『聖なる夜に』




 街全体が浮かれている。
 夕日が落ちて、街路樹にセットされたイルミネーションが点灯されて明るい光を放ち、人々は今夜のイベントをどう過ごすかで頭がいっぱいだ。
 今夜はクリスマス・イブ。
 日本人のほとんどがキリスト教徒でないにも関わらず、誰もがこの日になるといっせいにお祭り騒ぎで浮かれている。
 ある人は恋人特別な夜を過ごし、ある人は友人達とパーティを開き、ある人は家族とケーキをほおばる。
 それが、正しい日本の、クリスマス・イブ。

「・・・奈津美さん!!」
 振り返ると、すらりと背も高く怜悧な美貌の男が立っていた。
 この男は、オーソドックスなコート姿でもまるでファッション誌のモデルのように決まっている。
「あら、こんばんは。片桐さんならまだ会社の中にいるわよ」
 目と鼻の先にある会社のエントランスを指さすと、静かに首をふった。
「いえ、貴方を待ってました」
「そうなの?なら、手短にね。私はこれから行くところがあるから」
 彼は、本間が引いている小型のスーツケースをじっと見つめる。
「その予定を日延べすることは出来ませんか?」
「無理」
 即答すると、手をそっと伸ばして肩に乱れかかっていた髪をゆっくり整え直し、その一房をゆるく握り込んだ。
「奈津美さん。・・・私と、今夜は一緒に過ごして下さいませんか?」
 眼鏡越しに切れ長の瞳でじっと見つめられ、これは、美形慣れしていない人ならば男女問わずひとたまりもないだろうなと思う。
 しかし、本間は頬に彼の指の熱をうっすらと感じながらまっすぐ見返して答えた。
「それは出来ない」
「奈津美さん」
「今夜は、特別なの。だから、行かなくちゃ」
 そう。
 この夜は、特別だから。
「誰かと過ごしたいのなら、別の人をあたって。じゃあ・・・」
 頭を振って彼の指先から髪を解くと、背を向けた。
「なら、送ります。貴方の行きたいところまで」
 見ると、高そうな車が近くでハザードランプを点滅させている。
「・・・今日は仕事がまだあるんじゃないの?」
 今は金曜日の6時を少し過ぎた程度。
 とある名家の秘書をしている男がうろついて良い時間ではない。
「午後から休暇を取りました」
「・・・篠原さんらしくもない」
「私らしいってどういうことですか?」
 少し眉間に皺が寄る。
 どうやら機嫌を損ねたらしい。
「絡まないでくれる?悪いけど、本当にもう時間がないの」
 再び歩き出すと、今度は腕を掴まれた。
「・・・送ります。そんな荷物で乗り換えを何度もするつもりですか。筑波なら、車で行った方が速い」
 囁かれて、ため息をついた。
「・・・誰が売ったのかな。その情報」
「・・・せめて、それだけの時間、私にくれませんか」
 彼が今どんな目をしているのか容易に想像がつくけれど、見ないことにする。
 見てはいけない気がするから。
「ますますもって無理。私は、一人で行きたいの」
 綺麗に磨かれた黒い革靴のつま先を凝視する。
 深呼吸を一つして、立ちふさがる胸を軽く押した。
「・・・どいて。私にとって、これは、大切なことだから」
「奈津美さん」
「今夜だけは、大切な、家族のそばにいたいの」
 手のひらから、とくん、と、鼓動とわずかなぬくもりを感じたような気がした。
「・・・」
「だから、手を離して」
 ゆっくりと、壁が動く。
 夜の冷気がするりと頬を撫でた。
「ありがとう」
 背筋を伸ばして、前に進む。
 駅へと続く真っ白なイルミネーションが、どこか寒々しく感じた。


 窓ガラスに映る自分の顔を眺めながらぼんやりと思い出す。
 白いイルミネーションの中に立ち尽くしたであろう人を。
 誰よりも頭脳明晰で、誰よりも容姿端麗で。
 自分なんかに構わなくても、彼を望む人はいくらでもいる。
 だから、絶対に振り向かない。
 でも。
 他にも言いようがあったと胸が少し痛む。
 でも。
 この夜は、譲れなかった。
 
 クリスマス・イブ。
 街中至る所にクリスマスディスプレイがあり、テレビ番組もそれにちなんだ特集が組まれ、『幸せな日』であることの演出の洪水だ。
 日本人は昔から『幸せ』が大好きな民族だと思う。
 とても柔軟に、色々な国の伝統や宗教を生活の中に取り込んでいく。
 それは良いことでもある。
 しかし、その幸せの洪水に息が詰まり、消えてしまいたくなる人もいる。
 日本では所詮、ただのイベントだ。
 しかし、家族の大切な行事として過ごしてきた欧米の人々は違う。
 時には、孤独と絶望を嫌と言うほど思い知らされる日で、命を絶つ人も多い。
 だから。
 彼に、届けたい。
 どんなに、大好きか。
 心を、手を、つなぎに行くために、この夜は必要だった。


「・・・いらっしゃい」
 扉を開けた佐古がふわりと笑う。
 ざっくりと編まれたシルバーグレーのセーターが、肩まで伸びた茶色の髪に似合っていた。
「おじゃまします」
 玄関入ると、優しくコートを脱がせてくれた。
「もしかして、立石さんから連絡が行ったの?」
 いつもならこんな早い時間に自宅にいることはないと聞いている。
「うん。宅急便となっちゃんが八時までに行くから絶対家にいろって。宅急便の方が少し早かったな」
 スーツケースを持って先に奧へ向かう佐古の背中をゆっくりと追う。
「ああ、たすかるな。時間指定してもこのシーズンだから到着時間は賭けだねって言っていたの」
「いったい、なにが入ってるのかな。箱はさほど大きくないのに随分重くてびっくりした」
「うん~?立石さんと私の愛の結晶?」
 部屋の隅でスーツケースを横にして中を開く。
 そして衣類に包んでおいたワインを一本取り出した。
「これだけは、持参したの」
 目の高さに突き出してにやりと得意げに笑うと、佐古は吹き出した。
「なっちゃんらしいけど、そんな重い物、それこそ宅急便の中に入れれば良かったのに」
「丁度良い箱がなかったのよ。それに、これは私が持って行きたかったし」
 そしてエプロンを身につけると、すぐに箱を開けにかかる。
「私達はターキーをやったことないから、ミートローフとか、ローストビーフになってしまったんだけど、味は大丈夫。保証するわ」
 色々な料理が詰め込まれた容器を次々と取り出す。
「・・・すごいな。とても二人では食べられないと思うけど?」
「いいの。明日も一緒に食べよう。ケーキもきっと食べ頃よ」
 随分前から立石と計画して、フルーツケーキやパンを仕込んでいた。
「・・・まるで、クリスマスの樽だね」
「樽?」
「開拓時代にね、親戚や友人同士が樽にクリスマスの食料やプレゼントを詰めてやりとりしていた話を聞いたことがあって。開けてびっくりの、贈り物だったらしいよ」
「・・・びっくりしてくれた?」
「うん。びっくりしたよ。俺に隠れてこんな事、二人でやっていたなんて」
「なら、大成功。立石さんも喜ぶな」
 ふと、もう一つ持ち込んだものを思い出してスーツケースへ戻る。
「これも、忘れずにね」
 小さな箱を開けて見せた。
「・・・ツリーも持ってきたの?」
「うん。組み立て方、解るわよね?橋口さんから貰っていたの。どこにでも持って行けるから便利よね」
「そうだね」
 小さな木組みのツリーを大して時間をかけずに組み立ててテーブルの真ん中に飾る。
「出来たよ」
「ありがとう。じゃ、ディナーの支度をしましょうか」
 キッチンへ向かうと、佐古は食器棚を開けて皿やスープボウルを取り出した。
「鍋はわかるよね?」
「うん。あと、カトラリーもお願い」
 ポタージュを鍋にあけて温めながら、付け合わせの野菜の用意をする。
 前は、立石と二人でここに来て、何度か泊まった。
 鍋から皿に至るまで、なにがどこにあるか把握している。
 年の初めに立石の家に転がり込んでからつい最近まで、いつも三人でいたような気がする。
 楽しかった。
 毎日が、とても、とても楽しかった。
 ふと、顔を上げると佐古が黙って微笑んだ。
 きっと、彼も、同じ事を考えたに違いない。
 だから、大好きだ。

 簡単な前菜、サラダ、ポタージュ、全粒粉のパンに、メインディッシュとデザート、そしてワイン。
 全てをゆっくり腹の中に納めながら、たくさん話をして、たくさん笑った。
 食べ終えたそれらを片付けてソファへ移動し、テーブルの上に灯した小さなキャンドルの炎の揺らめきを眺めながら、佐古はぽつりと問うた。

「・・・徹は、あいつのところ?」
 互いの手の中にはホットワインの温もり。
「うん」

 立石は、本間と作った料理の半分を持って、彼が一番そばにいたい人たちの所へ向かった。
 これからは、そうすべきだと、自分が言った。
 なぜなら、今年のクリスマスは立石の家に戻らないと佐古自身が早くから宣言していたから。
「そもそも、佐古さんがしむけたんでしょ?今夜はいくさんと、カイくんのそばにいくように」
 立石には長年思い続けている女性がいる。
 しかし、佐古への想いと、彼女への想いから、クリスマスイブに出かけることはなかった。

「・・・なんだ、ばれていたのか」
「みえみえよ」

 佐古真人と立石徹は母親同士が従姉妹で、幼い頃二人合せてアメリカの親戚の元へ養子に出ることになっていた。
 しかし、立石が子供特有の流行病にかかり、渡航を延期した後、家の事情で破談になり、佐古の家へ正式に養子になったのは真人ひとりだった。
 以来、彼らは「兄弟になるはずだった」ことを幼い頃から意識して今まで来た。
 両親の気まぐれで突然反古になった事に負い目を抱く徹の真人への思い入れは、真人の実の兄弟や両親より強かった。
 養父母が事故で突然亡くなった時も、妻とその家族に裏切られた痛手に放浪していた時も、誰よりも心配したのは徹だった。
 そして、そんな彼に真人も頼り切ってしまった時期もある。
 二人の関係は、時として互いに依存し合うような状態になっていた。
 それが、今は変ろうとしている。
 時が、ゆっくりと二人を導いていった。
 真人が徹の手を離し、徹は別の道に足を踏み入れようとしている。
 二人の別れの儀式の、いわば立会人になるために自分は遣わされたような気がした。
 それは、神かもしれない。
 もしくは、真人を愛していた養父母の最後の願いだったのかもしれない。
 ぴたりと一つになり、互いの体温を分け合って丸くなっていた二人が、今、立ち上がる。
 その、介添人になれるのだ。
 なんと、光栄なことだろう。
 
 しばらく他愛のない話をして過ごし、夜も更けた頃に軽くシャワーを浴びてパジャマに着替えてから、用意してもらった寝具の枕を抱えて佐古の寝室のドアを叩いた。
「もう寝た?」
「いや、起きてるよ」
 ひょっこり覗くと、ベッドにもたれて本を読んでいる寝間着姿の佐古と目が合った。
「そこにいっていい?」
 最初から予想していたのだろう彼は、にっこり笑って布団に裾を上げてくれ、本間はそこに潜り込む。
 キングサイズのマットレスは十分に広く、180センチ半ばの佐古と二人で横になっても申し分がない。
「あっちの部屋にせっかく用意してくれたのにごめんね」
「うん?徹の連絡だと、なっちゃんがどうしたいのかわかんなかったから、念のために作っといただけだよ」
 佐古のために会社側が用意したマンションは3LDKで、以前はよく立石が泊まっていたために別室にベッドが一台置いてある。前に泊まった時に本間はそれを使わせて貰っていた。
「ねえ、なっちゃん」
 本を閉じてサイドテーブルに置いた後、本間と同じように布団の中に身を沈めて枕に頭を載せて覗き込む。
「ん?」
 ほんの少し手を伸ばせば触れられる距離でお互いの瞳を見つめ合った。
「今日は、来てくれてありがとう」
 ふわりと花が開くように佐古が笑う。
「ううん。違うよ、佐古さん。私がどうしても来たかったの」
 布団から手を出して、そっと指を伸ばした。
 女性が見たら誰もがため息をつきたくなるほど艶やかでまっすぐな佐古の髪を、耳から顎にかけてゆっくりと指先で梳く。
「今夜は、絶対、あなたのそばにいたかった」
 何度も、何度も梳くと、まるで撫でられている猫のように目を細めた。
「佐古さん」
 そのまま頬をゆっくりと手のひらで包む。
 白い頬が少しひんやりとして気持ちいい。
「うん・・・?」
 長いまつげを閉じて、彼が答える。
「大好きよ」
 ゆっくりと瞼が上がり、茶色の瞳が現われる。
 吸い込まれそうなほど美しい、琥珀色の瞳。
「大好き」
 すると、彼の頬にかすかにえくぼが浮かんだ。
 はとこで、顔つきも骨格も肌の色も性格もまったく違うのに、そんなところだけ立石と似ている。
「俺も好きだよ」
 ・・・どこか甘くて柔らかく、優しい声も、似ている。
 似ているけれど、全然違う。
 違うけれど、どこか、似ている。
「ねえ。お母さんは佐古さんのこと、なんて呼んでたの?」
 横向きに寝そべったまま、話を続けた。
「うん?佐古の養母のこと?」
「そう。佐古のお母さん」
「・・・まあくん、かな」
「まあくん?」
「養父母はアメリカ社会に溶け込んで仕事でも成功していたから、英会話は完璧だった。でも、家庭内の会話は日本語を貫いたんだよ。だから、俺のことをまあくんと二人とも呼んだ」

 家の中の書棚に並べられた本の多くは日本語だった。
 今思えば、自分が日本へ戻ることを選ぶ日がいつか来ると二人は予想していたのではないか。
 その時になるべく苦労しないようにと言う気遣いが、彼らとの生活のそこかしこにあった。
 けっして、日本が懐かしかったわけではない。
 息子のために、選択の余地を残したのだ。

「・・・そうなんだ」
「小さい頃はそれを愛称と聞き間違えた人たちが、マークと呼んだりもしたな。そもそもマサトなんて呼びにくいから。そのうち親以外からはマーサと呼ばれた」
「マルタのマーサ?」
「そうそう、それ」
 マサト、と呼ぶのは徹をはじめとする日本の親族たちだけだった。
「・・・ねえ、佐古さん」
 顔を寄せて、瞳をさらに近づけて尋ねる。
 上目遣いに覗き込んで見せた。
「ん?」
 クスクス笑う佐古の吐息が頬にかかる。
「まあくんって、呼んで良い?」
「うん、いいよ」
 なっちゃんならね。
 そう言ってくれたような気がした。
「まあくん」
「うん」
「大好きよ」
「うん」
 頬に手を添えて、唇に軽く挨拶した。
「だから、心を繋ぐことを、怖がらないで」
 柔らかな唇。
 ほんの一瞬だけ、互いの熱を交わした。
「なっちゃん・・・」
 もう一度、目を閉じて、優しく触れ合う。
「身体も、心も、繋ぎたくなる時が、繋ぎたくなる人が、もうすぐあなたの前に現われるから」
 額に唇を落として囁いた。
「だから、大丈夫。きっと、大丈夫」
 優しい呪文が、耳を愛撫する。
「まあくん・・・」
 柔らかな腕がそっと佐古の頭を包み込む。
 確かな力に誘われて、本間の肩に耳を載せた。
 自分よりもずっと小さくて細い身体。
 なのに、暖かな安心感が全身を包む。
 彼女の、強さがとても心地よい。
 とくん、とくんと、生きている証が鼓膜を打つ。
 両腕をそっと背中に回して身を寄せると、彼女も同じように寄り添い抱き返してきた。
 柔らかくて、暖かい。
 すっかり忘れてしまっていた温もりが、身体をすっぽりと包んだ。
 ゆっくりとした鼓動が次第に合わさっていく。
 まるで、胎内にいるようだ。
 ゆっくりと髪を梳かれながら目を閉じる。
「おやすみ、まあくん」
「・・・なっちゃん」
「なあに?」
「ありがとう」
 額の上で、彼女がかすかに笑ったのを感じた。


 大好きだから、大丈夫。
 だから、心を繋ごう。


 友であり、妹であり、母であり、しかし決して女ではない天使が細い腕と白くて広い翼を広げ、静かに笑う。
 ゆっくりと彼女に包まれた後、ゆりかごに揺られる夢を見た。
 

 ふと目を開くと、カーテンの隙間から朝の光りがさしていた。
 頬の下には、細い肩。
 見上げるとそこには、幾分幼い顔をして眠る本間奈津美がいた。
 両腕を回して抱きしめられた状態で眠ってしまったらしい。

 こんなに深く眠ったのは久しぶりだ。
 身体の中が、どこかすっきりとしていた。
 
 ゆっくりと腕を解いてそっと起き上がると、彼女もゆっくりと目を開けた。
「・・・ん?さこさん・・・?」
 まだ、とても眠そうな声だ。
 彼女はここに来るために色々用意して、疲れがまだとれていないだろう。
「まだ寝てて。早いから」
「う・・・ん」
 僅かに身じろぎをすると、そのまますーっと眠りへ戻っていった。
 あどけない顔。
 乱れかかる髪を直したあと、布団を肩まで引き上げてやり、寝室を後にした。


 リビングへ出て壁に掛かる時計を見ると八時をいくぶん過ぎていた。
 カーテンを開けると、空は晴れ渡り、日差しもだいぶ強くなっている。
 街路樹にとまって鳴く野鳥を眺めているうちに、ふと視線を下の車道に向けた。
 このあたりでは見かけない、しかし、見覚えのある高級車が停まっている。
 運転席は見えづらいが、そこにいるのはおそらく自分の予想通りの人だろう。
 携帯電話を取りだし、一瞬迷ったが通話ボタンを押す。
「・・・あ、もしもし。起きてた?早くに悪いけど教えてくれないかな、徹」


 こんなに、自分が考えなしとは思わなかった。

 フロントガラスの前にはしゃれた街路樹が広がる。
 時折、野鳥たちが楽しげにツピツピと鳴き交わしているのが聞こえるが、どこにいるのかよくわからない。
 ぼんやりと座ったまま前を向いていると、窓ガラスをこつんと叩かれた。
 振り向くと、憎らしくなるほど甘い美貌の男が、艶やかな髪をさらりとかき上げて立っていた。
 初めて会った時から、この男からただよう、甘さと柔らかさが嫌いだ。
 窓を開けろとゼスチャーされて、仕方なくウインドーを下げた。
「なにしてんの、こんな所で」
 解りきっているくせに、答えを求めるところも嫌いだ。
「・・・行きは断られましたが、帰りなら良いかと思って」
「なるほど。でも、まだなっちゃん寝てるけど?」
 そんなことをわざわざ言いに来たのも頭に来る。
「・・・なら、待ちます」
「さっきの様子だと、まだしばらくは無理だよ。それに、ここにアンタがいると物凄く目立つんだよね」
 実は、ここに停車してからおよそ1時間。
 道行く人たちが時々不審そうな目を投げかけていた。
 ぐうの音も出ない。
「それは・・・。失礼しました。このあたりに詳しくなくて」
 唇を引き結ぶと、頭上からはーっとため息が落ちた。
「・・・ま、いいでしょ。降参」
 コートに両手を突っ込んだまま、ブーツの踵を鳴らしながら、さっと前を横切り、助手席のドアを開けて滑り込む。
「この道、まっすぐ行って次の信号を右に行って」
 シートベルトを装着しながら顎で示された。
「・・・は?」
「ここから一五分くらい行った山の手に、幻の名店と言われるパン屋があるから」
 ほら、さっさと出る。
 促されて、ドライブにギアを入れる。
「・・・で?」
「パンくらい手土産にしないと、参加できないでしょ、俺たちの朝食会」
 にっこりと、綺麗に笑う。
 朝日がスポットライトのように白い顔を照らし、彼の完璧な笑顔をより美しく演出した。
「・・・まっすぐ行って、右ですか」
 これは慈悲なのか好意なのか。
 とりあえず、彼らの食卓に招き入れてくれることだけは理解できた。
「そう。それからしばらく道沿いに行って」
「承知しました」
 なめらかな動きで車が進む。
 なかなか、快適ではないか。
 ふっと、腹の底から暖かな笑いがこみ上げてきた。


 クリスマスを、祝おう。






 -おしまい-


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