壁ドン・出歯亀事件-池山×江口編-
みなさん、ご無沙汰しています。
覚えておいででしょうか、田中です。
田中秀夫。
タナヒデ、と同僚達に呼ばれています。
いつでもどこでも脇役な僕ですが、最近、事件現場に遭遇する男なのだと、自覚しました。
事件。
そう。
事件は、まさに職場で起きるものなのです。
そして、そこに居合わせた僕の悲劇を・・・聞いて下さい、是非。
それは、のどかな午後のことでした・・・。
壁に設置された時計がもうすぐ三時を示そうかという頃、僕はカタログストックルームにいました。
い、一応今度の会議に使うカタログの最新版を探しに来たのですよ?
やましいことは・・・やましいことは何一つ・・・いえ、少しだけ。
最近、ちょっとオンラインゲームに嵌ってまして、仲間がたくさん出来ました。
なかでも、「ここあ」さんという女子大生とのやりとりが楽しくて・・・。
やめられません。
昼間から、しかも仕事場で秘密のやりとりをするこの背徳感・・・。
ぞくぞくします。
ちょっとエロな話をチャットでするためにこっそりひとけのないカタログ室の奥に入り、片隅にしゃがんで会話を楽しんでいるその最中。
事件が起こったのです。
「だから~、これを、壁ドンって言うんだってば」
脳天気な、どこか聞き覚えのある声が頭上に降ってきた時、全身の毛が逆立ちました。
背後に、人が入ってきた。
サボりが見つかったか!!
・・・いや、今は見つかっていない。
その証拠に、彼らはなにやら呑気な感じで『壁ドン』を連呼している。
慌てて目を走らせ、手近な古いカタログを掴んで彼らに見つかった時のためにアリバイ工作をしようとしたその時。
「なんだよ、もう・・・つまんねえな・・・」
不満げな物言いが途中で途切れ、ちゅ、と、妙な音が鼓膜をくすぐったのです。
・・・ちゅ?
おそるおそる振り返ると、なんとなんとなんと!!
「ん・・・」
成年男子が二人、く、唇を合わせているではありませんか!!
大柄な男が壁に背を向けて身をかがめ、彼にやや抱き上げられるような形で細身の男が仰向いてちゅっちゅちゅっちゅやっています。
「う・・・ん、江口・・・」
・・・!!
と、いうことは!!
忘れもしない、数ヶ月前のある夜、僕は台湾のホテルの一室で一睡も出来なかったことがあります。
薄い壁から聞こえてくるのは盛り上がりに盛り上がったカップルの営みで、あろうことはそれは顔見知りの犯行で・・・。
今、目の前で熱い口づけを交わしているヤツらで・・・。
「あ・・・」
ああ、なんてことだ。
台湾ナイト、リターン!!
くちゅ、と聞きたくない濡れた音が冷たい床を滑っていきました。
・・・早く終わってくれ、早くどっかへ消えてくれ・・・。
「・・・楽しいですね、壁ドンって」
でれでれと鼻の下を伸ばしきっているのが想像できるベタ甘トークは、無限に続く。
「癖になりそうです」
「・・・ばかっ。もうしない」
仕方ないので膝を抱えて床に座り込み、彼らが切り上げてくれるのを待つことにした。
江口耕。
そこそこ使えるヤツだと思っていたのに、なんたる姿。
節操なしのキス魔として名高い池山は置いといて、僕は、お前のことを買っていたのに、・・・。
まさかそんな性欲の塊だったなんて、がっかりだよ。
思わずはーっとため息をつくと、ふと違和感を感じた。
視線を上げると、正面に座り込んだ池山和基が獲物を見つけた猫のように目をらんらんと光らせて僕の顔を覗き込んで・・・!!
「何してるの、タナ・・・ヒデ?」
ぎゃー・・・・っ!!
悲鳴を上げそうになった口を素早く手の平でふさがれる。
「うわ、あぶねえな、こんな所で叫ぶなよ」
叫ばせたのはお前だろ!!と言い返そうとするが、ふさがれたままずいずいと壁に追い詰められた。
「あ・・・。これも一種の壁ドン?」
無邪気に首をかしげられて、脱力する。
開いた口がふさがらないとはこのことだ。
まあ、ふさがれているけれど。
「なあなあ、タナヒデくんよう。なんか今日も出歯亀ってたみたいだけどさ。黙っといてくんね?」
好きで居合わせた分けじゃない!と反論したくても、とても出来る状況ではない。
鼻と鼻が擦れそうなくらいの近さで覗き込まれて、小刻みに頭を上下に振った。
ふわり、となんだか甘い香りが鼻から口に流れ込む。
なんだ、これは。
力がだんだんと抜けていくと同時に、ゆっくりと口を介抱された。
「どうしよう。お礼にチューした方が良いのかな?」
にっと笑みを作る唇に、思わず視線が釘付けになる。
実家の庭に咲く春先の花にこんな色があったな。
たしか、木瓜とかいう・・・。
ふらふらと、ふくりと膨らんだ下唇に吸い寄せられそうになったところで、邪魔が入った。
「はい、そこまでです、二人とも」
互いの額の間に、皮の厚い手が分け入り、無情にも引き離される。
「池山さん、そろそろ部長が戻ってくる頃なのでは?」
「あ、そうだった。今日中に承認もらわねえと困るよな、そっち」
すぱんと立ち上がり、まっすぐ背を伸ばした魔性の男は、敏腕営業へ姿を変えた。
「俺、行くから。タナヒデ、またな!」
颯爽と風を切る後ろ姿を、つい、未練たらしく追いかけて首を巡らしたところ、大きな身体にブロックされる。
「田中さん」
近い。
あり得ない近さを、江口耕が占有していた。
ずしりとした重い空気が、全身を圧迫する。
いや、実際、ジャイアントな江口の堅固な両腕と壁の間に田中秀夫は閉じ込められていた。
・・・これが、噂の壁ドン?
いやいやいや、そんな冗談をかましている場合じゃないだろう、自分。
「俺としては、この間のこととか、今のこととか、ばらされても別に構わないんですが・・・」
低い、深い囁きが背筋をぞわぞわと滑り降りて、尾てい骨をくすぐる。
こ、こいつ、こんなイイ声してたっけ?
ふるりと顎を震わすと、大きな瞳が、大ぶりな鼻が、熱い吐息が、なおも迫ってきた。
「池山さんの足を引っ張るような真似をしたくないので、出来れば内密にお願いします」
近い、近い、近いってば・・・!!
でも、その近さが・・・、ああ・・・。
「も、もしも、ばらしたら・・・?」
言わなくて良いことが口を突いて出る。
すると、男の中でかちりとスイッチが入る音がした。
にやりと、見たこともない暗くて湿度たっぷりな笑みを江口が浮かべる。
「どうなるとおもいますか?」
こういうのを、好奇心、猫を殺すというのか・・・!
後ずさりたくても、壁に阻まれてそれ以上行けるはずもなく。
逃げ場のない空間で、どう猛な獣と対峙するという少年漫画の絶体絶命感を堪能する僕。
ああ、壁ドン、壁ドンって、恐ろしい・・・。
「そうですね。お礼にキスでもしましょうか。・・・俺が」
色悪。
全身から雄のフェロモンをまき散らす虎に迫られ・・・。
胸が、きゅん、と、ときめいてしまいました。
「・・・い、い、いやぁん・・・」
「え?」
-完-
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