『秘密の花園-薄闇の桜-』


 身体の上に重みを感じて目を開けた。
「起きた?」
 鼻先数センチの所に、白い顔がある。
「けん・・・」
 呟くと、蜜色の瞳が金色にきらめいた。
「俺、さっき横になったばかりなんだけど・・・」
「うん。そうだろうと思ったけど起きて」
「・・・憲二、確かずっと忙しいはずじゃ・・・」
「終わった。だから来た」
 腹ばいになって胸元に顎を乗せ、らんらんと目を光らせている様は、まるで大きな猫のようだ。
 遊びたくてうずうずしている気配が全身からもれでている。
「桜を、観に行こう」
「さくら・・・?」
 夜勤明けで眠っているところにいきなり尋ねて来るなり、これだ。
「・・・桜って、まさかと思うけど・・・」
「うちのに決まってるじゃん」
 うち、とは本邸の庭のことで。
「ここからどうやって・・・」
「お前の車しかないだろう」
 兄の住まいからここまで車で30分以上かかるが、彼が運転してきた気配はない。
 どうやらタクシーを乗り付けたようだ。
「どうしてもと言うなら、俺が運転してやっても良いけど?」
「・・・いやいい。俺がやる」
 憲二の欠点の中で唯一で最大のものは、あり得ない運転技術の未熟さだ。
 見栄えの良い高級車を所持しているくせに、アクセルとブレーキは踏むか離すかで中間はなく、思いついた瞬間にハンドルを切り、ミラーを確認している気配すらない。
 彼はすべての運を運転中に使い切っているとしか思えず、助手席に乗っているといつでもあの世への切符を握っている心地になる。
「なら、早く。俺は待ちくたびれた・・・」
 しまいには髭の生え始めた顎をぞりぞりと囓られ初めて、降参した。
 猫と兄には敵わない。
「・・・シャワー浴びて、コーヒー飲むくらいはさせてくれ」



 平日と言うこともあって、休憩を取りつつもなんとか四時間程度で辿り着くと、乱反射する光の中にうっすら夕闇の気配が迫っていた。
「これはこれで、おつなものだよな」
 満足げな笑みに、喜びでいっぱいになって疲れを忘れる自分はつくづく馬鹿だと思う。
 だが、それが見たくてここまで来たのだから仕方がない。
「・・・母屋へいかないのか?」
 門を開けて車を入れた時に家政婦たちと顔を会わせている以上、自分たちが来たことはとうに知られている。
「誰が行くか」
 憲二は父を嫌い抜いている。
 父も随分歳を取り、婿に後継を譲って政界から離れていきつつある今、東京ではなくこちらに身を置くことが多くなった。
 憲二自身、留学から帰ってきて日本の大学に籍を置くことになったからにはいくらでも会う機会がある筈だが、里帰りしたとしても頑として自らの育った離れにしか足を向けず、正月ですら挨拶に出向くことを拒む。
 憲二は、生まれる前から、父を憎んでいたという。
 父は、憲二を宿した母に、自らの子と解っていながら女でないなら堕ろしてしまえと宣告していた。
 理由は、のちのちの跡目騒動になるからという。
 前妻の遺した兄の俊一を溺愛し、彼の情操教育のためだけに母を後添えにした父は、姉の清乃のように美しく、俊一の役に立つ女子しかいらないと、顔を会わせる度に言い放ったらしい。
 当時の担当医師の診断では、女の子。
 おかげで胎児は中絶時期を乗り切った。
 しかし、難産の末に生まれた赤ん坊は、あろうことか男の子だった。
 出産にも立ち会わなかった父は、それを知った途端激怒して、名前をなかなか付けようとしなかったとも聞いている。
 その事実を、憲二は言葉もよくわからない頃から大人たちの同情の眼差しと囁きから敏感に感じ取ってしまった。
 大人はいつでも侮るが、子供は想像以上に繊細で、鋭い。
 だんだんと表情が消え、言葉を発することが出来なくなった。
 兄と姉に劣らず顔立ちの整った憲二は非凡なほどに賢い子で、一歳になるかならないかの頃から回らない舌で明るくさえずるように喋っていたと、古参の家政婦たちは懐かしんでいたというのにも関わらず、だ。
 何も話さず、何にも心を動かされない。
 石のようになってしまった憲二を、清乃と母が抱きしめ続けた。
 そんな時に、自分は生まれた。
 おそらくは、言葉を失った憲二のために。



 古代とも言える頃からこの土地を支配してきた真神家の本邸は、いわゆる都心の御苑なみの広さだ。
 昭和になる前に西洋の建築士に建てさせた洋館を母屋に、様々な離れがあり、それぞれに合わせた庭が造られていた。
 その奥をさらに進むと小さな山へと続き、その頂に桜の大樹がある。
 太い幹が地面近くまで伸び、その隅々に花を付け、満開の時は壮観な眺めだ。
 樹齢がどのくらいなのか解らない。
 ただ、昔からそこにあったと母が言っていた。
「こいつに会いたくて、わざわざ来たんだよ」
 回遊させるために蛇行している小さな石段を、時間をかけて登って辿り着いた先に、老木が見事な花を咲かせ、ゆっくりと枝を揺らしていた。
「ただいま」
 憲二は両腕を木の幹に回し、ごつごつしたその木肌に頬を当てる。
 夕日に照らされた小さな花びらがあかね色に染まっていく。
 目を瞑ってゆっくりと息を吸い、春の香りを楽しむ憲二の頬も薄く染まっていた。
 風が、花びらをひとひら、ふたひらと散らしていく。
 ついつられてその先を目で追う。
「ふふ・・」
 ふいに、憲二が肩を揺らして笑い出した。
「どうした?」
 なんとなく何を思っているのか予想はついたが、問わずにいられない。
「ここでさ・・・。交尾してたよな、あいつら」
 視線の先には、東屋。
「交尾って・・・、憲・・・」
 露悪的な言い方に眉をひそめる。
 この庭園は広すぎて、随所にそれぞれの趣向を凝らした東屋やちょっとした別邸が点在する。
 その中で、桜の木のそばに建てられた東屋はなぜか洋風で石造りのしつらえだった。
 そこで、長兄が秘書の峰岸と抱き合っていたのを見たのは、やはり桜の頃だったように思う。
「いや、あれは交尾以外言いようがないだろ。俊一が尻を高く上げて、猫みたいに鳴いて。びっくりしたわ」
 俺達が見ているとも知らないで。
 憲二の、端正な顔が歪む。
「憲・・・」

 何年経っても、忘れていないのか。
 忘れられないのか。
 なにひとつ。
 胸に鋭い痛みが走る。

 あの時、自分たちはまだ小学生だった。
 代々続く広大な屋敷に住み、誰もが知っている名士の子にもかかわらず、供もつけず徒歩で地元の公立の小学校に通う自分たちは、あきらかに異分子だったと思う。
 幼い頃は何も考えずに一緒に戯れても、年を経るごとに同級生たちはどう接するべきかという戸惑いが増して自然と距離が空いていく。
 幼少期は身体が弱かったらしい兄の俊一は小学校をかろうじて地元の私立、中学校からは東京の名門校へ編入していたし、公の場に何かと伴われ、些細なことにも祝いの場を設けられたことと比べると、どうしても冷遇されているように周囲の目に映った。
 俊一以外に跡取りは存在しない。
 父は周囲に内外にそう知らしめたかったのだろう。
 確かに、効果はあった。
 父親に軽んじられている、むしろ嫌われていると子供たちに解釈された自分たちは、時々群れから弾かれ、嘲笑すらされることもあった。
 子供は、時として恐ろしく残酷だ。
 いらない子供、捨て子、鬼っ子とはやし立てられたこともある。
 耐えられなくなった憲二が自分の手を引いて学校を飛び出し、庭のどこかで過ごすことが増えた。
 繁華街に出ることはない。
 どこにいても人目があるからだ。
 そして父の不興を買うのを畏れた学校側は、まっすぐ自宅へ戻る自分たちの行動を不問に付し、留守を預かる家人たちも子供たちの早すぎる帰宅をうすうす気付いていながら、騒ぎ立てるべきでないと判断したのか、誰にも咎められることなくそれはしばらく続いた。
 だから、俊一と峰岸は知らなかった。
 最奧の東屋が弟たちの避難場所の一つだと。

 ひとひら、ふたひら。
 ふわふわと、白い花びらが宙を舞う。
 風に吹かれて飛んでくる桜の花びらに誘われて、二人で競って老木を目指した。
 いりくんだ小道を駆け抜けて先に辿り着いたのは、運動能力では勝っていた自分だった。
 さすがに呼吸がきつく、太い木の幹に両手をついて、肩で息をしているところに追いついた憲二が背後から飛びつき、二人で笑い合おうとしたその時、その先にある東屋の異変に気が付いた。
 まずは、声、だった。
 高く、低く、時には唸るような、人の、声。
 それは一人ではなく、絡み合って編み出される歌のようで。
 瞬時に、自分は何が起きているか理解した。
 なぜなら、そのような場に居合わせてしまったのは初めてではなかったからだ。
 でも。
 憲二は、初めてで。
 そして、知らなかった。
 俊一と、峰岸覚が、身体を繋ぐ仲だということを。
 
「あっ、ああ・・・っ」
「・・・っく、俊・・・っ」
 桜が咲いているとは言え、まだ少し肌寒さの残る季節というのに、俊一はシャツしか身にまとっていなかった。
 少し洋風の趣のある石造りの東屋の、同じく石で造られたテーブルに縋って、俊一がむき出しの尻を掲げ、その中心に峰岸がスーツの前をくつろげただけの格好で腰を打ち付けていた。
 膝を震わせて身体を支えられないのを見て取った峰岸が、いったん身体を離し、床にくずおれた俊一を大切そうに抱き上げてそのテーブルに座らせ、口づけを施す。
 両腕をその肩に回した俊一が何事か囁きながら、ゆっくりと足を開いていった。
 甘く口づけを交わし合いながら、俊一が長い足を広げ、身体をくねらせる。
 そして、それが合図のように峰岸が白い足を抱え上げ、再び俊一を貫いた。
「あっ、ああーっ」
 首をそらして、歓喜の声を、上げる。
 快楽のまっただ中にいる二人は、すぐ近くで目を見開いたまま固まる憲二と自分に気が付かず、長い時間を掛けて何度も愛し合った。
 チャコールグレーのスーツを着込んだ峰岸の身体に、俊一の長い手足がきつく絡まり、それが昼のやわやわとした光を帯びて白く光る。
 貫いて、
 貫かれて。 
 二人は悦びの声を上げる。
 まさしくそれは、祖父の遺した書斎で見た、歓喜仏のようだった。

「そういやあれを、俺が犬の交尾みたいで恥ずかしいって言ったら、お前、チベットだかヒンドゥーだかの宗教画みたいに神聖だって大まじめに返したよな」
 幹に背を預けて、憲二はあの時と変わらない東屋を見つめる。
「そこは、忘れて欲しかったな・・・」
「なんで?」
「なんででも・・・」
 多分、あれから一度も、彼はこの桜の木より先に足を踏み出したことがない。
 どれだけ時が経っても、風化することのない記憶。
 この木を恋しがってやってくるくせに、まるで見えない境界線があるかのように東屋へ続く石畳に足を乗せようとしない。

 あの日。

 彫像のように立ちつくす憲二を、なんとか引っ張って桜の木から引きはがし、その場を後にした。
 東屋の二人は、自分たちに気付いていたのかもしれない。
 でも、愛し合うのを止めなかった。
 風に乗って、彼らの声が、音が、白い花びらと一緒になって追いかけてくる。
 夢中になって、階段を駆け下りて、憲二の手を握ったまま走り続けた。
 足をもつれさせ、二人で倒れ込んだのは、いったい何処だったか解らない。
 十二になる憲二に、性に対する知識はあった。
 当時敷地内にいた動物や昆虫の交尾も見たことがある。
 だけど。
 あまりの生々しさに、憲二は泣いた。

 憲二は、峰岸が好きだった。
 数年前に秘書として長兄の傍らに立って以来、憲二が峰岸を兄の一人のように慕い、やがてそれは淡い恋心に発展してくのを、つぶさに見ていた。
 おそらくは、長兄も気付いていた。
 その証拠に、憲二が峰岸を慕えば慕うほど、俊一の憲二に対する態度は硬化していった。
 そして、二人の仲が完全に決裂したのは、この時だったのかもしれない。
 幼い子供が親の夜の姿を目撃してしまうと、無意識のうちにどちらかを嫌悪し、無意識のうちに強く憎むようになることがたまにあるらしい。
 憲二の憎むべき対象は俊一で、峰岸への恋心は更に募っていった。
 その傾倒ぶりは痛々しいほどで。
 しかし、峰岸は俊一以外の全てを拒み、憲二を顧みることはない。
 憲二の心がじわじわと闇に侵されていく。
 だから、たまらず言ってしまった。
 彼らは歓喜仏のように一対なのだと。
 固く抱き合った二人が離れることは、ない、と。
 あの時の自分はまだ子供で。
 残酷だった。
 自分は、憲二のために生まれてきたのに、どうして憲二は自分のものでないのか、不思議だった。
 いつもそばにいるのに。
 一番近くにいるのに。
 なぜ憲二は気が付かない。
 気が付いて欲しかった。
 自分の存在に。
 だから、わざわざ書斎へ連れて行き、書を開いて見せた。
 憲二を、振り向かせるために。
「あの時の二人は、この絵みたいだ」
 二人の仲は揺るがないのだと解りさえすれば、この不穏な霧も晴れていくものだと思い込んでいた。
 その一言が、どれだけ彼の心を傷つけ、粉々に砕いてしまうかなんて、思いもせず。
 
「俺は、十歳にもならないお前の口から密教の話が出るなんて驚いたから、覚えてるんだよ。コイツ、ませてるなーって」
 くっくっくっと、楽しげに肩を揺らして笑うけれど。
 あの時からまもなく、憲二は狂いだした。
 まだ中学生だったというのに、彼はこの家のあちこちに誰かを引き込むようになった。
 それは秘書であったり、遠縁の者であったり、後援者の誰かであったり。
 時には担任すら誘惑し、絡め取っていく。
 男女問わず、誰もが憲二に溺れた。
 けれど憲二はいつも冷めていて、相手が少しでも執着するそぶりを見せるとあっさり絶つため、時にはもめ事にまで発展し、刃傷沙汰にまでなったこともある。
 しかし、肝心の長兄と峰岸は静観を貫いた。
 どれほどの人の仲を見せつけても全く動じない二人に、憲二の心はますます渇いていく。 
 それは、もう自傷行為ともいえる状態だった。
 更に、高校に上がる頃になってようやくその乱行ぶりに気が付いた父が何度かいさめ、時には手を上げたが効果はなかった。
 逆にますますエスカレートしていき、醜聞がどうにも押さえきれなくなるに至り、東京の名門校へ転入させた。
 東京へ移っても憲二が人肌を求めることを止めたりはしなかったが、田舎の知人たちを食い尽くすよりましだと父は結論づけた。
 憲二は並外れた頭脳の持ち主であったというのに高校なかばまで地元で近所の公立高校に押し込められ、大人たちは誰もその才に気付かず、羽をもがれた鳥のようだった。

 それがようやく窮屈な真神の地から解放され、知的好奇心を満たすことができる都心に移り、少しは落ち着いたかに見えたが、憲二の全神経は常に兄たちへ向かったままだったのだと思う。

 そして、突然の事故。
 二人の、死。

 今も、憲二はどこか虚ろなままだ。

「かつみ・・・」
 時々、宝玉のように透明になってしまった瞳で、彼は腕を伸ばしてくる。
 寒くて
 乾いて、
 疲れ切った憲二。
 子供のように温もりを求めるその身体を、そっと背後から抱きしめる。
 今度は、壊さないように。
 今度こそ、生かすために。
「かつみは・・・暖かいな」
 お前が望むなら、いくらでも温めてやる。
 そう、叫びたいのを飲み込んで、子供の頃のままのふりをする。
 自分は、小さなままの弟で。
 犬のように従順な、理解者。
 かつみ、は。
 男、で、あってはならない。
 心の奥底を、決して見せてはならない。

 桜が咲いて、後を追うように芍薬や桐や藤が咲いて・・・。
 季節が巡る。

「やっぱり、この庭じゃなくちゃ、な」
 腕の中の憲二が、満足げなため息を、つく。
「そうだな・・・」
 夕闇の寒さに冷えたふりをして、少し彼の身体に回す腕に力を込める。

 憲二は桜以外の花の名前を覚えない。
 だけど、この庭を愛している。
 何度も、こうして戻らずにはいられないほどに。
 

 先日、義兄の愛人が妊娠したと聞いている。
 それが、おそらく男の子だと言うことも。
 政治家としての跡取りはこれで目処が付いたと思っている。
 甥の春彦は、政治家には向かない。
 あまりにも清らかで、優しすぎる。
 そんな春彦に、自分たちが代わってやれなかった仕事を押しつけるわけにはいかない。
 だから、野心的な彼女の子供の誕生を心から喜んでいる。
 だけど、この広大な本邸を維持するにはやはり自分が動くしかないだろうと思い始めても、いる。

 憲二が、この庭が必要というならば。
 守っていこう。
 それが、憲二の心を無残に壊した自分の罪の代償と出来るなら。

「また、来よう」
「うん。次は・・・なんだっけ。池に浮かぶ花が見たい。寺とか・・・法事に良く出てくる・・・」
「睡蓮か?」
「ああそうそう、それ」

 憲二が、あざやかに笑う。

 また、この庭で。
 そう、言うならば。
 
 それだけで、十分だ。






 -完-


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