『POSTCARD』



 君知るや、かの国を。
 レモンの花咲き
 黄金なすオレンジ暗き葉影に実り
 そよ風は青い空から吹き渡り
 ミルテ静かに
 桂は高くたてる
 そを知るや、君。
 かなたへ、
 かなたへ。
 いとしきひとよ
 われはゆかまし、君とともに。

   (ゲーテ『ミニヨン』より)



「だーっ。どこだっ。どこにいっちまったんだぁっ」

 がさがさがさ。

 まず、引き出しを片っ端からあけてくまなく漁り、次にファイルを逆さにふりながら片桐は呟く。
「片桐さーん。前々から言ってたでしょ?今日の四時には先月分の旅費精算を締め切るってぇー」
 額に汗を滲ませ慌てまくる片桐の傍らで庶務担当の女子社員が隣の席の机の上に腰掛け、形の良い白い足をタイトスカートから覗かせぶらぶらしながらのんびりとした口調で話し掛けてくる。
「もー。片桐さんたら、とっても、とぉーってもずぼらなんだからぁ」
 肩で切り揃えたストレートの頭を、わずかに傾けた。
 傍目から観れば十分可愛らしい仕草と、甘ったるい声なのだが、一人きりきり舞いしている片桐にとっては、ささくれだった神経に塩をしゃりしゃりすり込むようなものだ。
「本間ーぁ。俺は、昨日まで客相手に、めっちゃ忙しかったんだよっ。ちんたら精算書なんか、書いてらんねーだろーがっ」
「あ、そぉ?べつにいーんですよ。片桐さんが出張旅費と手当て、いらないって言うんだったら」
 にっこり、と本間はほほえむ。
「知らなかったー。片桐さんって、大金持ちだったんですねぇぇ・・・」
 顔と雰囲気は春の陽だまりのようにほんわかと優しくやわらかいのに、口から出てくる言葉はアイスピックのように鋭く、いちいち片桐の気に障ることばかりで、にくたらしいことこの上ない。
「ええいっ。うるさいぞ本間っ。たかだか入社二年目の若輩者のくせにっ」
 二十二の小娘が、生意気なんだよっ。くっそーっ!
 更にエベレストのようにうずたかく積んだ別の山に挑みかかりながら、片桐は悪態をつく。しかし、どう見てもやっていることは右の山を左に移しているだけではなはだ効率が悪い。
 そのかなり情けない背中を一瞥した後、誰かさんのおかげで入社二年目にして素晴らしい手腕をご披露している本間はちょっぴり口を尖らせた。
「その、二十二の小娘に小突かれなきゃ、勤務表も、作業報告書も、旅費精算も出せないのは、ど・な・た・さんでしょう?」
「ぐっ・・・」
 片桐は、言い返す言葉が見つからず、唇を噛む。
「・・・しょーがないなー」
 本間は栗色の髪をするりとかきあげ、苦笑した。
「片桐さんって、夏休みの宿題とか、しこたまため込んで、お母さんにいつも怒鳴られてたでしょう?」
「・・・大当たり」
 片桐は、お手上げ、のポーズをとる。
「見た目には、余裕のある締めきりってやつが嫌いなんだよ。俺は」
 子供の頃は母親に怒鳴られ、社会人になって女子社員に怒鳴られ、結婚したらカミさんに怒鳴られるんだろうなぁ。
 旅費精算伝票をぐっと握り締めて、片桐啓介(二十六歳・独身)はぼんやり考えた。
「・・・なぁに、独りうっとりしてるんですか」
 心底呆れた顔をして、本間が横からぺち、と片桐の頭を軽くはたく。
「なんにしろ、ホテルの領収書がないと、宿泊代は降りないんだから、頑張って探してくださいよ」
「ないもんはないんだもんなぁ・・・。ここは一発、本間ちゃんの色香で、総務経理部をたらしこんでくれよ~う」
「何言ってんですかっ。旅費精算担当は、女性でしょーがっ!」
「なに固いこと言ってるんだよ。美しければ、れずでもいいじゃーん?うん。俺が許す」
「かーたーぎーりーさ~んっ」
 我慢に限界を感じた本間が手近なファイルを掴みあげたその瞬間、
「あの・・・?」
 柔らかなテノールの声が割って入った。
 二人が一斉に振り返ると、ちょっと困ったような顔をした男が立っていた。
「あ、あれ?中村くん、どーしたの?」
 課内の人間には、たとえ上司であろうとも容赦ない鉄拳を繰り出す本間も、別部署の人には恥じらいというものがあるらしく、慌ててファイルを元の位置に戻して、作り笑いを浮かべる。
「もしかして、そろそろこれがいるんじゃないかなと思って・・・」
 控えめに一枚の伝票を差し出す。
「あ・・・!」
 問題のホテルの領収書であった。
 思わず、片桐は中村の手から領収書をひったくり、光にかざしてまじまじと眺める。
「おおう。これだよ、これっ!!・・・ハル、なんでお前が持ってんだ?」
「なんでって、片桐さん、ホテルを出るときに十日頃まで預かっててくれって、俺に言ったじゃないですか」
なんどもまつげをしばたいて、ますます困った顔をして中村は答えた。
「そうだっけ?・・・おぼえとらん」
 眉間に縦じわを寄せて片桐は言う。
「あーっ。もう。片桐さんもとんだじじいになったもんだわねっ。自分の言ったことも覚えてないなんてっ」
 今度は、本間がしびれをきらして片桐の手からくだんの領収書と書きかけの旅費精算伝票をひったくる。
「もう、後の処理は私しますから、里帰り前にその机、綺麗にしといてくださいよっ」
 勇ましくも捨て台詞を残して、本間は足早に去っていった。
「おーう。さすが、しきり屋の本間。肝っ魂かあちゃんみたいだぜ・・・」
 既に事務処理を始めた後ろ姿に向かってお気楽にぱちぱちと拍手する片桐を、中村が咎める。
「本間さんに悪いですよ。片桐さん。設計部の事務職の中では、本間さんがいちばん有能なのに・・・」
「え?そうなのか?だって、お前んとこの蒲田さんなんか、勤続十数年なんだろ?」
 同じフロアーで片桐の席から数十メートルばかり離れた中村の部署で、事務を務める往年の大女優・三田佳子ばりの美女を思い浮べる。
「ええ・・・。一応そうなんですが、実は未だに旅費精算のシステムを彼女は理解していないらしいですよ」
 内緒ですよ、とこころもち顔を片桐の耳元に寄せて中村は声をひそめた。
 おかげで、このフロアー内でいちばん事務処理がさばけておらず、期末締めの忙しい時期になると別部署であるはずの本間が、助っ人に出るほどであるという・・・。
「だから、蒲田さん、未だに独身なんだな・・・」
 設計部の「七不思議」の一つが、いま、あっさり片桐の目の前で暴かれたのだった。
「つまんねーなぁ。もっと、凄い理由かと思ったのに」
 まあ、これはこれで、確かにヘビィではあったが。
 同じ仕事を長い期間繰り返していながら、未だにその内容を理解していないとは、ある意味では国宝級の人間であるのだから。
「それより、片桐さん」
 中村は、すい、と滑らかな所作で隣の椅子に腰掛けた。
「んあ?」
「明日から里帰りって、本当ですか?」
「ああ。そうだよ。今年はじじいの十三回忌で、どうしても外せなくってな」
 片桐は深々とため息をつく。
 わざわざ高い飛行機代払って里帰りし、そのうえ面倒な親戚行事が待っているのだ。
「今年の夏の福岡は暑いというだけでもうんざりしているのになぁ。勘弁してほしいよ。まったく・・・」
 この間、福岡と沖縄をハシゴ出張してきた者が、なんと「福岡の方がずっと暑い」と明言しただけに、片桐の心はブルーであった。
「そうか。片桐さんのお里って、福岡だったんですね」
 どういうわけか、中村はにこにこと嬉しそうに笑う。
「ああ。市内じゃないけどな」
「あ、それでもいいです」
 中村はますます嬉しそうに頬をゆるめる。
 何が何だかよくわからないが、だんだん妙な予感がしてきた。
「ハル・・・?どうした?」
 上機嫌な中村に恐る恐る片桐は尋ねる。
「絵はがき、下さいね」
「はぁ?」
「だから、福岡の絵はがきを俺に送ってくださいねって言ってるんです」
「・・・は?」
 一日のほとんどを共に過ごす仕事仲間の顔を穴があきそうなくらいに見つめたが、少し潤んでいるような黒目がちの瞳に笑みを浮かべられてしまい、片桐の血液は何故か凄まじい勢いで上昇していった。
「お、おいっ、ちょっと待てっ。なーんで俺がお前に絵はがきを送らにゃあいかんのだっ」
 叫びに近い片桐の問いもなんのその、中村はほのぼのと笑った。
「俺、九州って行ったことないんですよ。だから、どんなところかなぁと思って」
 あ、送り先は寮にお願いします。名刺の裏に書いてありますから。
 そういいながら、勝手に片桐のシステム手帳を取り上げて、うきうきと名刺を挟み込む。
「あーのーなー。ハルよぉ。俺たちゃあ、女子高生じゃないんだぜ?勘弁してくれよー」
 ばりばりと片桐が頭を掻くと、中村が一転して悲しそうな顔を向けた。
「だめですか?」
 きゅうん。
 まるで飼い主にじゃれついてみたもののすげなく振られた子犬のような、切ない目付きをする。
「片桐さん、あの伝票預かってくれたら、後で礼はいくらでも弾むからなって言ったのに・・・」
「う・・・」
 言ったような気がした。・・・確かに。
 先月の初めの仙台出張。
 確か、最終日の朝は前日の飲み会でへべれけになった片桐が思いっきり寝坊したがために、予定が押せ押せになっていて、ホテルのチェックアウトなどの事後処理は一緒にいた中村に全て任せていたのだった。
「頼む!後で礼はきっちりするからっ!」
 そういったのは、間違いなくこの自分だし、礼を受けるべき立場にあるのは目の前の中村春彦(二十歳・独身)なのだ。
 しかし、まさかこのような『お礼』を請求してくるとは誰が思うだろう?
「でもなぁ。福岡は観光名所って意外とないしなぁ・・・」
「そうなんですか?」
「ああ。お前、福岡県って言ったら、どんなイメージ持ってる?」
「ええと・・・。ダイエーホークス、福岡ドーム、太宰府、・・・柳川も福岡ですか?」
 中村は宙を見つめて白い指をゆっくり折りながら数える。
「正解。で、他は?」
「福岡タワー、明太子・・・。それから、台風ですね」
「台風~?」
 なんだ、それは・・・、と片桐は呟く。
「ええ。俺の里は、あんまり来ませんから。台風は」
「・・・お前、どこだったっけ?出身」
 まじまじとその白いおもてを見つめて尋ねた。
「新潟です」
「そうかぁ。福岡は、年に一回は台風のおかげで交通機関がストップするし、必ずどこかの農作物が被害に遭うんだけどなぁ」
「テレビで見て、びっくりしますよ。あれは。ああ、南の国だなぁって思いますから」
「南の国ねぇ・・・」
 ふぅ、と片桐はため息をつく。
「まさか、お前、福岡には椰子の木が生えていて、みんな裸足で歩いていて、アロハシャツとか来ている、とか思っているんじゃぁないだろうなぁ」
「・・・すみません。ついこの間まで、そう思っていました。」
「・・・期待させて悪いけどなぁ。積もることは最近滅多にないけど、一応雪は降るんだよ。福岡は」
「ええっ?そうなんですかぁ?」
「そーなんだよ」
 片桐は、さらに盛大なため息を天に向かって吐き出した。
 実際、関東より北に住んでいて、九州に一度も脚を踏み入れていない人の認識なんて、こんなもんである。
 福岡=九州=鹿児島=沖縄=南国の図式が根強いためなのか、九州人が聞いたら、卒倒しそうなイメージを平気で抱いている。
 単に、福岡が本州の各都市に比べて地味な都市であるからなのか、現在の日本地図が、やたらと日本列島の長細い事を主張しているからなのか、理由は定かでないが。
「そういえば、最初お会いした時に、片桐さんって、九州の人っぽくない顔立ちだなぁって、思ってたんですよねぇ」
「かーっ。なんだよ、それ。お前、九州人の顔って、いったいどんな顔だよ?」
「えっと、色が黒くて、彫りが深くって、眉毛が太くって・・・」
「なるほど」
 ぽん、と片桐は膝を叩く。
「眉毛が太い、ねぇ。お前、西郷隆盛と、郷ひろみを想像したな?」
「あ、わかります?」
 中村は悪戯のばれた子供のように、ぺろり、と舌を出した。
「そりゃ、わかるよ・・・」
 わからんで、どーする。
 うーん。と片桐は腕を組む。
「こりゃ、義務教育の弊害かもなぁ」
 だいたい、義務教育期間中に歴史の教科書で、西郷隆盛と大久保利通の顔写真を飽きる程眺めた上でみんなおもしろおかしく落書して遊ぶのがセオリーというもの。
 実際、あの手の顔は遊びがいがあるのだ。印象も、さぞかし深かろう。
「でもな。俺も福岡出身だが、開発部の久石もそうだぞ」
 彼は肌の色に関しては黒いほうだが、目鼻立ちはすっと涼やかで南国のイメージの全くしない、さらりとした雰囲気の持ち主である。例に挙げるには最適だ。
「え?久石さんも、ですか?」
 案の定、殊更に驚く中村の肩に、ぽん、と手を置いてさらに続ける。
「そうだ。それでもって、酒井典子も、森口博子も、陣内孝則も、藤井フミヤも、武田鉄矢も、タモリも福岡出身だ」
「うーん。これといった特徴がないんですね。意外と・・・」
 首を傾げて中村は考える。
「わかったかね。中村くん」
「はい。・・・でも、片桐さん」
「あ?」
「俺、今、片桐さんと話をしていて、ますます福岡に興味がわきました。だから、やっぱり、絵はがき下さい」
「・・・!」
 片桐は顎を外した。
「こんなところで、話が振出しに戻るとはな・・・」
 すごろくの「あがり」直前に、「ふりだしに戻る」を当ててしまったような気分である。
「あの、高価なのでなくていいんです。ただ、福岡の風景の載った絵はがきで、福岡の消印のついたのが欲しいだけですからっ」
 やっきになって説得しようとする姿に、片桐は困りきって頭を掻いた。
「俺さ、手紙って苦手なんだよ。なに書けばいいかわからないし・・・」
「今福岡にいるぞって、それだけでいいです。後は何も書かなくていいですから」
 中村は、一生懸命言葉を紡ぐ。
「福岡だなって、感じられればいいんですから」
「うーん。なにもさぁ。俺でなくても、九州担当の奴がいるじゃねーかよぉ」
 渋る片桐の横で、いきなり本間がふらりとやって来て口を挟む。
「そおよぉ。中村さん。こんなへなちょこな人から手紙をもらってどうするのよ。それに、葉書一枚なんてお礼にしちゃ、安すぎるわよ!!」
 二人に、差し入れのお菓子を手渡しながら本間はさらに言う。
「そういうときはねぇ。どーんと、特上の明太子を買ってこい、とか、特性生ラーメン買ってこいとか言うのよ」
 いーい?わかったぁ?
 幼稚園の先生よろしく、本間は中村に言い聞かせる。
「おいおい・・・」
 片桐は、眉と口をへの字に曲げる。
「あ、片桐さん。私は無着色・無添加物の明太子でいいわ。安物は嫌よ。辛いだけでまずいんだから」
「・・・ちょっと待った。なんでお前にまで土産物を買ってこにゃ、いかんのだ?」
「そりゃ、きまってんじゃなーい」
 ふふん。
 腰に両手を当てて仁王立ちになるなり、ポーズを決めた本間は宣言する。
「こーんなに色々、いろっいろ、尻拭いしてさしあげているこの私に、礼の一つも出来ない男なんて、外道以外の何者でもないわよっ」
「・・・」
「あ、それと、みんなにはチロリアンか、鶴の子か、松露饅頭か・・・、夏だから、ゼリーでもいいわ。まちがっても、鶏卵素麺なんて買ってこないでよ」
 鶏卵素麺とは、細く焼いて素麺のように仕立てた卵焼きを砂糖づけしたようなもので、とほうもなく甘く、名物ではあるのだが癖があるので好き嫌いがはっきり別れてしまう和菓子のことである。
 ちなみに、「素麺」という名前で勘違いして思わず熱湯で茹でてしまい、無駄にしてしまう人は意外と多いらしい。
「はぁ・・・。そうですか・・・」
 片桐は両手で頭を抱えてため息をつく。
 そんな彼の背後では、本間の配った菓子とお茶を片手に、自分たちを肴にして、笑いさざめいている人たちの声が聞こえてくる。
「片桐がまた、本間と春ちゃんに無理難題言われてんなぁ。かわいそうに」
 これは、松村主任の声。
「なっさけねー。本間ばかりか、春ちゃんにまで負けてやんのー」
 これは、同期の柏原の声。
「春ちゃーん。あんまりいじめると、啓介は本当に泣くぞー」
 こ、これはっ、小畠課長の声っ!
 どっ。
 課長をはじめ、その場にいたみんなが腹を抱えて笑う。
「笑っとらんで、助けろ・・・」
 俺って、人望ないんだな・・・。
 ちょっぴり、いやかなり淋しくなった片桐は、もう一度、深く、ふかーく、ため息をついた。

 青い。蒼い夏の空が目の前に広がる。
「福岡の空って、こんなに青かったかな・・・」
 畳の間に大の字になってねっころがっている片桐は、窓の外を逆さに眺めて、ぽつんと呟く。
 せっかく、山ほどある仕事を片付けて里帰りしたものの、地元に就職した学生時代の友人連中で集まるのは夜と決まっているので、昼間は何もすることがない。
 することがなくて暇を持て余すと、ふっと、中村の言葉を思い出した。
「絵はがき、下さい。何も書かなくていいですから」
 ふわりと春風のように中村はそういって笑った。
 片桐と中村の所属する設計部は、コンピューター部門の設計・企画を一手に引き受ける部門で、分野が広いためにそこで仕事をする技術者は山ほどいる。
 しかも、たいていの仕事は、SEや営業やプログラマーなど諸々の人とプロジェクトを組んで仕事をするため、片桐個人の範囲で見ても関わりあいを持つ人間はかなりの数である。
 そうすると、結構何度も遭遇する問題が一つある。
 「名字の同じ人間が何人もいる」ことである。
 「田中」や、「鈴木」や、「吉田」や、「佐藤」、そして「中村」・・・。
 難しい名字より漢字が分かりやすくていいのだが、「中村」など、片桐の仕事に今のところ関わりのある人間は顧客を含めて五人もいた。
 ちなみに、これは「今のところ」であるから、これからもどんどん増えていくのは間違いない。
 世界中に「中村さん」はいったい何人いることやら。
 ・・・全国の「中村さん」には申し訳ないが、片桐は気が狂いそうである。
 それはさておき、その、「中村さん」を識別するには、お互いのためにも「あだな」を付けるのが一番である。一番よく使うのが、会社名や部署名などの肩書きつきの呼び方。 例えば、「○○社の中村さん」。簡単である。
 次に使うのが、本人の名前からくる、あだ名である。
 例えば、「中村春彦」は「春彦」だから、「ハル」。
 どれも安易だが、ないよりましである。
 いや。結構重要かもしれない。
 電話を通しての仕事をするときに相手の姿は見えないのだから、間違った話をするとそりゃあもう、大事である。
 以前、課長が電話で顧客と部下を取り違えて怒鳴り飛ばしてしまい、冷汗をかいたことがあった。
 ・・・今思い返しても、そら恐ろしい事件である。
「しかし・・・。あいつって本当にあの呼び名はぴったりだよなぁ」
 休暇を取る前に見た、中村の姿を思い出す。
 自分よりいくぶん背が低くて華奢な体付きではあるが、頼りない、という感じは何故か全くしない。
 ただ、肌の色が透けるように白かった。
 「毎日牛乳飲んでますっ」と言う感じ。(言葉の雰囲気でわかってくれ・・・)
「それより、雪のように白いという言葉が似合うか」
 片桐はふと笑う。
「ああ。あいつ、二月か、三月頃に生まれたのかもしれないな・・・」
 夏に近い、花々の咲き誇る春、でなくて、雪解けがやっと始まる頃の、限りなく冬に近い春。
 控えめではあるが、確実にその喜びを感じさせるその季節が、中村春彦の雰囲気そのもののような気がした。
 そして、さらに片桐は春彦の顔の造形を思い描く。
 量はそんなに多くはないが真っすぐで真っ黒な髪と、すっと柔らかく弧を描いたような眉。
 その下につづく皮膚の薄い目蓋の奥には、漆のように黒く濡れて綺麗な瞳があった。
 細く高い鼻梁の下に続く唇は、今思えばふっくらと肉感的だったような気がする。
 一つ一つを思い浮べると、なかなか整った顔立ちのように思えるのに、性格が限りなく控えめなせいか地味にまとまって、春彦の容姿が仲間うちで取り沙汰されることは全くなかった。
 だから、片桐自身も今まで気にも止めていなかったのだが。
 その、「限りなく控えめ」な春彦が、何度も何度もしつこく自分にせがんだのだ。
 「絵はがきを下さい」と。
 なぜ、そんなに欲しがるのか。
 たいていの男ならば仕事仲間に貸しを作ったら、晩ご飯や酒代をおごらせるのが普通だろう。
 実は片桐も事後処理を任せた時は、一食おごるつもりだったのだ。ところが、春彦の求めるものはそうでなかったから面白い。
 本間も言っていたが、随分と安いものを請求するものだと、片桐は思っていた。
 しかし。
 今、「中村春彦」という男自身を考えてみて、彼の言葉の意味がわかったような気がした。
「福岡だなって、感じられればいい」
 彼は、言葉を選び選び、そう言った。
 きっと、北国育ちの彼は行ったことのない九州という地方に対して、ある種の憧れを持っているのだろう。
 南の国。
 暖かい風。
 いささかずれたイメージだと、少しは感じているが、自分の里とは違う土地柄に違いない。
 テレビ画面はある程度の情報を伝えてくれるが、それをじかに感じ取ることは出来ない。
 九州に住む人の手紙をもらえば、少しは南の国に対する感覚が広がるかもしれないと思ったのだろう。
 そして、春彦の言葉。

 「絵はがきを下さい」
 ほのぼのと春彦は笑う。

「・・・行くか」
 片桐は肘をついて起き上がり、車のキーを持っておもむろに玄関へと向かった。
「啓介?いきなりどうしたの。今から、どこかでかけるの?」
 靴箱を開く音を聞き付けて、母親が声をかける。
「ああ。たいして遠くには行かないつもりだけど」
 車を借りるから。
 キーを母親に見せて言う。
「車はいいけど、午前中から何をしにいくの?」
 いつも家に戻ってきたときには、ひたすら怠惰に過ごして日が暮れてからしか動きださない息子を不思議そうに眺める。
「ちょっと。・・・はがきでも買いに」
 そう言って、少し照れくさげに片桐は笑う。
 もし、今度九州担当の仕事が回ってきたら、春彦を連れて行ってやろう。
 もちろん、かならず観光が出来るように自由時間を組んでやって。
 ここが、自分が密かに憧れた南の地だと、全身で感じ取れるように。
 まず、その前に。
 絵はがきを送ろう。


「残暑見舞い申し上げます。
 想像以上に暑くて、水がない。
 とりあえず、空は青かった。
         福岡から、片桐啓介」




               おしまい


→ 『楽園』シリーズ入り口へ戻る

→ 『過去作品入り口』へ戻る


inserted by FC2 system