『秘密の花園-夏-』




「あ・・・」
 ゆっくりと身体を離すと、僅かに唇を振るわせた。
「ん・・・」
 額に張り付いた髪をかき上げてやると、いつもは勝ち気な漆黒の瞳が現われる。薄く紅をはいたようなきめの細かい頬にすっと一筋、涙が伝っていった。
「さと・・・る」
 枕元に投げ出された手の平が、自分を呼ぶ。
 手の平を合わせ、指先を絡ませてきゅっと握ると、彼は安心したかのように僅かに微笑み、すとんと眠りに落ちた。

 これほど美しい寝顔を、覚は見たことがない。
 白い絹のような肌。
 長いまつげ、意志の強さを隠さない目元、尖り気味の鼻、細いおとがい。
 そして、日常は禁欲的にしか見えないのに、時として情熱的に燃え上がる、唇。
 艶やかな黒髪もしなやかな身体も、目が眩みそうなほどの魅力を放っている。

 幼い頃に出会って以来、日を追うごとに美しさを増していくのを目の当たりにしていた。
 彼の存在を耐え難く思ったのはいつのことだったか。
 近くにいると胸が苦しくなり、離れると残像を求めてしまう。
 本当は、触れてはいけない存在だった。

 真神、俊一。
 彼はいずれこの名家を継いで、日本の政治の中核を担うべきだと、生まれながらにして決まっていた。
 そして自分は、住み込み家政婦の息子。
 本来は漁師の息子で、なんの接点もないはずだった。

 しかし、父が海難事故で死亡し、幼子を抱えた母の選んだ働き口がこの真神家本宅の住み込み家政婦だった時から、何もかもが変わった。
 当時の真神家本宅にいたのは、現当主の惣一郎、まだ幼い長子の俊一、後妻の芳恵、そして代を譲り離れで隠居生活を送る春正。
 難産の末に俊一の生母は死去、月足らずで生まれたせいか跡取り息子は身体が弱かった。しかし、気性はエキセントリックだった母譲りの激しさがそのまま受け継がれ人見知りも激しく、家族はその扱いに苦慮していた。
 そんななか、俊一と同い年の子どもを抱えた未亡人がいると聞き、一も二もなく雇い入れたのだ。
 引き合わせてみると、予想以上にうまくいった。
 二人は、まるで磁石のようにぴたりと合わさり、俊一の言動はやがてだんだんと落ち着いていき、周囲は胸をなで下ろした。
 そのおかげで、幼い頃はいつも一緒だった。
 広い邸宅の中、友達のように、兄弟のように、仲良く走り回ることを黙認されていた。
 しきたりの厳しい真神家で、時には寝食を共にすることすら許されたのは、ひとえに、母の立場が変わったからでもあった。
 まだうら若き母を先代当主の真神春正が見初め、ほどなくして深い仲になり、実質上離れに住まわされた内妾だった。
 田舎を嫌う先代夫人は結婚当初から東京から動かず、夫婦の仲はとうに冷え切り、母の存在は黙認された。
 いや、そもそもそれを見込んでの雇用だったのかもしれない。
 世間の好奇の目をよそに、親子ほども年の離れた春正を、母は心から愛した。
 やがて脳溢血に倒れて身体が不自由になった彼の介護と同時に家政もとりしきり、十年身を粉にして尽くし続けた。
 しかし己の身体を顧みない生活にある日限界が訪れた。
 母は急な病に倒れ、幾日も経たずにこの世を去ったのだ。
 残されたのは、突然の死にすっかり気落ちしてしまった春正と、全く血のつながりのない愛人の連れ子。
 たとえ先代がどんなに可愛がってくれていても、日を追うごとに自分の立場は悪くなるのは目に見えていた。

 なぜなら。
 自分は、とうに俊一と一線を越えてしまっているからだ。

 幼い頃は子犬のようにじゃれあっているのをほほえましく見守っていた大人達も、そろそろ不安に思い始めているのは明らかだった。
 中学からは都内の名門学校へ入学させられた俊一は、週末になると必ず帰って来る。
 継母を慕っているから、幼い妹が可愛いから、祖父が心配だから、東京の暮らしになじめないから・・・。
 言い訳をいくつもいくつも作っては本邸に戻り、家政婦の息子の部屋に入り浸るのは、十五歳にもなる少年としては不自然すぎた。
 実際、東京ではその美貌と堂々とした言動で既に周囲を魅了し、政財界のパーティなどでは常に注目の的だった。
 昔と違い、友人にもたくさん囲まれている。
 それでも、俊一は覚とともに過ごすことを何よりも好んだ。
 
 いや、違う。
 自分たちは互いの身体に溺れてしまっている。
 
 ほんの少しでも時間があれば、触れ合わずにはいられなかった。
 身体の全てを同化させて、どこまでも高く昇らずにはいられない。
 最初は指を絡めるだけ、唇を合わせるだけで良かった密事も、次第に貪り合うものへ変わってしまった。
 場所も時間も選ばなくなり、事が発覚するのは時間の問題だった。
 もちろん気づいている人もいるだろう。
 今は、思春期の流行病だと見逃してくれているのかもしれない。
 しかしもう、そんな言い訳も通用しなくなるだろう。

 もう、十五歳になってしまった。
 半年もすれば、義務教育も終了する。
 子どもを隠れ蓑にできる時は終わったのだ。

「ん・・・」
 濡れタオルで身体を清めている間、俊一が目を覚ますことはなかった。
 ときどき、あわいため息をつくのみで、深い眠りにとらわれている。
 綺麗な、俊一。
 形の良い足のつま先に唇を落とした。
 
 きっと、うすうす勘付いていたのだろう。
 ここのところの俊一は片時も離れようとしなかった。
 何度果てても、足を絡めて身体を離すことを拒絶する。
 足を絡めて、腕を背中に回し、肩に歯を立てられた。
 熱い身体の奥で覚の楔を離すまいと締め付けられ、正直、揺らいだ。

 この身体を、この心を置いて、俺はどこに行くのだろう。
 俊一なしで、どうやってこの先を歩けばいいのだろう。

 だけど。

 今の自分には何もない。
 なんの力のない自分は、俊一のそばに立つことは許されない。

 だから。

 俊一を抱きしめるために、去らねばならない。
 永遠を勝ち取るために、今を捨てよう。

「俊・・・。ごめん」

 待てとは言えない。
 待たなくて良い。
 ただ、自分が自分であるために。
 そして、俊一が幸せであるために。

 今は、別れよう。


 身なりを整えて、覚は扉に手をかけた。

 ベッドの上にはシーツから白い肩を少し覗かせた俊一が、まるでおとぎ話の姫君のように眠っていた。

 足を一歩踏み出す。

 空は、うっすらと朝の光を帯びていた。
 夏が。
 夏が来る。

 -完-


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