恋と、ジュモン
今思えば、祖母はかなり変わった人だった。
いつも他人に厳しく、自分に甘く、いつも我が道しか進まず。
でも、とてもとても好きだった。
「あれ?池山さん、純文学も読むんですか?」
土曜の昼下がり。
シャワーを浴びてタオルで髪を拭きながら寝室へ戻ると、入ってすぐの本棚の中に見覚えのある名前を見つけて尋ねた。
「・・・ん?ああ、長谷川周か?それは随筆。・・・つうか、生にもらったんだよ。中に俺の名前宛でサインがあるぞ?」
ベッドの上で気だるげにうつ伏せになっていた池山が顔を上げる。
腹這いのまま頬杖着いた腕の隙間から白い胸が見えた。
「え?生さん?」
「ああ、あいつは長谷川周の孫なんだよ。まあ、よくある名字だから普通はつながりがあるとは思わないよな」
本を開いてみるとなるほど、『池山和基さんへ』と書いてあった。
「・・・生さんは、池山さんをどういう間柄の人だと説明してサインを頼んだのかな…」
「ああ、彼氏だって」
「・・・え?」
思わず手を離してしまい、床に本がごとりと落ちる。
「おい、今は滅多にサインしないから貴重だってのに…」
慌てて屈んで手に取ると、「おい、ちょっとこい」と手招きされ池山のそばに正座する。
そうすると、彼がすっと伏し目がちな顔を寄せて、優しく唇をついばんできた。
「・・・馬鹿。冗談に決まってるだろ」
吐息が甘い。
今度はこちらからも首を伸ばしてうっとりと味わう。
「じゃあ、なんて・・・」
口づけと口づけの合間に言葉を交わす。
次第に濡れた音と熱い舌がからめ捕る。
「お前、千鶴の事を忘れてるだろう。あいつらは、子供ぐるみの付き合い、だから・・・」
手のひらで首筋をそっと撫でると、長いまつ毛がかすかに震えた。
「ああ、そうか、お姉さんですね・・・」
まだ許しを得ていないが本を床に置いて、江口はベッドに体を乗せた。
「お姉さんか…」
「なに、千鶴に興味があるのか?」
独りごとのつもりが、うつ伏せで眠っていたはずの池山に聞きとがめられる。
「いえ、長谷川周という名前とお姉さん、で思い出したことがあって」
苦笑してうなじに口づけると、ちょっとまぶたを赤らめた顔が振り返った。
「何を?」
「もしかして、生さんの名字は息子さんが生まれるころに変わっていませんか?」
「ああ、むかし、立石が『高階』って呼んでた。高校まではそっちだったみたいだな」
「・・・やっぱり。高階さんの次のお孫さんだったんだ」
体勢を変えて向き直った池山の方に毛布を掛けながら頷く。
「知り合い?」
「はい。…と言っても、亡くなった祖母が、なんですが」
祖母は若い頃、神戸で一二を争う評判の美人だった。
そして、同じく彼女と美しさで名を競っていたのが高階夫人だった。
どちらもプライドが高く、どちらも互いの事を嫌っていた。
宿敵、いや、それ以上?
「もともと、女学校で顔見知りだった時から二人を同じ空間に置いてはならないと学友ばかりか先生たちも、そして社交の場の人々も気を使うほどだったのですが、仲の悪さが決定的になったのは、互いの嫁入り先が決まった時で…」
当時、名家で知られ、美男の誉れ高い高階氏の妻となった高階夫人。
それに対して、実家の台所事情で神戸から離れ、裕福とはいえ山口の成金の家へ嫁ぐことになった祖母。
「『おかわいそうに』、と大勢の人に囲まれたところで憐れまれて、祖母はブチ切れたんです」
祖母自身、歳の離れた武骨な男の妻になるくらいなら死ぬとかなり抵抗したものの、うら若い乙女に死ぬ勇気など本当はある筈もなく・・・。
泣く泣く嫁いでみたら、夫も地元の人々も美しい若妻を天女を崇めるかのように大切に扱い、想像以上の裕福な暮らしのうちに、江口家の女王と君臨するようになった
そして、逆に美しいこと以外に長所のない当主を抱いた高階家は高度経済成長のさなか、どういうわけかだんだんと傾いていった。
「ここが、祖母らしいのですが…。完全に立場が逆転した時に、正面切って「ざまあみろ」みたいなことを公衆の面前で一度言い返したようです…」
「・・・だから、女は怖いんだよ・・・」
身震いをする池山を胸に抱きこんだ。
「で、祖母が言うにはあの家の財産と言えば美貌だけだと…」
当主は若くて美しいままこの世を去り、やがて彼女は残された美しい娘に婿を取ることで起死回生を試みた。
「それが、生の父か」
「はい。文豪の息子で、新聞記者として将来有望、それはそれは凛々しい男だったと。彼のおかげでそれなりに対面の保てる状態に戻ったらしいです。でも・・・」
「でも?」
ここで、江口が口ごもるので、膝をけって話の続きを促す。
「・・・僕らは、高階家に孫が二人いるなんて、長い間知らなかった・・・」
「は?」
「お姉さんの沙良さんの事は地元の人はもちろん関西を中心とした財界人なら誰でも知っています。生まれた瞬間からとても美しかったって。でも・・・」
「でも?」
「高階のお祖母さん達は、人目のある所はいつも沙良さんしか連れてこなかった」
自慢の孫は一人だけ。
高階の跡取り娘は一人だけ。
それで押し通してきた。
「そんなに綺麗だったのか、生の姉さんは」
「それはもう。初めて会ったとき、おとぎ話の中のお姫様が本から抜け出してきたと思ったくらいですから」
雪のように白い肌、するりと伸びた鼻筋、長い睫、濡れたような瞳、黒くてつややかな長い髪、指先は桜貝。
高くて柔らかい声、女の子らしいしぐさ…。
女親が思い描く理想の少女が沙良。
なら、妹の生は?
彼女は生まれた時から大柄の色黒で、少年にしか見えなかった。
「どうやら家族の中で浮いていたらしく、よく、鎌倉の長谷川家に預けられたりしていたようですね。だから、最終的には長谷川姓を名乗ることになったのでしょうけれど」
小学生のころ、沙良の美しさにぽかんと見とれていた自分の耳を引っ張って祖母は言い放った。
「あの子はおよし。小さいころから綺麗な子にろくな子はいない」
「ばあばも、綺麗だよ?」
「私は別格。でも、高階の子はいけない。だから、お嫁さんにしようなんて考えては駄目だからね」
そして、屈んで目と目を合わせてもう一度言った。
「きれいな子は小さいころからちやほやされて、一皮むけば性悪か根性なしだから、絶対駄目。味のあるくらいの顔の子にしなさい、お前のように」
細面の、目元の皺すらも美しい祖母が目を細めて口角を上げる。
「僕のように?」
「そう。お前はとてもいい」
くしゃっと頭を撫でて、にっこり笑った。
「不細工なところが、とてもいいよ」
「ぶさいく・・・」
胸に手をついて、語り部の男の顔をまじまじと覗き込む。
「・・・普通だと思うけど?」
むしろ、ものすごく好きな顔だ。
この、厚めの唇なんて、めちゃくちゃセクシーじゃないか。
それを言ったら何かが負けのような気がして心の中にしまう。
「ああ、池山さんはうちの家族の顔を知らないから…」
上から覗き込む池山の乱れた髪をゆっくりと梳きながら苦笑した。
「多分、俺一人だけ、俺が生まれるより前に亡くなった祖父の方の顔なんだと思います。伯母たちも父も祖母似ですし、母はいかにも温室育ちの花のような感じの人で・・・。兄と弟は両親のいいとこどりだし。親族集合写真を見たら笑えますよ?」
そういう意味では、長谷川生と江口耕の境遇は似ている。
ただし、江口は祖母に愛されたし、両親はもちろんのこと、親戚たちにもかわいがられた。
頑なでどこか孤独の匂いのする生は、多分そうではなかった。
穏やかに語る唇に池山は口づけた。
「じゃあ、その写真の中で、一番、味のある男前なんだよ、お前は」
池山が全身を乗り上げてぴたりと沿わせた。するとゆっくりと江口の両腕が背中を包み込む。
「お前はとてもいいよ、とてもいい」
陽だまりのような温かい笑みを浮かべて、額に唇を落とした。
抱き寄せる指先に力を入れながら江口は思った。
自分は運が良い。
こうして大切な人が腕の中にいる。
「そういえば・・・」
ふと、顔を上げて池山は首をかしげた。
「俺、生まれた時、こんなきれいな子供は見たことないって看護婦たちが騒いで、そのままずーっとモテ街道歩いてきたけど…」
「・・・はい?」
「お祖母さんが生きていたら反対したかな」
その前に、男同士と言う基本問題があるが、それはおいといて。
江口家や高梨家の一族がどのような容姿なのかは知らないが、自分もそこそこ良いので、ちやほやされ続けた自覚はある。
眉間にしわを寄せて真剣に考えだした彼の頭上から、江口が困惑のため息をついた。
「なんで今…。それを言いますか…」
「ん?急に気になって」
固く引き締まった江口のへそに舌を這わせて答える。
「ほんとうに?」
「うん」
深く深くため息をもう一つついた後、身体を起こした江口が池山の両脇をひょいと抱えて向い合せに座らせる。
「今、それを気にする池山さんもちょっと変わってると思うのですが…」
「なんだよ、悪いかよ」
ちょっと口をとがらせて睨み付けると、江口ははいはいと背中をあやしながら体を寄せ、そして腰を上げさせられた。
「え、ちょっと、おい・・・」
「こんな時にそんなことを言う池山さんはものすごくいじわるだと思います」
気が付いたら、固いものが池山の中心を押し開けてゆっくりと入ってくる。
「あ、はう・・・あ、ばか・・・」
衝撃と気持ちよさに、胸をそらす。
「綺麗で、性格悪くて、ちょっとお調子者でかわいい、そんなあなたが好きですよ」
突き上げられて、首にしがみつき、声を殺す。
「ん・・・。このやろ・・・」
悪態をつきながらも太ももが江口の腰を締め付ける。
「とても、とても好きですよ、池山さん」
桜色に染まった耳朶を優しく噛んだ。
「お前はとてもいいよ、とてもいい」
・・・その一言が、恋の呪文。
『恋と、ジュモン』 -完-
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