『エレベーター。』



「前から気になっていたんですが・・・」
 エレベーターの中の扉が閉まった途端、篠原は控えめな声で尋ねた。
「これ、なんですか・・・」
 彼の視線の先にはエレベーター側面の掲示物があった。

『居住者の皆さんへ
共用スペースでは、理性を保ちましょう。
キスは玄関で済ませること(笑)。
家主拝。』

「ああ・・・。それ・・・はだな」
 同乗している片桐は返答に窮した。
 この張り紙は、片桐の引越しの直前に貼られたもので、前にエレベーターで同乗した宅配業者はこれを見た瞬間、気の毒なことに息を止めていた。
 あまりのいたたまれなさに、片桐はデリバリーを絶対頼まないと心に誓った。
 そもそも何故、こんなものが貼ってあるのか。
 それは、オーナーの悪戯心のなせる技である。
「あ、それ、俺のせいかな?いや、多分俺のせい」
 そこへ呑気な池山の声が割り込んだ。
「やっぱりお前か」
「もし俺じゃなかったら、お前じゃね?」
「なんで俺だよ、俺はやってねーよ。俺はアンタと違って毎日節度ある行動してるよ!」
「あ、なにそれ。俺様だって節度の塊だもん」
「このウソツキめ。本能の塊のくせに」
「あ、ひどい。お前、明日から絶交な」
「いつのガキかアンタは!そもそもなんで明日からなんだよ、今だろ?」
「だって、今から晩メシなのに、絶交したら食えないじゃん!」
「食うな!」
「食う!」
「・・・あの・・・」
「んあ?何だよ」
「どした?秘書さん」
 大人げなくつかみ合った二人が振り向くと、篠原があきれ顔でドアを眺めている。
「・・・とっくの昔に着いています。降りないんですか?」
 随分前に到着していたらしく、ドアはぴたりと閉まったまま、エレベーターは7階で停止したままだった。
「・・・降りる」
 ビジネスバッグの肩紐をかけ直し、ぼそりと片桐は答えてボタンを押す。
 軽快なチャイム音とともに扉が開いた。
「・・・どの辺で着いたの?」
 先に降りながら池山は肩越しに振り返り、篠原の完璧に近いシンメトリーの瞳を覗き込む。
「・・・節度の塊のあたりでしょうか・・・」
 ぽり、と池山は頬をかく。
「ま、腹が空いていたってことで」
「はい」

「どーぞ。散らかってるけどな」
 7階の、2LDKの部屋へ二人を招き入れる。
 そもそも、ここの家主は江口だが、海外出張中で戻ってくるのは来週の予定だ。
「お邪魔します」
 多分、篠原をこの部屋に上げるのを江口は嫌がるだろうが、もう一つの自分の1LDKだともっと揉めそうな気がして、緩衝材として片桐を連れ込んだ。
 ようは、ここで揉めて片桐に帰られて二人きりになるのも困る。
 でも、独りの夜はつまらない。
 池山の中で小さな打算が積み重なっていく。
「・・・まったく。俺は呑むからな」 
ぶつぶつ文句をたれながらも、片桐はソファに腰を下ろした。
「そういや篠原、お前、この後どうすんの?」
 池山の呼び出しに応じて、篠原は素直に車で迎えに来た。
 夜の八時に和食をテイクアウトして途中でビールも買い込み、近くのコインパーキングに車を停め、今に至る。
「もちろん帰りますよ。早朝の便でニューヨークですから」
 さらりと答えて、ノンアルコールのビールを取り出した。
「・・・仕事はいいのかよ。なんか俺、しょっちゅうお前と会ってる気がするんだけど」
「気のせいです」
 篠原の即答に言い返そう口を開いた瞬間、着信音が割って入った。
「あ・・・」
 片桐は振り向きソファの背にかけていたスーツのポケットから携帯電話を取り出して、すぐに耳に当てた。
「・・・どうした、ハル?」
 がらりと声色が変わったことに、篠原は目を見開く。
「・・・うん。うん。わかった。・・・うん、待ってるから。じゃあな」
 短い会話だが、低く囁くようなそれに隠しようのない甘さがあることに気が付かないのは本人だけだ。
「ハルちゃん、何だって?」
「柚木チームとの仕事が今終わったって。みんなで軽く一杯やってから帰るってさ」
「ふうん。なら、あと三時間くらいかかるかな」
 ハル。
 篠原の頭の中を啓介に関する情報が光速の勢いで走る。
 はるひこ。
 関連会社所属でそんな名前の同僚がいたはずだ。
 そして、その人物の容姿と背景は・・・。
「だからさ、篠原」
 携帯を操作しながら振り向く片桐の物言いはぞんざいなものに戻る。
 それをにやにやしながら見守る池山と、口と目をぽかんと開けた篠原に、眉を寄せた。
「・・・なんだよ」
「・・・啓介さん」
 わなわなと口を震わせていたが、深呼吸を一つついて切り出す。
「・・・まさかと思いますが・・・。ついこの間、あれだけ大騒ぎになったにも関わらず、あなた・・・」
「まさか・・・な」
 たちこめてきた暗雲に、片桐は天を仰いだ。
「あ、なんだ。秘書さん、気が付いてなかったの?意外だなあ」
 けろりとした池山の突っ込みは油を注いだようで、いきなり燃え上がる。
「あなた、馬鹿でしょう!!ナニ考えてんですか、今度は真神春彦に手を出すなんて!!」
 ばん、と、ローテーブルを叩いて詰め寄った。
「・・・まがみ?」
 背後で池山が首をかしげるが知ったことではない。
「私の誘いには全く乗らなかったくせに、今更、男に趣旨変えって、ひどいじゃないですか!!しかも相手は真神の息子って!!」
 頭を抱える篠原は発狂せんばかりだ。
「え?なに?秘書さん、なっちゃんの前は片桐だったの?」
「違う。あれは単なるイジメだ」
「あれって、なによ、あれって~」
「うるさい。とりあえずお前は黙ってろ」
 目をらんらんと輝かせて片桐の背中に飛びついた池山の額を片手で掴んで、押し返す。
「けち」
 唇を尖らせて、池山はキッチンへ退去する。
 やかんを取り出してコンロに掛けたり、食器棚から皿を取り出す音を聞きながら片桐は息をついた。
「・・・ハルが真神だって、気づいてたんだ」
 床に正座して、背筋を伸ばした篠原が真っ直ぐ見上げる。
「そりゃ、あれだけ清乃様に生き写しですからね。気が付かない方がどうかしています」
「なら、話は早い。俺達、付き合ってるから」
「引越ししたのも、そういうことですか?」
「ああ、そういうことだ」
 しばらくにらみ合った後、篠原が視線を落とした。
「・・・これから、ますますややこしいことになりそうですね」
「そうだな。だけど、ばあさまあたりは気付いてるんじゃないか?俺はそれもあって最近こっちに良く来るんだと思ってたよ」
「いえ・・・。富貴子様は何も」
「そうか」
 だがしかし、いつまでも隠し通せるものではない。
 年季が入っている分、祖母の老獪さは化け物の域であることを片桐は常に肌身に感じてきた。
 何も言われないから気づいていないとは限らない。
 彼女はいずれ動く。
 その前に、なんとしてもカタを付けたいとは思っていた。
「今はまだ中村の親父さんの容態が不安定だから、それが落ち着き次第、勇仁さんにも話を通すから。長田にはその後だ」
「それまでは黙っていろと?」
「そうだ。・・・いや、頼む」
「しかたないですね・・・。こっちもうつつを抜かして失態を犯してますし・・・」
 プライベートと仕事を切り離しているとはいえ、全く気が付かなかった。
 思いも寄らなかったと言うより、見えてなかったのだ。
「反省会終わったところで、いい加減食わねえか?」
 絶妙のタイミングでの池山の介入に、二人はかすかに笑った。


「そういや、あの張り紙、なんでお前のせいなわけ?」
 電子レンジで温め直した揚げ出し豆腐を箸で切り分けながら尋ねた。
「んー。ロッテンマイヤーさんが激怒したから」
「ロッテンマイヤー?ここ、外国人が居住してたっけ?」
 引越ししてからまだ日も浅いので、片桐はこの居住区の雰囲気を把握していない。
 ただ、全員オーナーの森本絡みであることは聞いている。
 そして、あのようなふざけた張り紙が出来るのも、子供が一人も住んでいないからなのだと推測していた。
「いるじゃん、二階とかに短期在住のペクさんとか、ヤンさんとか、ワンさんとか・・・じゃなくて、見た目がロッテンマイヤーさんな人。ほら、アルプスの少女ハイジの・・・」
「ああ、あの、執事か」
「いや、あの人はセバスチャンさん。そっちじゃなくて家庭教師の、眼鏡掛けて、こーんな目をした神経質そうな女の人だよ」
「なんとなくわかりますから、わざわざ顔を作ってくれなくて良いですよ・・・」
 アニメを実際に見たことがなくとも、画像はだれもが目にしたことがある。
「いや、マジで3Dかよって言いたくなるくらい似てる・・・つうか、そのものなんだって!」
 池山の百面相に、篠原は横を向いて笑いをこらえる。
「そんな人、いたっけ?」
 片桐が首をひねる。
 ここはある意味、気心の知れた友人ばかり集めたシェアハウスのようなものだ。
 その、神経質そうな人、というのは相容れない気がした。
「いたんだよ、この階の3LDKに。なんか森本さんの親戚らしいんだけどさあ・・・」
「で、何があったんだ?」
「何って・・・ナニですよ・・・、旦那」
 はああーっと、悩ましげに池山がため息をつく。
「先月だったっけなあ。あの日の朝、江口の国際線に合わせて早めに出勤することになったわけよ」

 会社の方針転換で海外進出したもののトラブル続きで技術面のフォローなどに江口と立石たちを向かわせたところ、予想以上の成果が上がったため、味をしめた上層部が何かと彼らを出動させるようになってしまった。
 そのせいで、離ればなれの日々が続く。
 まだ出張扱いで転勤になっていないだけましだが、辛いものがある。
 およそ三年、ほぼ同棲してきたようなものだ。
 それががらりと変わったことに、心も身体もついていかない。
 反動で、この部屋で一緒になれば当然濃密な時間を過ごすことになる。

 問題の日も、直前まで離れがたくて絡み合った末に時間が迫り、朝食も摂らずに家を出てエレベーターに駆け込んだ。
 しかしドアがゆっくり閉まるのを目で追いながらふと見上げたら、江口と目が合ってしまった。
「・・・耕」
 名を呼んだのが先だったか、首に腕を回したのが先立ったか。 
 気が付いたら、抱き寄せられて、唇を合わせていた。
「ん・・・。んん・・・、こ・・・う」
 角度を何度も変えて、互いを貪った。
 痛みを感じるほど背中を抱きしめられて、肺から酸素が抜けてしまうかと思った。
鼻と鼻をこすり合わせて、
額をぶつけ合って、
つま先がほとんど床に着かない程抱え上げられて、
太い首に縋る。
「和基さん・・・」
江口の荒い息づかいを感じて、唇が、火にあぶられているように熱い。
舌も絡め合って、唾液が顎を伝っていくのを感じた。
「・・・ん、コウ・・・」
このまま、また溶けてしまいたいと思ったその時。
チン、と無粋な音がして、扉がスライドする気配とともにひんやりとした空気が入ってきた。
そして。
「・・・な、なにやってるんですか、あなたたち・・・!」
 耳障りな声色に、二人は抱き合ったまま振り向いた。
 そこには顔を真っ赤にして打ち震える、四十がらみの女性が立っていた。
 髪の毛一本乱れなく、ぴしりと夜会巻に結われた頭に、冷たそうなメタルフレームの眼鏡、そして高級そうだが地味な紺色のスーツ。
「・・・ろってん、まいやーさん?」
 池山の、無意識の一言がさらに彼女の沸点を上げたことは言うまでもない。

「その後のことは、思い出したくもない・・・っていうか、覚えてないな、恐ろしくて」
 喚きたてる鬼女に国際線のチケットを見せてまで江口には時間のないことを説明して彼だけは外に出し、早朝から森本をたたき起こして三者面談という羽目になった。
「驚いたことに、彼女、アレで三十そこそこだって言うんだ、詐欺だろ・・・!」
「・・・そこは、苦悩する所じゃないと思います」
 篠原の冷静な突っ込みに、片桐が吹き出す。
「いや、マジでガチガチのがっちがちで、前世紀すぎる女だったんだよ」
「で、森本さん、どこにいたんだ?」
 彼の所有するマンションはこの近所にもいくつか有り、それぞれ一角に自室を設けているだけに、神出鬼没だ。
「ここの八階。まるで示し合わせたようにな」
「と、いうと?」
「あの女、親族が差し向けた刺客で・・・」
「おいおい」
「いや、マジ。森本さんの許嫁だって言い張って、これがまた」
「ああ・・・。押しかけ女房的な?」
「そうそう、熨斗つけられても結構です、的な」
 もう、そのネタは聞き飽きたと言わんばかりに、篠原が頬杖をついた。
 つい先頃、似たような騒動を片桐中心に起こしたばかりだ。
「・・・森本さんの、資産ってどのくらいなんだ、実際」
「見当つかねえなあ~。欲は全くないくせに、もうけの嗅覚は強いときてる。ピンポイントで投資しても常に全部大当たりなんだから、相当な額だろ。天性の山師だよな、あの人」
「しかも、独身ですからね・・・。今まで、色々な女性を差し向けてますね、親族の方々」
「秘書さん、調べたんだ」
「ええ。それが仕事ですから」
 篠原の言う「それ」が何のことを指しているのか、恐ろしくて聞く気にもなれない。
「今回のコンセプトは『秘書兼妻』だったようですね。財産管理系に長けていたみたいです」
 端末を軽く叩いて画面を見せた。
「この方でしょう?」
「ああ、それそれ、な、ロッテンマイヤーさんだろう?」
「コスプレかと言いたくなるくらい、ロッテンマイヤーだな。周りは指摘したことなかったのか?」
「・・・怖くて言えないんじゃないですか。こういう方の場合」
「たしかに」
 乾いた笑いが三人の間で広がる。
「で、どうやって撃退したんだ?ちょっとやそっとじゃ引き下がらないだろ」
「うん。ついでに、俺たちみたいな変態がいると森本さんが汚れるとかふさわしくないとかって、そりゃもうたいした騒ぎで・・・」
「森本さんは?」
「へらへら笑ってた」
「ああ・・・。そんな感じだな」
「で、そこに奥の部屋から女の子達がどやどや出てきて」
「女の子?」
「横浜の多国籍ガールズバーの従業員達が泊まっていた・・・と言うか、寮にしてたんだな、多分」
「それは、気が付かなかったな・・・」
「私も存じませんでした・・・」
「足と胸むき出しでぴちぴちの肌したかわいこちゃんたちが片言で『モリモト、ドシタ?』『ナンカ、コマッタノ?』なんてさえずってハグしてくるから、ロッテンマイヤーさんも泡を吹かんばかりだったよ」
「汚れるも、くそもないよな・・・」
「意外と身内だと気が付かないのかもしれないな、財産抜きでもかなりもてるのに」
「そうなんですか?」
「そうだとも。ブラックホールかってくらいに、森本さんに吸い寄せられていくんだよな、恐ろしいことに、・・・」
 老若男女問わないモテ男ぶりなのだ。
 何度か一緒に飲みに行った片桐と池山は、森本の神業を目撃している。
 彼は、見た目でいうならば中肉中背のごくごく普通の男だ。
 ひょこひょこした動きと、常に浮かべた薄笑いは軽薄にすら見える。
 むしろその軽すぎる空気が、女性の警戒を解き、するりと心を掴んでいるのだ。
「まあ、そんな男に太刀打ちできるわけないよな・・・」
 結局彼女は足音も激しく退場し、ついでにマンションからも速攻で去っていった。
 森本はといえば最初から最後までにやにやと笑い、状況を楽しんでいるのは明らかだった。
「それで、あの張り紙」
「そ。シャレというか、嫌がらせというか・・・」
「シャレと言うにはたちが悪いよな・・・。むしろ魔除け?」
「まあ、家賃は相場の半額以下だから、多少森本さんの玩具になるのは仕方ないよなあ」
 このマンションは立地条件、内装ともに破格の快適さだ。
 よそに引っ越すなどとはもはや考えられない。
「そういうもんか?」
「そういうもんだと思うしかないじゃん・・・」
 テーブルに突っ伏してよよと泣き崩れる。
 しかし立ち直りの早い池山はすぐに顔を上げて、にたりと笑った。
「で、片桐はほんっとーにやってないの?」
「は?」
「キス」
 んーっと唇を尖らせて差し出してきたのを、びたんと、はたき落とした。
「誰がやるか、馬鹿たれが」
「あ。ひどい」


 食事と雑談を終えた二人が池山の部屋を辞してマンションのエントランスまで降りたところ、丁度中村がセキュリティドアを解錠して入ってきた。
「あ・・・。こんばんは、篠原さん」
 ふわりと柔らかな笑みを浮かべる春彦の顔をじっと凝視した後、篠原は深々とため息をついた。
「・・・これも何かの因縁なのでしょうね」
「・・・え?」
 春彦は首をかしげて瞬きをする。
「・・・篠原」
 片桐の固い声が割って入り、その警戒ぶりに思わず笑いがこぼれた。
「先日、憲二様にお会いしましたよ。相変わらず美しくて、面白い方ですね」
「え・・・。憲にいさんとお知り合いなんですか?」
 春彦の叔父の憲二は家を継がなかったが、その頭脳と美貌は知る人ぞ知る、真神家の宝玉だ。
「ええ。私が高校生の頃に知り合って以来、懇意にさせて頂いた時期もありました」
「しのはら」
 背後で息をのむ気配を感じ、少し溜飲を下げた心地がした。
「あなたを見たとき、最初は清乃様に生き写しだと思ったけれど、やはり憲二様に通じるところがありますね」
「篠原さん・・・」
 戸惑いを隠せない春彦に言葉の魔法をいくつもかけて、芝居がかった仕草で頭を下げる。
「おやすみなさい、よい夜を」
 寄り添う二人を残して、夜の世界へ踏み出した。
 こうこうとした月明かりが、あたりを照らす。
「・・・ほんとうに、良い夜で」
 少しの悪戯くらい、許されそうな、夜。


「・・・なんか、めっちゃ謎かけしてくれたけど、アレ、気にしなくていいからな」
 ふいに肩を抱き寄られて、春彦は我に返った。
「え・・・?ええと」
「アイツも色々家庭の事情があってじいさまの秘書になったから、こじらせてる部分があるんだよ」
 まったく、しょうがねえなあと軽く一笑に付してしまうところに、春彦は同じように笑い返せなくて、思わず顔を伏せた。
「ハル?」
 それが片桐らしいおおらかさで、懐の深いところなのだと思う一方で、些細なことにもその付き合いの長さと関わりの深さを見せつけられているような気がして、ざわざわと胸がざわめく。
「けいすけ、さん・・・」
 これは嫉妬だ。
 彼と親しげな誰もが、時々憎くなってしまう。
 胸元をきゅっと握ると、その上を大きな手がゆっくりとさすってきた。
「なんか、ごめんな・・・」
 唇が、落ちてくる。
「・・・謝らないで、下さい。理由がわからないくせに・・・」
 これは、八つ当たりだ。
 ままならない心を持て余す自分が、心底いやになる。
 だけど、そんなぐちゃぐちゃな全てを、彼の吐息が押し流す。
「うん・・・」
 ほんの唇の先をふれさせただけで。
 満たされていく。
 彼の、綺麗で、暖かくて、優しい色が溶け込んでくる。
「ん・・・」
 ゆっくりと触れ合って、吐息を交わす。
『おやすみなさい、よい夜を』
 ようやく、素直に返す事が出来る。
「おやすみなさい、良い、夜を」
 綺麗な月ですね、と。


「・・・で、君たちは日本語わからないんだったっけ?」
 明らかに面白がっている声が割り込んで、我に返った。
 唇を解いて顔を上げると、エレベーターの前ににやにやと笑っている男が立っていた。
「あ」
 春彦を抱き寄せたまま、片桐は嫌そうな声を上げた。
「張り紙はエレベーターの中にしたけどさあ。共用部分だよ、このホールももちろんね」
 つぶらな瞳をぱちぱちさせて、平然と近くまで歩み寄る。
「・・・あんたもたいがい無粋な人だな、森本さん」
 春彦の知らぬ間にずいぶんと仲が良くなったらしく、年上の森本に片桐はぞんざいな口をきいた。
「どうして家の中で済ませてこないの、君たちは」
「今から家に帰るところなんだよ。済ませるもくそもあるか」
「じゃあ、家に着くまで我慢してよ~。さびしい独り身には目に毒過ぎて、今夜は眠れないなあ・・・というわけで、慰謝料」
 ひょいと両手を出して、首をかしげる。
「ああ?」
「獺祭、啓介君のところにもあるって、耳寄りな情報仕入れちゃった。あれ、幻というより魔境の日本酒だよね」
「・・・池山が売ったんだろ、その情報・・・」
 そもそもは山口出身の江口からのお裾分けで、自宅在庫をとっくに飲み干した彼が告げ口したに違いなかった。
「最近ね。ペナルティーつけるしかないなーって思っていたんだ。君たちがあんまりやりたい放題だから」
「・・・俺たちは、今日が初めてだよ」
「あはは、そうなの?啓介君って意外とどんくさいんだねえ」
 軽くあしらわれて、片桐はぎりぎりと歯噛みする。
「・・・わかった。明日持っていくから今夜は勘弁してくれ」
「はいはい、承知しました。せっかくいい雰囲気になっているところをこれ以上かき回すのは俺の本意じゃないし」
 ひらひらと手を振りながら、森本は歩き出した。
「あ、そうそう啓介君」
「まだなにか?」
 つっけんどんな返事にも、森本はただただ笑うだけだ。
「好物ってね。大事にしまいすぎると、そのうちわかんなくなっちゃうものだよ?」
「・・・は?」
「んー、まあこれは、こっちの話かあ」
 少し言い過ぎたかな、と口元を細い指先で押さえてわずかに思案顔になったあと、また歩き出す。
「おやすみなさい、良い夜を」
「・・・おやすみなさい、森本さん」
 腕の中の春彦が、やわらかく返す。
「ああ、すごい月明かりだね」
 感嘆の声が、扉の向こうに押し出された。

 おやすみなさい、良い夜を。

「・・・帰るか」
 頬を寄せあい、小さく笑う。



 -おしまい-


→ 『楽園』シリーズ入り口へ戻る

→ 『過去作品入り口』へ戻る


inserted by FC2 system