『strawberry』




 冬の午後の、のどかな日差しが好きだ。
 近くに小さなほこらのような神社が残っているおかげで、冬の小鳥たちが椿や山茶花の蜜を目当てにやってきてははしゃいでいる声が聞こえてくる。
「いい天気・・・」
 両手の中に囲ったマグカップの温もりを楽しみながら、ぽつりと独り言を呟く。
 静かだ。
 単身者ばかりでまるで一つのコミュニティーのように交流があってにぎやかなこのマンションも、さすがに今日はおそらく誰もいない。
 周囲のマンションも似たような感じで、区域全体ががらんどうになったような錯覚を覚える。

 元旦の午後なんて、そんなものだ。

 にぎにぎしいテレビ画面を観る気にもなれず、かといって、ベッドに入って横になる気にもなれず、読みかけの本はいっぱいあるけれど、開く気にもなれない。
「どうしたものかな・・・」
 どうやって、この時間を、過ごそうか。

 突然、インターフォンが静けさを破った。
「え・・・?」
 慌てて画面を覗くと、すらりとしたシルエットが映った。
「うそ・・・」
 彼は、ドアの向こうに立っている。
 おずおずと玄関先に近付くと、軽く、こん、と扉を叩く音と、透明な声が低く、聞こえた。
「開けて下さい。いらっしゃるのでしょう?」
 当然のような口ぶりに混乱したまま、素直に扉を開けてしまった。
「すみません、失礼します」
 初春の風とともに柔らかな香りが入ってくる。
 篠原高志。
 いつものように、完璧なスーツ姿で佇んでいた。
「・・・いったい・・・」
 文句を言おうと口を開いたけれど、彼の右手がまるで制すかのように唐突に上がる。
 小さな紙袋を一つ差し出された。
 受け取ると、中には可愛らしい色の花がぎゅっと詰まったアレンジメントが入っているのが見える。
「明けまして、おめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお願いします」
 ゆっくりと優雅に頭を下げられて慌てて答えた。
「あ、これはご丁寧に。こちらこそ、宜しくお願いします」
 整いきった目元が笑みの形を作るのをうっかりまともに見てしまい、とくんと、胸の奥にさざ波が立つ。
「それと、こちらもどうぞ」
 さらに、もう片方の手からもう一つの紙袋が渡された。
 甘ずっぱい、香り。
 宝玉のような赤。
「・・・いちご?」
「はい。これなら、食べて下さるかと思って」
 この男は、どうしていつもこうなんだろう。
 いきなり現われたかと思うと、そっと差し出してくる。
 まるで何もかもお見通しかのように、欲しい物を。
 今一番、欲しいのは・・・。
「・・・奈津美さん」
「・・・はい」
 艶やかな赤い実から目が離せない。
「初詣は、もう行きましたか?」
「はい?」
「すぐそこの、土地神様に挨拶はもうお済みですか?」
 すっと指さす先は部屋の奥のベランダの向こうの、鎮守の森。
「・・・まだだけど・・・」
「行ってみませんか?ちょっと歩くには良い天気です」
 僅かに足もとを扉へ向ける彼が、決してこの部屋へ上がるためにやってきたのでないことをようやく知った。
「ちょっと・・・。ちょっと待って。この格好では無理」
 ルームウェアそのままで、外に出るには気が引ける。
「そうですか。それでは、私は下で待ってます」
 そうして彼はまた、さらりと扉のむこうへ去っていった。
 まるで、風が通り抜けるかのように。

 ロビーへ降りると、柱に背を預けて外を眺めている高いシルエットが目に入った。
 上等なコートを着こなし、精緻と表現したくなるほどの作り物めいた横顔は浮世離れしていて、まるで高級メゾンのポスターを見ているようだった。
 そんな人がどうして。
 尋ねたところで、どうにもならない。
「ごめんなさい、お待たせしました」
 声を掛けると、篠原はゆるりと笑みを浮かべた。
「いいえ。せっかくおくつろぎの所、こちらこそすみません」
 外に出ると、柔らかな日差しが降り注ぐ。
 でも、予想より少し風が冷たかった。
 神社の境内へはマンションから少し回り道をしないと入られない。
 厚手のカーディガンを羽織ったものの、ちょっと油断したかなと後悔しかけたところで首に暖かい物が巻かれた。
「しばらく、これで我慢して下さい」
 柔らかなマフラーは、つい先頃まで彼の首元あったはずで。
 ほんのり、暖かかった。
 なめらかな感触も、気持ちいい。
 でも。
「・・・高そうな、マフラー・・・」
 つい、減らず口をついてしまう。
「そうですね。多分高いと思います」
「は?」
 しらっと返されて思わず眉を上げた。
「大奥様からの贈り物なので」
「ああ・・・そう・・・。それは、そうでしょうとも・・・」
 大奥様、とは大物政治家長田有三の妻、富貴子のことで、篠原高志の雇い主だ。
「贈り物、と言うより、支給品と言った方が良いかもしれませんね」
 雇い主の私生活に深く介入している分、また逆のことも言えるのだろうか。
 全身高級品に固められたその身なりからは、秘書としての彼以外、何も浮かんでこない。
「ちょっといいですか?」
 ふいに手を取られ、そのまま彼のコートのポケットの中に入れられてしまう。
「ちょっとって・・・」
「ちょっとです。境内に着くまで。片手だけでもこうしていたら暖かいでしょう」
 大きな手に握り込まれて引き抜けない。
 いや。
 力を込めて振り払えば、彼はけっして無理強いしたりしないだろう。
 だけど。
「・・・着くまでだからね」
「ええ。着いたら開放しますよ」
 恩着せがましい言葉を、彼は優しく受け流してくれた。
 ピチュ、ピチュチュ?というメジロたちのにぎやかな鳴き交わしが後ろから追いかけてくる。
 冷やかされているような気がして、とっさに手を引こうとしたらやんわりと指を絡められた。
「着くまでですから」
「着くまでね」
 自分はまるで我慢のきかないこどものようだ。

「・・・意外」
 拝殿の前で手を合わせた後、ふっと口をついて出る。
 彼は、こんな小さな社にも丁寧な作法で参拝した。
 空気の澄み切った鎮守の森の中で、それはとても尊いさまに映った。
「なにがですか?」
「篠原さんの口から、土地神様に挨拶、と言う言葉が出るとは思わなかったから」
 表向き隠居という形を取っているが、長田有三、富貴子夫妻は今も精力的に政治活動を行っている節があり、彼らの秘書は何人もいると聞くにもかかわらず篠原はいつも多忙な上に海外渡航を盛んに繰り返している。
 グローバルな活躍ぶりと土着の信仰はなんとなく不似合いな気がした。
「ああ・・・。そうですね。私を育てた人がけっこうな歳だったので、ついそういう習慣が出てしまうのかもしれません」
 さらりと返され、言葉に悩む。
「ええと・・・。聞いて良いのかな。あなたを育てた人って?」
「前、啓介さんが漏らした、三味線の師匠です」
「ああ・・そういえば」
 いつか、同僚達で集まってたわいのない話をしていた時にそのようなことを耳にしたような気がする。
「もう方言はすっかりとれてしまいましたが、小学生の頃から京都の花街界隈で育ちました。両親の離婚後親族の中を転々とした末に、とうとう最後には家系図辿った先の遠縁に無理矢理頼み込むかたちになってしまい、彼も困ったと思います。当時七十を越えていらしたわりにはお元気でしたが私が高校生のころに亡くなりました。それから大奥様の開く長田塾に入って今に至るのですが…」
 長田夫妻の孫であり同僚でもある片桐啓介から聞いたことがある。
 通称長田塾。
 優秀な若者を集めて才能をのばす手助けを行っており、その内容は政財界ばかりではなく多岐にわたる。年齢、国籍も問わず、経済的に恵まれない場合はその程度に応じた生活の支援も用意されているらしい。その非公式な教育機関の中で、篠原は最も優秀な卒業生の一人だとも聞いた。
「およそ十年、寝食を共にして、色々教えて貰いました。昔気質の方ですから躾けに厳しかったけれど、そのおかげで何処に出向いても困ったことがありません」
 確かに、彼の所作の美しさはその美貌をさらに引き立たせている。
 流れるようなその動きは、日舞を見ているようだ。
 だけど。
「・・・三味線、も、引けるの?」
 それを面と向かって言う事がどうしても出来ない。
 ちょっともつれてしまった舌にいらだちを感じた。
「はい。そこそこ・・・。とりあえず中学生の時に賞をとるくらいまでは行きました」
「え?なら・・・」
「向かない、と言われました」
 作り物めいた、精緻な横顔。
 薄い唇がじんわりと笑いの形を作る。
「生業にするには私の顔は邪魔だそうです」
「は?」
「実際、色事のごたごたが既に始まっていましたので・・・」
「ああ・・・なる・・・ほどね」
 今更だが、彼の色事に関する熟練ぶりは一度自ら体験しているから、おおよそのことは想像できる。
「ほんとうに、そこそこ、までしか出来ないのを早くに見抜かれていました。だけど雰囲気だけでなんとなく実力以上のものに見られてしまったり、必要以上にもてはやさされて、苦しむようになるだろうと、心配して下さいました。そして、密かに富貴子様に私を託されていたのです」
 ふと足を止め、傍らを歩く奈津美の瞳を見つめ、静かに続けた。
「彼にはとても感謝しています。実の両親たちは私のことなど一度も思い出しもしなかったのに、先の先まで考えて毎日を丁寧に過ごしてくれた。彼との生活でなにひとつ無駄なことはなかった」
「・・・たのしかった?」
「はい、とても」
 とても、しあわせだった。
 彼の瞳は、そう語っている。
 だけど。
 その大切な人は、もうこの世にいないのだ。
 触れてくれない。
 心配してくれない。
 叱っても、くれない。
 なら、今は?
 今のあなたは、どうなの?
 聞いたところで、どうしたいのか、自分が解らない。
 唇を噛むと、すっと、暖かなものが触れてきた。
 篠原の、指先だった。
 ゆっくりと優しくたどって、力んだ唇をあやされる。
「ありがとう」
 それだけで十分だと、彼の体温が語りかけてきて、胸がつきんと痛んだ。
「ねえ、あのね・・・」
 せり上がってくる何かを言いたくて声を出したその時、カーディガンのポケットに入れていた携帯が鳴った。
 慌ててとりだして耳に押し当てると、柔らかな声が聞こえてくる。
「奈津美・・・?あなた、今どこにいるの?」
 懐かしい声。
「・・・おかあさん」

 ただそれだけで。
 幼い私に、戻ってしまう。

「・・・どうかしましたか?」
 気遣わしげな声に、はっと引き戻される。
「母が・・・。母が、来たみたい」
 なぜ?どうして?という言葉がくるくると回る。
 進学のために家を出てから、ずっと独りで暮してきた。
 その間、家族は誰一人訪ねてきたことがない。
「お母様が・・・。なら、私はここで・・・」
 とっさに、手が出てしまった。
「待って」
 上質の、コートの袖が皺になる。
 そう思ったけど、離せない。
「お願い、お願いだから、一緒に来て・・・」
 この先が怖くて、ひとりでは、歩けなかった。

 エントランスのドアが開くと、ロビーのソファセットにすっと背筋を伸ばした女性の姿が見えた。
「奈津美」
「おかあさん・・・!」
 足早に駆け寄る音が響く。
「どうやって入ったの?今日はみんないないのに・・・」
 母に、スペアキーを渡していない。
 渡せなかった。
「丁度、最上階に住んでます、って言う男性が通りかかったの。本間さんならさっき出て行くところを見かけたけど、薄着だから多分すぐ戻りますよって」
「・・・森本さんね・・・」
 神出鬼没のオーナーは、おそらく篠原と一緒の所を見かけたのだろう。
「足もと冷えますからって、膝掛けを貸して下さったわ。お礼を言ってお返ししてね」
 相変わらず、そつのないことだ。
 店子たちが口を揃えて魔性と呼ぶ最上階の主の、のほほんとした顔を思い浮かべる。
「・・・うん。わかった」
 クリーム色のカシミアの膝掛けを受け取っていると、母の視線が背後を凝視しているのに気が付いた。
「そちらの方は・・・?」
 そうだった。
 今更だが、マンションの入り口まで手を引いてくれていた人のことをすっかり忘れていた。
「初めまして。篠原と申します。奈津美さんのお仕事を介して知り合いました」
 すっと、なめらかな所作で名刺を母に差し出す。
「コンサルティング会社・・・、の、方?」
「はい。と言っても、簡単に言えば何でも屋ですが」
 以前、片桐に聞いたことがある。
 長田有三夫妻の名が大きすぎるので、彼は時と場合によって名刺を使い分けていると。
 実際に表記されている会社は実在するし、所属はしているが、本業はあくまでも秘書業務で、それも筆頭と言って良い地位を確立している。
 だけど、そのことを伏せていた方がよい時もあるのだろう。
 およそ二十年専業主婦をしてきた母は、少し首をかしげた後、そうなんですか・・・と、肯いた。
「この近くに住んでいまして、昨夜知人より果物を頂いたのでお裾分けに上がりました」
 これは、真っ赤な嘘だ。
「果物を?まあ、すみませんね。この子、果物に目がなくて」
「いえ。独り暮らしにはもてあます量だったので、こちらとしては助かります」
 涼やかな微笑みを浮かべながら、嘘を重ねる男を思わずまじまじと見つめてしまった。
「あらまあ独り暮らしなのですか・・・。なら丁度良かったわ。篠原さん、この後、まだ少しお時間ありますか?」
「・・・え?」
 さすがの彼も、母の話が見えなくて真顔になった。
「実は、お節料理を持ってきましたの。お嫌でなければ、上がって少し召し上がりませんか?」
「いえ、せっかく水入らずで過ごされるつもりでいらしたのでしょうから、私は・・・」
「本当のところ、ついつい作りすぎてしまって・・・。二人で食べるには多くて、途方に暮れていたところなのです。ああでも、かなり我流の田舎料理なので、お口にあわないかもしれませんね・・・」
 年配の女性にそう誘われて、否と言えるはずもない。
「・・・お邪魔でなければ・・・」
 敏腕秘書が折れるのに、コンマ一秒もかからなかった。
「すみません、初対面なのに無理を申しまして」
「いえとんでもない」
「ありがとうございます」
 満面の笑みを浮かべる母は、結局、お客様のはずの篠原に重たげな包みを持たせてエレベーターに乗り込んだ。

 母は、実は凄い人なのかもしれない。


「田舎料理でごめんなさいね」
 風呂敷を解いた中には、小ぶりとはいえ輪島塗の重箱が鎮座していた。
 そして、三段重ねの中にはみっしりと色とりどりのお節が詰め込まれている。
「おかあさん・・・。重かったでしょう」
 黒豆、田作り、栗きんとん、筑前煮、紅白なます、菊花蕪、酢蓮根、寒天、かまぼこ、昆布巻き、伊達巻き、数の子、エビのうま煮、八幡巻・・・。
 本間家の長年の定番料理が一つとして欠けることなく、きらきらと輝いていた。
「おすましも作ってきたわ」
 さらには魔法瓶まで出されて、本間は吹き出した。
「やだ、お母さんったら、もう・・・。そこまでする?」
「ええ。やるからには全部やりたかったの。そして、食べて欲しかったのよ」
 途端に、本間の顔から色がすっと落ちていく。
「おかあさん・・・」
「全部、お義母さまから教わったお節でしょう。これを食べて、区切りを付けたかった」
 区切り、と小さく呟く娘の、乱れた髪をゆっくりと指先で直しながら篠原を見上げた。
「この子の祖母が、昨年の梅雨の頃に突然亡くなりましたの。本当は喪に服すべきなのですが、どうしてもこの子に食べさせたくなって、作ってしまいました。姑は料理上手でしたが、同居していると色々あって・・・」
「色々なんて、もんじゃない。お母さんは・・・」
「奈津美」
「お祖母ちゃんも、お父さんも、私も、捨ててしまえば良かったのよ。そうすればもっともっと早く楽になれたのに・・・」
「なつみ」
「奈津美さん」
 二人から同時にたしなめられて、肩を揺らす。
「もう、終わったわ。だから、大丈夫」
「・・・お父さんが、いるわ。まだ」
 まだ、あの家には。
「その件なんだけど」
 核心の予感に、耳をふさぎたくなる。
「関連会社に出向になって、先月から単身赴任しているの。しかも着任早々に部下が不祥事起こして、その対応に大わらわでお正月も帰ってきてないわ」
「え・・・。じゃあ、吉央は?」
「まあ、吉央は相変わらずひばりさんのところに入り浸りね。だから、家の中がとても広くて・・・」
「知らなかった・・・。ごめんなさい」
「いいのよ。お父さんが帰ってこないって決まったのが本当に直前だったし、こうしてあなたの部屋に来てみたかったの。・・・ところで、奈津美」
「はい」
「お皿と、御椀あるかしら・・・?お箸は持ってきているけど・・・」
「あ!!」
 ふいに、現実へ引き戻された。
「篠原さんをお待たせしっぱなしにして、ごめんなさい。無理矢理上がって頂いたのに・・・」
「いえ、大丈夫です、お気になさらず・・・。何か手伝いましょうか?」
「いや、とんでもない!座っていてちょうだい」
 腰を浮かしかけた篠原の肩を慌てて押さえて立ち上がる。
「ごめんなさい、すぐに支度するからちょっと待ってて・・・!」


 慌てて台所へ駆け込む娘を愛しげに見送った母親は、一拍おいて軽く握った両手を床について膝をゆっくりとずらし篠原に向き合う。
「改めてまして。本間良子と申します。実はあの子の両親が離婚した後、後妻で入りましていわゆる継母に当たります」
「ああ・・・。そういうことでしたか」
「ええ。似てませんでしょう?私たち。私は骨張ってごつごつしていますし」
 ぴんと延ばした背中は確かに女性としては大柄な方に見え、少し角張った顔立ちと相まって丁寧な口調とともに固く生真面目な空気をまとう。
 しなやかな肢体ときめの細かな白い肌そしてこぼれそうな大きな瞳で明るく軽やかな雰囲気の奈津美と並ぶと、一見親子に見えないかもしれない。
 だが。
「いいえ、お二人はよく似ておられます」
「え?」
「雰囲気がとても」
「・・・そうでしょうか?」
「はい。それに先日奈津美さんは、たくさん料理を作ってお友達を突撃していましたよ」
「え?あの子が?」
「ええ。そっくりですね。なさることが」
 鞄いっぱいに愛情を詰めて、彼女は向かった。
 聖なる夜をともに乗り越えるために。
「あらまあ・・・」
 ふっくりと、柔らかな笑みが、彼女の唇に広がった。

「・・・茶道のお稽古を一緒にされていたのですか?」
「わかりますか?」
「はい。流派が少し違いますが私も子どもの頃に少し囓ってますから」
「そうなのですか。実は姑も同門で習っていました。それが縁で本間家に入ったのですが、やはり身内になるとなかなかうまくいかないものですね」
「吉央さん・・・は、弟さんですね」
 年の離れた弟がいる、とは聞いたことがある。
 しかし、本間が家のことを話すのはまれだと、親しい女性達が教えてくれた。
「ええ、私に似ず線の細い子に育ちました。大変お恥ずかしい話ですが、夫が仕事のストレスでかなり荒れていた時期がありまして、隣の親戚宅に子供たちはよく避難していました。あの子に至ってはもうあちらにほとんど住んでいるような状況で」
 一人きりの正月。
 帰れない、がらんどうの家。
 渡せない、合い鍵。
「だから・・・」
 台所で慌ただしく食事の支度をする生真面目な姿を、目で追う。
「奈津美さんは、優しいのですね」
「・・・ありがとうございます。私も、そう思います」
 
 冷凍庫にしまっていた生麩と三つ葉ですまし汁の体裁を整えて、お節を分け合っているうちに急いでセットしたご飯も炊きあがり、ぽつりぽつりと雑談を交えて箸を進めると気が付いたらお重箱はほぼ空になっていた。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「いえ、とんでもない・・・。お付き合い下さって、本当にありがとうございました」
 二人が和やかに挨拶し合っている中、玉露を淹れてデザートの支度をした。
「お持たせで悪いけれど、せっかく頂いたから・・・」
「あら、いちご」
 ガラスの器に盛った宝玉に母は目をみはる。
「奈津美の、大好物ね」
 小さな子どもに送るような眼差しと声色に、身の置き所がなくなった。
「やめてよ、お母さん・・・」
 頬が、熱くなる。
「あなたは多分覚えていないでしょうけれど、私が本間家へ初めて伺った時に、苺を手土産にしたのよ」
「え・・・」
 両親が離婚したのは三歳の誕生日の直前だった。
 それから半年も経たないうちに再婚話が決まったと親戚たちに聞いている。
「まだ三歳だったのにね。聞き分けが良くて、とてもとても礼儀正しい女の子だった。大人たちに囲まれた中をずっと黙ってちんまりと座っていて、床の間に飾られたお人形さんみたいだったわ」
「・・・おかあさん」
「今と同じように、お義母さんがお持たせですけど、って、苺を出して下さったの。そしたらね。あなたがようやく喋ったのよ。「いちご・・・」って。注意しないと聞き取れないほどの小さな呟きだったけれど、それはとても可愛い声だった」
 目の前に置かれると大きな瞳をきらきらと輝かせて、デザートフォークに刺した苺をぱくりと頬張った。
「食べちゃいたいくらい可愛いって、このことを言うのかって、ときめいたわ」
 小さな唇を閉じて、ゆっくり咀嚼する頬は薔薇色に染まって、心から喜んでいると誰にでも解る。
 細い、頼りない指、ちいさな手の平、桜貝のような爪。
 器用にフォークを操って、ゆっくりゆっくり大事そうに食べる様子が可愛らしく、見守る大人たちの空気が一気に和らいだ。
「それで、思ったの。こんな可愛い女の子のお母さんになれるなら縁談をお受けしようって。お義母さんとは知合いだし、お父さんもきちんとした会社に勤めていて当時とても格好良かったけれど、やっぱり後妻なんてと内心思ってた。でも、一瞬で翻ったわ」
「おかあさん・・・」
「苺を食べるあなたは、ほんとうに、可愛かった」
 母の、決して柔らかいと言えない大きな手が、ゆっくりと冷え切った指先を温めてくれる。
「篠原さん」
 向き合った娘から和やかな視線を外さないまま、傍らの篠原に語りかけた。
「はい」
「この子が果物食べている時って、なんだか物凄く可愛いでしょう?どこか、素に戻るというか」
「ええ。小さな女の子がひょっこり出てきてますね」
「ふふふ。そうなの。ちいさな、ちいさなおんなのこなの」
 どこかわかり合っている二人の会話に、ちょっと不満を感じて唇を尖らせると母が晴れ晴れとした顔で笑った。
「あなたの中のちいさな女の子に会いたくて、私はせっせと果物をかきあつめたわ。美味しそうだと思ったら、ちょっと高くても、つい・・・ね。お義母さんには買いすぎだと何度も苦情を言われたけど」
「・・・知らなかった」
「ええ。私だけの秘密ですからね」
 こんな、茶目っ気のある表情を見せる人だなんて、知らなかった。
「なっちゃん」
 幼い頃の、呼び名で、母は語りかけてくる。
「私が、あなたを、産みたかったわ」
「おかあさん・・・」
「確かに本間の家ではこれまで色々あったわね。でも、それは覚悟していたことだから。ただ、あなたを産めなかったことだけが、ずっと、ずっと残念だった。・・・悔しかったの」
「おかあさん・・・」
 胸が、痛い。
 きゅうと、絞り上げられるように痛い。
 堰を切ったように涙が、こぼれた。
 はらっても、はらっても、涙が止まらない。
 頬を伝って、顎からぽたぽたと、母の手の甲を濡らしていく。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん・・・」
 他に、言葉が見つからない。
「おかあさん」

 だいすきよ。






 -おしまい-


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