『秘密の花園-佳客の宴-』



「かつみー、風呂-・・・」
 なんのためらいもなく合い鍵を使い、なんの確認もせず玄関に踏み込んで、後悔した。
 前々から、弟からは訪ねるなら一度電話を入れてくれと言われていたのに。
 目の前に並んだ、女もののスマートな靴。
 回れ右をすべきだと思ったが、行動に移す前にリビングへ続くドアが開いてしまう。
「風呂って、いったい・・・」
 困惑顔の勝己を見て、舌打ちしたいのをこらえた。
「なんですぐに出てくるんだよ」
「なんでと言われても・・・」
「お邪魔なら帰りましょうか?」
 少し低い甘めの声と供に勝己の背後からひょっこりと顔を見せたのは、頤の細くて顔の小さい、栗色の髪の長い女性だった。

「初めまして、松永、可南子と申します。本当に、私は帰りましょうか?ちょっと寄っただけですし」
 結局、そのまま上がり込むことになった。
 1DKの勝己の部屋には大きめのローテーブルが真ん中に置かれ、そこにロータイプのソファが合わせてある。
 テーブルの上には二台のノートパソコンと書類らしきものが広げられていた。
 睦み合っている最中でないことがわかり、ひそかに胸をなで下ろした。
 憲二の向かいでぴんと背筋を伸ばした女性は、富士額の美しい、日本的な顔をしている。
 小柄な身体を包む柔らかなワンピースは上質で、きめの細かい肌からしっとりとした色香を放つ。
 ほのぼのとした笑顔に、憲二は半笑いを浮かべるしかなかった。
「いえどうかそのままに。こちらこそ、初めまして。兄の憲二です」
 かなり、上等な女じゃないか。
 心の中で勝己に悪態をつく。
 どうみてもこの部屋に馴染みすぎている。
 付き合いはそこそこ長そうだ。
 どうして今まで気が付かなかったか、不思議である。
 それに・・・。
「ああ、お察しの通り、私の方が勝己どころか憲二さんより年上で、一時期は上司でした」
 憲二のかすかな表情もあっというまに読み取って、さらりと流す。
「え?」
 思わず眉をひそめると、紅茶を淹れた勝己がマグカップを検事の前に置いて説明した。
「・・・可南子さんは同じ医局の、助教なんだ」
「助教って・・・」
 勝己が属している大学は学閥の中でもかなり強い権限を持つ、いわば最高峰とも言える所で、さらにそこでそれなりのポジションにいるならばかなり有能だと言うことである。
 無意識のうちに左手をテーブルに載せ、マグカップの取っ手をいじった。
「研修医の時にお世話をしたのがきっかけで・・・。あら?怪我をされているの?」
 めざとく見つけられ、苦笑いをする。
「ああ、これ・・・」
 突撃訪問をしてしまった、そもそもの理由をようやく思い出した。
「憲・・・。どうしたんだそれ」
 すぐに隣に回り込んだ勝己が、左手首を掴む。
 大きめの絆創膏を巻いた人差し指を差し出すと、手首を握る手が冷たい。
「ええと、今日、教授の所にお土産で西表島のパイナップルが届いて・・・」
「もしかして、お前が・・・」
「うん。たまたま秘書が数日休みを取っていて、でも完熟だから今食べたいなーって話になって・・・」
 憲二は勝己の病院と同じ敷地内の理系棟で、同じく助教として研究三昧だ。
 しかしさすがにパイナップルを切るために弟を呼びつけるのはためらわれた。
 だから、なんとなく右手に包丁、左手にパイナップルを手に取った。
 すると、食に飢えている院生たちの目が期待に輝いたのだ。
「皆まで言わなくて良い・・・」
 心なしか、弱々しい声が制止する。
「あら、勝己、あなた大丈夫?」
 言われて弟の顔を覗き込むと、彼の厚めの唇から色が抜けていた。
「なんで?」
「なんでって・・・!!そもそも、ろくすっぽ包丁を握ったことのない憲がなんで率先してパイナップルなんかに挑んでるんだよ!!」
「だってこの前、勝己が切ってるのを見たから、あの通りにやればいいんだよなあと思って」
 先週、それこそ実家経由の頂き物の八重山産パイナップルをここで食した。
「ああ、あの八重山パイン、美味しかったわよね」
「食べたんだ?」
「ええ。残りを病院に持ってきてくれたから、医局のみんなで」
「なるほどね」
 あっというまに打ち解けた二人とは対照的に、勝己はソファーのクッションにぽすんと音を立てて顔を埋めた。

「傷口を拝見するわね」
 向かいから憲二の手を取り、絆創膏を剥がして覗き込む。
「・・・ざっくりやったわね。痛かったでしょう」
「あ・・・っと思った時には刃物が身体に入っていたから」
 思わず耳をふさぎたくなるが、クッションを握りしめて勝己は耐えた。
「給湯室にある包丁って、いつの時代からそこにあったか解らない代物でさ・・・」
 この話は、まだ続くのか。
 目眩すら感じる。
「ああ、あるある。あるわあ。うちの医局にも。基本、切れないのよね。誰もケアしないから」
「そうそう。だから、変に力を入れたら思いの外ざーっと行っちゃって・・・」
 既に往年の友人のような会話を続ける二人のそばで、クッションにもたれたままの勝己は立ち直れないでいた。
「で、勝己はへこんでるの?それとも貧血起こしているの?」
「両方・・・」
「マルチで名高いあなたがよもやお兄さんの怪我を見て貧血起こすなんて、教授たちもびっくりね」
「へえ。こいつ、マルチなんだ?」

 ふと、気が付いた。
 普段から、弟は自分のことをほとんど話さない。
 いつも、穏やかに笑っているから、それが当たり前で。
 何も、知らないのかもしれない。
 こんなに長い間、そばにいるのに。

「そうよ?専門を決める時に教授たちがもめてもめて・・・。体力あるし、力もあるし、決断は早いし、なのに手先は器用で細やか。分析にも長けてるしね。私、部長に色仕掛けして来いって真顔で言われたわ」
「え・・・?」
「いろじかけ・・・」
「いやあね。私があの馬鹿部長の言いなりになるわけないでしょう。それに、付き合いだしたのって、あなたが医局に馴染んでからじゃない」
「それも、そうでした・・・」
 ぼそりと呟き、ついでにクマのようにのっそり立ち上がって勝己は物置から救急箱を取ってくる。
「ついでに新しい絆創膏貼るか。憲」
「もう、大丈夫なの?」
「多分・・・」
「あぶなかっしいわね。私がしましょ」
 市販の消毒薬を吹きかけて、首をかしげた。
「絆創膏、二種類あるけどどちらが良いかしら。湿潤治療の方だと傷口も綺麗に治るし貼りっぱなしでお風呂も楽なんだけど、合う合わないがあるから・・・」
「俺、そっちはダメみたい。だからここへ来たんだけど・・・」
「え?」
 きょとんと目を見開いた可南子に手を取られたまま、憲二は隣を仰ぎ見た。
「勝己。頭と顔洗って欲しい。意外と難しいと解ったらどうにもこうにも我慢できなくてさ」
「は?」
「果汁が飛んだからさあ、顔を洗おうとしたわけ。そうしたら以外と出来ないんだよ、傷口を避けようとしたら。左手の人差し指なんか、端っこだから関係ないやと思ったんだけど、これが意外や意外、重要なんだよな」
 のほほんとした憲二に、すかさず現役医師たちの真面目な説教が飛ぶ。
「そりゃそうだろう・・・。これ以上粗末にしないでくれ」
「重要でない指なんて、どこにもありません」
 深々とため息をついた可南子は、二人の男性を見上げた。
「なら、今、お二人でお風呂済ませてしまえば如何?ポトフが出来るまでまだ少し間があるし」
「え・・・?」
 勝己はたじろぐ。
「せ、狭いよ、ここの風呂。大人二人は無理だろう。酸欠になるぞ」
 あわあわと反駁すると、憲二の眉間に皺が寄った。
「お前の所はどうだか知らないけどさあ」
 形の良い唇を尖らせて続ける。
「俺の研究室って、いろんな機材があるわけよ。それで、それぞれが稼働していると物凄い熱を発してくれて、今の季節は亜熱帯かってくらい暑いのに更に白衣も着て、もう体液絞りまくりでドロドロでガビガビなんだよ」
「ドロドロでガビガビ・・・」
 何を想像したのか、口元を押さえて赤くなる弟に、憲二はキレた。
「あー、もう。なんでも良いから、俺を洗ってくれ、誰か!!」
 見た目にはツヤツヤの髪を乱暴にがりがり搔く。
 意識すると、汗臭さとほこりっぽさが全身を覆っているような気がしてイライラしてきた。
「なら、私が洗いましょうか?」
 すっと白い手を挙げる可南子に二人は目を向いた。
「・・・は?」
「え?」
「別に人の裸なんて見慣れてるし、勝己よりずっと小柄だし」
「いやいやいや、ちょっと待って、可南子さん」
 あっけにとられた憲二はさすがに声も出ない。
「え?だって、勝己がまた貧血起こすよりましじゃない?私は患者さんだと思えば別に・・・」
「いや、大丈夫。俺、もう大丈夫だから。患者だと思えば、憲二も大丈夫だから」
「あらそう?」
「ああ、大丈夫。大丈夫だとも」
 挙動不審な弟と、見た目よりもドライな彼女のやりとりを、ふーっとため息で吹き飛ばして、襟元のボタンに手を掛けた。
「どうでもいいや。とにかく早く風呂に入りたい」
 ぷちぷちと寛げ始めたのをすかさず勝己が押しとどめる。
「待て、憲二。頼むから脱ぐのは五分で良いから我慢してくれ」


「相変わらず甕棺みたいな湯船だなあ」
「・・・俺らが生まれる前からあるマンションなんだから、こんなもんだろう」
 ほぼ正方形の小さな湯船で170センチ半ばの身体を器用に折りたたみ、側面に背中を寄りかからせている憲二の頭を、洗い場の椅子に腰を下ろした勝己が丁寧にシャンプーをすり込みマッサージする。
 これがなかなか上手くて心地よい。
 本当に器用な男だ。
 医師でなくとも、美容師でもやっていけたんじゃないか。
 ちょっとした王様気分を味わえ、憲二は悦にいる。
「いや、お前、実際この中入ってんの?」
「入ったことがない・・・と言うか、入る暇がない」
 若手医師は激務であると決まってる。
 彼が五分待てと言い置いたのは、久しぶりに使う湯船の様子を見るためだったらしい。
「なるほどね・・・」
 弟は、高校一年生になる頃には180センチ近くまで育ってしまった。
 そして今は、服も、家具も、日本の基本サイズに合わないらしく、窮屈そうな顔をする。
「それに、女がいるとこんなこじゃれた物があるんだな」
 右手の指先でぱしゃりと水面を弾いた。
 こぼれんばかりに満たされた湯船の中はドイツ製の入浴剤で染められ、まるで豆乳風呂に浸かっているようだ。
「前に誰かから貰ったのがあった」
「女か?」
「たぶん・・・」
「お前も隅に置けないな」
「憲、洗い流すから目を瞑って」
 淡々と次を促す弟が憎らしくなり、憲二はいきなり泡だらけになった頭をまるで犬のようにぶるぶると勢いよく振った。
「うわ・・・っ、ちょっと、憲!!」
 飛び散った泡の多くは油断していた勝己の全身にかかったらしい。
 ついでに、振り返らないまま湯水も手ですくってばしゃばしゃとかけてやった。
「・・・!!けん、憲!!ちょっと、俺、服のまんまだって!!」
 勝己はTシャツにジーンズといういでたちのまま風呂場に入っていた。
「彼女が来てるからって気取りやがって。お前も脱げばいいじゃん」
「いや、ちょっと、勘弁してくれよ・・・」
「ははは!ついでにお前も洗っとけよ!!」
 調子に乗って、なおも湯をかけようとすると、ふいに背後から両手を取られた。
「・・・頼むから、大人しくしてくれ、憲。それ以上は傷に障る」
 両手首を、確かな力につなぎ止められる。
 ぴちゃん、と額に生暖かな水滴が落ちた。
 誘われて見上げると、思わぬ近さに、勝己の顔があった。
 視界に映るのは、さかさまの、勝己。
 短く刈り込まれた髪はずぶ濡れで、額の半分を覆っていた。
 いつもと違う角度から見下ろされているせいなのか。
 尖った鼻梁と長い睫に見とれてしまった。
 引き締まった顎を水が伝い、また、ぽたりと頬に落ちる。
「あ・・・」
 なぜか、声が、出ない。
 逆光の中、瞳が緑に光る。
 端正な顔。
 そして、男の顔だ。
 見たことのない、
 喉の奥が、急に乾いていく。
 息が、出来ない。
「・・・ほらみろ。絆創膏もこんなに濡れて・・・」
 鼓膜を、優しく愛撫する、声。
 立ち上る水蒸気と、入浴剤の芳香、そして勝己との境目が解らなくなってきた。
 狭い空間が、勝己に埋められていく。
「目を閉じてろ。すぐ終わるから」
 気が付いたら、右手はとっくの昔に解放されて湯船に沈められ、軽く左手だけ縁に縫い止められていた。
「左手、また出血しているみたいだから、そのまま下ろすなよ」
 すっと、手首の内側の敏感な部分を軽くなでられてざわりと背筋になにかが走る。
「あ・・・。うん」
 声が、上ずってしまった。
 なぜか、それを恥ずかしいと思ってしまう。
 沸き上がる何かを知りたくなくて、自然と目を閉じた。
「やれよ」
 くいっと顎をそらして、わざと傲慢な兄のふりをする。
「ん。じゃあ、ちょっと待って」
 いつもの、弟の声。
 ふいに、熱が、離れていった。
 思わず追いかけた指先をごまかすように、腕を伸ばして湯船の縁に沿わせた。
 カランを回してシャワーの温度を調節している気配を感じた。
 指先とシャワーの湯が同時に額の生え際に触れた時、思わず肩先を揺らしてしまう。
「あ、ごめん。もしかして熱すぎた?」
 すぐに身を引こうとするのをとどめた。
「いや。目を瞑ってるからちょっと過敏になっただけだ」
「じゃあ、続けても?」
「ああ。さっさとやれよ。だんだん湯だってきた」
 ふっと、吐息を感じる。
 我が儘な自分を、穏やかに笑って許す弟の顔が想像できた。
「わかった。すぐに終わらせる」
 最初と同じく慎重な指づかいで泡を落としていく。
 だけど。
 先ほどのように楽しめない。
 頭皮を滑る指先が、
 流れ落ちる湯が、
 むき出しの神経を刺激する。
 そろりそろりと身体の内側から沸き上がる感覚に耐えきれなくて、思わず奥歯をぎゅっと噛みしめた。
 つま先までじんじんとしびれてくる。
「憲?大丈夫か?」
「ん」
 大丈夫。
 だけど、解らない。
 この感覚は、いったい何だ。
 額が、耳が、首筋が、肩が、まるでぺろりと一枚剝かれてしまったようだ。
 力を込めないと、何かが唇から溢れてしまいそうな気がした。
 全身をこわばらせてせき止める。
 今は、早く終われと、心の中で強く念じた。


 洗面所に用意してあったルームウェアと新品の下着に着替えて出ると、ローテーブルでパソコンを叩いていた可南子が顔を上げた。
 しげしげと顔を見られて、「なにか?」とややつっけんどんに尋ねた。
「いえ・・・ね。今まで遠目に憲二さんを拝見したことは何度かあったのだけど、改めてお会いして本当に綺麗な人だなあと」
 屈託のない笑みを返されて、きまりが悪かった。
「遠目に?どうして・・・」
「こちらの女子たちがよく噂していたのよ。真神先生が時々工学部に近い方の職員専用カフェで物凄い美形と食事しているって。しかもその人はどうやらお兄さんらしいって、あっという間に詳細が耳に入ったし。あなた、大学内では結構有名なのよ?それに二人がが一緒に歩いているところを一度すれ違ったこともあるの。最初は私もびっくりしたわ。真神家の次男がこんなに綺麗な人だったなんてね」
 真神。
 この特殊な苗字を名乗る人は少なく、小さな頃から重荷を背負わされていた。
「私にも兄弟がいたら、こんな感じだったのかしら。いいわね、年が近くて繋がりの深い人がいるのって」
「一人っ子なんだ?」
「ええ。母の身体が丈夫でない上に色々あって。結局私しか育たなかった」
 なんでもないことのように笑い、手を差し出した。
「もう一度張り替えましょう。その絆創膏じゃ悪化してしまうわ」
 柔らかくて、優しい指先。
 どこか憲二と重なる空気に、それまでの肩のこわばりが解けていった。
「やっぱり、勝己はびしょ濡れになったのね」
 風呂場から聞こえるシャワーの音に、可南子は傷口を覗き込みながらくすりと笑う。
「なんだ予想通りなんだ」
 この分だと先ほどの騒ぎはここまで届いていただろうと肩をすくめた。
「ええ。だって、憲二さんがやんちゃだから。悪戯っけを起こすだろうなと思って」
「やんちゃだなんて、初めて言われた」
「それは嘘ね。まるで猫みたいに自由気ままで、のびのびとしていて。いつもはどんな患者の前でも泰然としている勝己が振り回されるのを、私は初めて見たわ」
「貧血起こしたり?」
 確かにそれは、自分も初めて見た。
 今日の勝己は、どこか違う。
「そう。それも初めてね。身内だとさすがの彼も平静でいられないのね、きっと」
「いや・・・。身内の時でも、勝己はいつだって冷静だよ。俺達はそれに何度も助けられた」
 姉の清乃が初夜に本邸内の新居で泥酔した夫からひどい暴行を受け、血塗れになった姿で翌朝発見された時、誰よりもいち早く行動したのは勝己だった。
 すぐさまバスローブで清乃を包み、抱き上げて母屋まで走り、両親に助けを求めた。
 重度のショックで心を病んだ清乃は静養先で何度も自殺や自傷をはかり、それを保護するのはいつしか彼の役目になってしまった。
 清乃のためにわざわざ転校した高校へは、最低限の出席日数しか行かず、泊まり込みの母と交代で看病、いや、監視していた。
 自分は、とてもそばにいられなかった。
 枯れかけた木のようになってしまった清乃は、もはや人ではないと思ったからだ。
 好きでもない男にずたずたにされて。
 あまつさえ、その時の子供を妊んで。
 その先に未来なんて、見えなかった。
 このまま、死なせてやればいいのに。
 そう思っていた。
 だけど、勝己は違った。
 心からも身体からも血を流し続けて、あの世へ行こうとする姉の手を、何があっても離さなかった。
 一度だけ、手を離してやれと、自分は言った。
 すると、離せない、離してやれないんだよと、勝己が途方に暮れたような顔をした。
 このまま、清乃を行かせてはいけない気がするのだと言われて、それ以上は言えなくなった。
 そして、今。
 清乃は生きている。
 そして、同じく彼岸と此岸の狭間で生まれた春彦も、育っている。
 勝己は、正しかったのだ。
「・・・姉と甥は、勝己に生かされてようなものだ」
 事件直後、清乃は人と接するのが駄目になった。
 治療の為に医師が近付いた時ですらPTSDを起こして倒れた。
 勝己が少し触れているとなんとか落ち着くようになったのは、いつの頃からだっただろう。
「そういえば、勝己は最初、精神科が心療内科を目指していたのよね」
「・・・そう、らしい」
 そんなことも、知ろうとしなかった。
 退院した清乃たちと再び故郷へ戻り、憲二が地元の大学の医学部でトップの成績を収めている間、憲二は東京の大学で気儘な独り暮らしを楽しみ、はては海外へ留学してしばらく戻らなかった。
 真神の家から逃げ出した自分を、未だにだれも責めない。
 あの、父ですら、だ。
 両手に乗るような小さな赤ん坊だった春彦はランドセルを背負うほどに成長し、清乃は完治していないにしても昔のような優しい笑みを浮かべるまでに回復していた。
 そして、そんな清乃に背中を押されて勝己は東京の大学病院の研修医となった。
 事態が好転してからふらりと戻ってきた自分を、まるで数日間の不在だったかのように自然に迎えてくれた勝己。
 あまりにも自然だったから、そのまま甘えてしまった。
「・・・勝己は、優しすぎるのよね」
 的を射た一言に、はっと目をあげた。
「そうでしょ?」
 ゆっくりと絆創膏を巻きながら可南子は呟く。
「だから、甘えてしまうの。みんな」
 心地よすぎるのだ。 
 勝己そのものが。




「・・・そろそろ、ごはんの支度をしましょうか」
 救急箱の蓋を閉めた可南子は卓上の整理を始める。
「とは言っても、私に出来るのはお皿を出すことくらいなんだけどね」
 くくくと喉の奥で笑われて、憲二はぽかんと口を開けた。
「え・・・?」
「私、家事がからきしなの。母もそうなんだけど、何一つしたことなかったから」
 かなり裕福な家に育った両親を持つ可南子は、些細な家事も経験がない。
 今の住まいにも両親が手配した家政婦が定期的に通ってきている。
「勝己も最初はそうだったみたいなのに、今はポトフもあり合わせの材料で適当に作れちゃうなんて、やっぱり才能の違いかしら」
 無邪気に首をかしげられて憲二は困惑した。
 よくよく考えたら真神の家も似たようなもので、実際、自分も何一つ出来ないし、家政婦を雇っている。
 しかし、今の勝己は小さなマンションに独り暮らしで可能な限り自炊を頻繁にし、しかも弁当持参で通っているようだ。
「最初は、おにぎりしか作れなかったらしいのに、ずいぶんの進歩よね」
「確かに・・・。才能なのか、これは」
「それか、私のおかげかも」
 少し自慢げな口ぶりに、ざわりと耳元が泡立つ。
「私達の始まりってね。おにぎりなのよ」
 馴れ初めなんぞ聞きたくないと思いつつも、ついつい可南子のアルカイックに上がった唇を注視してしまう。
「彼がうちの研修医だった頃にね。私、助教の仕事にもう限界だったの。ドロッドロで」
「ああ・・・。なるほど」
 助教の仕事は多忙だ。
 自分の仕事をこなしつつ、学生の面倒も見なければならない上に、上司から丸投げされる雑事が多い。
 有名大学でポストを得るのは生半可なことではないし、その後も安泰なわけではない。
 むしろ、女性である故の困難がつきまとう。
「活躍すれば『女のくせに』で、少しでも隙を見せれば『これだから女は』で、いったいどうしたいのよ、あなたたちはって叫びたくなったわ。いえ、実際叫んだこともあるけれど」
「叫んだんだ・・・」
「ええ。でも、ぶち切れて見せたところで何も好転しないのよね。逆に喜ばせるばかりで。だからためにためて、休憩室で一人になったところで空き缶を壁に思いっきり投げつけたらね、跳ね返ったそれがいないと思った勝己に当たっちゃったの」

 幸い、大事に至らなかった。
 ただ、逆に「大丈夫ですか?」と気遣われて、感情の全部が吹き出した。
「もう、何を言ったか覚えていないのだけど、床に座ってわんわん泣いたら、一緒に床に正座して黙ってそばにいてくれて、落ち着いた頃に一言聞かれたの。『おにぎり、食べますか?』って」
 そういって、ごそごそと紙袋から取りだしたのはラップに包まれた大きなおにぎりだった。
「その当時、勝己も自炊を始めたばかりだったから、一合炊いたのを半分に割って梅干しのせて寿司用の海苔に包んだだけの、ものすごく不器用なおにぎりだったけど、物凄く美味しそうで、そのまま食べちゃった」
 無言で、彼からもらったおにぎりを猛烈な勢いで二個とも食べ終えた時、何もかもどうでも良くなった。
「ごちそうさま。ありがとう」
 礼を言うと、
「どういたしまして」
 と、丁寧に頭を下げられた。
 夜勤のために作っていたであろうそれを取り上げられたのに、新米医師は楽しそうに笑う。
「お腹が、空いていたんですね」
「どうもそうみたい・・・」
「唇に、海苔がちょっと、ついてますよ」
「ええっ!ちょっと待って!!」
 すぐさま立ち上がって、部屋の隅の洗面台目指して走った。
「もう、大丈夫そうですね」
 力が、いつの間にかみなぎっていた。

「それから時々、おにぎりを差し入れしてくれて・・・。そのうち形が小さく整った三角になって、卵焼きがつくようになって、きんぴらとかひじきとか、だんだんおかずが増えていって・・・。私、シリアルバーとかカップ麺ばかりだったから」
「・・・医者の不養生?」
「そう。それでイライラしていたのね」
 のどかな笑いをぼんやり見つめ返しているうちに、あることに気付く。
 勝己は、可南子を放っておけなかったのだ。
 この、綺麗で才能に溢れているけれど、実生活はてんで駄目な年上の女性を気に掛けているうちに、愛着がわいたのだろう。
 それは、かつて自分たちに対してそうであったように。
 そして、無意識のうちにそれを察しているからこそ、彼女は・・・。
「まあ、憲二さんも一緒に育てたようなものね」
 指摘されて、指先に目を落とす。
 自分も、こうやって常に頼っている。
「育てた・・・か」

 弟は、生まれた時からそうだった。
 育てたんじゃない。
 みんな、彼に支えられて生きながらえいる。
 なら、勝己のほんとうの望みは?

「ごめん、遅くなった」
 落ち着いた声が降りてきて、我に返った。
「やだ、勝己、まだびしょ濡れじゃない」
「暑いんだよ、浴室に熱気が籠もって」
 会話に振り向くと、腰にバスタオルを巻いただけの姿の男が、頭をハンドタオルで拭きながら歩いている。
「な、なんだよ、お前その格好」
 むき出しの、男の身体に思わず目をみはる。
 広い肩から腹まで続く、引き締まりきった上半身。
 完璧に張り巡らされて盛り上がる筋肉の上をぬめった光が覆い、もともと色が白めであることもあってまるで磨かれた大理石の彫像のようだった。
 いや、彫像なんてものじゃない。
 生きた、男だ。
「なに・・って、俺は風呂に入る予定じゃなかったから」
「あ・・・そっか」
「あら、ごめんなさいね」
 着替えを置いてやることを、二人とも思いつかなかった。
「いいよ。すぐ戻る」
 大股で通り過ぎ、引き戸の向こうの寝室へ入ってしまう。
 引き出しを開けて着替える気配を感じながら、ゆるゆると息を吐いた。
「・・・驚いた」
「何が?」
「あいつ、大人になったんだな」
「あら。お兄ちゃんの中ではいくつになっても可愛い弟のままなのね」
「可愛いも何も・・・」
 勝己は勝己で、それ以外何者でもなかったのだ。
 身体なんて、見た記憶も、ない。
「お待たせ。晩飯にしよう」
 せかせかと、足早に自分たちの横を通った男はハーフパンツにTシャツの緩い格好で。
 いつもの、弟だった。
「・・・憲?」
 まだ濡れて光る頭を傾けて振り返るその瞳も、いつもの、静かな色で。
「ん・・・。なんでもない」
 だから、いつもの答えを返す。
「腹減った。早く食べさせろよ」
「はいはい」

 弟が、笑う。


 可南子が買ってきたというドイツパンと、風呂上がりに勝己が手早く作った甘夏のサラダと、じっくり煮込んだポトフを三人で囲む。
 東南アジアと中近東、そして欧州を中心に転々として育った可南子の話は機知に富み、まるで昔からの知合いのように和やかな雰囲気の夕食となった。
 留学の話で盛り上がる二人をそのままに台所を片付けた勝己がコーヒーを淹れ始めた頃、携帯電話が鳴った。
「あ、私だわ」
 ふいに、顔つきが変わる。
「はい、松永。・・・はい、はい。うん、それで?小林先生はなんて?あ、そう。解った、すぐ行く」
 冷静な声が、部屋の中の空気を変えていく。
「急変?」
「うん、そう。小林先生が昨日オペした人がちょっとね。なのに、どうやら接待で連絡つかないらしくて。一刻を争うほどではないけれど、判断を要するようだから行くわ」
 荷物をまとめ始めた可南子に、三分の一ほどコーヒーを注いだマグカップを渡すと、受け取ったそれに口を付けて飲み干す。
「俺も行こうか?」
「なに言ってるの。昼過ぎに戻ったばかりじゃない。しかも、あなたはもう小林チームじゃないんだから」
 失礼、と一言断って長い髪をくるりと一つにまとめてピンを刺す。
「慌ただしくてごめんなさい。急患が入ったからこれで失礼するわ。憲二さん、お元気で」
「あ、はい。そちらこそお元気で」
「ありがとうございます。では」
 先ほどの花びらのような柔和さは払拭され、怜悧な瞳の医師がすっくと立ち上がる。
「送るよ」
「いいわ、タクシー拾うから」
 廊下へ向かう二人の背中をぼんやり眺めていたが、ソファに放り出されたもう一つの携帯電話が振動していることに気が付き、それを手に追いかけた。
「勝己、携帯が鳴って・・・」
 廊下に出た瞬間、目に入ったのは勝己の広い背中と、彼の首に添えられた細い指先だった。
 大樹に、蔓が絡んでいる。
 紫と、白い花弁の雨。
 したたる、甘い香り。
 花に埋め尽くされる。
 そう錯覚した。
「あら、失礼」
 すっと、振り返った二人が僅かな距離を保つ。
「あ、ごめん・・・。この携帯は、どっちの?鳴ってるんだけど」
「ああ、俺の。仕事の呼び出し用のやつ」
 左手を伸ばして電話を受け取り、通話に切り替えた。
 右腕の中には、まだ可南子がいる。
「はい、真神です。・・・はい、ああそれなら尾木婦長が・・・。うん、なんなら行こうか?・・・そうか、なら俺のフォルダーで・・・」
 通話中にアイコンタクトを取ったらしい二人は、すんなりと自然に離れた。
「別件みたいだから、行きます」
 可南子は人差し指を唇に押し当てて小声で告げたあと、ふいに悪戯を思いついた子供のように瞳をきらめかせる。
 つま先立ちになり首を伸ばすと、仕事の話に集中する勝己の頬にそっと唇を押し当て、すぐに身を翻した。
 ひらり、とまるで風に舞う花びらのように軽やかだ。
「さようなら」
 軽く会釈されて、憲二は苦笑しながら返した。

 藤の花。
 そういえば故郷の山藤は多分、今が盛りだ。

 葉の形と上品な色合いは好ましいが、香りが強く蜜が甘露であるせいか、吸い寄せられた蜂が頻繁に飛び交うあの花が苦手で、自分は遠巻きにしか見たことがない。
 新緑の木々と競い合うように山を紫に彩る、藤の花。
 たおやかな花様とはうらはらに、生命力に溢れた木だ。

 ぱたりと扉が閉まる頃、勝己の通話も終了した。
「悪い、看護師との引き継ぎがうまくいっていなかったみたいで・・・」
 通話を切りながらの謝罪に、つい、言葉が滑る。
「謝るのは、そこか?」
「え?」
「・・・いや、なんでもない」
 花の香りなんて、するわけがないのに。
 知らず、ため息が漏れる。
「・・・で、行かなくて、良いのか?」
「ああ、一応明日の昼まで休みの予定だから」
「そうか。なら、支度しろ」
「・・・は?」
「俺はもう疲れた。帰るぞ」
「憲?」
「お前の安物ベッドじゃ眠れない」
「うん・・・」
 こくりと肯く勝己は、犬のように言葉の先を待っている。
 その瞳の前に絆創膏をつけた手を見せつけた。
「傷がふさがるまで、俺のとこに来いよ」
 子供みたいな言い訳をしている自覚は、ある。
 だけど、他に理由が思いつかない。
「俺、明日また当直だけど・・・」
 現実を、控えめに提示されて癪に障る。
「いいから。とにかく今すぐ帰りたいの、俺は」
 この、息苦しい空間から、逃れたい。
 ここは、いやだ。
「・・・帰りたいんだってば」
 いらいらとその手で髪をかき上げようとすると、手首をやんわりと取られた。
「わかった。・・・わかったから、憲」

 何が解ったというのか。
 自分でも、解らないというのに。

 唇を噛むと、するりと温かい手の平が背中をなで下ろした。
「とりあえずもう一度座って。コーヒーがまだだろう」
 促され、部屋へ足を向ける。
「・・・飲んだら、すぐ、な」
 駄々をこねると、勝己はふっと笑ってもう一度背中を撫でた。
 暖かい、感触。
 背中に、奇蹟が残っている。
 勝己の、しるしだ。


 ざわざわと、心の中で薄緑の葉がざわめいた。
 逃げてと、
 風が囁く。
 絡め取られる前に。
 香りが、追いかけてくる。





 -完-


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