『はつこい。』



 店を出ると、夜の冷気がひやりと首筋を撫でる。
 桜はもう八重も終わりがけの季節になったが、花冷えと言って良い寒さがこのところ続いていた。
 周囲に視線を巡らせると、道を挟んで向かいの公園前にある電柱の下にほっそりとしたシルエットが佇んでいるのが見えた。

「ハル・・・」
 車が来ないことを確かめてから通りを横切り、駆け寄ると、ふわりと春彦が笑った。
「片桐さん」
 古い外灯の光の中、彼の白い顔がはおぼろに見え、慌てて両手で頬を包む。
「こんなに寒いのに馬鹿だな。店の中に入るか、近くの喫茶店で待ってればいいのに」
 ひんやりと冷たい肌に、体調を崩していないか心配になり、つい口調もきつくなった。
「もともと北国育ちですから、このくらい何ともないですよ。ここに着いたのはほんの少し前ですし」
 そう笑う唇がほんのりと赤い。
 とりあえず彼の言葉に嘘はないようだが、すぐにむき出しの両手を掴んで、それぞれ自分のコートのポケットに入れた。
「大丈夫なのに・・・」
 心配性ぶりをおかしそうにくすくすと笑う吐息が片桐の首元を撫でる。
「いいから、しばらくこうしていろ」
 互いのつま先が触れそうな近さで囁いた。
「・・・親父さん、大丈夫だったか?」
 ポケットの中の手をぎゅっと握り込む。
「はい。養父は強い人ですから・・・」
 春彦の母の再婚相手である中村氏は、数年前に治療した癌が再発し、今日が再手術だった。
「・・・母も、強くなりました。もう手術ぐらいでは動じません。おかげで養父が目覚めてからは俺なんか完全に邪魔者扱いで。・・・かなりあてられました」
 細い指先でゆっくりと握りかえす。
 俯いて、片桐の胸のあたりを見つめながら、吐露する。
「そうしたら、会いたくなって・・・。どうしても早く、会いたくて・・・」
 片桐が戻るまで待てなかった。
 だから、食事会には間に合わないことを知りつつ、店のある場所で電車を降りた。
「そうか」
「・・・会えて、良かった・・・」
 呟きは、下からすくいあげるように押し当てられた唇に遮られた。
「ん・・・」
 両手をそのままに、身をかがめた片桐が優しく唇をついばむ。
 軽く伏せた茶色のまつげが頬を掠めた。
「・・・あのな」
 頬を、瞼を、ゆっくりと唇で愛撫しながら、片桐が囁く。
「さっき余興で本間が記憶力のチェックとか言って、今まで付き合った相手の名前を数えさせられたんだけど・・・」
「え・・・」
 思わず、少し身を固くした春彦の額に優しく唇を落とした後、こつん、と自らの額を当てた。
「お前の名前以外、まったく思い浮かばなかった・・・」
 春彦は思わず視線を上げると、暖かな瞳に囚われる。
「お前だけだ、春彦」
 静かな囁きに、胸が苦しくなった。
 唇が欲しい。
 そう思った瞬間、熱い吐息が春彦の唇をなぶった。
「ハル・・・」
 甘い、甘い声が下りてくる。
 下唇を強く吸われて、背筋が震えた。
「ん・・・」
 軽く、何度も何度も角度を変えて唇を吸われているうちにだんだんと距離が狭まり、春彦の顔も仰向いていく。
 ゆっくりと、幾度も交わされる口づけ。
 いつの間にか春彦の両手は片桐のポケットに入れられたままでコートを握りしめ、身体はすっぽりと彼の両腕に包まれていた。

 暖かい。

 まなじりから一筋、涙が落ちた。





 -おしまい-


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