『ずっと、ずっと甘い口唇-2-』


「ちぃーっす」
「やっと来たか、この酔っ払い」
 結局、片桐が会社にたどり着いたのは昼休み直前だった。
「たどり着いただけでも誉めてくれ・・・」
 無理矢理流し込まれた日本酒の名残りがこめかみから眼球への血管を圧迫して、岡本の軽口に応えることすら辛い。
「・・・ハルは?」
「お前と出来が違うから、とっくに来てしゃきしゃき仕事しているさ。今は会議の資料をコピーしているとこ」
「そうか」
「おい、片桐!!話は終わってねえぞーっ!」
 何やら喚いている岡本を置き去りに、コピーブースへと向かう。
 三台並んだコピー機の一番奥の前でほっそりした体躯が背中を壁に預けて佇んでいるのが目に入った。
 自動的に資料をソートしてホッチキス止めまでしてしまうコピー機の動きをぼんやりと眺める横顔は、いつもより青白く思える。
「ハル」
 びくりと肩を震わせ振り返るその瞳はいつもより潤んでいるように見え、片桐は息を呑んだ。
「あのな・・・」
 なんとか言葉をつなごうと足を勧めたその瞬間、ぐわっしゃんという不快な音とともにコピー機がブザーを鳴らして停止する。
「紙が・・・」
 春彦は膝をついてコピー機の給紙扉を開き、詰まった紙を探し始めた。その隣に膝をついてはみたもののその気まずさから何をどうすればよいのかわからず、とりあえず一緒に扉内を覗き込む。
「・・・あのな、昨夜とさっきのことなんだけどさ・・・」
「知りません」
「・・・は?」
「昨夜は飲みすぎて、何がなんだか。どうして片桐さんが俺の部屋にいたのかこっちが聞きたいくらいです」
 至近距離で振り返った顔は相変わらず菩薩のような優しげな笑みを浮かべていたが、どこか作り物めいて、冷ややかな空気をまとっている。
「でも、お前・・・」
「まだ出来上がっていなかったですよね?」
「へ?」
「片桐さん担当の補足説明資料。会議まであと一時間くらいしかないのに、ここで油売っていて、大丈夫なんですか?」
 二人の間に重い沈黙が落ちた。
 補足説明資料なんかより、こっちのほうがずっと大切な話じゃないか。
 ・・・と、言えたらどんなに格好良いだろう。しかし、資料が出来上がっていないのは本当のことで、岡本や佐古たち他部署の人間を交えての会議に穴を開けるわけにはいかない事は、中堅になりかけの片桐が一番よくわかっている。ここはいったん引くしかなかった。
「悪い。続きは定時後な」
 とっさに春彦の頭をくしゃりと無造作に大きな手で撫でたあと片桐は立ち上がり、足早に去っていった。
「・・・冗談じゃない」
 コピー機にこつんと額を当てて春彦は呟いた。
 何を話せというのだろう。
 いつもそうしていたように、まるで子供を宥めるような触れ方をして去った彼と。


「・・・やっぱり、バンビちゃんの逆襲じゃん」
「バンビちゃん言うな、この人でなし」
 ぷかーっとタバコの煙を喫煙室の天井に向けて満足げに吐きだす佐古の腰に、岡本が背後から軽く蹴りを入れる。しかし態度も身体も大きな佐古は微動だにせず、かえって百六十センチそこそこしかない岡本がよろめく羽目になり、そばで見ていた立石は黙ってゆるりと顔を伏せた。
「笑うなよ、徹。笑ったらお前も人でなしだぞ」
 不敵な笑いを浮かべる佐古の背中に今度は小刻みなパンチを繰り出すが全く相手にされない。まるでそれは子供が癇癪を起こして父親に八つ当たりしているようにも見え、ますます笑いを誘う。
「くそ。お前らとは絶対前世も祖先も敵同士だ」
「そりゃ、一滴たりとも血が繋がっていないことは一目瞭然だろ」
 容貌もさることながら華々しい学歴と業績を持ってこの会社へ転職してきた佐古は、ここで明らかに異質な存在だった。神聖視して老若男女問わず誰もが遠巻きに見つめている中、唯一普通に接してきたのがこの岡本で、彼を中心に同世代の仲間の輪が次第に広がっていき、設計部の片桐たちとも親しくなった。社内随一の美女が自分と身長の変わらない男を伴侶に選んだ理由は、このさまを見てきたからではないだろうか。
 そんな二人のじゃれあいをほのぼのと眺めていた立石がふいに真顔になり、ぽつりと呟いた。
「それはともかく。ハルの顔色が悪いのが気になるな」
「そりゃ、初夜明けだしな」
「・・・だから、そういう生々しいこと言うなって」
 佐古の脇腹に軽くパンチを入れ、岡本は眉をへの字に曲げる。
「それはともかく。・・・なんか、風向きが妙だよな」
 受話器の向こうから聞こえてきた片桐の雄叫びと今の二人の様子を見る限り、気まずいというレベルで済む話ではなさそうだ。
「嵐が来るか」
「嵐が来るよな」
「嵐以外のなにものでもないだろ?」
 三人同時に天井に向かって白い煙をもあーっと一斉に吹き上げた。


 今日はなんだか針の進みが遅い。
 背後の壁につるされた時計の秒針が刻む微かな音を、まるで背中に耳が付いているかのように聞き取り、数え続けていた。もちろん議事内容はきちんと把握して手元の資料に事細かく改善指示などの記載のための赤ペンを走らせている。しかし、春彦は今日に限って出席者たちが無駄なことを延々と論議しているように感じて苛立ちを覚えた。
 いったい、いつになったら結論に辿りついてくれるのだろう。
 いつもは興味深くて楽しい佐古のレクチャーも、今は、とても回りくどい薀蓄に聞こえてしまう。
 各部署あわせて二十人あまりの人間が詰め込まれた会議室は空調が効かないのか空気が希薄な感じがして何度も深く息を吸う。全身がだるく、椅子に座り続けることが苦痛だった。だんだん秒針の音しか耳に入らなくなり、ペンを握る指先が白くなっていくのをじっと見つめた。とにかく一刻も早くこの場を去りたいということばかり春彦が考えて始めていたその時、進行を取仕切っていた立石が会議の終わりを宣言した。
「じゃあ、各部署再検討ということで。最終稿は週明けまでに俺のところまでメールで提出願います」
 その言葉とともに、それぞれ手元の資料をまとめて立ち上がり、三々五々に去っていった。
 やっと終わった。
 春彦は目を閉じふうと息を吐き出して背もたれに身を預けると、その頬に大きな手が伸びてきてゆっくり触れた。
「よく頑張ったな」
 温かい。
 目を開けるとそこには立石の顔があった。
「立てるか?それとも、水を少し飲むか?」
 ペットボトルを差し出して問われて、自分が酷い顔色をしているのだと気がついた。
「・・・大丈夫です。立てます」
 人に気付かれたことが恥ずかしく、無理矢理笑顔を作って立ち上がろうとしたが、全く力が入らずによろけてしまう。
「ハル」
「すみません。大丈夫です」
「その顔色で無理をするな」
「でも」
 問答している間に手のひらから冷たい汗がじわりとにじみ出てくる。
「徹、荷物取ってきた」
 振り返ると、扉のところに荷物を二つ抱えた佐古が立っていた。その腕には自分のコートがかけられている。
「お前、そんな紙みたいな顔をして大丈夫もへったくれもないだろう?これ以上酷くなって救急車呼ぶほうが騒ぎが大きくなるから、徹と帰れ」
「でも、まだ時間が・・・」
「事務の本間に話を通してきたから大丈夫。今日は課長も出張でいないし。席に戻っても、それじゃあどのみち仕事になんないじゃんか」
 物言いは乱暴だが、彼の声にはいたわりの色が滲んでいるように聞こえる。
「佐古の言うとおりだ。とにかくここを出よう」
 腰に手を回して支えてくれている立石が耳元でそっと囁いた。
 背中に当たる体温がじんわりと暖かくて優しい。 
 春彦は深い息を一つついて、こくり、と、頷いた。
「とりあえず、下まである程度自力で歩けるか?タクシーに乗ろう」
 長い睫毛を数度しばたたかせた後、顔を上げて答えた。
「・・・はい」


 背中に硬いものが振り下ろされる。
 二度、三度・・・。
 そして、同じリズムで腹にも強い力が加わり、一瞬、息が止まる。

 ・・・泣け。
 痛いなら、泣いてみろ。
 泣けというに、どうしてお前は泣かない!!

 どうしてだろう。
 泣きたいのに、涙が出てこない。
 泣いてあげられるなら、この苦痛も少しは早く終わるだろうに。


「・・・ハル。大丈夫か?」
 額に大きな手を感じて目を開く。
 ぼんやりと見つめた先に浅黒い肌をみとめた。
「か・・・」
 言いかけて、口をつぐむ。
 違う。
 彼ではない。
 ・・・彼のはずは、ないではないか。
 目の前の男はかすかに浮かんだ色をさりげなく見ぬふりをし、優しく指先を頬に滑らせた。
「まだ、熱があるな・・・」
 薄明かりに暖かな声がゆっくりと沈んでいく。
 タクシーに乗るやいなや、立石は有無を言わさず自分を彼のマンションへ連れ帰った。 具合の悪い春彦を独身寮の狭い部屋に独りにするのは気がかりだったからだ。
「すみません・・・。立石さんはうちの課の人ではないのに・・・」
 仕事上密接な関係とはいえ、他部署の人間がわざわざ一緒に早退するなど、聞いたことがない。いきなり彼が抜けたことで、今頃、あちらは大変な事になっているだろう。個人的なトラブルに何人も巻き込んでしまった恥ずかしさに、顔を上げられない。
「いや、もともと時間調整でフレックスを取るつもりだったから、仕事は問題ない。何か問題が起きたらすぐに連絡があるだろうし。きちんと帰れたおかげで、たまった洗濯も片付けられたから気にしないでくれ」
 ぽんぽん、と頭を軽くなでる。
 子供をなだめるようなしぐさに、ふと春彦は立石を見つめ返す。
「・・・と、ごめんな。二十を過ぎた男の扱いじゃないな・・・」
「いえ、そんな・・・。何から何まで、本当にありがとうございます」
「礼は、完全に治ってから・・・な。もう少ししたら夕飯にするから、それまで横になって待っていてくれ」
「・・・はい」
「ああ、そうだ。とりあえず、このタオルで出来るだけ汗をふき取っておけよ。着替えはここ。水も飲めるなら、机の上にあるから飲んで」
 てきぱきと、立石は用意したものを指し示す。
「じゃあ、またな」
 そう言うと、彼は部屋から出て行った。扉一つ隔てただけでしんと静かになった空気の中、春彦はそっとペットボトルに手を伸ばして頬につける。
「・・・冷たくて気持ち良い・・・」
 つんと、鼻の奥が熱くなった。



「お前って、ほんっとに母性本能垂れ流しだな」
 リビングへ戻ると、ソファの上に足を投げ出してだらしなく寝っ転がった佐古が口を開く。
「時々、その服を剥いたら、巨乳があるんじゃないかと疑っちゃう位だよ」
「もちろん、人間なんだから乳はあるが、残念ながら母乳は出ないぞ」
 「確認してみるか?」と、カッターシャツの襟元を緩めてにやりと片頬をゆがめた立石に、「いえ、けっこうです・・・」とげんなりと力なく手を振る。
「それより、どうだった?バンビちゃん」
「熱はまだまだ上がりそうだな・・・。かなりうなされていたよ」
「まあ、体がびっくりしているのが半分、炎症が半分、プラス精神的なものかな。でも、意外と回復は早いかもな、熱に関しては」
「熱に関しては?」
「うん。前からちょっと思っていたんだけど、あの子、見た目よりも自立心がかなり強いから、根性で体調不良をねじ伏せて、すぐに何事もなかったように振舞おうとすると思うんだよね」
 それは、今日の彼のさまを思い浮かべると納得が行く。
 動揺しきってがたがたで大幅に遅刻した片桐とは対照的に、中村は岡本の電話を受けてすぐに出勤して仕事をこなした。珍しく寝坊したことはおいといて、彼の不調に気付くものは自分たち以外に誰もいなかったほど、その振舞は完璧に近かったといえる。
「プライドが高いとか、人目を気にするというより、何て言うのかな・・・。『平気なふり』に慣れているような気がするんだ」
「平気なふり、か・・・」
 立石は眉を寄せて顎に手を当てた。
「それは、ちょっと・・・」
「そう。ちょっと・・・ね」
 リビングの中に重い沈黙がおりる。
 しばらくそれぞれの空間をじっと見据えていた二人の間に、壁にかかった時計の秒針を刻む音がちっちっちっと妙に大きく聞こえた。
 かたかたかた・・・と、コンロにかけっぱなしだったやかんが蓋を震わせて沸騰してきたことを知らせる。ふ、と、息を吐いて立石が顎に当てていた手を解いた。
「真人、何が食べたい?」
「ん?」
「とりあえず、ハルには雑炊を出すけど、お前はそういうわけにいかないだろう?」
 ソファから身を起こし、立石がエプロンを手に取り身につける様を見つめる。
「そうだな・・・」
 突き出した片腕に手を当てて軽くストレッチをしながら考えを巡らせた後、にやりと笑った。
「・・・オムライス」
「オムライス?」
「そう。ふかふか~の卵の上に、ケチャップでハートを綺麗におっきく書いてね」
「・・・却下」
「なら、ハンバーグの上に・・・」
 皆まで言わせず、タオルが佐古の頭の上に飛んでくる。
「却下。・・・ったく。何させる気だ、お前は」
「うん?そりゃ、決まってるじゃん」
 ソファの背にだらんともたれかかってにやにや笑う。
「いやがらせ」
「・・・お前も雑炊に決定」


 会議を終えた直後に他部署の課長に呼び止められ、そのまま別室での打ち合わせへ連れて行かれた片桐は内心焦っていた。末席にいた春彦の様子がずっと気になっていたからである。どう見ても体調が悪いとしか思えなかったが、声をかけるタイミングを逃してはや二時間近く。ようやく開放されたその足で、とりあえず席に戻って春彦を探す。
「ハルは?」
 向かいの席でパソコンを叩いている事務職の本間に尋ねた。
「ああ、体調を崩しているとかで、会議の後すぐに早退したわよ」
「え?一人で帰して大丈夫なのか?」
「ええと、私はその時に直接春ちゃんに会っていないのよ。白王子が連れて帰るからって、荷物を取りに来ただけ」
 どこの部署でも事務職の女性の立場は圧倒的に強い。彼女たちの補佐なしに仕事が回らないからだ。そのせいなのか、本間自身のマイペースぶりのあらわれなのか、神様とも崇められる年上の男を面と向かって『白王子』呼ばわりしていた。
「じゃあ、佐古が寮まで送ってくれたのか・・・」
 ほっと安堵のため息をつく片桐を見上げて、「ううん」と本間は首を振る。
「ちょっと違う。白黒王子両方付き添いみたい。二人とも帰ったらしいから、黒王子のマンションじゃない?・・・だって」
「だって?」
「黒王子が春ちゃんをお姫様抱っこしてタクシーに乗せたらしいから」
「おひめさまだっこ・・・?」
「うん、会議室からずっと」
 確かに小柄な方とはいえ、春彦は男である。それを抱き上げて歩いた立石の筋力と心臓に感服しつつ、その絵を想像すると、ちくりと胸に痛みが走った。
「どうにも足元が覚束なかったらしくて、黒王子が抱っこしちゃったみたい。人目を避けて業務用エレベーター使って降りて、裏口から出たんだけど、そういう時に限って、女の子たちとばったり会っちゃうのよねえ」
 ちょいちょい、と手招きして使っているパソコンのモニターを指し示す。つられて覗き込んだ片桐は息をのんだ。
「・・・お前ら、本当はそうとう暇だろう」
「農閑期と言って。一昨日までは経理の締め処理で大変だったんだから」
 画面に映し出されたのは社内チャットのログで、『黒王子のお姫様抱っこ目撃談』で大いに盛り上がっていた。しかも、白王子が荷物持ちとなると更に話題沸騰と言うところか。
「そりゃ、ネタとしては面白いだろうが、仕事中にネットワークで遊ぶなよ。いつかバレてお叱り食らうぞ・・・」
「ん?上層部黙認よ。これを使って仕事上の情報交換もしてるし、公共良俗のわきまえはあるからね」
 いや、公共良俗に充分反していると思う、と心の中で呟きつつ、立場が弱い男としては口をつぐむしかない。
「まあ、あいつらが面倒見てくれるなら、とりあえず安心か・・・。じゃあ、本間、ちょっと見積りを頼みたいんだけど」
 ほっと肩で息をついたあと、すぐに背を伸ばして自席へ戻る片桐に本間は首を傾げる。
「・・・お見舞いに行かないの?」
 いつもの片桐らしからぬような。
「独りで寮に帰ったなら、そのつもりだったけどな。佐古が荷物持ちって事は、今日も泊まりだろう。直接説明したい案件が出たから、とりあえず今から話をまとめる」
 暇なら手伝え、と、手書きメモを本間に差し出す。
「はいはい。暇ですとも。でもこれって『お手伝い』だからね」
「わかった。後で礼は弾むから、きりきりやってくれ」
「・・・はあーい」
 画面を切り替え、ざっとメモに目を通した後、本間は向かいの席の様子を見る。いつもに増しての仕事への没頭っぷり。凛々しさを越えて、鬼気迫るものさえ感じる。
「美咲効果・・・ってよりも・・・」
 男どもの間で何かあったに違いない。
「これは、ちょっと楽しみかも・・・」
 これだから、この会社とこの仕事は辞められない。
 本間奈津美・事務職四年目は唇の端をゆっくりと優美な形に吊り上げた。


 ブーンと携帯電話が震えて、着信を知らせる。ノートパソコンから目を上げた佐古はそれを手に取った。
「はいはい・・・」
 壁の時計は十一時半過ぎ。耳に入る言葉に口元をほころばせ、ソファから立ち上がって玄関へ向かう。
「いらっしゃい」


 ドアを開くと、携帯電話を耳にあてたままの片桐が所在なげに廊下に佇んでいた。
「遅くに悪いな」
「んー。まあねえ。みんな今に始まった事じゃないし?それに家主不在だから、俺がとやかく言うことじゃないしな」
「立石、いないのか?」
「ん。女の所に行ってる。ちょっとトラブルがあってね」
 家主よりも主らしく、佐古はゆったり笑って奥へ招き入れる。
「そうか・・・」
 靴を脱いで、廊下を歩き出してすぐに左手にあるドアにちらりと視線をやったものの、片桐はまっすぐに足を進めた。
 その様子を横目で見ながら、佐古はキッチンカウンターへ向かう。
「食事は?」
「本間が差し入れしてくれたから大丈夫」
「へえ・・・。あの子も残ったんだ。やるね。じゃ、コーヒー飲む?」
「ああ」
 テーブルの上にノートパソコンと資料を広げて話を始める。仕事となると手厳しい佐古をその気にさせるために、片桐は目の前の資料に神経を注いだ。
「ふうん。面白そうな話だね。論理も破綻がないし」
 一通り話を聞いたあと、佐古は肯きながらコーヒーサーバーに手を伸ばす。
「考えてくれるか?」
「いいんじゃない?帰ったらあっちにも話を通してみるよ」
 多少の質問と修正があったものの、すんなり起案を受け取ってくれたのは初めてで、全身の力が抜けた片桐はソファに背を預けて深く息をついた。
「ねえ、もう終電出たんじゃない?泊っていけば?」
 気が付いたら12時も半ばを過ぎている。
「徹は多分帰らないから、あいつの部屋が空いてるよ」
 この立石の家は間取りが広い上に通勤や交通に関してかなり立地条件の良いところで、仲間内で何かと宿代わりにされるため、独身男では考えられない量の寝具が用意されていた。たとえ、家主が佐古の予想に反して帰ってきたとしても何の問題もない事は、何度も泊っている片桐自身がよく知っている。
 が、しかし。
「いや、これをもう少し詰めたいから家に帰る」
 荷物をまとめ始めた姿に、マグカップに口をつけたまま佐古は目を細める。
「そう?・・・で。客間は寄らないの?」
 まっすぐと背筋を伸ばして見返した。
「ぐっすり眠っているんだったら、邪魔をしたくない」
 そのまま踵を返そうとした片桐の襟を、佐古が長い腕をにゅっと伸ばして後ろから捕まえる。
「うわ」
「何やせ我慢してるの。バンビちゃんの様子が知りたくて、わざわざ言い訳の仕事を作ってきたんだろ?しかも、今までで最高の仕上がりで」
「でも、どの面下げて・・・」
「どうせ薬が効いて熟睡してるんだから、どんな面さらしてもわかりゃしないよ」
 とても少し前までアメリカでの生活に首までどっぷり浸かっていたとは思えないほどの語学力で、佐古はつけつけと片桐を責め立てた。
 そして、うろたえる片桐をそのまま引きずって客間に押し込み、後ろ手にドアを閉める。
 反射的に抗議の声を上げそうになったが、やんわりとした暖かい空気を感じて我に返り、静かに一息ついた。
 薄明かりの中、中村の白い顔が浮かんで見える。そして規則正しい、静かな寝息がゆっくりと聞こえてきた。
 足音を忍ばせてベッドのそばに行き、頬の近くに手をかざすと熱が伝わってくる気がして、そのまま触れてみる。指の背をそっと頬に当てるとやはり尋常でない熱さを感じた。
 少しでもその熱を吸い取ってしまいたい思いから、かがみ込んで頬を両手でそっと包み、額に自らの額をあてる。
「ごめんな」
 目を閉じて口の中で小さく呟いてじっと動かずにいたが、しばらくすると唇をかすめるかすかな吐息にどこかほの甘いものを感じて、目眩を覚えた。
 どうして、こんな時にもこんなに甘いのだろう。
 触れてみたい衝動をこらえてぐっと腹に力を入れ、身体を起こす。
 それでもどうしても離れがたく、もう一度頬に指先でそっと触れたあと、乱れた髪をゆっくり梳き、額をゆっくりなで、最後につむじのあたりを手のひらで軽くぽんぽんと叩いてドアへ向かった。
 ドアを開けると、佐古が壁に背を預けて廊下で待っていた。
「・・・長かったなあ。このまま布団に潜り込んだら徹になんて言い訳しようかと悩み始めていたよ」
 腕を組んでにやりと笑うその様は深夜でも格好良く決まっている。
「そんなことしない」
 ぶすっと返したあと、「それよりも」と続けた。
「ん?」
「俺が言う事じゃないけど、ハルを頼む。まだ熱があるみたいだ」
「ああ、はいはい。たぶん一晩は無理だろうねえ。朝には徹が消化の良い物作ってくれるでしょ」
 朝帰りの家主に朝食を作らせる気なのかと問いたい気持ちは山々だが、今更なので言葉を飲み込む。
「それより・・・」
「何?」
「・・・いや、いい。邪魔したな」
 鞄を手に、さっさと靴を履いて、前に進む。
 振り返らないと、決めた。
「じゃ、またな」
「うん、おやすみ」
 
 ゆっくりと閉まるドアに、片桐の背中を見つめながら、佐古はぽつりと呟いた。
「・・・九州男児は難儀だねえ・・・」
 けっして彼には聞こえるはずがない事を承知で。




 幸せな夢を見たような気がした。
 ふわふわと優しさに包まれたような夢を。
 心地よすぎて目覚めたくないような、または目覚めと同時に何か良い事が起こりそうな期待に胸が弾む。
 ゆっくり目を開くとコーヒーの香りとかすかな話し声がして、自分がどこに寝ているのかを思い出した。身体を起こすと昨日とは打って変わってすっきりとした心地がし、スリッパを履いて部屋を出た。
「おはよう。具合はどう?」
 カウンターに両肘をついて寄りかかっていた佐古が振り返る。
 それと同時に、コーヒーを淹れている最中の立石が視線を上げてやんわりとほほえんだ。
「顔色は良さそうだな」
「はい。おかげさまで。昨日はお二人に迷惑をかけて、申し訳ありませんでした」
「いや、無理矢理うちに連れ込んだのは俺らだから。気にしないでくれ」
「そうそう。徹のお節介は性分なんだから。マグロが泳ぎ続けないといけないように、誰かの世話を焼かないと心臓が止まるんだ。だから気にするだけ損だよ~」
「真人・・・。お前は俺をそんな風に思っていたのか・・・」
 親戚同士の屈託のないやりとりに、春彦は笑みを浮かべた。それを合図にテーブルにつく事を促し、暖めたミルクを飲む事を勧めたりと二人は細々と気を配ってくれる。
「実は、片桐が夜中にここにきていたよ」
 一口、ミルクを口に含んだところを見計らって佐古がきりだした。
「え・・・」
「うちへの仕事依頼提案書書き上げてきたけど。まあ、口実だね」
 肩をすくめて、さらりと暴露する。
「帰り際に君の寝顔見に寄ったけど、気が付かなかった?」
「ええ・・・。まったく・・・」
 言いかけて、ふと、額に手をやる。
 誰かが優しく触れた。
 とてもとても心地よかった、あれは。
「・・・・っ」
 目をきつく瞑って唇をかむ。

「ねえ、こういうのなんて言うの?ありがた迷惑?表裏一体?諸刃の剣?」
「・・・頼むからお前はもう、黙ってくれ」
 立石はいつになく大きな音を立てながら人参を刻んだ。

 片桐の優しさが凄く好きで、凄く憎らしい。
 でも、心配してくれたという事がうれしくて心が沸き立つのに、もう放っといてくれたらいいのにと喉の奥に熱い塊がある。
 どうしていいか解らないほどぐらぐらだった。
 目の奥が熱くて、鼻がつんとした。
 泣かない。
 絶対、泣くもんか。
 泣いても、どうにもならないことなのだから。




「あー、もう、いいかげん、どうにかして!!」
 本間は叫んだ。
 何事かと、隣の課の主任が戸棚越しに覗きにきたが、そこにいるのが本間と岡本のみと見て、そそくさと去っていった。
 火曜日の昼下がり。
 事務職の本間以外は各々作業先へ出払ったらしく、無人に近い状態だった。 
「ここは、なに?中学生日記なの?」
 中村が倒れた時からもうすでに一ヶ月近く経つ。
 一ヶ月も経ったというのに、片桐と中村の間のぎくしゃく感はますます悪化していっている。
 仕事に重きを置く二人の事だから、さすがに、仕事に響く事はない。
 その点では問題はない。
 ないのだが・・・。
 綱渡りのような緊張感が漂っているのだ。
「よりによって、こんな時にあの二人が休暇取りやがるし!!」
 こんな時にこそ、いや、こんな時にしか役に立たないと本間が評価する、観賞用美形王子たちは一週間ほど前から揃って渡米中だった。そろそろ帰ってきて欲しいところなのだが、連絡がまったく取れない。
「まあ、今回は佐古の帰化の手続き処理の渡米だからなあ・・・。なんかで揉めててうまくいかないって立石からは一昨日メールが来てたけど・・・」
 まるで本間たちの課の住人のように馴染みきっている岡本ではあるが、実は立石共々、協力関係にある別部署の所属であり、仕事場の階もまったく違う。たまたま急ぎで承認印を貰いに顔を出したところに、運悪く本間に捕まって八つ当たりをされている。
「とにかく、白と黒が帰国したらなんとかするように言って」
 ぴしりと人差し指で岡本に命じた。
「本間さん・・・。俺の方がけっこう年上って覚えてる?」
「うん。でも、有希子さんをまんまと妻にしやがった時点で私の中でのあなたの地位は低いの」
 妻の有希子は女性社員たちの信望が厚く、未だに岡本は影で「とんび」と呼ばれ、時折刺すような視線を向けられる。
 女は敵に回すと怖い。
 超怖い・・・。
 世の中で一番怖い物はなんだと問われたら、迷わず女と答えるだろう。
 ふるると身震いをする岡本だった。
「ところで、件の女の動向でちょっと気になる話を耳にしたんだけど」
 誰だそれ、と言いかけて、本間の物言いにぴんと来る。
 この状況の上にそもそものきっかけを作った女性が再登場するなんて、お腹いっぱいである。
「・・・なにかな、それは」
「うん。確証を得るまでナイショ。ちょっとあまりにも、ちょっとなあと言う感じだから」
 珍しく言葉を濁す本間に首をかしげながら、それ以上追求するのは辞めた。
 開けないで良い箱はそのままにしておくに限る。
「それに、黒の方には私も急ぎの用があるから、早く帰ってきて欲しいのよね・・・」
「解った。もう一度帰国の日を確認したら連絡する。それで良いな?」
「うん。ぐずぐずしていたら、日本に居場所がなくなるからねって伝えといて。特に黒」
「・・・そんな不吉な伝言できるかよ・・・」
 しかしそれは、予言でも呪いでもなく、紛れもない事実だった。





 本間の呪詛が効いたのか、程なくして立石と佐古は帰国した。
 職場復帰してまず彼らが行った仕事は、「なんとかする」ことだったのはいうまでもない。
「じゃあ、今夜やっつけようよ。俺は片桐担当、徹はバンビちゃんね」
 所属は研究所付けにもかかわらず、本部総務関係の手続きと人事への説明のために立石たちの仕事場にやってきた佐古が、関係者の中で付合いが一番浅いにもかかわらずてきぱきと指示を飛ばす。
「あ、そうだ」
 半分脱力しながらそれを眺める岡本にくるりと白王子が優雅に振り返った。
「ねえ、酒と料理がまともで、ちょっとこじゃれて、キャパの大きく、女子率が割と高い店知らない?あと、値段はちょっと高め」
「んー?なんで?」
「男子率の高い店でこの手の話をしてもね。女の人は自分たちの話にたいてい夢中だから助かるんだよ。しかも合コンなんかに使っていたらなお良しだな。」
「君のその洞察力と気配りにはしんそこ感服するよ、ワタシ・・・」
 日本の文化に馴染みすぎだろ、と突っ込みを入れつつも、岡本は要望に応えるべく早速PCに向かった。
 「二軒ね。徹は寮に近い方、俺は家に近い方」
 もう、どうにかしてくれるならどうにでもしてくれと天を仰いだ。
 

「ふうん。あいつもやるじゃん」
 満足げに佐古はウイスキーに口をつけた。
 岡本が昼休みを使い切って手配した店は、なかなかのものだった。
 キャパが大きく、ご褒美向きの人気店。
 ほとんどがカップルと食事会、多少は男性同士も混じっているが、暮らし向きの良さそうな感じで、同業者らしき面子はない。
 自分たちの所属先でもある日本のメーカー勤務者はたいてい安月給なので、この手の店にはなかなか来ないことを狙ったのだが、見事当たったようだ。
 更にはほどよい暗さと女性中心のざわめきのおかげで、カウンター席の隅に座る男二人連れはさほど目立たない。
 本当は徹の家へ連れ込めば楽なのだが、こういう店の方がかえって話もしやすいだろうとも思っての事だった。
 そして、それも狙い通りであることは、隣の片桐の口調を聞けば明確だ。
「あいつって?」
 同じくウィスキーを飲み干しながら上目遣いに尋ねるさまは、ほどよく酔いが回ってきたと見える。そろそろ色々な物がほどけてくる頃か。
「ううん、別に。それよりさあ。何でこじれちゃってんの、君たち」
 単刀直入に切り返すと、グラスを下ろす手を宙に止めた。
「・・・わかんないんだよな、俺も、多分、ハルも」
 以前のようであろうと、ありたいと思えば思うほど、どうすればよいか解らなくなる。
「ほら、眠れない時に思わないか?あれ、どうやったら眠りにつけるんだっけって。そういうのに似ている気がする」
 自然に、呼吸するように当たり前だった事が、今はまったくどうしたらいいのか解らない。
 彼の前では上手く笑う事はおろか、自然に話すことすらできなくなりつつある。
「それはまた・・・」
 聡い子だから、片桐があがけばあがくほどそれがまた辛いのだろうなと、その白い顔を思い浮かべる。
「で。今更なんだけど。あの夜はどこまでやっちゃったの?本当は覚えてるんじゃない?」

 あの夜。
 本当に今更だ。

「朝、起きた瞬間は本当に覚えてなかったんだ。だから、物凄く動揺してハルを傷つけた・・・。でも」
「思い出したんだ」
「ああ。一生懸命考えたし、色々な切っ掛けでボロボロ出てきた。時間が経てば経つほど・・・な。多分、今は全部思い出したと思う」
 手のひらに、指先に、腕の中に、春彦の息づかいが灯っている。
「俺はあのとき、物凄くハルが欲しかったんだ」

 花のように香る、甘い唇。
 それがかすかに震えているのを見た瞬間から理性はとんだ。

 いや、それより前に彼の白い膝を目にした時には、酔いつぶれて夢に見ていたはずの美咲のことはすっかり忘れ去った。
 同僚だと言う事も、男だと言う事も、すべて忘れた。
 場所も時間も、気遣いも忘れて、早く征服したという気持ちばかり高まっていく。
 ただ、早く、早くと胸のどこかに焦りと緊張感が広がった。
 そして長い時間をかけてむさぼり尽くしたその身体は、どこまでも、気が遠くなるほど甘かった。
 目を潤ませる春彦が可愛くて可愛くて、指先からつま先まで全部自分の中に閉じ込めてしまいたかった。
 一番最後の記憶は、ぼんやりとした光りの中で唇を合わせながら目を閉じたことだ。
「なにそれ。入れっぱなしで朝ってこと?倒れるはずだよねえ」
 あけすけな物言いに顔を赤らめる。
「いや、さすがに入れっぱなしでは・・・」
「なら、いじり倒し」
「・・・はい、その通りでございます・・・」
「この絶倫め」
 途切れ途切れの告白に、テーブルに両肘をつき、手の甲に顎を載せてあきれたように呟いた。
「そんだけやっといて覚えてませんって、アンタ。どんな人でなしだよ」
 カラン、とグラスの中で氷が転がって音を立てる。
「・・・仰るとおりで」
 はあーっと片桐はため息をついてカウンターに伏せた。
「後で謝ったら、ますますひどくなって・・・」
「そりゃそうでしょ。もう、人でなし通り越して鬼畜だね。俺だったら殺すかも」
「そうだよなあ・・・」
 自己嫌悪で最近は夜もほとんど眠れない。
 どうして、あんなひどい事ができたのか。
 酔いの勢いと言え、踏みとどまれなかった事も、起き抜けの失態も、もうどうにも取り戻しようがなく。
「いっそのこと、殺してくれと何度思ったか・・・」
 ため息と一緒に魂も飛んでいかんばかりの様に、さすがの佐古も言葉がなかった。
「何であそこで眠ってしまったのかな、俺・・・。せめて眠ってしまわなかったら・・・」






「・・・知らなかったんです」
 ビストロ風の穏やかな店内に呟きのような言葉が落ちた。
 立石は黙って、隣に座る中村の細い肩先を見つめた。
「眠りに落ちたらリセットになるって」
「・・・ああ、酒で記憶が飛ぶヤツか。片桐にしては珍しいけどな」
「ええ。だから、僕もなんだか混乱して・・・」
 店内のざわめきに混じって緩いジャズの流れる中、何故か目眩を感じて固く目を瞑った。
「今もどうしたらいいか解らないです」
「まあ、それはそうだろうな・・・」
 絡まりきった糸をどうすればいいのか、二人だけではなく、当事者全員途方に暮れているところなのだから。
「何があったのか、もうご存じですよね・・・」
「まあ、うすうすは。・・・真人がいたしな」
 好奇心の塊の佐古は、いつの間にか彼らの間にするりと入り込み、この件の中心に座り込んでいるような気がしてならない。
「あの折は、本当にお世話になりました」
「いや。今日もこんな所に呼び出すのは余計な事かと思ったんだけどな。営業の手配ミスでそっちの作業量が増えてたから疲れているだろう」
 営業の池山は責任者としてシメといたから、と、立石にしてはきつい物言いに中村はふわりと笑う。
「いいえ。かえって気が紛れるから仕事が増えるのは大歓迎なんですけど・・・。独りになると、どうしても色々考えてしまうから」
「そうか」
「はい」
「・・・こう言うのも野暮だが、片桐は本当にハルのことを可愛いと思っていたはずなんだけどな」
「可愛い・・・ですか」
 自嘲気味に反芻するのをさらりと流して立石は続けた。
「去年のGWの九州・山口ツアーは、佐古と岡本がこっぴどく叱られていたし、そうとう抵抗されたしな。最後の最後までお前と二人だけで行くつもりだったんだよ、片桐は」
 そう言われて、去年の春には休みをいっぱいいっぱい使い切って立石たちと片桐の実家へ遊びに行き、そのついでに九州を回った事を思い出す。

「前に福岡の事、色々聞いていただろう。予定がないから来ないか?うちの実家」

 片桐が仕事の打ち上げの最中に誘ってきたのを聞きつけた鹿児島出身の岡本が、春彦の返事を待たずにいきなり割り込んできた。
「なんだ、俺もGWに里帰りすんだよ。なんなら一緒に行こうぜ、九州」
 と、そこへ同じく福岡への里帰り予定の立石と佐古が加わり、更にその場にいた山口出身の江口が引き込まれ・・・。片桐と春彦は置いてけぼりのまま、話はあっという間に大きくなっていった。
 酒の席の話で済まなかったのが彼らの凄いところで、翌日の昼休みには基本計画ができあがっていた。 
 顔ぶれは、片桐、立石、佐古、岡本、江口、立石と同期で営業の池山、女性は本間、そして彼女の茶道仲間でSEの事務だった保坂、更に師匠の孫娘で立石の級友の長谷川とその息子、更には同じく茶道仲間で江口の姉の小宮とその子供たちが完全参加。
 あとは途中合流や途中離脱が設計とSEともにそれぞれの部署から数名と、更にその家族や恋人が混じり、もはやツアーと冠するに相当する規模だった。
 立石たちがたてた最初の計画では数日のはずだった話があっというまに一週間を超えて、日程表を更新しながらこうなるともう合宿だと本間が笑い、この際安月給のこの業界から足を洗ってみんなで旅行会社でも起こすかという冗談を交わして、準備の段階からとても楽しかったことも覚えている。
 旅の最後に鹿児島の岡本の実家が営む旅館に泊まり、そこで岡本はプロポーズに成功し、保坂はすぐに家族と親族に気に入られ、とんとん拍子で結婚が進み、みんなで幸せな気分になったものだ。
 あの頃は、瀬川美咲がまだ仲間に加わっていなかったことも思い出し、また少し胸が苦しくなる。
 片桐が彼女の手を取ったのは、それからまもなくの事だった。
 ちょうど同じように交際を始めたり結婚を決めたカップルがそこかしこにいて、「鹿児島プロホーズ旋風だな」と上司たちが苦笑いしながらご祝儀の算段をしていた。
「知らなかった・・・。だって、物凄く楽しそうにしていたし・・・」
「俺は最中にも勘弁してくれと愚痴を言われたよ。ハルと静かにゆっくり行くはずだったのにって。ずいぶんと好き勝手に暴走してたからな、みんな」
 あの旅行は、自分の記憶にある限り一番楽しい思い出ではあるけれど、二人だけで行っていたならば、もっと違う形になっていたのだろうかと言う思いもわいてくる。
 でも。
 それは関係ない。
 婚約した時の片桐はとても幸せそうだった。
 そして春彦は、自分がずっと恋していた事に気づき、それはけっして叶わない事も知った。

 ずっと、ずっと。

 18歳で入社してすぐに配属先で片桐に出会った時から、その明るさと暖かさにあこがれていた。
 昇級のための研修で二年あまり離れる事になった時、もう会う事もないのかと寂しくなった。
 そして、幸運な事に同じ所へ再配属された時は天にも昇る気持ちだったのも今でも覚えている。うれしくてうれしくて、辞令をもらった日は眠れなかった。しかしそれは、単純に居心地の良い仲間の元で働きたいと願っていたからだと自分に言い聞かせていた。

 ずっと、好きだったのに。

 出会いもきっかけも過ごした時間も自分にとっては何にも代え難い宝物だけど、片桐にとっては普通の、同僚との記憶に過ぎない。
 そう思い知らされたのが、瀬川美咲との一件だった。



「もう、とっくにご存知とは思いますが・・・」
「うん」
「すきでした、ずっと」
「・・・うん」
 ぽたり、と、テーブルの上に涙が落ちた。
 おそらく、中村は自分が泣いている事など気が付いていないだろう。
 だから、立石は視線をまっすぐカウンター向こうのガラス棚に目をやった。
 この店は昔よく池山と利用していたために顔見知りのオーナーは、立石たちの座っている店の端だけスタッフが近付かないように配慮してくれた。
 普段の中村ならこのような話をする事も、涙を流す事もない。
 優しげな風貌とはうらはらに、物凄く芯が強く、常に自制しているところがあった。
 ほんの少しの酒で崩れていくほど、彼が参っている証拠だ。
「だから、泥酔した片桐さんが僕の腕をつかんだ時、振り払えなかった」
「うん」
「それに・・・」
 立石の相づちにぽつりぽつりと言葉が落ちる。
「たぶん、僕が誘った・・・」
 両手で囲い込んだカクテルのグラスをぎゅっと、指先が白くなるまで握りしめているのを横目に、立石は胸元から出したマルポロを咥えて火をつけた。
「そうか・・・」
 ふうーっと細く吐きだした煙はゆるく天井に向かって上っていく。
「だって、名前、呼んでくれたから」

 ・・・ハル。
 ・・・ハル、行くな。

「うん」
「最初は瀬川さんじゃないって落胆していたくせに、僕の名前呼んでくれたから・・・」
「うん」
 目を開いたままぱたぱたと涙を落とす中村の頭にそっと手をやり、髪をくしゃっとなでる。
「か、可愛いって言ったりするから・・・、だから・・・」
 春彦は両手を鼻と口に当てて、嗚咽を飲み込んだ。
 
 ハル、ハル、可愛いな。
 可愛いよ、お前は。

 片桐は、ずっと甘くかすれた声で名前を呼びながらも、やがて性急に求めてきた。
 互いの両手の指を絡ませて、春彦は半ば床に縫い付けられたような状態で足を開いて片桐にえぐられる。
 2人が発する熱気と息づかいと信じられないような生々しい音が部屋にこもる中、何度も何度も深く奧まで叩きつけられて声すら上げられず、ただただ喘いでいた。
 初めての行為に対する驚きと痛みと想像だにしない感覚に、ああ、これが気持ちいいと言う事なのかと霞む意識の中で思った。
 とても、とても気持ちが良い。
 身体の中いっぱいに片桐が入ってくる。
 出て行こうとするのが惜しくて、無意識のうちに腰に足を絡めて引き留めた。
 それに応えて自分を貫きながらも片桐は首に唇を落として強く吸う。
 そして、歯を立てられた。
 その瞬間、何故か喰われる、と思った。
 ふいに想像する。
 彼は腹を空かせた肉食獣で、自分は捕まってしまった草食獣だ。
 彼に仕留められて、腹を割かれて血を流しながらも、どこかそれが気持ちいいと思ってしまっている。
 腹の中に鼻面を突っ込まれてむさぼられても、気持ちいいと。
 彼の糧になれて、この上なく幸せだと。
 そして、思う。
 もっと、もっと欲しがって。
 もっと、欲しいと言って。
 跡形もなくなるくらい、自分を食べ尽くして欲しいと。
 そして強く、強く願った。
 このまま、どうかこのまま。
 このまま、どうか。


「う・・・っ」
 思い出した何もかもに心が乱れて上手く息が出来ない。
「ハル、ゆっくりでいい、ゆっくりでいいから」
 両手をあてたままやり過ごそうとする春彦の背をやさしくなでた。
 促されて、震える両手の下でゆるゆると息を吸う。
「まあなあ・・・。好きな相手と肌を合わせられたら、そりゃ嬉しいよな」
 今までほとんど相づちだけだった立石がぽつりと呟いた。
「俺は生と初めて寝た時、・・・というか、抱かせて貰った時、有頂天も良いところだったよ」
 何度か顔を合わせた事のある立石の思い人の話を、本人の口から聞くのはこれが初めてで、春彦は息を沈めるよう努めながら隣に目を向ける。
 すると、タバコを持つ手を照れたように口元にあてながら立石は続けた。
「俺は中学生の時からあいつが欲しかった。だから、再会してから身体を開いてくれた瞬間、初めて女の人を抱く時以上に緊張して頭が真っ白になったな。・・で、嬉しい嬉しいだけの気持ちでぐるぐるして、一晩中」
 少しおどけたように目元で笑ってみせる。
「こいつはオレのもんだ、俺の物になったぞーって、周りに言って回りたいくらい舞い上がっていたんだが・・・」
 と、そこで立石の眉間にしわが寄る。
「・・・朝になったら、そうじゃなかったと解った」
 はああ~と、盛大に天井に向けて息を吐き、煙が上っていった。
「え?」
「ベッドで目を覚ましたら、とっとと着替えた生がコーヒー飲んでソファでくつろぎながら、さっぱりした顔して言ったんだ。『これで気が済んだだろう』って」
「・・・はい?」
「明け方までの諸々なんか関係ございませんって顔をして、さらっと。『お前がそこそこ上手いのはわかったから、安心して次に行け』って。アレには地べたより下に叩きつけられた気分だったね」
「・・・は・・・」
「俺は、生が俺なしでは生きていけないって言わせたかったのに、もう、あっさりかわされて、燃え尽きたよ、さすがに。・・・でもな」
「はい」
「それで、一時は猛烈に腹が立ったけど、その程度の事では諦められないと思った。どんなに邪険にされても、振り払われても。・・・俺は何があっても、あの夜を忘れない」
 生は策におぼれたんだよ、と立石が楽しそうに笑うので、春彦もつられて笑う。
「そう・・・ですね」

 物凄く嬉しかった。
 たとえ、ただの衝動だとしても。
 たとえほんの気まぐれでも、それはずっと欲しかったから。
 だから、絶対に忘れない。


「でも・・・。僕は片桐さんにとても悪い事をしました」
 ふと、忘れてはならない一件を思い出して春彦は表肩を落とした。
「ん?」
「実は、最近、上司たちの会話を小耳に挟むまで知らなかったんです」
「なにを?」
「泥酔した場合、一度眠った瞬間にそれまでの記憶がリセットされる事があるって」
「んん?」
 最初に話が戻っている。
 言わんとする事が理解できず、ブランデーグラスに口をつけながら立石が眉を寄せる。
「岡本さんからの電話が入るまで、眠りに落ちたのは多分ほんの短い間だったと思います。自分でも気が付かなかったくらい。その分、眠りが深かったのかもしれませんが・・・」
「・・・?・・・ああ」
 中村が倒れた日の朝の事らしい。
「まさか、たったそれだけの睡眠で片桐さんが記憶をリセットしてしまうなんて、あの時の僕には考えが行かなくて・・・」
「それで?」
「起き上がった瞬間に、パニックを起こした片桐さんに猛烈に腹が立って・・・」
「うん」
 言いよどむ春彦に視線で先を促す。
「すぐに蹴り出して、・・・裸のまま、廊下に放り出してしまいました・・・」
 今を思えば、なぜあのような暴挙に出られたのか解らない。
 目をぎゅっと瞑って恥ずかしそうに絞り出した呟きに、立石は目を見張った。
「・・・マジ?」
 重たい沈黙が2人の間に落ちる。
「・・・マジです」
 煙草をくゆらせた指先もそのままに、あんぐりと口を開けてしばらく微動だにしなかった立石はそろりと息を吐いた。
「・・・ハル」
 ゆっくりと灰皿に短くなった煙草を押しつける。
「・・・はい」

「お前もやるねえ・・・」
 にやりと、立石が笑った。



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