女王陛下と俺



「おい、結局ぎりぎりじゃんか。なにやってんだよ!!」
 いつも元気な岡本は昼間からきゃんきゃん吠える。
「わり・・・。でも資料は保坂が会議室に届けてる筈だから、行こう」
 手荷物もそのままに先へ進もうとした池山の肩を掴んで止めた。
「おい待て、立石に会わんかったか?ちょっと外に出ると言ったっきり戻らねえんだけど」
「あ・・・」
「・・・あ」
 池山と江口は顔を見合わせる。
 よくよく考えたら、この面子で立石抜きはありえない。
「ええと、会うには会った。そうだな・・・。そろそろ戻ってくると思う」
 チューの一つでも貰えたら。
 そんな考えがちらりと頭に浮かんだところで、ずかずかと足音が聞こえた。

「…悪い。今戻った。行こう」
 憮然とした声に振り返った三人は顎をはずす。
「ちち、ちょっと立石、どうしたんだよ、その顔」
 立石の浅黒い肌でも解るほどくっきりと、殴られた跡が頬に出ていた。
「・・・チュー、もらえなかったか…」
「いや、ありがたく頂戴した。だがそのあとが悪かった…」
「チューしたんですか、また…」
「またってなんだよ、またって。いや、なんのチューだよ」




 軽やかに流れてきた風が木の葉を優しく騒めかせるポプラの木陰で、残された二人は顔を寄せて煙草の火を分け合う。
「お前もなかなか楽しい所で働いているんだな。一応これで、めでたしめでたしだが、ありゃあ、これからが大変だ。二人は当然、周りもな」
 木漏れ日に当たって切れ長の瞳がきら、と瞬いた。
「・・・そう思うか?」
 長谷川を見下ろす立石の口元に、ふわりと笑みが昇る。
「ああ。台風の目同士という感じかな。用心しないとあっという間に巻き込まれて、大嵐になりそうな気がする」
 長谷川は楽しげに煙草の煙を空に向かって吐き出した。
「どうする?立石。逃げ出すなら、今のうちだぞ」
「・・・お前に比べりゃ、あいつらなんざ、まだまだ微風みたいなもんだよ」
 ゆっくりと肩を寄せて囁く。
「…好きだよ」
「知るか、そんなもん」
 憎らしい言葉しか紡がない女のつれない唇に、立石は静かに自らの唇を落とした。


 ゆっくりと、触れるか触れないかの位置まで唇を寄せると、生はゆるくまつ毛を伏せた。
 それを承諾ととり、今度は遠慮なく触れる。
 上唇を吸い、下唇を軽く噛み、最後にもう一度優しく触れた。
 本当はもっと深く触れたいけれど、離れがたくなるのは目に見えているから我慢する。
 そっと離すと生がふっと息をついた。
 その吐息の甘さに、つい、口について出てしまった。
「もしも・・・」
「・・・ん?」
 肩を抱き寄せたまま、耳にささやく。
「今度からは俺を呼べよ」
「…何…?」
「したくなったら、俺にしとけ」
 少し預け気味だった身体が身じろぐ。
「・・・は?」
「だから、舐めたくなったら」

「・・・なんだと?」

 柔らかいその体が凍りの柱に変化したのを手のひらで感じ取ったときにはもう遅かった。

「こんの、あほんだら!!お前なんぞ南極大陸にでも行ってしまえ!!」

 愛の鉄拳は今回も見事に徹の頬に収まった。


「…痛…」
 頬を抑えて顔をしかめる徹を突き飛ばして、足音も激しく生は車に向かう。
 が、車のドアに手をかけたところでふと何かを思い出したらしく、振り向いた。
「そういや、言い忘れてた」
「…何?」
 目を向けると、生はにいっと笑って唇に人差指をあてた。
「間接キス」
「は?」
「江口君と」
 唇をちいさくすぼめた後、ちゅっと人差指で投げキッスを送る。
 今日一番のあでやかな笑顔を徹の目に焼き付けて。
「じゃあな」
 あっけにとられる徹は置き去りに、車は見る見るうちに小さくなった。

「江口と…?」
 徹は一瞬、地面に自分の足が沈み込んだような錯覚を覚えた。
 

「あああーっ、そうだ、そうだった!!さっき、江口がチューされたんだった!!」
 指差された江口は資料を両手に持ったまま、うつろな眼差しを返す。
「・・その前に、立石さんが長谷川さんの唇を無理やり奪ってましたよね…」
 間接キス返しか。
「そうだよ、それもそうだった。・・・なに。それって、嫌がらせかよ、悪魔だな、あいつ」
「嫌がらせされたのは立石さんだけですか?それとも俺も…?」
 背筋に寒いものを感じて江口は身を震わせる。
「つうかお前たち、昼間から何してんだよ…」
 頭を抱える岡本の後ろで立石は憮然としたままノートと筆記用具をかき集めた。
「立石、女はごまんといるってのに、なんでよりによってそんな女に…」
 同情の声をひと睨みで封じ込める。
「そもそも、そこでそのセリフ、お前、馬鹿だろう?いや、馬鹿だったんだな?」
「ああ、そうだよ、馬鹿だよ、おれは!」
 獣のように唸りながら頭をかきむしった。
「せっかく、いい雰囲気になるとこだったのに・・・」
「・・・あの?もしもし?俺たちの会話聞いてた?徹くん?」
 いや、そもそもキス自体が仕組まれた可能性が高いという事実からすっかり目をそむけている。
「とにかく!!」
 がん、と机を一発拳で叩いてから言った。
「会議の時間だろ、行くぞ」

 哀愁漂う背中を見送りながら、岡本はつぶやいた。
「あの顔で行くのか?あいつ」
「行くだろうねえ。それがあいつだから」
「つわものを通り越して、正真正銘のバカだったんだな、立石って…」


 岡本と池山の予想通り、立石は頬を腫らしたまま社内をがんがん歩き、会議では何事もなかったかのように冷静沈着に事を進め、誰ひとりその理由を尋ねる機会と勇気を与えることはなかった。
 ただし、女子社員達の間で様々な憶測と色とりどりの噂が間欠泉のように噴出したは言うまでもない。



-おしまい-


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