『秘密の花園-花橘-』
風に散る 花橘を袖に受けて 君が御跡と 思ひつるかも (万葉集)
風に乗って、花の香りがふいに通り抜けていった。
「これは・・・」
白い、花の香り。
花弁は少し肉厚だけど、小さな花。
その花のありかが頭に浮かぶ。
「もう、そんな季節か・・・」
長い冬が終わり、春を迎え、少し汗ばむようになったと思ったら、初夏の花が誇らしげに香りをふりまいている。
急にその花に触れたくなり、先を急いだ。
庭の少し奥まったところには、少しばかりの果樹園がある。
おそらく、香りの主はそれだ。
庭師の作った細い小道を進むと、うっそうと茂る木立からひんやりとした空気と共に甘さを増した花の香りが勝己を取り巻いていく。
もみじの枝の向こうに、ぼんやりと白い影が見えた。
白い花が咲き散らされた木のそぼに、ぽつんと独り佇んでいる。
生成りのシャツを無造作に羽織り、濃紺のジーンズから長い足がすんなりと伸びていた。
細いながらも若木のようにしなやかで、均整のとれた体つきの、大人への入り口に立った少年。
綺麗、と言う言葉が誰よりも似合う人。
兄の憲二だった。
艶やかな前髪は白い頬にかかるほど長いが、耳元からうなじにかけては短く刈り込まれ、長くてなめらかな首筋をあらわにしている。
伸び放題で彼の背より高くなってしまった甘夏の樹を少し顎を突き出し、仰ぎ見る姿勢でじっと動かなかった薄い肩がふいに揺らぐ。
そっと腕を伸ばして枝先についている花に触れた。
細い指先がゆっくりと花弁とおしべを愛撫する。
愛しげに何度も撫でた後、その指先を口元にあてた。
そして、ゆっくりと深呼吸をする。
前髪に隠れた彼の顔は全く見えなかったが、今、どんな表情をしているのかは想像がついた。
甘い、誰も見たことのない、甘い笑みを浮かべているだろう。
ここに来てはならなかった。
強い後悔と僅かながらの胸の痛みに突き動かされて踵を返そうとすると、つま先が思いの外強く地面を踏んでしまい、無粋な音を立てた。
「・・・っ!」
息を呑むと、背後で動く気配がした。
「・・・勝己?」
咎めはしない。
確認の声だ。
唇に指先を押し当てたまま、憲二が振り向いたのが目に入る。
「・・・ごめん。いるとは思わなかった」
声を低めて謝罪すると、首を小さく傾けて、ふっと笑った。
「べつに?勝己だもの」
目元がかすかに潤み、いつもは白すぎる頬が僅かに桜色の紅をさしたように色づいていた。
花の香りがむせかえるように、濃い。
軽い目眩を感じた。
まだ十五歳の自分には、憲二の放つ壮絶なまでの色香は毒と言っても良い。
でも。
その毒がたまらなく欲しいと思い始めたのはいつのことだったか。
彼以外のものは全て色あせて見えると気が付いたのは、まだほんの幼い頃からだ。
憲二がいて、自分はいる。
でも。
憲二は違う。
「・・・甘夏の花の匂いって、けっこ凄いな」
思いを断ち切りたくて口を開いた。
「・・・ああ。移り香がつくくらいだからな」
ゆったりと、満足げに微笑む。
誰の服から香ったのか。
なぜ、ここに来たのか。
なぜ、そんなにも綺麗に微笑むのか。
憲二は想いを隠そうともしない。
「・・・良い匂い」
そんなに、幸せそうに笑わないで欲しい。
あの男は、けっして、振り向かないのに。
きつく握った拳を背中に隠した。
「・・・俺は、もう行くよ。家庭教師が来る時間だから」
「そうか?」
この家では誰の想いも一方通行だ。
決して報われることのないまま、見えない鎖で全員が繋がっている。
亡き妻しか見えない父。
初恋に執着する母。
無償の愛を求めた長兄。
主の息子に魅入られた家政婦の息子、峰岸。
そして、長兄しか見つめない彼の背中に縋る憲二。
その虚しい行列の最後に、自分が加わる。
振り向かないのは、わかっていた。
いつでも、憲二の視線の先には峰岸がいる。
彼の後を追い、気を惹くためなら己を傷つけることもいとわない。
自分はただ、これ以上憲二が壊れてしまわないことを願って見守るだけだ。
繊細で矜持の高い憲二は、他人と心を深く交わそうとはしない。
自分は弟だから、そばにいることを許される。
気が向けば、指先を絡めて笑ってくれる。
彼を、見つめ続ける権利を与えられたことに、感謝しよう。
「・・・じゃあ」
「うん」
片手をあげると、彼も白い指先を上げて応えた。
甘い、瑞々しい香りが追いかけてくる。
背中をふわりと包んで、するりと通り抜けた。
あの香りを、抱きしめたい。
抱きしめるには幼すぎて、どんなに腕を伸ばしても彼を包み込むことが出来ない。
できることなら、奪いたい。
心も、身体も、全てが欲しい。
衝動をこらえて、前に進んだ。
夏が、始まる。
-完-
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