壁ドン事件-池山×江口編- 



 



「あ、江口、はっけーん!」
 指さして高らかに勝利宣言をすると、のっそりと、大きな背中が振り向いた。
「池山さん…」
 自販機の前に立つ江口がちょうど選択ボタンを押したのか、がこんと缶が機内を落ちる音がする。
「池山さんも何か飲みますか?奢りますよ」
「んー。なら、俺もコーヒー、ブラックが良い。あ、そっちのちょっと高いほう」
 遠慮無く年下にたかる敏腕営業の台詞は、居合わせた人たちの笑いを誘った。
「はい、こっちですね」
 昼食を終え午後三時近くになると、どの仕事場でも倦怠感が覆い始める。
 そうなると、各階に設けてある自販機コーナーにはだんだんと眠気覚ましや気分転換のコーヒーを求める人が行き交うようになる。
 出先から戻ったばかりの池山は、自席に荷物を置いて課長に業務報告するのもそこそこに、江口がいるであろう場所に当たりを付けて階段を二段飛ばしてやってきた。
 江口は初夏までの海外常駐を無事終了し、国内業務が増えてオフィスで会うことも可能になったので、ここ最近の池山はかなりご機嫌だ。
 なぜなら、こうして会おうと思えばいつでも会えるからである。
「はいどうぞ」
 差し出してきたコーヒーごと掴んでにやりと笑った。
「なあなあ、江口知ってる?」
「え?」
 首をかしげる江口の手を引いて、自販機コーナーより奥の、カタログストックルームへ連れ込む。
「今、女子の間で流行ってるらしいんだ」
 そう言うなり、江口を部屋の隅に追い詰めた。
「壁ドン」
「は?」
 気が付いたら、壁を背に池山に迫られている。
「だから、これを、壁ドンって言うんだってば」
 キラキラした瞳が得意げ瞬いている。
「壁、ドンですか…」
 それは、さすがの江口も知っている。
 昔から少女漫画などで見かけるシチュエーションのようなのに、ここ最近、なぜか流行っているらしい。
 だがしかし。
 これは果たして、その「壁ドン」なのだろうか?
 池山が両腕を壁について江口を囲い込んだ形になってはいるが、いかんせん、縦横ともに規格外の江口に普通サイズの池山ががっぷり組み付いていているようにしか見えない。
「あれ?なんか、俺の予想と違う…」
 自分の腕は結構長い方なのに、と池山は眉を寄せて考え込む。
「なんだよ、もう・・・。つまんねえな・・・」
 不満げに尖った可愛い唇につい誘われて、思わず、ちゅ、と、音を立てて吸ってしまった。
「ん・・・」
 甘い吐息に誘われて、もう一度。
「う・・・ん、江口・・・」
 いつのまにか壁についていた筈の手が、腕にしがみついている。
 ゆっくりと背中を抱きかかえながら今度は池山を壁に押しつけて、唇と舌の甘さを堪能した。
「あ・・・」
 絡めた舌が離れる時、池山が小さく濡れた声を漏らす。
「・・・楽しいですね、壁ドンって」
 囁きかけると、ぱあっと、顔が赤く染まった。
「癖になりそうです」
「・・・ばかっ。もうしない」
 ぷいっと、拗ねる横顔がとてつもなく可愛い。
「そうですか?」
「う・・んと、今日は、もうしない」
「はい。今日は、ですね」

 笑うな、と、背中を叩かれたが、それがまたあまりにも可愛いので、江口は顔を落として、もう一回、唇をふさいでしまった。


 明日はどこでキスをしようか。



-完-


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