はやく、はやく。 





 電車の扉が開いた瞬間に飛び降りて、駅構内の階段を駆け下り、全速力で街を走り抜け、マンションへ駆け込む。
 エレベーターの到着を待つのももどかしく、階段を駆け上り、たどり付いた部屋のドアノブを回すが鍵がかかっている。
 バッグの中から鍵をとりだし、穴に差し込む時も気が急いて仕方がなかった。
 気が付かないうちに地団駄を踏む。

 早く、早く。
 早く会いたい。

「ただいまーっ!!」
 ドアを開けた瞬間に叫んでみたものの、予想に反して部屋の中は真っ暗だった。
 空気も心なしかよどんだままのような感じがする。
 足下を見ると靴は自分の物が転がっているだけである。
「・・・耕?いないのか?」
 2LDKの部屋の中を歩き回り、風呂場とトイレを確認した後、その場に座り込む。
 顎に手を当ててしばらく考え込んだ後、ふいに顔を上げ、キーホルダーだけを掴んで外に駆け出す。
 やってきたエレベーターに乗り込み、7階へ昇り、1LDKの部屋に飛び込んだ。
 しかし、ここにも誰もおらず、3階の部屋以上に空気がよどんでいる。
 すっかり肩を落としてゆっくり歩いて窓を開ける。
 すーっと春の夜の風が部屋の中を通り抜けていった。
 どことなく甘い香りの漂う夜風に、つん、と鼻の奥が痛くなった。
「帰ってきたんじゃないのかよ・・・」
 実際、およそ一ヶ月ぶりの帰国のはずだった。
 ここのところ、江口耕は北京へ長期出張しており、互いの仕事が忙しいせいもあって行き来することすらままならない。
 期末の処理などのために近々帰らせるからと立石が知らせてきた時には、嬉しくてしばらく気もそぞろだった。
 メールやスカイプを使ってそれなりに連絡は取り合っているものの、実際に触れないのは辛い。
 言葉を交わせば交わすほど、その辛さは増していき、もうどうにかなりそうだった。
 そんな中の、耕の帰国。
 物凄く楽しみにしていたのは言うまでもない。
 なのに、よりによってその帰国直前に顧客先で大きなトラブルが起き、システムダウン。
 原因究明に多くの人手が必要となり、江口はその足でメインサーバー管理担当になり缶詰、池山も当然顧客への対応で大わらわだった。
 それもようやく終幕し、後処理を高速で片付けて江口の部屋へ駆けつけたのに、本人がいない。
 念のために自分の部屋へ戻ってみたが、当然無駄足で。
 更に、携帯電話には何度電話しても通じない。
 明かりもつけずに、薄明かりの中、床に座り込んで煙草を出し、口にくわえる。
 会いたいのは自分だけなのかと、立ち上る煙を目で追いながらうつうつと沈み込んでいると、背広に突っ込んだままだった携帯電話が震えた。
 見ると、本間奈津美からの電話だった。
 とても話す気分ではないが、仕方なくオンにして耳に当てる。
「はい、池山」
「あ、池山さん?メール何度も送ったってのに、ぜんっぜん見てないでしょ」
 彼女の明るい声がどっぷり落ち込みモードの鼓膜に刺さる。
「ごめん、忙しかったから・・・」
「今どこかな?まだ外?なら帰りにうちに寄って回収して欲しいモノがあるんだけど・・・」
 今、彼女は事情あって5階の立石の部屋に間借りしている。
 立石の部屋は3LDKで、たまにやってくる佐古と三人でルームシェアという形を当分とるらしい。
「物?なら明日でもいい?俺、今凄く疲れてて・・・」
「そう?なら良いわよ、明日まで預かってても。でも、江口さん、たまには自分のベッドで寝たいんじゃないの?」
「え?」
「ん。だから江口さんがうちで寝てるから引き取って欲しいんだけど?」
「待って、すぐ行く」
 素早く灰皿に煙草を押しつけ、靴を突っかけて飛び出した。

 階段を一つ飛ばしで駆け下りて立石の家に飛び込むと、リビングのソファセットのテーブルに突っ伏した大きな肩が目に入った。
「早かったね。マンションには戻ってたんだ」
 振り向くと、ダイニングのテーブルにノートパソコンと書類を広げ、ルームウェア姿の本間が椅子に片膝立てて座っていた。
「な、なんでここにこいつが・・・」
「ん。だからね。北京に鍵とケータイを忘れてきたんだって」
「はあ?」
「だから、江口さんが帰ってくるまでウチ来る?って誘ったの。んで、さっきまで仕事しながら頑張って待っていたんだけど、とうとう沈没しちゃった」
 のんびりとマグカップのココアを飲みながら話す彼女に脱力して、がっくり肩を落とす。
「このまま熟睡されても、かえって疲れるだけだから、起こして立石さんのベッドに寝てもらうかどうかお伺いの電話をかけたわけよ」
「なんでそこで徹のベッドなわけ?」
「ああ、立石さんは今夜帰らないから。生さんのとこに飛んで行っちゃった。明後日くらいにしか帰ってこないんじゃない?」
 家主出奔。
 代わって、いつの間にか居候がこの家の主になりつつあるのか、部屋の様相がだんだんと変化していように見えるのは気のせいだろうか。
「男って疲れると生殖本能に目覚めるって、ガセだと思ってたんだけど、ホントだったのねえ」
 相変わらず、可愛らしい顔でとんでもない発言する本間にあんぐり口を開けていると、空気が動いた。
「うん・・・」
 江口がうっすら目を開けた状態で顔を上げる。
「・・・池山さん?」
 懐かしい声が、回線を通さずにダイレクトに響く。
 唇が震えた。
「・・・耕」
 ようやくそれだけ絞り出せた。
「・・・!!え、ほんとに池山さん?」
 がばっと江口が勢いよく起き上がる。
「あ。充電完了」
「うわ、ごめん。今何時?」
 本間の一声に、江口が髪をかき上げながら立ち上がり、歩み寄る。
「ん~。11時ちょっと前ね」
「すっかり遅くなってごめん」
「いや、いいけど・・・」
 自分そっちのけの会話にだんだんムカムカしてきた。
「それはいいけど、立石さんの部屋にする?それとも・・・」
「それは、さすがにまずいでしょ」
 その一言に、猛烈に腹が立った。
「なんだよ、それ」
 自然と、声が低くなるのを自分でも感じた。
「え?」
「んんん?」
 二人同時に振り返り、それがまたシャクに障る。
「江口、お前、ここに泊まりたいわけ?なら、そうすればいいじゃん」
 だから、思ってもいないことが口をついて出てしまう。
 と、すると、本間がぷーっと吹き出し、テーブルを叩いてげらげら笑い始める。
「ねえ、どうする?やっば、こっちにしとけば?」
「いや、それはいいって・・・」
 困り顔の江口が本当にリアルで、ああ本物だと嬉しい半分、自分にはわからない話で通じ合っていることにはらわたが煮えくりかえった。
「俺、帰る」
 背を向けて玄関に向かおうとしたその時、急に肩を掴まれ、視界が反転する。
 腹の下には厚みのある肩。
 目の前にはがっしりとした背中。
 江口の背中だ。
 指先はだらんと床に向かって伸びていて。
「え・・・?」
「じゃあ、荷物は明日」
 自分の両膝がぎゅっと強い腕で抱きしめられているのを感じる。
「明後日でしょ、池山さんの靴もコミで。ところで念のため聞くけど、どっち行くの?」
「うん。とりあえず上」
「ち、ちょっと、耕・・・!!」
 信じられないことに、江口の肩に担がれていた。
「了解。頑張ってね」
 本間の声もどこか遠い。
 あっけにとられている間に、視界が飛ぶように代わって、気が付いたらベッドに優しく下ろされた。
 煙草の香りがまだ漂っている、自分の家だった。
「さて」
 ベッドに座らされている自分の前に、江口は膝をついた。
「ただいま、和基さん」
 江口が笑っている。
 ゆったりと、おおらかに笑っている。
「やっと会えた。本物の和基さんに会えて嬉しいです」
 大きな手で頬に触れてきた。
 さっきまで、他人行儀に「池山さん」って呼んでいたくせに。
 二人きりになった途端、名前で呼ぶなんて。
 そんな甘い声で話しかけてくるなんて。
 ずるい。
 なんてずるい男。
「・・・立石の部屋に、泊まるんじゃなかったのかよ」
 でも、口からはそんな憎まれ口しか出てこなくて。
 そんなんじゃないのに、そんなのどうでもいいのに、と思うけれど止まらない。
「ああ、あれ・・・」
 江口の顔がゆっくり近付いてくる。
 コーヒーの匂いのする息が、鼻先を掠めた。
「我慢できないなら、立石さんの部屋を使えば?っていう話です」
「我慢って・・・」
 とがりきっていたはずの自分の声がだんだんと丸くなる。
「こういうことに決まってるじゃないですか」
 唇が、江口の肉厚の唇が自分の唇を軽く挟んで、すぐ離れた。
「会った瞬間、ぜったい我慢できないから」
 また、唇が降ってくる。
 両頬を皮の厚い手で覆われて、その温かさに溶けそうだ。
「和基さんを感じたくなるから」
 目を閉じると、彼の大きな鼻が自分の鼻にすり寄せられた。
 この瞬間が、とても好きだ。
 彼の顔が一番近くにある、この時がとても好き。
 少し唇を開くと、熱い吐息と舌が入ってくる。

 甘い。
 甘くて、熱くて、溶けそうだ。

「俺、実は帰国の前夜に物凄く嬉しくて眠れなくて・・・」
 何度も何度も角度を変えながら触れてくる。
「寝坊してしまったんです」
「え・・・」
 ふいに現実に引き戻されて、唇を離す。
 鼻先だけ触れあいながら、江口が囁いた。
「それで、財布とパスポート以外、忘れてしまったんです」
「と、いうことは・・・」
「家の鍵と、携帯と、社員証・・・あたりかな。ああ、そうだ、日本円を入れた財布も」
 空港に着いてから慌てました、と、彼は楽しそうに笑う。
「岡本さんには即刻北京に取りに行ってこいと言われました」
 何があっても、どんなときも笑うコイツにはいつも叶わない。
「だって俺、和基さんに会えるってこと以外、何も考えられなかった」
 また、唇が触れてくる。
 鼻先に、瞼の上に、額に、頬に・・・。
 たくさん、たくさん触れてくる、その優しい唇。
「はやく、はやく会いたかった」
 
 ほんとうに、かなわない。

「ばあか」
 目を開いて、江口を見つめた。
 自然と、唇が笑みの形を作る。

「それは、こっちの台詞だ」

 そして、その腕の中に飛び込んだ。

『はやく、はやく』 -完-


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