恋の呪文-2- 




「え、江口ぃっ!て、てめーっ、ななな、なんで、いきなり、そんなとんでもないウソ、言いだすんだよっ」
 椅子を蹴倒して、池山は叫ぶ。
「いきなりでも、とんでもないウソでもないでしょう?冗談で男を抱くほど、俺はモノ好きじゃないですよ」
「お、俺だって、じょーだんで男に抱かれるほどのモノ好きじゃねえし、だいたい、抱かれた覚えなんか、ぜんっぜん、まぁーったくねぇんだよっ」
「でも、池山さん・・・」
「でも、じゃねーっ!」
 きーっ、と池山は頭をかきむしる。
 だ、誰か、この状況を、なんとかしてくれ~っ!
 救いを求めてあさってのほうを向いた池山の目に、自宅のキーを片手に部屋を出ていこうとする立石の後ろ姿が映った。
「ま、待てよ立石っ!」 
 慌てて追いすがると、立石がゆっくり振り返る。
「・・・・ああ。池山。焙じ茶の葉は、壜につめて右の戸棚に入れたからな」
 じゃあな、と立石は片手を挙げると、
「どうも、お疲れ様です」
 と、江口は頭を下げる。
「ちょっと待ったっ」
 玄関口で靴を履こうと屈んだ立石の腕を池山が追い掛けてきて掴む。
「あのな、立石」
「ああ、そういえば」
 床でかかとをとんとんと踏み鳴らして、立石はすらりとした上半身を起こす。
「なに?」
 池山は、必死の形相で江口の顔を下から覗き込む。

 たのむ。
 立石、たのむから、帰らんでくれ~。
 池山の瞳はそう訴えていた。

 恥も外聞もなく取りすがる池山をちらりと一瞥したあと、立石は廊下にたたずむもう一人の男に向かって声をかけた。
「二人とも、少なくとも、明日の二時からの工程会議には絶対出ろよ」
「・・・は?」
 一瞬、何を言われているのかわからず、池山は手を放す。
「七階の第一会議室だ。じゃあ、伝えたぞ」
 するり、と戸をくぐって出ていく立石を、尚も池山は追い掛けた。
「待てよ、徹!」
 がしゃん、と音をたてて、鉄製の重い扉は閉じてしまった。



「徹、待てってば!」
 革靴を素足につっかけて、池山は追い掛けてきた。
 エレベーターホールまで来て、立石はやっと振り返る。
「俺の話を聞いてくれよっ・・・」
 ジーンズのポケットに両手をつっこんで立ち止まる立石の袖口を握り締め、池山は肩で息をする。
「今日は日が悪くてな」
「おまえっ・・・、俺をあいつと二人っきりにする気かよっ」
「ああ。そのつもりだが?」
「・・・・・」
 さらりと切り返されて、池山は言葉を失った。
「・・・和基。お前も、もうすぐ二十七歳で、世間一般では十分大人だろう?」
 まるで、子供を諭すかのようにゆっくりと立石は言葉をつなぐ。
「お前と、江口の間で何があったかなんて、俺には、どうでもいいことだ。だがな」
 つい、と頭を低めて池山の瞳を覗き込む。
「お前も男なら、自分のやったことの後始末くらい、自分でつけろ」
 いつもより、一段と低くて重い立石の声音に、池山は息をのむ。
 まずい。
 徹を怒らせたか。
 呆然と立石を見つめ返す。
 彼の深い焦げ茶の瞳は、深く怒っているようでもあり、この上なく冷めているようでもあり、池山はどう言葉を発すればいいのかわからない。
 ちん、と軽快なベルが鳴り、エレベーターが到着したことをしらせる。
 立石は目を伏せた。
 池山はそろりと手を下ろす。
「話は、そのあとな」
「・・・・」
 ぽん、と池山の肩を軽くたたくと、ゆっくりエレベーターに乗り込む。
 エレベーターが立石を飲み込み、さらに彼の住む三階に止まるまで、池山は身動きひとつしなかった。
 遠くの教会から午後九時をしらせる鐘のメロディーが流れ始めて、やっと、ゆるゆると息を吐き出しながらその場にへたり込む。
「こ、こわかった・・・」
 池山はこの四年近くの付き合いのなかで一度だけ、立石を怒らせたことがあった。
 常日頃は温厚なだけに、あの時の怖さといったら、言葉では表しようがないのだ。
 豹変、という言葉は似合いそうだが。
「さすがは、九州男児、あなどれん・・・」
 一応、一浪の俺の方が年上のはずなんだけどなあ。
 徹の奴も、その事、忘れてんだろなぁ。
 しばらく宙をにらんでつらつらと考え込んだあと、よいしょ、と池山は腰を上げる。
「しょーがねーかぁ」
 まさか、ここで一夜を明かすわけにもいかない。敵は、自分の家の中なのだ。
 ならば、徹の言うとおり、自分でなんとかするしかあるまい。
「明日の会議は、外せねぇもんなぁ」
 サラリーマンって、ほんっと哀しいよな。
 池山は、図体だけやたらとばかでかい年下のオオカミが待っている我が家へ、足取りも重く、とぼとぼと向かった。


「・・・またせたな」
 むすっと不機嫌な面持ちのまま、池山はつぶやいた。
 江口はカウンターテーブルの側にある椅子に腰掛けたまま、じっと池山を見つめる。
「・・・いいえ。よかった。戻ってきてくれて」
「そっりゃー、ここの家主は俺だからなぁ」
 そうでなけりゃ、だれがこんなとこに、のこのこ戻ってくるかよ。
 しぶしぶ池山の向かいの椅子に腰をおろし深々とため息をつく池山に、江口はかすかにほほえむ。
「池山さん。・・・本当に、何も、覚えていないんですか?」
「おぼえてないね。これっぽっちも」
「ほんとうに?」
 自信を持って断言する池山を心底不思議そうに、まじまじと見つめ返す。
「なっ・・。なんだよっ」
「だって、池山さん、あの時、俺の名前、何度も呼んでたじゃないですか」
「えっ・・・」

 ふっと、池山の頭の中でなにかがフラッシュバックする。
 途端に、カッと、唇のあたりが熱くなる。
 喉がひりひりと焼けるような感覚とともに、口腔に自分のものでない何かがするりと潜り込み、忙しなくうごめいて刺激する。
 背骨がきしきしと悲鳴をあげているというのに、自分はしがみついている何かに向かって吐息とともに何度も、何度もつぶやく。
 まるで、呪文のように。
 この感覚を、さらに昇りつめるために。
 祈るかのように。
 ひたすら懇願する。
 この上なく、幸せそうな、甘い声で。
 ・・・・コウ。

 ・・・なんだ、これは。この声は?
 ・・・・俺の声だ。

 ふいに、池山は口元を手で覆う。
 い、いかん。やめろ、和基。
 いま頭に浮かんだのは、夢、幻だ!
 ふるふると頭を振り、降っては沸き、降っては沸く、そしてさらに鮮明になりつつある記憶と池山は戦う。
 認めるわけには、いかないのだ。
 認めたその瞬間から、晴れて自分はホモの仲間入りになってしまうじゃないか!
 ホモは社会の敵、倫理の敵。
 後ろ指差されて生きるのは、ごめんだね。
 心の中で呪文のように唱え、キッと、自分の敵を睨み付ける。

「いいやっ。なーんにも覚えてないねっ」
「ほーう。なーんにも、ですか」
「ああ、そうだ。なーんにも、だ」
 顔いっぱいに、でかでかと『大ウソ』と書いてあるのだが、池山はなにがなんでも引かない。
 ・・・この人は、これで若手一番の凄腕営業なのだろうか?
 素朴な疑問が浮かぶのと同時に、池山の頑なまでの子供っぽさに江口は苦笑する。
「・・・まあ、池山さんが覚えていようがいまいが、俺には、どうでもいいことなんですけどね」
「そうか、そーか。そうだろうなぁ」
 なんとか話が逸れたことだけに安心した池山は、やれやれと肩の力を抜きかけたが、ふと、眉を寄せる。
「・・・おい、ちょっとまてっ」
「はい?」
「じゃあ、さっきのこっぱずかしい言い合いはなんだったんだよっ。なにも、立石の前であんなこと、言うことないだろーがっ」
「ああ、あれですか?」
 物憂げに江口は頬杖をつく。
「そうだよっ。他人の前であーいうこと言うか?フツー」
「言いませんね。ふつう」
「そうだろが。だったら・・・」
「予防線です」
「は・・・?」
 勢いを削がれて、池山は何とも間の抜けた顔をした。
「立石さんには、この際はっきり知っていて欲しかったんです。俺」
「なんだそりゃあ?」
 眉間に思いっきりしわを寄せて聞き返す。
「じゃあ、聞きます。池山さんは立石さんと付き合ってるんですか?」
「はあ?」
「言い方を変えます。立石さんとは、まだ、セックスしたことはないと、見たんですが」
 江口のあまりに露骨な発言に、池山は真っ赤になった。
「あいつとセックスだとぉ?気持ち悪いこと言うんじゃねーよッ。そんな仲じゃないのは一目瞭然だろーがっ」
「でも、キスしたことはありますね?」
「お、おう。酔っ払って、一回だけな。・・・でもな、俺は誰とでもやってるぜ?ちなみに、お前の課内で俺様の洗礼を受けていないのは、保坂だけだっ。どーだっ。まいったかっ」
 やけくそになって、わはははっと胸を反らして高笑いする。
「自慢するようなことですか・・・」
 つまり、池山の愛の洗礼は課長にまで及んだということになる。
「いいじゃん、たかだかキスぐらい!でもなあ、立石とは、それっきりだからな」
「・・・どうだか」
 江口はこめかみを押さえてつぶやく。
「な、なんだよ!俺ばっか責めやがって!酔っ払って正体のない俺をホテルに引きずり込んだ挙げ句、散々カマ掘ったくせに、被害者面すんなよっ!」
 俺の年休返せよ、どあほっ、と池山はテーブルを叩いて立ち上がる。
 ・・・年休さえ返してもらえばいいのだろうか。
「別に、俺は池山さんのこと責めてないでしょう?俺が言いたいのは、俺が池山さんを好きで、誰にも盗られたくないってことだけです!どうして分からないんですか!」
 いらいらと、江口は髪をかきあげた。
「分かりたくもねーよっ!だいたい、キスぐらいで欲情するほうが、よっぽど変だろ?要するに、お前が真性のホモだっていう証拠じゃねーのか!」
「そんな事を言っているわけではないでしょう?どうしてそういう方向に話が行くんですかっ!」
「それじゃあ、おまえ、なんで男の俺をいきなり抱いたんだよっ。女の方がよっぽど抱き心地がいいだろうがっ」
「女よりなにより、俺は池山さん、あなたがいいんですっ」
「ほーお。それじゃ、お前、何を根拠に真性じゃないといいきれるのかよ」
「それは・・・」
 口を開きかけて、江口は黙り込む。
 池山はじっと腕を組んで見下ろす。
 部屋の中に、いきなり重苦しい沈黙が落ちた。
 かちこちと時計の秒針を刻む音だけが、二人の間を流れる。
 池山はテーブルの上の煙草を取り、ライターで火を点ける。静かに息を吐き出すと、紫煙がふわりと舞い上がった。
「・・・ほら、みろよ。何も言えないじゃないか」
「・・・・池山さん。俺は・・・」
 江口は渇いた唇を噛みしめ一生懸命に言葉を探すが、何を言っても堂々巡りになりそうで池山を納得させるだけの言葉がどうしても見つからない。
 そんな彼を見つめていた池山は、煙草の先をぎゅっと灰皿に押しつける。
「・・・もういい」
「池山さん・・・?」
「いいから、とにかく、帰れよ」
「・・・好きです」
 がしゃん。
 陶器の灰皿が江口の肩先を過ぎ、壁に当って砕け散る。
「出てけって言ってんのがわかんねーのか、この変態ヤローッ!」



 男を叩きだした後、電気を消した部屋には月明かりがうっすらと差し込んでいた。
 池山は冷たくなった床に胡坐をかいて、煙草に火を点けた。
 ほの暗い部屋のなかで、ぼんやりと灰皿の残骸が浮かびあがっている。
「・・・言い訳の一つくらいしてみろよ。ばかやろう」



 平日の一時過ぎのそば屋は、ほとんどの会社の昼休みが終わる頃という事もあり、ほどほどの活気と店員たちの余裕の表情が見えてきて、なかなかオイシイ時間である。
「・・・ちわー。」
 すきっ腹のせいか、心なし元気のない声で挨拶しながら、池山はのれんをくぐる。
「へいっ、らっしゃい。池山ちゃん、何にするね?」
「うーん。天ざる定食がいいかなぁ」
 ふうぅ、とため息をつきながらカウンター席に座った。
「やあねぇ。若者が真っ昼間っから、ど暗くため息ついてんじゃあ、ないわよ」
 さらっ、とシトラス系の香水の薫りがかすかに彼の鼻をくすぐる。
 いやいやながらも振り返ると、事務職の制服がとてつもなく不似合いな美女が見下ろしていた。
「・・・保坂、なんでお前が、この時間に、そば屋へ来るんだよ」
「午後いちの会議の資料作りの手伝いをしていたら、この時間になっちゃったのよ。それに、ハナ屋さんの蕎は絶品だしね」
 波打つ栗色の髪をバレッタで手早くまとめ、白くほっそりした首をあらわにする。
「おやまあ有希子ちゃん、うれしい事言ってくれるねぇ」
「本当のことだもん。蕎は何といっても、おじさんの手打ち麺が一番よ」
 ちゃっかり池山の隣に席を陣取ると、でれでれと相好を崩しまくるそば屋の親父へ、透き通るような面差しににっこりと極上の笑みを浮かべて天ざるを注文した。
 保坂有希子。
 彼女は江口と立石の所属するシステム部金融一課の事務担当である。そして運命の皮肉というか何というか、池山が幼稚園と小学校を共にした幼なじみでもあった。
 そして、目下のところ彼の数多い知人友人の中、史上最強の天敵である。
「ねぇ池山、あんた、美代子と別れたんだって?」
 ・・・・・ほら来た!
「・・・なんで、お前が知ってるの?」
 たらりと汗がひとすじ背中を流れ落ちる。
「寝呆けてんじゃないわよ。美代子と付き合うきっかけは、私とあんたが幹事したコンパだったでしょーがっ」
 しっかりとしたヒールのある靴で、いきなりがつんと池山の足を蹴飛ばす。
「いたた・・・。そーいえば・・・」
 その場かぎりのノリで付き合いはじめたのに、意外と長く続いたんだよなぁ。
 幕切れは、いささかお粗末ではあったが。
「今度は、何がいけなかったのよ?」
 まかないのおばさんが差し出す膳を受け取りながら、色素の薄くて長いまつげに縁取られた琥珀色の瞳で池山をきりりとにらみ付ける。
「美代子が見合いした話は、聞いた?」
 天つゆに付け込んだ海老の天ぷらにかぶりつきながら、池山は尋ねる。
「聞いた。でも、それが本当の理由じゃなくって、単なるきっかけにすぎないと見たんだけど?」
「さすが・・・」
 こういう時に、付き合いの年輪、というものをひしひしと感じるんだよなぁ。
 ほう、と池山は感嘆のため息をつく。
「・・・そうだな。強いて言えば、ベッドマナーの相違かな」 
「はぁっ?」
「俺も美代子も、ベッドは右っかわで寝ないと落ち着かないんだよ。あー、れー、は、一度、一緒に寝てみないとわかんねえよなぁ」
 お前は、幸いにして俺と寝たことねーからわかんないよなあ。・・・こればっかりは。
 少し意地悪な意味合いを匂わして、有希子の質問をかわした。
 まさか、飽きたとは、口が裂けても言えない。今度はヒールで蹴られるだけではすまないだろう。
 しかし、そんな彼の思惑はとっくにお見通しの有希子は、からりと揚がった海老の天ぷらを箸でつまんで見据えたまま、ぽつりと問うた。
「ふぅーん。それなら、総務の野島は、ベッドの左っかわで寝る女だったとでも?」
 ぐっ。
 池山はかきこんだ蕎を思いっきり喉につまらせる。
「なーにやってんの」
 げほげほと咳き込んで苦しむ男に保坂は思いっきり冷めた目をちらりと向けた後、さらさら蕎をすする。
「な・・・。なんで、知ってる・・・?」
 息も絶え絶えになりながら、必死に言葉を絞りだした。
「あんたら、組合の飲み会のあとなんかにホテル行くの、やめなさいね。酔っていても、みんな見るとこは見てるんだから」
 とっとと食べ終えた保坂は、ごちそうさま、と、丁寧に手を合わせる。
「だ・・・っ。誰から?」
「設計部の片桐くんと、そこの事務の本間ちゃんのペア。・・・もーおっ。どーして、あんたは、そう、締まりがないのっ」
「だって、酔ってたんだもーん」
 へらへらと池山は笑う。
「そんな、使い古しの言い訳なんざ、聞きたかないわよっ」
 べしっ、と有希子が池山の後頭部を思いっきり平手ではたいた。
「いてっ・・・。有希子、お前、年々お前のおかんに似てくるなぁ・・・」
「ああ、そーぉ。いつまでも、そういう風だとねぇっ。いまーあに、とんでもないのに骨までしゃぶられるはめになるんだからねっ」
「・・・シャレにならんなぁ。その表現」
「はぁ?」
「しゃぶられたのが骨なら、どんなに良かったか・・・・」
 はああー、と長い息を吐き出し、池山は頭を抱える。
 有希子は、ちょっと目を見開いて丸くなった背中を見つめる。
「ちょっと、和基」
 椅子から立ち上がって、ぽんと軽く池山の肩をたたく。
「今日は、いい天気ね」
「そーだな」
 俺の心とは正反対になぁ。
 すっかり後向きになっている幼なじみに、大輪のひまわりのような、元気ばりばり全開の笑顔を有希子は向ける。
「おいしい蕎の後は、おいしいアイスコーヒーなんかが飲みたいわよねぇ?」




「・・・・で?何がいったいどうして、誰の何にに対して、そんなに暗くなって考え込んでいるわけ?」
 池山に買ってこさせたテイクアウトのアイスコーヒーを半分ほど飲んでから、有希子は質問を並べ立てた。
 二人はそば屋と自社ビルの中間地点にある、公園のベンチに腰掛けていた。オフィス街の谷間にあるため、子供達の姿はたいして見えないが、仕事の合間の休憩にきた人たちがちらほら行き交っている。
 真っすぐで黒々とした前髪を額に落とし、きっぱりとした眉にやや吊りめの黒い瞳、何よりも高くて形の良い鼻が魅力的な池山。
 抜けるような白い肌といい、すらりと長い手足といい、まるで洋人形のような容姿でいながら日本的にしっとりとした雰囲気の保坂。
 あたかも映画に出てきそうな二人に通り過ぎる人々はたいてい目を止めるが、そこはかとなく漂うただならぬ空気に振り返ってまで眺める命知らずはいないようだ。
「・・・やっぱり、俺、やだ。言いたくない・・・」
 眉間にしわを寄せて、ちゅるるるとストローを吸う。
「そう?和基がそういうなら、無理強いはしないけどね」
 あっさりうなずいて、紙コップを揺すって氷を解かしていた有希子は、ふと手を止めてくすりと笑った。
「そういえば、この間のT銀プロジェクトの打ち上げ、すごかったらしいわね」
「T銀プロジェクトの打ち上げ・・・?」
 私も行けば良かったわぁとのんきな笑顔を見せる有希子とは正反対に、池山の顔の血の気は引いていく。
「岡本くんが言っていたけど、あんたと江口くん、酔っ払って駅と反対方向に歩いていったんだって?」
「へ?」
 茶目っ気たっぷりに有希子は片目をつぶってみせる。
「まさか、マロニエへ二人で仲良く入ったんじゃないでしょーねぇ」
 ホテル・マロニエ。
 実は池山達の会社である『TEN』関係者ご用達の愛の城とひそかに囁かれている。
 ・・・目撃者がいて当たり前でないか?
 ずしゃ。
 まだ半分ほど残っていたコーヒーが地面に激突した。横倒しになったカップからはじわじわと茶色の液体がセメントタイルの上を広がっていく。
 池山は半泣きに近い、何とも情けない笑顔を顔に張りつかせたまま、微動だにしない。
「ちょ、ちょっと、和基・・・」
 冗談のつもりで言ったのに笑いとばしてくれないばかりか、激しく動揺しているのを見て取った有希子は困惑した。
「しまったなぁ・・・」
 勘がいいのも困りもの。いきなり核心をついてしまったと見える。久々にゆっくり誘導尋問にかけて弄ぼうと思っていたのに、あっさり獲物は網にかかってしまったのだ。
 拍子抜けにも程があるが、そのくらい和基が弱っているとも言える。
「和基、独りでぐじぐじ悩むのは、あんたにぜんっぜん似合わないわよ」
「・・・そうか?」
 物憂げに池山は顔をあげる。
「そうよ。体に良くないし、第一、仕事に差し障りがでたりしたら、そりゃあ、もう、大変な騒ぎになるわよね。これ以上うちの立石くんに迷惑かけられるのも願い下げだし」
 幼なじみがホモになったかもしれないということは、彼女にとってどうでもいいことらしい。
「・・・はあ?」
「まあ、そういうわけだから」
 ぐいっと池山の顔を両手で引き寄せて、艶然と有希子は笑う。
「とっとと白状しないと、キスするわよ」
 私も上手らしいわよー。意外と。
 なんならお試しになる?と嬉しそうにじわじわと顔を寄せる。
「・・・どこに?」
「この、ラルフのシャツなんか、どうかしら?きっと、ローズピンクが映えるわよねぇ」
 綺麗に手入れされた指先で、つつつとシャツの襟元を触れた。
「さあ、どうする?」
「・・・降参」
 こうして、池山の平凡かつ、それなりに平和な生活は、ますます未知の世界へと突き進んでいくのであった。



「・・・あっきれた」
 池山の勇気を振り絞った懺悔に対する有希子の感想は、これだけだった。
「・・・反省したから、酒はそれ以来控えてるよ」
「やあねぇ。いまさらあんたの酒癖の悪さなんか、屁とも思っちゃいないわよ。そうじゃなくて、うやむやな気持ちのままやっちゃった江口くんに対して腹を立てているあんたに、呆れてるの。それじゃあ、はじめの馴れ初めをすっとばしてすっかり出来上がりきったカップルの、単なる痴話喧嘩じゃない」
「痴話喧嘩・・・?」
「そうよ。セックスをスポーツだなんて勘違いしてきたあんたが、相手に意味を求めるなんて、初めてなんじゃないの?好きでも何でもない相手に、そういうことでそこまで腹を立てるかしら?」
 有希子のことを苦手だと思うのは、こういう時だ。池山が気が付きたくなくって目と耳を塞いで通り過ぎたものを、こうして拾って来て綺麗に並べてみせる。
「でも・・・。男に抱かれるには、俺のプライドが許さない・・・」
 今のところ、自分にわかるのは、それだけだ。
「・・・・そう?それで、これからどうするつもり?」
「・・・とりあえず・・・」
「とりあえず?」
 池山は曇りのない空を仰ぎ見て呟く。
「逃げる」
 有希子は深々とため息をついた。




 金曜日の午後二時の会議室。

 あと数時間もすればとりあえず顧客も休日体制に入り、仕事も一段落するだろうという、心もち幸せな気分に電気メーカー側出席者一同は浸っていた。
 それは、一緒に打ち合せをしている顧客側であるT銀重役一同も同じ事。対面のためにしゃしゃりでた会議だけれど、SEの間で飛びかう専門用語は年月を経て岩のように硬くなった彼らの脳にはとうてい受け入れられる代物ではなく、ただただ退屈で、提出資料に芸術的な絵を書き込んだり、俳句を何首かひねり出したり、腕を組んだまま居眠りをしている強者がちらほらと見える。自社の重役連中の雄姿に内心ため息をつきながら、T銀行側の司会進行を務めるSEは引きつる笑みを顔に張りつけたまま、締め括りになる筈の言葉をひっぱりだした。
「では、最後に恒例の、『言いたいことは何でも言おう会』の時間です。どなたか、何か、言うことはありませんか?」
 お定まりの沈黙が流れ、これで終了するのが、この会議の慣習であった。
 しかし、間髪入れずに大きな手が下座のほうから挙がった。

「はい」

 引き上げるべく机の上を既に整理しはじめていた出席者たちの手が止まり、何事かと、その声の主を一斉に見つめる。
 退屈な会議に半分寝呆けていた岡本は、振り返った先に自分の後輩がいることを認め、叫びだしそうになった顎をあわてて両手で押さえた。
「・・・それではTENの江口さん、発表願います」
 江口は、電気メーカー『TEN』側のSE代表の席の方をちらりと視線を送る。
 「やめろ」とあわててジェスチャーを送り続ける岡本とは対照的に、隣の男は資料を眺めながら、平然と煙草をふかしていた。
「では」
 ノートを開きながら、江口は立ち上がる。 平凡な金曜日の午後が、終わろうとしていた。



 ずだだだだだだ・・・・・っ。

 T銀行電算センター内システム開発本部のフロアの廊下の奥の方から、不気味な地響きが聞こえてくる。
「あの音は・・・」
 岡本はマニュアルの一点を見据えたまま呟く。
「うひゃー・・・」
 飯田がファイルを頭に被って机に突っ伏した。
「やっと、お出ましか・・・」
 立石は煙草に火を点ける。
 ばーんという大音響とともに鉄の扉が観音開きに開いて、怒りのためにまっかっかになった池山が登場した。
「江口ぃ~っ!くぉ~の、馬鹿ったれがーッ!」
 ざかざかと部屋のまん中に踏み込むと、飯田の被っていたファイルを取り上げ、力一杯江口の胸めがけて投げ付けた。
「こんの、あんぽんたん!建て前って言葉を知らんのか、お前はっ!営業は上へ下への大騒ぎだ。お前のいらん言葉のおかげでなっ!」
 更に江口の襟首をつかんでぐいぐいとひっぱる。
「・・・すみません」
 眉をわずかに寄せて一言謝ったっきり、江口は貝のように口を閉ざす。
「おーまーえなぁー」
 やり場のない怒りにめまいを感じつつ隣の机に目をやると、立石が黙々と設計書の下書きをやっていた。
「・・・立石」
「ん?」
 立石はゆっくり手元のマニュアルのページをめくる。
「ああ、池山。営業課長と部長は?」
「先に頭下げにいってる」
「そうか」
「そうかって、お前っ」
 池山は地団駄を踏んだ。
「なんで止めなかったんだよ。若者の暴走を止めるのが年長者の務めだろうがっ!」
「・・・・・止める義理がなかったからだろうな」
「なっ・・・」
 立石はふいに顔を上げて腕を組み、池山をじっと見据える。
「ある程度の契約も済んで慣習化しているとはいえ、顧客との大切な会議だ。いきなり話が引っ繰り返る可能性があることは重々承知だろうに、ここ一月、入社一年経ったばかりの松田にまかせっきりで課長ともども顔も出しゃしない。舐めてんのかと言いたくなるのは、何もT銀側だけじゃないんだぞ」
「・・・・・・」
 返す言葉がなかった。
 ここのところ、上司たちは別のプロジェクトチームが抱える障害にてんやわんやだし、池山は江口を避けるために、自然とこのT銀内にあるTEN関係者専用SE室への出入りはご無沙汰していた。電話対応はしていたとはいえ、顧客との会議に高卒一年目の未成年であるゆえに立場上何の責任をもたない松田だけを送り込むとは、誰が見てもTEN側はT銀との契約を軽んじていると思うだろう。
 唇を噛み締め立ち尽くす池山に、みかねた岡本がたちあがる。
「まあまあ。もう済んだことだしさぁ」
 飲むか?と差し出されたコーラの紙コップを池山は受け取り一口含んだ。
「ま、ここんところT銀さんのお偉いたちは退屈してたんだよ。ちょっと相手してやればじじいどもの機嫌も治るだろうから、頼んだわ」
 ひょこっと岡本は肩をすくめてみせる。
「・・・悪い」
 髪をかきあげて深く息を吐き出した。
 皆にこんな迷惑をかけてまで、俺はいったい何をやっているんだろう?
「これからは、気をつける」
 池山はひと呼吸置いて姿勢を正し、プロジェクトルームを後にした。




 池山の出ていった後のプロジェクトルームは、身動きするのもはばかられるような重苦しい沈黙におおわれた。
 岡本は大きなファイルの一つを掴んで肩に乗せ、歩き出す。
「さて・・・と。俺はSEさんのフォローに行ってくっか。飯田、お前も来い」
「は、はいいっ」
 ぎくしゃくと足をもつれさせながら飯田はあわてて岡本の跡を追う。
「い、いいんですか、江口さんと立石さんを二人っきりにして・・・」
 事情は全く知らない飯田にも、三人の間に流れる只ならぬ空気は、はっきりと感じ取れた。
「大丈夫。あんなでかい野郎どもが殴り合いも何もないさ。それに、立石は江口のことを買ってるんだよ。すっごくな」
「え?そうなんですか?」
 飯田は自分よりいくぶん小柄な先輩をみつめる。
「TENの新人の配属ってな。ぶっちゃけて言うと、実は私情はいりまくりの国取り合戦なんだよ」
「はぁ?」
「年が明ける頃には、公募もコネもどんな奴が入るかはっきりしたデータが出るだろ?どの部署も、自分のところだけはできるだけ使いものになる奴が欲しいわけだ。そこで、人事課を囲んで熾烈な戦いが始まるんだわ」
「戦いというと・・・?」
「俺と主任は、立石をうちの課に入れるために徹マンした」
 ありゃあ、もう二度とやりたくねぇと思ったなぁ、と岡本は笑う。
「それもこれも、人事部長たちが多趣味で豪快な男だから為せる技なんだが、要するに、仕事以外の何かで人事課を負かしたら、新人獲得の優先権が一つもらえるんだ」
 水面下でそんなことがあってるとはつゆ知らず、入社したら自分の希望外のセクションに飛ばされて泣く新人も少なくない。もっとも、一年我慢奉公した後に転属願いをだせば道は開かれると、たいてい言い含められるのだが。
「そして、立石はゴルフで並み居る強豪を打ち負かし、江口を取った」
「岡本さんは麻雀、立石さんはゴルフ・・」
 なかなか性格を表している。
 飯田の考えを読んだ岡本は彼の頭を軽く叩く。
「あいつのは、肩が強い分遠くへ飛ぶんだよ。・・・それよりな、ここだけの話だが、江口の競争倍率はそう高くはなかったんだ」
「え・・・?」
「お前も同期だから知ってると思うが、今年はどういうわけか東大や海外工学大学留学経験者とかの華々しい高学歴者がわんさと入社してな。そんな中、高校、大学をスポーツ入学したうえにコネで入社した江口は、どちらかというと池山たち営業畑向きだろうって事でSE連中は全然注目してなかったんだがな、立石がこいつが一番使えると言い張ったんだよ」
 岡本は、くきっと首を鳴らす。
「最初、工専出のお前と違っていちから叩き上げなきゃいけない上に、使いものになるかどうかわからない分、リスクが高すぎるって課長ともども言っていたんだけどな」
 しかし蓋を開けてみたら、入社してすぐの教育実習期間中に高学歴のお歴々は社風が会わないと駄々をこねたり、変にプライドが高くて扱いにくいばかりか、精神的に追い詰められて病院送りになった者まで出て、値段ばかり高い役たたずばかりだということが判明した。
「立石さんの眼が、誰よりも確かだったということですね・・・」
 ほおお~と感嘆のため息をつく飯田に、岡本は苦笑する。
「いや、俺たちも最初はそう思って感心したんだけどな」
 マシン室のドアのセキュリティシステムにIDカードを通しながら呟いた。
「あいつ、六大学野球の大ファンだったらしい」
 一瞬、飯田はきょとんとした顔をした後、天井に視線をめぐらせうーんと唸った。
「・・・なるほど」



「・・・どうして、俺を怒らないんですか」
 江口はズボンのポケットに両手をつっこんで、自分の机に軽く腰掛けた。
「怒らせたかったのか?」
 立石は眼鏡を外してゆっくり目頭をもむ。
 例の爆弾宣言以来、池山はともかく江口も妙に立石を避け始め、双方かなり煮詰まって何かと仕事に支障もでてきたことだし、そろそろ何かあるだろうと覚悟していたから怒らなかっただけなのだが、どうやらそれが余計江口の気に触るらしい。
 驚きは、したのだが。
 しらふで、ここまで派手な行動に出られる若者の情熱に。
「なぜ止めなかったかなんて聞くなよな。どうせ、あの時誰が止めても言っていただろ。お前は」
「・・・・・」
 黙って前方を睨む江口を横目で見ながら、煙草に火を点ける。
 立石と岡本の立てた予想が外れていなければ、江口は池山逢いたさに、天の岩戸よろしく営業部に立てこもって出てこない彼を引っ張りだすために、わざわざ普段なら黙っているような些細なネタで顧客に喧嘩を売り、どうしてもこのSE室にやってこなければならないようにしむけたというあたりだろう。
「まあ、たまには爺さま連中の脳細胞の活性化を図るのもいいんじゃないかと、俺達は思ってるよ」
 本心で言っているのだが、江口には下手な慰めにしか聞こえない。
 実際、重役達は熟れたトマトのように真っ赤になって怒りだし、顧客側のSEもこちら側の営業部総動員で右往左往して宥めすかし、江口の予想以上の、上へ下への大騒ぎになったのだ。
 そうなると、現場監督の岡本と立石が全ての矢面に立たされたのは間違いない。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 それでも、この事態に平然と煙草をふかして通常どおりに仕事をこなしている立石を見るにつけ、何事にも動じない彼を羨ましく思う反面、憎らしくもあった。
 同僚たちや上司から絶対の信頼を一身に集めている立石を、誰よりも頼りにして甘えまくっているのは他ならぬ池山だし、彼自身それをいつもいつも許している。強引な見解かもしれないが、目の前のこの男は強大な恋敵だと江口は確信していた。
「・・・寛大なんですね」
 大きな背中を丸めてすねたように呟く江口の言葉に立石は吹き出す。
「お前、池山にあれだけ怒鳴られて、俺らにも叱られたいのか?」
 まあ、とにかく江口が餌をまいて、池山が食らいついたのだ。一か月かけて、やっと。
 あとは二人でどうとなりやってくれ、というのが現場監督の感想である。
「じゃあ、ひとつだけ言っておこうか。俺と池山の仲を疑っても、全く、どうしようもない無駄だから、やめておけ」
「・・・は?」
 初めて自分の方へ振り返った江口に向かって、立石はにこりと笑う。
「俺には池山なんかに血迷うほど悪趣味でないし、暇もない」
「なんか・・・。随分なこと言いますね」
 そういいながらも江口はゆるゆると肩の力を抜いて椅子に座った。
「・・・俺は、たった一人の女を追い掛けるだけで精一杯だよ」
「・・・追い掛けてるんですか?」
「なりふりかまわず、執念深く、な」
「立石さんが・・・?」
 この、雨風吹いても雪が降っても座したまま動かない大仏のような、妙に年寄りじみた喰えない男が?
 世の中、わからないものだ。
 まじまじと見つめられて、立石は照れたように鼻の頭を掻く。
「・・・言いたかないが、かれこれ十年近くになるな。途中で何度も諦めて他の子とつきあったりはしたんだが、これが、なかなかなぁ・・・」
 ゆっくり長く吐き出した煙をぼんやり目で追った後、短くなった煙草の先を灰皿に潰すように押し当てる。
「最初は色々好きな理由なんかがあった気もするが、最近はもう理屈もへったくれもないな。とにかく、欲しいのは一人だけだ」
 その人が、この世にいるというだけで、求める気持ちは止まらない。
「俺も・・・。人に迷惑かけてでも欲しいと思ったのは池山さんが初めてですね」
 人はそれを錯覚だとか、妄執だとか言うだろう。
「まぁ俺の場合、最初の頃につかまえるタイミングを外したばっかりに今に至っている感が強いせいかな。その分、お前には今のうちに思いっきり頑張ってほしいって思ってしまうんだよな。これが」
「え?」
 江口は首を傾げた。
「きっと、岡本も似たような理由だろう。あいつも高嶺の花を諦めきれなくってうろうろしているから」
 つまりは、岡本も立石も自分を本心から応援しているということか?
「・・・心置きなく池山さんを追掛けていいって事ですか?もしかして」
 相手は男で、自分の大事な友人であることは、この人たちには何の関係もないのだろうかとかえって江口のほうで頭を抱える。
「さて・・・な。とにかく、お前らのごたごたに巻き込まれてやるのは、今回限りだからな。次はないから肝に命じとけよ」
 何がどうであれ、他人の恋路なのだ。馬に蹴られるのはごめんである。
 ・・・・例え、それが、自分の理解をはるかに越えた、男と男のものであっても。
「そういえば」
 立石はダウンロード済みのメモリをパソコンから引き抜いて立ち上がる。
「去年の秋の六大学野球の準決勝な。俺と池山は見にいったよ」
「え・・・?」
 いきなり話を方向転換されて、江口は思わず姿勢を正す。
「試合が終わる頃に池山が、江口という選手はきっと野球をやめるだろうって言ったんだが、まさか俺達の会社へ来るとはなぁ」
 立石は目を伏せて笑った。
「試合の終わる頃、ですか?」
 江口の問い掛けに立石は肩をすくめて背を向ける。
「まず、その辺から話をしてみるのも、いいかもな」
 そう言い置いて、部屋をすたすたと出ていった。

「去年の準決勝・・・」

 空が高くて、吸い込まれそうに広いと思ったことを思い出した。
 あの空を、池山も見たのだろうか。
 あの時に。



「はああぁー。年寄りはしつこいから、嫌いだよ・・・」
 肩を落として、池山は長くて暗い廊下をとぼとぼ歩く。
 ご立腹だったお歴々は、池山に対して嫌味と罵詈雑言をねちねちとまるでお経のようにいつまでも繰り返した挙げ句、詫びとしてTENでCMに起用していた美少女タレントのポスターの全バージョンを持って来いと命令した。
 キャンペーン期間は終わったから、もう在庫はないと答えると、社内に飾ってあるのをはがしてでも持って来いと駄々をこねるのだ。
 なんともはや、執念というか、可愛いファン心理というか・・・。
「しかし、女子高生の水着姿をどこに貼るつもりだ。あの親父どもは・・・」
 自宅のトイレでないことだけは、確かだろう。
 まあ、詫びがポスター数枚ですんだだけでも、有り難いというべきか。
「おっまたせー。懺悔は終わったよーん」
 気を取り直してドアを開くと、いつもは十数人で作業しているはずの室内はしんと静まり返っていた。
「あれれ・・・?」
 池山は戸惑い、立ち尽くす。すると、ややあって部屋の奥に積まれた段ボールの山の影から、ぬっと大男が顔をだした。
「お疲れ様でした。何か飲みますか?」
 穏やかな江口の声色に、ほっと肩から力を抜く。
「いや・・・。それより皆は?」
「設計部隊を混ぜた関係者一同で隅田川の花火を見に行くんだと、三十分ほど前に出ましたよ」
「関係者一同か・・・」
 要するに、今回の件で間に挟まれて苦労した顧客側SEたちとの慰労会なのだろう。
「迷惑かけたな。あいつらには・・・」
 まったく、岡本達の気配りには恐れ入る。マシン対応と顧客フォローを同時にこなすのだから。
 落ち込む池山に麦茶の入ったカップを握らせ、江口は言う。
「どうせ、今日の仕事はもう終わりでしょう。見にいきませんか、花火」
 池山は受け取った紙コップの中身を飲み干す。
「・・・そうだな」
 喉を通ってすうっと隅々まで染みわたるように体内に落ちていく液体の冷たさを、気持ちいいなとぼんやり思った。



「嘘みたいだな・・・。たかだか二駅なのに、どうしてこんなに人が少ないんだ」
 いや、きっと通常よりは多いのだろうが、先程までの押すな押すなの喧騒と比べると可愛いものだ。
 二人は浅草駅のあまりの混雑ぶりと熱気に目を回し、隅田川を挟んで浅草の対岸にあたる駅で降りた。
「えっと・・・。どうします?皆は浅草側にいるはずですが」
 立石の残していった大まかな地図を眺めながら尋ねると、池山は力なく首を振る。
「いい・・・。どうせ、あいつらはもう出来上がって前後不覚だろうし、この分だと俺達の座るスペースもないだろう」
 昼間の熱気がまだ澱んでいる地下鉄の空気に疲れがどっと出たのか、大はしゃぎで駆け回る子供たちを眺める目は虚ろである。
「じゃあ、ちょっと眺めは落ちますが、座って山ほどビールが飲めるとこ、行きませんか?」
「こんな時間に、飛び入りで、そんな天国みたいな所あるのか?」
 腕時計を見ると、もう花火が始まる時間になっていた。
「あるんですよ。これが」
 にっこり笑って江口は歩きだす。
「すぐ近くですから、我慢して、もう少し頑張ってください」
 まだ夜になりきっておらずほのかに明るい空に、一発目の花火が高らかにあがった。



「おーや。コウじゃないかぁ。よくきたなぁっ!」
 角刈り頭にはちまきを締め、絵に描いたような下町風情の親父がグローブのような厚い手を元気良く振り回すと、周囲の老若男女が一斉にわぁっと歓声をあげて、方々から声をかけてくる。
「おや、生きてたのー、コウちゃん」
「すっかり、カタギのサラリーマンじゃん」
「そこのいいオトコは誰だよ?とっとと紹介しとくれよ」
 駅から一キロたらずの場所にある商店街は、全面交通止めにした道路の上にゴザを敷き詰め、長机を繋げて並べた上にいかにも持ち寄りと言った感じの多様な料理と酒を広げていた。その間には身内だか他人だか訳わからない人々が車座になって、花火を愛でつつ好き勝手に騒いでいた。
「こんばんは。大将、この人は、会社の先輩で池山さん」
「こりぁー、どーもどーも。うちのコウが随分とお世話かけとりますようで」
 親父が深々と塩のなかにぽつぽつと胡麻を落としたような角刈り頭を下げると、あわてて池山も頭を下げる。
「いえ、江口は優秀で手のかからない奴だから、そんなことは・・・」
 なんだか、家庭訪問で生徒の父親に対面した教師のような気分だ。
「大将。急で悪いけど、あと二人分都合できないかな」
「なにもって回った言い方してんだよ。たかだか二人分くらい、いくらでもできらぁな」
 がははと笑いながら、「おらおらどかんかガキども」と身内らしき少年たちの背を足で軽くけとばして場所を作る。
「さっ、先輩のお相手は俺がやっとくから、焼きもんを女房からもらってこいや」
 大将が池山の肩を両手でいきなりつかんで座布団に座らせる。
「ありがとう。じゃあ池山さん、すぐ戻りますけど先に始めていてください」
 少しすまなさそうに頭を下げた後、次々と上がる花火に歓声をあげる人込みの中、すいすいと江口は泳ぐように行ってしまった。
「マジかよ・・・」
 まわりが異様な盛り上がりをみせるなか、池山は恐ろしいほど上機嫌な角刈り親父のそばにとり残されてしまい、茫然とする。
「まあ、池山さん。ビールでもどうですか」
 にかっと歯を見せて大将が瓶をさしだすと、
「あ、どーも」
 にかっと歯をむいて池山は紙コップでそれを受ける。
 ・・・先ほどの謝罪で疲れきった頬の筋肉がつりそうである。
「どうです?あいつ、ちゃんと使いものになってますかね?」
 ビールをぐびぐびっと一気飲みして大将は尋ねた。
「ええ。お世辞抜きで、良くやってます」
「そうっすか。そいつは良かった・・・」
 しんみりという大将の横顔に、池山は眉を寄せる。
「いえね。最近和美ちゃんと別れたって聞いたもんだから、ちょいと、ね」
「和美さん・・・?」
 眉をひそめる池山をみて、しまったと大将は頭を掻く。
「ああ。仕事場では、ぷらいべいとってやつは口にしないのが決まりなんですかね?」
「いえ、付き合っている子がいることは人づてに聞いていたんですが・・・。おれ、あいつとは所属部署が違うんですよ」
 下町商店街のオヤジにどうすれば職場事情が解ってもらえるかと頭を悩ませながらも、フォロー代わりに落ち込み気味の大将のコップへビールを注ぎ足した。
「俺の腐れ縁のダチが大学の野球部の監督をしてましてね。そいつの愛弟子があいつでねぇ。まあ、俺にとっては息子というか、孫みたいなもんというか、なにかと気になってしょうがないんですよ」
 ああ、今度のやつはでかかったですねぇ。きれいですねぇ、と、商店街の建物の間に浮かび上がる花火をぼんやり見つめる。
「これは内緒なんですが、和美ちゃんの実家は土地持ち長者でね。婿入りってわけじゃあないんだけど、結婚するときにはそれなりのマンションが用意されるはずだったんですがねぇ」
「え?」
「・・・野球もあきらめて、女も財産もあきらめて、あいつは、これからいったいどうなるんでしょうねぇ・・・」
 花火の音とざわめきの真ん中にいても、大将のため息は、深く、低く、そして強く池山の耳に届いた。




「あれ、大将は?」
 紙皿に串焼きを何本ものせて戻ってきた江口は、辺りを見回す。
「町内会長さんに呼び出しくらって、さっきあっちに行った」
「そうですか。じゃあ、俺達だけで食べましょう。おいしいですよ」
 たしかに、たれの醤油のあま辛い匂いが食欲をそそる。
「そんじゃ、いただきます」
 二人は花火から視線を離さないながらも、争うようにして串焼きを食べだした。
「・・・うまい」
 はぐはぐと、欠食児童のようにかぶりつく池山に、うれしそうな声が答える。
「そうでしょう?俺、大将の店は東京一の串焼き屋だと思うんですよ」
「・・・大将とは、ずいぶん親しいみたいだな」
「ええ。実の親より、はるかに可愛がってもらってます」
「そしたら、その大将に、あんまり心配かけるんじゃねーよ」
「え・・・?」
 どーんと花火が上がり、振動で商店街中の窓ガラスがびりびり震えた。
「・・・野球をやめて、逆玉もやめて、あいつはこれからいったいどうするんだろう、って言ってたよ」
「ああ・・・。もう、大将の耳に入ったのか・・・」
 枝豆を口に運びながら呟く。
「いいんですよ。もう、終わったんだから、問題なしです」
「問題なしって言ったって、もしかして、もしかしなくても、俺のせいだろう?」
 喉がひりひりするような感覚に、池山はビールを流し込む。
「いえ。俺が勝手に決めたことです。お願いですから責任感じたりしないでください」
「でもっ・・・」
「池山さん、俺の実家は山口のほうでも結構古くて名のある家らしいんですが」
「は・・・?」
 池山は江口顔をみつめるが、江口の視線は空に固定したままだ。
「そこの三人兄弟の真ん中で、上と下が利発な分、体力はあるけど、どんくさくてとろくさい俺は完璧に浮いてたんですよ」
 忙しない爆竹のような連続音に空を見上げると、ちかちか光が反射するだけで、何も見えてこない。どうやら今は仕掛け花火をやっているようだ。
 この場所が比較的空いている理由は、川岸の仕掛け花火が建物の陰に隠れて見えないからなのだと気がついた。
「おかげで親族を含めた土地の連中から、陰でかわいそうに、とか色々言われてましたよ。そんなに成績も悪くはなかったんだけど、なんせ、兄貴と弟は小学校から神童と呼ばれていましたから、かすんじゃって」
 ぽつりぽつりと語る江口の横顔には、なぜか微笑が浮かんでいる。
「でも、生まれた頃から骨格が太かった俺は、肩の力が並みじゃなかったんです。それを見込まれて野球で有名な私立中学からスポーツ入学しないかって言われて、たったひとつの取り柄だろうということで親に放りこまれたんですよ」
「そうか・・・」
 その後の経歴は、人事合戦時に履歴書に目を通した池山は知っている。
 そのまま高校も野球に明け暮れて、入学した大学野球部では華々しいスター選手ではなかったが、中堅としてそれなりに活躍してきたはずだ。
 だからこそ、皆、疑問をもつのだろう。
 彼の、早すぎる引退に。
「・・・野球、楽しかったか?」
 酒の力を借りて、今まで誰もが聞くに聞けなかったであろう質問を投げ掛けてみる。
「すっごく、楽しかった。今でももちろん好きです。大好きです。・・・でも、もう、終わりにしていいだろうって思ったんです」
 振り返った江口は、なぜかまぶしげに目を細める。
「去年の秋の準決勝、池山さん、見にきていたそうですね」
「・・・徹か。あんの、告げ口野郎」
 別に知られたところで何の不都合もない筈なのだが、きまりわるくて悪態をつく。
「いい天気でしたね」
「・・・まあな。ビールがうまかったよ」
「雲一つない、綺麗な空でしたよ。それを見ていたら、ああ終わったなって思ったんですよ」
 ひとこと、ひとこと噛み締めるように言葉をつなぐ江口の横顔をみて、池山も去年の秋に思いを馳せる。
 雲ひとつない晴天のなか、投手陣にいまいち生彩を欠いた江口のチームは取り返しのつかない点差で負けていた。
 もうあきらめムードですっかり沈みきっている最終回で、四年生ながらも出場していた江口は、いきなりホームランを打って、三点を返した。
 しかし、時はすでに遅し。
 一挙にゲームを逆転するには、十点近く開いた点差の壁は打ち破るにはあまりに厚すぎ、善戦虚しくあえない最期を遂げた。
 そして、それから間もなく江口が野球界から姿を消した。
 目蓋を閉じてみると、不思議なほど鮮明にその時の光景が脳裏に浮かび上がってきた。



 江口がすくい上げたボールはゆっくり風に乗って弧を描くようにして空に吸い込まれていき、やがてスタンドのど真ん中にぽとりと落ちた。
 あのとき。
 江口はスタンドにボールが入るまで、バットを握ったまま立ち尽くしていた。
 顔の表情までは良く見えなかったが、一度深く息を吸った後、おもむろに一塁に向かった姿が切なかった。
 思ってもみなかった反撃に球場中が沸いている中、彼一人、淡々と地面を踏みしめて走っていく。
 そして、彼が見つめていた空をもう一度見上げると、ふいに悲しい気持ちになった。
 夏の暑さをすっかり消し去ってさわやかに透き通った空気と、宇宙の広さを思わせる高くて青い空は、あまりにも綺麗すぎた。

「あの、江口って奴は、野球を辞めてしまうかも知れないな」

 ついぞ思ってもみなかった言葉が、不意にするりと口をついて出た。
 長い夏も終わっていつのまにか秋が深い色あいを広げ始めているように、彼の中で、何かが終わったのだ。
 もう、球場の中で彼の姿を見ることはないだろう。
 確信に限りなく近い、予感だった。



「もともと、体のあちこちに爆弾抱えていたせいもあって、気持ちの切り替えは早かったな。そうしたら、なんだか、野球以外の世界が見てみたくなって就職活動をしてみたんです。すると、運良く叔父のコネでTENに入社できて」
 野球大会を終えるなりリクルートスーツに身を固めて会社を回る姿は、友人たちのほとんどが野球入社かプロになる中、かなり異質なものに映っただろう。
 なかば内定していた企業野球部の関係者や大将をはじめとする親しい人々は、引退を決めるにはまだ早すぎると、何度説教したか知れない。
「大学卒業間際まで野球一色の生活しか知らないくせに、結局その道を貫けなくていきなり会社員として働かなきゃならないなんて、あいつはなんて不運な奴だと里の連中は嘆いていましたけど」
 すぐ側にいるはずの子供たちの歓声が、ぼんやり遠くに聞こえた。
「ところが俺は、自分をついてない奴だと思ったことは一度たりともないんです。むしろ、こんなに人生好き放題してていいのかなって、ときどき不安になるぐらいで」
 まるで和太鼓の連打のように花火の音と光の点滅がだんだん激しくなってくる。
「和美の場合、付き合ってみたらたまたま彼女の実家に資産があっただけです。たしかに彼女は優しくて居心地がよかったけど、それだけではだめだと気付いたから、別れました」
 江口は首を傾けてふわりと笑った。
「・・・後悔は、してません」
 晴れ晴れとした江口の表情から、池山は目を離せなかった。
 彼は、きっと、こんな瞳で空を見つめたに違いない。
 あの時も。
 そう思うと、胸が苦しくなった。

 空の青さなんて、気付かなければ良かったのに。



 気が付くと、いつのまにか花火は終わり、人々は三々五々に別れはじめていた。
「なんてこった・・・」
 ラストの目玉の花火を見逃しちまったのか?と池山は茫然と呟く。
「すみません。俺の身の上話なんかしてしまったばっかりに」
 照れ臭そうな面持ちで、江口は立ち上がろうとする池山に手を貸した。
「お詫びに、責任もって家まで送ります」
「・・・なにいってんだ。俺の家が通り道なんだろーが」
「そうともいいます」
 目と目が合うと、どちらからともなく笑いだす。
 二人の間に長いこと横たわり続けたぎこちない空気は、いつのまにか消えてなくなっていた。



「なんてこった・・・」

 火にかけたヤカンの前で池山は腕を組む。
 浅草から池山のマンションまでの道中、野球談義から仕事の話まで果てしなく話が弾み、気が付いたら江口を家へ連れこんでいたのだ。
 どうしてこうなったのか池山にはとんと見当がつかないので、とりあえずコーヒーを入れることにした。
 連れてこられた江口に至ってはまるで十年来の付き合いかのように平然として、冷房のきいている部屋の真ん中で座布団の上に胡坐をかいてテレビのスポーツニュースを見ている。
 いや、どちらかというと、仕事から帰ってきた旦那に茶を煎れる共働きの妻の図だ。
「なにかが違うぞ。なにかが」
 この光景を有希子が見たら、何と言うか。
 ・・・腹を抱えて笑うに違いない。
「とりあえずこれを飲ませたら、早いとこ社宅へ叩き帰すぞ」
 ぐっと両手を握りこぶしにして、沸騰してぐつぐついいだしたヤカンに宣言した。



「いただきます」
 きちんと姿勢を正して池山に頭を下げてから、江口はテーブルの上のマグカップに手をのばす。
 旦那さま、というより、マスオさん、という言葉がぴったりだ。
「あ、それから、これ、返すぞ」
 隣の部屋から包みを出してきてぽんとテーブルに置いた。
「これは・・・」
 中に入っているのは、江口が突っ返したネクタイとシャツだった。
「そのシャツ、某有名代議士の若妻から貢がれたはいいが、ありえないくらいでかすぎるんだよ。誰かと取り違えたのかもしれんが今更だしな。サイズが合う奴が着る方がいいだろう」
「ちなみに、いつ貰ったんですか?」
「ああ?んーと、高校ん時だったかなぁ、いや、大学に入っていたかな?」
「何と言って良いのやら・・・」
 池山の物持ちの良さには感心こそすれ、未成年のうちから爛れた女性関係には頭が痛い。
「じゃあ、ネクタイは?」
「ああ。それはミラノで自分で買ったやつで、気に入ってたからここぞという時に使おうと思ってたんだけどな。でも、お前がそれを着けてるのを大勢が見たはずだから、もういいよ」
「でも、半日しか着けてなかったですよ?」
「女たちは妙にそういうとこ、チェック厳しいんだよ。今度俺がそれを着けてみろ、『まあ、お・そ・ろ・い』と言うか、『デキテルのよ、あいつら』というに違いない。だいたい。お前が着けていった翌日、そりゃあ、もお、いろんな噂があの三十階建てのビル内を走り回ってたらしいぞ」
 どうやら江口は、噂が走り回るほど女性からの注目度が高いらしい。
「俺の噂、ですかぁ?ガセですよ。それ。」
 江口は間髪置かずに否定した。
「製品パンフレットのモデルに起用されて、得意先にまで騒がれている池山さん達ならわかりますが、俺じゃあ話にもならない」
 ふうーっとため息をつきながら、正座していた脚を解いて胡坐をかく。
「嘘じゃない。本当の話だってば」
「またまた・・・」
 まったく相手にしない江口にむっとした池山はテーブルに両手をつき、身を乗り出して力説した。
「だって、だって、お前、よく見たら、それなりに男前じゃないかっ!」
 一瞬、水を打ったように部屋の中が静まり返り、テーブルをはさんで二人は向かい合った状態のまま、見つめ合う。
「・・・よく見たら、それなりに、男前・・・?」
 江口はぷぷーっと吹き出した。
「あっはっはっ。そりゃあいいや。ナイスフォローだ。ははははは」
 げらげらと腹を抱えて笑いだす。
「ちょっと待て、笑うなよてめーっ、おいっ、人の話、真面目に聞けよっ!」
 なおも笑い続ける江口に業を煮やした池山は、真っ赤になってテーブルを飛び越え掴み掛かる。
「人がせっかく誉めてやってんのに、その態度は何だよっ」
 反動で仰向けに倒れた江口の腹に馬乗りになり、襟首を掴んでぎゅうぎゃう締めあげているのに江口は笑うのをやめない。
「だって、その表現・・・。あはははっ」
「こんのやろう・・・」
 目尻から涙を流してまだ笑う姿に、心底頭にきていた。
「笑うなって言ってるだろうっ」
 たくましい首を両手で掴んで叫んだ。

 その時、池山の頭には『江口の口をふさぐこと』しかなかったと言っていい。
 ここで指先に満身の力を込めてしまえば立派な犯罪者だったのだが、彼のやった行動は意に反して別のことだった。
「は・・・?」
 池山の頭がいきなり降ってきた。
 とっさに江口は『頭突きか?』と身構えたのだが、接近したのは別のものだった。
「・・・・・・・!」
 生暖かいものが江口の口を覆った。
 言わずもがな、またもや池山の唇である。
 前回と同じように奇襲を食らった形になったが、もはや、やられっぱなしの江口ではない。
 どうしてこうなったのかいまいち理解に苦しむところだが、せっかくの据え膳だ。有り難くいただくことにしよう。
 両腕で池山の体をしっかり抱え込んで反転させる。
「・・・・・はぁっ・・・」
 のしかかる体の重さに思わず息をついて僅かに開いた池山の唇に、今度は江口が噛み付くように唇をあわせた。
「んっ・・・」
 体中にじわじわと押し寄せてくる快感に、何が何だかわからなくなった池山は眉根を寄せる。
 ただ、唇を甘噛みされ、時折歯列をゆっくりなぞる舌の感触と、絡み合う吐息が気持ち良すぎて、背筋がぞくぞくする。
 深く入りこんできて自分の舌に絡んだかと思うと、軽く唇を吸う。
 まるでじらすような動きに、池山はいつしか自分から江口の頭に腕を回して追い掛けていた。
 やがて江口の指先が池山の体をゆっくりと動きだし、唇は頬から首筋へとたどる。
「はっ・・・あっ・・・」
 首筋の一点を強く吸われて、思わず甘やかな声を上げてしまったその時、

 ぴぽぴぽ、ぴんぽんぴんぽーん

 ボタンが壊れないかと心配したくなるほどの勢いでドアチャイムが鳴り続ける。

「・・・借金取りですか?」
 池山の首から唇を放しはしたが、息のかかるほどの近さで江口はまじまじと仰向いた顔を見つめた。
 潤みきった目の縁をうっすらと赤らめ、上気した頬と意外に白い首筋の対比が、なおのことそそられる。
「こんの・・・。かばやろうっ」
 自分を裸にするような視線と間の抜けた言葉に、池山は今度は首から耳まで真っ赤に染めて腹を立てた。
 びたんと江口の顔を片手で押し退けて池山は起き上がり、受話器を取る。
「はいっ。もしもしっ」
 胸に渦巻く怒りを深夜の訪問客にぶつけようとしたところ、受話器の向こうから借金取りも裸足で逃げたくなるような罵声が飛んできた。
「なにちんたらしてんのよ、馬鹿者っ!いるならさっさと開けなさいっ!」
 離れて様子をうかがう江口の耳にも、女の罵声がきんきん伝わってくる。
「げっ・・・。千鶴!」
「千鶴・・・?」
「姉貴だよっ!俺の!」
 思わずフックに戻そうとする受話器から、さらに怒りの雄叫びが聞こえてくる。
「開けないと、このドア、蹴り開けるわよっ!」
 すでに、ドアの方からがしんがしんと渾身の力で蹴とばす、すばらしくも近所迷惑な音がする。
「・・・窓から逃げよっかな・・・」
 ふっと遠い目をする池山に、
「無理ですよ。ここ、七階じゃないですか」と、江口は現実へ呼び戻す。
「どっちみち、ドアを開けないと後が恐いんじゃないんですか?」
 ドアを蹴飛ばす勢いは、こうしている間にもパワーを増している。
「そうだよなー」
 やれやれと肩をすくめて玄関へと足を向けた。   


「なむあみだぶつ・・・」
 経を唱えて、ゆっくり鍵に手を掛ける。

 呪文唱えて、目の前の悪魔がどこかへ消えて行ってくれるなら、怪しげな坊さんをいくらでも呼ぶのになぁ。

 くだらないことをつらつら考えながらも鍵を解除した途端、素早くドアから離れる。
 かちり、という音が聞こえた瞬間、がん、と鉄の扉が開いた。
 そこには、嫌いではないが保坂を抜いて世界で一番恐くて、出来る事ならしばらく会いたくない女が立っていた。
 するりと優雅な足取り(もちろん、さっきまでドアを蹴りまくっていたのと同じ足であるが)でたたきに踏み入れると、素早く後ろ手に戸を閉める。
「こんばんは、久しぶり。元気にしてた?」
 先程の剣幕もどこへやら、上品に赤く塗られた唇がきゅっと笑みの形を作った。
「まあな」
 つられて、にひゃっと笑った池山の顎をいきなりがしっと掴んで顔を寄せ、わずかに目を細めた。
「・・・唇が、サクランボのよーに赤い」
 げ。
「和基、あんたホモになったんですって?」
「うぎゃ・・・・・・・っ!」
 ジーザス!



  『恋の呪文-3-』へ続く。


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