『お引っ越し』




「これで、だいたい落ち着いたかな」
「そうですね」

 片桐と春彦はゆっくり辺りを見回す。
 まだ、リビングセットなど大物家具は買っておらず、収納庫やクローゼットにそれぞれの持ち物をとりあえず入れただけで、2LDKの室内はがらんとしている。
 お互い、手狭な寮生活を送ってきたためにさほど荷物はないが、作り付けの収納棚に収めていた本や小物は行き場がないので、日常に差し障りのないものは段ボールに納めたままだ。
 キッチンのカウンターテーブルにスツールを寄せて座り、ほっと息をつく。
「食器類は、100均あたりで買うか・・・」
 片桐は物憂げに呟く。
 賄い付きの寮だったために、二人ともほとんど持っていない。
「あ、その件ですけど、当面は立石さんが一部貸してくれるそうですよ」
「あいつのとこは、食器ありすぎだもんな・・・」
 一つ下の階の3LDKに住んでいる立石は訪れる人が多いために、いつのまにかけっこうな食器類を所持している。
 本人が買いそろえたものもあり、友人達が持ち込んだもの、お礼として贈られたものと、形も種類もとりどりだ。
「まあとりあえず、今はこれさえあればいいな」
 片桐が吊り棚からマグカップを二つとりだし、紅茶を入れた。
「これは・・・?」
 荷物を開いた時には見かけなかったそれに、春彦は首をかしげる。
 持ち手のないストレートのシンプルな形で、小刻みに散らされたボーダーは回転している独楽のような色彩を放っていた。
「ん。本間と橋口さんから。引越祝いだと」
 立石とルームシェアしている本間の元に、最近、橋口が良く尋ねてきている。
 北欧食器好きの橋口達らしいチョイスだが、場所や性別を選ばないデザインは一目で気に入った。
「そうですか・・・。あとでお礼を忘れないようにしないと・・・」
「そうだな」
 互いに両手にカップを抱えて微笑む。
「・・・ハル」
「はい」
 呼ばれて顔を上げると、片桐がそっと唇を寄せた。
「・・・ん」
 互いの吐息が飲んだばかりの紅茶に温められ、くすぐったい。
「はやく、手続きが済むと良いな・・・」
 軽く唇を合わせながら片桐が囁く。
 この部屋の借り主は片桐で、正式に退寮したのも彼のみだ。
 中村の住まいは今のところ寮にとどめている。
 江口と池山のように所属部署が全く別で、別々の部屋を借りられれば同時に退寮することも考えられたのだが、今回の空き部屋はこの2LDK一つしかなかったため、まずは片桐が引っ越すことになった。
 片桐はTEN本社採用で、春彦は系列会社所属なので事務手続きの窓口は別である。
 しかしいかんせん同じ部署で一緒に仕事をしている上に、関連会社が合同で利用している寮も同じだ。
 まず一人だけ転居届を出し、ほとぼりが冷めた頃を狙って次の手続きをした方が良いだろうという本間の助言に二人は素直に従った。
 姑息な手段ではあるが、破談騒動で注目を浴びた片桐の動向を興味本位に話題にする女子社員達はまだ多いという情報と、二人の親族が社会的にそこそこ注目される立場であるということを考えて、何事も慎重に進めることにした。
 しかし、事態が沈静化するまで悠長に待てないのも本音で、春彦の荷物のほとんどを一緒に運び込んでしまった。
「本間さんが知ったら大目玉でしょうね・・・」
 せっかくのアドバイスを無にしてしまったことを気にする春彦の唇を親指でなぞる。
「別に、あいつは一緒に住むなと言ってないよ。ただ、いざというときのためにアリバイ工作しとけってことさ」
 だから、わざわざペアのマグカップなんか贈ったのだろう。
 唇を開かせて舌を軽く絡ませた。
「・・・ん・・・。けい・・すけ・・・さん」
 口づけの合間に、春彦が名前を呟く。
 片桐は唇の端を軽く吸い、両手でなめらかな白い頬を愛撫しながら話を続けた。
「・・・前から、思ってたんだけど・・・」
「・・・はい・・?」
「そろそろ、清乃さんたちに挨拶に行きたいんだけど、駄目か?」
「・・・え?」
 それまで、すっかり片桐の唇に酔わされてぼんやりしていた春彦が目を見開く。
「それって・・・」
「だって、もう、一緒に暮すんだろう?お義父さんのこともあるから、はっきりさせておいた方が良い」
 春彦の義父にあたる中村友和はつい先日癌の手術をしたばかりだ。また何が起こるかわからない。もしもの事を考えて緊急連絡先をいくつか報告しておく必要があると、片桐は早くから考えていた。
「・・・清乃さん達に知られるのは、嫌か?」
 しかし、春彦には春彦なりの考えがあるだろう。
 いざとなったら、春彦の両親を含め、真神の叔父たちもどうとるかわからない。
 先走りすぎていないかという懸念もあった。
「いいえ・・・。いいえ。ただ、まさか、そこまで考えてくれていたなんて・・・」
 目頭が熱くなる。
 気持ちが通じただけでも十分嬉しかった。
 でも、今、片桐は自分との未来を考えている。
 春彦が顔を僅かに歪ませると、額に、瞼に、鼻に、頬に、何度も口づけされた。
「正直、どう挨拶したらいいかなんて全くわからない。でも、まずは清乃さん達の了解を得て、それから九州へ行こう」
 頬を優しく包んでくれている片桐の両手に、自分の手を添えて見上げた。
「・・・詩織さん達にも、言うんですか?」
「・・・ああ。俺はそうしたい」
 おそらく、片桐の父は激怒するだろう。
 母も悲しむかもしれない。
 多感な時期の詩織は嫌悪して、二度と顔も見たくないと言うだろう。
 破談で騒がせて間もないのに、次の恋愛にうつつを抜かしていることにまずあきれるだろうし、相手が男性であると言うのは理解しがたいだろうから。
 春彦の人柄をもってしても、理解されるのはなかなか難しいと思う。
 片桐にしろ長田にしろ、絶縁は、もちろん覚悟している。
 ただ、それによって春彦が傷つくことは出来るだけ避けたい。
 そう願っても、現実は厳しいだろう。
 それでも。
「勝手で済まないが、ついてきてくれるか?」
「はい。もちろん」
 今度は、春彦から片桐に唇を寄せる。
 いつも笑みの形を作っている厚めの唇に自らの薄いそれを合わせて、ゆっくり吸った。
 互いの鼻をこすり合う。
 そして、片桐の手の平を取り、それぞれに口付けた。
「・・・勇仁さんに、殴られるだろうな」
 手の平を愛撫し続ける春彦を見つめながら呟く。
「させません。・・・というか、父がそこまでするとは到底思えません」
「いや・・・。ああ見えて、勇仁さんはお前のことを忘れたことないはずだ。絶対殴るね、あれは」
「まさか」
「いや、俺の確かな情報筋によるとな・・・」
「なんですか、それ」
 二人で額を寄せてくすくす笑っているなか、近くで、こん、と柱を叩く音がする。

「えっと・・・。あのさ・・・。そろそろ良いか?」

 はっと顔を上げると、すぐそばの廊下の入り口の柱に池山が手を突いて覗きこんでいた。
「だってドアが開いてたんだもん、うっかり入っちゃってさ。そしたらえらく良い雰囲気で、お邪魔かな、お邪魔だよなと思ってしばらく待ったんだけど、なかなかきりの良いところに辿り着かないからさ・・・・。もう、俺、腹が限界」
「・・・は?」
 途端に、きゅるると池山の腹の虫が鳴った。
「い、池山・・・。お前、いったいいつからここに」
 慌てて、二人はスツールから降りて離れる。
「ん~。親御さんに挨拶のあたり?ハルちゃんのお母さん、清乃さんって言うのな」
 片桐は額に手を当て、春彦は耳まで真っ赤に染めて俯いた。
「つうか、お前ら、ほんっとまだなんにも家具入れてないのかよ」
 ずかずかと入り込み、ふと、リビングの隣の部屋に目を向ける。
 片桐がはっと息を呑んだがあとの祭りで、にんまりとだらしなく崩れた笑みを浮かべた池山がくるりと振り返った。
「しっかりと、ベッドだけは入れてんのかよ。しかも、部屋いっぱいじゃん、このスケベ」
 寝室は7畳ほどだが、キングサイズのダブルベッドを入れたらさすがにそれでいっぱいになってしまった。
 肩を小突かれて、さすがの片桐も赤くなる。
「お前の所も似たようなもんだろ」
 片桐は真上の江口の部屋へ行ったことはないが、彼の体格から考えて同じような家具を入れているのは想像に難くない。
「まあそうだけどな。そんなわけで宜しく、ご近所さん。騒音の苦情はお互いナシな」
 ばしばし背中を叩かれて、もしかしてここが今空き室になったのはこいつらのせいかと邪推したくなる。
「お手柔らかに頼む・・・」
「おう」
 訳のわからない握手を交わしながら、ふと、首をかしげた。
「で?何の用だよ」
「ああ、どうせ夕飯まだだろ?立石のところで飯食くわねえかと思ってさ。今日は手巻き寿司するってよ」
 立石と池山は今朝早起きしてレンタカーを借りてきて、搬入の手伝いをしてくれた。本間も先に床の掃除などしてくれている。
「こっちがお礼に出前でも取ろうと思ってたんだけど・・・」
「ああ、それはまたでいいんじゃね?佐古が急に魚が食いたいって言い出してさ、あの車で弥生ちゃんも拾って買い出しに行ったんだよ。いやもうなんか凄いよ、下」
 つまりは今、立石の部屋に本間を始め、佐古と橋口もいると言うことか。
「車は?」
「俺が今返してきた。んで、寿司飯も出来たしそろそろ食おうぜって話になったからさ、俺が呼びに来たわけよ」
 せめて本間達じゃなくて良かったと、春彦は胸をなで下ろした。
「ビールとかは?」
 なければ買いに行こうと思い、片桐が問うと、池山が肩をすくめる。
「あの面子で酒がないわけないだろ。引越し当日なんだから気にすんなよ」
「何から何まですみません・・・」
 頭を下げる春彦に笑って手を上げ、玄関へ歩き出す。
「じゃ、俺、先に降りとくからさ。すぐにこいよ」
「ああ。サンキュ」
 二人が慌てて身支度を始めたのを横目に、部屋を辞した。

 扉を閉じながら、池山は独りごちた。
「親御さんに挨拶か・・・」

 考えなかったわけはないけれど。

 髪をかき上げ、ため息をつく。
「なんにしろ、アイツはこっちにいないし・・・」
 
 少し、あの二人が羨ましい。

 いつか、本間達が漏らした言葉を思い出す。

「・・・まあ、とりあえずは、アイツらオモチャに楽しむかな」

 のたりのたりと歩きながら嘯いた。
 
「帰ってきたら、覚悟しろよ、コウ・・・」

 心の奥底に、よくわからない何か、火のような物が灯された。


 風が、吹く。
 何かが動き始める気配がした。

 彼らの門出に幸いあれ。


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