『秘密の花園-無花果-』




 柔らかな感触に、ふと、目を開いた。
「あ、すみません。起こしてしまいましたか」
 緑がかった瞳が申し訳なさそうな色を帯びる。
「いや・・・。ちょっと考え事をしていただけだ」
 胸元に目をやると、肩から薄いキルト毛布を掛けられていた。
 考え事をしているうちに、眠ってしまったらしい。
「夏になったとはいえ、このあたりは風通しが良すぎるからお気を付け下さい」
「そうだな・・・」
 椅子に深く沈めていた身体を起こすと、はらりと毛布が落ちかけた。
「どうかそのままで」
 そう言うと身をかがめ、わずかに触れない距離で毛布を胸元から足もとまでに引き下げてきた。
「少しお待ち下さい。何か温かい飲み物を運びます」
 この息子は、そういう気遣いをいつも見せる。
 子供たちの中で一番目立たなかった三男はいつのまにか誰よりも大きく育ち、成熟した男へと成長したのだと、母屋へ足早に去りゆく背中を見つめ、改めて思った。
 勝己。
 一つ間違えば、こうして会話を交わすことはなかった、最後の子供。
 ほどなくして彼は大きな盆にティーセットを載せて戻ってきた。
「・・・それは」
「ああ、果樹園に植えていた無花果が食べ頃になっていたのでもいできました。先ほど厨房の人たちと食べてみたら美味しかったので」
 瑞々しく皮の張った果実を取ると、慣れた手つきであっという間に皮を剝き、切り分けて小皿に盛り銀のフォークを添えて差し出してきた。
「召し上がりませんか。紅茶に合います」
「うむ」
 肯いて口に運ぶと、特有のねっとりした甘さが舌に広がった。
「そういえば」
 ふと気が付いたかのように首を傾けてぽつりと言った。
「どこかの地方では、今日、無花果を食べる風習があるとか」
「なぜだ?」
「今日は、夏至ですから」

 夏至。

 勝己と、初めて会ったのは夏至の、昼の庭だった。
 スイスの母の別荘で会った時、もう既に生まれて三ヶ月以上経っていた。

 今でも時々思い出す。

 窓を開け放した、コンサバトリー。
 およそ一年ぶりに会った下の子供たち、そして東京にいるはずの長男の俊一、母らに囲まれた中心に、淡い桜色の服を着た妻が守られるように椅子座っていた。
 そして、その腕の中には白い包みが大事そうに抱えられ、ゆったりと揺すられている。
「男の子よ。名前は勝己。俊一がつけて、出生届も出してくれたわ」
 母の言葉が理解できずに、口を半分開けたまましばらく動けなかった。
 全く間抜けなことに、この瞬間まで自分は赤ん坊の存在を知らされておらず、心身共に病んで静養に出たきり一年もなしのつぶてだった妻に苛立ち、そろそろ離縁するかとすら考えていた。
 芳恵は、母を失った俊一のために据えた後添えだった。
 出産後間もなく亡くなった最愛の妻の代わりになる者はいるはずがないが、家を守るために仕方なく迎えた。
 そうした経緯で選んだ遠縁の芳恵は、若さ以外取り柄がなく、古びた容姿で存在感が薄く、陰気で自分のないつまらない女だった。
 やはり、俊一の母としてそして真神の総領の妻としてふさわしくなかったのだと合点し、芳恵の産んだ子供たちともども実家に返す手配をするよう秘書に言いつけたところ、スイスへ引き取り彼らの面倒を見てくれていた母から連絡が入った。
 別れるなら、こちらへ来てけじめをつけろと。
 そうでないと一切のことはこの母が認めないと告げられ、書類を揃えて飛行機に乗り込んだ。
 一年も会っていない妻と子供たちに未練はなかった。
 乳飲み子だった俊一も、もはや18歳。
 母親の必要な年ではない。
 むしろ、これでようやく自分も俊一も身軽になれるとせいせいしていた。


「おとうさま、いらっしゃい」
 ほんの数メートル先を歩けずに立ちすくんでいると、腰まで伸ばした黒髪から艶々とした光を放ちながら、長女の清乃が飛びついてきた。
「おしごと、おつかれさまです」
 漆黒の瞳を輝かせて、抜けるように白い肌を薄く染めて心から嬉しそうに清乃が笑う。
 こんな表情をする子供だったか。
「清乃・・・」
 なめらかな頭に手をやると、静かに唇をほころばせた。
「かつみはね、まいにちたくさん、笑ってるの」
 甘い、野いちごのような香りがたちのぼる。
「えくぼが、とてもかわいいの」
 気が付いたら、手を引かれていた。
「おじいさまも、あかちゃんのときにえくぼ、あったのかしら」
 頼りない小さな指先なのに、確実な力を持って、歩きを促す。
「なぜ?」
 思わずこぼれた言葉に、無垢な眼差しがまっすぐに返ってきた。
「だって、瞳の色が、同じだもの」
 開け放たれた窓から、風が静かに流れ込み、通り抜けていく。
 若葉の香りに寄せて夏の始まりを告げた。


 鳴き交わす鳥の声と木々のざわめき以外聞こえない、静まりかえったコンサバトリーの中で、清乃の小さな足音と自分の革靴の冷たい音だけが異様に響いた。
「・・・俊一、お前、学校は」
 長男はまだ高校生だ。
 それにもうすぐ期末試験ではなかったか。
 全員の視線が集中していることを知りながら、どうしても赤ん坊と、それを抱く芳恵に声を掛けることが出来なかった。
「・・・そうきますか。いかにも、あなたらしいですが・・・」
 俊一が半分呆れたように、眉をひそめて笑った。
 その表情のどこかに光子の面影を見いだし、ざわりと胸が騒ぐ。
「試験が来週から始まるので、ちょうど授業もあまりありません。今日はお父さんがここに来ると聞いて、どうなるか見届けに来ました。一応、僕が名付け親ですし」
 なあ、かつみ?と、芳恵の正面に回ってかがみ込み、手を伸ばして少しあやしたあと、一声掛けてくるまれた赤ん坊を抱き上げた。
「父さん、勝己です」
 慣れた風に揺すりながら振り向いた俊一は、片手でやわらかな毛布をかき分けて顔を露わにする。
 そこには、ふっくりと膨らみきった頬と重い瞼に押しつぶされた目元の、いかにも日本的で特徴のない赤ん坊がいた。
 正直なところ、上の三人は赤ん坊の時から整いきった顔立ちをしていたことを思い出すと、気の毒な気持ちになり、更には血のつながりに疑問すら沸いてくる。
「ほら、もったいぶらずに目を開けてごらん」
 俊一が指先で頬をくすぐり甘い声で促すと、小さな唇が開いてか細い吐息を吐き出し、急にぱちりと瞼を開く。
「・・・な・・・」
 緑色の、瞳。
 真神の、正統な後継者にも希にしか現われなくなってしまった、色。
「おじいさまと、同じ色ですね」
 そう。
 数年前に亡くなった当主、春正の色だ。
「これはいったい・・・」
「何も不思議なことはないでしょう。勝己は孫なのだから」
 しばらく不思議そうに自分を見上げていた勝己は、やがて興味を失ったのか、またとろんと瞼を閉じて小さなあくびをしたかと思うと、あっという間に眠ってしまった。
「ああ、やっぱりもう駄目だ。寝てしまったよ、母さん」
 くるりと背を向けた俊一はすぐに芳恵の元に戻り、弟を手渡す。
「あら、まあ・・・」
 久しぶりに聞いた妻の声は、一年前よりもずっと良く通り、柔らかな気がした。
「かつみ、おねむ?」
 そして、まるで猫の子のような甘い声に耳を疑った。
 次男の声を聞いたのは、ほぼ初めてだ。
「もう、寝ちゃった。つまんないねえ、けんちゃん」
 そして、二人は手を繋いで歌い出す。

「Guten Abend, gut' Nacht
 Mit Rosen bedacht
 Mit Naglein besteckt・・・」

 子守歌だった。
 舌足らずな二人の歌うブラームスは、たどたどしいながら音程も発音も驚くほど正確だ。
 ちらりと母に視線を送ると、「家庭教師が教えたのよ」と軽く肩をすくめた。
 信じられない、光景だった。
 光と柔らかな風、そして天使の祝福のような歌声、まるで聖母のように清らかな空気をまとう芳恵と、子供たちに優しい笑みを浮かべる俊一、そして、母の満足げな視線。
 全てが完璧な絵のようなこの部屋で、自分だけ異質だった。
 どす黒い情念も、冷たい決別も、無縁の世界に口をつぐんだ。
 今この場で、全てを露わにする勇気はさすがになかった。

「・・・schau im Traum's Paradies・・・」

 二人が歌い終えて和やかな空気が流れた頃を見計らって、母が声を掛けた。
「寝室へ連れてお行き。私はここで惣一郎に話があるから、二人だけにして頂戴」
「はい」
 俊一が憲二を片手で抱き上げる。
「さ、お前たちも昼寝に行くか」
 清乃はすぐに俊一のもう一方の手に指を絡めた。
「では、私達はこれで・・・」
 なめらかな動作で立ち上がった芳恵は、赤ん坊を抱いたまま軽く会釈する。
「ああ・・・」
 一年ぶりに交わしたというのに、他人行儀で、間の抜けた挨拶だろう。
「おとうさま、今日は、晩ご飯ご一緒できますか?」
「ああ・・・。そうだな・・・」
 振り向きざまにいきなり問われて、また、ひるんでしまった。
 長い不在を、疑うことのない、澄んだ瞳。
「うれしい」
 素直な、言葉。
「おはなししたいことが、たくさんあるの」
 無邪気で軽やかな清乃とは対照的に、憲二は、兄の肩に顔を埋めたままじっと動かない。

 無用の子、と、目の前で言い放ったことがある。
 それで傷つくはずがないと侮っていた。
 足取りもおぼつかない幼児に、解るはずのないと思い込み、会う度に暴言を繰り返すと、ほどなくして石のようになっていった。
 自分は、今よりも小さかった次男の言葉と表情を奪った。
 しかしつい先頃までは、真神の子がそんな軟弱でどうすると、いらだちしか感じなかった。

「それでは、失礼します」
「ああ・・・」
 ひんやりとした俊一の声で、我に返った。
 見回すと芳恵はとうにおらず、清乃と俊一が歩きながら話し始めている。

「ご本、よんで、おにいさま」
「今日はなにがいい?」
「Outside Over There!!」
「また、あの本か。好きだなあ、清乃は」
「ええすきよ。わたしもぼうけんしたいわ」
「清乃は勇ましいなあ。憲二も、一緒に行くか・・・?」

 子供たちの声が次第に遠のいていく。
 入れ替わりに、メイドたちが茶器を運んできた。
「お茶の一杯も出さずにごめんなさいね。まずは引き合わせたかったから」
「いえ・・・」
 席を示されて、今まで立ちっぱなしだったことに気が付いた。
 当主とも、あろうものが。
「俊一は、とても子供たちの扱いが上手いの。知らなかったでしょう?」
「・・・はい」
「私も、知らなかったわ。おあいこね」
 手早くコーヒーや菓子類が並べられたあと全員退出し、広いコンサバトリーは母と惣一郎の二人きりとなった。


「・・・何から話そうかしら」
 改めて、母を見つめた。
 たしか70歳になったと思うが、柔らかく結い上げられた髪は十分に美しく、きめの細かい肌にはまだ張りがあり、絹、という名をそのまま体現した容姿だった。
 しかし惣一郎自身、物心ついた時から母と暮した記憶がほとんど無い。
「そもそも、あなたと私の関係が希薄だったから、会話の糸口を見つけるのにも苦労するわ」
 惣一郎は地方の本宅で親族に養育され、絹は東京の別邸を拠点に、真神の妻としての務めを果たしていた。
「いえ・・・そんなことは」
 政財界で活躍する家庭は何処も似たり寄ったりだ。
「いえ、そんなこと、なのよ。事実として」
 コーヒーの芳香が親子の間を包み込む。
 優雅な仕草でカップとソーサーをテーブルに戻した絹は、居住まいを正した。
「勝己を、産ませたのも、この一年の生活の全てを取り仕切ったのも、私よ」
 真っ直ぐな眼差しを見返すまでもなく、肯いた。
「そうですね。先ほどのあなたたちを見て、ようやく謎が解けたような気がします」
 一年前。
 芳恵が妊娠を知らせてきた時に、自分は即座に堕ろすよう命じた。
 迷いは、なかった。
 憲二の時は診断の結果女の子だと聞いていたのに、実際は違った。
 同じ轍を踏むつもりはない。
 真神の家に、跡取りは一人だけ。
 俊一以外はありえないのだ。
 後々の後継者争いを防ぐためにも、子供はいらないと思った。
「あなたは男だから、堕ろすなんて皮膚病の除去手術と変わらないとでも思って、そんなに簡単に言えたのでしょうね」
「簡単というわけでは・・・」
「いいえ。妊娠初期だから胎児も小さくて簡単な掻爬で後遺症もないだろうだと思っていたでしょう。そんなに甘いものじゃないのよ、あれは」
 しみじみとため息をつく母に、違和感を覚える。
「・・・どうしたのですか?まるで・・・」
 その語り口はまるで、身近なことのように。
「ええ。私は二度経験して、二度目はこじらせて後遺症にしばらく苦しんだ」
 一瞬、頭の中かが白くなる。
 言っていることが解らない。
「十六歳の時に一度、そしてあなたを産んで数年後にもう一度。私は子供を堕ろしたの」
 絹はため息をついて、物憂げに窓の外へ視線を投げた。
 母の、美しい横顔を、黙って見つめる以外、できることはない。
 生家の桐谷家は、今も政財界の要の一つであり、資産に関して言うならば真神と同等だ。
 血脈で言うならば貴種が多く、かなり格上である桐谷から降嫁する形での結婚だったのだと思い出す。
「十六の時、初めて男の人とお付き合いをしてすぐに子供ができたの。相手はまだ大学生で中流階級だから、慌てて両親が私を病院へ連れて行って、訳のわからないうちに堕ろされてしまった。もちろんその人とはそれきり。若かったから身体に影響はないけれど、少しばかりの罪悪感と喪失感が残ったわね」
 初体験と妊娠と中絶はごくごく短い期間だったために、本当にそれらの重大さが飲み込めないままだった。
 しかし人の口に戸は立てられないもので、表立って指さされることはなかったが、当時権勢を誇っていた桐谷家のお荷物となった。
 周囲に責められる日々。
 当然、恋人とまた会おうものなら今度は社会的に抹殺すると脅されて、涙に暮れた。
 そんな中、真神家との縁談が持ち上がる。
 中央への足がかりが欲しい北陸の豪族と、政財界とのパイプが強固だが、娘の管理を怠ってしまうほど陰りが見えてきた桐谷家。
 どちらにとっても悪い話ではない。
 女学校を卒業して大学在学中のまま、すぐに嫁がされた。
「訳がわからないうちに一度会わされたきりで嫁がされたけど、真神春正は良い人だった。いつも気遣ってくれて、大学も続けさせてくれたし、東京に別邸を構えて本邸に住まずに済むよう手配してくれたし。でも、あなたを産んでも、真神の人々に対して何の感情も沸き立たなかった」
 そんな時、初恋の人と再会した。
 大学を無事に卒業した彼は、時流を読むのに長けていたのかいっぱしの若手実業家になって成功を収め、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
 輝かしい業績を背負った彼との、政財界のパーティでの再会。
 偶然ではなかったのかもしれない。
 でも、失った全てがこれで取り戻せると思った。
 二度目の恋に、溺れた。
「夫・・・春正は、責めなかった。むしろ私のこれからを心配してくれた。離婚しても構わないけれど、もう少し時期を待って、桐谷が横やりを入れられないようになってからにした方が良いと諭された」
 彼の誠実さは、それまでの数々の言動でさすがに解っている。
 だから、しぶしぶながらも従った。
 しかし、足かせのある身であることがますますその恋を燃え上がらせ、再び妊娠してしまう。
「なぜかしらね・・・。妊娠したと解った時、一番に相談したのは春正だった」
 多分それが、分岐点だったのだ。
「おめでとうと、心から祝ってくれたあと、このまま真神の子として産まないかと、言われたわ。とりあえずは、そうした方が私と子供のためになると。なぜ今になってそんなことを言うのか解らなくて、その時私は怒って飛び出したけど・・・」
 真神邸を後にしたその足ですぐさま恋人に妊娠を告げた時、ようやく理解した。
 子供ができた、と、口にした途端。
 彼は、爆笑した。
 げらげらと転げ回って笑った。

 勝った、
 勝ったぞ、
 俺は勝ったんだ。

 一瞬前までは、整った美しい青年だと思っていた恋人は、床をのたうちまわり、泡を吹きながら目を見開き、歯を剝いて、まるで狂ったかのように嗤っていた。

「ざまあ、みろ!!」

 天に向かって、獣のように吠える。

 ようやく、全てが、見えた。
 いや、見えていたのに、見ないふりをしていただけのこと。
 すとんと、胸に落ちる。
 そしてそれは、絹が信じ続けていた恋の、終わりだった。


 決断は、早かった。
 逃げなければならない。
 出来るだけ、遠くへ。
 まやかしを嘆いて裏切りを憎む時間はなかった。
 ただただ、豹変を目の当たりにした恐怖が勝った。
 情熱的な抱擁も、甘い囁きも、どこか遠くへ投げ出され、霞んでしまう。
 新しい命に対する僅かな情も、真っ黒な闇が飲み込んでしまった。
 産んでしまったら、きっと子供を盾に桐谷と真神へ色々な事を要求してくるだろう。
 そして、それがだんだんと大きな物になっていくことも簡単に想像がつく。
 彼の果てのない欲望が、怖かった。
 獣のように、何もかも食い尽くされる明日が、怖かった。
 それよりもっと恐ろしいのが、今まさに自分の中で育ち続けている胎児だった。
 あの男の血を引く子供を世に送り出すことの方が、なによりも恐ろしい。
 化け物、と、震えた。

 どうやって男の元を辞したのか、覚えていない。
 気が付いたら、桐谷の、本家に駆け込んでいた。
 そこでは、総領である大叔父とそれに従う両親が、哀れみの表情を浮かべて出迎えた。
「やはり・・・な」
 大叔父のひとことで、全て決した。
 十六の頃に連れて行かれた、あの、病院の戸を再び叩く。
 子供の命は、あっという間に葬られ、消えていった。
 しかし、今度はそう簡単に終わらなかった。
 全て無に帰したわけではない。
 命のかけらが、胎内に残ってしまった。
 発熱と出血が身体を蝕む。
 執刀したのは前回と同じ熟練した医師と看護師だったにも関わらず、成功とは言い難い結果になった。
 知らせを聞いて駆けつけた春正だけが、手を握って涙を落とす。
「どうして」
 子供も、絹も守ると、言ったのに。
 母親が化け物と怯えて見捨てた命を惜しんだのは、血のつながりも何もない、名ばかりの夫ひとりだった。
 心優しい人。
 今まで出会った人々の中で、誰よりも誠実で、おそらくこれからもそうであろう人。
 この人を、この人だけを愛せたならば、自分は、きっと幸せだったのに。
 だけど。
 なぜか、彼を男として素直に求められなかった。
 だから。
 一緒に暮すことは、出来なかった。
 全てを水に流して、母として妻としては生きられない。
 ただ、償いの代わりに、東京を拠点にして生家と婚家を盛り立てていきたいと言うと、春正は困ったように微笑んだ。
「貴女がそう言うなら、今はそうしましょう。だけどもし、貴女を心から愛して大切いしてくれる人が現われたら、遠慮はいらない」
 貴女の人生は、貴女のものだ。
 真神に、嫁いでくれて、ありがとう。
 真神に、惣一郎を授けてくれて、ありがとう。
 真神家は、これ以上のことを欲しがらないことを約束する。

 その言葉に、女としての寂しさを覚えなかったというと嘘になる。
 
 でも、彼を愛し、彼が愛すべき人は自分でないと、悟った。
 春正にこそ、必要だった。
 何もかも捨てても惜しくない、愛する人が。


「・・・峰岸夕子の墓は、未だにないそうね」
 峰岸夕子。
 本邸へ家政婦として幼い息子とともに住み込んだ、寡婦。
 春正が、初めて全てをかなぐり捨てて愛した女性。
「・・・知りません。真神に雇い人がいったいどれだけいると思っているのですか」
 彼女は、若かった。
 嫁の芳恵とたいして変わらぬ歳で、春正の子を宿す可能性が捨てきれなかった。
 だから周囲は動揺し騒ぎ立て、惣一郎も彼女の排除に影で荷担していた。
 心労がたたったのだろう。
 数年前に急逝し、それを追うように春正もすぐに亡くなった。
「あなたがそんなだから・・・」
 言いかけて、口をつぐむ。
 今は亡き春正の骨壺の中には、夕子の遺灰をそっと忍ばせてある。
 春正の、最期の、たった一つの願いだった。
 しかし今の息子が知ったならば、おそらく骨壺を破壊し、遺骨を洗浄するだろう。
 真神の血脈こそ真理と信じて生きてきたのだから。
 名も無き花を愛でることは、彼の矜持が許さない。
 顛末を知るのは、夕子の連れ子の覚と芳恵と秘書が一人、そしておそらく俊一だけだろう。
 そして、永遠に、それが暴かれることはない。
 
 真神に嫁いで五十年近く。
 その間、思うように生きさせてもらった。
 あれからも何度か恋愛のまねごとを繰り返した。
 お互いの立場を侵さない程度の、軽い恋を。
 政財界を操るまねごとも、少し、楽しんだ。
 しかし、どこかいつも虚ろなままの日常の中に現われたのが、真野芳恵だった。
 孫の俊一を産んですぐに亡くなった光子の後釜に据えられた、真神分家の娘。
 他にも縁談はあったというのにそれらを全て断り、進んで真神に飛び込んでくれたにもかかわらず、惣一郎は彼女を嫌い、常に蔑ろにした。
 それでも、芳恵は惣一郎を慕い、俊一を愛し、真神家を切り盛りするために奔走していた。
 すっかり名ばかりの家刀自となりかけていた自分をたてて、春正を看取り、十二分の働きをしていると思う。
 おかげで、この歳になって孫たちとこうして過ごす日々をゆっくり味わうことが出来た。
 芳恵にもらったものを、自分も芳恵に返したい。
 春正と夕子には、力及ばずたいしたことが出来なかった。
 そんな思いが、一年前の自分を思いも寄らない行動に走らせた。
 芳恵と、孫たちを守ることが、皆に恩返しすることにもなると、思いたい。

「惣一郎」
「はい」
「芳恵と、子供たちを桐谷にもらって良いかしら?」
「・・・は?」
「あなたがいらないなら、私がもらうわ」
「仰る意味がわかりません」
「桐谷絹の養子に、芳恵および清乃、憲二、勝己をしようと思ってるの」
 息子が言葉を失い、テーブルの上にのせたこぶしをぎゅっと固く握ったのを見ながら続ける。
「私に、あの子たちを頂戴」
 これは、賭だ。


「養子に・・・ですか」
 惣一郎の、男らしい骨張った指を見つめる。
「そう。光子と同じことね」
 惣一郎の先妻だった光子は桐谷本家の大叔父の養女だ。
 最後の、養女。
 そして、秘蔵の娘。
 今の清乃の年の頃に、零落した華族の屋敷から骨董品と一緒に大叔父が買い上げた。
 売り飛ばした父親はもちろんその後立て直せるわけがなく、知合いを渡り歩いて消えていった。
 宮家と武家をうまく調和した少女は目をみはるほどの美貌と明晰な頭脳と剛胆なふるまいが似合い、女にしておくには惜しいと何度も大叔父がこぼしたほどだった。
 あの、大叔父に、そう言わせた娘。
 桐谷の魔物と畏れられた大叔父は、人としての生に飽き飽きしていた。
 だから、目の前に現われた人間を試して遊ぶことを繰り返した。
 それはまるで、猫が気まぐれに掴まえた獲物をいたぶるように。
 あるときは、分家の娘の絹を誑かした男に目を点け、弄んだ。
 見目麗しく、才気走った青年に、次から次へと試練を与える。
 最初には、息も出来ないほどの憎悪を抱かせるための罵倒を。
 次に、本能的に飛びつきたくなる好機を。
 そして、輝かしい成功と賞賛と使い切れないほどの金を。
 最後に、美しい女達を。
 絹との再会すら、遊びの一つだった。
 彼女を手に入れようとするのか、手に入れたならどうするのか。
 彼は、単純に、知りたいだけだった。
 墜ちていく人間と、這い上がる人間の違いを。

 『あれは、思ったより使えなかったな』

 たった一言で終わってしまった、男の命運。
 絹が手を振り払った瞬間に魔法は全て解け、残ったのは裸の王様だった。
 彼の見せかけの才能と財産は瞬く間に消え、人々も去った。
 巻き返す力など当然なく、最後は女衒まがいの商売に身を落とし、女の一人に刺されて死んだ。
 
 そんな中現われた、光子。
 目の中に入れても痛くないほど寵愛され、血のつながりはないのに大叔父の魂そのものを継承したと言われる少女は、まるで真夏の陽の光のような女へと成長し、まだ少年だった惣一郎の目を焦がした。
 女の中の女。
 貴婦人の中の貴婦人。
 そして、花の中の花。
 ただし、愛とは無縁の女。
 大叔父の死後、その庇護を放たれてもなお誰のものにもなろうとしない光子を、惣一郎は求め続けた。
 惣一郎の求婚は十年近く続いた。
 華麗な恋愛遍歴に加え破天荒な光子を妻にしたいと願い出る奇特な男は、世界がどんなに広くとも惣一郎くらいだ。
 光子をもてあました本家は、渡りに船とばかりに説得し続けた。
 彼女が三十を過ぎ、半ばになろうかと言う時になり、ようやく話がついた。
 パリのアパルトマン一つと引き替えに真神家に入ること。
 健康な男子を産んだら、さらに別荘をもう一つ。
 子供を産めば、絹と同じように本邸で暮さず、好きに生きて良いと。
 ただし、真神姓のままで。
 それは、惣一郎も知らない桐谷家での密約だった。

 自分は桐谷家の女ではあるけれど、真神春正の妻であり、惣一郎の母だ。
 さすがに内幕を知った時に平静ではいられなかった。
 しかし、長年想い続けた人をようやく手に入れた息子の喜びに水を差したくないという気持ちが勝った。
 想われて、大切にされれば、さすがの光子もほだされるかもしれない。
 愛を、知るかもしれない。
 真神に縛られた不憫な惣一郎が、幸せになるならば。
 そんなことは、太陽を手に入れることを願うくらいありえないのだと、誰もが知りながら目を逸らしていた。


「あなたが芳恵たちをいらないというのなら、桐谷の者として立派に仕立て上げて、新しい人生を歩かせるのが一番でしょう」
「それは・・・」
「あなた、まさか真野に戻して四人を座敷牢にでも入れさせるつもりだったの?」
 椅子に深々と身を預け足を組みながら、ずばりと、絹は切り込んだ。
「・・・」
 真野は、真神に一番従順な分家だ。
 跡取りの社会的地位や経済的支援を約束すれば、出戻りの芳恵と子供たちを日陰者として飼い殺しにすることは可能だ。
 芳恵は一生、誰にも嫁さず、子供たちも平々凡々に、良くも悪くも目立たない日々を送るよう、指示できる。
「それは、どだい、無理な話よ」
 どこが、とは問いたくなかった。
「子供たちを見たでしょう。清乃も憲二も、俊一に引けを取らないわ。たった一年でスイス語とドイツ語、英語をある程度理解できるようになってしまった」
 先ほど聞いた歌も、口にした絵本の題名も、ほぼ完璧な発音だった。
「子供の早期教育に熱中する大人の気持ちが、今はよくわかるの。本当に驚異的な吸収力だから」
 手当たり次第に色々な本と学ぶ機会を与え、人にも接触させてみた。
 貪欲と言いたくなるほどに、二人の子供はそれらを取り込み、成長していく。
「・・・子育てが、こんなに楽しいとは知らなかったわ」
 最初は、体調が思わしくない芳恵を気遣ってのことだった。
 しかし、今は毎日が楽しくて仕方がない。
「惜しいことをした、と今更ながら後悔しているの。どうして若い頃の私はあなたに向き合おうとしなかったのか」
 そして、ささやかな命たちを大切にしなかったのかと。
 子供たちは、可能性に満ちている。
 未来を、信じさえすれば、何かが違ったかもしれないのに。

 自分は今、傷つき疲れ切った芳恵に再び力を与えたいと思う。
 それは、僅かばかりの助けにしかならない、まじないのようなものだ。
 しかし、少なくとも立ち上がることは出来るだろう。

「惣一郎。もう一度言うわ。芳恵たちを頂戴」
「・・・もらって、どうするつもりですか、今更」
「桐谷芳恵として、再嫁させます」
「・・・は?」
「この一年。私達はここでただの隠遁生活をしていたと思うの?もしそうだとしたら、あなたは島国のなかの小さな権力闘争に明け暮れていただけと言うことになるわね」
 昔より芳恵が美しく見えたのは、心的なものではない。
 様々な術を施したからだ。
 心身の療養はもちろんのこと、教養と社交の機会を与え、まずは視界を広げさせた。
 そうすることにより夫に押しつぶされ続けた心と魂を救い上げ、慈しみ、磨きをることにもなった。
「芳恵を妻として欲しいという申し入れは、たくさんあるわ。子供たちも一緒にと請う人もね」
 事情を察しているセレブリティたちからの正式な求婚は、実際にいくつかあった。
 申し分がないと思う案件の中から、幾人かの男性たちの名前を挙げてみる。
「どう?彼らのうちのひとりなら、きっと芳恵たちを大切にしてくれるでしょう」
 石のように固まったままの息子の顔を眺める。
「これで、あなたも余計なことに頭を悩ませなくて良いわね」
 子供たちを連れて芳恵が再婚すれば、真神の跡取り息子は、一人になる。
「あなたの、望み通りではなくて?」
 悪くない、話だ。
 ここで、惣一郎が承諾すれば。


 ふいに、強い風が部屋の中を通りすぎていった。
 煽られてはためくレースのカーテンを眺めながら、腕の中の子供の温かさと確かな重みを楽しむ。
 小さな寝息を立てる末息子は、今までの子供たちの中で一番よく眠る。
 沢山眠って、驚くほどミルクをよく飲み、たまに重たげな瞼を開き、哲学的な瞳で自分を見つめ、真実を問う。

 お前の、求めるものは何なのか、と。

 この山荘に身を置いて一年近く。
 未だに心が定まらない。
 義母が呼んだ医療スタッフたちの中に心療カウンセラーもいた。
 彼女は全てを聞き終えた時に、夫惣一郎との関係は典型的なドメスティック・バイオレンスの共依存だと指摘した。
 虐げる者と、虐げられる者。
 憎しみと、愛情と、後悔と、哀れみと、そして、破壊への衝動。
 もう既に子供たちにまで影響を及ぼしており、悪循環でしかないと諭されて、納得はした。
 それを断ち切るには、互いに離れるしかないと言うことも。
 義母をはじめとする周囲の人たちは外の世界へ連れ出して色々な物を見せてくれ、教えてくれ、毎日が優しく過ぎていく。
 子供たちは鮮やかな花が開いたように生き生きとして、特に次男の心の回復と成長は、想像以上のもので、何度も嬉しさを噛みしめた。
 だけど。
 この、ぽっかりと空いた穴はどうしたらいいのだろう。
 時には、訪れる客人の中に自分と子供たちに好意を抱き、一緒に暮さないかと持ちかけてくれるありがたい事も何度かあった。
 誰もが、自分たちにはもったいない、魅力的な人たちばかりだった。
 きっと、その手を取れば幸せになるに違いない。
 だけど。
 何かが、私の足を掴まえて離さない。
 行ってはならないと、耳元で囁く声が聞こえる。

 お前の、望みは何だ。

 風に乗って、花の香りに紛れて、問いかける声。

「芳恵」
 名を呼ばれて振り向くと、鋭い瞳に胸を射貫かれた。
 ・・・惣一郎。
 私の、夫。
 とくん、とくんと音がして、身体の中の血が一斉に巡りだしたのを感じる。
 時が、この山荘で止まっていた時が、動き始めた。
 ひとあし、ひとあし。
 靴音が近付く。
「芳恵さま、勝己さまはこちらで預かります」
 部屋係のひとりがいつのまにかそばに来て、赤ん坊を抱き取って素早く去っていった。
 扉の閉まる音。
 止まった、風。
 空っぽになった、私の腕。
 ぼんやりと立ちすくんでいると、強い力で引き倒された。
 冷たい、床。
 絶対的な、重み。
 今この部屋の全てが、支配される。
 背中に痛みを感じる間もなく、熱い息が降りてきた。
「芳恵」
 彼は、ただ、名前を呼ぶだけ。
 それだけで。
 全てが砕け散る。
 培ってきた知識も、教養も、鍛錬も、そして子供たちへの想いも。
「・・・芳恵」
 荒い息の下、呼ばれるだけで。
 その瞳の中に映るものを、見ただけで。
「芳恵」
 私は、あなたの女に、戻ってしまう。
「あなた・・・」
 私の、あなた。
 たったひとりの、ひと。

 私の、望みは・・・。

 震える指先で、愛しい人の、輪郭を確かめる。
 

 あの、午後の日。
 別れるために向かった初夏の園で。
 自分は選択を誤ったのだろうか。
 妻も、三人の子供も手放していれば、違った未来が待っていたのだろうか。
 実際、母、絹との会話の最後はその流れになった。
 芳恵を手放せと子供のように諭され頭に血を上らせた自分は、言われずともと、離婚届をテーブルに叩きつけて部屋を辞した。
 そのまま誰にも会わずに帰れと背中にかけられた瞬間、破壊衝動が沸き起こった。
 うまく母に取り入ってぬくぬくと生きるあの女に何か一言言ってやらねば、腹の虫が治まらない。
 自分の元では枯れた花のようだったくせに、今は瑞々しく輝く芳恵が、憎い。
 そんなに、真神は苦痛だったか。
 足は、真っ直ぐに芳恵の部屋へ向かった。
 
 しかし、いくつもの扉を開いて進むうちに沸騰した頭もさすがに冷えてくる。
 このまま、進んで良いのか。
 会わずに、帰るべきではないのか。
 迷うけれど、とうとう最後の扉に手をかけてしまった。
 薄い緑と白を基調とした清らかな部屋の真ん中に、聖女がいた。
 白いおくるみの中の赤ん坊をあやしながら、うっすらと目を伏せるその横顔は、今まで見たどの宗教画よりも崇高で、美しかった。
 長い黒髪も、形の良い白い額も、長い睫も、細い体躯も、儚げな面差しも、既にこの世のものではなく、まるで天の国へ属しているのではないのかと錯覚するほどに危うい。

 だけど。

 あれは、俺の女だ。
 今までも、これから先も。

 その欲望が、天上から地上へと引きずり下ろす。

「芳恵」

 声が、みっともなく震えた。
 無意識に握った拳に力を入れる。

 聖女が、振り向いた。
 見つめ合った瞬間、彼女の中がゆっくり変わるのを感じる。
 とくん、とくんと、鼓動が聞こえる。
 もはやそれが自分の心臓の音なのか、彼女のものなのかわからない。
 ただ、互いに、目を離せなかった。
 ひとあし、ひとあし。
 足を進めて近付く横から、他人が入り込む。
「芳恵さま、勝己さまはこちらで預かります」
 気を利かせたつもりなのか、見知らぬ女が赤ん坊を奪い取り、去っていった。
 扉が、締まる。
 その瞬間、全てが決まった。
 この館にいる者全ての未来が。
 広い部屋に取り残された芳恵は呆然と目を見開いたまま動かない。
 心の中に、闇が広がり始める。
 腕の中の赤ん坊は、天へ昇るための羽衣だった。
 もう、彼女が天へ帰ることは叶わない。
 腕を掴む。
 ・・・掴まえた。
 床へ引き倒し、獲物を喰らう。
 お前は、俺のものだ。
 それを、教え込むために。
 二度と空を飛ぶ夢を見せない。
 心の翼をもいで、自由の足を折り、新鮮な空気を奪う。
 ひとかけらも、あまさず、喰らった。

 お前は、俺のもの。
 爪のひとかけらたりとも、だれにも渡さない。
 それがたとえ、神であろうとも。

 獣が、吠える。


「勝己」
 少し離れた木陰に佇み、庭を眺めていた息子に声を掛けた。
「はい」
 てらいのない、まっすぐな瞳で振り返る。
 この瞳は、奇蹟なのだと戒めた。

 結局、自分はあの時、全く変われなかった。
 男としての矜持を捨てられず、変わったら負けだと思い込んでいた。
 そのまま我を押し通し、芳恵たちをそれまで以上に冷遇し、傷つけた。
 万事思い通りにならないことが多すぎる苛立ちにますます暴走し、気が付くと自分を取り巻く全てが凍り付いていた。
 だれよりも大切にしていた筈の俊一ですら、遠い。
 再三にわたる忠告に耳を貸さない息子を見限った母が最後のカードを密かに切ったのは、勝己の七五三を終えた時だった。
 それを知るのはずっと後のこと、俊一が袂を分かったまま事故死して、更には破壊しつくされて抜け殻になった清乃を抱く芳恵が泣き叫んで初めて真実を知る。

 子供たちも、芳恵も、とうに離縁していたのだと。
 自分の戸籍には、もう誰もいない。
 からっぽだ。

 あの夏至の日。
 忘れ去っていた離婚届を、七年経って提出されていたとは思いもしなかった。
 内縁関係の状態でもそばにいたのは、自分の執着のせいだったと、芳恵が泣いた。
 今度こそ、生まれたばかりの孫を連れて真神を離れるという彼女の決心を翻させたのは、まだ高校生だった勝己だった。
 勝己。
 一度も抱いてやれなかった子供。
 指先すら握ってやった思い出はない。
 しかし、彼は、今こうしてここにいる。

「・・・本当に、あの話を受けるつもりか」
「はい」
 あのおくるみの中の赤ん坊が、気が付いたらもう三十歳近くになっていた。
「それが、一番良いと思います」
 今、真神の実権は清乃の夫で婿養子の勇仁の物になっている。
 だが、この本邸の今後の所有権が宙に浮いていた。
 勇仁はここに興味がないばかりか対抗意識があるらしく、目と鼻の先に自らの力で別邸を建てた。
 次男の憲二に至っては何年も顔を合わせたことがなく、最後に会話をしたのはいつだったのかすら思い出せない。
 直系の孫にあたる春彦遺すのが妥当だと思いつつも、まだ幼い上に繊細なその横顔を思い浮かべるにつけ、重荷になりかねないこの広大な土地を負わせるに忍びないとためらうようになった。
 そうこうしているうちに月日が過ぎ、今になって突然、勝己が引き継ぐと言い出した。
 花園を維持するために、資産家の娘と結婚すると。
 真神家として、財産は潤沢にある。
 だがしかし、それは政治家としての真神を保つための資金だ。
 駆け出しの医者である勝己の財産では相続税とその先にかかる維持費をまかなえるはずもない。
 そこへ偶然にも旧財閥系から縁談が持ち上がった。
 表向きは縁談であるが、とある令嬢と婚姻関係を結んでくれれば持参金を出すというもので、はっきりとした契約結婚だった。
 とりあえず三年間。
 手の付けられない軽薄な長女の尻尾を押さえている間に、跡取りおよび出来の良い妹たちの縁談をまとめてしまいたいという依頼には、さすがの惣一郎も呆気にとられた。
 すぐに断りの返事を出そうとしたところ、その場で話を聞いていた勝己が横から口を開いた。
 お受けします、と。
 欧米のセレブリティからスポーツ選手や俳優と次から次へと浮き名を流し、パーティ好きの浪費家。
 長所は磨きを掛けた容姿のみで、浅慮な言動がトラブルを招いているとも聞いている。
 そもそも、そんな縁談に本人が乗るはずがないのではと危ぶんでいたが、意外なことに彼女が随分と乗り気で、既に東京で何度か勝己を呼び出しているという報告も秘書から上がっていた。
 そして、早く式を挙げたいと言い出しているとも。
 好意が存在しているのならば、損得勘定抜きの円満な婚姻生活を送れるかもしれない。
 しかし。
 本当にそれで良いのだろうか。
 迷いが生じて初めて、知りたいと思うようになった。
 その、緑の瞳の奥底に、何が隠れているかと。


「・・・俺は間違ったことをしようとしているのかもしれません」
 夏風の運んでくる緑の香りに眼を細めながら、ぽつりと、勝己は言う。
「勝己・・・」
「いや、そうですね。ここを手放したくないあまり、人の財産に頼ろうとしている」
 清乃と憲二は、祖父の春正の存命中にかなりの額の資産を受け継ぎ、それぞれ留学に使い、そこそこ資金運用に成功していると聞く。
 その後に生まれた勝己には祖母の絹からいくばくかの生前贈与を受けたようだが、相続税をまかなえるほどの額にはならないらしい。
「この庭を、俺は失いたくない。少なくとも必要としている人がいる限り」
 すんなりとのびた桜の枝に手を伸ばして、愛しげにやわらかな葉を撫でる。
 いずれ必ず罰を受けるでしょう、と小さく呟くのがかろうじて聞こえた。
「これから何が起ころうと、見逃して頂けませんか」
 勝己は、自分たちと同じ轍を踏もうとしている。
 母絹も、光子も、芳恵も、そして清乃も、真神に関わる女は誰一人として幸せにはなれなかった。
 それを知った上で、また同じように金と政治の中に身を投じようとするのか。

「私は、あの日、間違えたのだな・・・」

 母と、芳恵と、清乃と、憲二と、勝己、そして俊一と・・・覚。
 愛情に満たされたあの王国を、蹴散らしたのは自分だ。
 あの時、どうして素直に勝己を抱き上げられなかったのか。
 歌う子供たちに、良くやったと褒めてやれなかったのか。
 後悔があとからあとから押し寄せてくるが、今更どうにもならない。
 孫たちを愛した母の後を追うように、俊一と覚が逝き、今ここにいるのは自分と勝己だけだ。
 芳恵は、清乃と春彦を伴ってあの別荘で過ごすことが増えた。
 それもまた、自分の愚行が招いたことだ。
 この手から、いったいどれだけのものがこぼれ落ちていっただろう。
「お前にまで、私は重荷を負わせてしまうのか・・・」
 そして、何を守るべきなのか解らなくなっている。
「いいえ、そうではありません、お父さん」
 驚くほど近くに、勝己の声を聞き、顔を上げた。
「ちがいます。これは、単なる俺のわがままです」
 足もとに膝をついて、目線を合せてくる。
 打ちのめされた自分を励ますかのような柔らかな笑みに、肩の力が抜けていく。
 これが勝己の医師としての日常なのだろう。
「お父さん・・・」
 だがどこか思うところがあるのか、一つ深呼吸をしてから息子は話を続けた。
「むかし、俊兄さんが言ったのです、俺は、憲のものだと」
 次男は「憲二」と呼ばれることを嫌う。
 出生届の期限ぎりぎりになって、適当に付けた名前だと、知っているからだ。
 いや、そうではない。
 あくまでも「憲二」は「俊一」を越えられない、越えることを許さないという意味を込めた。
 悪意の籠もった名前を、忌み嫌うのは当然だろう。
 勝己は、物心ついた時から兄を「憲」と呼んでいた。
「憲のために、俺は生まれたと、ことあるごとに聞かされました」
 俊一は、幼い弟妹を可愛がっていた。
 彼らの間には自分のあずかり知らない絆が存在する。
「だから、俺は、憲のものだと」
「それは・・・」
「暗示をかけられたわけではありません。ただ、赤ん坊の俺を兄たちで取り合って、憲が勝ち取ったのだと言う話を聞いて・・・」
 理知的な瞳が、瞬いた。
「俺は、とても嬉しかった」
 ふいに、無花果の熟れた甘味を思い出す。
「とても、嬉しかったのです、お父さん」
 まるで小さな子供が宝物の詰まった箱をそっと差し出すかのように、勝己は静かに言葉を父の手の平に置いた。
 その中には、いったい何が隠されているのか。
 問えば、答えてくれるだろう。
 だが、今はその時でないと思った。
 いや。
 聞かずとも、解っていたような気がする。
 こうして息子と向き合う前から。

「・・・そうか」
「はい」

 それを、嬉しいというのなら。
 悪くないのかもしれないと、思った。

「・・・お前の、思うようにするが良い」
「ありがとうございます、お父さん」

 太陽が天空の最も高いところから陽の光を解き放つ。
 どこか甘い土の匂いと立ち上る水の気配を肌で感じた。
 夏が、広がっていく。
 風に揺れる若木のざわめきを聞きながら、その通り道を探した。
 花は、咲いたであろうか。




 -完-


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