまった。
「もともと、護身術って奴は襲われそうになったときに身を守るために使うものであって、罪のまったくないいたいけな男を殴り飛ばすものじゃないって習わなかったのか?」
「罪・・・?罪は、女性に対して全く思いやりが無いという点で十分有罪だわ」
 すぱんと有希子は断罪する。
 こんな論理に持ち込まれて、和基には反論の余地などありはしない。
「すさんでる・・・。どうしてここまでこいつはすさんでるんだ・・・」
 一息でワインを飲み干す女を上目遣いに眺めながら、絡められたチーズの匂いが湯気と共に立ち上るパスタを口に運んだ。



「そもそもは和基が悪いのよ」

 この店に入って何度言われたか解からない台詞に逆戻りする。
「なんでもかんでも俺が悪いってか。で、俺がいったいいつ・何をしたというよ?」
 八つ当たりされるのにいいかげんうんざりしてきた和基は、うっかり新たな地雷を踏んだとも気付かずにサラダのレタスをしゃくしゃくとほおばった。
「去年の末にお客に安請け合いして、うちの部に尻拭いさせたじゃない。あれさえなければ、私は今こうしてあんた相手に酒を飲む必要なかったのよ」
 グラスの中味を豪快に飲み干しながら、有希子は怨念すら感じるオーラを送りつつ上目遣いにねめつける。
「俺の驕りの飯と酒をこんだけむさぼっといてよく言えるな、お前は・・・」
「おごりって言ったって、それはあんたの不始末の尻拭いを私が更にしてさし上げたからでしょ!!」
「そういえば、そうでした・・・」
 この会合は、以前に和基の犯した仕事上のミスを有希子がフォローしてくれた為、そのお礼の場なのである。もしもあの時、事がうまく運ばなかったら、顧客が絡んでいただけに和基を含め上司や仕事仲間の立場が危うくなるところだったのだ。
 俺って、有希子に迷惑かけてばっかりなんだな。
 ちょっぴり小さくなる幼なじみにちらりと視線を送った後、彼女は盛大なため息をついた。
「ああ、もう、やってらんない・・・」
「そんな・・・」
 色々やらかしているという自覚はあるのだが、半年以上前でそんなにしつこく恨まれるような事があっただろうかと灰色の脳細胞に問いかける。
「・・・去年の末・・・?T銀行の環境整備の件か?」
 去年の末で思い当たる物件といえばそれしかない。
 次期契約更新の条件を良くするための前哨戦として、短期納入の仕事を技術の長けた同期の立石に作業依頼したことがあった。
「でも、あれって、徹夜1日、休日出勤二回程度で終わる内容だったじゃないか。そんなにせっぱ詰まってやる仕事でもなかったし、それがどうして有希子に関係あるのかわかんないなぁ」
「関係?おおありよ。その休日出勤の日はうちの課の慰安旅行の日だったんだから」
「慰安旅行?」
「そうよ。熱海に一泊二日。それをあんたは直前になって立石君だけ引っこ抜いて・・・」
 ちなみに、今ここで酒を飲みかわしている二人のうち、池山和基は某大手電機メーカーの情報系部門の営業職で、幼馴染の保坂有希子は偶然同じ会社で情報系技術部の事務職をしている。そして、今、彼女の口から出てきた立石徹はそこのSEだった。
 自分で言うのもなんだが、池山自身は持って生まれた顔だちの良さと天性のノリの良さで幼い頃から身内以外で女と名のつくものどもからちやほやされてきたが、友人の立石も入社以来女子社員たちの熱い視線を一身に集めている。
 結婚、の二文字がちらつき始めた妙齢の女性たちにとって、老成しているとまで評される立石の落ち着き払った物腰と上司たちですら魔法使いと噂する程の仕事の捌きようが堪らない魅力となるらしい。
 『仕事が出来て、人望があり、かつ、体育会系の適度に引き締まった体を持つ男』。
 学生時代はさほどでなかったと聞くが、今では取引先の受付嬢までが彼を追いかけてくる始末だ。
 実は、保坂有希子も入社以来立石に心臓を打ち抜かれた者の一人だった。
 ただし、立石自身には高校時代から想い続けている女性がいる。
 彼女の名は長谷川生(はせがわ・いく)。
 未成年で別の男性との間に一子設け、独りで育てている生はがんとして立石の想いを撥ね退け続け、いつまでもあきらめきれない立石にそれを追う有希子が加わって奇妙な三角関係が出来上がったのだ。
 しかも、生と有希子はもともと稽古事で古くからの知り合いだったというから、まるでそれは少女漫画かはたまたドラマかと言いたくなるような因縁ぶりだ。
 その不毛な関係と想いを断ち切るためなのか、有希子は何度も別の男性と付き合っては別れを繰り返していた。そして、それがまた、始まってさほども経たないうちに終わってしまった。
 ならば、一時はなんとか薄れていた立石への執着が噴き出でてきたということか。
 池山の頭の奥でこれ以上聞くなという声と、毒を食らわば皿まで食ってしまえという声が交互に響く。
 なんとなく嫌な予感の方が強いのだが、ここまで来たらすべて聞かずして帰れるかと思い、顎をしゃくった。
「そう言えばそうだったな。本当は岡本にも手伝ってもらおうかと思ったんだけど、あいつが1人で事足りるといったからそうしたんだよ。経費も安く済むしな。それの何がいけないんだよ」
「あの慰安旅行はね。私の人生がかかっていたのよ」
「人生って、えらい大袈裟な。たかが一泊二日の旅行に」
「そう言いたくなるくらい、私はあの日に賭けていたのよ」
 わなわなと握り締めているワイグラスのステムが悲鳴を上げているように見えるのは気のせいだろうか。




「・・・なんだか、とっても聞きたくない」
 腰を浮かしかける池山のすねを尖ったパンプスの先で思いっきり蹴る。。
「ここにいるからには聞きなさいよ。和基、映画の『創世記』って見たことある?旧約聖書の映画版」
「ん?ああ、アダムとイブとか、ノアの箱船とか・・・」
「そう。あれでとある町に嵐が襲って来て、逃げ惑った人々の中でたまたま振り返った母親が潮柱になる場面、覚えていない?」
「・・・なんだそりゃ。海がぱっくり割れる話とかは覚えているけどな、そんな場面あったっけな?」
「ええ。絵画の題材にも良く出てくるけど、『ソドム』と『ゴモラ』という街があってね。すっかり人々の心が悪に染まっていたから神がその街も住人も滅ぼそうと考えるのだけど、当時の預言者であるアブラハムが『その中に善良な人もいる筈だから滅ぼさないでくれ』って頼むから、様子を見るために二人の天使を遣わせるの。そしてそこで唯一善良なロトという人が彼らに出会って『外は物騒だから自分の家にお入りください』と迎え入れるのよ」
「そどむ、ごもら、あぶらはむにろと・・・」
 酔いがそうとう回っているはずなのに、この女はどうしてこんな小難しい話が出来るのだろう。
 見知らぬ人名地名に池山の頭の容量はいっぱいいっぱいになってしまった。
 それなのに、そんな彼の呟きを黙殺して有希子は続ける。
「ところが、色と欲におぼれた街の人々が天使を味見させろと詰め寄るの。そこで彼が返した言葉も振るっているわ。『うちには男を知らない娘が二人いるから、この子達をあなたに与えます。なんなりと好きに扱っても構いませんが、客人に手を出すのだけは勘弁してください』というのよ。客人を大切にするのが中近東の伝統だとしても、かわりに血のつながった娘たちを輪姦しろとはどういう父親なのかしら」
「・・・ほんとに、聖書にそんな恐ろしい話が載っているのか?」
 姉と有希子は幼稚園からキリスト教系の学校に通ったが、池山は宗教と無関係な学校に通い、まったく聖書も讃美歌もかかわらずにいた。
 しかめつらしい教訓ばかりが載っているものと思っていただけに、少し興味がわいてくる。
「もちろん。でも、話の核心はここじゃないわ。激昂した街の人々が彼に襲い掛かるのを見た天使は街を滅ぼすことを決めて、ロトの家族だけを逃がすの。ロトとその妻と、処女の娘二人。彼女たちにはそれぞれ許婚がいたけれど、天使の慈悲を世迷言と笑ったために彼らは滅びたわ」
「そりゃ、いきなりこの街は神様が壊しますといわれてもな・・・」
「穢れの酷いソドムやゴモラは低地の街で、天使が滅ぼすのはその周辺だけ。高台は大丈夫という話で、天使は逃げる彼らに一つ忠告を与えたの。『逃げるときに振り返ってはならない』と。日本の古事記にも、ギリシャ神話にも同じ話があるわよね。振り返ったら全てはご破算っていうの。お約束通りに振り返って塩柱になったのはロトの妻だった」
「あーあ。好奇心に勝てなかったんだな・・・」
 そして、その好奇心で身を滅ぼそうとしている男がここにいる。
「親子三人で高台に向かって逃げて逃げて、とうとう未開の山奥の洞穴に住む事を決めたの。それで、仲良くひっそりと歳をとっていけば良かったのに・・・」
「・・・食い物の取り合いで殺し合いでも?」
「いいえ。子供を作っちゃうの」
「・・・は?」
 和基は耳を疑う。
「だって、血のつながった親子って、お前、言ったよな、さっき」
「ええ。婚約者も母もなくした姉妹はこれで血が絶えることを恐れて、協議の結果、父を毎晩泥酔させ、前後不覚になったところでその唯一の男であり父である人の体からそれぞれ子種を頂いたの。父親は娘たちの策略なんて全く気がつかないまま子供は生まれ、望み通りに子孫は脈々と続いた」
「男を知らないって、どういう意味なのかなぁ。その、巧妙なテクニックはいったい誰に教わったんだ・・・」
「伊達にソドムで生活していないということなのかしらね。それとも、これこそが女の本能なのかもしれないわ。未開の地で目の前に男がいるのは父親だけ。なら、この人の子供を残そうって」
「女の本能・・・」
 ここに来て、ようやく保坂の言わんとすることが飲み込めた。
 『一泊二日の旅行に賭けていた』と、彼女は言った。
「まさか、お前・・・」
「ええ。立石君をぐてんぐてんに酔わせて、頭からぱくりと戴く計画を立てていたのよ」
「ぎゃー・・・・」
 怖い。
 怖すぎる。



「だって、酔った勢いなら立石君は私を抱いてくれるかもしれない。たとえ、それが生の代わりだとしても構わない。一夜の過ちだとしても、もしもそれで子供が出来たなら、真面目な彼の事だもの、きっと私を選んでくれたわ」
「それは・・・」
 それは有希子の思い込みだと否定できなかった。
 確かに、律儀な立石のことだけに、ありうることかもしれない。
「でもよ・・・」
「虚しいのは承知よ。でもね。たまたま、慰安旅行の頃に排卵日が当たりそうだったの。そしたら、もしかしたらこれ運命かもしれないと思うじゃないの」
 有希子は色素の薄い瞳を煌めかせて池山を見据えた。
 まるで、あたかも、目の前にその運命とやらがいるかのように。
「二人きりになれるかどうかもわからない。うまく連れ込んだとしてもそう簡単に妊娠できるとは限らない。でも、そんな機会が突然目の前にできたのよ」
「それで、お前は本当に良いのか、そんなやり方で・・・」
 立石は有希子の好意に気づいていながらわざと気づかないふりをし続けているのは、池山にも解かっている。
 そして、有希子も。
 職場と言う狭い空間で、周囲に気を遣わせないためにはこの方法しかなかったからだ。
「それが私の策略だと薄々感づいても、きっと、あの人は何もいわないで結婚しようと言ってくれるわ。・・・きっと。例え、ずっとずっと生のことを忘れられないとしても、私と子供を愛してくれる」
 なによりも、有希子自身に恥をかかせないための彼なりの気遣いにあえてつけ込む事を彼女は選んだ。
「愛してくれなくてもいい、疎ましく思ってもいい。ずっとそばにいたいのよ。私はずっとずっとあの人が好きだったんだもの・・・」
 目を見開いたまま、白い頬にぽろぽろと水晶の玉のような涙をこぼす。
「あの人が私のものになるなら、どんなに汚い手だって使うつもりだったのに」
「よせよ。お前には似合わないって」
「だって、生が彼のことをいらないなら、私がもらって何が悪いって言うの?なんだかんだ言って蛇の生殺しのような生活をずっと続けさせる生が悪いのよ。私なら彼にあんな辛い思いを絶対させないわ。立石くんだって、なんだって、友達のお古にあんなに固執するのよ。私なら・・・」
「・・・そこまでにしとけ」
 都合を作っては毎週のように会って姉妹のように仲良くしている友人を悪し様に罵るのは、有希子らしからぬことだった。たとえ、それが胸の奥の奥にしまい続けた気持ちだとしても、どこか自分で自分を傷つけるような物言いに耐えられなくなって、和基は幼馴染の頭の上にぽんと手を置いた。
「お前の気持ちは良くわかったから」
 くしゃ、と、栗色で滑らかな髪を手のひらで撫でさすると、それを払いのけられた。
「・・・なによ。仲が良いからって、おんなじように私に触らないで」
 きっと池山を睨み付けたが、すぐに涙が瞳から溢れあとからあとから頬を伝い、ぽたぽたと音を立てて膝をぬらす。
「同じ?」
「・・・いきなり部屋に引っ張り込むほど、私は獣じゃないわ。告白はしたのよ、ずっと前。・・・慰安旅行よりも前に」
 部の飲み会の後に二人きりになった瞬間、酔いの力を借りて有希子は立石の腕を掴んで言った。
「好きって。あなたが好きだって。まるで子供みたいにがたがた震えながら、一生懸命言ったわ。でも・・・」
 立石は困ったように笑って、ぽんと有希子の頭上に手を置いた後、その髪を大きな手でくしゃっと撫でて言った。
「『・・・ありがとう』って、それだけ。ちょっとすまなさそうな顔をして・・・!」
 池山でない何かを見つめたまま口元を震わせる。
 もう一度有希子の頭に手をやり、少し力を込めた。
「・・・慰安旅行に立石が来なくて、良かったんだよ。俺はそう思う」
 素直にうつむき、涙を落とす。
「好きなだけ、泣け」
 うーっと子供のように小さく唸りながら、膝においていた布ナフキンに顔をうずめる彼女の後頭部を優しくさすりながらため息をついた。
「・・・お前がこんなに泣くのを、俺は初めて見たよ・・・」



 有希子が落ち着く頃合を見計らってか、肉料理がテーブルの上に並べられる。
 金曜の夜の割と遅い時間から席に着いたため、先に食事を始めた客たちはほろ酔い加減だったのがいくらか幸いして、最初はちらちらと向けられていた好奇心の目も今は何事もなかったかのような雰囲気になっている。割と格のある店だっただけに、端の方の席だったとはいえ食事中にこのような騒ぎを起こして退席すべきかとも思ったが、マネージャーの厚意でそのままにさせてもらえている。

 幾分腫れてしまった目元のまま、有希子は皿をじっと見つめて問う。
「ねえ・・・。立石君がいきなりアメリカ研修に入った訳はなんなの?」
「・・・営業の俺が知るわけないだろ?」
「今更しらを切らないで」

 実は、立石は今、有希子の所属部署から離れてアメリカにいる。
 晩秋の頃に急に休暇を取ってアメリカへ渡ってそれきりだ。

「課長に聞いても言葉を濁すだけで何も言ってくれないの。ただ、「手続きは頼むな」の一点張り。だいたい辞令が出たのは彼がアメリカにとんだ後でしょう。和基は部屋の鍵を預かっているし、生はここの所ずっとお稽古事に出てこないで先生のところに坊やを預けっぱなし。連絡は一切取れないし。立石君のそばにいて仕事のお手伝いをして来た私がどうして何も知らないの?」
 またうつむく有希子の頭をゆっくりなでる。
「話せば長くなるし、お前も心配すると思ったからだろう」
「話が見えない方が、もっと不安になるときもあるのよ」
 本当に、立石のことが好きなのだなと胸が痛む。
 そして、親友と思ってきた生からすら事情の一切を教えてもらえないことにも傷ついているのだと知り、池山は迷った。
 話してよいものかどうか…。
 しかし、ここは幼馴染への情が勝り、口を開く。

「・・・あのな。あいつは一度辞表を出したんだよ」
「え・・・?」
 やはりそこも知らなかったらしく、有希子は顔を上げた。
「なに、それ・・・」
「で、上の方がどうしても手放したくないという結論を出して、NY支社へ出向扱いと渡航理由を研修にしたんだ。でも、おそらくフルタイム出勤はしていないはずだ。とんぼ返りだったけれど、辞表を出す時はさすがに戻ってきたからその場で急きょ色々協議してそうなった」
「どうしてそんなことに・・・」

「シリコンバレーに長く住んでいた年の近い親戚が失踪したんだ」

 手つかずの料理を指さして、「話が長くなるから、とりあえず食べながら聞け」と促すと、素直にカトラリーに手を伸ばし、肉を切り離し始める。口に運ぶのを見ながら、自分も一口入れる。
「幼い頃から仲が良かったらしいから、あいつもじっとしていられなかったんだろう。会社を辞めて探しにいくと言い出したときにはさすがの俺も驚いたよ」
 互いに半分機械的な動作を繰り返しつつ会話を進めた。
「たしかに心配だろうけれど、どうしてそこまでする必要があるの?その人だって家族がいるでしょう?おかしいわよ、そんな話」
 杯を重ねた酒の為に少し潤んだ瞳が池山を見据える。
「・・・学生の頃に一緒にアメリカで情報系の会社を興さないかと誘われていたのを断って徹はここに入社したんだ。一番辛いときに自分がそばにいたならば、そんな事にはならなかったかもしれないと、多分、そう思っているんだよ」
「・・・もしかして、立石君がこっちに就職した理由って・・・。生がここにいたから?」
「・・・ああ。大学4年の秋に生と再会して・・・。あいつがシングルマザーをやっているのを知った途端、色々なことを方向転換したんだよ。生が今回のことに協力しているのはあいつがモデルの仕事のつてでセレブリティに知り合いが多いせいと、徹たちに対する自分なりの負い目があるからだろう」
 見えない糸が複雑に絡み合っているような錯覚に、有希子は目を覆う。
「そんなに想い合うくらいなら、いっそ、結婚してしまってくれれば、諦めもつくのに・・・」
「生は何がなんでも結婚するつもりはないと言っている。徹との再会をきっかけに子供の父親の家族ともめて、その火種が飛んで実姉の縁談が壊れたからな」
 立石なりの正義感で、子供の存在を相手の家族に知らせてしまったが、それは予想もしない方向へと転がって行ってしまった。
「今のあいつだったら、そんなヘマをしないだろうけれど、当時はまだ若かったんだろうな。ある意味頭に血が上っていたんだと思う」
「それで、なんでお姉さんの縁談に関係が?」
「これは、あいつらに直接聞いたんじゃなくて、江口経由で知った。江口はあれで旧家のぼんぼんだからな。祖母のお気に入りで小さいころからいわゆる社交場に連れまわされていたんだ。だから、生ではなくて、姉の方が顔見知りだったんだよ。美貌の跡取り孫娘としてあちらの祖母に連れまわされていたし、なんといっても、生の父方の祖父が長谷川周とだと聞いてピンと来たと言ってた」
 長谷川周は文学界では大御所、または重鎮と言われる大作家で、高校生の頃に日本文学史をさらったことがある人なら一度は耳にするし、教科書に採用されるような随筆も書いており、知らぬ者はいない存在である。とはいえ、純文学作家の私生活はさして世間の興味を引くこともなく、生に関する情報が漏れることはなかった。
「関西では有名な美少女だったらしいからな。蝶よ花よと育てられた姉の方はとんとん拍子に官庁のエリートとの見合いをして、結納を交わしてしまったところまで話が進んでいたらしい」
 そんなタイミングで、父親の分からない子供を未成年で産んだ妹がいることを隠していたのが露見して、そんな女が身内にいるなんてとんでもない、と破談になってしまった。
 もちろん、それがきっかけで一時期はセレブリティの間で生の話はもちきりで、しばらく姉は海外に出て行ったっきり帰れなかったという。
「父親が入り婿だったから高校までの名字が今と違うんだよ。確か、高階だったかな・・・。だから徹も上京している筈の生を大学の四年間探し出せなかったんだ。出産前に父方の祖父の養女にいったんなって、長谷川姓を名乗るようになったらしい」
「あの子を産むとき、新たに籍を作ったって言っていたけど、そう言うことだったのね・・・」
 有希子は学生時代からその長谷川周の妻に茶の手ほどきをしてもらっていて、師匠の孫娘である生とは二十歳のころに稽古事で知り合って以来の付き合いである。
 しかし、彼らの口からは一度も両親と兄弟の話が出て来たことが無かった。ただ、大学一年の夏に息子を産んだとしか。
 何か事情があるのは明らかで、聞くに聞けないままここまで来てしまったが、簡単に話せるものではなかったのだと今は解る。
「そんな理由で縁談を断る家に縁付いても幸せにはなれなかっただろうと俺は思うが、生は姉の幸せを壊しておいて、そのきっかけになった男とのうのうと生活は出来ないと思っているような気がするよ。どうしても、あいつの中の仁義が立たないんだよ」
 破談のあと、ほとぼりが冷めてから大病院の次男を婿に迎えて現在は子供もいるという、経済的にも裕福で傍目から見れば絵に描いたような幸福な結婚生活を送っているが、もしもそれがうまくいかなくなった時に、必ず思うはずである。
「あのとき、あの人と結婚できたならば、こんな目に遭わなくて良かったのに」と。
 立石は悪くない。
 高校卒業前に妊娠してしまったのは生であり、産むのを決めたのもそうだ。
 いつかは露見するはずの事ではあったが、あまりにも時期が悪すぎた。
 家庭の事情であまり親しくない姉妹ではあったが、だからと言って不幸を願ったことは一度としてなく、それが生を踏みとどまらせている理由のような気がしてならない。
「かといって徹は、はいそうですかと生のいない世界で生活することは出来ないだろう。あいつにとって、中学生の時から生は運命の女だから」
 そして、2人はつかず離れず友人のような家族のような、そしてそれ以上のような、でも決して恋人ではない関係を続けている。
 ただし、一見立石が一方的に想いつづけ、追いかけているようにみえるが、彼の背中を見るときだけ、生の瞳に情らしいものが浮かんでいることも、有希子は気がついていた。
「俺は、そんな込み入った過去を背負っている女は手におえないと思ったよ、正直。まあ、あいつも俺に人生を預ける気はさらさら無かったからこそ、何も俺に打ち明けなかったのだろうけど」
 大学生時代から少しの間、池山は生と付き合っていたが、それはいつもどこか非現実的なひとときだった。名前と連絡先くらいしか知らない、浅い関係を互いに望んだからだ。
 それに比べて彼らは深い。
 いつまでもいつまでも、深い川を挟んでじっと見つめあっているかのような関係だった。

「2人とも、ばかみたい・・・。つべこべ言わずにくっつけばいいのに・・・」
 そうしたら、こうして虚しい酒を飲むこともなかったのに。
「そうだな。バカ正直と言うか、融通が利かないというか…」
 二人は今、いったん休戦状態にして、アメリカで血眼になって失踪者を探しているだろう。
 それが、彼らに何をもたらすのか、こればかりは解らない。
「もう、あいつらのことで悩むのはやめろ」
「・・・」
「せっかくお前は美人でスタイルがよくて頭脳明晰な上に気がきいて、男達が一度はものにしたいと夢を見る女なんだ。あんな一つ穴馬鹿なんかとっとと見切りをつけて、もっともっと良い男と幸せになれよ」
「・・・うん」
 くしゃりと、泣きだしそうな顔のまま笑った。



「仕方ないか・・・。仕方ないよな・・・」

 結局、独りで帰せる状態でない有希子を自分の部屋へ連れて帰り、ソファに座らせてコーヒーを入れている間に、彼女はぐっすり眠ってしまった。
 仕方がないので、寝床仕様にソファを作り替え、毛布を掛けてやる。
 その間、有希子が目覚めることはなかった。
 次に、池山はため息を吐きながら受話器を取り、ゆっくりゆっくり電話番号をプッシュする。
 深夜に近い時間なのだからこの際眠ってくれていると良いのにという願いも虚しく、数コールで電話口に低いが少し鼻に掛かった甘い声が電話口に出た。
「はい、保坂でございます」
「・・・夜分遅くに申し訳ありません。池山の和基ですが」
「あら、和基君なの?おひさしぶりねぇ。群馬のご両親はお元気かしら?」
「はあ、多分変わりないと思います」
 正月三が日以来、顔を合わせていないし連絡も取っていないが。
「和徳さんのところもまたお子さんがお生まれになって、今は可愛い盛りでしょうね」
「はい、多分」
 長兄の和徳とは昔から気が合わず、会ったら説教と血の雨が降るだけなので、これもまた慶事と法事など公式の場でしかあったことが無い。
「千鶴さんも、お仕事が順調のようだし・・・」
 ・・・姉の千鶴に至っては毎週末稽古事を一緒にしている我が娘と会っているのだから言うまでもない。
 だいたい、実家とはなるべく距離を置こうとしている和基よりも、娘同士が親友で家族ぐるみの付き合いだった有希子の母の方が、だんぜん池山家に関して情報は早いはずだ。
「・・・あの」
そう早くも無いこの時間に彼女がだらだらと世間話を繰り広げようとしていることに今更気付いた池山は、なるべく控え目に口をはさむ。
「あら、なにかしら?」
 のんびりまったりした口調だが、油断は禁物である。
「お宅の娘さんなのですが・・・」
「それって、有希子のことかしら?有希子ならいないわよ?」
 一っ子の有希子以外に保坂家にはいったいどこに娘がいるということなのかとツッコミを入れたいところだが、一拍置いて断念する。
「はい。今、俺のマンションにいますから」
「あらまあ、そうなの」
「で、ですね。俺が飲ませすぎたみたいで、すっかり酔いつぶれてしまったんですよ」
「まあまあ、保坂の子とは思えない失態ね」
「もうぐっすりお休みなので、うちで預かろうかと思うんですけど・・・」
「・・・・」
 一瞬、電話回線に静寂が訪れた。
「あ、でも。でもですね?俺、もう少ししたら酒が抜けると思うので、少し遅くなると思いますが車でお送り致しましょうか?」
「いいえ、飲酒運転で捕まったら、群馬のご両親に申し訳ないわ」
 俺に申し訳なくはないのかと問いただしたいところをぐっとこらえる。
「では、明日の午前中には必ずお返ししますから・・・」
「いえ、なんなら一生そちらで預かってもらって結構なんだけど」
「は?」
「そうよ、この際、そうなさいな。2人ともいい年になったんだから、周りもとやかく言わないわ」
「ち、ちちちち、・・・ちょっと待ってください。俺達は決してそんな仲では・・・」
「そんな仲も、こんな仲も、それだけ仲が良いなら一緒に暮らしているうちになじんでいくわよ」
「いや、待ってください、俺の意志ってもんは・・・」
「そんな面倒なことをいちいち考えているから、いつまでたっても有希子はイガズ後家なんじゃない。ここらで観念なさいな」
「観念できませんって・・・」
「なによ、うちの娘のいったいどこが不満だと言うのよ!!」
「ふまんなんて、そんな恐ろしいこと俺が口にできると思うんですかっ!!」
「不満が無いなら、何がいけないって言うのよ!!はっきり言ってくれないと今すぐ婚姻届を出しに行くわよ!!」
 頭の隅で警鐘が鳴る。

 やる。
 絶対にやる。

 この女ならばたとえ深夜の役所で守衛をたたき起こすという常識破りな行動を、気合一発で見事やりおおせるに違いない。
 恐ろしい想像が大車輪でくるくる池山の脳みそをめぐった為に、正常な判断は根こそぎ失っていた。
「・・・お、お宅の娘さんに不満は全くございませんし、大切に思っていますが」
 ましてや、未婚の彼に婚姻の手続きは届け出用紙のほかにも取り揃えねばならない書類があることなど解る筈もなく。
 「なら、いいじゃん」
 打てば響くように答える目の前の敵をどう追い払えばいいのか見当もつかず、最悪の台詞を口走ってしまった。
「いや、だから、俺には有希子よりもっと大事な男がいるからダメなんです!」
「・・・おとこ?」
「あ・・・」
 しまった。
「・・・・そう」
 やってしまった。
「そういうことなら、有希子をもってしても無理よねぇ。仕方ないわね、許してあげるわ」
 鴨が葱をしょって、ついでに鍋に入って「食べて?」と言っているようなもんだ。
 もちろん、この絶好の機会を逃すはずもなく…。
「ねえ、和基くん。明日のお昼、空いてるかしら?空いているわよねぇ。有希子を預かれたくらいだから」
「は?」
「代官山にとてもすてきなレストランを見つけたの。その、『有希子よりもっと大事な男』くんとやらと一緒にお昼をしましょう。私は貴方のこちらでの保護者がわりだし」
「お、おばさん・・・・っ!!」
「美和子さん」
「は?」
「今、ここで、美和子さんと呼ぶか、お義母さまと呼ぶか、二つに一つよ。さもないと・・・」
「さもないと?」
「受話器を下ろしたら、指が勝手に群馬へ繋いでしまうかもね」
 鎌倉のマダムにはあり得ないこの脅迫のテクニックはいったいどこから・・・。
 聞いたところで無駄だと身に染みている池山は頭を垂れた。
「・・・わかりました。勘弁してください、美和子さん・・・」
「じゃあ、11時までには迎えに来てちょうだいね。朝一番で有希子を入れて4人と予約はきちんといれおくから。じゃあね。おやすみなさーい」
 さわやかに「おやすみなさーい」と言われて、膝の力も抜けた。
 へなへなと床に座り込む。
「・・・俺は、いったい誰を怨んだらいいんだ・・・」
 仕方がないので、今度は携帯電話の短縮ダイヤルを押した。





『恋愛事情』 (まだ続きます。しばらくお待ち下さい)


→ 『楽園』シリーズ入り口へ戻る

→ 『過去作品入り口』へ戻る



inserted by FC2 system