『オトナの階段』
目の前の女性は、まるで十代の少女のような身体で、淡雪のようなはかなげな笑みを浮かべた。
「大変失礼だけど、貴方、おいくつかしら?」
「12歳です」
「まあ、ちょうど私の子供の2倍なのね」
彼女の名前は、真神清乃。
北部地方の大物政治家の跡取り娘だと、啓介の頭の中で叩き込まれたデータが次々展開していく。
それにしても、左の薬指には見事なダイヤの指輪が重たげに装着されていることから既婚者と知れるが、六歳の子供がいるとは驚きだ。
生活臭どころか、彼女から一切の生気を感じなかった。
これで新しい生命を生み出せたなんて奇跡に違いない。
「いつか、あの子に会ってやって欲しいわ・・・」
細い指先がガラスのカップの縁をゆっくりとなぞる。
まるで貝のような白さに目を奪われていて、近付く人の気配に気が付くのが送れた。
「おい。お前、ここで何している」
怒りを押し殺したような声が二人の間に割って入った。
一瞬にして、清乃の表情が凍りついた。
振り向くと、眼光鋭い男が立っている。
背が高く、均整のとれた体つきと彫りの深い顔だちからは成熟した男の完成した色香が漂い、一瞬にしてこの場を支配する。
真神勇仁。
新進気鋭の若手政治家。
清乃の夫が、そこにいた。
「・・・勝手に離れるなと言っただろう」
不機嫌さを隠しもせず言い放つ彼に、せっかく色を取り戻しつつあった彼女の顔と指先がまた青白くなっていくのを啓介は黙って見ていた。
暖かいカップを握っていた手が僅かに震えている。
「それは大変失礼しました。僕が無理をお願いしてお付き合い頂いたのです。どうか奥様を責めないで下さい」
おそらく、彼の勘に障るであろう言い方で口を挟んだ。
怒りの矛先が自分へ向けばよい。
・・・とりあえずは。
「何だ、お前は」
案の定、全く視界に入っていなかっただろう自分にようやく気が付き、むき出しの敵愾心を見せた。
「どこのガキだ」
似合わないなりに、上質な身なりをしていて良かったと今は思う。
ただの通りすがりの子供ではなく、パーティの関係者であることくらいは解るだろうから。
「あの・・・。その方は・・・」
「お前に聞いていない」
おずおずと声をかけた清乃をひと睨みで黙らせた。
「見かけないヤツだな。どこのモンだ」
こうなるとまるでヤクザだなと、彼のすごみっぷりを冷めた目で見返す。
長田家から渡された関係相関図に書かれていなかった文言を自らの脳に刻んだ。
真神勇仁。
真神家の婿養子。
妻の清乃に異常に執着する。
・・・おそらくは、DVの域。
清乃は真神家存続のための生け贄か。
彼女が心身共に若いまま時を止めてしまっている理由を思うにつけ、暗い気持ちになる。
しかし、出会ったばかりの上にまだ子供の自分が彼女の為に出来ることなどたかが知れている。
せいぜい、この件の咎を自分にする程度だ。
子供は、本当に無力だ。
早く大人になりたいとは思わないが、時々、力が欲しいと思うこともある。
「まあ・・・。長田の、啓介と申します」
あの世界では、その一言でたいていの大人は矛を収める。
例え、どのルーツなのか解らなくても。
この男はどうだろう。
じっと見返すと、それが火に油を注いだらしく、眼光が益々鋭くなった。
「だからなんだ」
彼の背中の向こうで清乃が口を半開きにしているのが見え、つい笑ってしまった。
「なにがおかしい」
襟首でも掴んで仕舞いかねないその形相に、笑いが止まらない。
「いえ・・・。貴方に似た人が、身内にいるものですから」
この男は、父にそっくりだ。
「な・・・」
「真神さん、俺はまだ十二歳ですよ?」
父は、血の繋がった自分にすら嫉妬を隠さない。
幼稚園児の時に母の腰に抱きついたら、有無を言わさず引きはがされたこともある。
さすがに慣れたが、自分だってまだ母親が必要だ。
それが解っていながら我慢できない父と時々険悪になるからこそ、こうして東京まで連れ出される。
「清乃さんとお茶をご一緒したところで、どうにもなりゃしません」
ずばりと切り込むと、彼の頬に朱が走った。
「お前・・・。良い度胸だな。長田と言ったが、今まで見たことねえぞ。お前どうせ外腹だろう」
「・・・外、と言われれば、確かに外ですね」
「あのじいさんもたいした物だな。還暦間際にガキを作るなんてな」
あのじいさん、とは、碁盤の目のように政財界を占領している長田家の面々の中、突出している祖父の有三のことだろうか。
「妾の子の分際で、大きな顔をするな。とっとと日陰に戻ってろ」
誰が聞いているか解らないこのラウンジで暴言が出るほど、勇仁の頭にはそうとう血が上っているようだ。
「あの・・・、あなた・・・」
「お前は黙ってろと言った」
いらいらと言い放つと、ふいに横から声が割って入った。
「あら。還暦越えたぐらいで枯れる男ではないけど、それはさすがに心外ね」
声を聞いた瞬間、啓介はテーブルに突っ伏したくなった。
真打ちの登場だ。
「な・・・」
勇仁が眉をひそめて振り向くと、和装の女性が男を数人従えて立っていた。
「・・・富貴子様」
清乃があえぐようにその名を呼ぶ。
「お久しぶりね。珍しく清乃さんがいらしていると聞いたから探したのだけど、丁度良かったわ」
祖母の富貴子も小柄なたちだが、その圧倒的な存在感は時には夫さえもしのぐと囁かれている。
「ところで、私の孫が何か粗相でもしたかしら、勇仁さん?」
それこそ還暦を過ぎてもなお、女としての色香と生気に充ち満ちている。
「孫・・・?」
「ええ。絢子の子供なの、啓介は」
そして、にやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「外孫の分際でごめんなさいね、生意気盛りなのよ」
美味しいところは全部攫ってしまうのが、富貴子の流儀だ。
これでは先ほどまで虎のようだった勇仁も、ただの子猫扱いだ。
「それは・・・。存じませず、失礼を・・・」
数段も格上の富貴子を前に、勇仁も屈するしかない。
「あら、お気になさらないで。どうせこの子のことだから、はっきり言わなかったのでしょ?何しろ、虎の威を借りるのが嫌いみたいでねえ」
どうやら、祖父と自分への暴言が許し難かったらしい。
ほほほと口元に手を当てて笑いながら、ちくちくと若手議員をいたぶる。
「まあ、啓介さんは絢子さんのお子さんでしたか」
その場を救ったのはほのぼのとした清乃の声だった。
なめらかで清らかな声色に、さすがの富貴子も毒気を抜かれる。
「・・・ええそうよ。絢子の、あの時の子供」
「まあ、大きくなって・・・。啓介さん、私、貴方がお腹の中にいた時に一度絢子さんにお会いしたことがあるの。元気よく絢子さんのお腹を蹴っていらしたわ」
心の底からの懐かしげな微笑みは、まるで白い花がゆっくりと開くようで、傍らに立つ勇仁が身体を硬くして凝視していた。
今、彼の胸の中が清乃への愛しさで締め付けられているであろう事は想像に難くない。
そんなに好きなら、どうして素直に態度で示せないのだろう、この人は。
こうなると、嫉妬まるだしの大人げなさ全開の父の方がまだましなのかもしれない。
そう考えてため息をつこうとしたら、祖母と目が合った。
自分の考えることはお見通しとばかりに唇が上がる。
「・・・まあ、これからちょくちょくこの子を連れ回す予定だから、宜しく頼むわ」
ぽん、と勇仁の肩を叩くと、まるで魔法が解けたかのような顔をした彼はばつが悪そうに顔を伏せた。
「ああそうそう。清乃さんお借りして良いかしら、数日間」
「・・・は?」
「明後日、うちの茶室で初釜をかけるの。大使館婦人たちを招いたものの、諸事情で身内にドイツ語がきちんと出来る人が少なくてね。間が持たなくて困るわって悩んでいたところだったから、助けて頂きたいのよ」
ここでこれ以上、重鎮の機嫌を損ねることは得策でないことは、勇仁も十分承知している。
だから、それが大いに不満であっても否とは言えない。
「はあ・・・。うちのでお役に立てるなら・・・」
「あら、ありがとう。助かるわ」
にっこり、と、満足げな笑みを浮かべた。
そして、背後の男たちに向かって目線で合図をすると、一人が封書を差し出してきた。
「お姑さんの芳恵さんもご招待したから、心配なさらないでね。これが真神家本邸にも送った招待状。どういうわけかあなた方の別邸には届かなかったみたいでお返事なかったけど」
「それは・・・。申し訳ないことをしました。何しろまだまだ若輩者の集団でして。秘書たちには厳重注意をしますので、どうか今回はお許し下さい」
勇仁がもみ消したのは明白だ。
しかし、それを正直に謝る彼ではない。
「・・・そう。なら、このまま松濤へお連れするわね。あまりお加減がよろしくないようだし」
「え?」
「後日、長田のものが責任を持って本邸まで送るから、どうか心配しないでお仕事に励んでちょうだいね」
「ちょっと、それは・・・」
「啓介」
「はい」
「お前は先に松濤へ帰りなさい。車はもう来ているから」
「わかりました」
「清乃さんは私とこちらへ。着物を選びましょう」
「はい・・・。では、あなた・・・」
すまなさそうな視線から背けたまま、勇仁は顎をしゃくる。
「解った、行け」
意気揚々と祖母が清乃の背中に手をやって誘導し、秘書たちを連れて退場する。
ゆっくりと椅子から立ち上がると、ぎり、と、歯ぎしりらしき音が聞こえたような気がした。
さぞかし、祖母と自分への怒りで煮えたぎっていることだろう。
少し、気の毒になって声をかけてしまった。
「真神さん」
「・・・なんだ」
「先ほどは失礼な態度をとってすみませんでした」
ぺこりと頭を下げると、じっと片桐を見下ろした。
「お前、名前は」
「片桐、啓介と言います。長田で名乗ったせいでかえって誤解を招き、申し訳ないことをしました」
「・・・そうか。それで長田有三氏に似ていたんだな」
「似ていますか」
「ああ、その目はそっくりだ。してやられたな、俺も」
深々とため息をついたあと、ぽん、と頭に手をやった。
「清乃を頼んだ」
「はい。お預かりします」
と、そこでそのまま頭を掴まれ、顔を寄せられた。
「いいか、必要以上に清乃に近付くんじゃないぞ」
射貫かんばかりの目力に、啓介は息をのむ。
・・・この人は。
「はい。解りました」
「そうか」
「ただ」
「なんだ」
「必要とあらば、仕方ありませんね?」
にっと笑ってみせる。
「こんの・・・」
「では、また」
ふかぶかと頭を下げて、素早くその場を立ち去った。
以来、勇仁と啓介の間柄はいつまで経っても微妙なままだった。
それから十数年後。
縁とは異な物だと痛感した二人である。
-おしまい-
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