女王陛下と俺-百年の、孤独-



 ふと、気になっていたことを口にした。
「誰か、これから来るのか?」
「んん?なんでそう思う?」
 正面に座って書類のチェックをかけていた池山が不思議そうに首をかしげる。
「気配・・・つうか・・・」
 岡本は目をすがめてぐるりと部屋の中を見回す。
 ここはマンション・プレシャスTの7階、2LDKのリビング。
 広いローテーブルに、ノートパソコン三台と書類を広げても余裕がある。
 そもそも引越ししたての部屋だから、綺麗なのは当たり前なのだが・・・。
「まず、いつもより妙に片付いている。次に、なぜかグラスを四つ、そこに用意してる。最後に江口が妙に緊張している」
 先ほどからこの部屋の新しい主であるはずの江口は集中力を欠き、やたらと立ったり座ったりしている。
 今は土曜日の夜。
 金曜日に仕上げ損なった仕事を、午後から江口の部屋に集合して池山と三人でやっつけている最中だ。
 とりあえず晩ご飯は出前を取り、ビールを飲みながら続きをやっていたが、なぜかここにきて江口がつまみや果物の用意など始めている。
「ああ・・・。そういえば、遅いな。どうしたんだろ」
「遅いですね、珍しく」
 仲良く顔を見合わせる二人に、話が見えない岡本は少しいらついた。
「だから、誰だよ」
「イク。・・・じゃなくて、ええと、長谷川」
 長谷川生。
 池山の元彼女の名前に、岡本の片眉が上がる。
「は?聞いてねえよ」
「うん。だって、来るって話になったの、今日だもん。あ、そうだ。さっき岡本がトイレに行ってる間?」
「疑問型で言うな。俺は当事者じゃねえんだから」
「そうだよな、用を足していたんだからな!!」
 何が受けたのか、ゲラゲラ笑い出す池山の頭を、丸めた書類でぽん、と叩く。
「で、何しに来るんだよ、あの女」
「ん、まず、俺と江口が情報処理系の本を貸してたから、その礼に希少酒持ってきてくれるってのが一つ、それと、じいさまの新刊が出たからサイン付のを頼んでたんだよな」
「じいさまってなんだ?」
「ああ、知らない?長谷川周だよ、あいつのおじいさん。ほら、俺の姉貴と保坂たちが鎌倉で茶の稽古してるだろ、父方の実家なんだよ」
「長谷川周って、大御所作家の?」
「うん、そうそう。今度、ヨーロッパ旅行記出したみたいでさ。発売前に貰ってきてくれたんだ」
「長谷川周なら、うちに長期滞在したことあったはず・・・。それこそ随筆にされたっておふくろたちが感激してたけど」
「あ、鹿児島滞在記って、あれ、岡本の実家だったんだ」
 岡本の実家は鹿児島で有数の老舗旅館を営んでいる。
「じゃ、その辺の話なんかして、たまには友好を深めたら?」
「友好もなんも、俺、どうもあの女は・・・」
 うまく言えないが、苦手である。
 ついつい「あの女」呼ばわりしてしまうくらい。
「まあまあ、そう言わずにさあ・・・」
 さらりと流して池山は携帯電話を取りだし操作する。
 呼び出し音がきこえるが、相手がなかなか出ない。
「おっかしーなあ・・・」
 首をかしげた池山が回線を切ろうとする直前、低い女性の声が聞こえた。
「・・・あ、長谷川?」
 池山の明るい話し声に、岡本はちらりとカウンターキッチンに立つ江口を見る。
 通話中の池山を見守る江口の顔に、少し複雑な色が浮かんでいるように見えるのは、自分の勝手な想像だろうか。
 池山と江口は、現在この部屋で半同棲中だ。
 営業という職業柄と着道楽でやや持ち物の多い池山は、自分名義の4階の1LDKをほぼクローゼット兼書庫代わりにしていて、たとえ江口が出張に出かけても7階で寝泊まりしているらしい。
 一分に満たない会話が終わり、通話を切った池山は満足げに報告してきた。
「もうすぐ来るってよ」
 酒、酒♪と楽しげに歌う池山に、江口が疑問を投げかけた。
「もうすぐって、エントランスにいるって事ですか?」
「いや、5階って・・・。あれ?5階って言えば」
 春先まで長谷川はこのマンションの5階に息子と住んでいた。
 だから、近所で親しかった人への挨拶に行ったのだと池山は解釈していたが・・・。
「・・・立石のとこか」
 今年の初めだっただろうか。
 オーナーの森本が徒歩15分くらいの土地にマンションを新築した。
 前々から話が付いていたのか、そのなかの分譲区域の一部を長谷川が買い取り、春先に引越しをした。
 それで空いた5階の3LDKに空き部屋待ちだった江口が入る予定だったのを、話を聞きつけた立石が滞在中のニューヨークから待ったを掛けて、結局強引に彼がそこへ転居、次に空いた7階の2LDKへ江口が入居という、ところてん式の顛末となった。
 いつもおおらかな立石にしては、珍しいごり押しだ。
 彼は、中学の頃に模試会場で見かけた長谷川に一目惚れして以来、それを今も引きずっている。
「・・・もしかして、取り込み中だったかな?」
 んー、と唇を尖らせて池山は思案顔になる。
 ここ最近誰からの目で見ても、立石の執着は度を超していた。
 いやな空気が流れかけたところでチャイムが鳴る。
「・・・あ、来た」
 すぐに腰を上げて池山は玄関へ向かう。
 扉が開き、二人が会話をしているのが漏れ聞こえたが、しばらくして静かになった。
 そして、池山一人が手に二つの袋を提げて戻ってきた。
「えっと、先にやってろって」
 書籍が入った袋を適当なところに置いた後、もう一つから複数の保存容器と酒をとりだした。
「・・・どうしたんですか?」
「うーん・・・。シャワー貸してくれって言うから、どうぞって。俺の服をついでに貸すけど良いよな?」
 了解を取られて、江口は困惑する。
「良いも悪いも・・・」
 男女の骨格の違いはあるが、長谷川の身長は池山とほぼ同じ。
 さらに10センチ以上高い江口は筋肉質な体格のぶん横幅もあり、それを着るよりかはましだろう。
間もなく、洗面所の方からシャワーの音が聞こえてきた。
「・・・お取り込み中、つうか、そのものだったみたいで、ちょっとあいつにしてはめずらしくボロボロで。・・・あのまんまじゃあ帰れないだろ」
「・・・どうなってんの、あいつら」
 正直なところ、知り合った当初から謎である。
「俺的には、あの女の都合の良いようにされてるとしか見えねえけど」
「んー。やっぱりそう思う?」
 へらりと笑われて、岡本の中で確固たる物になる。
「なんだよ、そうなんだろ?」
「さあねえ、どうなんだろなあ。俺の立場としては、中立にならざるを得ないって言うかさあ」
「・・・その持って回った言い方、なんなんだよ」
 と、そこへ江口が割って入った。
「池山さん、そのタッパー、どうしたんですか?」
「ああ、鱧の湯引きしたやつとか、なんか持ってきたんだってよ。さっきまで茶の稽古があったからその時のヤツって」
 開いてみると、綺麗に詰められた正方形の容器の中には、いかにも懐石料理らしい趣向が凝らしてあった。
「稽古で懐石?」
「ご苦労な話なんだけどさ。明日の早朝にやる茶事の用意とかなんとか・・・」
 朝茶か。
 ふと、頭をよぎる。
 夏の暑さを避けて、早朝六時頃から始める茶事をたいてい朝茶と呼ぶ。
「有希子たちと作ったって」
 何気なく出された名前にどきりとした。
「あんまり朝早いからあいつらは鎌倉に泊まってるらしいんだけど、長谷川は野暮用でいったんマンションに戻ったから、ついでにこっちにも来たんだけどさ・・・」
 そして。
 沈黙が落ちる。
「・・・やめやめ。とにかく、開けるぞ。耕、氷と水」
「はい」
 江口がキッチンへ戻っている間に、池山が箱を手に取り、しばし眺めたあと、満足げな微笑みを浮かべた。
「・・・なんだそれ」
「え?お前しらねえの?百年の孤独だよ、ひゃくねんのこどく!!」
「・・・ああ、そういやそんなのが宮崎に・・・」
 独特のデザインのパッケージを見て合点がいく。
「確かに、希少といえば希少だな・・・」
「だろ」
 江口がグラスの中に氷を入れると、池山がゆっくりと琥珀色の液体を静かに注いだ。
「焼酎、だよな、確かこれ」
「そうだけど、限りなくウィスキーだと俺は思う」
 勧められて一口含んでみると、とろりとした芳香が全身に広がった。


 ちびちびと麦焼酎を楽しんでいる所に、長身の影が差した。
「あ。先に飲んでるよ」
 グラスを揺すってのんびり池山が話しかけると、すとんとその場に腰を下ろす。
「カイは?一緒じゃなかったのか」
「ああ。今朝から学校主催のお泊まり会。明日の夕方まで帰ってこない」
「それで一人なんだ」
「まあな」
 まだ生乾きのつるりとした黒髪を、少し首を傾けて軽くタオルで叩く。
「ところで。・・・借りといてなんだが、お前、足短かったんだな」
 スリムなチノパンの上に白いカジュアルシャツを羽織っているが、二つばかり外したボタンの襟元から下に着ている濃い色のキャミソールがちらりと覗き、一番近い位置にいる岡本としては目のやり場に困った。
「借りといてそれはないだろ、長谷川。思っても口に出すか、フツー」
「じゃあ、小尻だけど短足?足の形はかなり良いけど、ちょっと残念?」
「・・・解ったからもう黙ってくれ。お前の方が長いことは今更なんだから」
 元は深い仲だったというのに、二人の会話には色気もへったくれもない。
「・・・ということは、今まで服の貸し借りをしたことなかったんですね」
 そこへいきなり江口が真剣な顔をして参戦し、長谷川は一瞬きょとんと目を見開き、そのあと、にやりと笑う。
「ああ・・・。そういえばそうだな・・・。貸したことも借りたこともないよ。今回は悪かったな。イレギュラーなんで見逃してくれ」
「耕・・・。そんなに俺のことスキ?」
 池山が甘酸っぱい顔をして胸を押さえると、
「スキです、もちろん」
 間髪おかずに、江口が大まじめに応える。
「頼むから、それの続きは俺が帰ってからにしてくれ・・・」
 今にも盛り上がりそうなカップルから、岡本は目を逸らした。
「そういや長谷川、あの状況のあとでよく俺んとこ来られたね?」
 切り替えの早い池山がこくりと喉を潤しながら訪ねた。
 隣で江口がまるでホステスのようにさりげなく長谷川の前に氷を入れたグラスを置く。
「ああ、それはな・・・」
 ざっくりと液体を注ぎ入れ、数回揺すったあとすぐさまそれを水のように飲み干した。
「深手を負わせたからな」
 そう語る顔にはなんの表情も浮かんでなく、たんたんとしたものだった。
「何をやったのよ。まさか玉蹴り?」
「やるか、そんな危険な技」
「だって、襲われたんだろ、さっき」
 遠慮のない池山の言葉に外野二人はぎょっとする。
 シャワーと着られない服。
その因果関係に生々しさを感じ、言葉が出ない。
「未遂だ。あくまでも。ギリギリ未遂」
 グラスを持った手の人差し指をびしっと立てて、長谷川は男たちを視線で制した。
「ギリギリ未遂って、なに、ものすごくきわどい表現なんだけど・・・」
「お前、細部まで言えというのか、この状況で」
「ものすごく興味があるけど、我慢する・・・」
 そのままびしっと額を長谷川にはじかれ、好奇心の塊は退却する。
「とにかく、未遂だ」
 空けてしまったグラスに、また琥珀の液体を注ぎ治す。
「あれの身体は強靱だから、私ごときの拳ではたいして響かないさ。だから切り札を切った」
「・・・で。なにやったんだ、あんた」
 胸の中に、どろりとしたものを感じつつ、岡本は尋ねた。
 身体的なボディーブローでないなら、なぜ、あの立石が追ってこない。
「・・・妊んだら、必ず産むと思うなと言った」
「・・・は?」
「子供ができたら、こっちのものだと言われたから」
 今まで長谷川が息子のカイを全力で愛してきたように、自分の子供を愛すだろうと。
 そして、子供たちには父親が必要になるだろうと。
 ふいに、池山の頭の中でとある言葉が蘇る。

『・・・一夜の過ちだとしても、もしもそれで子供が出来たなら、真面目な彼の事だもの、きっと私を選んでくれたわ』
 
 ・・・それを、立石自身が考えているとは、あの時はさすがに思わなかった。
「・・・なんだかなあ」
 どいつもこいつも不毛すぎる。

 池山が別の考えに囚われて沈黙すると、岡本はあっという間にヒートアップしていた。
「なんだよそれ。産んでとっとと結婚すりゃいいだろ。お前らの関係は不倫でもなんでもないんだから」
「そんなわけあるか。少なくとも私は愛のない子は産めないし、育てられない」
 髪をかき上げ、きっぱりと長谷川は断じた。
 愛のない子。
 立石の子供は愛せないと言ったも同然だ。
「それ・・・。マジであいつに言ったのか?」
「言ったさ。そんな甘い考えは捨てろと」
 冷たい笑みに、部屋が静まりかえった。
「もしも産んだとしても、子供の顔を見たら必ず何かの瞬間に思い出す。屈辱の中出来たのだと。その時、私はその子をどうするかわからない」
「それは、脅しかよ」
「脅しじゃないさ。事実だ」
 指先がグラスの縁をゆっくりと撫でる。
「母性なんて、なんにでも簡単に発動するもんじゃないだよ、生憎とな」
 言いたいことは、解る。
 だけど。
「あんた、最低だな」
 岡本は沸き上がり続ける怒りを抑えることが出来なかった。
「なにが」
「立石の気持ちを、どれだけ弄ぶ気だよ?」
 じっと静かに見返す長谷川の冷たさに、頭の中が真っ赤に染まった気がした。
「そこまで言うなら、俺達に関わりのないところへ行けよ。アンタがそばでうろうろしてるから立石も振り回されるんじゃないか」
「・・・これだから、苦労知らずのお坊ちゃんは困る」
「はあっ?」
「私の優先事項は開だ」
「だからなんだよ」
「息子を大学、もしくは院までやって、きちんと社会人になり、自分で生きていけるようになるまで、やらねばならないことと問題点がどれだけあるか知ってるか?」
「しるか。そんなこと」
 皆まで言わせない。
「ちょっと経験値が違うからって、悲劇のヒロインぶってんじゃねえよ、恥ずかしいヤツだな」
あくまでも己に有利な理論を展開しようとする目の前の女の口を、とにかくふさぎたかった。
「・・・」
「不幸自慢をするのも大概にしろ。自分と同じくらい不幸じゃないと、語ることも許さないってわけか?」
 出来ることなら、横っ面を張り飛ばしたいとさえ思った。
「あんたが勝手に十八で妊んで、勝手に産んで、勝手に育ててるんだろ?その間にどんな苦労があるかは、そりゃ未婚の俺らごときじゃ想像付かないさ。だからって言って良いことと悪いことがあるくらい、解れよ」
 立石は、長谷川が好きだ。
 ずっと、ずっと好きだと、言っていた。
 こんな、己の不運に嵌ってるくだらない女を、ずっと。
「シングルマザーがそんなに偉いのかよ。あんたに、立石をそれだけ傷つける権利が何処にある」
「・・・たしかに、ないな」
 どんなに罵られても、長谷川の表情は凪いだままだ。
 静かに、そして綺麗に、唇をゆるりと釣り上げた。
「なら、黙って大人しく抱かれるべきだったのか?先ほどの私は」
「・・・・!」
 無造作にグラスを掴んで、くいっと中を飲み干した。
 たん、とテーブルに軽く打ち付けて空のグラスを置き、ふっと身体が浮き上がったように見えた。
「お前の言うことは正しい」
 酒に湿された唇が、てらりと光る。
「・・・・っ」
 ひんやりと、冷たい唇が、岡本のそれに触れた。
「やっぱり、熱いんだな」
 かぐわしいとしか言いようのない、独特の香りが、口の中に広がる。


「・・・な、なに?なにした今?」
「なに・・・って」
 激しい目眩を感じた。
 と、そこで後頭部をしたたかに打つ。
「痛・・・っ」
「あ、すまん」
 謝罪が聞こえる。
 瞬きをしている間に、ずしりと臍の上に重しが乗った。
「おいおい、生ちゃんよう、なにする気かな、君は」
 ひゅーっと冷やかしの口笛が聞こえる。
「いけやまさん・・・」
 言い争いに夢中になっていたが、ここはもともと池山たちの部屋だ。
「なになに、俺達、席を外した方が良い?出て行った方が良いの?」
「いや、別に。すぐ終わるから」
 すぐ終わるって、何が?
 ずきずきと痛む後頭部に触れようとして、その両手首を捕らえられていることに今更気づく。
「おまえ・・・」
 長い髪が、さらりと落ちてきて顔の両側に黒い幕を下ろした。
「子供、作ろうか」
「・・・は?」
「え?マジ?」
 なぜか、喜々とした声で茶々が入る。
「お前の子なら、もう一人産んでも良い」
「はああ?」
 起き上がろうともがくが、なぜかほとんど身動きすら適わない。
「あ、あんた、ついさっき、カイを育てるのに色々やんなきゃいけないこととか、問題点とか言ったよな?」
「言ったさ。ただし、養育費については今のところ一人増えても問題はない。むしろあいつの情操教育のために弟妹がいたほうがいいかと思わなくもないところだったし」
「あ、森本さんとこのマンション、順調なんだ」
「ま、マンション?」
 とりあえず、首を倒して池山の方を見る。
 すると、膝を立てて頬杖をついた池山が呑気に酒を飲んでいる。
「だって、森本さんからあっちのマンションの半分と、あといくつかの不動産物件を買い上げて貸して、家賃収入けっこうあるよな?」
「ああ。おかげさまで順調だ」
「なんだそれ?」
「数年前に、アメリカで桁外れの収入があった。だが、私としてはその仕事に関してあまり良い思い出ではないから手放したいと森本さんに相談したら、とりあえず不動産に代えないかと言われた」
 顔が、近い。
 女の、黒々とした瞳に呑まれる。
「今、ここのことは全て内緒でいいさ。私は子供を貰う。お前はここで天国を見る。ウィンウィンだろ?」
「そこでウィンウィンとか言うな!!」
 わめいたところで、口をふさがれる。
「う・・・っ」
 冷たい唇、と、思ったのは一瞬で、熱い舌がするりと潜り込んでくる。
 他人の舌が入り、悠然と巡る。
 まるで、昔から知り尽くしているかのように。
 口の中で、アルコールを攪拌されているような錯覚に陥った。
 ぴちゃという音とともに離れ、ゆっくりと上唇とした唇を掠めたあと、ふっと息を吹きかけられる。
「・・・悪くない」
 囁かれて正気に戻ったが、既に遅く。
「うわ、ちょっと、何するんだアンタ!!」
 気が付いたら、一気にカーゴパンツを足から引き抜かれた。
 いつの間にかウエストを外され、チャックも下ろされていたらしい。
 片足だけ靴下という情けない格好、いや、ボクサーブリーフがきわどいところで止まった事に気が付き、とっさに自由になった左手で掴んでずりあげる。
「なにって、野暮だな、アンタも」
 しれっと嘯く長谷川は太ももの上に体重をかけ、起き上がらせない。
「岡本~。長谷川のテクニックは国際級だぜ?観念した方が早いって~」
「観念できるか!!」
 今更。
 本当に今更気が付いた。
 自分はずっと地雷原にいたのだと。
 そこで阿呆にもタップダンスをしたようなものだったのだと。
 そしてようやく悟ったのだ。
 立石を長年狂わせてきたものの核心に。
「大丈夫・・・」
 少し、湿り気の残る髪の毛が、岡本の耳から首筋をゆっくりと撫でる。
「・・・くっ」
 ただそれだけで。
 身体に眠る官能の全てを呼び覚まし、つま先まで駆け巡る。
 全身の毛穴から汗がうっすら浮かぶ。
「お前のこと、私は、結構好きだよ・・・」
 大概失礼な言葉だ。
 しかし、低い、深い声がねっとりと入り込み、まるで催眠術のように耳をとろけさせる。
 ゆっくりと身体を伸ばしてむき出しの足に、その長い足が絡めていく。
 男物の服で身を包んでいるにもかかわらず、覆い被さる長谷川は、女だった。
 あの、琥珀の液体のように深い色の肌から湿り気を帯びた艶と、市販のボディソープではない香りを立ち上らせ、静かにしなやかに身体をくねらせた。
 女の中の、女。
 すんなり通った鼻筋も、切れ長の瞼の中から見える真っ黒な瞳も、薄く引き締まった唇も、男性的な顔立ちだと思い込んでいた。
 自分よりずっと大柄で、言葉遣いも荒々しいので気が付かなかったが、今まで出会った誰よりも、強烈なほどの色香を放つ、女だったのだ。
 ファム・ファタル、もしくは傾城。
 そんな言葉が頭をよぎり、囚われているうちにTシャツの上から胸元に唇を落とされた。
「う・・・っ」
 軽く、羽が掠めるような接触。
 たった、それだけ。
 まるで、電気が走るようだ。
 頭に血が上り、呼吸が速くなる。
 流されてしまいそうになる自分を叱咤した。
「やめろ・・・。俺にその気はない」
「そうか?」
 意地悪く身体をこすり上げられ、息をのむ。
「デリバリーを呼んだと思えばいいじゃないか」
 唇が、間近に迫る。
 今度、唇が合ってしまったら、きっと正気を保てなくなる。
 岡本は力を振り絞った。
「やめろ・・・。俺は、本気で、好きな女以外と、する気は、無い」
 なんとか片腕で鎖骨を押して距離を保つ。
 情けないことにそれが精一杯の抵抗だった。
「好きな女?彼女ではなく?」
「彼女でなくても・・・。俺が、好きな人だ」
「まだ付き合っていないなら、別に良いじゃないか。操だてなくても」

 額が、降りてくる。
 この時初めて意外と睫が長いと気が付いた。
 黒い、濡れたような睫。
 ふと、茶色がかって優雅に弧を描く綺麗な睫を思い出した。
 大きな瞳と、陶器のように透明な肌。
 細い頤とバラ色の唇。
 彼女以外、欲しくない。
 だから。

「俺は、たとえ片思いだとしてもいつでも誠実でありたいんだ!!」

 鼻と鼻が触れる寸前に、動きが止まった。
「・・・ほう?」
 にいっと、眼を細められ、冷や汗が背中のくぼみを伝う。
「なるほど・・・」
 ゆっくりと、唇が、遠ざかる。
「それじゃあ、仕方ないか」
 全身から、重しがなくなる。
「・・・・」
 ようやく、肺の中に酸素が入った気がした。


「ほら、腰を上げて」
 またもやぼんやりしている間に、今度は脱げた靴下を履かせ、カーゴパンツも両足通され、ご丁寧に尻まで上げさせたあと、チャックゆっくり引き上げて最後にボタンを留めたあと、臍の上をぽん、と叩かれた。
「終了」
 最後にまるで犬にでもするかのように雑に頭を撫でられて我に返る。
「手早いなあ。さすが一児の母」
 テーブルの向こうでは、池山が煙草をふかしながらにやにや笑っており、その傍らでは江口が不自然にそっぽ向いていた。
 ・・・ようするに、この二人はずっとここにいたわけで。
「・・・普通、助けるか、退場するかじゃないのか、ここは」
「え?二人きりにして良かったの?」
「んなわけあるか。それよか、人の窮地を鑑賞してるお前の心根がわからねえよ」
「んん?だって、どうなるのかな~って、興味が・・・じゃなくて、心配だったから?」
「池山さん・・・」
 絶対、好奇心だけでここにとどまったに違いない。
 とりあえず、カラカラに渇いた喉を手近なところにあったミネラルウォーターを一気飲みすることで癒した。

「では、ここで耳寄りな情報を一つ」
 相変わらず、人を食ったような物言いに心乱される。
「・・・なんだよ」
 壁にもたれ、片膝を立てた楽な姿勢で焼酎を飲み直している長谷川は、先ほどの妖艶な空気を取り払い、いつものとり澄ました笑いを浮かべていた。
「有希子さんは今、史上最大のモテ期に取り憑かれている」
「・・・は?」
 聞き捨てならない話に、うっかり食いついてしまう。
「今までも充分もてていたが、ここまで過酷な状況はなかったと思う」
「・・・解りやすく言えよ」
「うちの祖母が上層部のとある茶事で、愛弟子はいまフリーだと漏らしてしまった。なので、現在、御曹司が三人、あの手この手で追いかけ回して、疲労困憊だ」
「・・・なんでそうなる」
「五年くらい前の春だったかな。本部主催で若手を集めた講習会に私と有希子さんは参加した。その一週間の合宿に参加した、もしくは携わった男性たちは皆、有希子さんの虜になったよ」
「あれ?それ、千鶴は一緒じゃねえの?」
 池山の姉の千鶴は、高校生の頃から有希子とともに長谷川の祖母に師事している。
「年齢制限があるんだ。二十代前半のみと。千鶴さんはもう少し前に参加してる」
「なんでそんな区切りがあんの?」
「茶事の基礎の学び直しもあるが、若手の育成と交流が目的。それから・・・」
「もしかして、そっちの出会い?」
 珍しく言葉を選ぶ長谷川に、池山がにんまり笑う。
「まあ、そういうことだな。講習会である程度の立ち居振る舞いの出来ると師匠が判断して推薦した、自分で言うのも何だが選りすぐりの弟子たちばかりだから・・・」
 と、そこでふと思い出したように振り返り、じっと岡本の顔を見つめた。
「そういえば違う班で鹿児島から女性でとても目立つ人がいたが、もしかしたら・・・」
 言われてぴんとくる。
 その講習に参加できるのは、当時ぎりぎり25歳の三姉の祐未しかいない。
「・・・ゆみ。岡本祐未か?」
「ああ、そうそう、そんな名前。やっばりお姉さんだったか」
 姉の何が目立っていたのかは、あえて聞かないことにした。
 それよりも、現在のことだ。
「・・・で。なんで今なわけ」
「もちろん、当時も初日から稽古中以外は少しでも近付こうとして場外乱闘気味だったさ。だけど、本気で勉強しに来た有希子さんがご立腹で、『ステディな恋人がいるから、ほっといてくれ』と切れたんだよ」
「ステディな恋人・・・」
 さらに聞き捨てならない情報の連続である。
「ああ、ソイツとはもうなんでもないから。とっくに切れて、たしかもう家庭を持ってる」
 横から池山にひらひらと手を振られて、岡本の眉間に皺が寄った。
「なんでお前が・・・」
 きっと睨まれて、池山は逃げ腰になる。
 視線だけで殺されそうだ。
「んー。ちょっと知合いだったから。だから、まあ、正確な情報?」
 本当はそうでなく、今までのあれやこれやを始まるたびに事細かに聞かされて暗記してしまい、もはや時系列に表が作れそうだとはさすがに言えない。
 有希子は、楚々とした見た目に反して超肉食派だ。
 立石に片思いしていたここ数年ですら、並行して付き合った男性はそれなりにいる。
 好きだからこそ、知りたくないこともあるだろう。

「まあ、いわゆる狩猟解禁状態にしてしまったんだよ、祖母ともあろう者が」
 しかし、無頼派とも言われた作家の夫を支え、かつ茶道界でもそこそこのポジションに君臨する祖母にうっかりはありえないと、長谷川は密かに思っている。
 なんの意図かはわからないが、あれは、わざとだ。
「ここまで追い込まれると、もうこの際どれかにしてしまうかという事態になりかねない。しかも、全員、即結婚を目論んでいるから、かなりキケンだよ」
「有希子もイイ感じの年になってきたしねえ」
「更に言うならばそのうちの1人は、他の弟子と付き合っていながら参戦するために破談にして、ちょっと各方面こじれている」
「うわ、最悪。ねーねー、それで?」
 キラキラと眼を輝かせて身を乗り出し、ゴシップを楽しむ池山に腹が立ってきた。
 岡山は正面から池山の額を掴んで思いっきり押した。
「うわ、なにすんだよ?」
 ころん、と転がったのを隣の江口が抱き留める。
「・・・ちょっと、お前、黙ってくれる?」
「・・・はい」
 少し不服そうに唇を尖らせて池山は引いた。
「何故、今、それを俺に教える?」
 手を伸ばせば届きそうな距離に対峙していながら、遠く感じる。
 彼女が、何を考えているのかが全く解らない。
「・・・そうだな・・・」
 先ほどと変わらず壁にもたれて粗野な仕草で酒を飲む。
 しかし、前のように男性的と見ることができない。
 むしろ、恐ろしいほど、女だ。
「慰謝料・・・というか」
 アルコールで湿らせた唇が、ゆっくりと蠱惑的な形を作り出す。
「・・・は?」
 首をかしげると、花が開いたかのような柔らかな笑みをふわりと浮かべ、信じがたい言葉を口にした。
「お触り代?」
「ああ?」
 ぷっふーっと、吹き出すのが聞こえる。
 続いて、ぎゃはははっと池山が腹を抱えて転がりだしたのを目に止めた瞬間、沸点を極めた。
「・・・!!帰る!!」
 手早く荷物をまとめて、岡本は足音も激しく部屋を後にした。
 後ろから江口が何かを言ったような気がしたが、もうどうでもいい。

 とにかく、あの女に関わるのはもうごめんだと、心底思った。


「五年前の春と言えばさあ」
 左右の指をゆっくり折り曲げ数えながら、池山はぽつりと言う。
「俺達が出会った、あのパリコレの時だよな?」
 隣で氷をグラスに足そうとした江口が手元を滑らせ、カラコロと床に転がった。
「ああ、そうだな、そういえば」
「・・・すっげー、ハードスケジュールだよな。あん時お前、お呼びがかかったメゾンのほとんど断ってなかったじゃん。ヨーロッパ三カ国回った狭間で一週間寺に籠もったのかよ」
「そうなるな。開をほとんど鎌倉に預けっぱなしで稼ぎまくったとしか記憶がない。しかも研修会の過酷さの方がよほど印象に残ってるよ。二月下旬の京都なんて真冬と変わらない寒さだったってのに、私も有希子さんも風邪一つ引かなかった。今思えば若かったよな」
「まあ、あの乱取りでブレイクしてぐいぐい食い込んだしな」
その年の九月のコレクションではニューヨークの方からもオファーが来たくらいだ。
「とにかく、開を大人になるまで独りで育てられるという見通しが欲しかったから、なんでもがむしゃらにやっていたとしか・・・」
 心のどこかに焦りがあった。
 そして、いつも心が乾いていて、眠れなかった。
「今のお前もたいして変わらないけどな」
「いや、今は要領を得てきたから、随分違うさ」
 現在はモデルの仕事もかなりセーブするようになり、こうして池山たちとゆっくり呑んだりも出来る。
「話は変わるけど・・・」
「うん?」
「徹と寝ちゃったよな?」
「・・・まあな」
 長谷川が苦笑しながら素直に肯いた途端、シンクの前方から何か物がひっくる返る派手な音がした。
「す、すみません・・・。ええと・・・。俺、ここ出ましょうか」
 パンドラの箱が開ききっている。
 江口は次に何が出てくるのか、正直恐ろしかった。
「いや、いいよ。どうせ池山の口から筒抜けだろう?」
 確かに、そうなのだが。
「あ、ひどいなー。俺、秘密は守る男よ?」
「どの秘密を守ってくれているのか、一度聞いてみたいところだけどな・・・」
 ふと、口元に指をあてた後、そっとため息をついた。
「ん?なに?煙草?」
「いや、本気でやめたところだからいらない」
 時々、この二人はまるで長年連れ添った夫婦のような会話をする。
 ちょっとした仕草や言葉の端々をお互いくみ取り、さらりと馴染む。
 そんなところが、時々、どうしようもなく妬ける。
「・・・なら、コーヒーを淹れましょうか?」
「・・・悪いな」
 だけど、嫌うことは出来ない。
 むしろ、どこか愛しくなってしまうことがある。それは多分、彼女の存在自体が池山の一部なのだと、思えてしまう時があるからなのだろう。
「で、なんでそんなことしたの。一回きりじゃないだろ?」
「お前、そこまで・・・」
「ん。お見通し。徹見てりゃわかるよ。それにお前、煙草すっぱりやめたし」
「いや、煙草は・・・」
「なに、徹のためじゃなくて、ハトコのほう?」
「・・・」
 立石徹は、昨年秋に行方不明になったアメリカ在住の親戚を捜すために辞職しようとした。彼を手放したくない上司たちが上層部に掛け合い、一時的にニューヨーク出向という形をとらせた上、仕事もフレックス勤務として存分に捜索させた。
 立石の努力はもちろんあるが、運良く春になんとか見つけ出して現在、『彼』を日本へ帰国させるための手続きに奔走している。
「手続きだなんだってわりには帰国し過ぎなんだよ、徹が。しかも週末ばっか狙ったあり得ない往復ぶりだし、お前はなんか慌てて引越しするし、あの部屋のこともあるし、バレバレだろ」
 今、立石と長谷川の間には張り詰めた糸の上に立っているような緊張感が、常にただよっていた。
「・・・そうだよな。あまりにも解りやすいよな・・・」
 口寂しそうに、指の甲で唇を擦る。
 池山が出会った頃、彼女は既にかなりの愛煙家だった。
 息子の前でこそふかさなかったようだが、その香りはさすがに隠せない。
 ニコチンは安定剤であり、煙は鎧であったと、今は解る。
「マルボロ臭のねえ長谷川生を生きているうちに拝めるとは、俺は思ったことなかったぜ?」
 そして、煙草を絶つことは、彼女なりのけじめなのだと。
 いや、けじめというより・・・。
「そうか、罪悪感か」
「・・・そこは、胸の内に収めて欲しかったな・・・」
 立てた膝に頬を預けて苦笑した。
 あまりにも的を射すぎて、これでは逃げ場がどこにもない。
「いや、意外に可愛いとこあるんだなって惚れ直し中よ?」
「お前、江口君の前でそれを言うか」
「言う言う。俺は、隠し事をしない男なんだよ」
 な?と、マグカップを受け取りながら甘えた視線を江口に送る。
「・・・さっきは秘密を守る男といったくせに・・・」
「そこが、俺の良いところだろ?」
 ふふふんと、得意げに鼻を膨らませる池山に、二人は同時に吹き出した。
「たしかに・・・」
「そうですね・・・」
 コーヒーの、深い香りがゆるりと広がる。

 
「愚問だろうけど、マサト・サコって知ってるよな?」
 マグカップの中の湯気を目で追いながら、長谷川がゆっくり話し始める。
「ああ、あの奇才・・・。日系人だっけ」
 この業界で彼の名前を知らなかったらモグリだ。
「いや、純然たる日本人。七~八歳位で養子入りした親戚夫婦も日本人で永住権を取得していただけだから」
「・・・?」
 マサト・サコは現在アメリカの最大手のIT企業で活躍中の筈だ。
 去年の秋にも彼が携わったソフトが爆発的に売れて、最高の収益を上げた。
 なぜ長谷川がいきなりその話題を持ち出すのかが解らず、池山は首をかしげる。
「佐古夫妻もIT業界の隠れたパイオニアとして有名だった。技術面はもちろんのこと、人材としての信用が特に。おそらくアジア系の採用が上がったのは彼らの功績も一役買っているだろう。しかし彼らには子供が授からず、それをものすごく残念に思っていた」
「ちょっと、ちょっとまって、生」
 うっかり呼び捨てにしてしまい、長谷川が片眉を上げた。
「・・・池山」
「ああごめん、長谷川、それとごめん、耕」
 半分上の空で訂正にかかる。
「えーと。ここでこの話って事は、例のハトコってマサト・サコなわけ?」
「真っさらな人って書いて、佐古・真人だ。養父、実母、そして立石の母が従姉妹関係に当たる。当初の予定では養子は二人の筈だった」
「・・・で。それが、徹?」
 その先もっとこじれた話を聞かされる予感に、池山は眉間に拳をあてた。
「・・・らしい。諸事情で流れたが、交流は続いた。立石にとって彼は兄、いや多分それ以上の存在だったと思う」
「でも去年の秋に、行方不明になったって言っていたよな?でもそんな話、全く流れてないじゃないか」
「流せるものか。とんだ大スキャンダルだからな。彼が上げた収益を全部突っ込んででもマスコミを押さえているのだろうさ」
 皮肉たっぷりの笑みに、男二人は顔を見合わせた。
「彼は、CEOの姻戚だったんだ」
「・・・は?」
「マサト・サコはギリギリまで働かされた挙げ句、完膚無きまで踏みにじられて失踪した。あちら側は焦っただろうな。彼が命を削ってまで作った物が世界的に好評を博すとも予想していなかった上に、さすがに即行方不明になるとは思わなかったらしいから」
「いや、ちょっと待ってよ。だって、あれ、凄いソフトだよ?画期的過ぎて、神がかり的だよ?」
「・・・一部の連中は、それを知らなかったし、認めたくなかったんだ。「キイロ」が陣頭指揮を執って作ったものだからな」
「あー。そこに行くか・・・」
「そういうこと」
 彼らは、我慢らならなかったのだ。
 マサト・サコの存在そのものに。
「アメリカなら私も多少知合いがいるし役に立ちそうだったから、彼らを紹介しようと思って立石が移住してから十日後くらいにアパートを訪ねたら・・・。あいつは、佐古の遺体と対面する恐怖と、広大すぎる国と、聞けば聞くほど腹立たしい事情と、全く進まない捜索について考えている内に、全く眠れなくなってひどい様になっていた」
 本格的に探し始めてまだ十日しか経っていないのに。
 しかし、絶望しかない十日間は確実に彼を蝕んでいた。
「え・・・」
「もう既に、アルコールと睡眠薬による薬物依存の一歩手前だった。飲んでも飲んでも眠れなくて」
 いったん唇を強く噛みしめた後、観念したようにため息をついた。
「今でも、あの選択が正しいかなんてわからない。ただ、眠らせないと、眠らせたい一心だった」
 気が付いたら、抱きしめていた。
「いや、そうじゃない。私は佐古が生きているなんてあの時正直思っていなかった。あんなひどい仕打ちを受けて、受け続けて、大切な物が何一つ無くなった状態で、自分なら生きていられないと思った。多分、立石も同じだっただろう。あいつは佐古を追ってもう半分死に足を突っ込みかけていた」
 怖かった。
 いつも、どんなことがあっても穏やかで生気に満ちていた筈の男が、ぼんやりと虚ろな瞳のままソファに座り込んでいた。
 あと一日。
 いや、あと一時間遅かったら、生きることを放棄していたかも知れない。
 そんな恐怖が、長谷川の中を駆け抜けた。
「だから、寝た。あいつを取り戻すためなら、身体くらいいくらでもくれてやると思った。だから・・・」

 何度も口付けて、口付けられて。
 隅々まで触れて、触れさせて。
 幾夜も抱いて、抱かせて。

 彼の目と耳をふさぐために、何も考えさせないために、激しすぎる行為に引きずり込んだ。
 彼岸で待っているかもしれない男に、渡したくなかった。
 佐古には心から同情する。
 だけど。
 立石徹は渡せないと思った。
 死なせてやらない。
 どんな最悪の事態が待っていようと、生かせて、連れて帰る。
 彼を強く抱きしめて、誓った。


「・・・そこまでしたってのに、なんでいまさら指一本触れちゃダメなのよ。それじゃあ、オアズケも良いとこでしょ。一度存分に食わせといていきなり閉店って、どんなプレイよ?俺さすがに、徹を同情するわ」
 想い続けて十数年。
「わかってる?お前は徹を天国から地獄へ叩きつけたんだぞ?」
「それは、最初からわかってる。でも、他に方法が思いつかなかったから仕方ないだろう」
「仕方ない、ねえ・・・。岡本がこれ聞いたら、もっと怒っていたな」
「そうだろうな」
 怒るどころの話ではないだろう。
 岡本は情の厚い男だ。
「とにかく佐古は生きていたし、連れ戻せた。だけど彼は心身共にぼろぼろで、不安定な状態だ。傷を癒して立ち直らせることが出来るのは、多分立石しかいない」
 佐古の実母は猫の子でもやるようにあっさり三男を養子に出した。
 妻とは、失踪直前に離婚。
 アメリカに心の許せる友人がいなかったわけではない。
 むしろ、多い方だと思う。
 だが、傷が深すぎて、誰も触れることは出来ないだろう。
カウンセラーの言葉を鵜呑みにするわけではないが、おそらく踏み込めるのは立石だけだと、長谷川も考えた。
「今のあいつに私と関わる暇はない。持てる時間と気持ちの全てを、佐古に注ぎ込まなければならないのは解っているはずだ」
「厳しいねえ」
「私の役目は、終わったのさ」
「あーもう。そう言う論理?」
 長谷川は、正気に返らせるために命のやりとりをした。
 人は、それを愛だと、言うに違いないのに。
「まだ話せない事情があるみたいだから、いったん引くけどさあ。でも、引導の渡し方としてはあまり感心しないこと言っちゃったね」
「ああ・・・。あれか」

・・・妊んだら、必ず産むと思うな。

「そう。あれ。めちゃくちゃダメージ受けたと思うよ?」
「そうだろうな・・・」
 物憂げな表情に、少し、安心した。
 そんな言葉、言いたかったわけじゃないと語っているようで。
「そんなに、あの、樋口とかいヤツが好きだったの?」
 卒業目前の、しかも進路もまだ定まらない時に出産を決意するほどに。
「う・・・ん。正直なところ、彼を男として意識したことは一度もなかった。単なる仲間だった。ただ・・・」
「ただ?」
「あの日は、物凄く好きだった」
あの日。
 オウム返しに池山が呟くと、グラスの中の氷を揺らしながら長谷川が微笑む。
「きっと誰も信じてくれないだろうけど、開は、授かるはずのない子だった」
「え?」
「生理周期で言うなら確実に安全日だったから」
 たんたんとした説明に、むしろ江口が落ち着かないようで、隣で少しもじもじしている気配を池山は感じた。
 この、純情め。
 どんだけ清らかな思春期だったんだ。
 少し、羨ましくなる。
 昔から姉と幼なじみがあけすけに生理事情を語っていたため、池山は常にお腹いっぱいだ。
「高校時代はほぼ狂いなく来ていたから、避妊しなかった。あの時は私も若かったし雰囲気的にとても頼めなかった。実際樋口が帰宅した直後に出血したから、大丈夫だと思ったのだけど・・・」
「他の人の子ってのは、なしか」
「ありえない。実際、三年前あちらの親とうちの両親にばれて騒ぎになった時に、祖父母が立ててくれた弁護士が手配したDNA鑑定で保証済みだし」
 高校を卒業する時に、長谷川は樋口に堕ろしてくれと頼まれて承認し、別れた。
 その後、神戸の実家には知らない人に乱暴されたと言い張って絶縁され、鎌倉で父方の親戚に助けられて出産し、育ててきた。
「じゃあ、どういうこと?」
「医者が言うには、受験勉強や諸々のストレス、薬の服用などの体調の変化で狂っていたのだろうと。実際、冬休みに入ってすぐに珍しく重い風邪を引いたから、それが理由の一つかも知れないけれど・・・。ただ・・・」
「ただ?」
「あの日、私は家族が欲しかった」
「家族・・・?」
「そう。どうしても、家族という物が欲しくて欲しくて、息が出来なくなるほど胸が苦しかったことは今でも覚えている」


 佐古同様、長谷川自身も幼い頃から実家との折り合いがうまくいかなかった。
「まだ、子供だったんだ。高熱を出したのに家の中はがらんどうで、母親から珍しく電話がかかってきたかと思うと、病状を聞くなり自分たちに感染したら困るから、今後は絶対神戸へ来るなと一方的にまくし立てられた」
 その年は姉の成人式で、一年近く前から高名な作家に依頼して辻ヶ花の振り袖を仕立てて、一月はあらゆる社交場でお披露目をする予定だった。
 それなのに、風邪に感染すればぶちこわしになってしまうという。
「さらに何処を受験するかも聞こうとせず、ただ、関西へは来るなの一点張りで。どうせ関東へ行くなら姉の経歴に傷が付かない女子大にしろ、そして受かったなら連絡しろ、納得のいく大学なら授業料を払ってやっても良いとまで言われた。最後まで大丈夫かの一言はなかった。父が帰国できない状態なのも知っていたはずなのに」
 長谷川が中学生の頃、派閥争いに巻き込まれて福岡へ飛ばされていた父は二年前にアジア支局長として昇進、東南アジア在住となり単身赴任中だった。
 もちろん年末年始から旧正月にかけてと責任者ゆえに身動きがとれるはずもない。
「なんのために、なんの意味があって自分は生まれてきたのだろうと、さすがに思った。誰にも必要とされていないのに、生きている意味はあるのかと」
 間の悪いことに、こんな時に限って鎌倉の祖母も悪性の風邪を引き、入院する騒ぎになっていた。
 更に中学生のころから一番仲の良い友人は、アメリカで音楽を学ぶために終業式を待たずに渡米して不在。
「あの大晦日は、独りだってことが、一番身に染みた日だったんだ」
 大晦日に、同級生たちに誘われて加わった年越しの初詣。
 大はしゃぎの友人達、そしてたくさんの参拝客の中にいる時は、その熱気に取り込まれていて暖かかった。
 でも。
 帰宅して独りになると一変した。
 社宅として用意されたマンションはただただ広くて、寒かった。
 コートも脱がずにリビングに座り込むと、涙が溢れてきた。
 音のない世界。
 何もない。
「だから、強く、強く願ったんだ、家族が、欲しいと」
 家族が欲しい。
 そばにいてくれる、誰か、が欲しい。
 ほんのすこしでいいから、温もりが、欲しい。
 ほんのすこしでいいから、かみさま。
「そうしたら、樋口が、来た」

 樋口賢吾。
 バスケット部の主将。
 同じ運動部の部長として良い仲間だった。
 すらりとした体躯と甘めの笑顔は女の子受けがよくていつも華やかで、自分とは少し交友範囲が違ったので、深い言葉を交わすことのない友人の一人。
 それなのに。


 「少し、様子がおかしかったから」

 ほんの少し前に地下鉄の改札口で大勢の仲閒と解散した筈の、樋口が立っていた。
 彼の目の中にあるのは、ただただ、暖かな気遣いだった。
 父親が単身赴任でほぼ独り暮らしなのは、同級生ならたいてい知っている。
 でも、自分たちは受験生で、大晦日は家族で過ごすもので・・・。
 まさか、誰かが来てくれるとは思わなかった。
「初日の出まで、一緒にいよう」
 そう言って、コンビニで買った少しの食べ物と飲み物を手に少し照れたように笑う彼に、駆け寄ってしがみつき、声を上げて泣いてしまった。
 驚いたに違いないのに、訳も聞かずに抱き返してくれる彼の腕は、とても温かくて、ますます胸が苦しくなった。
 そのまま指を絡めて、唇を合わせて、どちらからともなく肌を合わせて、朝を迎えてしまった。
 朝日が昇って部屋をゆっくり照らし、身体を重ねたままようやく二人で言葉を交わし始めたその時に、ドアのチャイムが鳴った。
 やってきたのは、父の末の妹だった。
 鎌倉から事情を聞いた途端、仕事を放り出してパリから飛行機に飛び乗って駆けつけてくれたのだ。
 彼女が抱えてきたたくさんの土産と華やかな空気と元気なおしゃべりが部屋いっぱいに満ちて、初めて笑いがこみ上げてきた。
「あら?もしかして私、お邪魔だったのね?」
 三十分も経ってからの叔母の発言に、顔も洗い損ねて圧倒されていた樋口がたまらず吹き出す。
 ホットチョコレートを三人で飲んで、それからまもなく樋口は家を辞した。
「良かったな」
 そう笑って手を振ったのが、彼と交わした笑顔の最後になった。

「結局、その後すれ違いが続いてきちんと話ができないまま卒業式目前になって。遅まきながらその頃に妊娠に気が付いた」
 妊娠検査薬にしっかり表示された陽性反応に、膝が震えた。
 しかし、婦人科を受診した時に医師がモニターに映る小さな影を示して「産みますか?」と尋ねられた時、ふいに背筋が伸びて「産みます」と答えていた。
「私が一番迷ったのは、産むかどうかではなく、妊娠を樋口に話すべきか、だった。話せば、きっと・・・」
 成績優秀だったはずの樋口はことごとく受験に失敗して浪人が確定、かたや長谷川は受験大学のほとんどを合格、しかも関東に進学が確定していた。
「責任とれないと言われる?」
 言葉を選んでくれた池山に苦笑する。
「いや、それは状況で解りきっているんだけど・・・。彼の口から言われたくなかったのかな。あの頃はまだ、自分にとって大切な思い出だったんだ」
 知らせないほうが、綺麗な思い出を抱えて子供を産める。
 でも、それは身勝手な願望ではないか。
 独りで産むなら、これからたくさんの事と遭遇する。
 樋口との別れは、一番最初に向き合わねばならない現実だった。
「彼は、優しかったと思う。会えない数ヶ月の間にすっかり疲れ切っていたようなのに、しばらく考えた後に、身体の心配と、手術費の負担、そして付き添うべきかと聞いてくれた」
 本当は、どこか期待していた。
 手を取って、何か、言ってくれるのではないかと。
 少女めいた期待が、捨てられなかった。
 だけど、彼は、身動き一つしない。
 誰もいない教室でしらじらと会話が続き、あの夜の熱はどこにもなかった。
「そうなると私も冷静で、手術の申請書に名前を書いてもらえたらそれだけでいいと答えていた」
 彼は素直に自分の名前を記入し、更に近所のATMで現金を下ろしてきて「少ししかなくてごめん」と数万円渡してくれた。
 金は受け取れないと首を振ると、その時初めて両手を取って封筒を握らせてくれた。
 彼の手は、ひんやりととても冷たかった。
 これで、終わりなのだと、観念した。
「ようするに、きっぱり振られたんだよな、あの時」
「・・・笑うところじゃないだろ、そこ」
 苦しげな声に、ふと頬に手をやる。
 ・・・笑っていたのだろうか、今。
「でも、樋口のおかげで、私は家族を手に入れた」
 家族が欲しい。
 そう強く願ったら、授かった子供。
「開は、神様からの贈り物だと、今でも思う」
 今度こそ、心から笑う。
「家族は、開だけで十分だよ」
 多くを、望んではいけない。
 私は、唯一のものを手に入れたのだから。


「つくづく厄介な女だよな、あいつは」
 棚の下から灰皿を取りだして、煙草を口にくわえた。
 ライターの火がジジジと先端を焼く音が、やけに大きく聞こえる。
 ゆっくり吸い込んで、ぷかりと白煙を吐き出した。
 長谷川が出て行ったのはもうかれこれ三十分前だが、彼女の残した空気が、まだ漂っている気がする。
 色に例えるなら、濃紺の、闇だ。
 夜明けを待つ、空の色。
「やっかいというより・・・」
 ゆっくりと後ろから大きな身体に包まれる。
「頑固?」
 ぽすんと背中を暖かな胸板に預けた。
「・・・いや、そういうのではなくて・・・」
 言葉を選ぶ優しい男に腕に頬を寄せて笑った。
「いや、ものっすごい頑固なんだよ。本当は好きなくせに」
 多分、きっと。
 自分の勘が正しければ、高校時代から憎からず思っていたに違いないと思っている。
 そうでなければ、この長い年月の理由が付かない。
 そうでなければ・・・。
 身体を開いたりする女ではないのだから。
「厄介と言うより、因果なのか・・・」
 一番大切な男の腕の中に素直に飛び込めないなんて。
「百年の、孤独、かあ・・・」


 孤独しかしらない彼女は、温もりが、怖いのだ。
 ようやく息子という小さな命を手に入れて、離したくないという思いもあるだろう。
 彼女の腕の中は暖かくなった。
 でも、背中はいつまでも寒いままだ。
 それを包み込んでくれるのが立石だろうに、彼女は、温もりを遙かに超えた情熱を、恐れている。
 掴まったら、全て失うと言うかのように。

「美味しい、お酒でしたね」
「ああ、まあな。だけど・・・」
 たった一口しか吸わなかった煙草を灰皿に押しつけ、江口の首に腕を回す。
「たとえ、どんな美味い酒になろうとも、俺はごめんだな」
 唇の、熱を求めた。
「お前なしの毎日なんて、耐えられないよ、耕・・・」


 唇に熱を、
 両腕に確かな存在を。
 抱きしめて、抱きしめられて
 初めて人は、孤独の味を知る。






-完-


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