どんなに、どんなに? 



 



「そういえば、こんな物が出てきました」
 村木がにゅっとバッグの中から取りだしたのは、一冊の絵本だった。
「あ、それ知ってる。一時期流行ったよね」
 相づちを打ちながら、本間はガラスの器に盛られてキラキラと輝くサクランボの一つを摘み上げその造形を愛でて、くふふんと笑う。
「・・・どんなに・・・?」
 口にほおばったサクランボをもぐもぐさせて、池山は首をかしげた。
「『どんなにきみをすきだかあててごらん』、です」
 マグカップからふるりとした唇を浮かせて橋口が題名を唱え、更に付け加えた。
「あてられそうなくらいラブラブで、いっちゃいちゃなウサギたちの話ですね」
「・・・そうきたか」
 内容を知っているらしい片桐がぼそりと呟く。
 そのそばでは中村がきょとんと目を見開いている。
 そして、固唾をのんで見守る篠原。
 以上がリビングとダイニングでそれぞれサクランボを囲んで寛いでいた。

 今夜は、『サクランボが手に入ったので、せっかくの旬を味わいましょう』という集まりである。
 ちなみに、この高級果物を大量に運んできたのは篠原。
 もちろん、単なる会社勤めの平民達が一生口に出来ないような最高級品を持ち込んだ。
 ・・・下心であふれかえっているが、食べ物に罪はないと本間は受けて立った。
 そのご相伴にあずかるのが、その他メンバーである。
 ちなみに、家主の立石は佐古と組んでアメリカへ出張、江口は台湾へ二週間の約束で放り込まれているところで、同じ部署で留守を預かる岡本は当然仕事を光速技で切り上げて愛の巣へ直帰で、このマンションへ立ち寄ることは滅多にない。
 世の中は不景気だと騒いでいたが、全員馬車馬のように働かされていた。
 学生時代からの恋人との同棲を解消してた本間は居候の筈なのに、基本的に出張がない事務職なので、いつのまにかこの3LDKの主になりつつある。

「最初に小さい方のウサギが寝る間際になって、『どんなにきみがすきだかあててごらん』と寝かしつけようとした大きなウサギへ問いかけるのよね」
 色つやの観察に満足した本間がぱっくんと一粒を口に放り込み、子供のように両目をぎゅっと瞑ってもぐもぐと咀嚼し始めたのを目撃した篠原は、心臓を打ち抜かれてダイニングテーブルに倒れ伏した。
「か、かわいい・・・かわいすぎます・・・」
 話に夢中のリビング組はもちろん篠原の言動など気が付かない。
「ほんとに、お前って・・・」
 そのつむじを片肘ついて眺める片桐はしみじみため息をつく。
「そうそう。そこから『こーんなに』『いやいや、ぼくはもっとこーんなに』って、どれだけ好きかの表現で戦いが始まるのよね、延々と・・・」
 きゃっきゃきゃっきゃと、笑い合いながら、女性陣は一つまた一つとサクランボを摘み上げた。
「好きすぎて決着がなかなか付かなくて・・・」
「最後は疲れたチビウサギが眠って終わりだったわよね」
「そそ。半分寝ぼけながら『おつきさまにとどくぐらい きみがすき』ってチビウサギがようよう言って眠り込んだのを、デカウサギが抱き上げてベッドに運んで、『ぼくは、きみのこと、おつきさままでいって・・・かえってくるぐらい、すきだよ』って囁いてキスするんだよね!!」
「うっわ~、あっまーい、ベタ甘!!」
「ああ、恥ずかしすぎて、血圧上がりました!!」
 三人の盛り上がりっぷりに、中村は石のように固まったままだ。
「ええと・・・」
「おおむね合ってる。そして、これを喜々として親父が詩織に読んでたことを思い出してしまった・・・」
 この絵本は、実家で妹が小さい頃に父が熱心に、いや、しつこいくらい読み聞かせていた。
 しかも、途中からはチビウサギを娘に演じさせ、己はデカウサギになってやに下がっていたという情けない場面まで思い出す。
「あの、最後のチューがやりたいというか何というか・・・。親父的にはな」
「それ、いつまで続いたんですか?」
「小学・・・、一年か二年くらいかな。知恵が付いたのか、飽きたのか・・・。さりげなーく回避されて、それでもやろうとしたら、とうとう蹴りを入れられてそれっきり・・・」
「それは、残念でしたね・・・」
「いや、あれは親父が悪いんだよ。あまりにもミエミエで」
 詩織の女王気質は、そのあたりからめきめきと進化していった。
「まさか、あの拓郎様にそんな一面があろうとは・・・」
 片桐の父である拓郎は長田家令嬢に一目惚れして口説き落とし、更には妻にするために一族と闘った男で、実は長田家子飼いの者たちの中には彼に尊敬の念を密かに抱くものも多く、篠原もその一人だ。
「それにしても、・・・使える」
 ごくりと生唾を飲み込んでブツブツ呟いた。
 が。
 彼の邪な計画は次の会話でなぎ倒された。
「ところでこの本、美和ちゃんが自分で購入したわけじゃなさそうね」
「あ、わかります?」
「そりゃね。カラーが違うもの」
 橋口の指摘に、本間はうんうんと首を縦に振る。
「・・・そっか?」
 片桐達テーブルメンバーは密かに首をかしげた。
 白い面長だけど小さな顔に澄み切った瞳とやや癖のある長い髪は、まるでファンタジー映画の妖精族を見ているようだ。
 可愛らしいウサギと優しい色使いは、村木にこそ似合いそうなものだけど。
 そう思っていたところ、くすりと村木が笑ってダイニングメンバーを見上げた。
「・・・私に似合うと思ったからプレゼントしてくれたわけじゃないですよ?」
 ・・・読まれている。
「彼の中の私のイメージがそうだったと言うより、小道具として使いたかった節があります」
「あ、やっぱり、彼、なんだ」
 ぽん、と池山が手を叩く。
「大学の先輩です。彼氏、とカウントするには、あまりにも短いお付き合いだったのですが・・・」
「あ、もしかして」
「ようするに」
 本間と橋口がほぼ同時に口を挟む。
「その本、もらったから終了?」
 びしいっと、二人が指を指すと、こっくりと村木が肯く。
「はい、そうです」
「えええっ!!」
 男性陣が一斉にざわめく。
「なんで、なんで、なんで?すごく好きーってメッセージだよね?」
 池山が前のめりになって尋ねた。
 その食い下がりっぷりに、やや引きながら村木が答えた。
「・・・うまくは、言えないのですが、感覚の違い、でしょうか」
「感覚の、違い?」
「あるいは、まだ、そこまで気持ちが行っていなかったのよね?」
「相手が盛り上がりすぎると、こっちが逆にさーっと冷めちゃうって言うかあ」
 橋口と本間がまたもや口を挟んだ。
「ようするに」
「無理、って思っちゃったんだ~」
 サラウンドでありながらぴったりと息のあった二人の回答に、ますます男性達は目を丸くする。
「申し訳ないけど、彼との関係にそこまで入れ込んでなかったからでしょうか。気持ち悪いって思ってしまって、翌日からついつい避けてしまって、自然消滅って言うか・・・」
「自然消滅って言うか?」
「しばらくしたら、別の子が同じ本をもらったって、物凄く喜んでました」
 同じサークル内の出来事だが、その少女とは学部が違いとくに関わりがなかったため、村木が同じ本を受け取ったことを知らなかったらしい。
「・・・ああ」
「次、行ったのね・・・」
「おそらく、十日も経たなかったような気もするんですけどね・・・」
「まあ、お年頃だしな」
 命短し、恋せよ男~♪と、池山が妙な節回しをつけて歌う。
「でも、その子は嬉しかったんだ、この本」
「はい。大変喜んで、その後学内公認のカップルになりました」
「感覚の違いよね、まさに」
 橋口は物憂げにため息をついたが、本間は拳を固く握りしめ、鼻息を荒くする。
「私も、貰ったらだめ~。後ろ百メートルダッシュだね!!」
「ひ、百メートルダッシュ・・・」
 がっくりとひそかに肩を落とす男が一人。
 武士の情けで、片桐と中村は自然をそっと逸らした。
 

 そんな大混戦の会話が続く中、携帯電話の着信音が鳴った。
「あ、わり。俺」
 ひょこっと軽く頭を下げて池山が立ち上がる。
 勝手知ったるなんとやらでそのままダイニングを突っ切り、鳴りっぱなしの携帯電話を握ったまま足早に廊下に出て扉を閉じた。
「・・・あれ、江口さんだねぇ」
「ですね」
 着信音で聞き分けた本間たちがにんまりと笑う。
「江口さんも忙しいですね。私、まだ数えるくらいしかお会いしたことないです」
「そうだね。なんだか最近かなり便利に使われているというか・・・。都合のいい男と化しているというか・・・」
「いえ、江口さんの能力が仕事を呼んでしまうのでしょう?受付チームにまで噂が来てますし」
 橋口の勤める受付窓口はほとんど派遣への業務委託で、選りすぐりの美女を揃えていると言っても過言ではない。
「・・・ってことは、狙われているんだ、江口さん」
「そうね。もろもろの意味で美味しそうだと」
 一部の女性には狩りのためにあえて派遣で受付業務に就いたと公言している者もいる。
「ターゲット、ロックオン、ですね」
「ですねえ」
「どこまで逃げても、次が追ってくるってな感じ?まさにモテ地獄だねえ」
 のどかに女三人は茶をすする。
「・・・女って、ほんっと怖いな・・・」
 明後日を見ながらぼそりと片桐は漏らす。
 実際、ロックオンされて掴まった経験のある身としては、江口を他人事と思えない。
「でも、まあ・・・。江口さんは・・」
「まあな」
 中村が皆まで言わずとも、廊下から漏れ聞こえる声に肩をすくめる。
 気のせいか、池山の声が少し大きく聞こえ始めた。
「だがしかし・・・。それはそれで」
 と、そこで、ばん、と、廊下の扉が開いた。
「片桐、明日のNN銀行って、重要案件あったっけ?」
「んあ?いや、定例会だろ?新規契約も事前に詰め終わっていて揉める話もないから、さらっと確認するだけかな」
「じゃ、うちの課長一人でも大丈夫?」
 現在の池山の上司である営業課長は、生粋のお坊ちゃんでいささか頼りない。
「・・・あの課長の頭の中に、話がきちっと通っていればな」
 しかも、ちょっと、いやかなりぼんやりしている。
「それとハルちゃん。明後日の午前中のM証券のって、松田寄越せばカタが付くよな?」
 松田は池山の部下で、こちらも多少抜けているお調子者だが、営業の仕事もだいぶ板に付いてきた。
「ええまあ。こちらも今は安定してますし。追加作業が発生していますけど、双方想定内です」
「了解。なら、どっちもある程度マニュアルつくっときゃ大丈夫だな。というわけで、俺、今日は帰るわ。じゃあな」
 いきなり、片手を上げてにこやかに笑う池山の瞳の中に、揺るぎない何かが垣間見える。
「というわけでって・・・」
 先ほどまでののんべんだらりとしたオフモードから、急にてきぱきと仕事をさばくオンモードへ切り替わっていて、片桐だけでなく周囲も目を見開いた。
「ん。明日から明後日にかけて俺休むから。でもそっちにしわ寄せいかねえように細工すっから大丈夫。問題なし」
「もしもし?池山さん?」
「あ、でも、明後日、終業頃にはいったん顔を出すからよ。時々電波が届かねえかもしれないけど、ま、たまにはいいだろ、あいつらにやらせんのも」
 困惑の色を深める男性三人と対照的に、女性三人は色めき立つ。
「これはもしかして・・・」
「もしかして~」
「もしかしたりします?」
 頭を寄せ合いひそひそ話を交わす中、池山の妙にハリのある声が響く。
「そんじゃ、またな!!」
 そして、六人が取り残される。
 一転して静かになった室内は、脱力ムードが漂う。
「またな・・・って。マジか、池山・・・」
 がっくりと力なくテーブルに突っ伏した片桐に、今まで呆然としていた篠原が我に返る。
「・・・啓介さん、これはいったい・・・」
「さっきの電話で何があったかは知らんが、行くんだろ、台湾」
「は?」
 ますます意味がわからずぽかんと口を開けていると、ダイニングから立ってコーヒーを淹れ始めた本間が肩をすくめた。
「何がって、もちろん『どんなに好きだかあててごらん競争』じゃないの?池山さん、ものすごーい負けず嫌いだもん」
 負けず嫌いで済ませて良い話なのか。
 篠原は軽い頭痛を覚えて額を押さえる。
「さすがに月は無理ですが、台湾なら行って帰って来れますねえ」
 食器棚からコーヒー用のカップを取り出しながら、橋口も肯く。
「・・・足が速くて軽ければ、行って帰ってこれるとも?」
 回収した食器類を洗い始めた村木が首をかしげた。
「あ、バビロンまで何マイルね。そうそう。そんな感じ」
「・・・比喩じゃなくても、池山さんならろうそくが消える前に行って帰ってこられそうですね・・・」
「そこが、池山さんの凄いところね」
「ついでに契約まで取ってきそうな気がします」
 それは、片桐達も同感である。
「さ、コーヒー飲んだらお開きにしようか」
 そう言って、小さめのカップに次々とコーヒーを注いだ。


「で、お前はこの後どうするんだ?」
 橋口と村木はもう少し本間に話があると言って残った。
 二人は現在、それこそ歩いて帰れる距離のマンションにそれぞれ入居しているため、よく行き来しているらしい。
 中村は池山に言い忘れたことがあったと一足先に部屋を後にしている。
 見送りがてらにエレベーターを待ちながらふと疑問を口にした。
「・・・お前、まさかこの後仕事か?」
「そうです。明日は軽井沢でちょっとしたパーティがあるので」
 ちょっとした、という表現は建前で、庶民の感覚で計り知れない規模と豪華さが篠原の仕える長田家の恐ろしいところである。
「ある程度準備は終えていますから、お気になさらず。今から現地に向かいます」
 既に時刻は夜十一時になろうとしている。
 もう夜中なので車の動きはスムーズだろうが、二時間半ほどかかるだろう。
「篠原・・・。お前なあ」
「わかってます。でも仕方ないじゃないですか。ものすごく綺麗な桜桃だったんですから」
「・・・は?」
 富貴子夫人の供で回った先で出会った果物は、勧められて義理で口にしたところ、驚くほど美味かった。
「食べさせたい、食べているところを見たい、ついでに笑って欲しいなと思うのは、いけないことですか?」
 三時間。
 彼女の顔を見るためだけに時間を割いた。
 骨の髄まで長田家のものと定めて生きてきた篠原にとって、それはかつてない行動だった。
「いや・・・。それは」
 悪いことではない。
 むしろ、歓迎すべきことだろう。
「でもなあ・・・」
「啓介さん」
 篠原が言葉を遮った。
「今まで何度言っても本気にとられていないようですが、私の好みのど真ん中は、啓介さん、貴方ですよ」
「・・・は?」
「子供の頃はそうでもなかったですが、大学に入った頃から随分好みの身体になってきて、美味そうだなあと、会う度思ったものです」
「はああ?」
「そもそも私はゲイに重きを置くバイセクシャルです。寝て楽しいのは男ですね。解りやすく征服欲を満たしてくれますから。更に身分がはっきり上だと俄然燃えますね。だから、貴方の尻を見る度に、なんとか機会を作れないものかと本気で考えた事もありますよ?」
「お前なあ・・・。本人を前にそこまで言うか?」
「言いますよ、この際ですから」
 するりと形の良い指先が伸びてくる。
 顎を掴まれ、鼻と鼻が触れ合いそうな距離にまで顔を寄せられるが、あえて動かずに見つめかえした。
「あなたを屈服させて、快楽の限りを教え込んで溺れさせたら、どうなるかと、想像するだけでも楽しかった」
 黒く、濡れたような瞳が瞬き、あたりを闇で覆い尽くす。
「・・・そりゃまた、ずいぶんネタにしてくれたもんだな」
「ええ。頭の中であなたをどうこうしようと、それは私の自由ですから」
 しかし彼が欲望を口にすればするほど、なぜか余計に遠く離れているような気がした。
「まあ・・・。確かに」
 背後でひくっと息をのむ気配がする。
 おそらく、戻ってきた中村春彦だろう。
「命拾いしましたね、啓介さん」
 ちらりと、流し目を片桐の背後に送って艶然と微笑む。
「今は、あなたの何処を見ても食指が沸きません」
 久々に見る、魔物めいた、壮絶なまでの美しい笑み。
「そもそも、啓介さんの笑顔を見たいなんて思ったこと、一度もありませんでしたし」
 喉元に爪をかけていたのをすっと引くように、指先が離れる。
「つまりは、そういうことなのでしょうね」
 くるりと優雅な身のこなしで背を向け、壁のボタンを押して既に到着していたエレベーターのボタンを押す。
「おやすみなさい、良い夢を」
 夜の匂いを色濃く残して、彼は去っていった。


 階段を上り、廊下を歩く間、二人は無言だった。
 と、いうより、春彦のこわばった横顔に、どう話しかけて良いのか解らなかった。
 部屋の前へ辿り着くと先に歩いていた春彦がポケットから鍵を取り出して解錠し、振り返ることなくするりと中に入っていく。
 一つため息をついてから片桐が閉じかけたドアに手を掛けて一歩踏み込むと、いきなり腕を掴まれた。
「・・・!」
 気が付いたら玄関の壁に背中を叩きつけるように押しつけられていた。
 春彦の、弾んだ息が、首元をくすぐる。 
「ハル・・・?」
 両手で頬を挟まれ、頭を抱え込むように引き寄せられた。
「ん・・・っ」
 熱い唇が、片桐のそれをふさぐ。
 下唇に軽く歯を立てられて口を緩めると、するりと舌が入ってきた。
 いつになく性急な求め方に、片桐自身も煽られて応える。
 背中に手を回して強く抱きしめると、熱い身体がしなった。
「んっ、んっ・・・。啓介さん、けいすけさん・・・」
 全身で求められ、靴を脱ぐいとまもない。
 唇から漏れる吐息と水音が、しんと静まった玄関に響く。
 そして、春彦の指先がのど元に降りて、シャツのボタンにかかる。
 二人とも仕事帰りに本間の元へ立ち寄ったので、Yシャツにスラックスのままだ。
 唇を合わせたまま、懸命にボタンを外そうと試みているようだが、ボタンホールが固くて簡単に外せない。
「・・・ハル?」
 背中を緩く撫でてあやすが、焦れた春彦が力任せに襟元を開いた。
「ん・・・っ」
 びっと裂けるような音とともに、小さな物が廊下にあたって転がっていく音も聞こえた。
「・・・あ」
 シャツに手を掛けたまま、春彦が呆然と固まる。
「・・・ごめんなさい、おれ・・・」
 一転して青ざめたその顔は、まるで憑き物が落ちたかのようだ。
「大丈夫。気にするな」
 つむじに唇を落とすと、そのまま額を肩に押し当ててうなだれる。

「時々・・・。篠原さんが、気になって・・・」
「うん」
 首筋を優しく愛撫しながらこめかみに唇を押し当てる。
「家の繋がりとか、色々事情があってのことなのはわかっているんだけど、どうしても・・・」
「そりゃ、あんな台詞吐かれている最中に遭遇したら、誰でもびっくりするよな」
 額に音を立ててキスをすると、おずおずと顔を上げてきた。
「・・・びっくりして・・・」
「うん」
「少ししたら、ものすごく、腹が立って・・・」
「うん」
「なんで、なんで、そんなに簡単に触らせるのかって・・・」
「そうだよな、ごめん」
 すんなりとした鼻筋に唇をゆっくり這わせると、ぷるりと睫が震えた。
「もう、あんなことはないから」
「・・・」
「ハル。本当にない。あいつも食指がわかないって言っただろ」
「それでも・・・」

 不安になる。
 あの、薄闇の帳の向こうにあった二つの影が頭から離れない。

 つきんと感じた胸の痛みをそのままに、春彦は握り締めた男のシャツに伝える。
「ハル」
 屈んできた片桐と鼻と鼻を軽く擦り合わせた後、唇をちゅっと吸われた。
「好きだ」
 また、唇を吸われる。
「お前だけ、好きだ」
 瞼を閉じて、唇を、舌を、吐息を感じる。
「誰よりも、言葉に出来ないくらい、すきだ」
 両腕を伸ばして首に縋った。
 合わさった胸が、暖かい。
 抱きしめられて、夢見心地になる。
「・・・月に・・・」
「うん?」
「月まで行って、帰ってくるくらい?」
 ふっと、合わせていた唇がほころんだのを感じた。
「覚えてたのか・・・」

 どんなに、
 どんなに。
 きみが好きだと・・・。

「そうだな・・・」
 深く、唇を求められて、求め返す。
「でも俺は・・・」
 甘い、かすかな囁き。
 互いの身体の熱が、上がっていく。
「お前を、優しく寝かしつけるだけだなんて、まず無理だ」
 唇で、心を分かち合う。
「お前が、欲しいよ」

 
 どんなに、
 どれだけ、
 君を好きだろう。

 指先で、唇で、語る。

-完-


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